キャロルは、家路を辿っていた。 近頃は、以前よりも格段に温かくなって日が落ちるのも遅くなったが、日が落ちた後なので空は暗くなっていた。 赤紫から藍色に移り変わる西の空を見上げ、歩調を緩めた。今は旧王都にはいない、彼女らに思いを馳せる。 フィリオラらは、一昨日から首都へと出掛けている。首都へは機関車と船で二日は掛かるが、もう到着しただろう。 今頃、彼女達はどうしていることだろうか。首都は、煙と蒸気に満ちた旧王都とは違って大都会だと聞いている。 どんな場所か、想像も付かない。機関車にも船にも乗ったことがないので、これも少しも思い浮かばず、落胆した。 フィリオラらが帰ってきたら、話を聞こう。知らない世界の、知らない物事を、教えられるだけ教えてもらおう。 そうすれば、この疎外感にも似た空しさは消えてしまうはずだ。そう思いながら、キャロルは共同住宅に急いだ。 赤い壁で三階建ての共同住宅に着くと、正面玄関に繋がる幅広の階段を昇り、両開きの扉を開けて中に入った。 建物の中心を貫くように造られている階段を昇り、二階へと向かった。三階を見上げても、物音は聞こえない。 フィリオラやブラッド、レオナルドやギルディオスがいなくなっているからだ。四人もいないと、かなり静かだ。 一階は管理人であるサラの居住空間になっているし、二階の住人はキャロルと父親であるウィリアムぐらいだ。 以前は二階にも他の住人達がいたのだが、勤めていた工場が閉鎖されたとかで、どこかへ越してしまった。 三階も、三○一号室と三○二号室が埋まっているだけで、三○三号室はずっと前から空き部屋になっている。 サラは運営に苦労している様子はないので採算は取れているのだろうが、住人を増やそうとしないのだろうか。 というより、増えないのかもしれない。三階に住むのが竜族の末裔では、住人などそうそう現れるはずがない。 いくら、竜が昔よりも恐れられなくなったとはいえ、それでもやはり、人々の間には竜に対する恐れが残っている。 歌劇場での事件によって、それは明確になった。キャロルも、竜の血を露わにしたフィリオラに畏怖を感じた。 だが、キャロルはフィリオラ本人の性格と人柄を知っているので、それは一時で終わったが、大衆は違っていた。 街を歩いていると、悪意のある風評が耳に入ってくる。人を喰っていたのは機械人形だけでなく竜もだ、と。 国家警察はそれを否定する発表をしたが、人々は不安を糧にして憶測を作り出し、密やかに囁き合っている。 こればかりは、時間が過ぎて大衆の興味がアルゼンタムの起こした事件から失せてしまうのを待つしかない。 キャロルはそれがいつになるか考えてみたが、やめた。あまり、気の滅入るようなことは考えていたくない。 それでなくても、フィリオラに会えないせいで気が滅入ってしまっているのだから、これ以上はごめんだ。 二階へと到着すると、鍵を取り出し、二○一号室の扉の鍵穴に差し込んだ。右方向に回すと、錠が外れる。 扉を開けて居間に入ると、テーブルにカバンを置いた。テーブルに置いてあった、鉱石ランプを手に取る。 魔力を操る練習になるから、とフィリオラがくれたものだった。キャロルは気を張り詰め、魔力を高める。 ガラスの器の中に納められた薄青い魔導鉱石をじっと見つめ、手を翳す。体の内側から、熱が沸き起こる。 それを手に集中させるように念じ、息を詰めた。手のひらから生じた熱の温度が上がると、鉱石が光った。 宝石のような魔導鉱石の中心から、淡い輝きが漏れ始めた。薄暗かった居間が明るくなると、ほっとした。 キャロルは少しばかり表情を綻ばせると、カバンを開けて帰りがけに買ってきた食材を取り出していった。 紙袋に入った野菜を抱え、台所に向かおうとして、足を止めた。見慣れないものが、木箱に詰まっていた。 青白い鉱石ランプの明かりを浴び、ぎらぎらとした光沢を帯びた金属が、歯車がぎっしりと押し込まれていた。 キャロルは物珍しさで、身を屈め、木箱の中身を見下ろした。大小様々な歯車には、刻印がされていた。 それは、魔法文字だった。以前であれば少しも読むことは出来なかったが、フィリオラに教わったので読める。 キャロルは何度も目を動かし、魔法文字の並びとその意味を読んだ。