「いっえぇーい!」 レベッカの歓声と同時に、無数のアルゼンタムは動き始めた。本物に負けず劣らず、俊敏な動作で駆け出した。 土塊の骸骨は鋭い爪の生えた手を振り上げると、手近な人間の首を飛ばす。レベッカは、軽く駆け、高く跳ねた。 背中の布を破って魔導鉱石の翼を生やすと、両手の指から長い爪を伸ばした。真上から、惨状を見下ろす。 生き残っていた警官達も、大半がやられてきた。警棒を振り回すが、土のアルゼンタムを崩すことすら出来ない。 レベッカは急降下すると、警官の一人の背後に下りた。凄まじい形相で振り向いた警官に、爪を突き出した。 「うふふ」 どっ、と喉を後ろから貫いた。レベッカの青紫の爪が下げられていくと、肩や背筋、腰までが切り裂かれた。 レベッカが手を引くと、人であったものはずるりと形が歪んだ。肉塊から骨を覗かせ、ずしゃりと崩れ落ちた。 爪を伝って指先に滴り落ちてきた血を、ぺろりと舐めた。周囲を見渡すと、皆、土の骸骨に気を取られている。 レベッカはにたりと笑うと、駆け出した。背後から寄って首を跳ね飛ばし、懐に突っ込んで胴体を切り離す。 血と臓物の飛び散る中を、幼女が遊んでいる。美しかった庭は鉄錆の匂いに満たされ、泥と赤に汚されていた。 一歩、門の中に踏み入った途端、レオナルドは口元を押さえた。血の臭気のする凄絶な光景に、吐き気がする。 「…う」 「先、行ってろ。オレがレベッカと遊んでくる」 レオナルドの肩を前に押したギルディオスは、猛りながら駆け出した。大柄な甲冑が、小さな幼女に斬り掛かる。 かん、と硬いものがぶつかり合う。レベッカは片手の爪で、ギルディオスのバスタードソードを受け止めていた。 間髪入れずに、幼女の長い爪が振られる。それに腹を割かれる前にギルディオスは剣を引き、振りかざした。 だが、幼女は吹き飛ばず、逆にギルディオスとの間を詰めてきた。ちぃっ、と悔しげな舌打ちが聞こえる。 レオナルドはしばらく身動ぎしていたが、腹を据えた。息を詰めて地面を蹴り、視線を前に定めて走り出した。 素早く周囲を窺うが、リチャードの姿はない。灰色の城の敷地に入ったのはほぼ同時だというのに、もういない。 玄関を見てみても、いなかった。兄が先刻した通り、魔法封じの魔法陣は数個の弾痕によって砕かれていた。 銃声は聞こえなかったが、この騒ぎでは聞こえなくて当然だと思った。聞こえていても、頭に届かないだろう。 血と泥の足跡を残して走ったレオナルドは、玄関の階段を昇った。開け放たれた扉の先には、やはり足跡がある。 レオナルドは真正面を睨んでから、廊下に続く血と泥の足跡を追いかけ、灰色の城の中へと駆け出していった。 城の中に消えた刑事の後ろ姿を、グレイスは妻を腕に抱き、城壁の上から地獄絵図の前庭を見下ろしていた。 死体の山は、中世の時代を思い起こさせた。だがそれと違うのは、死んでいるのは兵士でなく警官という点だ。 汚れに汚れた前庭で戦い続けるレベッカは、ギルディオスと対等に渡り合っている。どちらも、一歩も引かない。 警官隊を一掃することはあっさり終わってしまったが、こちらは長引きそうだ。人外同士なので、限界が遠い。 グレイスは返り血を全身に浴びたロザリアを抱き締め、その肩に顔を寄せた。丸メガネの奧で、灰色の瞳が笑う。 「たぁのしいねぇ」 「ええ」 ロザリアは、恍惚とした表情を浮かべていた。グレイスに頬を寄せ、魔導拳銃に唇を当てる。 「あなたのくれた服も武器も、とても素敵よ。最高に気持ち良かったわ」 「そりゃあ良かった」 グレイスはロザリアの頬に口付け、白い肌を汚していた血飛沫を舐めた。まだ新しい、鉄の味がする。 「レオちゃんは殺さないでいてくれるんだな、ロザリア」 「だって。