ずん、と地響きがした。 質素で量の少ない朝食を終えた頃、建物全体が大きく揺さぶられた。最初は、地震でも起きたのかと思った。 本棚から分厚い本が零れ落ち、棚からは薬品の瓶が落ちて砕け散り、たっぷりと積もった埃が舞い上がった。 窓の外から見える太い街道には、アリの行列のような黒い列が並んでいるが、そこから煙が立ち上っている。 目を凝らすと、それは連合軍の部隊だと解った。蒸気自動車の引っ張る荷台には、強固な砲台が据えてある。 それなりに大きな部隊らしく、大きな幌を張った馬車や、最新式の戦車と思しき車両もいくつかあるようだった。 その車両部隊の上を、銀色に輝くものが恐ろしい速度で飛び回っていて、光る球体を地面に投げ落としていた。 それが地面に落ちるたびに、震動が起きる。連続して落下した際には一際大きな揺れが発生し、煙が上がった。 戦闘にしては、どこか妙だ。リチャードが訝しんでいると、キャロルはリチャードの隣から窓の外をそっと窺った。 「リチャードさん、一体なんでしょう」 「あれにも、近付かない方がいいね」 リチャードは妻を抱き寄せながら、横目にワーバードの死体が入った檻を見やった。 「あっちが落ち着いたら、すぐにここを離れよう。巻き込まれたらたまったもんじゃないからね」 銀色の影が、空高く上がる。見えない糸で引っ張られているかのように、真っ直ぐ、真っ直ぐ、空を目指す。 身を翻したのか、ちかりと日光を跳ねた。爪ほどの大きさにしか見えないが、普通の生き物ではないだろう。 雲すら突き破る高さまで舞い上がった銀色の物体は、急降下を始めた。光を纏い、躊躇いなく地上に向かう。 地上の太陽のように眩しく輝くそれが地面に接触した直後、強烈な揺れがこの建物にも及び、本棚が倒れた。 激しい轟音が響き、埃が煙幕のように視界を奪った。壁も多少崩れたらしく、ヒビが走って破片が落ちている。 あの檻が下敷きになり、鉄柱がひしゃげて折れ曲がり、乾燥した骨が粉々になったのか白い粉が零れていた。 リチャードは、体の下に守っていたキャロルを見下ろした。少し怯えているが、動揺はしていないようだった。 さすがに、この十年で彼女も肝が据わった。リチャードは安堵しながらも、窓を拭って慎重に下界を見やった。 「こりゃひどい」 爆心地は、巨大な半球に抉られていた。街道はおろか、そこを通っていた砲台や蒸気自動車も吹き飛んでいる。 辛うじて抉れから逃れ出た兵士達の体からも、炎が上がっている。既に息絶えているのか、動く者はいなかった。 明らかに、魔法を使っている攻撃だ。すると、爆心地から立ち上がった銀色の影が、軽く跳ねて空中に躍り出た。 その者の視線と、リチャードの視線が合った。リチャードが身を引くよりも先に、その者はこちらを見下ろしてきた。 それは、こちらに向かってきた。リチャードがキャロルを立ち上がらせて身を引いたが、相手の方が早かった。 正に一瞬の出来事だった。二人が逃げるよりも先に、砲弾のような速度で飛んできたそれが壁に突っ込んできた。 分厚い石壁は貫かれ、ガラスが砕けて破片が飛び散る。キャロルが鋭い悲鳴を上げたが、轟音に掻き消された。 リチャードは後退したが、本棚に阻まれた。砂埃と壁の破片が大量に積み重なり、床には引き摺った跡がある。 その跡は、太い爪で引っ掛けたように鋭角で、合計で六本あった。廊下と部屋を隔てている壁も、破られている。 六本の床の傷は、穴の奧に伸びている。その先を目で辿っていくと、壁の破片と砂埃を全身に付けたものがいた。 「くけけけけけけけけけけっ」 人でもなければ動物でもない銀色の鳥人が、鳥に似た鳴き声を上げた。 「けけけけけけけけけけけけけけけけっ」 「こいつぁ失礼しやす、お二人さん」 鳥人の肩から、白いものが滑り降りた。二股の尾を持つ白ネコは、人の言葉を巧みに操っていた。 「どうも、この鳥の兄貴は派手なことが好きでやして、いっつもこうなってしまうんでさぁ」 「その方がスカッとしていいじゃん、最高じゃん? 人がいると思って来てみたが、なんだ、たったの二人かよ」 それもまた、言葉を発した。鳥のクチバシにも似た外装を頭部に被り、骨のような形状の手足は細いが強靱だ。 両腕には、鉄板のように分厚いが布のようにしなやかに動く翼を生やし、両足の先には太いカギ爪が付いている。 