意外なことに、それは魔法ではなかった。 魔法であれば、必ず六芒星と二重の円があるはずなのだが、この魔法文字はただ横に並べてあるだけだった。 アーリン、ヴァルル、ゼシュ、ニーロ、タリオ、マニ。それらの文字を共和国語に訳せば、ただの音となる。 キャロルは、唾を飲み下した。いつのまにか乾いていた唇を舐めてから、その音を、小声で読み上げた。 「ア」 アーリンを指す。 「ル」 ヴァルルを指す。 「ゼ」 ゼシュを指す。 「ン」 ニーロを指す。 「タ」 タリオを指す。 「ム」 マニを指し示している指は、僅かに震えていた。 「なんで…?」 アルゼンタム。忘れもしない、あの狂気の機械人形の名だ。フィリオラと戦い、彼女を傷付けたおぞましい存在だ。 歌劇場での夜のことは、すぐに思い出せる。リチャードの手の温かさと、鮮血の生々しい匂いが蘇ってくる。 震えそうになる腕を押さえ、しゃがみ込んだ。キャロルは呼吸を整えてから、何かの間違いだ、と思おうとした。 だが、目線を下げて、息を飲んだ。木箱には、焼き印が付けられていて、それは見覚えのある名を記していた。 サンダース製作所。父親が経営する、下請けの部品製造会社の名だ。キャロルは、よろよろと立ち上がった。 何がどうなっているのか理解出来ず、頭痛を感じながら、強く抱き締めて潰れてしまった紙袋を足元に落とした。 得体の知れない恐ろしさに襲われたキャロルは、珍しく、一刻も早く父親が帰ってきて欲しいと願っていた。 だが、父親は、夜が明けても帰ってこなかった。 翌日。キャロルは、小雨の中を急いでいた。 厚ぼったい雲に覆われた空は昨日よりも暗く、排気に汚れた空気もくすんでいて、街灯の明かりもぼやけている。 暗い街並みは、それだけで不安を掻き立てる。早めだった歩調の速度はすぐに上がり、小走りになっていた。 今日は、父親は帰ってきているだろうか。帰ってきていて欲しい。そして今日こそ、あの歯車の真相を問うのだ。 真実を知らないままでは、想像ばかりが膨れ上がってしまう。意識せずとも、悪い方向へと考えてしまう。 どんな真実であろうとも、真実さえ知れば少しは気が休まる。キャロルは意を決し、ぎゅっと唇を引き締めた。 細い路地を抜けた先に、赤い壁の建物が見えた。三階建ての共同住宅は、灰色の空の下で、赤が目立っていた。 駆けるようにして正面の階段を昇り、両開きの扉の片方を開いた。素早く中に飛び込むと、扉を背中で閉めた。 走ってきたせいと緊張で、鼓動が早まっていた。荒くなっていた息を落ち着けるため、何度も呼吸を繰り返す。 額に滲んだ汗を拭ったキャロルに、サラが近寄ってきた。人の良い顔立ちが、申し訳なさそうに曇っている。 「あの、キャロルさん」 「はい」 キャロルは、少々不思議に思いながら、サラに答えた。彼女とは挨拶をする程度なので、滅多に話さないのだ。 サラは深みのある色合いの瞳を彷徨わせていたが、赤毛の少女に戻した。顔を曇らせたまま、笑顔を浮かべる。 「お父様から、お話は聞いていないのかしら?」 「…はい?」 キャロルは、嫌な予感がした。サラは眉を下げ、そう、と胸苦しげにする。 「実はね、お父様、ウィリアムさんがお部屋を引き払われてしまったのよ。だから、二○一号室の鍵を」 返して下さいね、と言ったサラの声が、遠くなった。キャロルは呆然として、唇が半開きになってしまう。 「荷物も一緒に持っていってしまわれたんだけど、キャロルさんのものは置いていくからって」 サラは、声を落とす。 「それは、私の部屋にちゃんとあるから安心してちょうだいね」 耳の外を、サラの言葉が上滑りしていった。理解したくない、理解出来るはずがない、理解したら終わりなのだ。 それでも、感情は勝手に動いていく。全身を襲う絶望感で膝が震え、堪えようとしても、涙が滲んできてしまう。 七歳の頃にも、同じ感覚を味わった。家に帰ってきたら母親がおらず、父親が険悪な表情で酒を飲んでいた。 お母さんは。そう尋ねようとしたが、出来なかった。家の中や周りを捜し回ったが、母親はどこにもいなかった。 数日過ぎてから、近所の人から母親の話を聞いた。若い男と連れ立ってどこかへ歩いていく姿を見た、と。 それきり、母は戻ってこなかった。