ドラゴンは眠らない




波乱の家宅捜索



「いけなくはないよ」

ランスは、至極淡々としていた。

「けれど、分が悪すぎる」

「そうさ。勝ち目なんてない。けれど、ヴァトラスは一度、ルーに滅ぼされている」

リチャードは、作っていない笑顔を浮かべた。己が正当であると思っているからこその、笑みだった。

「だから、報復は当然の権利だ」

「けれど、それを話せば他の血族が反対するんだよね。特に父さんが」

「目に見えているよ、ギルディオスさんの反応は。あの人は、割に甘い部分があるから」

リチャードは、ため息を零した。

「本当ならすぐに殺すべきであるロザリア・ルーとヴィクトリア・ルーに手を出さない辺りからして、まず甘ったるいね。僕だったら、妻子から手に掛ける。グレイス・ルーと真っ向から戦うことは出来ないけど、その外堀ぐらいなら簡単に崩せるからね」

「そして、レオナルド・ヴァトラスも異論する」

「それも間違いない。レオは熱血漢だからなぁ」

リチャードは、やりづらそうに呟く。

「女子供には手加減しろとか言いそう、っていうか言うね、あいつなら。結構単純だから」

「そのためには、犠牲は厭わない」

「うん。厭う暇がないから」

「特に、竜は」

ランスの声色が、重たくなった。リチャードは細めていた目を開き、薄茶の瞳を覗かせる。

「ああ。これも、当然の権利だ」

リチャードの声も低められ、邪心が滲み出ていた。

「僕らヴァトラスは、竜に喰われてきた。それもこれも、ギルディオスさんがあの忌々しいフィフィリアンヌ・ドラグーンの手に蘇らされてしまったからだ。それ自体は否定しないけど、それから後のことは否定するよ。ギルディオスさんはが竜に使役され続けなければならない理由も必然も、僕にはまるで解らない。ただ、縁が深いというだけで、そこまで竜に尽くす必要なんてないはずなのに。だから今度は、竜がヴァトラスに使われるべきなんだ。だから、僕は」

リチャードは、笑う。

「あの子を使い続けてきたんだ」

「フィリオラ・ストレインのことだね」

「全く、良い子だよ。僕を信頼してくれていて、僕の言うがままに動いて、死にかけてくれる」

口元に浮かんだ笑みを隠すように、リチャードは口元に手を添える。

「あれほど使い勝手のいい道具はないよ。竜は素晴らしい生体兵器だ。機械式の魔導兵器なんかよりずっと効率が良いし、下手な人間よりも頭が良いし、ちょっと優しくしただけで惚れてもくれた。ありがたくて涙が出るよ」

ランスは、無表情になっていた。それと逆に、リチャードは笑い続けている。

「彼女は純粋だけど、それは馬鹿の意味でもある。人を疑うことをしないし、僕の言葉に素直に従ってくれる。師弟関係は、ある意味じゃ主従関係だからね。先生先生って慕ってくれるのは嬉しいけど、正直、あんまりありがたくはなかったな。僕は君を教えているわけじゃない、使っているなんだけだ、って負い目が少しだけあったからね。けど、もうそんなことは気にしてないけどね。あの子は、道具だから」

一度吐き出したら、止まらなかった。リチャードは、更に続ける。ランスの姿は、いつのまにか消えていた。

「長年、竜ががヴァトラスを使役してきたんだから、今度はヴァトラスが竜を使役し、犠牲となってもらうが筋なんだ。そうだろう?」

なあ、と言おうとして、リチャードは言葉を止めた。開け放していた扉の向こうに、弟が、硬直して立っていた。

「なあ、レオ。そう思うだろう? 君があの子を嫌いな理由もそこだ。ヴァトラスはドラグーンに使役されてきたことが気に食わないのは、何も君だけじゃない。僕もそうだ。ただ、見た目が結構可愛いし、従順だったから、使ってきてやっただけのことさ。あのままアルゼンタムと相打ちになって死んでくれても構わなかったんだけど、さすがは竜だ、しぶとく生きているんだから」

どうせ、この弟も幻影だ。リチャードは、気分良く笑う。

「いっそのこと、適当な容疑でも引っ掛けて処分してしまおうか! その方が、世界のためだ!」

レオナルドは、耳を疑った。リチャードの口から、リチャードの声と言葉で、恐ろしいものばかり吐き出される。
気でも狂ったのかと思った。しかし、リチャードの目には理性がある。己の言葉で高揚してはいるが、平静だ。
レオナルドの知らない、リチャードの真意。正しくそれは、深淵だ。やはり、暴いても、覗いても、いけなかった。
今までに見たことのない、かなり楽しげな笑顔の兄。開放感に満ちていて、まくし立てる言葉にも勢いがあった。

