ドラゴンは眠らない




過去の息づく屋敷



屋敷の中を進むリチャードは、歩調を緩めていた。
それは、掃除道具を両手一杯に抱えたフィリオラとブラッドを、引き離してしまわないようにするためだった。
ギルディオスは、付いてきていない。それは、いつものことだ。彼はこの屋敷に来るたび、鏡と対面するからだ。
それは、書斎に飾られている割れ目のある小さな鏡だ。遠い過去に、戦いの末に繋ぎ止めた、兄との絆の証だ。
その時間を邪魔してはいけない、というのは、ヴァトラス家の中では半ば暗黙の了解になっていることだった。
南側の部屋に向かって歩きながら、リチャードは淡々と話していた。独り言のように、持論を並べ立てる。

「僕はまず、魔導兵器という呼称が気に食わない」

体重の違う不揃いの足音に、落ち着いた声が混じる。

「兵器、なんて野蛮な呼び方をするのは、彼にもギルディオスさんにも失礼だと思うね。兵器、と言われると、破壊や戦闘を行うということが前提であるみたいだし、事実、一般的な見解はそれだ。その原因が軍であることは言わずもがな、だがね。ここ十年ほどの間に、ギルディオスさんと同じ状態の軍人が増えているからね。軍のお偉方は、彼らを不死身の兵隊か何かと勘違いしている。魂さえ失われなければ生きているのと同じであり、鋼であろうとも肉体を得れば生命と同列の存在である、なんて酷いことを言うよ。その言い方だと、生前の肉体を貶めてるじゃないか」

リチャードは、小さくため息を吐く。

「本当のところを言っちゃえば、僕はアルゼンタムとやらの素性を探りたくはない。魔導師協会が言う素性の探り方って言うのはね、魔導兵器である人物の魂を無理にこじ開けて覗き込むことなんだよ。そんなの、強姦じゃないか。でも、そうしろって言われているし何度かしたことがあるけど、気分は最悪だね。その人の過去だけじゃなくて色んな感情が逆に流れ込んでくるし、当然その中には僕ら魔導師への恨み辛みもたっぷり籠もってる。おかげで、うんざりするほど人間の嫌な部分を見たよ」

もうやりたくないね、とリチャードは付け加えた。

「僕が協会の役員になった理由も、その辺りでね。下にいると、どうしても実働部隊みたいなことをやらされてしまうから、いっそのこと偉くなってやらなくてもいいようにしようって思ったんだ。だけど、結果はこの様だ。僕の目論見は見事に外れてしまったよ。何度となく意見してきたから、会長どのは僕の本心を知っているはずなんだがねぇ」

リチャードは、ちらりとフィリオラを窺った。

「その一方で、フィオちゃんに対する配慮が穏やかなのが、不思議でたまらないよ。どうも、会長どのは女の子には優しいみたいだ」

「その、会長って、どんな人なんですか?」

慎重に、ブラッドはリチャードの背に言葉を投げた。リチャードは少し間を置いてから、顎に手を添える。

「僕も、役員になれば解ると思ったんだけど、未だに知らないんだよね。会長の顔も素性も何もかも。役員会議には出ないし出る時があっても書簡だけだし、それも秘書が読み上げるだけだ。魔導師協会の役員会議自体が秘密の固まりみたいなものなんだけど、その中でも更に徹底した秘密主義で参っちゃうよ。当然だけど、何人かの魔導師はその正体を探ろうとしたよ。顔も見えない相手に従うつもりはない、ってね。僕も彼らの意見には賛同するけど、付き合わなかったよ。荒事は好きじゃないし」

「それで、解ったんでしょうか」

フィリオラが言うと、リチャードは苦笑いしながら振り向く。

「解ったらしいんだけどね。彼らの記憶のその部分だけが見事に抜かれていて、誰も何も覚えていなかったんだ」

彼の足が止まったので、二人も立ち止まる。一番奥にあった両開きの扉は、玄関と同じく家紋が彫られている。
リチャードはポケットを探って鍵を取り出すと、小さな鍵穴に差し込んだ。力を込めて回すと、錠が外れる。

