竜と戦うのは、初めてだった。 ギルディオスは剣を横にし、刃の側面で拳を受け止めた。だが、予想以上に重たい打撃に、足がずり下がった。 その拳が引かれた直後、キースは腰を回して足を浮かばせる。ギルディオスの脇腹に、かかとが打ち込まれた。 がしゃっ、と腹部装甲が激しく揺さぶられ、ギルディオスはよろけた。構えを直す前に、更に蹴りを受けてしまう。 今度は側頭部で、兜が外れそうになるほど強い打撃だった。首を折られたかのような衝撃の後、転倒する。 肩から転んだギルディオスの真上に、影が落ちた。見上げると、飛び上がったキースが上空で膝を曲げている。 ギルディオスは急いで身を引くと、今し方まで転んでいた場所に膝が叩き込まれ、どん、と地面が軽く揺れた。 「思っていたよりも」 キースは普段よりも低い声で楽しげに言い、拳を突き出してきた。 「あなたは弱いんですね!」 「うぐぁっ」 ギルディオスの胸を殴り付けた拳は、そのまま顎へと到達した。衝撃の残る首が上向き、ヘルムがずれる。 視界には、空が見えていた。痛みと衝撃で鈍った思考を更に鈍らせるかのように、すぐ追撃がやってきた。 バスタードソードを持っていた右腕を掴まれたかと思うと、捻られ、容易く背中から地面に叩き付けられる。 その衝撃で右手が緩み、剣の柄が滑り落ちてしまった。巨大な剣は主を失い、がしゃん、と落下した。 ギルディオスは上体を起こして剣へ手を伸ばそうとするが、その手は、太く重たい竜の足に踏み付けられた。 べきっ、と金属が破損する軽い音がした。途端に激痛が魂を貫き、ギルディオスは頭を反らして絶叫する。 「あがぁああああっ!」 「あなたの場合、痛覚があることが弱点なんですよ」 キースは片足を上げて、その下で平たく潰されているガントレットを見下ろした。ギルディオスは、喘ぐ。 「…るせぇ」 「まだ喋れる余裕がありますか。でしたら、逆らう気も起きないぐらい痛めてやりましょう!」 キースは、再度足を降ろした。先程よりも勢い良く下ろされたかかとが、ギルディオスの肘の関節を砕いた。 ギルディオスは激痛で霞んできた視界を強め、素早く左側を窺った。左手は、虚空を掴むように開いている。 右側では、かかとをねじ曲げて肘どころか上腕まで潰してくるキースが、とても楽しげに笑い声を上げている。 ギルディオスは音を立てないように左手を下げていくと、腰に提げたホルスターから、魔導拳銃を抜き取った。 がん、と銃の台尻を胸に置いて安定させてから、引き金を絞った。キースが気付いた瞬間、鋭い閃光が走った。 白い雷撃が、青緑色のウロコに包まれた太い足を貫いた。同時に熱も浴びせたのか、ウロコが焼け焦げている。 キースはギルディオスの腕から足を引くと、雷撃による火傷の出来た右足を下げ、ちぃ、と悔しげに舌打ちした。 「この…」 「生憎だがな、オレの腕は二本あるんだよ!」 ギルディオスは右肩から先を外して放り投げると、跳ねるように起き上がり、魔導拳銃を捨てた。 「でもってぇ!」 地面に転がっていたバスタードソードを素早く掴んで構えると、身動いでいるキースの真正面に駆けていく。 キースが間隔を開けようとしたが、それよりも先に甲冑は懐に入り、銀色の刃を真横にして首筋へと当てる。 きち、と剣が小さく鳴った。ギルディオスは、青緑のウロコの色が映り込んだ刃を、厚い皮膚に薄く切り込ませた。 「経験が違うんだよ」 ギルディオスは、左腕をほんの少し前に押し出した。竜人の首の厚い皮が真横に破け、赤い血が流れ落ちた。 バスタードソードの刃を伝って落ちた血が、地面に数滴落ちた。ギルディオスは、キースにヘルムを寄せる。 「てめぇがそのつもりなら、こっちもそうしようじゃねぇか」 「出来るんですか、そんなことが。