フィリオラは、ぐったりしていた。 両手にずしりと重たいカバンを持ち、人混みの中で突っ立っていた。眠い目を瞬きさせ、欠伸を噛み殺す。 ここ数日、ギルディオスが大破させたアルゼンタムの、検死ならぬ検機械人形に駆り出されてしまっていた。 それと合わせて、リチャードの助手とキャロルとブラッドの師匠をしていたので、疲れが溜まりに溜まっていた。 検機械人形は時間と手間が掛かったが、魔導師免許の謹慎はまだ続いているので、当然報酬は出なかった。 そのせいで、余計に疲れてしまった。これだけ働いても何も出ないんだ、と思うと、心と体の疲労は格段に増す。 目を閉じれば、すぐにでも眠れてしまいそうなほどだった。だが、なんとか目を開いて、辺りをぐるりと見回した。 旧王都駅の前は、人通りが多かった。もうじき、夜行寝台列車が到着するので、それに乗る人々だと思われる。 フィリオラは口に手を当てて欠伸をし、駅舎の壁に寄り掛かった。奧の改札では、駅員が切符を切っている。 先程出た列車の名残なのか、熱の籠もった空気が流れた。フィリオラはぼんやりしながら、駅前広場を眺めた。 まだ、三人とも来ていない。このままでは、夜行寝台列車に間に合わないのではないか、と思ってしまった。 しばらくすると、人々の中ではかなり浮いた姿が現れた。剣を背負った大柄な甲冑が、少年と共にやってくる。 ギルディオスらは、駅舎の入り口で待っていたフィリオラの元まで歩いてくると、よ、と片手を挙げてみせる。 「眠そうだな」 「そーりゃそうですよ…。ここんとこ、タダ働きばっかりでしたから」 フィリオラは自虐的な笑みを作り、口元を引きつらせた。 「先生からは一月分のお給金は頂きましたけど、これじゃ割に合いませんよ、本当に」 「ま、しゃあねぇよ。謹慎が解けるまでの辛抱だ」 ギルディオスに励まされ、フィリオラは少しだけ表情を柔らかくした。 「はい、頑張ります」 「フィオ姉ちゃん、まだ機関車は来てねぇのか!」 わくわくしながら、ブラッドはフィリオラを見上げた。フィリオラは懐中時計を取り出すと、蓋を開く。 「んー、あともう少しですね。私達が乗る夜行寝台列車が到着するまで、あと十五分ぐらいありますよ」 「なあなあ、まだ改札に入っちゃダメ?」 ブラッドは、改札を指した。フィリオラはポケットから切符を三枚取り出すと、その一枚を少年に渡す。 「まだダメです。ですけど、切符なら持っていていいですよ」 「しっかし、機関車に乗るのがそんなに嬉しいたぁなぁ。まぁ、気持ちは解るけどよ」 ギルディオスはブラッドの背後に屈むと、少年の頭をぽんぽんと叩いた。ブラッドは、上目に甲冑を見上げる。 「だってさ、オレ、一度も見たこともなかったし乗ったこともなかったんだもん!」 「ブラッドさんの住んでいたゼレイブは、まだ鉄道が敷かれていませんでしたもんね」 フィリオラは微笑ましげに、ブラッドを見下ろした。ブラッドは初めて手にした切符に、見入っている。 「うわー、なんかすげー! こんなんであんなでっかいのに乗れるのかぁ!」 「お」 ふと、ギルディオスは上半身を起こした。フィリオラを見てから、顎をしゃくって駅前広場の方向を示した。 それに従い、フィリオラはその方向に向いた。人混みの間を、やけに早い足取りでやってくる姿があった。 あまり大きさのないカバンを肩に担いでいるレオナルドが、迷うことなく、真っ直ぐにこちらに近付いてくる。 駅舎の前に集まっている三人の元へ来ると、フィリオラを一瞥した。途端に不機嫌そうになり、顔を逸らした。 「なんだって、お前と一緒に行かなきゃならないんだ」 「仕方ないじゃないですか。寝台列車の寝台客室の切符は、一室で四人分なんですから。一人分余っちゃったら、勿体ないじゃないですか」 フィリオラはレオナルドを見上げ、むくれる。 