フィリオラは、心細くなっていた。 目を覚ましたら、見知らぬ部屋だった。無機質な灰色の石壁に囲まれていて、硬いベッドに寝かされていた。 手が痛いと思ったら、スイセンを模した銀の髪留めをきつく握り締めていた。右手を緩めてから、身を縮めた。 あまり柔らかくはない布団の中で、体を丸める。ベッドの脇に窓はあるが、そこから見える空は薄暗い。 夜明け前なのか、それとも夕方に入ったばかりなのか。そのどちらなのか解らず、余計に不安は増した。 フィリオラは己を抱き締めるように二の腕を握り締めて、気付いた。肌触りのいい布ではなくなっている。 布団と同じく、強張った布地だった。指を滑らせていくと刺繍がされていたが、触っているだけでは解らない。 フィリオラは恐る恐る体を起こし、布団をめくり上げた。部屋の大きさは、共同住宅の居間程度のものだった。 ベッドの上に座り込み、首を左右に動かした。壁の外から音はせず、衣擦れの音だけがいやに響いている。 ここは、どこなのだろう。スイセンの髪留めを落としたので、それを捜しに行ったところまでは、覚えている。 だが、その後が記憶にない。狭い路地に入って髪留めを見つけたが、その直後から記憶が断ち切られている。 思い出そうとしても、何も出てこない。フィリオラはとてつもない不安と恐ろしさに襲われ、泣きそうになった。 「…うぅ」 泣いてしまったら、ますます心細くなる。フィリオラは滲んできた涙を拭うと、右手を握ってから開く。 「星より溢れし、空より注がれし輝きよ。大地を照らし、水を温ます慈しみよ。我が手の下に!」 手のひらから現れた光の球体が、柔らかな光を発しながら浮かび上がり、灰色の部屋が明るく照らし出された。 手狭ではなかったが、飾り気もなかった。見るからに壁は分厚そうで、触れてみるとひやりと冷たかった。 縦長の窓は、鍵が施錠されている上に外側には鉄格子が填っていた。簡単には、出られないようにしてある。 扉は金属製で、これもまたかなり頑丈そうだった。内側には鍵穴はないようなので、外側にはあるのだろう。 フィリオラはベッドから下りたが、自分の靴がなかった。野暮ったい革靴があったので、それに足を入れる。 明かりの下へ出て、窓へと向いた。薄暗い空を背景に、見慣れない服装をしたツノの生えた少女が映っていた。 暗い赤色の作業服にも似た服だったが、形状が違っているように思える。先程触れた刺繍が、左腕にあった。 それは、共和国軍の紋章だった。フィリオラはますます訳が解らなくなって、その刺繍を引っ張ってみる。 「え?」 軍の紋章があるということは、この服を与えたのが軍だというのだろうか。となれば、ここは軍の施設なのか。 フィリオラは混乱してきた。軍に捕まったのかもしれない、と思ったが、軍に対して何かをした覚えはない。 軍の基地には近付いたことなんて一度もないし、近付くはずがない。共和国軍は、関わるはずもない組織だ。 それどころか、一生縁のないものだと思っていた。フィリオラはふと思い出し、顔を上げて部屋を見回す。 「私の服、どこ?」 部屋に置かれているものは、ベッド以外には小さなテーブルと椅子が二脚しか物はなく、かなり殺風景だった。 昨日着ていた淡い桃色のワンピースは、どこにも見当たらない。着替えされられた時に、奪われたのだろうか。 レオナルドが褒めてくれた服なのに、と思うと悔しくなってきた。だが、何をどうすればいいのか解らない。 脱出しようにも窓は開けられないし、魔法を使おうにも白墨がない。魔法陣がなければ、制御が乱れてしまう。 フィリオラはしばらくの間、ぼんやりと突っ立っていたが、仕方なくベッドに座った。指を弾き、光球を消した。 足をぶらぶらさせていると、無性に泣きたくなってきた。もう、ここから一生出られないような気になっていた。 ブラッドはどうしているだろうか、レオナルドはどうしているだろうか、ギルディオスはどこにいるのだろうか。 会いたい、と思った途端に涙が溢れてきた。泣いてはいけない、と思っても次から次へと流れ出してきてしまう。 フィリオラは奥歯を噛んで泣き声を堪え、肩を震わせる。