僕は、あなたの部下なんですよ? あなたは、自分の部下を殺せるんですか?」 僅かに震えていたが、それでもキースの声には余裕があった。ギルディオスは、内心で目元を歪める。 「それぐらいの覚悟がなくて、隊長なんざやってられっかよ」 「なるほど。それは、僕も同じですよ!」 キースは一歩後退すると同時に、ずいっと頭を突き出した。深く息を吸ってから口を開き、熱い吐息を放つ。 炎の固まりが吐き出され、ギルディオスの顔の脇を掠めていった。じっ、とマントから焦げた匂いがする。 キースは肩を上下させていたが、吼えた。獣じみた咆哮に、遠巻きに二人を見ていた兵士達がたじろいでいる。 雷鳴にも似た、低く強い音が空気を揺さぶっていく。竜人の背で体積を増した翼が、ばきりと広げられた。 咆哮の声量が増えるに連れて、竜の姿も膨れ上がる。長い尾が更に太く長くなり、ツノもずるりと伸びた。 空が、巨大な影に隠れされた。咆哮が収まると、キースの姿は完全な竜と変化し、猛々しいものとなっていた。 ぐる、と竜の太い喉が鳴った。そこには先程ギルディオスが付けた傷が残っていたが、すぐに塞がった。 キースは赤い目をぎょろりと動かして、周囲を見渡した。竜の視線が射抜いたのは、縮まって怯える幼女だった。 やぁ、とジョセフィーヌは首を横に振った。後退ろうとしても手に力が入らず、足もがくがくと震えている。 ギルディオスはジョセフィーヌの元に駆け寄ろうとしたが、それよりも先に、キースは幼女に首を突き出した。 目の前に迫った竜の鼻先と牙に、ジョセフィーヌは一層怯えた。涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔を、逸らす。 「だめ、だめ、だめぇええ、だめなのぉ…」 「さあ、教えろ、僕の未来を。教えなければ、頭から噛み砕く」 にたりと、キースの厚い瞼が細められた。ジョセフィーヌは少佐の軍帽を抱き締めると、震える唇を開いた。 「だ、だめなの。ちかづいたら、ジョーにちかづいたら、ほんとうに」 「僕は死にはしないさ。だが、もうそれには聞き飽きた」 キースはぐばりと口を広げ、ジョセフィーヌの顔の前に長く尖った牙を寄せた。幼女は、びくりとする。 「な、ないの。ほかのは、ないの。だから、わかんないのぉ」 「嘘を言うな」 「うそじゃない、うそじゃない、うそなんかじゃないよぉ…」 ぐずり出したジョセフィーヌは、軍帽の形が変わるほど握り締めた。キースは、口を開いた幅を更に広げる。 「本当か?」 「ほんとうだよぉ! だから、だから、もうこっちにはこないでぇ!」 ぎゅっと目を閉じたジョセフィーヌに、キースは近付いた。長い尾を引き摺りながら、幼女との間を狭めていく。 彼女の予言が、真実なのか、そうではないのか。ギルディオスは左腕に持った剣を構えながら、気を張っていた。 キースは明らかに苛立っている。思い掛けずギルディオスに負けたことや、ジョセフィーヌがぐずったからだ。 このままでは、彼はジョセフィーヌを喰らうことだろう。それをしなくても、殺してしまうのは間違いないはずだ。 そうなってしまう前に、動くべきか。それとも、ジョセフィーヌの予知を信じて、黒い人の援護を待つべきか。 ギルディオスは後者の考えを、内心で笑っていた。こんな時に何を、と自嘲しながら、竜と幼女を見つめていた。 キースの牙が、ジョセフィーヌの頭上にやってくる。軍帽を被って丸まった幼女は、大声を上げて泣き喚いている。 竜の喉が鳴り、空気が吸われる。魔力で成した炎の固まりを喉の奥に作り、幼女へと、それを吐き出そうとした。 「やっ」 ジョセフィーヌの甲高い悲鳴が上がる。