胸部に据えられた五角形の台座には、同じく五角形の紫色の魔導鉱石が光り輝いていた。魔導兵器の証拠だ。 右手には、なぜか本が握られていた。銀色の鳥人は全身が汚れているのに本だけが綺麗なのが、異様だった。 「あれは、君がやったのか?」 リチャードは少々声を上擦らせながらも、半球の抉れを指して尋ねた。けけけけけ、と鳥人は笑う。 「マジすげーだろこの野郎?」 「悪いが、僕達には構わないでくれないか。どうも、君のような輩は苦手でね」 リチャードが表情を強張らせると、鳥人はクチバシに似た頭部の外装の下で赤い瞳を強めた。 「つうか、殺し足りねーんだぞこの野郎。部隊一個潰したぐらいじゃ、あんまし面白くねぇんだよこの野郎!」 「だ、そうでごぜぇやすぜ、旦那。まぁ、運が悪かったと思って諦めておくんなせぇ」 白ネコは青い瞳を瞬かせ、長いヒゲを揺らした。鳥人は、背中を曲げただらしない歩き方で近寄ってくる。 「ダリぃんだよ、つまんねぇんだよ」 「ちょっと待ってくれる?」 リチャードは臆さずに、鳥人を制した。あぁん、と鳥は首をかしげる。 「んだよ、命乞いなら後にしてくんねー?」 「その言い方だと、君はもうちょっと大きな師団を襲いたいってことだよね?」 リチャードが言うと、鳥人は立ち止まった。 「それぐらいじゃねぇと、このオレ様のすっげぇ強さが発揮出来ねぇんだもん。当然なんだぞこの野郎」 「うん。だから、ちょっといいこと考えたんだけど」 リチャードが笑むと、キャロルが不安げに眉を下げた。 「あの、リチャードさん…」 「いいから。僕に任せて」 リチャードは懐を探ると、折り畳んだ紙を取り出した。それを広げて、鳥人に突き付ける。 「こういうの、見たことあるかな」 それは、リチャードの人相書きと手配書だった。戦争犯罪人。通告者には謝礼在り。連合軍まで届けられたし。 鳥人は首が逆さまになるのではないのかと思うくらいに首を捻っていたが、ぎりりっと勢いを付けて元に戻した。 「だから、なんだっつーんだよこの野郎」 「僕はね、戦犯なんだよ。自分で言うのもなんだけど、共和国軍の後ろめたい秘密を握っている重要人物だ」 「だーかーら、なんだってんだよこの野郎!」 苛立ってきた鳥人を窘めるように、リチャードは口調を和らげた。 「だから、捕まったとしても収容所に連行される前に基地に連れて行かれるはずだ。拷問と言う名の取り調べを行うために。連れて行かれるとしたら、首都手前の中央司令部を兼ねた基地だろう。そこには現在も五千の兵が駐留し、共和国軍の生き残りや共和国国民が暴動を起こした際に鎮圧するための近代兵器が大量に配備され、有事が起きれば即座に出動出来る姿勢でいる」 「中央司令部の基地ってあれか、あれなのか、ヴィンセント?」 鳥人は、やけに嬉しそうに白ネコに詰め寄った。ヴィンセントと呼ばれた白ネコは、半歩身を引く。 「ああ、あれでごぜぇやすねぇ。あっしらがいっつも上から見とりやす、あのでっかい基地でごぜぇやすよ。ですが鳥の兄貴、まだそういう段階じゃございやせん。そういう派手なことをするのはもうちょいと先にするべきだと、いっつも言われとるじゃありやせんか」 「君が僕を殺す場所を、ここからその基地に変更するつもりはないかな?」 リチャードの笑みに、狡猾さが滲む。鳥人は、ちょっと前のめりになった。 「それがなんだってんだこの野郎!」 「本気にするもんじゃありやせんぜ、鳥の兄貴。大体、こういう都合の良いことをいう輩はろくでもねぇと昔から…」 「悪い話じゃないだろ? 君のやりたいようにやればいい」 リチャードは話しながら、キャロルの肩を抱く手に力を込めた。 「僕達は、いつか死ぬ運命なんだ。それが今になるか、少し先になるか、たったそれだけの違いに過ぎない」 「ちょっと、マジちょっと待ってろこの野郎!」 鳥人はしゃがみ込むと、左手の平べったい指先をがりがりと床板に擦った。 「えー、一と、一、で、二で、でー、あの基地はでかくて、五千だから、五千は一の」 「まだ、数の大きさが解らないんでごぜぇやすか?」 「仕方ねぇだろ、解らねぇんだから!」 鳥人はヴィンセントに喚いてから、床に指先で傷を付けて数を数えた。