誰かの、視点の夢を見る。 大人達の足が手前にあり、それを必死に追いかける。追っても追っても追い付かず、引き離されていく。 鮮やかな陽光が注ぐ空の下で、夢中で走っている。楽しげな笑い声が、子供の声が、自分の口から聞こえてくる。 走り続けていると、つま先が何かに引っかかった。容易く転げ、膝を擦ってしまう。熱く血が滲み、膝が痛んだ。 擦り切れた膝の傷口から溢れる血と痛みに、涙が溢れてきた。声を上げて泣き出すと、頭の上に手が置かれた。 その手の感触に、少しだけ痛みが弱まった気がした。背後を見上げると、逆光の中に、大好きな人がいる。 澄み切った青空を背負い、逆光の中に屈んでいる、その人は。 見えない。そこから先が見えず、フィリオラは目を覚ました。 前にも似た夢を見た記憶がある。その時の夢はおぞましく、何者かが血を啜って笑い声を上げている夢だった。 その時も、同じく最後だけが霞んでいた。誰かが誰であるのかも解らないし、そこにいるのが誰かも解らない。 フィリオラはあまりすっきりしない気分のまま、上体を起こそうとした。すると、すぐ真上に天井がやってきた。 軽く力を加えただけで、浮かび上がったような感覚だった。何度か瞬きしてから、目の前に両手を差し出してみる。 壁と本棚を透かした、うっすらとした肌色の手が出てきた。握ってみたが、指に皮と肉の感触は感じられなかった。 身を傾げて、天井に背を向けた。そして、真下にあるベッドを見下ろすと、寝乱れた姿の自分が座っていた。 「あ」 魂が視認可能な状態、いわゆる幽体のフィリオラは、するりと身を下げた。己の肉体は、きょろきょろしている。 フィリオラはベッドの隣に置いてある姿見を見、そこに映る影の透けた少女を認めた。魔力で、姿は保てている。 もう一度自分の姿を確かめてから、戸惑ったような顔をしているツノの生えた少女に近寄り、問い掛けてみた。 「あの、あなた、どうしちゃったんですか?」 「ふやぁ!」 悲鳴を上げた少女は、掛け布団を引き摺って壁まで下がり、怯えたように縮こまる。 「おばけぇ」 「いえ、あの、あなたの方がれっきとしたお化けだと思いますけど。私の体に取り憑いているんですから」 と、フィリオラが少女を指すと、少女は恐る恐る目線を下げた。掛け布団を離して、寝間着を引っ張ってみる。 両手で胸や顔をいじっていたが、おもむろにスカートをめくり上げた。少し首をかしげていたが、目を丸くする。 「おねーさんになっちゃった」 「はい。一応十八歳ですから。それで、あなたはいくつなんですか」 「ん」 少女は、片手を挙げて指を広げてみせた。フィリオラは、ああ、と頷く。 「五歳ですか。それで、お名前はなんて言うんですか?」 「んー…」 少女はくいっと首をかしげ、ぱたぱたと布団を叩いた。 「ジョー」 「ジョー? え、じゃあ、男の子ですか?」 「ううん。ジョーはおんなのこだよ」 少女、ジョーは首を横に振った。フィリオラは、事態を理解していなさそうな表情をしている少女を見下ろした。 きょとんとしているが、それだけだ。何かに怯えていたり、痛みを訴えたり、物事を願うわけではなさそうだ。 大方、訳も解らずに死んでしまった類の幽霊だろう。未練や怨念に充ち満ちている者に比べたら、大分楽だ。 フィリオラはそれに安心しながらも、げんなりしていた。これから、ジョーが出ていくまでの間が大変なのだ。 霊媒体質であるために、他者の霊魂と肉体の釣り合いを合わせやすいとはいえ、長時間の憑依は肉体に過酷だ。 あんまり長居して欲しくないなぁ、と思いながらも、フィリオラは笑った。今は、彼女の機嫌を取るのが先決だ。 すると、ジョーはにっこりと笑い返してきた。フィリオラは体重を移動させて身を翻し、寝室の扉を指差した。 「とりあえず、朝ご飯にしましょう。ちょっと待ってて下さいね」 「うん」 素直に、ジョーはこくんと頷いた。フィリオラは頷き返してから、扉に向かった。飴色の扉が、目の前に迫ってくる。 頭を当ててみても衝撃は訪れず、簡単に滑り抜けた。