「全く、頭の良い人だよ、会長どのは。魔導師が相手なら、同じように魔法を使った方が効果的だからね。それも、無駄なく的確に要点だけを突く魔法なら尚更だ。記憶を消された魔導師達は、会長どのの姿を見た前後の会話や出来事は、恐ろしいほど事細かに覚えている。だが、肝心な部分だけが白紙なんだ。ぞっとしたよ、僕は」

扉を開けながら、リチャードは語気を強めた。

「あれはもう、魔法じゃなくて呪いだね。しかも、グレイス・ルーに匹敵するほどの腕を持った術者だ」

扉の中は、薄暗かった。カーテンに閉ざされた窓からは、弱々しい日光が差し込み、舞い上がった埃を照らす。
壁の三方向を埋めている本棚は、分厚い本の背表紙で占められていた。埃まみれの床に、彼は踏み込んだ。

「敵にだけは回したくないが、味方にも付きたくないね」

リチャードは白っぽくなっている床に足跡を付けながら、窓に近付いた。薄いカーテンを引き、窓を全開にする。

「それじゃ、フィオちゃん、ブラッド君。いつもの通り、僕の部屋の掃除から始めようじゃないか」

排気の匂いを含んだ弱い風が滑り込み、男の背後の埃を散らしていった。逆光の中に立つ彼の表情は見えない。
ブラッドは水の入ったバケツを床に下ろしてから、リチャードを見上げた。工場の作業音が、遠くから流れてくる。
それに混じって、音ではない震動があった。言葉にすらならない意識が、ブラッドの感覚に触れては離れる。
意識は繰り返す。君は君で君なので、ここにここでここには初めて最初に来た来たのだな。私は、私の、私が。
私が、知らない者だから。


フィリオラは、冷たい水に雑巾を浸していた。
ざばざばと揺らして汚れと埃の固まりをすすぎ、取り出して固く絞る。力を込めて捻ると、黒い水が滴り落ちた。
ずり落ちてきそうな袖をまくってから立ち上がり、エプロンを直す。窓際に置かれた机に向くと、少年がいた。
ブラッドは机を拭いていたが、また手を止めていた。どこか遠くを見るように、黒い瞳の焦点が合っていない。
これでもう、四度目だった。フィリオラは濡れた雑巾を広げながら、湿り気の残る床を歩いて机に近寄った。

「どうしたんですか、さっきから」

ブラッドの目の焦点が戻り、フィリオラに合わせられた。少年は何度か瞬きをしてから、眉をひそめた。

「なんか、変なんだよ。声がするっつーか、声じゃないんだけど、聞こえてくるんだ」

「私は何も言っていませんけど」

フィリオラが首をかしげると、ブラッドは大きな机に雑巾を滑らせる。

「フィオの声だったらすぐに解るよ。きゃんきゃらしてるから。でも、その声、男でも女でもなさそうなんだよね」

「はぁ」

「なんつーのかなー…低いんだけど高い、みたいな」

ブラッドは背後の窓に向き、そこから見える前庭を見渡した。手入れの行き届いた花壇がある。

「でもって、音じゃないんだ。頭の中で響くんじゃなくて、腹の中から聞こえてくる、みたいな?」

「ああ。それはですね、この人の声ですよ」

フィリオラは人差し指を立て、天井を指した。ブラッドは、それに従って天井を見上げる。

「ヴァトラ、とかいう奴の?」

「ええ。私はもう、聞こえなくなったんですけどね。そうですか、ブラッドさんには聞こえるんですね」

フィリオラは、懐かしげに目を細めた。

「ヴァトラさんは魔力を持っていますけど、それでも強いというわけではないんです。伯爵さんのように明確な自我を持っているわけでもないし、言葉を紡げるほどの魔力を持ち合わせていません。ですけど、ヴァトラさんはここにいるんです。それを示すために、相手の魔力の隙に自分の魔力を合わせて、感情の波として伝えてくるんです。ですが、相手に隙がないと、つまり、相手の精神が成熟してしまうと話し掛けることが出来ないんです。まぁ、要するに、大人になったら聞こえなくなってしまうんです、ヴァトラさんの声は」

