外から聞こえる雨音が、静寂を作っていた。 屋根を叩く雨音が優しく、時折吹き付ける風が窓を揺らしていく。柱時計の長針が、かち、と一目盛り動いた。 そうだったんだ。そうなんだ。時間と共にキャロルは状況を理解していったが、絶望は感じていなかった。 熱で朦朧としているせいかもしれないが、負の感情は起きない。それどころか、少し、嬉しさがあったほどだ。 利用されていた。リチャードにとって、利用価値があった。彼の役に立てていたのだ。そう、思ったからだ。 それが例え、ただの道具に過ぎなくても、リチャードに一時であっても必要とされていたことに変わりないのだ。 求められたことなんて、今までに一度だってあっただろうか。邪険にされてばかりで、そんなことはなかった。 独り善がりで、自分に都合の良すぎる解釈だというのは解っている。それでもやはり、嬉しくて仕方なかった。 「はい。私は、リチャードさんをお慕いしています」 キャロルは、リチャードに向いた。 「変だと、思われるかもしれませんけど。私、今まで、誰にも必要とされたことなんてなかったんです。ですから、利用されたんだって聞いたら、必要とされていたんだって思って、それが凄く嬉しくて、本当に」 キャロルは枕に押し当てていた頬を上げ、精一杯の笑顔を浮かべた。 「ですから、これからもずっと、利用していて下さい。リチャードさんにとって、価値があるかは解りませんけど」 思ってもみなかった答えに、リチャードは珍しく言葉に詰まった。利用されていたことを、嘆くどころか喜ぶとは。 余程、キャロルの十四年の人生は悲惨だったのだろう。リチャードは、少しばかり彼女に同情してしまった。 参ったな、とリチャードは内心で呟いた。今までは利用していたことを嫌悪されこそすれ、感謝などされなかった。 それが普通だし、ごく当たり前の反応だ。だから、キャロルの答えはかなり意外であり、戸惑いすら覚えてしまう。 てっきり、幻滅されて罵倒されるかと思っていた。多少拍子抜けしながらも、リチャードは平静を保っていた。 「本当に、そう思っているのかい?」 「はい」 キャロルは、即座に頷いた。リチャードは困ってしまい、曖昧に笑った。 「そうかぁ…」 「あの、いけませんでしたか?」 「いや、いけなくはないけどね、うん」 リチャードは言葉を濁しながら、前髪を乱した。キャロルは、良かった、と安心したように漏らし、目を閉じた。 それからすぐに、キャロルは寝息を立て始めた。頭痛で眉根をしかめながらだったが、心なしか落ち着いている。 リチャードはその寝顔を見ていたが、ため息を零した。口の中で、参ったな、と呟いてから窓の外へ目を向けた。 朝日が昇り始めているのか、雨空が白んでいた。雨も次第に弱まってきていて、今日中に止むことだろう。 喜ぶべきなのかそうでないのか、解らなかった。他人を利用することが良くないことであるのは、知っている。 だが、利用しなければ事は上手く運ばないし、他人は利用してこそだと思っているから、罪悪感は感じなかった。 それでも、いいことではないとは理性で解っている。彼女に感謝されると、悪事を褒められたような気分だった。 複雑な心境になりながら、リチャードは椅子に深く腰掛けた。ぎしり、と背もたれを軋ませて天井を仰ぎ見た。 天井と壁の境目ほどには、ヴァトラスの家紋であるスイセンの紋章が刻まれた浮き彫りが、埋められていた。 「参ったなぁ」 リチャードは、本当に困ってきてしまった。キャロルを見ても、彼女は深く寝入っていて、起きる気配はない。 先程言った通り、薬と食事を見繕ってこよう。キャロルが倒れているままでは、屋敷の中が荒れてしまう。 椅子から立ち上がると、本を脇に抱えて部屋から出た。雨の湿気が満ちている廊下を、足早に歩き出した。 古びた屋敷には、雨音と足音だけが響いた。 二日後。キャロルは、全快していた。 リチャードからもらった薬を飲み、消化に良いものが中心の食事を摂り、一日のほとんどをベッドで過ごした。 