ぼたぼたと膝に水滴が落ち、水の染みが増えていく。 ぐいぐいと力任せに目元を擦っていると、扉が叩かれた。フィリオラが返事をする前に、錠が外れる音がした。 扉が開くと、そこには背の高い男が立っていた。褐色の肌をした、きつい印象の顔立ちの男が入ってくる。 フィリオラが身動ぐと、男は威圧感のある眼差しで見下ろしてきた。険しい表情に合った、険しい口調で言う。 「許可なく魔法を使用するな」 「はい?」 フィリオラがきょとんとすると、男は語気を強めた。 「ここではお前の経歴など関係ない。規律に従わなければ、即刻罰則を下す」 「ちょっと、明るくしただけじゃないですかぁ」 また泣きそうになりながらフィリオラは身を縮めると、男は強く言い放った。 「口答えをするな! 立場を弁えろ!」 その言葉のきつさに、フィリオラはびくりと肩を跳ねた。何がなんだか解らないが、責められているのは確かだ。 反射的に謝ろうとすると、男の背後に女性がやってきた。作業着を着ていて、上だけ脱いで袖を腰で縛っている。 金髪で青い瞳を持った可愛らしい顔立ちの女性で、シャツの胸元は張り詰めている。彼女は、男を見上げた。 「副隊長、それぐらいにしてやったらどうです? この子、心細くて泣いちゃってたんですから」 「何事も最初が肝心だろうが」 副隊長と呼ばれた男は、不満げに漏らした。女性は、壁まで身をずり下げたフィリオラの傍までやってくる。 「ごめんなさいね。この人、別に悪気があったわけじゃないの。根っからの軍人だから、こういう性格なの」 怯えた目のフィリオラを見下ろし、女性は明るい表情で笑う。 「ギルディオス・ヴァトラスには、後ですぐ会わせてあげる。だから、そんなに絶望しちゃわないの」 フィリオラは、余計に怯えてしまった。何も言っていないのに、なぜこの人は彼の名を知っているのだろう。 確かに今、彼にとても会いたいと思っていた。だが、それだけなのに。すると女性は、自分の側頭部を小突く。 「あなたの考えていることがなんで解っちゃうのか、不思議でしょ? でも、あたしには解るの」 「お前でなくとも、顔を見れば解ると思うがな。この手の輩は、解りやすいからな」 男は女性に向くこともなく、素っ気なく返した。女性はフィリオラの前で身を屈め、目線を合わせる。 「まず、最初に謝るわ。ごめんなさいね、あなたを誘い出して、その上攫っちゃったりして」 「え…」 フィリオラが口を半開きにすると、女性は男を後ろ手に指す。 「あなたを誘き寄せる餌にするからー、って言って、副隊長があなたの髪留めを外して、誘い出したのよ」 「え、でも」 誰かに髪を触れられたなら、解るはずだ。フィリオラが戸惑っていると、男は少女に向く。 「間近で念動力を使われても気付かないとは、鈍いのだな」 「ねんどうりき…」 フィリオラがオウム返しに呟くと、そうだ、と男は頷く。男の鋭い目線が、簡素で小さなテーブルへと向けられた。 僅かに、空気が震えた。テーブルは音もなく床から四つの足を外し、軽やかな動きで上へ上へと昇っていく。 それに合わせて、二脚の椅子も浮かび上がった。魔法を使った様子はないのに、とフィリオラは呆気に取られた。 男の目線が宙に浮くテーブルと椅子から外れると、ごとっ、とそれらは一斉に床に落ち、盛大な音を立てた。 「髪留めを外して奪うことぐらい、容易いことだ」 「でも、どうして」 私なんかを、とフィリオラが問おうとすると、女性はフィリオラの手を取った。 「あたし達にはあなたが必要なのよ、フィオちゃん」 彼女の手は温かかったが、少し固くもあった。フィリオラが手を取られたままでいると、男が廊下へ向いた。 女性も、フィリオラの手を外してすぐさま立ち上がった。二人は靴のかかとを強く叩き合わせ、姿勢を正した。 廊下の奥から、足音がする。重々しい金属の擦れ合う軋みと、規則正しくも確かな足取りが近付いてくる。 窓の外は白み始め、廊下にも淡い朝日の輝きが差し込む。独特の影絵が廊下を伸びていき、何かが光った。 気配が、近付いてきた。