「あれこそ、正しく中世の遺物だ! 帝国に滅ぼされるべき存在だったんだよ!」

目を見開いたレオナルドに、リチャードは言った。

「レオ、手伝ってくれるね? あの子の首を刎ねるのを。再生能力の高い竜を殺すには、それが一番だから」

これが、兄の欲望だ。リチャードの願いだ。グレイス・ルーは、欲望を見せるだけの呪いを掛けたのではない。
その願望に繋がる真意までを、ごっそりと引き摺り出すのが目的だったのだ。レオナルドは、背筋が寒くなった。
そして、悲しくなった。どうして、兄はここまで歪んでしまったのか。歪まなければ、ならなかったのだろうか。
レオナルドは大股にリチャードに歩み寄ると、拳を固めた。手首を据えて真っ直ぐに、兄の横面を殴り飛ばした。

「馬鹿野郎ぉ!」

リチャードは、容易く転んだ。床に擦れた顔を起こしたリチャードは、殴り付けられた頬を押さえる。

「何するんだい、レオ。それとも何か、幻影でも痛みを感じさせることが出来るのかい?」

「何を寝惚けてんだ、オレはオレだ!」

レオナルドはリチャードの襟元を掴むと立ち上がらせ、間近で睨んだ。

「やっぱり、兄貴はあいつを殺す気だったんだな! それも、無茶苦茶な言いがかりで!」

「何が悪い」

「悪いに決まってる! ヴァトラスとルーの因縁にストレインは、ドラグーンは関係ねぇ!」

「あるじゃないか。ずっと、双方に関わっているじゃないか」

「それが言いがかりだっつってんだよ! 昔は昔で、今は今だ! 今の竜に、あいつに関係があるはずがない!」

レオナルドは兄を燃やすような気持ちで、睨んでいた。

「兄貴のせいで、どれだけあいつが傷付いて苦しんだか知っているのか! 知らないだろう!」

「知りたくもない」

「知れ! 好きだった男に裏切られただけじゃなく、人として扱われない苦しみをな!」

レオナルドは兄を突き飛ばし、床に倒れさせた。息を荒げながら、両の拳を痛くなるほど握り締める。

「…何があったんだ、兄貴」

「何も、ないよ」

床に倒れたまま、リチャードは返した。一変して、覇気が失せていた。

「僕は、僕の信念のままに動いている。その結果の一つとして、あの子を犠牲にしているだけだ」

「それだけか」

レオナルドは、苛立ちと憤りで声が震えていた。怒りが熱となって放射され、体の周囲の温度が上がってくる。

「それだけのために、あいつは、あの女は翼破られて包帯だらけになっちまったってのかよ!」

「レオ」

力なく、兄は弟に言った。

「予想以上だ。僕の計画、成功しちゃったみたいだね」

「…ああ」

レオナルドは、リチャードに背を向けた。振り返ることもせずに、言い放った。



「オレは、あの女が好きだ」



「どこに、惚れちゃったわけ?」

兄の問いに、レオナルドは曖昧に笑った。こんな状況なのにこんな質問かと思うと、笑えてきてしまう。

「さあな、よく解らん。ただ、悪い気はしない。むしろ、楽しいくらいだ」

「良かったね、レオ」

子供に言うかのような兄の言い方に、レオナルドは少し変な顔をした。

「さっさと起きろ、兄貴。帰るぞ」

「どっちへ?」

リチャードは、のそりと上半身を起こした。レオナルドは、それが共同住宅か屋敷かを指しているのだと察した。

「オレはオレの部屋に帰る。隣にはあの女がいるからな。兄貴は、屋敷に帰れ」

「そうさせてもらうよ。今、あの子に会ったら、さっきみたいに洗いざらいぶちまけちゃいそうだからね」

リチャードは投げ出されていた魔法の杖を取り、背を伸ばして床に座った。

「さすがはルーの城。恐ろしいや」

「ああ。兄貴のせいで、言う気のなかったことまで言っちまった」

「みたいだね」

部屋の中は、嵐が過ぎた後のように静まった。今し方まで見ていた幻影が失せると、部屋の様子が見えてきた。
がらんとした、空き部屋だった。何もない平たい床に、乾いた血文字で巨大な魔法陣が描かれているだけだった。
窓も固く閉ざされていて、鎧戸も閉めてある。廊下のロウソクが発している光がなければ、何も見えないだろう。
闇の世界だった。リチャードは、久々に高ぶった感情の名残である高揚感を味わいながら、立ち上がった。