「それに、レオさんも私と同じで、魔導師免許を更新に行くんですから、どうせなら一緒に行った方が色々と都合が良いに決まってるじゃないですか」 「どうしてお前なんかと、魔導師免許の取得時期が被っちまってるんだ。そうでなければ、更新時期も被らなかっただろうに」 レオナルドは忌々しげに、フィリオラを見下ろした。フィリオラは困ってしまい、眉を下げる。 「私に言わないで下さいよ」 「お前らは魔法大学の修了と同時に魔導師免許を取ったんだから、取得時期も更新時期も、同じになっちまうのは当然だろうが。この時期は、魔法大学の修了時期だからな」 可笑しげに、ギルディオスは二人に言った。レオナルドは甲冑に目を向け、少々やりにくそうにする。 「そりゃあ、そうですがね」 「二人ってさ、同じ大学なん?」 ブラッドは、フィリオラとレオナルドを見比べた。フィリオラはちらりとレオナルドを見てから、頷いた。 「はい。私とレオさんは、ヴェヴェリスにある魔導師協会附属の魔法大学の修了生なんです。私は四年前の十四歳の時に、修了したんですけどね」 「オレは八年前の十八の時だ。オレが修了した直後に、こいつが入ってきたことになる」 レオナルドが素っ気なく返すと、ブラッドは目を丸くする。 「それってなんか凄くね?」 「そうですかね?」 フィリオラは、少し首をかしげた。レオナルドはポケットを探って切符を取り出すと、フィリオラに背を向けた。 「いくら勉強が出来たところで、他の部分が馬鹿じゃどうしようもないと思うがな」 「…うぅ」 フィリオラは小さく唸ると、俯いてしまった。言い返したかったが、いい文句がさっぱり浮かんでこなかったのだ。 レオナルドは唇を歪めているフィリオラから目を外し、ブラッドを手招いた。その手で、改札の奧を示した。 「ブラッド。列車が入ってくるところを見たければ、さっさと中に入らないとダメだぞ」 「あ、うん」 ブラッドはフィリオラを見たが、すぐに頷いてレオナルドの背を追った。二人は、すぐに改札を抜けていく。 フィリオラは不愉快で仕方なく、眉根を歪めていた。ぶすっとしている少女の肩を、ギルディオスは軽く叩いた。 「オレらも行くぞ。乗り遅れたら事だからな」 「小父様ぁ」 「んだよ」 ギルディオスは、フィリオラを後ろから見下ろした。フィリオラは上目にギルディオスを見、ぼやいた。 「どうしてレオさんって、ああなんでしょうか。この前までは、ちょっと優しかったんですけど」 「この前って、お前がアルゼンタムにやられて寝込んでた時か?」 「はい」 フィリオラは頷く。 「あの時は、鎮痛剤の魔法薬を作ってくれたりしたんです。でも、私が治ったらレオさんも元通りになっちゃって」 どうしてなんでしょう、とフィリオラは目を伏せた。戦闘での傷が治るまでの数日間は、とても嬉しい日々だった。 レオナルドは、最初のものとは調合を違えた鎮痛剤を何度か作ってくれたし、傷薬を作るのも手伝ってくれた。 帰ってきたら真っ先に部屋にやってきてくれたし、家宅捜索の経過も教えてくれた。だが、それはすぐに終わった。 フィリオラの傷が完全に塞がると、レオナルドの態度はまた以前のような辛辣なものとなり、文句も復活した。 顔を合わせれば矢継ぎ早に文句を並べ立ててくるので、フィリオラもつい言い返してしまい、関係も元に戻った。 あのまま、レオナルドと仲良くなれると思っていたのに。フィリオラはそれが残念でならず、ため息を吐いた。 「本当に、どうしてなんでしょうね」 俯いたフィリオラの頭に、ギルディオスはぽんと手を置いてから、彼女を追い越した。 「ま、そう気にするな。いきなりレオの態度が甘ったるくなっても、気色悪ぃだけだろ」 ギルディオスは、早く行こうぜ、と後ろ手に軽く手を振ってみせた。フィリオラは、仕方なしに彼を追いかけた。 