それが誰であるかフィリオラは考えずとも解っていたが、すぐに名を呼べずにいた。 開け放たれた扉を塞ぐように、逆光の中で彼は立ち止まった。トサカに似た赤い頭飾りが揺れ、ヘルムが輝く。 「起きたか」 バスタードソードではなく、軍服を肩に引っかけた大柄な甲冑が、ギルディオスが立っていた。 「フィオ」 普段通りの、優しい声だった。だが、雰囲気が違う。フィリオラの知っている、ギルディオスではなかった。 二人は、無表情にギルディオスと向き合っている。甲冑がマントのように羽織った軍服には、階級章があった。 両脇を翼に挟まれた星が一つ。少佐の証だった。フィリオラが目を見開いていると、ギルディオスは明るく笑う。 「驚いたろ? 目ぇ覚めたら、知らねぇ場所なんだもんな」 「小父様…」 フィリオラが力なく呟くと、ギルディオスは男と女性の脇を通り過ぎ、少女の前にやってきた。 「こいつらはオレの部下だ。野郎の方はダニエル、部隊の副隊長だ。女の方はフローレンス、魔導技師だ」 「だ、だけど、小父様は退役したんじゃなかったんですか!?」 フィリオラは慌てふためき、ギルディオスに身を乗り出した。ギルディオスは、がりがりとヘルムを掻く。 「あー、うん。一度はな。最初の二十年ぐらいは普通の戦闘部隊にいたんだよ。それはきっちり辞めて、軍人年金も入っちゃいるんだが、長いこと軍にいたせいで佐官になっちまって、異能部隊の隊長も任されちまったんだ。だが、異能部隊は辞める気が起きなくてな。この三十年近く、異能部隊の隊長をしてんだよ」 「え、でも、全然、そんなの」 フィリオラが狼狽えると、ギルディオスは親指で男、ダニエルを示す。 「大体の指揮はダニーにやらせといて、オレはそれを離れて見てたんだよ。ここ何年か、フィオに付きっきりでいたから、そうしてたのさ」 「え、じゃあ…」 このことは、全て予定されていたことなのか。ギルディオスは、ずっと前から攫う機会を窺っていたのだろうか。 フィリオラがかなり不安げな顔になったので、ギルディオスは少女の頭に銀色の手を置き、ぐしゃりと髪を乱した。 「そんなに前から計画してたわけじゃねぇ。オレはお前を攫うために一緒にいたわけじゃねぇから、安心しろ」 「だったら、どうしてなんですか?」 フィリオラは安堵感に気が緩みそうになったが、緊張を保った。ギルディオスは、ぽんぽんと頭を叩いてくる。 「お偉いさんがよ、難癖付けて部隊を潰そうとしてんだよ。だからこっちも、対抗してやろうと思ってな」 「今まで散々こき使ってきたくせに、いきなり切り捨てようとすんのよ。ひどいと思わない?」 拗ねたように、女性、フローレンスは頬を張る。ダニエルは、淡々と説明をする。 「軍の上層に何らかの圧力が掛けられて、我々の与り知らぬうちに、異能部隊を解散させる話が進んでいたんだ。無論、私も隊長も部隊撤廃には反論したんだが、どうにも埒が明かない。そこで隊長は、上層に対して目に見えて有効な存在を持ってきて示すことにしたのだ」 「それが、お前だ」 ギルディオスは、フィリオラを指し示す。フィリオラは、ぽかんとしている。 「…はい?」 「我々の部隊は異能部隊と言って、正式名称は特殊能力戦闘部隊と言う。名前の通り、私やフローレンスのような異能力、高魔力や高い魔導技術を持ち合わせた者達を掻き集めて造られた部隊だ。戦力としては申し分ないのだが、時代が時代だから、戦力として数えられるほどの実力を持っている隊員の絶対数が少ないのだ。恐らく、これも潰される要因の一つだろう。フローレンスの造った人造魔導兵器のヴェイパーに至っても、製造されてから年数が少ないせいで知能は幼児も同然だし、他の面々も有能な兵士なのだが、最前線に立てる人数が少ないと数で負けてしまう可能性もある。そこで我々は、即戦力となる竜族を手に入れることにしたのだ」 ダニエルは、フィリオラに強く叫んだ。 「フィリオラ・ストレイン! 今日からお前は、異能部隊二等兵だ!」 彼の語気の強さに、フィリオラは動転するのも忘れてしまった。レオナルドとは違った意味で、気圧されたのだ。 二等兵。