あれから、十年。 静まり返った廊下に、硬い靴音が響く。 ずらりと並ぶ縦長の窓から差し込む夏の日差しは鮮やかで、吹き込んできた風が外気の暑さを運んできた。 広大な運動場はからからに乾き、砂が舞っていた。普段は生徒の声で騒がしい寄宿舎も、今ばかりは静かだ。 今年の夏期休暇が始まってから、既に十日が過ぎた。ほとんどの生徒や教師は、親元や故郷へ帰ってしまった。 残っているのは、何らかの事情で親元へ帰れない生徒や夏期休暇中の管理を任された教師と用務員ぐらいだ。 最も大きな教室棟を通り過ぎて校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を通りながら、扉の閉まった教室を覗き見ていた。 整然と並んだ机や大きな黒板や教卓の乗った教壇などを眺めていると、懐かしさが胸の奥に込み上がってきた。 この学校に転入させられた時は嫌で嫌でたまらなかったのだが、卒業してから不思議と愛着感が湧いていた。 卒業してから四年が過ぎたが、まるで変わっていない。変わったことがあるとすれば、教師の顔触れぐらいだ。 校舎と寄宿舎を繋げる渡り廊下を抜け、寄宿舎に入った。生徒が出払っているため、気味が悪いほど静かだ。 あの二人がどこにいるのか、考えなくても解った。魔法を使うことを制限されていても、感覚は制限されていない。 一際強い魔力の気配が、二つあった。二人のいる場所は、中庭に面している間取りの広い部屋、談話室だった。 廊下の角を右に曲がって中庭側に向かうと、談話室の扉は開け放たれていたが、話し声は聞こえてこなかった。 分厚く古びた扉の前で足を止めて、扉を二三度叩いてやった。その音でようやく気付いた二人は、身を起こした。 談話室の窓際に並べられているソファーに寝そべっていた少女は手元に本を置き、弾んだ表情で振り向いた。 手前のソファーでだらしなく足を投げ出していた少年は、少々ばつが悪そうな顔をして、ソファーに座り直した。 「今年の居残り組は、あなた達だけなのかしら?」 ヴィクトリアは、折り畳んだ黒い日傘を扉の脇に立て掛けた。 「最上級生はね。でも、下級生は他にも何人かいるよ」 薄茶の髪に青い瞳の少女、リリは薄手のワンピースの裾を直してから、ソファーから降りた。 「いらっしゃい、ヴィクトリア姉ちゃん」 「ていうか、何だよその格好」 短く切った黒髪と浅黒い肌の少年、ロイズは読みかけの本を置き、ヴィクトリアの服装に顔をしかめた。 「あら。いけない?」 ヴィクトリアは黒いレースの手袋を填めた手を上げて、長い黒髪を払った。上から下まで、黒で統一されている。 黒い日傘、黒バラの髪飾り、手袋と同じく黒のレースで出来たチョーカー、襟ぐりが広いが上品な漆黒のドレス。 足元も黒い革靴で、季節に逆らうような色合いである。傍目に見れば、かなり派手な喪服のように思えるだろう。 特にドレスは腰がきつく絞られていて、ただでさえ豊満な胸を強調しており、服の黒が肌の白さを際立たせている。 異様だが、似合いすぎている。纏っている雰囲気も妙に淫靡だ。どう見ても、昼ではなく夜に着るべき服装だった。 「まず形から入らないと、この手の仕事は始まらないのだわ」 ヴィクトリアは、両手の肘から上まで填めていた薄手の手袋を外した。 「入りすぎだと思うけど」 ロイズは頬を引きつらせた。年齢を重ねるに連れて身長が伸び、それに伴って手足も立派になり、長くなった。 今ではリリだけでなくヴィクトリアを悠に超える身長になり、元々骨格も太いために体格も良く、充分迫力があった。 母親のフローレンスの面影は薄らいだが、反面、父親のダニエルの面影が濃くなり、顔立ちも徐々に似てきた。 「私も、ちょっと怪しいと思うな。もちろん、似合っているし綺麗だとは思うけどね」 リリも、ちょっと肩を竦めて苦笑した。背は伸びたものの、母親に似ているせいか十八歳になっても小柄だった。 目が大きめで可愛らしい顔立ちをしているのだが、体格は全体的に幼く、胸も尻も同年代よりは小さめだった。 細い手足と幼さの残る表情が尚更それを引き立ててしまうので、未だに十四歳程度に見られてしまう時がある。 