算段が出来ないらしい。 「一が、一で、一だから、一が」 数十本の引っ掻き傷が、床に出来た。鳥人はしばし悩んでいたが、跳ねるように立ち上がった。 「一が五千ってことは、一が人間だからその人間が一杯いるんだな!?」 「五千は一の五千倍で十の五百倍で百の五十倍で千の五倍だから、そりゃ沢山いるとも」 リチャードが返すと、鳥人は飛び跳ねた。 「じゃあ、殺せるな、滅茶苦茶殺せるな? 嘘だったら頭かち割るぞこの野郎!」 「本当だよ。少なくとも、それぐらいはいるはずだ」 「だったら、その基地に行ってお前を殺しに行ってやるんだぞこの野郎! だからその基地に行け、行くんだ!」 鳥人はリチャードを指し、浮かれながら叫んだ。リチャードは、にこやかに笑う。 「僕の話を解ってくれて嬉しいよ、うん」 「まっこと馬鹿でやんすねぇ、この鳥は…」 ヴィンセントは頭を振り、嘆いた。どこを見ても、この男の話はこの状況から逃げるための嘘に決まっている。 それを、鵜呑みにしてしまうとは。経験が足りないのは仕方ないが、知性まで足りないのは時として弱点になる。 この愚かな鳥に、どこからが嘘でどういうものが嘘なのかを説明してやりたい気もしたが、聞き分けないだろう。 そういう愚か者だ。ヴィンセントがげんなりしていると、鳥人に頭を丸ごと掴まれて高く持ち上げられてしまった。 「約束だからな、嘘だったら承知しねぇんだぞこの野郎!」 「うん、そうだね」 リチャードは、悪気なくにこにこしている。鳥人の魔導兵器は浮かび上がると、くけけけけけ、とまた笑った。 「てめぇ、使えるじゃねぇか、人間のくせに! オレ様はフリューゲル、でもって、オレ様は世界最強世界最速の魔導兵器なんだぞこの野郎!」 「覚えておくよ」 リチャードが手を振ると、フリューゲルと名乗った魔導兵器は頭の上に白ネコを載せて上昇した。 「待ってろよ、殺してやるからな! あばよ!」 壁を突き破った拍子に崩れた屋根の穴から空中に出たフリューゲルは、程なくして遠ざかり、見えなくなった。 リチャードはその姿が見えなくなるまで手を振っていたが、吹き出した。キャロルも俯いて、笑いを押し殺していた。 二人はしばらく声を殺していたが、堪えきれなくなって思い切り笑い合った。リチャードは、目元に滲んだ涙を拭う。 「馬鹿だねぇ、本当に馬鹿だねぇ!」 「本気じゃありませんよね、さっきの話?」 キャロルが笑いながら言うと、リチャードは若干上擦った声で返した。 「嘘だよ、行くわけないだろ。それに行けたとしても、僕らが事情聴取なんてされるわけがないじゃないか」 「ですよね、処刑宣告はとっくにされてますもんね」 「フリューゲルが、僕の嘘に気付かないまま連合軍の基地を片っ端から襲撃してくれることを願うよ。彼らの正体も目的も解らないけど、彼の気をこちらから逸らすことが出来れば、少しは動きやすくなるかもしれない。まぁ、そんなに上手く事が運ぶはずはないけど、ゼレイブへの道程が平坦になってくれたら嬉しいよ」 「首都の近くに、連合軍の中央司令部があるというのは本当なんですか?」 キャロルの問いに、リチャードは砂埃を被って白っぽくなってしまった薄茶の髪を払った。 「ああ、それだけは本当だよ。但し、兵力の五千というのは適当だ。本当は知らないんだよね、全然」 さあ行こうか、とリチャードが手を伸ばすと、キャロルは少し躊躇した。 「あの、その前に、体を綺麗にしたいです。こんなに汚れていると、目立つでしょうし」 「それもそうだね」 リチャードはキャロルを引き寄せると、波打った赤毛に頬を寄せた。 「ゼレイブで落ち着いたら、子供でも作ろうか?」 キャロルはびくんとして、身を縮めた。リチャードの背中に腕を回すと、小さく頷いた。 「私は、いつでも構いません。心の準備は出来ています」 「そう、ありがとう。じゃあ、頑張らせてもらうよ?」 リチャードがにやつくと、キャロルは身を固くした。 「あんまり、頑張りすぎないで下さいね?」 「さあて、どうかな。僕も結構溜まっているから」 「体、流してきます!」 キャロルはリチャードの胸を押しやると、真っ赤になりながら駆けていった。リチャードは、手を振る。 「ゆっくりしておいでよ。