レオナルドを殺したら、あなたが暇になってしまうじゃない」 「嬉しいね、気遣ってくれるとは」 「昨日のお返しよ」 ロザリアは、愛おしげに微笑んだ。グレイスはロザリアを抱く腕に力を込めながら、灰色の城を見上げてみた。 長い間、この場所にある存在だ。膨大な時間が過ぎ去っても、グレイスが手に入れた当初から姿は変わらない。 前庭の喧噪など知る由もなく、ずしりとした重量のある石壁の城は沈黙している。朝日を浴びても、冷ややかだ。 その中には今、あの兄弟しかいない。ヴィクトリアは、家宅捜索が行われる前に他の場所へ避難させてある。 さて、どう出る。グレイスはリチャードの目論見が現れるのを楽しみにしながら、感覚を鋭敏にさせていた。 城の中には、至るところに仕掛けがしてある。盗視、盗聴の呪いは当然ながら、他にも面白いものを仕掛けた。 それらの呪いに意識と魔力を向け、どれにどちらが引っ掛かるか待ち侘びながら、グレイスは目を細めた。 他人の心を暴くのは、楽しくてならない。 灰色の城は、広大だった。 レオナルドは三階の階段を昇り切ってから、壁に背を当てた。ただでさえ失った体力を消耗し、息が切れている。 ぜいぜいと肩で呼吸しながら、座り込まない程度に腰を落とした。左腕の傷口が、開いてしまいそうだった。 その場凌ぎの回復魔法だったので、骨が繋がったといっても完璧ではない。痛みも、まだありありと残っている。 レオナルドは胸ポケットに手を入れ、白墨を取り出した。背後の壁に手早く魔法陣を描き、そこに左手を当てる。 「我が命の滾りよ、ここに漲りたまえ!」 魔法陣を中心として、熱い風がぐるりと巡った。レオナルドの左腕を包んでから、背後へと擦り抜けていく。 痛みは和らぎ、若干だが貧血も治まった。血が染みて腕に貼り付いた袖を鬱陶しく思いながら、左手を下げた。 呼吸を整え、感覚を高めた。だが、兄の気配はどこにもない。魔力の出力を下げてやがるな、とすぐに直感した。 これは、前線の魔導師がよく使う手だ。リチャードは戦い慣れている、というか、場慣れしているのが解った。 これでは、リチャードの居場所が掴めない。かといって、この城の中で不用意に魔法を撃つのも憚られた。 いくら魔法封じが破壊されたからといって、ほいほいと使っていいはずがない。ここは、グレイス・ルーの城だ。 何があるか解ったものではないし、何が出てくるか想像も付かない。レオナルドは魔法陣を消し、歩き出した。 幅の広い立派な廊下が、長く伸びていた。薄暗いせいで良く見えなかったが、歩くに連れて、明かりが灯った。 壁に造り付けられている燭台のロウソクが、レオナルドが睨まずとも火が灯った。廊下の先まで、明かりが続く。 ありがたくもあったが、一層警戒心が増した。誘われているのは明らかだが、留まっていてもどうしようもない。 レオナルドは壁から離れ、廊下の中心を歩いた。懐から拳銃を抜くと、すぐ撃てるように引き金に指を掛けた。 足音を殺そうとするが、石の床である上に革靴を履いている。いやでも音が響くので、諦めて普通に歩いた。 すると、ぎぃ、と耳障りな音がした。前方に影が出来たので目を向けると、すぐ前の扉が、独りでに開いていた。 年季の入った分厚い扉は開ききると、動きを止める。レオナルドは素早く周囲に目を配ってから、歩き出した。 どうせ罠だと解っているなら、飛び込んでしまえ。こつ、こつ、と硬い足音が反響し、緊張感が高まってきた。 開いた扉の手前までやってくると、壁に背を付けた。中に何も気配がないのを確かめたが、銃を握り締めた。 がばっと身を翻し、中に銃口を向けた。すると、暗がりの奧から軽い足音がし、見慣れた姿が現れた。 