その瞬間、ギルディオスの背後から、一本の光の線が駆け抜けてきた。 雷撃でも炎撃でもない閃光が、竜の眉間を鋭く突き抜けた。びしっ、と厚い皮の内側で何かが砕ける音がする。 青緑の皮に覆われた竜の後頭部、ツノの根元の間には、丸く穴が開いていた。そこから、どろりと血が流れ出る。 掠れた声で、キースは何かを発した。だが、それを言い終える前に、見開かれていた目から光が失われていった。 ギルディオスが構えを解くと、巨体は傾いだ。張り詰めていた翼を緩め、口からだらしなく舌を垂らしていた。 どぉん、と重たく地面が震え、竜は横向きに倒れた。赤い瞳を挟む瞼はぴくりともせず、虚空を見つめていた。 ギルディオスは、感じていた威圧感が薄れていくのを感じていた。キースの体から、鼓動が弱まるのも解った。 キースの翼の先にそっと触れてみたが、反応は返ってこない。ギルディオスは、彼が息絶えたのを悟った。 「キース…」 キースは、死んでいた。さすがの竜であろうとも、脳天を貫かれてしまっては、再生することなど出来ないのだろう。 兵士達も、竜が死んだと解ったので近付いてきている。ギルディオスは光線の発信源である、後方に向いた。 光線が飛んできた先、発射した主を探した。基地を囲む高い塀、太い門柱、見張り台。一点で、目を留めた。 見張り台の屋根の上に、黒い影が立っていた。マントと思しき影を揺らしながら、じっと、こちらを見下ろしている。 ギルディオスが声を上げようとすると、それは、後方に身を傾げた。飛び降りるように、見張り台の上から失せた。 だが、海にも地面にも落下音はしなかった。その代わりに何かが羽ばたく音が、基地から遠ざかっていった。 あれが、黒い人なのだろうか。ジョセフィーヌの言っていた、誰にも会おうとしない彼女だけの友達なのだろうか。 ギルディオスは、それを問おうと思い、キースから離れた。彼の頭が倒れている横を過ぎて、鼻先の前に出た。 軍帽を抱き締めているジョセフィーヌは、気を失っていた。涙で濡れた丸い頬が、夕日でつやりと光っていた。 ギルディオスは彼女を起こし、抱き上げた。その手から軍帽を抜こうとしたが、きつく握り締めていて無理だった。 「まぁいい、ジョーにやるよ。どうせ、オレは被らねぇからな」 ギルディオスはジョセフィーヌの砂と土に汚れた柔らかな髪を撫でていたが、絶命している竜へと振り向いた。 ふと、つま先に何かが当たったので、見下ろした。そこには、汚れてはいたが壊れていない、彼のメガネがあった。 ギルディオスはそれを拾うと、汚れを拭った。平たい横長のレンズは、弱まりつつある夕日を映して輝いていた。 墓を作った時に、一緒に入れてやろう。そう思いながらギルディオスは、キースの見開かれたままの瞳を見た。 とても、遣り切れなかった。確かに、考えは極端だったし言動もおぞましかったが、死なせるつもりはなかった。 フィフィリアンヌのただ一人の弟なのだから、どうにかして改心させ、人と共に生きる道へと進ませたかった。 なのに、死なせてしまった。ギルディオスは腕に抱いたジョセフィーヌの重みを感じながら、項垂れていた。 己への怒りで、熱が生じてきそうだった。 翌日。ギルディオスは、ジョセフィーヌの部屋で立ち尽くしていた。 小さな膨らみが残るベッドの上の毛布は、空だった。無機質な部屋に似合わないぬいぐるみも、数が減っている。 彼女にあげた軍帽も、小さな体に似合わない軍服も、寝間着も、下着も、生活用品が何もかもなくなっていた。 ギルディオスは新たに付けた右腕で、そっと、背後の扉を閉めた。引き出されたままの、引き出しの中を覗く。 ジョセフィーヌが気に入っていた絵本も、なくなっていた。