両側頭部に生えていたかなり短いツノは、二次性徴が始まると共に生えなくなり、今では根本しか残っていない。 父親譲りの薄茶の柔らかな髪は背中の中程まで伸ばし、三つ編みにして後頭部で丸め、髪留めで留めてある。 ヴィクトリアはドレスの裾を引きずらないようにゆったりと歩きながら、窓際に置かれたソファーに腰を下ろした。 たおやかな仕草で、長い足を組んだ。黒いドレスの裾に入った深いスリットが割れて、艶やかな太股が現れた。 「見ないの?」 ヴィクトリアがスリットを持ち上げると、ロイズは目を逸らした。 「ガキの頃に腐るほど見たから、なんとも思わないよ、そんなもの」 「後で見たいと言ったって、絶対に見せてやらなくってよ」 「何言ってんだか。真っ昼間から娼婦みたいな格好するなよ、占術師のくせに」 「占術師だからこそ、なのだわ。言葉と雰囲気で相手の心を惑わせて情報を引き出し、望む答えを与えるのが仕事なのだわ。そのためにも、形から入る必要があってよ。日の差し込む明るい部屋で普段着のまま占術を行ったって、信じてもらえないのだわ。信じてもらわなければ、商売が成り立たなくってよ」 ヴィクトリアはつまんでいた裾を落とし、これ見よがしに足を組み直した。 「まあ、確かに買われそうになることはあってよ。もっとも、誰であろうが売るわけがないのだけれど」 「つうか買うなよ、こんなのを」 余程の馬鹿がいるんだなぁ、とロイズが半笑いになると、リリは少し身を乗り出した。 「やっぱり、占術以外の依頼とかもある?」 「たまにね」 ヴィクトリアは夜会には相応しいが昼間には相応しくない手提げカバンを開き、丸い手鏡を出して髪を整えた。 「暗殺、諜報、窃盗、身辺警護、呪殺依頼、魔導師の弟子入り志願…。全く、どこから聞きつけてくるのかしら」 「いや、聞き付ける以前の問題だろ」 ロイズが呆れ果てた目で、ヴィクトリアの怪しすぎる格好を眺めた。どこをどう見ても、堅気の人間ではない。 娼婦でなければ魔女、魔女でなければ吸血鬼、吸血鬼でなければ頭の変な女。間違っても占術師には見えない。 ヴィクトリアが占術師を始めたのは、この学校を卒業して一年後。都会へ赴き、商売の知識を得てからだった。 この町よりも比較的規模の大きい、隣町の裏通りに店を構えた。四六時中薄暗く、甘い香が立ち込めている。 店内には、灰色の城から運び出した怪しげな魔導用具や豪奢な調度品が並んでいるが、主人が一番怪しい。 十年来の付き合いであるロイズとリリもそう思うのだから、何も知らずに入ってしまった客はさぞ戸惑うだろう。 だが、更に困るのは、その怪しい占いが当たることだった。本人は魔法を使っていないと言い張るが、嘘だろう。 ヴィクトリアの腕なら、客に感付かれないような魔法で思念を探り、客が望んでいる答えを導き出すのは簡単だ。 未来予測とやらも、客の人間関係や悩みなどを徹底的に聞き出してから行うのだから、どちらかと言えば推理だ。 しかし、傍目に見れば怪しさ満点ながらも良く当たる占いなので、開店して以来客が途切れたことがないそうだ。 「魔法とか異能力が使えない生活って息苦しいけど、十年も過ぎるとさすがに慣れちゃうよね」 リリは、かつてツノが生えていた位置に触れた。 「押さえすぎると、たまに暴発しそうになるけどな。体がでかくなった分、魔力量も増えちまったから、このまま押さえ続けるのはきついかもな」 ロイズは胸に触れ、魔力中枢に蓄積した魔力量を確かめた。 「だったら、抜いてあげてもよくってよ?」 ヴィクトリアは赤い紅を差した唇を、人差し指で押さえた。その言い草に、ロイズは少々言葉に詰まった。 「…だから、なんでそういうことを言うかなぁ」 「変な意味に取ったのはロイの方じゃん」 あーやらしい、とリリがにやにやする。ヴィクトリアは、艶っぽい笑みを零す。 「うふふふふふふ。高くってよ?」 「ヴィクトリアにやられるぐらいだったら、自分でした方が余程マシだ」 ロイズが負けじと言い返すと、リリはロイズの頬をつついた。 「ロイの意地っ張りぃー」 「誰も意地なんか」 ロイズはむっとしたが、リリはそれを無視してヴィクトリアに向いた。 「ヴィクトリア姉ちゃん、私、外でフリューゲルと涼んでくる。その間、どうぞごゆっくりぃー」 「あ、おい!」 