「闇に誘われた、ってわけね」

「誘われなくても、元からあったんだろうが」

レオナルドが乱暴に返すと、リチャードはその隣を通り過ぎた。

「まぁね」

兄は、多少おぼつかないがしっかりした足取りで歩いていった。レオナルドはその背に続き、闇の部屋から出た。
リチャードの背を覆う藍色のマントは、殴り飛ばされたせいでよれていた。それが、歩調に合わせて揺れている。
兄の心に潜んでいた闇は、思い出すだけで苛立ってしまう。だが、それと似た理由で、自分も彼女を嫌っていた。
それが、ますます苛立ちを煽った。自分への不甲斐なさと彼女への申し訳なさで、むかむかしてきてしまう。
何が竜だ。フィリオラは、女で、子供で、人間だ。竜の末裔である以前に、まだ十八歳の少女に過ぎないのだ。
むやみやたらに嫌ったところで、何になる。リチャードのように、こちらが憎しみの闇に堕ちてしまうだけだ。
恨み辛みに捕らわれると、それだけで視界が狭まってしまう。嫌いだ嫌いだと言っていると、本当に憎くなる。
言葉とは、呪いのようなものだ。それ自体にはあまり効力はないはずのに、それが徐々に心身を侵食する。
どうすれば、兄の闇は拭えるのか。レオナルドはそんなことを考えてみたが、答えは少しも見えてこなかった。
まるで、闇の中にいるようだった。




城の外に出ると、いつのまにか日が暮れていた。
家宅捜索を始めたのは朝方だったので、時間を飛び越えたような気分だった。グレイスの魔法のせいだろう。
願望を生ずる呪いは、精神、すなわち魔力中枢と魂に接触する呪いだ。侵食される際に、気を失ったに違いない。
その気を失ったときと期間を、覚えていないだけなのだろう。レオナルドは、薄暗くなった前庭を歩いていった。
日が暮れたおかげで、地獄絵図を見ずに済んでいた。だが、足元を見て歩かないといけないのは変わりない。
気を抜けば、死体を踏み付けてしまう。それは死者にも悪いし、踏んでしまった方も後味が悪くて仕方ない。
レオナルドは思い出したようにやってきた貧血で少しふらつきながらも、気を張って歩き、城門まで辿り着いた。
城門には、先に城を出ていたリチャードと、ギルディオスがいた。ギルディオスは、よ、と片手を挙げてみせる。

「無事だったか」

「なんとか」

レオナルドは、なんともいえない表情をした。ギルディオスは、兄弟を交互に見る。

「殴ったな?」

「殴られました」

リチャードは頬に出来た痣に触れ、眉を下げた。二人の元にやってきたレオナルドは、吐き捨てた。

「殴られて当然だ」

「オレも殴りてぇよ、グレイスの野郎をな」

ギルディオスは、城の前庭を見渡した。至る場所に無数の死体が散らばり、辺りには死臭が漂い始めていた。
周囲には、グレイスの姿はなかった。恐らく、血みどろの妻と共に、灰色の城の中に帰っていったのだろう。
甲冑の厚い装甲には、無数の切り傷が付いていた。レベッカと切り結んだ際に、防ぎ切れなかった分だ。
レベッカも、倒すことは出来なかった。何度も戦おうとも、あの幼女は腕を上げてくるので、切りがない。
ギルディオスは、精悍な顔付きとなったレオナルドと、いつもの気の良い笑みが消えたリチャードに向いた。
灰色の城の中で何があったのかは解らないが、この兄弟にとってはかなり壮絶な出来事だったようだ。
だが、それが今後、どう転ぶかは解らない。良い方向に作用するかもしれないが、その逆も然りなのだから。
ギルディオスは言うべき言葉を探していたが、結局見つからなかった。背中に乗せた鞘に、巨大な剣を納める。

「帰るぞ。報告書と始末書の嵐が待ってるぜ」

「二三日は警察署から帰れないと思っていいね、これは。覚悟しとかなきゃ」

リチャードはげんなりしたように、肩を落とした。レオナルドは拳銃を懐のホルスターに戻し、顔をしかめる。

「当たり前だ」

三人の後ろ姿は、強烈な西日に入り、一瞬消えたように見えた。それらが次第に遠ざかり、緩い坂を下っていく。
彼らの話し声も離れていき、いつしか聞こえなくなった。灰色の城には、気味の悪いほどの静寂が訪れた。
グレイスは城の一室から、静まった前庭を見下ろした。傍らには、普段着に着替えたロザリアが寄り添っていた。
肩に頭をもたせかけているロザリアに触れながら、グレイスは窓越しにヴァトラスの血族達を眺め、目を細めた。
リチャードの本心を暴くのは、予想以上に面白い見せ物だった。思っていた通り、リチャードはルーを狙っていた。
それも、竜の末裔までも巻き込んで。多少回りくどいな、とグレイスは感じながら、ロザリアを腕の中に納めた。