「けど、なんか、すっげぇ変な気分」

ブラッドが顔をしかめると、フィリオラは少し笑う。

「でしょーねー。他の人の声が中から聞こえてくる感覚って、不思議ですもんねぇ。私も最初は戸惑いましたよ」

なぜヴァトラの声が聞こえるのか、感覚に語り掛ける手段などを、フィリオラが説明したがブラッドは聞き流した。
正直言って、こうもひっきりなしに話し掛けられると迷惑だった。掃除に集中出来ないし、そちらに気が反れる。
ヴァトラと思しき中性的な声は、取り留めのない話をする。壁を撫でる風の方向や、鳥が何羽近くにいるかなど。
建物でなければ解らないようなことばかりだったが、ブラッドはどれにも興味が湧かず、鬱陶しいだけだった。
いい加減にしろ、と強く念じたブラッドは、本棚に埋め尽くされた壁を睨んだ。だが、それでも声は止まない。
彼は、ヴァトラは、独り言を続けていた。


掃除を終えた頃、昼になっていた。
食堂に招かれた二人は、リチャードと共に昼食を摂っていた。ブラッドは無言で、黙々と口の中に押し込んでいた。
慣れない掃除のおかげで疲れていたこともあり、無性に腹が減っていた。久々に、赤く染まっていない食事だった。
パンを囓ると、その中は白く柔らかい。スープも毒々しくなく、野菜の色もおかしくなく、少し不思議だった。
あの赤い食事が普通になってしまっていたので、逆に違和感があった。スープを啜ると、若干辛味がある味だ。
フィリオラの作るそれよりも香辛料が多く、どうやら、全体的にリチャードの好みに合わせてあるらしかった。
緊張した面持ちでティーカップを並べるメイドは、まだ若いというより幼さが残っていて、体形も成長途中だ。
波打った赤毛を後頭部でまとめているが、かなりクセが強いらしく、まとめていても多少広がり気味だった。
その顔に、ブラッドは見覚えがあるような気がした。どこで見たのかは思い出せないが、最近なのは確かだ。
フィリオラは食べる手を止め、食堂の扉に向いた。両開きで背の高い扉には、やはりスイセンの家紋がある。

「小父様、いらっしゃいませんね」

「そうだなぁ。珍しいね、あの人が長話するなんて」

チーズの粉末が散らされたサラダを食べながら、リチャードも扉に向く。ブラッドも、同じようにする。

「話って、誰と? ヴァトラと?」

「いや。あの人の兄さ」

リチャードの答えに、ブラッドは先日の夜のことを思い出した。

「兄って、イノセンタスとか言う人のこと?」

「そうだよ。イノセンタス・ヴァトラス。あの人も優れた魔導師だったんだけどねぇ…」

頬杖を付いたリチャードは、遠くを見るようにした。

「五百年くらい前、つまり、ギルディオスさんが健在だった頃のヴァトラスは一番腐敗していたからなぁ。イノセンタスさんは、その犠牲者だ。最近みたいに、魔力以外の実力を認めるような時代じゃなかったんだ、あの頃は。そんな中でも、ヴァトラスはそれが顕著でね。魔力至上主義だったんだ。イノセンタスさんは、ヴァトラスの中でも特に魔力が高くてね。今じゃ想像も出来ないほど、強烈な魔法を使えたそうなんだ。素手で地面を叩いただけで、その周辺が凍り付くなんて普通だったらしいし。呪文らしい呪文を使わなくても水を変化させて鳥にしたり、降ってきた雨をその場で凍らせたり、氷で巨大なヘビを作ったり、なんてことはざらに出来たらしいから」