ロイズが慌てて引き留めたが、リリは軽快な足取りで談話室から走り出てしまい、廊下の角を過ぎていった。 ロイズはほとほと困りながらも、ヴィクトリアの様子を窺った。二人きりにされてしまっては、面倒だというのに。 ヴィクトリアは膝の上に肘を立てて頬杖を付き、ロイズを見つめていた。ロイズはその目線から、目を逸らした。 ヴィクトリア、リリ、ロイズの三人が国外退去処分を受けて合衆国に移り住んだのは、十年前のことであった。 ファイド・ドラグリクの目論見で滅ぼされかけた人ならざる者達は、一連の出来事の影響で立場が悪くなっていた。 ファイドの密偵でありながらも国際政府連盟に通じているネコマタ、ヴィンセントが、事細かに伝えてくれたのだ。 ヴィンセントの主であり国際政府連盟の議員である人物の計らいがなければ、事態は更に悪化したことだろう。 なんとか方向性を曲げたものの、人ならざる者達が優位になったわけではなく、下手をすれば最悪の展開になる。 そこで、フィフィリアンヌはヴィンセントに頼んでゼレイブ側の意見書を運ばせ、ヴィンセントの主に要望を伝えた。 その全てが受け入れられたというわけではなかったが、指名手配犯も同然の特一級危険人物指定は解除された。 しかし、それで監視の目が消えたわけではない。その上、共和国政府は子供達に国外退去処分を命じてきた。 三人とも一連の出来事に深く関わっているため、本人達が与り知らないうちに罪を背負わされ、裁かれていた。 連合軍と共和国新政府の様々な目論見と打算の上で下された決定だったが、それを退けることは出来なかった。 不本意ではあったが、三人はその命令に従って共和国から旅立ち、海を渡って合衆国へ移住することになった。 三人は国際政府連盟が作った偽の素性を使って全寮制の学校に入学し、ごく普通の子供として暮らし始めた。 名前も、変えることを余儀なくされた。十年前の出来事のせいで、ルーもヴァトラスも知られすぎたからである。 ファーストネームはそのままだったが、ファミリーネームは国際政府連盟の仕立て上げたものに変更させられた。 ヴィクトリアの姓はデイヴィス、ロイズの姓はオズボーン、リリの姓はカーター、とされ、戸籍も全て書き直された。 移住の理由や家柄も国際政府連盟側に作られ、ヴィクトリアは戦争で家と資産を失った資産家令嬢とされた。 もちろん、他の二人も同様だ。ロイズは奴隷上がりの平民とされ、リリは貴族崩れの平民との設定を与えられた。 あまりに違えると三人にボロが出てしまうので、国際政府連盟側の配慮で、多少は事実に添ったものとなった。 ロイズの奴隷上がり、というのは、祖母に当たるダニエルの母親が奴隷上がりの娼婦だったことに由来している。 リリの貴族崩れという設定も、貴族出身のフィリオラと旧家出身のレオナルドに由来しているので、遠くはない。 だが、十年が過ぎても国外退去処分は解除される様子はない。なので、ヴィクトリアは仕事を始めたのである。 リリとロイズも、学校を卒業すれば働かなくてはならない。生活費は毎月送金されてくるが、頼り切ってはいけない。 これ以上フィフィリアンヌの財産を切り崩すのは申し訳ないし、自分で生活する金ぐらいは自分で得たかったのだ。 ゼレイブにいた頃は朝から晩まで働いていたので、働くことは苦ではないし、むしろ働かなければ落ち着かない。 「ねえ」 ヴィクトリアは窓際のソファーから立ち上がると、ロイズの座るソファーに腰を下ろした。 「あなた、私に何も思わなくって?」 「だから、さっきも言っただろうが。今更、ヴィクトリアの足ぐらいじゃなんとも思わないんだよ」 ロイズは邪険にするが、ヴィクトリアは引き下がるどころか迫ってくる。 「だったら、足以外では思うということね?」 「誰が思うかよ」 「あら、嘘はいけなくってよ」 「こんな下らないことで嘘なんか吐くわけないだろうが。仮にも女だろ、ちょっとは恥じらえよ。ていうか、そんなに男に不自由してるのか?」 ロイズが身を引いて間を開けると、ヴィクトリアは心外だと言わんばかりに眉を吊り上げた。 「あなた、私をなんだと思っているの? やろうと思えばいくらだって引っかけられてよ」 「じゃ、他のにしろよ。