それがどんな階級なのかも知らなかったが、新入りに与える階級なのだから、一番下なのであろう。 ダニエルは、まだ何か言っている。訓練の日程やこれからの居住など、様々な事柄を威圧的に説明している。 だが、それは頭に入ってこなかった。ちゃんと耳に聞こえてはいるのだが、理解出来るほどの余裕がなかった。 自分がどういう立場なのかも、実感として感じられなかった。 三人が部屋を出たあと、フィリオラはぼんやりとしていた。 大雑把な日程をダニエルから聞かされたが、反復してもいなかった。思考は、それどころではなかったのだ。 ギルディオスが軍人だった。それも少佐だった。しかも異能部隊なる部隊の隊長で、かなり偉いようだった。 彼に率いられたあの人達が自分を攫って、部隊の存続に必要なのだと言われ、挙げ句に二等兵だと宣言された。 何をどうするべきなのか、さっぱりだった。どの事柄から悩むべきなのかも解らなくて、ぼんやりするしかない。 金髪の女性、フローレンスに教えてもらったので、この部屋は基地の営舎の最上階であるということは解っていた。 薄汚れた窓の外からは、煌めく海が見えていた。陸地と基地を繋ぐ跳ね橋も見えたが、今は上げられている。 営舎は基地の後方に位置しているようで、基地の全景とまではいかなくとも、三分の二は見渡すことが出来た。 この基地は、島の上に造られていた。背の高い灰色の塀がぐるりと取り囲み、いくつかの建物が並んでいる。 そのどれもが味気なく、灰色に形作られていた。旧王都郊外の工場街みたい、とフィリオラは何気なく思った。 波打つ海面の先に見える首都は目覚め始めていて、機関車と思しき汽笛の音が、風に乗って聞こえている。 今は何時ぐらいだろう、と思ったが、懐中時計もないし時計塔も見えないので、正確な時間は解らなかった。 それでも、朝方であることは確かのようだ。恐らく、攫われる際に気を失ってから一晩眠り、目覚めたのだろう。 やはり、レオナルドの言っていた通り、朝になってから髪留めを捜しに行けば良かったかもしれなかった。 だが、結果は同じだったかもしれない。異能部隊の面々は統率の取れた動きで、フィリオラを攫ったのだから。 髪留めを捜しに行くのが夜だろうが朝だろうが、狙われていたのは変わりないし、攫われるのも変わりないのだ。 攫われたことには腹が立ったし理不尽だとも思ったが、同時に、異能部隊の扱いに対しても理不尽だと思った。 言いがかりも同然の理由で部隊を潰されてしまうというのは、いくらなんでも強引すぎるし、抵抗もしたくなる。 軍隊といえど、そこは彼らの職場であり生活の場所なのだから、それをいきなり壊してしまうのは無茶苦茶だ。 彼らの意志を完全に無視している。あまりにも身勝手だ。だが、こうしていきなり攫うのもまた身勝手なのだ。 どちらに味方するべきなのか、フィリオラは迷ってしまった。異能部隊は哀れだと思うが、同情は出来ない。 「うぁあん…」 フィリオラは変な唸り声を上げてから、膝を抱えた。戦闘服の硬い生地に包まれた膝に、顔を埋める。 「おなかすいた」 冷静になると同時に、空腹を思い出していた。夕飯を食べる前に、ストレインの別邸を出てきてしまったのだ。 空っぽの胃に胃酸が滲み、きりきりと痛んでいた。昨日買ったケーキはおいしそうだったなぁ、と思い出した。 香りの良い果実酒がたっぷり染み込んでいたので、切り分けて紅茶と共に食べればどれだけおいしいだろう。 それと一緒に買ったクッキーも、新刊の恋愛小説でも読みながら夜に食べようと思っていたというのに。 「切ないよぉ…」 食べたい。無性に甘いものが食べたくて仕方ない。淹れたての紅茶と一緒に、ケーキを二切れほど食べたい。 そのケーキにクリームが塗られていたら、尚嬉しい。そしてチョコレートが掛かっていたら、もっと幸せだ。 想像すると、余計に切なくなった。フィリオラは体を傾けていき、横向きにベッドに倒れ込むと、目を閉じる。 思考をお菓子から逸らそうとしたが、一度でも考えてしまったらダメだった。腹が小さく鳴り、追い打ちを掛ける。 フィリオラは現実逃避をするために、シーツに顔を埋める。