「やっぱ、レオちゃんの方が可愛いな。遊び甲斐もあるしよー」

「それで、リチャードはどうするの?」

「気が向いたら構ってやるさ。それより、今はヴィクトリアだ」

「迎えに行ってあげないといけないわね。レベッカが動けないんだから」

「レベッカはギルディオス・ヴァトラスと全力で戦ったんだ、ちったぁ休ませてやらねぇと持たねぇよ」

「レベッカがあそこまで追い詰められているの、初めて見たわ」

と、ロザリアは後方に目をやった。部屋の奥には、メイド服はおろか人工外皮まで破けた幼女の石人形がいる。
腹部に剣を叩き込まれたのか、木の骨組みが砕けている。青紫の体液に似た液体魔導鉱石が、流れ出ていた。
レベッカは腹の大きな傷をやはり損傷した腕で覆い、うつらうつらとしていた。痛覚を切って、休眠しているのだ。
ロザリアが知るレベッカは、いつもはほぼ無傷で戦いを終える。だから、修理の必要など今までほとんどなかった。
どれだけ、ギルディオスの攻撃が壮絶か、想像しなくても解る。その上、あの甲冑は恐ろしく戦い慣れている。
よくもまぁそんなのを相手にしてきたわね、とロザリアは内心で夫に感心し、背後にある夫の体に体重を掛けた。
白い衣装を脱いで体を洗っても、血の匂いはこびりついている。手にもまだ、乱射による痺れが軽く残っていた。
欲望が満たされ、ロザリアは気分が良かった。グレイスの傍にいると、殺戮と乱射の衝動を満たすことが出来る。
当然だ。この城は、グレイスの欲望によって成り立っている。彼の意志のままに、あらゆる欲を具現化出来る。
それが、快楽でなくてなんであろうか。ロザリアは鮮血のように真っ赤な紅を引いた唇を、ぺろりと舐めた。
血に染まった前庭が、彼女には何よりも美しく見えていた。




二日後。レオナルドは、フィリオラの部屋にいた。
目の前の食卓にはずらりと料理が並んでいて、どれも柔らかな匂いを漂わせている。が、その全てが緑色だった。
まろやかな色合いの緑色のスープ、綺麗に焼けている緑色のケーキ、ふんわりとした卵に絡められた緑の野菜。
他にも、茹で野菜のサラダや丸いパン、薄い肉に菜を巻いて焼いたものなどがあったが、いずれも緑だった。
正面には、にこにこと笑っているフィリオラが座っていた。本人は、華やかな香りのする紅茶を飲んでいた。

「これが一番ですから」

「…なんだ、これは?」

レオナルドは、変な顔をして食卓を指差した。フィリオラは、待ってましたと言わんばかりに説明する。

「ですから、ホウレン草です。ホウレン草のクリームスープに、ホウレン草と卵の炒め物に、ホウレン草のサラダに、ホウレン草の肉巻きに、ホウレン草のケーキに、ホウレン草のパンです。どれもちゃんとおいしく出来てますから」

「いや、そうじゃなくてな」

レオナルドが不可解そうにすると、フィリオラはにんまりとした。

「レオさん、撃たれた時に大分血が流れたって聞きましたから。血が足りなくなった時には、これが一番なんですよ。増血剤よりも、こっちの方が良く効くんですよ!」

「フィオ姉ちゃん、ゲッケイってのがひどいんだよ。だからオレも付き合わされて、先週はずーっとそれだった」

フィリオラの隣に座るブラッドは、対照的に真っ赤なスープを啜っていた。レオナルドは、また変な顔をする。

「そういうお前は、何を喰っているんだ?」

「魔力安定剤になる魔法植物のメダマカズラを入れた、根野菜のスープです。それがないと、相性が悪いので」

私とブラッドさんの、とフィリオラはブラッドと自分を交互に指した。ブラッドはスプーンを置き、頷く。

「フィオ姉ちゃんの魔力がマジで高いからさぁ、これ喰わないと、血ぃ飲んだ時にすっげぇまずいんだよね」

レオナルドは察し、理解した。ハーフヴァンパイアであるブラッドは、フィリオラの血を摂取しているのだろう。
その際に、摂取する側とされる側の魔力濃度が安定していないと、釣り合いが取れなくなって味が悪くなるのだ。
竜なので魔力が格段に高いフィリオラと、魔物族としてはそうでもないブラッドでは、ずれが生じて当たり前だ。
すると、フィリオラはおもむろに襟元を緩めた。ブラッドに身を屈めると、ブラッドは口元を拭って彼女に向いた。
背を丸めたフィリオラはレオナルドを見、苦笑いした。白い首筋を露わにしたまま、情けなさそうに眉を下げる。