誰が好き好んでヴィクトリアみたいなイカれた女とくっつくかよ」 「だって」 ヴィクトリアは、ロイズの耳元へ唇を寄せる。 「欲しくなったんだもの」 耳元を掠めた柔らかな吐息と熱っぽい言葉に、ロイズは背筋がざわめいた。多少、妙な気持ちが湧いてきた。 ヴィクトリアは怪しげな笑みを漏らしながら、華奢な腕を絡めてくる。どこが気に入られたのか、未だに解らない。 正直、やりづらい。だが、悪い気はしない。けれど、居心地が良くない。どっちなんだ、と自問自答してしまった。 だが、そうなのだから仕方ない。矛盾している上にでたらめな感情だが、どれもこれも決して嘘ではないのだから。 ロイズもまた、なぜ彼女を気に入ってしまったのか解らない。解らないが、彼女から目を離せなくなっていた。 恋と言うには熱が浅く、だが、友情と言うには歪んでいて、しかし、姉弟関係と言うには危うい、奇妙な関係だ。 切っ掛けは、両者とも天涯孤独である寂しさを共有したからだと思う。通じる部分があるとすればそれぐらいだ。 だが、それまではリリと同じように兄弟のような存在だとしか認識しておらず、欲情など出来るわけがなかった。 最初に迫ってきたのは、ヴィクトリアだった。ロイズが十五歳、ヴィクトリアが十九歳の頃、彼女の家での事だ。 強い酒に酔っていたヴィクトリアは、リリと自分のどちらが好きか、といやに切なげな顔でロイズに尋ねてきた。 ロイズが、どちらかと言えばリリだ、と答えると、ヴィクトリアは今度は悲しげな顔をしていたことを覚えている。 その時は何もなかったが、それを境にリリを抜きで会うようになり、気付いた頃には彼女に好意を抱いていた。 子供の頃は苦手で、思春期になってからはやりづらい相手だったが、美貌は認めるし体型だって素晴らしい。 無論、それだけが好意を抱いた理由ではないが、面と向かって言葉にしようとすると言葉として出てこないのだ。 「だから、所有物扱いするなって」 ロイズがヴィクトリアを押し返すと、ヴィクトリアは唇を尖らせる。 「それ以外に相応しい表現があって?」 煽られている。ロイズはそう悟ったが、上手く切り返せなかった。 「何を言わせたいんだよ、僕に」 互いに好意は抱いているが、はっきりと認めたわけではない。だが、言葉にすると認めたことになってしまう。 それが、なんだか癪に障った。ヴィクトリアもヴィクトリアで、絡んでくる割に明確な言葉を表したことはなかった。 付き合いが長いおかげで、変な照れが起きる。気心が知れているのはいいが、知れすぎているのも困りものだ。 言おうと思っても言葉に詰まるし、いい言い回しが思い付かない。それ以前に、言いたくない、という意地もある。 自分から言ってしまうと、負けた気がするのだ。恋愛というものに勝敗はないのだが、そんな気分になってしまう。 曲がった意地のせいで、言葉も悪くなる。やめようとは思うが、気持ちとは裏腹な言葉ばかりが口を突いて出る。 「あなた、男ですもの。それぐらい、言えなくて?」 ヴィクトリアの少し冷たい指が、ロイズの指に絡められる。そのなんともいえない感触に、ロイズは腰を引く。 「最初に来たのはそっちからだろうが。言いたいことがあるんだったら、そっちから言ったらどうなんだよ」 「あら」 ヴィクトリアは、後退するロイズへ詰め寄る。 「そういうことは、男から口に出すものなのだわ」 ソファーに乗ったヴィクトリアは片膝を立てると、ロイズのすぐ後ろの背もたれに肘を乗せ、覆い被さってきた。 だが、体は触れ合っていない。僅かながら空間が空いているものの、彼女の黒髪の毛先がロイズに触れた。 髪の間から零れる香水の匂いと年頃の女が漂わせる匂いが鼻をくすぐり、豊満な乳房の先が胸板を掠めた。 これでどうにかしない男の方が珍しいだろう。ロイズは意志に反して高ぶる情欲に辟易しつつ、目線を上げた。 「そんなに言うんだったら、なんでそっちから言わないんだよ?」 ロイズは理性を酷使しながら言い返すと、ヴィクトリアは薄い瞼を伏せる。 「それが出来たら、誰も苦労なんてしなくってよ」 演技に思えるほどしおらしいヴィクトリアに、ロイズは更に辟易し、ぐらぐらと心が揺さぶられた。 