フィリオラは上半身を居間に出してから、勢いを付けた。 風に流されるような動きで暖炉の前に出ると、その前に座っていたギルディオスが気付いた。おう、と顔を上げる。 「フィオ、起きたか。その分だと、取り憑かれたな?」 「はい。今回はちっちゃい女の子ですから、前よりは楽かもしれません」 「この前は大変だったよなぁ。ろくでもねぇ野郎が取り憑いて、散々暴れ回ったもんなぁ」 オレとサシで戦えるくらいに、とギルディオスが笑うと、フィリオラは苦笑いする。 「あの時は本当に大変でしたよねー。そのおかげで、幽霊が出ていった後の筋肉痛がひどかったんですもん」 「で、どんな感じだ?」 「ええ。それほど怨念も強くないみたいで、嫌な感じはしません。とりあえず、小父様の体、借りていいですか?」 朝ご飯作らなきゃいけませんし、とフィリオラは甲冑に身を屈めた。ギルディオスは、透けた少女を見上げる。 「手荒に扱うんじゃねぇぞ」 「解ってますよぉ」 フィリオラは少し気恥ずかしげにした。ギルディオスは気を緩めて体の力を抜き、がしゃり、と両腕を下ろした。 では、とフィリオラは気を張り詰めて唇を締めた。天井を透かした半透明の影が、滑らかなヘルムに映っている。 両手を伸ばし、ガントレットの手に重ね合わせた。倍近く幅のある肩に向けて身を乗り出し、頭を兜に重ねる。 胸を滑り込ませると、心臓の位置に熱を感じた。ギルディオスの魂を込めた魔導鉱石から、発せられている熱だ。 フィリオラは意識を強め、魔導鉱石と魂を馴染ませた。感覚が無機質な甲冑に染み渡り、次第に同調してくる。 魔力を高めながら、手を動かしてみた。ぎちり、と僅かに金属が軋み、肘が曲がって肩が動き、手首が回る。 首を前に倒すと、がしゃり、とヘルムが揺れた。振ってみると、頭上に付けられた赤い頭飾りがなびいた。 「大丈夫みたいです」 空洞の肉体に、少女の高い声が響いた。腰を上げて立ち上がると、普段よりも高い視界に戸惑ってしまった。 いつも見ている世界よりも、視界が広い。天井が近くて床が遠く、足を踏み出すと重みのある足音がする。 フィリオラの内側から、彼の声が聞こえてきた。音にはならない声で、そりゃ良かった、と返事があった。 再度手を動かして、魂が甲冑に馴染んだのを確かめたフィリオラは、椅子に引っ掛けてあったエプロンを取った。 肩紐に腕を通し、赤いマントを羽織っている背中で腰紐を結ぶ。普段と違い、腰紐はほとんど余らなかった。 出窓を大きく開け放って空気を入れ換え、薪の入れられた暖炉に向き直る。薪に手を翳してから、あ、と呟いた。 「小父様の体じゃ、火は出せないんでしたっけ」 やっちゃいましたー、と独り言を言い、フィリオラは小走りに戸棚に向かった。やかましく、重たい足音がする。 作業台の隣の薬品棚の引き出しを開け、マッチ箱を取り出した。それを振って中身を確かめ、暖炉に向かう。 すると、もう一つの部屋の扉が開いた。眠たげな顔をしたブラッドが出てきたので、フィリオラは彼に振り向く。 「おはようございます、ブラッドさん」 「うぇ…?」 目を剥いたブラッドは、声を裏返した。大柄な甲冑が、フリルの付いた可愛らしいエプロンを身に付けている。 それだけでも、相当異様な光景だった。その上、割と高い声で女言葉を発したので、何がなんだか解らなくなった。 あ、とフィリオラは口元であるマスクに指を添えた。ブラッドに近付こうとすると、少年は素早くずり下がった。 「大丈夫ですよ、ブラッドさん。私です、私。フィリオラですよ」 「だっだけど、おっちゃんはおっちゃんだろ! どうしちまったんだよ、フィオのエプロンなんか付けてよ!」 ブラッドが怯えながら喚くと、フィリオラは眉を下げるような気持ちで少し首をかしげた。 「ええ、そうなんですけどね。詳しいことは、朝ご飯を食べながらご説明します。あちらも待っていますし」 と、フィリオラが寝室を手で示すと、扉が半開きになっていた。そこから、少女が不安げな顔を覗かせている。 「ごはんは?」 「…あ?」 