ギルディオスは、静かに引き出しを押し込んだ。 温かな朝日が、ベッドを照らしていた。ギルディオスはベッドに腰掛けると、毛布の膨らみに手を触れてみた。 体温は残っていなかった。恐らく、隊員達が寝静まった夜中に、ジョセフィーヌは出て行ってしまったのだろう。 ギルディオスは、強烈にやるせなくなった。朝、目覚めたら、キースの遺品である彼のメガネが見当たらなかった。 ジョセフィーヌが持っているのでは、と思い、来てみたらこの有様だ。一体、彼女に何があったと言うのだろう。 「なんで」 ギルディオスは昨日の戦闘での歪みが残っているヘルムを鷲掴み、苦しげな声を漏らした。 「こうなっちまうんだよ…」 キースを救えなかった。そして、ジョセフィーヌも消えてしまった。なぜ、悪い方向にしか物事が運ばないのだ。 結局、何も出来なかったと言うことか。少佐などという地位に付いていても、それはただの肩書きでしかないのだ。 キースの心を開き、掴むことは出来なかった。一度でも、彼の本心に触れることがあったなら、違っていただろう。 昨日聞かされた彼の野心にはあまり驚かなかったが、その端々に見える、寂しさのようなものが気掛かりだった。 力を手に入れ、力を望み、力を示そうばかりしている。自分ばかりを中心に見て、その周りを少しも見ていない。 彼は、孤独だったのだ。望まれない出生であるがために、母からも姉からも愛されていないのは明白だった。 キースの口から、アンジェリーナとフィフィリアンヌの批判は出たが、二人から愛された記憶などはなかった。 ギルディオスも、彼を愛してやろうと思っても、愛せるほど触れ合えてはいなかった。上官としても、人としても。 もう少し、踏み入って近付くべきだった。後悔してもしきれず、ギルディオスは唸りながら、自分の足を殴った。 右腕を踏み潰された時の痛みよりも、遥かに強烈な痛みが沸き起こる。やるせなさと悔しさで、涙が出そうだった。 もう二度と、こんなことにしてはならない。何があろうとも、異能者達を受け入れ、愛し、守っていかなくては。 そのためには、どうなろうとも構わない。例え、フィフィリアンヌと敵対することとなったとしても、構うものか。 ぎち、と膝に叩き付けた拳を握り締め、ギルディオスは顔を上げた。ベッドから立ち上がると、軍服を羽織り直す。 戦って戦って、戦い抜いてやる。もう二度と、キースのような哀れな部下を作らないためにも、戦わなくては。 そう強く決意しながら、甲冑の戦士は歩み出した。 「それから、しばらく。オレはジョーの捜索に明け暮れた。だが、手掛かりは何一つなかった」 天井を見つめたまま、ギルディオスは淡々と話していた。古い傷が疼くような、苦しみが含まれていた。 「キースを埋葬して、基地を直して、さぁこれからだって時に、上はオレに処罰を与えてきた。なんでも、将来有望な将校候補をみすみす死なせてしまったからだ、てなのが理由だよ。まぁ、間違っちゃいねぇしな。だからオレは左遷されて、十年ぐらい旧帝都近くの戦闘部隊の一般兵士をやっていたんだ。そこで、馬鹿みてぇに敵兵をぶっ殺して、うんざりするほど戦って、上を認めさせて地位を取り戻して異能部隊に戻ってきたんだ。本当は、もっと早くに戻ってきたかったんだがな。レオが引っ張り込まれたって聞いて、なんとかしてやろうと思ったんだが、オレが戻った頃にはもうレオは自分で逃げちまった後だったからな」 出る幕なんてなかったんだな、とギルディオスは少しだけ声を明るくさせた。 「キースが死んでからは、フィルとは、自然と距離が出来ちまったんだ。どっちもどっちで、キースのことに負い目があったせいだ。