「嘘ぉ!」

驚いたブラッドは、目を剥いた。魔力だけで降っている雨を凍らせるなど、どれだけの魔力が必要なのだろうか。
火を起こすなら、まだ簡単だ。魔力を熱に変換することは割に容易いことだし、それが一番確実な方法だ。
だが、氷結させるとなれば訳が違う。熱とは全く逆の方向にしなければならないし、力が緩ければ何も凍らない。
氷の魔法は、魔法の中でも扱いが難しい魔法だ。安定した力量でなくても放てる炎とは、何もかもが違っている。
イノセンタスの姿や魔法を想像してみたが、上手くまとまらなかった。ブラッドは、スプーンを皿の傍に置いた。

「でもさ、おっちゃんの話だと、そのイノセンタスって人は自殺したんだよな? そんなに凄いのに、どうして」

「一言で言えば、迷っていたんだと思うよ」

リチャードは足を組み、ブラッドに細い目を向ける。

「ここから先は、ちょっとばかりえぐい話になるんだけどね。ヴァトラスって、元々魔力の高い一族じゃなかったんだ。だが、ルーの一族の呪い、すなわち、グレイス・ルーの血族がヴァトラスに妙な恨みを持っていてね、彼らの策略で価値観をひっくり返されたんだ。ヴァトラは、生き物は魔力がない方が自然であるって持論だったから、ヴァトラスもその方向で来ていたんだけど、その逆、つまり魔力至上主義にさせられたんだ。その結果、魔力の少ないヴァトラスの一族は魔力を高めようとしたんだけど、その方法ってのがまたねぇ…」

リチャードは言いづらそうに、言葉を濁した。

「気持ちのいい話じゃないんだけどね、本当に。ヴァトラスは魔力を高めるために、自分達の血を濃くすることにしたんだ。魔力濃度は血の濃さと比例するからね。だから、ヴァトラスは近親婚を繰り返した。兄弟同士親戚同士なんてざらにあったし、特にひどいのが親子の間で作った子供同士を結婚させた、ってのなんだよ。その分だときっと、表に出ていないヴァトラスの血族は一杯いたんだろうなぁ。奇形とか障害とか、間違いなく出るはずだし。ギルディオスさんもその一例でね、あの人に魔力がないのは体質とかじゃなくて、一種の機能不全なんだね。魔力が完全にないわけじゃないし、感情の高揚で放たれることもあるみたいなんだけど、自分の意思で放出することが出来ないんだ」

つまり魔法が使えない、と補足してから、リチャードは続ける。

「だから、魔力至上主義であったヴァトラスの家からは敬遠されていたし差別されていた。でも、本家の次男だったからその血を無下に出来ないってことで、実の妹であるジュリアさんと結婚させられそうになったんだ。当然ながら、ギルディオスさんは逃げてヴァトラスの家を捨てた。そして、ギルディオスさんの双子の兄であるイノセンタスさんは腐敗したヴァトラスの中に取り残され、より自分の世界に入っていってしまった。本当に、孤独な人だったんだよ」

その続きは、ブラッドも少しは知っていた。夜の墓場で、ギルディオスが、兄が眠る墓の前で話してくれたからだ。
だが、要点だけを掻い摘んでいたギルディオスの話とは違い、リチャードはその細部に至るまで説明している。
穏やかで変化のない語り口は、妙な生々しさを持っていた。感情が、込められているようで込められていない。
リチャードの話は佳境に入っていた。ルーとヴァトラス、そしてドラグーンを交えた出来事の結末だった。
呪うことで自身も呪われてしまったルーの末裔、グレイス・ルーとその腹違いの兄、デイビット・バレットの策略。
呪われるがままに呪いに沈みながらも、自分の在るべき場所を求めて彷徨い、深淵で尽き果てたイノセンタス。
そして、そんな彼らを、ただ傍観していたフィフィリアンヌ・ドラグーン。手を下すでもなく、貸すでもなかった。
今と昔は違うんだな、とブラッドは思った。先日、フィフィリアンヌはフィリオラの失態に手を出してきた。
身内であれば、接触するのだろう。現金だと思ったが、それが普通なのかもしれない、ともブラッドは感じた。
リチャードの話は終わらない。今度は、ドラグーン家とストレイン家のヴァトラスへの関わりを話し始めた。
だが、ブラッドは、もうそれを聞いていなかった。食堂の窓から外を見、艶やかに光る植木の葉を見つめた。
この家は、それらを全て見てきた。ならば、彼はどう思っているのだろう。それが、やけに気になっていた。
だが、ヴァトラの声は、聞こえていなかった。