ブラッドは、更に混乱してしまった。フィリオラと名乗ったギルディオスと、普段と様子の違うフィリオラを見比べる。 不機嫌そうに口元を曲げているツノの生えた少女は、寝室から半分体を出していた。甲冑は、彼女に振り向く。 「あ、もう少し待っていて下さいね。すぐに出来ますから」 フィリオラであるはずの少女は、ぱっと表情を輝かせた。ごはんごーはん、とその場で嬉しそうに飛び跳ねている。 ブラッドは気を張り詰めさせ、ぐっと唾を飲み下した。少しどころか、かなりおかしな光景が広がっている。 確かに彼女は普段から幼いが、幼児じみた言動はしない。増して、自分で作れる料理を作らないはずがない。 そして、先程から台所で忙しくしている、エプロン姿のギルディオス。いつもであれば、近付きもしないはずのに。 ブラッドは片手に引き摺っていた黒いマントを羽織ると、胸の前で止めた。異様過ぎて、何がなんだか解らない。 台所からは、調子外れな鼻歌が聞こえていた。 食卓に座る三人は、普段とさして変わりなかった。 見た目だけでは、今まで通りだった。出窓の手前にフィリオラ、その隣にブラッド、その向かいにギルディオス。 だが、会話がまるで違っていた。フィリオラであるはずの少女は口の回りを汚しながら、スープを飲んでいる。 時折、ギルディオスが彼女の口の回りを拭いてやっている。落ち着いて食べて下さいね、と優しい口調で言う。 ブラッドは、朱に染まった中に野菜が浮かんでいるスープを掬い、口に運んだ。スープは、優しい味がした。 甲冑が作った料理は、フィリオラの味だった。ブラッドが違和感と不可解さで眉をしかめると、甲冑は振り向いた。 「ブラッドさん、スープの味、おかしかったですか?」 「味はおかしくないんだけどさ、あんたがおかしい」 ブラッドがスプーンで甲冑を示すと、甲冑は座り直した。きちんと両足を揃えて、姿勢を正す。 「そういえば、説明がまだでしたね。ちゃんと説明しますので」 「ジョーはね、ジョーっておなまえなの」 フィリオラであるはずの少女は、足をぶらぶらさせる。そうですね、と甲冑は少女に頷いてから、少年に向く。 「まず最初に私の体質、つまり、フィリオラの体に潜在している能力にも近い体質をご説明します。私はどうも、魂と魔力中枢の釣り合いが少しずれているらしく、他者の魂、すなわち幽霊と肉体の波長を無意識に合わせてしまうことがあるんです。そうなってしまうと、私の肉体は私の意思に反して他者の魂を受け入れてしまい、憑依させてしまうんです。目が覚めていれば、自分の意思でどうにかすることが出来るんですけど、今回のように、眠っている際に憑依されてしまった場合にはどうにも出来ないんですよ」 そして、と甲冑はエプロンを付けた胸にガントレットの手を当てた。 「そうして他者の魂に憑依されてしまうと、私の魂は本来の肉体から外に弾き出されてしまうんです。その際に、肉体がないと何かと不便ですし、魂の維持に支障を来す可能性があるので、こうして、他者の体に憑依しておくんです。まぁ、大抵はこのように小父様の体をお借りするのですけどね。色々と都合が良いので」 「んじゃ、おっちゃんの魂は?」 ブラッドのスプーンが、甲冑の胸元に向けられる。甲冑は、そこを軽く小突く。 「ちゃんとここにありますよ。ただ、同じ肉体に二人の意識を表面化させていると無理が生じてくるので、小父様にはお休みして頂いているんです。要するに、眠っているんです」 「んで、今はどっちなわけ?」 「ですから、フィリオラなんですよ。体は小父様ですけど」 「じゃ、フィリディオス? それともギルオラ?」 「なんですかそれ」 フィリオラが不思議そうにすると、ブラッドはにやにやと楽しげにする。 「合体したんだったらさ、名前も合体させなきゃ面白くないじゃん」 「どこの世界の常識ですか」 「オレの中の常識!」 妙に自信に満ちたブラッドは、胸を張ってみせた。フィリオラは、頬である辺りに手を添える。 「そうですねぇ。その方が、解りやすいかもしれませんね。