そのうち、オレは異能部隊に掛かり切りになってきて、いつのまにか手段が目的に変わっちまった。最初は異能部隊を守っていこうって思っていただけだったんだが、気付いたら、守ってやらなきゃならない、とか思うようになっちまったんだ。だからオレは、フィルの言い分が正しいって頭の片隅じゃ解っていたんだが、オレの部下達を否定されたみてぇに感じちまってよ、ムキになっちまったんだ。その挙げ句が、あの様だ」 ギルディオスは、深く息を吐いた。 「全くよぉ。オレって奴ぁ、とんでもねぇ馬鹿だよな」 彼の声が止んだ頃、窓の外の空は夕暮れに染まっていた。朱色の光が薄汚れた窓から差し込み、煌めいていた。 フィリオラは、淹れ直した温かな紅茶を五人のティーカップに注いでいた。柔らかな湯気と、香りが広がる。 琥珀色の紅茶が入ったティーカップをそれぞれの前に戻してから、フィリオラは椅子に座り直し、顔を伏せた。 波紋の広がる紅茶に映った自分の顔は、表情が失せていた。ギルディオスの話に、反応することが出来なかった。 終始痛々しげな声が、信じられなかった。フィリオラの知っているギルディオスとは、懸け離れていたからだ。 誰よりも強く、何にも負けない、最強の鋼の戦士。そして、誰よりも頼れる人。それが、ギルディオスだったのだ。 けれど、それは違っていたようだ。ギルディオスも、やはり一人の人間であり、苦悩の末に過ちを犯したのだ。 フィリオラはそっと顔を上げ、ギルディオスを窺った。窓へとヘルムを向けた横顔は、やけに物悲しげに見えた。 この部屋に彼が尋ねてきた時は、許してしまおう、と思っていた。事実、この話を聞いては彼を責められない。 だが、他の感情も湧いていた。ギルディオスが一人の人間であるという事実を、失念していた罪悪感だった。 見た目が人間から懸け離れた甲冑であるために、忘れてしまっていた。だからこそ、いつも、頼り切っていた。 人を越えた存在、人でない存在であるからこそ、ギルディオスに心の底から甘えてしまい、寄り掛かっていた。 彼は、フィリオラを全て受け止めてくれた。我が侭を言ったら叱ってくれたし、良いことをしたら褒めてくれた。 実の親よりもずっと親らしくて、ギルディオスが本当の父親だったらいいのに、と思ったのは一度や二度ではない。 ギルディオスに裏切られるなんて思ってもみなかったし、裏切りの原因がここまで重たいとは知らなかった。 考えてみれば、フィリオラはギルディオスのことを何一つ知らない。知っているのは、彼から聞いたことだけだ。 性格だって概要だけだし、過去や経歴を聞いたこともないし、むしろ、敢えて聞かないようにしていた節がある。 大きくて温かで力強くて、頼れる小父様。フィリオラの持っているその肖像が崩れてしまうのが、嫌だったからだ。 今だって、異能部隊の過去の話を聞くのを何度止めようと思ったことだろう。何度、目を逸らそうと思っただろう。 だが、それではいけない、とも思っていた。ギルディオスの過ちと痛みを、知らなければいけない気がした。 つい先日まで受け止めてもらっていたのだから、次はこちらが受け止めなくては。フィリオラは、顔を上げる。 「小父様」 長い間黙っていたせいで、フィリオラの声は少し掠れていた。ん、とギルディオスは振り向いた。 「なんだ、フィオ」 「私は、小父様がしたことは間違っていると思っています。部隊のためとはいえ、私を攫うのは筋違いですから」 フィリオラは、膝の上に載せた手を固く握り締める。 「けど、そうしなきゃいけないと思うほど、小父様は苦しまれていたんですね」 ギルディオスは答えずに、俯いた。フィリオラは泣き出してしまいたいのを堪え、言う。 「小父様。私は、もう大丈夫です。小父様が少しぐらい傍にいなくても、平気です。