すると廊下から足音が聞こえ、扉の前で止まった。 扉が数回叩かれ、すぐさま開かれた。フィリオラがシーツから顔を上げると、足早にフローレンスが入ってきた。 「朝ご飯、持ってきたわよぅ」 フローレンスは片手に載せていた盆をテーブルに置くと、情けない顔をしたフィリオラを見下ろす。 「あー、そうよねー。ケーキはおいしいもんねー、あたしもたっぷりクリームが付いたやつが好きぃ」 「どうして、解るんです?」 フィリオラは起き上がり、フローレンスを見上げる。フローレンスは、先程と同じく側頭部を指す。 「あたしはね、精神感応の力があるのよ。いつもは、こんなに読んだりしないように抑えてるんだけど、フィオちゃんがあんまりにも思念をだだ漏れにしてるから、ついね、つい」 「そんなに、漏れてますか?」 フィリオラは、妙に気恥ずかしくなってしまった。フローレンスは、フィリオラの隣に腰掛ける。 「感情が高ぶると、誰だって漏れちゃうもんなのよ。フィオちゃんみたいな魔力の高い人だと、余計にね。だーけど、可愛いなぁ。女の子ーって感じで」 フローレンスは楽しげに笑み、テーブルの上を示した。盆には、湯気を昇らせるスープの皿とパンが載っている。 「大したもんじゃないけど、食べちゃって。こっちまでお腹が空きそうなぐらい、あなたの思念が切ないんだもん」 「あ、どうも、ありがとうございます」 フィリオラはフローレンスに頭を下げてから、ベッドから立って椅子に座った。スプーンを取り、スープを掬う。 一口飲むと、塩辛かった。味付けが乱暴で、野菜も煮え方が甘く、噛むと妙な歯応えがあってあまりおいしくない。 きっと、一気にかなりの量を作るからだろう。もうちょっと丁寧に作って欲しいなぁ、とフィリオラは顔をしかめる。 その表情に、フローレンスは高らかに笑った。男がするような格好で長い足を組むと、ベッドの柱に背を預ける。 「おいしくないでしょー、それ。皆で持ち回りで作ってるんだけどさ、丁度下手な奴に当たっちゃったんだ」 「塩がきついです。おまけに野菜が生煮えです」 フィリオラが素直な感想を述べると、フローレンスはにぃっと唇を広げる。 「ここの連中は体力が勝負だからね。朝の訓練したあとなんて、どうしても塩っ気が欲しくなっちゃうのよ」 「はぁ」 生返事をしたフィリオラは、固いパンを千切ってスープに浸した。パンに吸わせると、少しはまともになった。 何も食べないでいるよりも、食べていた方がいい。そう思い、塩辛さを我慢しながら黙々と食べ続けた。 フローレンスは頬杖を付き、目を細めていた。フィリオラの幼い横顔を見つめていたが、優しい声を出した。 「ゆっくり食べなよ」 「あの」 パンを半分ほど食べたフィリオラは、フローレンスに振り向いた。何、と聞き返された。 「小父様は、どうしていますか?」 「隊長は、副隊長と一緒に基地から出たよ。なんでも、どうしても会わなきゃならない人がいるんだって」 恋人かなんかかな、とフローレンスは怪しむように腕を組む。フィリオラは、その言葉に笑ってしまう。 「それはありませんよ。小父様が愛していらっしゃるのは、奥様のメアリーさんだけですもん」 「解ってるってぇ。あたしらも、何度もメアリーさんの話は聞かされたから。その度に、こっちまで恥ずかしくなっちゃうくらい惚気るんだよねー、隊長」 フローレンスは本当に恥ずかしいのか、照れくさそうにする。 「どれだけ信頼し合ってたかとか、どれだけ愛し合ってたかとか、嫌になるくらい聞かされた。でもね、そういうのってマジで羨ましいって思ったりもするんだよねぇ。そこまで愛し合えるのって、すっごく幸せだと思わない?」 「思いますよぉ」 フィリオラが笑むと、フローレンスは身を乗り出した。首に掛けられた青い宝石の首飾りが、合わせて揺れる。 「けど、嬉しいなぁ。フィオちゃんみたいな女の子が異能部隊に入ってくれて。モニカが退役してから、すっかり寂しくなっちゃってたんだ。ここ、野郎ばっかりだからさぁ。昔は何人か女の子がいたんだけどさ、普通に生きたいとかで退役しちゃったり政府の機密組織に引き抜かれたりとかしていなくなっちゃって、今はあたししかいないんだ。