「ありゃ?」 きょとんと目を丸くしたツノの生えた少女が、銃口の前にやってきた。こちらを見上げ、首をかしげる。 「何してるんですかぁ?」 「…お前、こそ」 状況は飲み込めていなかったが、レオナルドは引き金を絞っていた指を緩めた。そこに、フィリオラがいた。 短いツノの生えた少女は、愛らしい仕草で首をかしげた。二つに括られた長い髪が、背中で揺れ動いた。 いるはずのない場所に、なぜ彼女がいる。その疑問がまず最初に沸き起こったが、戸惑いも大きかった。 兄が秘密裏に連れてきたのではないか、とも思ったのだ。だがすぐに、それはないだろう、とも思った。 フィリオラは、エプロンドレスを着ていたからだ。それは、彼女が魔導師の仕事をしていない際の格好だった。 彼女は親しげに笑うと、レオナルドの手を取った。拳銃を固く握り締めていた手を解かせ、ぐいっと引く。 「おっかえりなさぁーい」 弾んだ声で、フィリオラはレオナルドを部屋の中に引っ張り込んだ。レオナルドは戸惑ったまま、中に入った。 途端に、温かな空気が肌に触れた。目を上げると、そこには食卓があり、出来たての料理が湯気を立てている。 レオナルドが呆然として立ち止まっていると、フィリオラはその背を押した。そして、後ろ手に扉を閉める。 「早く食べないと、冷めちゃいますよぉ?」 フィリオラの腕が、するりとレオナルドの腰に回される。 「お料理も、私も」 「な」 何を言っているんだ、とレオナルドが叫ぶ前に、フィリオラは華奢な体を押し付けてくる。 「レオさん、帰ってくるのが遅いんですもん。ずうっと待ってたんですから」 幼さのある声に、色が含めてあった。背中に胸を押し当てられる感触があり、レオナルドは狼狽えてしまった。 これは現実ではない。明らかに幻惑されている。そう思っていても、こうも現実味があると困ってきてしまう。 この状況は結婚後なのか、或いは同じ部屋なのか、もしくは彼女が自分の部屋に来たのか、などと考えてしまう。 悪くない、というかむしろ良すぎて恐ろしい。レオナルドは、陥落してしまいそうな自制心を張り詰めさせていた。 「ねぇ、レオさん」 背後のフィリオラは、甘く囁く。 「したいように、しちゃっていいんですよ?」 背中から離れたフィリオラは、レオナルドの前に出てきた。ほっそりとした指が、頬を撫でてくる。 「どうせ夢だって解っているんですから、楽しんじゃえばいいんです」 フィリオラは、レオナルドの首に腕を回して引き寄せる。 「責めるも良し、蹂躙するも良し、犯すも良し。どうせ、本物じゃないんですから」 ねえ、と耳元で優しい声がした。レオナルドは拳銃を握り締めていた手が、次第に緩んでいくのを感じていた。 魔法の産物だということは、理解している。だが、首に回された腕の細さや吐息の温かさが、生々しかった。 「なんだったら、脱がします?」 フィリオラはレオナルドの首から腕を外すと、自分の背中に手を回し、エプロンの腰紐を解いた。 「それとも、私が脱いだ方がそそります?」 細い指が、襟元を緩める。そこから、白い喉と首筋が覗いた。 「レオさんの好きな方で、いいですよ?」 襟元が押し広げられ、鎖骨が露わになった。焦らすような手付きでボタンが外されていき、下着まで見えた。 目を向けていてはいけない気がして、レオナルドは視線を外した。偽物だと知っていても、やはり動揺してしまう。 鼓動が高ぶり、傷口まで痛んでしまいそうなほどだった。普段の彼女では、絶対に言わないはずの言葉ばかりだ。 それが、やたらと扇情的だった。清らかなものを穢したかのような背徳感があり、相乗効果をもたらしていた。 炎の力とは別の熱が、胸の奥から迫り上がってくる。