午後。フィリオラとブラッドは、書庫に入っていた。
リチャードの部屋よりも埃が多いので、口と鼻を布で覆っていた。山と積まれた本が、空間を圧迫している。
半地下になっている書庫には、みっちりと本が詰め込まれていた。鉱石ランプの青白い光が、頼りだった。
リチャードがこれから使う魔導書や資料などを取り出すのも役目なのだ、とフィリオラが説明してくれた。
ブラッドは両手で抱えても余るほど分厚い本を、本の塔の上に積み重ねた。だが、いくら探しても出てこない。
リチャードが書き記してくれた題名の本は、相当奥深くに隠れてしまっているのか、すぐには見つからなかった。
似たような題名の本はあるのだが、それをフィリオラに見せると、違います、とあっけなく否定されてしまう。
ブラッドはまた少し機嫌が悪くなりながらも、本を探し続けていた。やりたくないが、やらなければいけない。
梯子を使って本棚の上の段を覗いていたフィリオラは、はぁ、と覆面のように巻き付けた布の下で息を吐いた。

「ありませんねー。もしかしたら、もう一つの方かもしれません」

「まだあるのかよ、こんな部屋」

ブラッドがぎょっとすると、フィリオラは慎重に梯子から下りてきた。とん、と床につま先を付けた。

「ええ、あるんですよこれが。この部屋は半地下ですけど、もう一つの方は二階にあるんです」

「そっちにも行かなきゃならないのか?」

ブラッドは口元を覆う布を下ろし、嫌そうにした。フィリオラはポケットを探って懐中時計を出し、蓋を開く。

「もうこんな時間ですか。時間がないので、私だけそっちに行きます。ブラッドさんは、ここで続けて下さい」

それでは、とフィリオラは小走りに倉庫を出ていった。ブラッドは彼女の背に手を伸ばしたが、力なく下げた。
すぐに彼女の姿は見えなくなり、足音も遠ざかった。なんでだよ、と口の中でぼやき、少年は眉をしかめる。
どうして、ここまでやらなければならないのか。いくら助手になったからとはいえ、今日は初日ではないか。
それに、ブラッド自身は今日までリチャードと面識がなかった。知らない相手に使われるのは、面白くない。
苛立ち紛れに、手近にあった本を掴んで投げた。ごっ、と本の角が近くに積み重なっていた本に衝突する。
途端に真ん中の部分がずれ、右へ右へと傾いていく。数秒後、埃の煙を立てながら本の塔は倒壊してしまった。
崩れた拍子に周囲の本も巻き込んでしまったので、ただでさえ本の多い床が更に埋め尽くされてしまった。
ブラッドは本を投げた手のまま、一人で苦笑いした。レオナルドの言う通り、結果を考えて行動するべきだった。
恐る恐る近付いて、開いて歪んだ本や表紙に傷が付いた本を見下ろした。片付けるものが、増えてしまった。

「どーしよ…」

ブラッドは本を一冊拾って、別の本の上に重ねた。そうして積み重ねていくと、再び本の塔が再建された。
しかし、片付いたわけではない。他にも崩れ落ちた本の塔はあるし、それでなくても雑然としている部屋だ。
仕方なく、ブラッドは屈んだ。手にするだけでもずしりと重たい本を腕に抱えて、二つめの塔の再建に掛かった。
七冊目の本を床から取り上げたところで、床に突起があることに気付いた。床板の中に、何かが埋まっている。
埃を被って色がくすんでいるが、光沢を持っていた。丁度、子供の拳大くらいの大きさで、色は赤だった。
ポケットに突っ込んでいた濡れ雑巾を出し、拭ってみた。粗く削られた石の表面は、触れるとほのかに温かい。
それは、人の体温にも似ていた。物珍しくなり、ブラッドはその赤い魔導鉱石の上に手のひらを載せてみた。