ちゃんとお金も稼げるし、料理も買い出しも一人で出来ますし、私の近くにいてくれる方も小父様だけではなくなりました。ですから、小父様」 フィリオラは、涙混じりで上擦った声を上げた。 「気が済むまで、お休みになられて下さい!」 涙を拭いながら、フィリオラは椅子に座り直した。小さくしゃくり上げるフィリオラを、ブラッドは見上げた。 何がどうなってこうなっているのか、未だに全てを理解しきっていなかったが、ギルディオスが辛いのは解る。 二十五年という長い間、苦しんできたギルディオスが、更なる苦しみの中にいるのも、感覚として掴めていた。 さすがにブラッドも、今のギルディオスに近付くのは憚られた。むやみやたらに、甘えられるはずがない。 最初は、ギルディオスが帰ってきてとても嬉しかった。フィリオラを攫ったと知っていても、やはり好きだった。 無論、今も充分好きなのだが、好きだからこそ傍には行けない。何も出来ないと解っているから、動けない。 してやれることがあれば何でもしたいが、何も思い付かないし、出来たとしても大したことではないだろう。 その悔しさは容易に想像が付くし、逆にギルディオスを更なる苦しみへと追い込んでしまうかもしれないのだ。 ブラッドは、レオナルドへと目をやった。窓枠に座っているレオナルドは、神妙な面持ちで、押し黙っていた。 不機嫌そうでもなく、ただ、ギルディオスを見据えていた。その目線が不意に動き、フィリオラへと向いた。 フィリオラは唇を歪めて泣き声を押し殺し、肩を僅かに震わせて、溢れ出てくる涙を頬に伝わせていた。 レオナルドは、フィリオラの心中を思った。彼の苦しみに気付けなかった自分を、責めているのかもしれない。 だが、レオナルドは、ギルディオスにそこまで情を寄せる気にはならなかった。理由があろうとも、罪は罪だ。 キース・ドラグーンなる竜族を死なせたのは彼自身ではないし、ジョセフィーヌが消えたことだってそうだ。 これもまた、それはそれであり、これはこれだ。関連性はあるかもしれないが、事件としては別物なのだ。 まだ当分の間は、ギルディオスを許せそうにない。レオナルドは眉間をしかめ、俯いている甲冑を睨み付けた。 フローレンスは彼らの思念を、無意識に受け止めていた。そして、ギルディオスの苦痛も感じ取っていた。 途中からその苦痛が強烈すぎて、目を閉じていた。脳裏に見える光景は、一層鮮やかになってしまったが。 だが、上官から感じていたのは苦痛だけではない。部下達への惜しみない愛情と、深い慈しみもあった。 それが、嬉しかった。過ちの原因が愛情だと解っていると、責めるよりも先に嬉しさばかりが湧いてくる。 しかし、その嬉しさは異能部隊であるからこそだ。そうでなかったら、独り善がりだ、と彼を責めたことだろう。 理由と経緯がどうあれ、ギルディオスが異能部隊を助けると言いながらも滅したのは、間違いがないのだから。 そう思いながら、フローレンスは上官から目を外した。複雑に入り乱れる感情が、重たい苦しさを作っていた。 ギルディオスは、静かに立ち上がった。膝を軋ませながら背筋を伸ばすと、外していた剣を背中に担いだ。 「フィオの言う通りにさせてもらうぜ。このままお前らの傍にいたら、また何か、やらかしちまいそうだからな」 ギルディオスは扉を開けると、廊下へ踏み出そうとした。ダニエルは立ち上がると、その背に向く。 「隊長」 「なんだ、ダニー」 横顔だけ振り向いたギルディオスに、ダニエルは敬礼した。 「お戻りになる日を、待っています」 「戻ることが、出来たらな」 ギルディオスは正面を向くと、もう振り返らなかった。後ろ手に扉を閉め、重たい足音が廊下を遠ざかっていった。 