レオナルドは深く息をしてから、右手の重量に気付いた。 ひやりとした鉄の手触りが指にあり、人差し指は引き金から外れている。それを掛け直し、一度、目を閉じた。 このままでは、堕とされる。気を確かに持って冷静になってくると、この状況の異様さが身に染みてきた。 レオさん、と甘えるような声がする。男の扱いに慣れた女の声だ。フィリオラの口調とは、かなり違っている。 目を開けると、しどけない姿のフィリオラが目の前にいた。艶かで小さな肩が露わで、胸元をも開いている。 丸っこく青い瞳が、欲情した目付きになっている。化粧気はなくとも可愛らしい顔立ちに、いやらしさがあった。 違う。これは、フィリオラではない。フィリオラであれば、しどろもどろになって仰け反ってしまうはずだ。 レオナルドは、フィリオラの姿をした者の額に銃口を押し当てた。拳銃越しにも、その肌の滑らかさが解った。 「何がしたい」 レオナルドは、これを作ったであろう者の名を叫んだ。 「グレイス・ルー!」 「やだなぁ、レオちゃん。ちょいと遊んだだけじゃねぇか」 フィリオラの声だったが、口調はグレイスだった。表情も変わった少女は、にたりとした。 「けど、なかなか立派な根性してるぜ、レオちゃん。大抵の男なら、これでコロッと行くんだがなぁ」 「本物の方が余程良い」 レオナルドが引きつった笑みを浮かべると、少女は銃口の向こうからレオナルドを見上げる。 「へぇー、やっぱりレオちゃんてそうなんだぁー。可愛いなぁもう」 「それを言うな!」 レオナルドは居たたまれなくなり、引き金を引いてしまった。どぉん、と腹に響く発砲音が、空気を震わせた。 硝煙のつんとした煙が漂い、一瞬、視界が失せた。レオナルドは熱を持った拳銃を握り締め、目の前を凝視した。 少女は脳天を貫かれたはずだが、額に穴が開いただけで平然としていた。一筋、血が落ち、首筋を伝っていく。 「そんなに気にするなよ。ますます可愛くなっちまうぜ、レオちゃん」 「もう一発ぶち込んでやろうか」 レオナルドはハンマーを起こし、じゃきりと弾倉を回した。少女は両手を上げ、首を横に振る。 「遠慮しとくぜ。感覚をちょっと繋げてあるだけとはいえ、痛みは来るからな。痛いのは嫌だ」 少女は唇の脇に流れた血を、舌先で舐めた。 「さて、さっきの質問の答えを返してやろう。なぜ、オレがこんな面倒な仕掛けを作ったのか、教えてやる」 レオナルドは拳銃を突き付けたまま、続きを待った。フィリオラのようなものは、グレイスの表情で笑った。 「オレは他人を不幸にするのが大好きだが、色々と引っ掻き回すのも好きなのさ。無論、その中に心も入っている。レオちゃんの入ったこの部屋には、アルゼンタムの喰った人間の血肉に防腐の魔法を掛けて放り込んであるのさ。あいつは魔力は喰うがナマモノは喰えねぇから、ここに転送して捨てているってわけさ。このフィリオラもどきも、料理も、その血肉で作ってある。喰わなくて良かったなー、マジで。だが、当然それだけじゃない」 少女は、楽しげに目を細める。 「ここは、オレが呪いを掛けた部屋でね。願望を生ずる呪い、っつーか、欲望を目に見せる呪いを掛けた空間だ」 「なるほどな」 腑に落ちると同時に、自己嫌悪が起きた。レオナルドは、襟元を広げたままの少女を見下ろし、苦い気分になる。 つまり、フィリオラに対していつのまにか欲情していたということだ。あれほど貶していた相手だというのに。 だが、考えてみれば確かにそうだ。あの歌劇場での戦いの前に、着飾ったフィリオラに女らしさを感じていた。 あの女に迫られたいのだろうか、とレオナルドは悩みそうになったが、すぐに払拭した。今はそれどころではない。 