改札で切符を切ってもらい、四番線に向かう。プラットホームを繋ぐ階段を昇りながら、釈然としない気分になった。 確かに、いきなりレオナルドの態度ががらりと変わってしまったら奇妙だが、文句を言われるよりは遥かにいい。 レオナルドだって、文句を言い続けているよりも親しくした方が楽になるはずなのに、そうではないのだろうか。 ますます、彼のことが解らなくなってしまった。フィリオラは思い悩みながら階段を歩いていたため、転び掛けた。 手すりを掴んで姿勢を戻し、またため息を吐いた。ホームとホームを繋ぐ通路の窓から、四番線を見下ろした。 機関車の到着を待ち侘びるブラッドの傍で、レオナルドは少年のような顔をして笑っている。とても、楽しそうだ。 それが、無性に不愉快だった。同時に、自分ではレオナルドの心を開くことが出来ないのを痛感してしまった。 この夜行寝台列車に誘った時もそうだ。割り勘だと最初から言っていたのに、彼は何かと理由を付けて拒否した。 だが、ブラッドにごねられるとあっさりと了承した。そのあからさまな態度の違いが、癪に障らないわけがない。 だからレオさんは嫌い、と口の中で呟いたフィリオラは、床を踏み付けるような勢いで通路を歩き出した。 むかむかしてきたせいで、眠気は吹っ飛んでしまった。 その夜。夜行寝台列車の二等寝台客室の八号室で、フィリオラは眠れずにいた。 硬くて狭いベッドに体を縮めて入り、横たわっていたが、寝入ることは出来なかった。うるさくて、揺れるからだ。 機関車の力強い走りぶりや線路と車輪の軋みが背中はおろか全身に響いて、眠気を起こすどころではなかった。 おまけに、酔っていた。フィリオラは胃の重みに苛まれながら寝返りを打つと、脱力しきった唸り声を漏らした。 「もー、いやー…」 目を上げて、向かい側のベッドを見た。フィリオラと同じ上段のベッドに、レオナルドが横たわっている。 レオナルドは、眉間を押さえていた。明らかに気分が悪そうで、口元を歪めている。やはり、酔っているようだ。 「下の二人は、余程図太いんだな」 「みたいですね」 フィリオラは、下のベッドを覗き見た。散々はしゃいでいたブラッドは、レオナルドの下のベッドで熟睡している。 夜行寝台列車が到着して乗り込んでからも騒いでいて、とても楽しげだった。だが、さすがに疲れたようだった。 気持ちよさそうに寝息を立てているブラッドが、羨ましくなった。その向かい、フィリオラの下には甲冑がいる。 ギルディオスのベッドの脇にはバスタードソードが立て掛けられていて、列車の震動で時折がたがたと揺れていた。 彼には肉体がないので寝息は聞こえてこないが、物音や声がまるでしてこないので、深く眠っているようだった。 フィリオラは持参してきた枕を抱き締め、それに顔を埋めた。酔い止めの薬は飲んだが、効果が切れてしまった。 「もっとこー、気持ちの良いお布団の中で眠りたいです」 「我慢しろ。一等客室にしたら、いくら掛かると思っているんだ」 レオナルドは、気力のない声で返してきた。フィリオラは虚ろな目で、真っ暗な天井を見上げる。 「あー、お腹ん中気持ち悪い…」 「そうぼやくな。オレも同じだ」 「私だってぼやきたくはありませんけど、ぼやきたくもなりますよ」 連日の激務で積み重なった疲労と乗り物酔いに辟易しながら、フィリオラはげんなりと呟いた。 「こうも毎日のようにタダ働きじゃ、いくらなんでも溜まりますよ色々と。そりゃブラッドさんとキャロルさんはいい弟子になってくれてますし教え甲斐もありますから、やる気は出るんですけど、何もアルゼンタムさんの解体にまで付き合わせることないじゃないですかぁ。それもなんですか、謹慎のせいで謝礼はおろか手間賃すら出ないってんだからやっていけませんよ本当に。魔導師ってのは慈善事業じゃないんですから」 「全くだ」 レオナルドは暗がりの中で、口元を引きつらせた。