そのおかげで熱は一晩で下がり、頭痛も消えて倦怠感もなくなった。なので、今日からは起き上がっていた。 体は本調子ではなかったが、出来る仕事はやれる限りやった。仕事をしていなければ、不安になってしまう。 リチャードに対して返せるものがあれば、少しでも返したかった。だが、何も返せていない、と感じていた。 キャロルの体調と同じく回復した空は、青々としていた。その下ではためく洗濯物を取り、両腕に抱える。 澄み切った空を緑色の瞳に映していたが、瞼を伏せた。今、リチャードに対して返せるものなど何もない。 共同住宅から持ってきた荷物に至ってもほんの一抱えしかないし、財産らしい財産は全て父親が持ち去った。 となれば、返せるものは一つだ。キャロルは洗濯物の下でぎゅっと手を握り締め、唇を真横に引き締めた。 彼が相手なら、リチャードに差し出すのならば、後悔しない。むしろ、そうなることを望んでいる部分もある。 キャロルは重厚なヴァトラスの屋敷を見上げ、決意した。躊躇いや迷いは、ほんの少しも出てこなかった。 爽やかな風が、黒いメイド服のスカートを揺らした。 その夜。キャロルは、自室で身を固くしていた。 決意したことでも、いざ実行に移そうとすると、さすがに緊張してしまった。何せ、初めてのことなのだから。 彼も男なのだから、受け入れるはずだ。キャロルは抱きかかえていた枕を置いてから、ベッドから立ち上がった。 靴を履いて扉を開け、ひっそりと薄暗い廊下に出た。後ろ手に扉を閉めてから、ランプを忘れたことに気付いた。 だが、部屋に戻っては決意が鈍ってしまいそうだと思い、キャロルは明かりを持たないまま廊下を歩き出した。 床に靴底が当たる硬い音が、天井に反響している。壁に片手を当てて慎重に進んでいき、幅の広い階段を昇る。 三階の廊下にやってくると、一度、足を止めた。左手の壁にずらりと並ぶ扉の、手前の二番目が彼の自室だ。 キャロルは詰めていた息を深く吐いて、冷たい空気を胸一杯に吸い込んでから、その扉の前に歩み出た。 金属製のスイセンの浮き彫りが填め込まれた、飴色の扉を数回叩いた。中から、リチャードの声が返ってきた。 「失礼します」 キャロルは扉を開けてから頭を下げ、後ろ手に閉めた。リチャードは仕事の途中なのか、机に向かっている。 机の左端に置かれた鉱石ランプが青白い光を発していて、それに照らされている彼の肌もほのかに青白かった。 リチャードは掛けていた度の弱いメガネを外し、折り畳んで書類の上に置くと、椅子を回して立ち上がる。 「どうしたのさ、キャロル」 キャロルは目を伏せてしまったが、すぐに上げた。リチャードを、真正面から見据える。 「お礼に参りました」 「なんだって?」 リチャードは、面食らった。キャロルは頷く。 「ここまでお世話をして頂いたのに、何もお返しが出来ないのは心苦しいのでございます」 「僕は別に、気にしちゃいないけど」 リチャードは笑い気味に返したが、キャロルは首を横に振る。 「いえ。私が気にするのでございます」 リチャードは、かなり思い詰めた表情のキャロルを見下ろした。ここまで来ると、さすがに予想が付いていた。 大方、彼女は自分を差し出すつもりなのだろう。家も財産も失った女が行き着く先は、そうであるのが定番だ。 十四歳の少女とはいえ女は女なのだから、やって出来ないことはないだろうが、あまりやる気は起きなかった。 そもそも、キャロルを性愛の対象として捉えたことはない。十八歳のフィリオラならまだしも、彼女は十四歳だ。 女としての機能は不充分だし、体形が丸みを帯びていない。そんな子供の彼女に、欲情するほど飢えていない。 確かにキャロルは愛らしい顔立ちの娘だが、リチャードがその気になるには、あと三年は成長しなくてはダメだ。 リチャードは、呆れてしまった。ただ、少しばかり好意を見せて優しく扱っただけで、何もここまで慕わなくとも。 