家の中にあった僅かな金も財産を持っていったのか、全てなくなっていた。 キャロルは、ずっと帰りを待っていた。いつの日か母が帰ってくることを願って、玄関先に一日中座っていた。 すぐにはこの現実を理解出来なかったから、日常の延長で母がいないのだと思えるまで、ずっとそうしていた。 父親は母を捜しに行くこともなく、黙々と働いていた。何の仕事をしているのかは、キャロルには解らなかった。 だがそれでも、父親は帰ってきてくれた。前のように遊んでくれなくなったが、帰ってきてくれるだけで良かった。 その、父親が。帰ってくることもなく、消えてしまった。母親と同じように、家の中からいなくなってしまった。 キャロルは、がくがくと震える腕を掻き抱いた。俯いて声を押し殺しているキャロルに、サラは手を伸ばす。 「私の部屋にいらっしゃい。そうすれば、家賃はいらないから」 キャロルは、ゆっくりと首を横に振った。サラの気持ちはとても嬉しかったが、受け入れてはいけない気がした。 その部屋は、サラの部屋だ。キャロルの家ではない。だから入ったとしても、居心地が悪いのは目に見えている。 キャロルは足元に落ちていたカバンを拾うと、抱えた。サラに深く頭を下げてから、顔を上げ、弱々しく笑う。 「いえ、お構いなく。自分で、なんとかします」 サラが引き留める言葉を言ったが、それを聞く前に外に飛び出した。雨は強くなっていて、肩に叩き付けてきた。 日が落ちて、暗くなった雨の中を走った。絶望に沈んでしまいそうな心を浮かばせるため、必死に駆けていった。 石畳の窪みに溜まった雨水をばしゃりと蹴飛ばし、一心に駆けた。頬を伝う雨水に、熱いものが入り混じっていた。 キャロルは、雨に混じった涙を拭わなかった。立ち止まってしまったら、現実に押し潰されてしまいそうだった。 鉛色の空の下は、重たい闇に変わりつつあった。 その夜。雨の中を歩きながら、リチャードは落胆していた。 グレイス・ルーの犯罪に繋がる存在が、旧王都から姿を消してしまったからだ。これでは、捜査を始められない。 捜査が始められなければ、強引にこじつけて、グレイス・ルーの城を襲撃することは出来ないではないか。 また襲撃さえ出来れば、勝機を見出せる。無敵にも思える灰色の呪術師にも、必ず付け入る隙があるはずだ。 あの男は人外のようだが人外でないのだから、殺すことも適うはず。様々な考えを巡らせながら、歩いていた。 雨に包まれた街を傘越しに見ていたが、ヴァトラスの屋敷の前で傘を上げた。鉄柱で出来た門に、人影がある。 遠くにある街灯に照らされているその姿は、小さかった。弱い光で浮かび上がった輪郭には、見覚えがあった。 子供っぽさの残る横顔。柔らかく波打った赤毛。表情の失せた、緑色の瞳。彼女は、こちらを見ていなかった。 死人のような顔をしたキャロルに、リチャードは足を止めた。今日の勤めは終わったはずなのに、と思った。 「冷えちゃうよ」 リチャードの声に、キャロルは目を上げた。表情を失っていた瞳に光が戻り、リチャードを捉えた。 「お帰りなさいませ」 「どうしたのさ。帰ったんじゃなかったのかい?」 リチャードは、少し首をかしげた。キャロルは笑おうとしたが、口元が奇妙に引きつっただけだった。 「帰ったんですが、帰る場所が、なくなってしまいまして」 「ははぁ。そりゃ大変だ」 リチャードはその真相をすぐに察したが、表情には出さなかった。キャロルは門から背を外し、頭を下げる。 「他に、行くところが思い当たらなかったので。申し訳ございません」 「とりあえず、屋敷に入ろうよ。着替えないと。風邪引いちゃうよ」 ね、とリチャードが笑うと、キャロルは雨の冷たさで強張っていた顔を、更に強張らせた。 「…ですけど」 「屋敷には君の仕事着もあるじゃないか。それに、いっそのこと、そのままいてくれたっていい」 リチャードはキャロルに歩み寄り、少女の頭上に傘を翳す。 「僕は君を雇っているわけだから、その延長線上で住み込みにしたっていいだろう?」 キャロルの目が、リチャードを見上げていた。彼女は表情を少しだけ緩ませたが、それでもまだ固かった。 リチャードは、水分を含んでへたった彼女の髪に触れた。随分長く雨に打たれていたのか、冷え切っている。 