少女は、自信に満ち溢れた様子で腕を組んでいた。レオナルドを真下から見上げると、薄い唇をにぃっと広げた。 「レオちゃんの方は思った通りだったが、これはこれで楽しめたぜ」 「兄貴にも、仕掛けたのか?」 「ああ。この城の至るところに仕掛けてみたから、どれか一つには突っ込んでるだろ」 さあて、と少女は首を曲げた。青い目が虚ろになり、声も遠のいた。 「じゃあな、レオちゃん。オレはリチャードの様子を見てくるわ。また会おうぜ」 「二度とごめんだ」 そう吐き捨て、レオナルドは背を向けた。途端に、どちゃっ、と生々しく水っぽいものが落ちる音が繰り返された。 急いで扉を開け、廊下に出た。粘り気のあるものが足に付いた感触があり、見下ろすと、血の足跡が続いていた。 振り返ると、部屋の中は前庭に負けず劣らずの惨状だった。大量の桶が並んでおり、血肉が溢れ出している。 床もべっとりと汚れていて、どれだけの死体があるかは解らなかった。腐臭はしないが、鉄錆の臭気は物凄い。 レオナルドは再び吐き気が込み上げてきたが、無理矢理飲み下した。勢い良く扉を閉めてから、駆け出した。 あれは全て、アルゼンタムに喰われた被害者だ。立派な物的証拠だ。グレイス・ルーを確実に逮捕出来る。 頭ではそう考えていたが、足は止まらなかった。今更になって、あの空間にいた恐怖が全身に走っていた。 リチャードは無事だろうか。不安が過ぎったが、同時に、気にもなった。あの兄の、欲望とは何なのだろうか。 一見すれば無欲そうな外見と態度をしているが、あれは本性を見せていないだけだ。素のリチャードは別にある。 レオナルドは、一心に走った。階段を昇り、上へ上へと進んでいく。藍色のマントを羽織った姿を、求めた。 兄の中を、見てみたい気がしていた。だが、見てはいけないような、触れてしまったらならないような気もした。 深淵を覗くような、おぞましさがあったからだ。 扉を開けたリチャードは、足を止めた。 先程まで感じられていた魔法の気配が消え、澄んだ空気が流れてきた。扉の奧には、見慣れない光景があった。 縦長で大きな窓がある、整然とした部屋。開かれた窓の前にある机には、魔導書と書類が積み重なっている。 窓際には魔法植物の鉢植えが並び、そよそよと風に揺れていた。リチャードは、温かな日差しの中に踏み出す。 どういう趣向なのかは解らないが、グレイス・ルーの罠には違いない。気を張り詰めて、足を進めていく。 机には、小柄な人影が座っていた。古風な魔導師の衣装を身に付けた、浅黒い肌をした黒髪の少年だった。 長い黒髪を後頭部の上で引っ詰めてあり、薄茶の瞳は吊り上がり気味だったが、顔立ちは中性的に整っていた。 少年は足を組んでいて、頬杖を付いていた。他人を見下しているような表情をしているが、まだ幼さがある。 見たところ、十代前半のようだった。リチャードが足を止めると、少年は愛想の良い笑顔を作ってみせた。 「やあ」 「君は、誰だい」 リチャードの問い掛けに、少年は笑む。 「ランス・ヴァトラス、と言えば思い当たると思うよ」 「ランス」 リチャードは、ため息と共にその名を呟いた。それは、希代の天才であり、精霊を視認出来る才能を持つ先祖だ。 だが、リチャードの印象とは違っている。ランスの手記に書かれているのは、晩年の頃の出来事ばかりだからだ。 彼の手記を読むと、気難しくも理知的な老人の姿しか思い浮かばない。少年期の姿など、知るはずもないのだ。 ギルディオスの話を聞いても、彼の話は要所しか言わないので、細部までは解らない。だから、異様だった。 明らかに、この空間は思念を読み取って作り出した虚像だ。ならばなぜ、リチャードの思うランスにならない。 