階段を下り、外へ出ていき、彼の足音は聞こえなくなった。ダニエルは力なく座り込み、全身で深く息を吐いた。 なぜ、待っていると言ってしまったんだろう。部下としての礼儀なのか、それとも、人としての言葉なのか。 理由を探そうとしたが、見当たらなかった。ギルディオスがいなくなる、と思ったら反射的に言ってしまった。 やはり、自分も彼の子供だったのだ。異能の箱庭に入れられた兵士であれば、彼から愛情を受けるのだから。 ダニエルは、自嘲気味な笑みが浮かんでいた。いなくなって、初めて、ギルディオスの存在の大きさを知った。 日常的に近くにいて、部下として付き従って、そのうちに越えてやろうと思っていたのに、もうそう思えない。 越えることなど出来ない。人としても、上官としても、ギルディオスを越えることなど無理だと感じていた。 気付くと、皆の視線が扉に向けられていた。ダニエルも釣られる形で、閉じられている古びた扉を見つめた。 巨大な剣を背負った甲冑の姿は、もうどこにもなかった。 路地の隙間に挟まっているヴェイパーは、押し黙っていた。 フローレンスの精神感応がヴェイパーの感覚と繋げられているため、彼女の聞いた話は、全て伝わってきている。 当然、ギルディオスの過去の話も聞こえていた。それを同じく、精神感応で感じ取った感情も含まれていた。 ヴェイパーは、寂しくなっていた。ギルディオスが去ったこともそうだが、彼が人間であるから寂しくなった。 外見は同じような鉄の固まりなのに、中身は大違いだ。やはり自分は人ではない、とヴェイパーは思っていた。 けれど、それは仕方のないことだ。無機物から生み出された自分は、結局は無機物でしかないと知っている。 進化も出来ない。成長も出来ない。そして、ギルディオスのように深く思い悩むほど、自我は発達していない。 年月が経てば別かもしれないが、年月が経とうとも幼子のままかもしれない。だが、それは悪くないと思った。 成長出来ないのであれば、出来ないまま生きていけばいい。道具として生まれたのだから、道具として生きる。 ヴェイパーは、左手の中に握っていた緑色の魔導鉱石を目線まで上げた。アルゼンタムも、押し黙っていた。 「あるぜんたむ」 「ンー、アァアアアア?」 間を置いてから、アルゼンタムは返事をした。ヴェイパーは、ぎち、と首をかしげた。 「あるぜんたむ。どうして、たいちょう、いなくなっちゃった?」 「ソォーリャアアァ決まってンダァーロォーウ。居たたまれなくナッチマッタンダァーヨォ−ウ」 「たいちょう、わるいこと、してない。たいちょうは、う゛ぇいぱーたちのために、たたかったのに、なんで」 「ハッハッハァーン。テーメェ、馬鹿ジャネェノォオオオオ? ギルちゃんギルッちギルディオスはァー、キースとかいう竜も死なせちまったしィージョセフィーヌとかいうガキンチョも捜し出せなかったしィー、挙げ句にテェーメェラの基地をぶっ壊させチマッタンダァーゼェー? それで悪くねぇハーズガネェダァローウ?」 「でも。たいちょう、わるいこと、してない」 ヴェイパーは身を乗り出すように首を前に出し、少し語気を強めた。アルゼンタムは、その頑なな態度を笑う。 「うかかかかかかっ。ソーォリャそうかも知れねぇケェードー、悪意のネェ悪事が一番タチが悪いンダァーゼェー? オイラが人を喰う理由みてぇにナァー。うけけけけけけけけ」 「あくいのない、あくじ?」 理解しがたい、と言いたげにヴェイパーは語尾を上擦らせた。アルゼンタムは返す。 「オゥイエー! ヴェイパー、テメェみてぇなマジモンの機械人形ニャーア解ラネェカモシレネェケードナァー」 「じゃあ、あるぜんたむには、わかる?」 