「だからってな…」 「それに、ブリガドーンでの借りをまだ返してもらっていないのだわ」 「そんな古い話、今更なんだって言うんだよ」 「だって」 細い声は切なげに震え、灰色の瞳は羞恥で潤んでいた。 「…今回だけだからな」 理性の敗北を認めたロイズは、下げていた腕を上げてヴィクトリアの腰に回すと、ぐいっと強引に引き寄せた。 僅かに空いていた空間が狭まり、二人の体が重なり合った。互いの体温と共に、高鳴る鼓動が伝わってくる。 手入れの行き届いた長い黒髪の隙間から出ている薄い耳へ口を寄せたロイズは、照れを堪えて小さく呟いた。 「今度から、恋人だって言え」 ロイズは言い終えた途端に居たたまれなくなり、照れ隠しに喚いた。 「あーもう、何言ってんだよ僕は! お前が言わないから言ってやったんだからな、解ってんだろうなぁ!」 「それぐらいのことで調子に乗らないで欲しいのだわ」 ヴィクトリアはロイズの体を押して間を開け、ロイズの腕の中から逃れて座り直した。 「でも、悪くなくってよ」 「あー…なにやってんだー…。ていうかすっげぇ恥ずかしい…」 仰向けに寝転んだロイズは目元を押さえて口元を歪めていたが、緊張を緩めるために深く息を吐き出した。 ヴィクトリアは少々乱れた髪を整えながら、気恥ずかしげに唸っているロイズを見下ろして薄い唇を上向けた。 「言うだけで、満足?」 「今度は何だよ」 ロイズは目元を覆う手を下げ、ヴィクトリアを見上げた。ヴィクトリアは、いつもの余裕のある表情を作っている。 だが、その眼差しにゆとりはない。それどころか、懇願にも等しい。実直に言ってくれれば、こちらも楽なのに。 なんて面倒な女だ、と思うが、人のことは言えない。ロイズは身を起こすと、ヴィクトリアと正面から向き合った。 「後でごちゃごちゃ言うなよ。上手く出来るわけがないんだから」 ロイズはヴィクトリアの肩に手を添える。手のひらに広がった薄く汗ばんだ素肌の柔らかさに、心臓が跳ねる。 「あなたの方こそ」 ヴィクトリアはロイズの耳元に顔を寄せると、一際甘く囁いた。 「私に、呪われなさい」 その物騒な言い回しにロイズは僅かに顔をしかめたが、それを気にしていられないほど心中は高ぶっていた。 ヴィクトリアの頬に手を伸ばし、壊れ物を扱うように触れた。皮の厚い浅黒い手で包むと、崩れてしまいそうだ。 近付くと、改めてその睫毛の長さが解る。緊張と戸惑いで痛いほど喉が渇いていたが、もう、どうでもよかった。 ひどくぎこちない仕草で、ロイズはヴィクトリアの唇を塞いだ。信じられないほど柔らかく、そして少し冷たかった。 ヴィクトリアは躊躇いながらも、少年の体に腕を伸ばした。いつのまにか大人になり、筋肉質で硬い体だった。 弟としか思わなかった少年を想うようになったのは、いつ頃からだろう。気付いた頃には、気に掛かっていた。 最も身近にいる年齢差が近い異性だったが、最初に出会った頃は十二歳と八歳でどちらも子供に過ぎなかった。 気が合わなかったし、むしろ嫌い合っていたほどだ。だが、ゼレイブを出てこの国へ移住した頃から変わり始めた。 ロイズは幼いながらも男としての意地があるらしく、リリだけでなくヴィクトリアも支えてやろうと必死になっていた。 最初は口だけだと思っていたが、成長するに連れて心身共に逞しくなっていく様に、いつのまにか見惚れていた。 だが、素直になろうと思ってもなかなか素直になれなかった。しかし、素直にならなければ後悔するのは自分だ。 必死に勇気を振り絞っても、出る言葉は反対のものばかりだった。今ほど、自分の性格を恨んだことはない。 この格好は、自分でも派手だと思っている。決意を固めるためにも、手持ちの服の中でも特にいいものを選んだ。 化粧にも気を遣い、香水も選び抜き、髪も入念に手入れしていることなど、肝心の彼は気付いてくれないだろう。 けれど、それでもいいのだ。今のところは、子供じみた下らない意地の張り合いをしているぐらいが丁度良かった。 力を否定され、故郷を追われ、自由は与えられているが制限が付いており、どこへ行こうとも監視の目がある。 だがそれでも、命一つさえあれば人生はどうとでも出来るということを、ギルディオスは命を張って教えてくれた。 だから、生きていく。 07 11/16 |