リチャードが訝しんでいると、ランスと名乗った少年は机から下りた。悠長な足取りで、こちらへ歩いてくる。 「ま、変に思われても当然だよ。この僕は、あなたの思う僕じゃなくて、グレイス・ルーの思うランスだからね」 ランスはリチャードの手前にやってくると、見上げた。 「あの男にとっては、十三歳の僕が一番印象に残ってるらしいから。僕としては不満だけどね」 「そんなところだろうと思ったよ」 リチャードは、少年を見下ろした。ランスは、リチャードを睨むように見据えた。 「だけど、これはあなたの本心じゃない。普段から上辺に作ってる、防御壁に過ぎない」 「そうかな。僕は、ランス・ヴァトラスを尊敬して止まない」 リチャードは、にこにことした。 「彼の残した功績は偉大だ。僕ら近代の魔導師にはとてもじゃないが扱えない魔法ばかりを自在に操っていたし、彼の能力のおかげで精霊の研究も大分進歩した。父親であるギルディオス・ヴァトラスの魂が現存する魔導鉱石を調べに調べ、魂と魔力中枢の関連性を見つけ出したのも彼だし、カイン・ストレインと共に行った竜族の古代魔法の調査も実に素晴らしかった。僕は、彼のような魔導師にはなれなくとも、彼に近しい存在にはなりたいと常々願っている。だから、ここに君がいるのは嘘ではない」 「そう。嘘じゃない。嘘じゃないけど、本当でもないんだ」 ランスは、少年らしい高めの声で話す。 「リチャード・ヴァトラス。あなたは、どちらかと言えば、父さんよりもイノ叔父さんに似ている。まぁ、これもグレイス・ルーの主観なんだけどね。イノ叔父さんは自分に実直で信念を曲げなかった人だ、あなたもそういう人だ」 「褒め言葉かい」 「貶してはいないね」 ランスは、少し笑った。作り物らしい、温かみのない表情だった。 「けれど、褒めてもいないよ。あなたは頑なだ。その一念で、魔導師協会の役員にまでのし上がった。それはとても立派だけど、芯にある理念は僕には頂けないな」 「それも、グレイス・ルーの主観かい?」 「いや。グレイス・ルーの知っているランス・ヴァトラスの思考では、そうなるってだけさ」 僕は本物じゃないからね、とランスは薄茶の目を細めた。 「あなたの信じるものは、魔法と己だけだ。それは、あなたの行動からでも良く解る。魔法ありきの世界である魔法大学に講師として居続けているのも、その辺りが理由だろうね。そして、あなたは他人を利用しすぎる。自分からはほとんど動かないくせに、周囲の人間を口車だけで手足のように扱って、あっさりと切り捨てる。ある種、グレイス・ルーに通ずるものはあるけど、根本が違うからやっぱり別物だね」 「そうかな」 「そうさ」 ランスは、小さく頷いた。その動きに合わせ、一括りにされた黒髪が揺れる。 「あの男は、己の快楽を第一に考える。楽しければそれで良いし、面白ければ何よりって外道だから。でも」 「僕は違う、と?」 「ああ。違うね」 ランスは、狡猾さを窺わせる目で笑っていた。子供らしくない表情だった。 「あなたの望みはただ一つ。それのためだけに、今日まで魔法の腕を磨いてきて、ようやくこの城に踏み入った」 望みを叶えるためにね、とランスは続ける。リチャードは内心で少し動揺したが、それを打ち消して笑っていた。 「僕の願いなんて、大したものじゃないよ」 「いや、充分大したものだと思うよ」 ランスは笑みを柔らかくした。リチャードの動揺を察しているようだった。 「じゃあ、言ってやろう。あなたの望みは」 「ルーを滅ぼすことだ」 ランスの声と、リチャードの声が重なった。リチャードは、魔法の杖を握る手に力を込めた。 「…いけないかい?」 05 12/16 |