フィリオラの愚痴に釣られ、吐き出した。 「確かにオレはアルゼンタムを倒せなかったし、あれを撃破したのはギルディオスさんだ。だが、だからってオレが何もしていないみたいな言い方をしなくてもいいじゃないか。現場に出ない連中は、これだから嫌だ。しかも、オレが立てた作戦をさも自分が考えたみたいに上に話しやがるし、挙げ句に褒められやがった。ま、だからグレイス・ルーの家宅捜索の責任の一切を持ってもらったんだがな」 「レオさんの上司の話ですか?」 「ああ。まぁ、その家宅捜索がめためたに終わったからそいつは左遷されたんだが、喜んでいいやら悪いやら」 「警官隊の人達が、ほとんどやられてしまいましたからね」 フィリオラは、ギルディオスから聞いた話を思い出した。端々を聞いただけでも凄まじく、正に悪魔の所業だ。 「ですけど、警官隊を使うのはどこの方針だったんですか? 先生じゃ、魔導師協会じゃありませんよね?」 「本庁のお偉いさんだ。数で押せばなんとかなるとかぬかしやがって、強攻しやがったんだ」 オレと兄貴は反対したんだがな、とレオナルドは苦々しげにする。 「まぁ、そのお偉いさんも、今度のことで降格するようだがな。国家警察も、腐ってきたもんだ」 「ですけど、レオさんはどうにもなっていないんですよね?」 フィリオラに問われたレオナルドは、いや、と首を横に振った。 「六ヶ月の減俸と二週間の謹慎を喰らった。謹慎を受けたそのついでに、魔導師免許を更新してこようと思ってな。懲戒免職は覚悟してたんだがなぁ。どうやら、兄貴の仕業らしい」 あからさまな嫌悪感を滲ませたレオナルドの口調に、フィリオラは不思議そうにする。 「どうして、そんなに嫌そうなんです? 首にならなくて良かったじゃないですか」 「実の兄とはいえ、あんな人間に情けを掛けられたのかと思うと腹が立ってくるんだ」 レオナルドは、腹立たしげに吐き捨てた。フィリオラは言い返そうと思って口を開いたが、躊躇ってしまった。 リチャードを擁護しようと思ったが、その気にはなれなかった。やはり、歌劇場での出来事が引っ掛かっている。 傷が治ったので整理を付けたと思っていたが、内心ではそうではなかった。むしろ、彼に疑念が湧いていた。 変身が解けた後、気を失う直前の、リチャードとレオナルドのやり取りが蘇る。彼は、強烈な言葉を言っていた。 ああ。それだけだ。それ以上の理由がどこにある。悪びれることもなく、利用していたことを認める言葉だった。 治ったはずの背中が、痛んだ気がした。それ以上に胸苦しさが湧いて、フィリオラは背を丸め、顔を伏せた。 「レオさん」 「ん」 「なんでもありません」 フィリオラは、中途半端な笑いを浮かべた。震えを起こしそうなほどの不安に苛まれたが、なんとか誤魔化した。 リチャードは以前と変わらない態度で、フィリオラに接してくる。利用したことを謝らないのも、いつものことだ。 だから、それが当然だと思っていた。竜である自分は誰かに使われるのが当たり前で、使ってもらうべきなのだと。 だが、そうではないと知った。リチャードに対するレオナルドの怒りようで、普通のことではないのだと自覚した。 使われたり使ったりする関係は、師匠と弟子ではないというのも解った。本来であれば、そんな関係にならない。 ブラッドとキャロルを教えていると、常々そう感じる。教える側と教えられる側は、上下関係のようだが違うのだ。 だから、自分とリチャードの関係は歪んでいるものだ。フィリオラは、ここ数日でそんな答えに辿り着いていた。 そう思ったら、今までリチャードが向けてきてくれた笑顔や優しさが嘘のように思え、物悲しくなってしまった。 リチャードのことは、好きだ。優しい声や温かな手の感触が、褒めてくれるときの言葉が、とても好きだった。 