「少ォーシィハナァー。オイラァ、マジな機械人形ジャネェーミテェーダーカラナァアアアア」 アルゼンタムはそう言いながら、ギルディオスの話を反芻していた。なぜかは解らないが、思考から離れなかった。 ヴェイパーを通じて感じていたギルディオスの過去の話は、何一つ覚えがないはずなのに、忘れられなかった。 もしかしたら、これが自分の過去の一端かもしれない。そう思うと、アルゼンタムはぞくぞくとした快感を覚えた。 思い出すことすら出来なかった過去が、やはりあるのだ。過去があるならば、やはり自分は別の存在だったのだ。 忘れさせられている過去の記憶を取り戻して、本来あるべき自分に、一刻も早く戻りたくてたまらなくなっていた。 ヴェイパーはアルゼンタムの答えには納得していなかったが、これ以上は聞かなくてもいい、と思って黙った。 空を仰ぐと、東から徐々に藍色に染まり始めていた。暗くなった場所には、小さな星が瞬きながら輝いている。 これから、ギルディオスはどこに向かっていくのだろうか。そして、これからどうするつもりなのだろうか。 ヴェイパーには、どちらも考え付かなかった。 太陽が没した頃、ギルディオスは浜辺に立っていた。 夜の藍色を吸い取った海面が波打ち、ざあざあと騒いでいる。吹き付けてくる潮風が、マントを揺らしている。 無数の星々で出来ている星の運河が、頭上で輝いていた。それを見上げながら、ただ、立ち尽くしていた。 行くべき場所も、やるべきことも見失っていた。過ちに過ちを積み重ねて、罪の上に罪を造り上げてしまった。 せめて、ジョセフィーヌに会えるなら。二十五年前の出来事の贖罪が、僅かであろうとも出来るかもしれない。 だが、彼女はいない。理由も解らず、何も残さず、姿を消してしまった。その行方は、未だに掴めていない。 フィリオラにも、部下達にも、償えることはない。罪を許してもらおうなどとは思わないが、償いたかった。 しかし、何を。ギルディオスは星の運河から視線を落とし、足へと打ち寄せてくる黒い海水の波を見下ろした。 弱い月明かりによって映っている甲冑の姿は、波に揺れて歪んでいた。それが、奇妙で滑稽だと思った。 ぼんやりしていると、無性に、彼女に会いたくなった。あの冷たくも突き放した言葉を、聞きたくなった。 現金なものだ。あれほど強い決意をして背を向けたのに、いざ負けてしまえば、昔のように接したくなる。 殺されるかもしれない。今度こそ、噛み砕かれるかもしれない。それでも、彼女に会いたくて仕方なかった。 ギルディオスは海に背を向け、走り出した。フィフィリアンヌに会うために、砂を蹴って無心に駆けていく。 走っていると、心臓が痛んでいた。実際は、様々な感情によって、魂が押し潰されてしまいそうな感覚だった。 過去の傷に対面して、現在の過ちを見据えて、心の奥底を抉っている傷口は大きく開いて鮮血を流している。 苦しみの刃が傷口を押し広げ、流せない涙が鮮血となり、魂が脈打つとそれに合わせてだくだくと血が溢れる。 だが、この傷を治したいとは思わなかった。治してしまえるはずもないし、治したところで、罪は消えない。 誰にも何にも罪を償えていない今、こうして苦しみを味わうことだけが、彼らに対して出来るただ一つの贖罪だ。 ギルディオスは、走り続けた。息を弾ませながら、潮騒だけが聞こえる砂浜を、どこまでも走っていった。 竜の少女に、再び会うために。 古き傷痕に未だ苦しみながら、重剣士は戦い続ける。 消えない罪と逃れられない苦しみに苛まれながらも、戦い続けてきた。 だが。戦うことを止めた時、彼が向かう道は、戦場ではなくなった。 罪を償う道を見つけ出すために、駆けるのである。 06 1/23 |