フリューゲルが道を派手に壊してくれたから、後続部隊は当分来ないだろうしね」 はい、と上擦った返事が返ってきた。リチャードは自分も後で体を流そう、と思いながら崩れた部屋を見渡した。 倒れた本棚に近寄り、潰れた檻を覗き込んだ。赤黒い血液が付着した巨大な羽根が飛び散り、いくつか踏んだ。 本棚の後ろの壁には、あの五芒星の魔法陣が書かれていた。こちらの魔法文字もかなり古く、まるで読めない。 うっかり魔法陣を発動させてしまわないために、リチャードは魔力を引っ込めてから後退ると、本を踏み付けた。 靴底の下で、布張りの表紙が折れ曲がった。リチャードは足を上げてその本を拾い上げて、なんとなく開いた。 カビ臭い匂いがし、ページはかさついている。これもまた帳面だったようで、事細かな記録が書き記されている。 特務部隊最重要機密事項。その文字にリチャードは好奇心と共に少々苛立ちが起きたが、表紙を開いてみた。 その中には、人造魔物の培養育成と解剖の一部始終だけでなく、人間を手術して改造する過程が記されていた。 頭蓋骨に穴を開けて魔導金属を埋め込み、脳髄を通じて魔力中枢と魂に魔力を注ぎ、無理矢理異能力を授ける。 描写だけでも、吐き気を催しそうになる。手術を始めた当初の失敗の数々も書いてあり、死亡人数は増えていく。 どうやらこの建物は、特務部隊が能力強化兵を生み出すための非人道的な研究を行わせていた場所のようだ。 帳面の最後のページには、共和国政府直属研究組織魔導技術研究所、とあった。その名にも、覚えはあった。 だが、特務部隊のことは知っていても、魔導技術研究所についてはリチャードはその名前程度しか知らなかった。 魔導師協会役員時代に耳にしたことはあったが、一度も関わることがなかったので、その実態を知らなかった。 魔導技術研究所、という名は真っ当そうだが、キース・ドラグーンが関係したのであればまともではないだろう。 リチャードは帳面を床に叩き付けて燃やしたくなってきたが、あるページで目を留めた。ウィリアム・サンダース。 ウィリアム・サンダース。それは、キャロルの父親と同姓同名の名だった。だが、彼は十年前に死んだはずだ。 グレイスに半ば脅迫されて従っていたが嫌気が差し、その手から逃れたはいいが呪術が発動して死んだのだ。 生きているはずがない。グレイスの呪術を受けて生き延びるなど、不可能だ。あの男の呪いの精度は、最高だ。 リチャードはこの名は別人だという確証を得るためにページをめくっていったが、彼との共通点ばかりが現れた。 帳面の間に挟まれていた設計図の写しには、リチャードが十年前に目にしたアルゼンタムの設計図があった。 アルゼンタムは、設計こそグレイス・ルーだが製作はウィリアム・サンダースだ。署名も、サンダース、とあった。 きな臭い。リチャードは帳面を閉じ、再度五芒星の魔法陣を見上げた。だが、壁には埃しか付いていなかった。 目を疑ったが、中心に据えられていた魔導鉱石すらない。しかし、今し方までそこにあった。ちゃんと覚えている。 リチャードは本棚を踏み付けて壁に触れたが、手のひらに伝わるのはざらついた壁の感触と砂埃だけだった。 庭に飛び出して塀を見るも、もう一つの五芒星の魔法陣もない。魔法で汚れを取った塀が、不自然に小綺麗だ。 確かに、あそこにあったはずだ。壁に刻み付けられていたのだから、そう簡単に消せる魔法陣でもないはずだ。 一体、なぜ。リチャードは良からぬ気配を鋭敏に感じ取っていたが、庭の隅から柔らかな水音が聞こえてきた。 振り向くと、井戸の傍で服を全て脱いだキャロルが体を洗っていた。長い髪を水に浸し、白い肌を濡らしている。 リチャードは、気持ちを緩めた。そうだ、魔法陣が消えたことなどどうでもいい。彼女との未来が最優先なのだ。 ゼレイブに行って、一時だけになるかもしれないが穏やかな時を過ごし、互いの幸せだけを望む日常を送ろう。 だから、今は訳の解らないことに構っている暇はない。リチャードは愛妻を見つめ、愛しさのままに頬を緩めた。 遠くの空では、ブリガドーンがゆったりと動いていた。 罪深き男と、彼を心から愛する女。 決して消えない業を背負いながらも、明日を望み、生に縋る。 長きに渡る逃亡の末に、二人が求めるものは。 当たり前の、幸せなのである。 07 3/10 |