戦いの道具として利用されていた、実質的に裏切られていた、と知った時でさえリチャードを信じようと思った。 しかしそれは、自分が信じたいだけだ。彼に裏切られていない、大事にされている、と思い込むために思ったのだ。 つまり、本当はリチャードを信じていないということだ。彼を信じられなくなったから、信じたいと思おうとしている。 フィリオラは、枕に頬を押し当てた。リチャードが信じられなくなったと解ると、自分まで信じられなくなってきた。 本当に自分は、リチャードのことを好いていたのだろうか。急に、自分の恋心に対しても疑念が起きてきた。 悶々としていたが、答えは出なかった。フィリオラは目を閉じたが、やはり眠気は起きず、目を開けて彼を窺った。 すると、レオナルドもフィリオラを見ていた。思い掛けず目が合ってしまったことで、フィリオラは少し慌てた。 「え、あ、なんでしょう」 「お前は」 「はい」 こちらを見ているフィリオラの青い瞳から、レオナルドは目を外した。 「兄貴が、好きなのか」 言ってから、レオナルドは後悔した。何も、この話の流れで言うこともないだろう。だが、口から出てしまった。 負傷から回復したフィリオラと以前のように接していても、それがいつもどこかに引っ掛かって仕方なかった。 あれほどの仕打ちを受けてもまだリチャードを好きだというのなら、それは本物だ。だから、入る余地はない。 もしそうならば、彼女に感じている恋心はすっぱり切り捨ててしまおう。傷は、出来るなら浅い方がいい。 ここが暗くて良かった、と思った。今、自分がどんな顔をしているか、考えただけで情けなくなってしまった。 フィリオラは、なかなか答えなかった。たっぷりと間を開けてから、おずおずと丸っこい目を向けてきた。 「よく、解りません」 「なんだそれは」 「ですから、その。えと、前は、好きだなぁって思っていたんですけど、今は、その」 しどろもどろに言い、フィリオラは目線を彷徨わせる。 「この間のことがあるせいかもしれませんけど、本当に好きなのかどうか、なんだか、解らなくなったんです」 「そうか」 「あの、それが、どうかしましたか?」 「…いや」 レオナルドは内心で安堵しながらも、表情には出さなかった。フィリオラは毛布を肩まで引っ張り、丸まる。 「そういうレオさんは、どうなんですか?」 「何がだ」 「私のこと、やっぱり、嫌いですか?」 切なげに、フィリオラはこぼした。レオナルドが目を向けると、不安げで頼りない表情をした彼女がいた。 雨に濡れた小動物のような眼差しに、レオナルドは戸惑った。気分の悪さを忘れるほどの、強い動揺が起きた。 動悸と共に、胸の奥が締め付けられてしまう。レオナルドが答えに詰まっていると、フィリオラは首をかしげた。 「レオさん」 これには参ってしまった。レオナルドは口元を押さえ、思い切り気を張って緩みそうな表情を堪えていた。 そんなに甘えた声で名前を呼ばれてしまうと、すぐにでもそちらに行って力任せに抱き締めてしまいたくなる。 レオナルドは理性と欲情の間で揺らぎながら、横目に隣のベッドを見ると、フィリオラは困った顔をしている。 答えを待っているのだ、というのは解ったが、それすらも可愛らしく思えて仕方なく、レオナルドは苦笑した。 ほとんど病気だ。内心で自嘲しながら、レオナルドは表情を作った。普段のような、嫌味な顔を見せる。 「オレがお前を、好きだと言うとでも思っているのか?」 「私は」 フィリオラは残念そうではあったが、柔らかな笑顔になっていた。 「レオさんのこと、ちょっと、好きになってきたかもしれません」 「…どこをだ」 動揺の最中、レオナルドが辛うじて出せた言葉はそれだった。フィリオラは、少し声を明るくさせた。 「たまーにですけど、優しいところが。