従者としては立派すぎるほど立派だし、ある意味では正しいかもしれないが、人間としては良いとは言えない。 リチャードはため息を零してから、キャロルに背を向けた。徹底した服従などされても、あまり面白くはない。 「あのねぇ。僕は、そういうことのために君を手元に置いたわけじゃないんだよ」 「ですけど」 思い掛けない態度に、キャロルは声を落とす。リチャードは、腕を組む。 「そりゃ、世の中の金持ちには君みたいな子を手元に置いて寵愛する人間はいるし、その方が多いだろうけど」 リチャードの口調は、つまらなさそうだった。 「僕はそれほど低俗な人間じゃない。僕は、君を利用するためだけに、手を差し伸べてやっただけなんだから」 「承知しております」 「今だって、そんなもんだよ。君が僕の手中にあれば、フィオちゃんをまた利用出来るかもしれないし、もしかしたらそれ以外の利用価値が見出せるかもしれないし、サンダース氏が君を頼って舞い戻ってくる可能性も全くないわけじゃないし、そしたらまたグレイス・ルーに繋がる道が出来るかもしれない。だから、ここに置いているだけだ。他の理由は、ない」 リチャードの声は、次第に冷淡になる。 「君は僕に期待し過ぎる。そして、幻想を抱き過ぎている。君が思っているほど、僕は優しくもないし慈悲深くもない」 「承知しております」 「だったら、どうしてそこまでして僕に尽くすんだい? 返ってくるものなんて、何一つないよ」 リチャードは、キャロルに振り返った。キャロルは締めていた唇を開いた。 「それでもいいと思ったからでございます」 「見返りはいらない、と?」 「はい」 キャロルには、少しも迷いは窺えなかった。リチャードはそれが理解出来ず、不可解そうにする。 「全く?」 「見返りなんて、あるものだなんて思っておりません」 キャロルは、僅かに口元を綻ばせた。笑っているようでもあったが、悲しげでもあった。 「私は、ずっと、そういう世界に生きておりましたので、これからもそういう世界に生きていくのです」 「なるほどね」 リチャードは組んでいた腕を解き、腰に手を当てる。 「でも、まるっきり求めていないわけじゃないんだろう? 現に、君はこうして僕の部屋に来たわけだから」 「そう、なってしまうのでしょうか」 消え入りそうなほど小さな声で、キャロルは答えた。リチャードは、暗闇に佇む少女を眺める。 「そうさ。君は、僕に抱かれることを前提にここに来ている。だが、それは君だけの意思ではどうにもならない。僕が君をそういう相手として認識して欲情しなければ、そういうことは出来ないからね。けれど、それにはまず、僕が君に欲情するという、すなわち好意を抱いているという前提がもう一つ必要になるわけだ。けれど、僕は君をそういう目では見ていない。だから、僕が君を抱くことなど有り得ないんだ」 彼は、語気を強めた。 「つまり、僕は君をなんとも思っちゃいないんだ」 そんなことは、とっくに解っている。キャロルはそう思ったが口には出さず、リチャードの薄茶の瞳を見つめていた。 それでもいい。そのままでも、構わない。どうせ、釣り合いもしない相手だし、引き合う部分も少しもないのだから。 こちらが、勝手に彼に好意を抱いただけだ。独り善がりな思い込み、自分勝手な憧れ、そして、一方的な愛情だ。 それが届くなんて、解ってもらえるなんて、有り得ないのだから。リチャードの心は、見た目よりもずっと頑なだ。 リチャードの心が開いている様は、一度だって見たことはない。人当たりの良い笑顔も態度も、作ったものなのだ。 最初は、それが本物だと思っていた。だが、こうして長く傍にいると、彼の本性は笑顔の仮面の下にあると解る。 しかし、その本性が露わになることは決してない。それと同時にリチャードは、本音も本心も何も見せはしない。 だから、自分の言葉がリチャードの心に届くなんて思っていない。彼は、分厚い壁で己を覆い隠しているのだから。 それでも、構わない。キャロルは表情を少しも変えないリチャードを見上げ、緊張で少々強張った笑顔を見せた。 