それじゃ、この状態の私はフィリディオスということで」 「がったいー、がったいー!」 嬉しそうにフィリオラの体に憑依した少女、ジョーは声を上げた。フィリオラ、もとい、フィリディオスは笑う。 「合体ですねー」 「合体したんなら、必殺技とか使えたりしねぇ? どかーんと凄いやつ」 ブラッドがわくわくしながら身を乗り出してきたので、フィリディオスは呆れてしまった。 「私と小父様をなんだと思っているんですか、あなたは」 「言ってみただけじゃんか。でさ、フィオの体に入ってる、ジョーってのは何者だ?」 「私にもはっきりしたことは解りませんけど、五歳の女の子だそうです。ですが、悪い子ではなさそうですよ」 フィリディオスは、いつもギルディオスからされているように、フィリオラの体に乗り移ったジョーの頭を撫でた。 櫛を入れられていない長い髪を、無骨な銀色の指先が梳く。その手付きは穏やかで優しく、女性らしかった。 んー、とジョーは嬉しそうに目を細めている。ブラッドは赤いパンを千切って口に放り込むと、顎を動かす。 「んで、フィリディオス。これからどうするわけ?」 「とりあえず、ジョーが私の体から出ていって頂けるようにしなくてはなりませんね」 体を押し付けて擦り寄ってくるジョーを支えながら、フィリディオスは少女を見下ろす。 「ジョー。あなたは何か、したいことはありますか?」 「ごはんたべる!」 元気に返したジョーに、フィリディオスは少し笑う。 「それじゃ、気が済むまで食べて下さいね。お腹が一杯になったら、何をしたいですか?」 「えーとね、んとね、おそといってね、おさんぽしてね、あそぶの。おねえさんといっしょにあそぶの!」 ジョーはフィリディオスに飛び付き、首に腕を回してきた。急に人間一人の体重が掛かり、甲冑はよろけてしまう。 ひゃう、と高い悲鳴を上げたが、なんとか堪えた。椅子の下で足を踏ん張って背もたれを掴み、少女を支える。 すきー、と甲冑に頬を寄せるジョーに辟易しながらも、フィリディオスは姿勢を戻した。改めて、彼に感心した。 「いつもこんなことをされているのに、よく小父様は平気ですね…」 「ホントだよ」 見た目だけでは普段と変わらない光景に、ブラッドは不思議な気分になった。見た目は同じでも、中身は違うのだ。 ネコのような甘ったれた声を漏らして甲冑にしがみ付くツノの生えた少女と、その頭を撫でている大柄な甲冑。 ブラッドはまだ腑に落ちずにいたが、スープから柔らかく煮えたニンジンを掬い、食べた。噛むと、すぐに崩れた。 小魚の甘酢漬けを小皿に取って食べながら、しばらくすれば慣れちまうんだろうな、とブラッドは思っていた。 フィリディオスから離れたジョーは、思い出したように朝食を続けた。囓りかけのパンに、かぶりついている。 霧の掛かった窓の向こうから、時計塔の鐘の音が聞こえていた。穏やかで重みのある音色が、繰り返されている。 普段と違う三人の朝食は、割と穏やかに過ぎていた。 高層建築街の中で、一際高くそそり立つ塔があった。 巨大な時計を備え付けた塔が、空に突き刺さらんばかりに伸びている。黒光りする巨大な長針が、動いた。 レンガで組まれた厚い壁の内側から、歯車の噛み合う音が聞こえていたが、重い鐘の音に打ち消されている。 体全体に伝わる空気の振動が、間近に感じられる。すぐ真上にある大時計を見上げていたが、視線を下ろす。 眼下には、ひしめき合って並んでいる高層建築が見える。工場街から流れてくる煙と霧が、それらを隠していた。 淡く白い影に包まれた旧王都は、雲海に沈んでいるかのようだった。鋭利な朝の日差しが、顔を眩しく照らした。 銀色の仮面が、ぺかりと日光を反射した。吊り上がった目元と吊り上がって笑う口元は闇で、その奧は見えない。 骨ばかりの金属製の体を、滑らかな銀色のマントが包んでいた。胸部に埋め込まれた緑の魔導鉱石が、輝く。 「うくくくくくくくくくくく」 身を屈めた銀色の骸骨は、ずいっと頭を突き出した。時計塔から落ちそうなほどに、身を乗り出す。 