だから嬉しい、妹が出来たみたいで!」 仲良くしようね、とフローレンスは手を差し出してきた。フィリオラは少し躊躇ったが、その手に手を伸ばした。 温かな手が、フィリオラの手をしっかりと握り締めてきた。恐る恐るではなく、痛いと思うくらい握ってくる。 怖がられていないんだ。怯えられていないんだ。フローレンスの眼差しからも、態度から、それはよく解った。 そんなことは、初めてだった。初対面で、しかも竜であることを知っていながらも、ごく当たり前に接してくる。 フィリオラはフローレンスの手の感触が嬉しくて、表情を綻ばせた。フローレンスは、両手でフィリオラの手を包む。 「訓練が終わったら、あたしの作業場に案内してあげる! ヴェイパーも、あなたと友達になりたがってるのよ」 「ヴェイパー?」 「そうよ。あたしの可愛い可愛い機械人形なの。でっかくてごついけど、良い子だから」 フローレンスは意気揚々としながら、フィリオラの手を上下に振った。フィリオラは、戸惑いながらも頷いた。 困っているようだが、それでも悪い気はしてないようだった。フィリオラの思念は、そんな感情を伝えてきていた。 フローレンスは嬉しくなり、フィリオラを見つめた。縦長の瞳孔を持った青い瞳が、じっとこちらを見ていた。 黒に近い深い緑髪の間から、短いツノが可愛らしく生えている。尖り気味の耳には、銀のピアスが填っている。 竜の気配は、握り締めた手から伝わってきていた。少女らしい思考の奧底に、力強い本能が見え隠れする。 それでも、畏怖を覚えるほどのものではなかった。昨夜に読んだ記憶の思念は恐ろしかったが、今は違う。 年頃の十八歳の女の子だ。フローレンスは先程読んだフィリオラの不安に混じっていた、過去を思い起こした。 人ならざる者として扱われた日々、肉親からも恐れられる日常、それに対する悲しさと嫌悪、そして絶望。 どれも、フローレンス自身もよく知っていることだった。この部隊にいる者達は、大抵はそういった境遇にある。 フローレンスはフィリオラの手の甲を、頬にそっと押し当てた。育ちの良さを感じさせる、滑らかな肌だった。 「大丈夫。これからは、あたし達と一緒だから」 フローレンスは、愛おしげに目を伏せた。 「誰も、あなたを恐れたりはしないから」 柔らかな感触と優しい言葉に、フィリオラは俯いた。先程感じた異能部隊への怒りが、薄れてしまいそうだ。 それどころか、受け入れられている。竜としての自分を、竜である存在を、彼女は受け止めてくれている。 攫われたことは許せない。けれど、この言葉が嘘だとは思えない。フローレンスの声には、温かさがあった。 あれだけ寂しいと思っていたこの部屋が、急に居心地良く思えた。戦闘服の着心地は、良くないままだったが。 ほんの少しだけ、気持ちは安らいだ。フィリオラは、ベッドの枕元に置いたスイセンの髪留めに目を向ける。 窓から差し込む明かりで輝いている銀色のスイセンが、眩しかった。フィリオラの頭に、ちらりと考えが掠めた。 ここにいるのも、悪くないのかもしれない。ギルディオスと共に戦うのならば、ちゃんと戦えるかもしれない。 海を挟んだ先に見える首都は、朝靄に煙っていた。 その頃。ギルディオスは、待ち惚けしていた。 年代物ながら値段の張る艶やかなテーブルに両足を投げ出して組み、腕を組んでソファーに身を沈めていた。 高い天井には、巨大な魔法陣が描かれていた。二重の円の中心に六芒星が書かれているが、魔法文字はない。 それでもこれだけ大きなものとなると、魔法文字はなくとも魔法としての効力があり、空気が安らいでいる。 穏やかな魔力が広大な部屋一帯に満ちていて、雰囲気は落ち着いている。大方これは、気を抜かせる罠だ。 ギルディオスは、前方の壁にある背の高い両開きの扉に顔を向けた。守衛に挟まれて、固く閉ざされている。 あの扉の向こうにいる者は、そんな仕掛けを考えるのだ。どんな人間でも、魔力が落ち着けば心が安らぐ。 だがそれと同時に、隙も出来る。精神の平穏は肉体へも影響を及ぼすので、咄嗟の判断が鈍ってしまうのだ。 