「承知しております」 「…全く」 やりづらくなって、リチャードは顔を逸らした。まるで言い返されないと、却って切り返しに困ってしまう。 「君という人間が解らないよ。そこまで僕に執心する理由は何なんだい?」 気恥ずかしげに目線を彷徨わせたキャロルに、リチャードは彼女の執心の理由を察した。 「ますます解らない。僕はね、自分で言うのもなんだけど最低な人間だと思うよ。そんな人間に好意を抱いたところで、行き着く先は見えているじゃないか。僕なんかを愛しても、ますます不幸になるだけだ。解っているだろう、それぐらい。君は頭が良いんだから」 「私は、今は、それほど不幸ではございません」 「そりゃまたどうして。君は不幸の固まりみたいなものじゃないか。母親に逃げられて、父親に捨てられたんだから」 「確かに、私は両親から不要とされた存在かもしれませんが、今は、必要とされているからでございます」 キャロルは、微笑んだ。 「それだけで、充分なのでございます」 「やれやれ」 呆れ果て、リチャードは変な笑いを作った。キャロルとの間を詰めると、真正面から少女を見下ろす。 「君は欲が薄いなぁ。もうちょっと、欲がなきゃ生きていけないぞ?」 「欲しいと思っても、手に入れられなければ悲しくなるだけなのです。ですから、欲しないのでございます」 淀みなく言ったキャロルに、リチャードは手を伸ばして彼女の顎を掴み、くいっと持ち上げる。 「本当に?」 「本当に、ございます」 リチャードの指の感触に頬を紅潮させながら、キャロルは返した。 「私は、両親の愛を欲しておりました。魔法さえあれば手に入れられると思い込んで、フィリオラさんに弟子入りし、魔法を修練しておりました。ですがある時、フィフィリアンヌさんのお城にいらっしゃる伯爵さんから、魔法で人の心を操っても本当の愛情は得られない、と諭されたのです。私はそれが真実であると思いました。そして、こうも思ったのです。愛情なんて求めて得るものではないのだから、求めなければいい、と、思ったのでございます」 「そりゃそうだ」 リチャードは納得したように頷いてから、身を屈め、キャロルに顔を寄せる。 「けれど、真実と本心は別物だ。欲してはいけない、と欲していることを否定しているのだから、結局は欲しているんじゃないか。君は、愛情を求めて止まないってことだ。自分に嘘を吐いちゃいけないな」 「嘘ではございません」 「いや、嘘だね。自分を取り繕うのは苦しいだけだよ、素直になれば楽になれる」 リチャードの声色は、優しくもあったが狡猾さも含んでいた。 「素直になればいい。要は、君は僕が欲しいんだろう。そうじゃないのかい?」 キャロルを見下ろしているリチャードの目は、開いていた。鉱石ランプの光を受けた薄茶の瞳が、輝いている。 「恋心ってのは、生き物の本能だ。子孫繁栄のために、まぐわう相手を欲する欲望に過ぎない。君は、僕にそれを抱いている。それが欲望じゃないなんて言わせない。いや、欲望でないはずがない。下心のない恋心なんてないし、愛情も無償で与え続けられるほど人間は無欲じゃないんだからね」 リチャードは背を曲げて、少女と目線を合わせた。キャロルのすぐ目の前で、柔らかく笑ってみせる。 「さあ、言ってごらん。キャロル」 間近で囁かれた名前に、キャロルはぞくりとした。悪寒にも似た、だがそれよりも心地良い感覚が体を走った。 この人は、こうして自分の世界に引き込もうとする。様々な言葉を並べて、心の中に踏み入ってくるのだ。 これには逆らってしまいたかったが、リチャードに逆らいがたい気持ちの方が強く、キャロルは少し迷った。 リチャードの言うことは、いちいち筋が通っている。もっともらしい言い回しと言葉で、そうだと決め付けてくる。 だが、そうではない。本当に、見返りなどいらない。リチャードからの愛情など、欲しても得られないのだから。 愛情など与えられないのだから、与えるだけでいい。