「ね?」 「はい」 小さく頷いたキャロルは、僅かに笑った。心底嬉しかったが、体が凍えていて上手く表情が出せなかった。 よろしい、と頷いたリチャードは、門を閉ざしている錠前に鍵を差し込んだ。錠前を開け、門を押し開く。 「それじゃ、お風呂でも沸かそうじゃないか。けど、君が火を起こす必要はないよ」 門を開けたリチャードはキャロルを見下ろし、にっと笑いかける。 「僕には魔法があるから」 リチャードの差し掛けた傘の下、キャロルは慎重に歩いていた。気を抜けば、すぐにでも眠り込んでしまいそうだ。 共同住宅を飛び出したあと、散々旧王都の中を走り回ったからだ。父親の会社、サンダース製作所にも行った。 だが、案の定閉鎖されていた。従業員達も見当たらず、小さな工場の中も荷物が消えていて空っぽになっていた。 他にも、思い当たる場所は全て探した。だが、どこにも父親の姿はなく、雨の降る街を当てもなく彷徨い歩いた。 気付いたら覚えている道を辿っていて、ヴァトラスの屋敷にやってきていた。少しだけ、期待していたからだ。 その期待通りに、リチャードがやってきてくれた。それがこの上なく嬉しくて、キャロルは傍らの彼を見上げた。 安心したからか、涙が滲んで視界がぼやけていた。冷たいはずの体が熱く、おかしいな、と思ったが遅かった。 屋敷に入る前に、キャロルは意識を失っていた。 夢を見ていた。 温かで心地良い、優しい夢だった。柔らかな枕に顔を埋めてその余韻を味わっていたが、薄く目を開けた。 ずきずきと重たい頭と、節々の痛みで夢の余韻は掻き消えた。キャロルは頭痛に顔をしかめ、小さく唸った。 「いたぁ…」 自分の声すらも頭に響き、痛みが増してくる。出来るだけ遅い動きで体をずらしていき、天井を見上げた。 それが、いやに広く高かった。共同住宅の寝室にしては広すぎる上に、枕も布団も柔らかく寝心地が良い。 自分の枕と布団は、長年使い込んだせいで綿が潰れているはずなのに。キャロルは、何回か瞬きしてみた。 熱で潤んでいた目に、周囲の様子が見えてきた。視線をずらすと、ベッドの傍らにリチャードが座っていた。 リチャードは足を組んでいて、膝の上に本を広げていた。キャロルが起きたことに気付くと、やあ、と笑う。 「調子はどうだい、キャロル」 「あたまが」 がんがん、と続けたくとも出来なかった。キャロルが痛みに顔を歪めていると、リチャードは手を伸ばした。 少女の額に手を当てて、温度を確かめていた。思い掛けないことに、キャロルは呆気に取られてしまった。 しばらくしてから手を放したリチャードは、椅子に座り直した。膝の上の本を閉じてから、心配げにする。 「相当熱があるね。後で、薬でも持ってきてあげるよ」 「すみません」 キャロルは発熱とは違う熱で、頬が熱くなった。服の感触が違うので布団を上げてみると、着替えていた。 色の褪せたエプロンドレスとは違う、肌触りの良い少々大きめの寝間着を着ていた。キャロルは、ぎょっとする。 「…あ」 「ごめんね。あのままじゃ、もっと具合が悪くなると思ったから、着替えさせたんだけど」 と、申し訳なさそうにリチャードは眉を下げた。キャロルは気恥ずかしかったが嬉しく、首を横に振る。 「いえ。その、ありがとう、ございます」 リチャードは、狼狽えたように目を動かすキャロルを眺めていた。顔色は大分悪かったが、表情は戻っていた。 それに安堵しながらも、容易いな、と思っていた。フィリオラにせよキャロルにせよ、少女を扱うのは簡単だ。 優しさと易しさの区別を知らないのだから、こちらがどんなことを腹に含めていようと、表面しか見ていない。 とりあえず笑って穏やかに言葉を掛ければ、それだけで信用する。好意を見せれば、すぐに好いてきてくれる。 こんなに楽なものはない。リチャードが内心で悦に浸っていると、キャロルは顔を動かし、こちらを見上げた。 熱で潤んだ瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。とても嬉しそうで、幸せそうな色を帯びた眼差しだった。 リチャードはそれを見返しながら、笑った。だが、心中では、これから彼女の扱いをどうするか考えていた。 思っていたような利用価値はなくなった。