この部屋は、前方の部屋に入る前に入れられる部屋だ。相手の精神を魔力で宥めて、気を緩めさせるためだ。 どんな警備よりも有効で、どんな抑圧よりも確実な防衛方法だ。用心深いこったぜ、と内心で毒づいた。 壁に掛けられた絵画には、猛々しい緑竜が描かれている。雄大な青空を、巨大な緑竜が飛んでいる姿だ。 ギルディオスが竜の絵を見ていると、向かい側に座っている軍服姿のダニエルは不機嫌そうに眉を曲げた。 「いつまで待たせる気なんでしょうか。呼び出したのは、あちらの方でしょうに」 「そう急くなよ。気ぃ立てたら、あっちの思う壺だぜ」 ギルディオスが両手を上向けると、そうですけどね、とダニエルは背後にある扉を睨む。 「ですが、隊長。この間合いで呼び出されるということは、あちらは我々の動きを読んでいるようですね」 「間違いなくな。それでなくても、あいつはフィオの行動を把握してるんだ。フィオの行動さえ解っていりゃ、オレ達がどう動くかも予想が付くからな。全く、頭の良い野郎だぜ」 「しかし、本当に我々が接見出来るのでしょうか? あちらは、姿を現さないのが定評なんですから」 ダニエルが訝しむと、ギルディオスは肩を竦めてみせる。 「さぁな。時と場合によるんじゃねぇの、あいつは気紛れだから」 「隊長は、あちらの正体をご存知で?」 「ああ、知っているさ。昔っからな」 ギルディオスは、僅かに声色を変えた。いつものような飄々とした明るさの中に、含みのある重たさが加わった。 ダニエルは膝に載せていた軍帽を見、軽く浮かばせた。軍の紋章が付けられた赤い軍帽は、くるくると回転する。 しばらく縦や横に回していたが、すぐに飽きたダニエルは念動力を切り、落下しかけた軍帽を素早く取った。 後方へ撫で付けてある黒髪を直してから、軍帽を深く被る。鍔を下げて陰った目元から、鋭い視線が上がる。 「やはりそうですか。軍の上層に圧力を掛けているのは、こちらで間違いないようですね」 「どうしてそう思う、ダニー?」 ギルディオスに問われ、ダニエルは表情を変えずに返す。 「それ以外には考えられないからです。我々を疎ましく思う存在は政治経済軍事などには多いでしょうが、中でもここは別格です。人でありながら人でない力を扱う者達と束ね、その力を権力に変えて、共和国政府に多大なる影響を与えているのですから、我々がいなくなればその仕事の幅も量も報酬も格段に増えることでしょう。我々を潰す理由など、探さずともいくらでも見当たります」 「それで?」 「隊長が回収した魔導兵器、アルゼンタムの奪取も目的なのでしょう。あれは狂気に駆られてはいますが、理性を高めさせて鍛え上げれば有能な兵士になるに違いありません。そして、あの娘も奪う気でしょうね。保護という名の強奪を行うつもりなんでしょう」 ダニエルは、天井を仰いだ。天井に描かれた美しい絵画と巨大な魔法陣の中心に、文字があった。 「魔導師協会は」 魔導師協会の文字が、魔法陣の中央から二人を見下ろしていた。ギルディオスは、ダニエルの視線の先を辿る。 ここは、しばらく来なくともあまり変わらない場所だ。魔法によって調和を得た空間の居心地は、心地良い。 だが、それと気分は別だ。そこかしこに見える彼の者の権力や存在は、見るたびに腹立たしさが湧いてくる。 いい気なものだ。昔は権力が好きでないと言っていた覚えがあるのに、ここ数十年ですっかり変わってしまった。 やはり、誰も不変ではないのだ。ギルディオスが異能部隊の隊長となったように、彼の者も上へ上へと進んだ。 それが寂しくもあったが、逆に決意も固まっていた。そこまで偉くなってしまえば、こちらも態度が取りやすい。 中途半端に敵対するよりも、真っ向から敵対した方がやりやすい。ギルディオスは、再び両開きの扉を見据えた。 するとその扉が開き、固い服装に身を包んだ女性が現れ、迷いのない足取りで真っ直ぐ二人の元へやってきた。 「ヴァトラス少佐。ファイガー大尉」 女性は、片手で扉を示した。 「ヴォルグ会長がお待ちですので、どうぞお入り下さい」 06 1/10 |