「好調快調超絶好調ゥー! どこもかしこも超超超いい感じィ、最高ダッゼェーィイイイイイ!」 がくがくと肩を震わしながら、アルゼンタムは笑う。 「サッアッテェー。まーずはナーニをシチャオウッカナァー快気祝いにヨォオオオオオオオオ!」 「慣らし運転程度にしとけよー、アルっち。またぶっ壊れられると、溜まったもんじゃねぇんだから」 大時計の真下に座ったグレイスは、片手をひらひらさせた。その隣に立つ銀色の骸骨は、ぐにゃりと体を曲げる。 「ナンダヨォーモーゥ。超イケてねぇっつうか超絶ツゥマンネェエエエエエ!」 「ちゃんと動いていたかったら、大人しくオレの言うことを聞くんだな」 「聞ィカナカッタラーァアアアアア?」 頭を傾けたアルゼンタムは、磨き上げられた仮面をグレイスに突き出す。灰色の呪術師は、素っ気なく返す。 「今度こそ鉄屑にしちゃる。お前みたいなイカレポンチのガラクタは、役に立たなきゃ使う価値はねぇの」 「ヒィーデェーなぁーオゥイ」 「人間ざっぱざっぱ殺して喰いまくってるお前だけには言われたくないね」 グレイスは、眠たげに欠伸を噛み殺した。排気混じりの冷たい風が、肩に乗せた三つ編みを軽く揺らしていく。 視界には、ゆるやかに目覚めていく街がある。民家の煙突からは、温かそうな白い煙が立ち上り始めていた。 細々とした家々が連なる住宅街に囲まれるように、旧王都近辺の工場を経営している企業の高層建築街がある。 そして、その高層建築街から奥まった住宅街寄りの通りには、高層建築より小さい共同住宅がひしめいていた。 下から見ると大きいのだが、上から見ると小さな箱が並んでいるようだった。味気ない、長方形の箱だった。 中世の時代は乱雑としていながらもそれなりに規律が取れていたが、近代になるときっちりと整頓されている。 共和国が成立してから行われた数度の区画整備によって、完全に人の住む世界と人の住まない世界が別れた。 人間の息づく建物と、人間が働くだけの建物に。夜になれば、高層建築街からは人気も明かりも消えてしまう。 グレイスは、高層建築街を見下ろした。そこはかつて、魔法通りと呼ばれた魔法道具商店街のあった場所だ。 だが今は、無機質な縦長の箱が並んでいるだけになっている。あーあ、とグレイスは口の中で小さく呟いた。 「つーまんねぇ」 「ツゥーマンナサソォだなぁーオイ」 ぐいっと身を乗り出したアルゼンタムが、グレイスの前を塞ぐ。グレイスは体を下げ、背中を壁に当てる。 「だってさー、当局ったらオレを追いかけるのやめちゃったんだもん。政府の議員共もさぁ、オレが引っ掻き回してもノッて来ないっつーか張り合いがないっつーかでさぁ。利権争いに手ぇ貸してぐっちゃぐちゃにすんのは好きだけど、最近はオレが手ぇ出さなくてもそうなってんだもん。やんなっちゃう」 「ソッウッナァノッカァー?」 裏返った声の相槌に、グレイスは頷く。 「そうなのよん。特に訳解んないのが軍部でさー、近頃は高魔力者に手ぇ出してるっぽいんだよねー。昔はあれだけ魔導技術を批判してて貶してたくせに、いざ魔法を使ってみれば充分に使える武装だって解った途端に魔力のある奴らをどんどん入隊させちゃうんだもん。あーでも、目的は逆かもなぁ」 「ギャークゥー?」 ぐりん、とアルゼンタムは首を曲げて逆さにする。グレイスは、薄曇りの空を見上げた。 「うん。逆かもしんねぇ。邪魔なのを手の中に入れておいた方が、握り潰す時に簡単だからね」 くしゃっとね、とグレイスは片手を握ってみせた。 「そうなると、ますますつまんねぇなぁおい。魔導師協会は引っ掻き回せないしー、しても面白くねぇしー」 「なぁんでんなことワッカッルゥノサァー? かっさばいて喰わなきゃ、ウマイかマジィか解らネェダァロゥー?」 アルゼンタムは手を突き出し、しゃりん、と銀色の鋭い爪先を擦り合わせた。澄んだ金属の音色が、風で流れる。 不満げなグレイスは、むくれながらそっぽを向いた。その隣で、うかかかかかっ、と銀色の骸骨は笑っている。 「解るんだよ。