それと、結構可愛いところが」 「まだそれを言うのか」 レオナルドが嫌そうにすると、フィリオラは拗ねたように頬を張る。 「だって、本当にそう思うんですもん」 「全く」 呆れたように呟いたレオナルドは、寝返りを打って、フィリオラに背を向けた。このままでは、顔が緩む。 彼女につんけんとした態度を取るのは慣れているが、さすがにこれ以上続けると、わざとらしくなってしまう。 背後でフィリオラは不満そうな声を漏らしたが、衣擦れの音がした。同じように、レオナルドに背を向けたらしい。 レオナルドは息を詰め、いつのまにか高まっていた鼓動を感じた。ずきりと鋭い痛みが、胸の内側から湧く。 切なげなフィリオラの表情が、頭から離れない。甘えるように呼んできた声が、耳の底にこびり付いている。 本格的に、彼女に堕ちてしまった。まさかこの歳になって、こんなに青臭い恋をするとは思ってもみなかった。 炎の力とは別の熱が、体の奥底を焦がしている。それは、痛くもあるが心地良くもある、不思議な感覚だった。 フィリオラは、心底嫌いだった女だ。それがなぜ、こんなことになってしまったのか、自分でも理解出来ない。 本当に憎らしかった。気に食わなかった。その存在自体が鬱陶しくてたまらず、何度も言葉ではねつけていた。 だが、何度打ちのめしてもまたこちらに向かってくるし、どれだけ嫌いだと言っても仲良くなろうと画策する。 考えてみれば、そんな人間に出会ったのは初めてだ。レオナルドは、目の前の冷え切っている壁を見つめた。 念力発火能力などという強烈な能力を持っているせいで、大抵の人間は、少し付き合っただけで離れていった。 家柄に惹かれて擦り寄ってきた女達も、レオナルドの持つ能力の厄介さを知ると、すぐにどこかへ逃げていった。 フィリオラも、そうではないのだろうか。人の家に生まれながら人でない彼女も、同じ境遇にいたのではないのか。 声が聞こえなくなったので、背後を窺うと、フィリオラは寝入っていた。穏やかな寝息が、背中越しに聞こえてくる。 闇の中では黒にしか見えない髪の間から突き出た、短い二本のツノ。人よりも魔物に近い、尖り気味の小さな耳。 レオナルドにとっては愛らしく感じるものが、普通の人間にとっては異様であり、恐怖の対象には違いない。 恐れられていないはずがない。嫌われていなかったはずがない。同じように、他人から距離を置かれたはずだ。 そう思ったら、なんとなく、心変わりの理由が掴めた。人でない人である自分に、真っ向から接してきたからだ。 こちらが嫌いだというのと同じぐらい嫌いだと言ってきて、少し優しくしたら、好きだと言ってきてくれる。 それが、嬉しくないはずがない。力を持った恐ろしい存在ではなく、一人の人間として扱ってくれるのだから。 好きになるはずだ。レオナルドは全身に染み渡る嬉しさで、沸き起こってくる笑みを押さえきれなくなった。 とても、気分が良かった。乗り物酔いの不快感も何もかもが嬉しさで消え失せてしまい、ずっと笑っていた。 だが、目覚めたら、またいつもの態度を取ってしまうのだろう。素直になるのが、気恥ずかしくて仕方ない。 我ながら情けないと思いながらも、そうなってしまうのだ。余程のことがない限り、態度は変えられない。 「ガキなのは、オレか」 レオナルドは、そう小さく漏らした。素直になれないから文句を言うなど、実に子供染みた意地の張り方だ。 どうすれば、その意地をどうにか出来るのか。素直になった方が楽になれるのに、素直になる方法が解らない。 こればかりは、自分でなんとかするしかない。レオナルドは自分に呆れながら目を閉じ、眠気に身を任せた。 列車の揺れと震動に苛まれながら、夢を見た。夢に現れた彼女は、情けなさそうに、だが嬉しそうに笑っていた。 どんな状況なのかは、解らなかった。 05 12/22 |