声が、聞こえた。


 私の私が私である私を私に、触れて触れるな触れないでくれ。


「…ヴァトラ?」

ブラッドは手を外し、赤い魔導鉱石を見下ろした。それは、淡く光を放ち始めていた。


 違う違わないが違ってはいないが違っている。その名で呼ぶ名その名で呼ばないでくれ呼ぶな呼ばないで。


「じゃあ、どんな名前なんだよ」


 私の私に私が私である私を私とする名は。私が私の私であるがために。私が私として、名を付けてある。


「どんな?」


 私は私であり私ですらないが私は私として私が在る。故に、私が私としてあるために私の名は私が授けた。


「教えてくれないのか?」


 教える教えて教えたりしたら教えられ教えられない。私が私としてあるべきの私だけの名で名だから。


「じゃあ、やっぱりヴァトラじゃんか」


 違う違っている違うのだ違いすぎている。私はここに在りここに存在しここにいること自体が、名なのだ。


「わっけわかんねぇ」


 解る解らずとも解らなくとも解るべきではない。解るはずもない。解るのは私であり私だけであるのだから。


「なぁ、ヴァトラ。教えてくれないんなら他に呼びようがないから、こう呼ぶけどさ」


 仕方ないが仕方なくはなく仕方のないことだ。何を何に何が何の問いを問い掛け問おうとする。


「なんで、そんなに繰り返すわけ?」


 私が私に私へ、言葉の言葉に言葉を操り操られ操る術を手段を方法を教えた者はおらずいずいないからだ。


「じゃあ、教えてもらえばいいじゃん」


 教え教えられ教えてくれる教えられるような存在ではなく存在ですらない。私は私で私だからだ。


「どういうことだよ」


 有機は有機であり有機であるからこそ有機である。無機は無機でしかなく無機だからこそ無機でしかない。


「生き物じゃないから、ってこと?」


 そうだそうであるそうなのだそういうことでありそういうことでしかない。


「でも、ヴァトラは喋ってる。オレと話してる。なのに、生き物じゃないのか?」


 私が私として私の私に私という存在ではあるが、私は私として私のまま私で居続けることしか出来ない。


「…どういうこと?」


 私が私であるためには私としての過去と追憶と時間と時を積み重ね重ね合わせ重ね続けている。


「要するに、情報の固まりってこと?」


 簡単に簡潔に短絡的に即決に表現すれば言い表せば示せばそういうそんなそのようなことになる。


「なのに、生き物じゃないのか?」


 生命とは生命であるとは生命としての意義とは意味とは理由とは。有機体であり有機物であることである。


ヴァトラの声は、一旦落ち着いた。ブラッドは腹の中から語り掛けられる感覚に、未だ慣れてはいなかった。
自分の中にもう一人いるようで気味が悪く、生理的に不快ですらある。無意識に、顔をしかめてしまった。
魔導鉱石に載せていた手をズボンで拭ってから、ヴァトラの魂を納めてある魔導鉱石の上に本を置こうとした。


 無機が無機であり無機であるならば有機は有機であり有機として有機である。


ブラッドが返事をしないでいると、ヴァトラは言った。


 有機は有機の有機として思考し考え想像し妄想する。だがだけどだけれども、無機は無機だから無機なので。


「考えることが、出来ない?」


 そうだそうであるそうなのだよそうなんだ。


ヴァトラは平坦で中性的な声を弱め、感情のない口調に僅かばかり抑揚を付けた。


 だからだからこそですからですので。私は私が私の私は、兵器ではなく兵器であることすらない。





 


05 11/19