リチャードに、ずっと、与えていたいとすら思っていた。 キャロルは緊張と高揚で震えてしまいそうな手を握り締め、目を強めた。リチャードの瞳に、自分が映っている。 「欲しくは、ございません」 「ほう?」 「私という存在を、欲していて下さっていてほしいのでございます」 「例えば?」 「ご用のある時に呼び付けて下さい。必要な時に仕事を命じて下さい。ずっと、私をお使い下さい」 キャロルは、声を張った。 「それが、私の幸せにございます。私が欲するのは、私がいられる場所だけでございます」 「大した信念だねぇ。それじゃ、それがどこまで持つか試してみようじゃないか。君は遊び甲斐がありそうだし」 「と、仰いますと?」 不思議そうなキャロルに、リチャードは楽しげに笑った。おもちゃを得た、子供のようだった。 「僕は、君を攻めてみようと思うんだ」 「せ、攻め?」 「そう。僕が君を弄ぶんだ。君が僕を求めたくなるほど、徹底的にやってやろうじゃないか」 最後までは行かないけどね、とリチャードは付け加えた。キャロルは、きょとんと目を丸めている。 「はぁ…」 「んじゃ、手始めに」 リチャードはキャロルの顎を引き寄せ、唇を少し開かせた。リチャードは彼女の薄い唇に、己の唇を押し当てる。 突然のことに、キャロルは驚いた。慣れない感触が唇にあり、体温が感じられ、すぐ近くにリチャードがいる。 痛いほど高ぶった鼓動が胸の中で暴れ、頬が熱くなってくる。開かされた唇の間を、彼の舌先がなぞっていく。 柔らかくぬめった舌が、焦らすようにゆっくりと動いた。キャロルが戸惑っていると、リチャードは顔を放した。 「ま、これくらいで」 そう言ったリチャードは、口元を拭った。キャロルは動揺で力が抜け、ぺたっと床に座り込んでしまった。 今、何をされたのかは解っている。だがそれを、すぐに理解出来なかった。あるはずがない、と思っていたから。 リチャードが何か言っているのが聞こえたが、内容までは入ってこなかった。動揺と混乱が、思考を乱していた。 キャロルは真っ赤になったまま、俯いた。こんなことがずっと続いてしまったら、間違いなく彼を求めてしまう。 恋心を利用された底意地の悪い計略だ。それでも、不思議と悪い気はせず、むしろ嬉しさが込み上げてきた。 形はどうあれ、初めての口付けの相手が思い人だったのだから。 翌朝。キャロルは、戸惑っていた。 ベッドから体を起こすと、隣にはリチャードが眠っている。気持ちよさそうな顔をして、枕に縋っている。 昨夜のことが、そのまま続いているのである。キャロルは部屋に帰ろうとしたが、強引にベッドに引き摺られた。 一緒に寝なさい、とリチャードに言われ、それに従った結果だった。といっても、情交にまでは及んでいない。 キャロルは朝焼けの差し込む縦長の窓を見上げ、ぼんやりしていた。リチャードの温もりが、体に残っている。 どこまで君が耐えられるか、ということで、寝付くまでリチャードの腕の中にいた。これも、初めてのことだ。 キャロルは寝乱れた髪を手で整えてから、ベッドから下りようとした。すると、寝間着のスカートが引っ張られた。 「こら」 「ひゃっ!」 不意のことにつんのめったキャロルは、ベッドの柱に掴まった。振り返ると、リチャードが裾を握っている。 「勝手に出ていかない」 「あ、ですけど、朝食の準備をしませんと」 キャロルが慌てると、リチャードは起き上がってキャロルの細い腕を掴み、引き寄せた。 「そんなもんは後でもいいさ」 「ですけど」 キャロルは掴まれている腕を伸ばし、頬を染めた。右腕を握っているリチャードの手は、大きく温かかった。 リチャードはキャロルをもう一度引っ張り、ベッドに座り直させた。少女は、身を固くして座っている。 「ちょっと思ったんだけどさ」 「はい」 「せっかくだから、もうちょっと面白くしたいと思うんだよね。僕が君で遊ぶのを」 キャロルが訝しげな顔をしたので、リチャードはにっと笑った。 「勝負にしよう。