こればっかりは」 「オイラにはワッカンネェーナァアアアアアア。うけけけけけけけけっ」 歌うように言いながら、アルゼンタムは時計塔の真下に仮面を向けた。そこから、徐々に視線を上げていく。 時計塔の真下にある円形の広場、そこから四方に伸びる大通り、動き始めた商店街、人々が向かう高層建築街。 銀色の滑らかな仮面には、空の色と街の色が上下に分かれて映っていた。弱く薄い空色と、石畳の灰色だった。 流線で吊り上げられた空洞の目が、ある一点を見据えて止まった。無意識に、そこに目線が向かっていた。 「オーオーオォーゥ」 にたりと笑った口元を、刃物状の指先で小突いた。かちん、かちん、と硬質な音が繰り返される。 「ソッウッダァーナァー。まーずは仕返しッツーのはイケてると思わネェーカァアアアアア?」 「殺しても喰ってもダメだぞ。あいつらは、まだまだオレが遊ぶんだからな」 グレイスはアルゼンタムの見下ろす先を見、少し面白そうにした。ワァーカッテルテェー、と仮面が頷く。 「ダーケドヨォ、うっかり殺しちまったら喰ってもイイカー? テイウカ喰うぜ喰らうぜ喰っちまうゼェエエエエ!」 「喰うんだったら綺麗に喰えよー」 グレイスのやる気のない答えに、アルゼンタムは身を捩った。がくがくと肩を震わせ、仮面の下の顎も震わす。 「うかかかかかかかかかっ! 綺麗に喰ったら、喰った気がシネェンダヨォオオオオオ!」 骨のような両足を曲げたアルゼンタムは、時計塔の外壁を蹴った。爪先がレンガを抉り、崩れた破片が落ちる。 空中に躍り出た銀色の骸骨は、両腕を大きく広げた。それに合わせてマントが広がり、固く張り詰めた。 イィヤッホーゥウウウウ、と甲高い叫声が真下に遠ざかり、銀色の影は広場へと一直線に落下していった。 その途中で西向きに吹く風を掴んだのか、くるっと姿勢を曲げた。方向を変えて、宙を滑っていくのが見えた。 雲間から差し込む朝日を浴びて、時折ちかちかと輝いていたが、そのうちにアルゼンタムの姿は見えなくなった。 グレイスは、しばらくアルゼンタムの行く先を見ていた。高層建築街を通り過ぎ、住宅街の上を回っている。 彼は、滑空は出来るが推進は出来ないのだ。なので、空中での方向転換には、風の流れを使う必要がある。 推進装置も付けてやるんだったかな、とグレイスは思ったが、すぐに設計図を引くのも造るのも面倒だと思った。 アルゼンタムを造る際にはごっそりと設計図を引いたため、もう、製図台に向かうのも線を引くのも嫌だった。 魔導兵器じみたおもちゃの仕組みや形状を考えるのは好きなのだが、いざ造るとなると、億劫でならないのだ。 グレイスは、未だに空中をくるくると回り、行きたい場所に辿り着けずにいるアルゼンタムを見下ろしていた。 風の流れが変わるまで、当分はあの状態だろう。グレイスはちょっとだけ哀れんだが、それだけだった。 「自分でなんとかしろよー、アルっちー」 グレイスは意地の悪い笑みを浮かべ、時計塔の屋根を昇り始めた。組まれたレンガの上を、とんとんと歩く。 レンガが段に積み重ねてあるので、昇るのは容易かった。段を飛ばしながら昇ったグレイスは、頂上に到着した。 そして振り返り、旧王都を見下ろした。時計塔の頂点に立っている金属柱を背にして座ると、背後に言った。 「いい趣味してるぜ、あんた。確かにここなら、だぁれもオレらに気が付かない」 金属柱に背を預け、グレイスの反対側に立っていた彼は、薄く笑った。グレイスは、灰色の目を細める。 「なかなか、面白い具合に進んでるじゃねぇか」 グレイスは背後を見、彼に笑いかける。 「なぁ、黒幕さん?」 彼はグレイスに目線をやると、唇の端を静かに上向けた。そう。想像していた通りに、事は運びつつある。 だが、これは罠などという無粋なものではない。計算の上に成されている美しき計略の、ほんの序章だ。 だから。彼らの行き着く先は、最初から見えている。彼は無性に楽しくなり、声を殺して笑い始めた。 その笑い声は、低く轟く鐘の音に掻き消された。 05 11/13 |