しかし、手元に置いておくのも悪くない。その間で、少し迷っていた。 ならば、彼女に決めさせるのも悪くない。リチャードは本をベッド脇のテーブルに置くと、ポケットを探った。 角張った金属を握り締め、取り出した。滑らかに磨き上げられた大振りの歯車を、彼女の目の前に差し出した。 「これが解るかい?」 キャロルは、自分の顔が映る銀色の歯車を見つめた。それが何かすぐには解らなかったが、文字を見つけた。 途端に、目を見開いた。小さく息を飲んだキャロルは、リチャードと歯車を見比べてから、小さく呟いた。 「これって…」 「アルゼンタムの、胸部の歯車だよ。魔導鉱石と魔導金属で出来た魔力式原動機から発せられる動力を、両腕に伝えるために必要なものさ。これは、捜査本部から借りてきたんだ。ギルディオスさんが滅茶苦茶に壊したアルゼンタムの部品の中で、唯一無事だった歯車なんだけどね」 彼の声を聞き、キャロルは唇を震わせた。歯車に刻まれた魔法文字は、昨夜に自室で見たものと同じだった。 リチャードは歯車を彼女の目の前から下げるとポケットに入れ、座り直した。背を丸めて、頬杖を付く。 「そう、見覚えがあるんだね。やっぱり、最後ぐらいはボロを出すんだなぁ」 なにが、と問おうとしたキャロルに、リチャードは普段通りの親しげな笑みを向けてくる。 「僕は、これを君のお父さんに見せたんだ。そしたら、逃亡されてしまったよ」 リチャードは、平然としていた。 「僕は魔導師協会からアルゼンタムの調査を任されていたんだけど、その関係でアルゼンタムの出所も探っていたんだ。あれほど精密で見事な機械人形を造るには、確かな腕を持った技術者も必要だからね。グレイス・ルーは、呪術師であると同時に優れた魔導技師だけど、機械を造れるほどの技術は持ち合わせていないんだよ。だから、協力者がいるはずだ、と思って探してみたんだ。なに、至って簡単なことさ。魔導鉱石と魔導金属を頻繁に入荷していながらもそれを含んだ製品を造っていない旧王都近辺の業者を探したんだ。それも、あまり大きくない工場をね。グレイス・ルーはあんまりそっちには手を回していなかったらしくて、すぐに該当する業者が見つかったんだ」 リチャードの目には、怯えた表情のキャロルが映っていた。 「それが、君のお父さんの会社、サンダース製作所だ」 絶望で光の失せた瞳で虚空を見つめるキャロルに、リチャードは続ける。 「だけど、僕が君を雇っているのは偶然だ。サンダース製作所がそうだと知ったのは、ここ一ヶ月の間のことだ」 薄暗い窓の外では、無数の雨が下へ落ちていく。 「知った時は、しめたと思ったよ。僕は、君をサンダース氏への取引材料にしようと考えていたんだ。君を盾にして、グレイス・ルーとの関係の始まりやアルゼンタムを造った経緯を、聞き出そうと思っていたんだけど、当てが外れてしまった。あの人は見かけの割に臆病だったらしくて、僕がちょっと脅しを掛けたら、さっさと荷物をまとめて旧王都から逃げ出してしまった。それも、娘を置いてね。きっと、君は切り捨てられてしまったんだろうね。連れていく意味もないし、連れていたところでいいことはないと察したんだろう」 雨音が、リチャードの穏やかな口調を引き立てていた。 「まぁ、それ以外にも細々とした前科があるみたいだし、後ろめたかったんだろうな、サンダース氏は。にしたって、ひどい親だよ。まぁ、そこまで追い込んじゃった僕が言えた義理じゃないけどね」 キャロルは、息をするのを忘れていた。ただ捨てられただけでなく、利用されかけていたとは思わなかった。 それも、思いを寄せているリチャードに。頭痛と倦怠感があるからか、衝撃が弱かったのが僅かな救いだった。 なぜ、リチャードはこんな話をするのだろうか。キャロルは信じがたい思いで目を動かし、リチャードを見据えた。 「歌劇場での一件でも解っていたとは思うけど、これが僕という人間だ」 彼は、笑っている。 「目的のためには他人を利用するだけ利用して、犠牲とすることを厭わない。むしろ、切り捨てていく」 淡々と、声は続く。 「君もその一人だ。犠牲とするために、利用した。それでも、君は」 雨音が、消えた。 「僕を、信頼するかい?」 05 12/27 |