キャロルが僕を求めちゃうようになったら、キャロルの負け。その場合は、僕は君を手放す。逆に、僕がキャロルに対して本当にその気になっちゃったら、僕の負け。そうしたら、そうだな、何をどうするのがいい?」 急にそんなことを言われても、そう思い付くものでもない。キャロルは顔を伏せ、戸惑いながらも悩み始めた。 リチャードは彼女の腕から手を放し、ベッドの上に胡座を掻いている。楽しげな顔で、彼女の答えを待っている。 キャロルはある言葉が思い当たっていたが、それは以前にフィリオラがリチャードに対して言ったことだった。 それを言うのは、フィリオラへの裏切りのように感じてしまった。フィリオラは、公平に行こうと言ってくれたのに。 しかし、それ以外にはまるで思い付かなかった。キャロルはしばらく迷っていたが、意を決し、顔を上げた。 「私が、リチャードさんに勝ったら」 キャロルは、ぎゅっとシーツを握り締めた。 「私を、お嫁さんにして下さい!」 「了解。んじゃ、お互いに頑張ろうじゃないか」 リチャードは意地悪く笑い、キャロルに顔を寄せた。キャロルが逃げる間もなく、リチャードは彼女の唇を塞いだ。 苦しげな唸りが漏れ、彼女はぎゅっと目を閉じた。柔らかな頬に軽く触れると、発熱した時のような熱があった。 昨夜と同じく、唇を割って舌を滑り込ませる。動こうとしないキャロルの舌をまさぐってから、唇をそっと放した。 途端にキャロルは脱力し、小さな肩を落とした。見るからに緊張していて、眉は下がっていたが頬は真っ赤だった。 キャロルは呼吸を整えてから、ベッドからずり落ちるように下りた。靴を履いてメイド服を取ると、頭を下げる。 「そっ、それでは朝食の準備をして参りますので!」 キャロルは急いでリチャードに背を向け、小走りに部屋を出ていった。廊下を、体重の軽い足音が遠ざかっていく。 リチャードは頬杖を付くと、今し方までキャロルの寝ていた場所を見下ろした。布団に、小柄な窪みが出来ている。 その部分に触れると、まだ体温が残っていた。甘ったるい少女の残り香も、生暖かい部屋の空気に残留している。 誰かと一緒に目覚めるのは、どれくらいぶりになるだろう。リチャードは思い出そうとしてみたが、出来なかった。 幼い頃しか、そんな経験はない。レオナルドがうんと小さい頃に、両親がまだ家庭を顧みていた頃の出来事だ。 あの頃が、一番幸せだった。レオナルドの念力発火能力が発現した三歳半以降は、日に日に家は冷えてきた。 幼い弟の能力を持て余した両親と、己の力に振り回されて泣き喚く弟、そして、それを傍観するしかない自分。 リチャードは物思いに耽りそうになったが、意識を戻した。天井を見上げると、屋敷に潜む意思に話し掛けた。 「なぁ、ヴァトラ」 答えはない。それでも、リチャードは言った。 「この勝負、どっちが勝つと思う?」 昔は、彼が一番の友達だった。尋ねれば、なんでも答えてくれた。深い知識の底から、様々な言葉を返してきた。 だが今はもう、ヴァトラの言葉は聞こえない。何度尋ねても、魔力の波長を合わせても、何一つ聞こえてこない。 久々に、それが寂しいと思った。リチャードは内側から彼の声が聞こえないのを残念に思いながら、呟いた。 「君なら、解ると思うよ。どっちが勝つのかは」 窓の外では、小鳥がさえずっていた。一際高くそびえ立つ時計塔から、重厚な鐘の音が繰り返し響いてくる。 優しく温かな日差しが庭を照らし、朝露に濡れた木々の葉を白く輝かせていた。空は、高く晴れ渡っている。 リチャードは差し込んでくる朝日の鋭い眩しさで、細い目を更に細めながら、彼女の名残に手を置いた。 温もりが消えてしまうのが、惜しかった。 絶望に満ちた夜が明け、僅かな希望を生み出す暁が昇った。 打算と計略を好む魔導師は、純粋なる少女に、一つの勝負を仕掛けた。 互いの心を探り合い、互いの心を開かせるための、意地の悪いものだった。 二人の勝負の行方を知るのは、物言わぬ屋敷だけである。 06 1/5 |