「ここんとこ、貧血気味だったもんで。ブラッドさんに血を飲ませてあげられていなかったんですよ」

「喰った後に倒れられちゃ事だ、ってことでさ」

ブラッドは歯を剥き、短くも尖った牙を覗かせた。少年はフィリオラの首筋に顔を埋めると、牙を突き立てた。
皮が貫かれる瞬間、フィリオラはぎゅっと眉をしかめた。すぐに治せる傷といっても、痛いものは痛いのだ。
うー、あー、と血を吸われながら呻くフィリオラから、レオナルドは目を外した。なぜか、見てはいけない気がした。
彼女の苦悶の表情や、滑らかで白い首筋がやけに残った。さっさと料理を食べようと思っても、気が向かない。
いきなり、忘れたはずのフィリオラもどきが蘇った。やはりあれも、情交で挿入するときには苦悶するのだろうか。
となれば本物もするはずで、と考えてしまい、レオナルドは自分が嫌になった。こんな場所で、考えることではない。
まずい。本気で欲情してしまいそうだ。レオナルドは自制心を出来るだけ強め、吸血される彼女から目を逸らした。
あらぬ方向を睨んでいるレオナルドをフィリオラは見上げ、手を付けられていない料理を見、残念そうにする。

「レオさん、ホウレン草は嫌いでしたか?」

「違う、違う、そうじゃない」

レオナルドは顔を背けたまま、首を横に振った。フィリオラは、しゅんとしてしまう。

「でしたら、どうして食べてくれないんです?」

「喰う! だから、そんな情けない声を出すな!」

レオナルドは気を張って言い返し、彼女に振り向いた。まさか、欲情しかけていたとは言えるはずもない。
フィリオラは背を丸めた姿勢のままだったが、上目にレオナルドを見ると、にっこりと嬉しそうに微笑んだ。

「良かった。嫌いじゃなかったんですね」

「ああ、まあ」

レオナルドは生返事をしてから、フォークを手に取った。手近にあったホウレン草と卵の炒め物を、口に入れた。
彼女の言う通り、良い出来だった。卵も柔らかでバターの風味もあり、ホウレン草の歯応えもしっかり残っている。
黙々とそれを食べながら、レオナルドは情けなくなっていた。すっかり、フィリオラにほだされてしまっている。
前であれば易々と文句を言えたはずの状況なのに、欲情しかけたせいで、何も文句を思い付かず言えなかった。
泣かせるよりはマシだが、何も言えないのも不甲斐なかった。自分が弱ってしまったようで、妙な気分だった。
ホウレン草と卵の炒め物が皿からなくなったので、レオナルドは緑色の丸パンを掴み、噛み千切るように食べた。
ふと目をやると、フィリオラは満足げに笑っている。ふにゃりとだらしない、緩みきっている幼い笑顔だった。
やはり、こちらの方が良い。男慣れした仕草で誘ってくるような紛い物よりも、情けないが可愛い本物が好きだ。
レオナルドはパンを飲み下してから、少し笑った。欲望など、目に見えてしまわない方が、自分のためだ。
すぐに手に入ることなどないのだから、高望みしていればそれでいい。それに、手に入れるには努力が必要だ。
簡単に手に入るようなものであれば、最初から求めたりしない。努力した結果として、手に入ればいいのだ。
だが、どうやって努力するべきか。あれだけ嫌いだと言っていたのに、急に意見を真逆にしては気味が悪い。
レオナルドは悩み出しそうになったが、今はやめることにした。考え事をしては、料理の味が解らなくなる。
フィリオラがせっかく作ってくれたのだから、堪能しなくては。そうしなければ、間違いなく後悔するだろう。
惚れた女が、自分のために作ってくれた料理なのだから。




灰色の城は、悪しき欲望に満ち、悪しき欲望を露わにする場所だった。
深淵に身を沈める兄の心を暴き、恋に揺れる弟の心を乱した。
欲望とは強固な願望であり、信念の中心にも成りうる。だが、しかし。

溺れてしまっては、ならないものなのである。







05 12/17