ドラゴンは眠らない




幸せの定義



グレイスは、安らいでいた。


明るい日差しの下を、おぼつかない足取りで娘が歩いている。母の手を離れて、こちらに一歩一歩やってくる。
小さな両手を前に出して、顔一杯に笑顔を浮かべ、ヴィクトリアが近付いてきていた。グレイスは、身を屈める。
ヴィクトリアは父のすぐ前まで歩いてきたが、不意に姿勢を崩してしまった。足を滑らせ、前のめりになる。

「おっと」

グレイスは娘に手を差し伸べ、ヴィクトリアを受け止めた。父の手に支えられた幼子は、転ばずに済んだ。
前のめりになっている娘の両脇を抱き上げると、高々と持ち上げた。きゃあ、とヴィクトリアは歓声を上げる。
父を上から見下ろしている幼子は、はしゃいで手足を揺らしている。グレイスは娘を下ろし、ぎゅっと抱いた。
幼い娘はとても柔らかで、力を込めれば潰れてしまいそうなほどだ。甘く懐かしい、乳の匂いが漂ってくる。
グレイスはヴィクトリアの、両親に似て深みのある黒髪を撫でながら、娘への愛おしさで表情を崩していた。

「あーもう、可ぁ愛いなぁーお前ってやつはー」

「だったら、もっと一緒にいてあげなさいよ。外にばっかり行ってないで」

ロザリアはグレイスの元にやってくると、夫の腕に抱かれている娘を撫でた。グレイスは、妻を見下ろす。

「そうしてぇんだけどなぁ。黒幕の野郎、自分があんまり動けないもんだからオレばっかり頼っててさぁ…」

グレイスはうんざりしたように眉を下げ、ヴィクトリアの小さな肩に顔を埋める。

「昨日だって、首都の様子が気になるから見てこい、って言いやがってさぁ。オレにはオレの事情があるって言って、なんとか断ってきたけどまた頼まれそうな気がするぜ。嫌んなっちまう」

「でも、アルゼンタムの魔導鉱石は、ギルディオス・ヴァトラスが持って行ったらしいじゃない。黒幕とアルゼンタムは感覚が繋がっているはずだから、首都の様子が解るんじゃないの?」

ロザリアはヴィクトリアの頬に口付けてから、グレイスの頬に手を触れた。グレイスは、妻の手に顔を傾ける。

「有効範囲があるんだとよ。なんでも、海を越えるほどの距離じゃダメらしい」

「あら、意外ね。てっきり、黒幕はあなたを凌ぐほどの実力があるからあなたを使っているんだと思っていたけど」

「いや、別にそういうわけじゃねぇよ。オレはただ、あいつのやってることが面白そうだなって思ったから、手ぇ貸してやってるだけなんだ。オレとしちゃただの道楽だから金も要求してねぇけど、黒幕の野郎はマジだからさー。なんかこー、付いていけねぇ部分があるんだよなー」

「例えば?」

「アルっちのこととかね。オレはああいうのは嫌いじゃねぇけど、遣り口としてはえぐいよなーって」

「あら。あなたに言われちゃお終いね」

可笑しげに笑ったロザリアに、グレイスはやりにくそうに口元を曲げる。

「そう言うなよ。そう思ったんだから」

だー、うー、とヴィクトリアが手足をじたばたさせた。グレイスは、ヴィクトリアをきつく抱き締めていた腕を緩めた。

「あ、悪ぃ悪ぃ。苦しかったか」

グレイスがヴィクトリアをロザリアに渡していると、灰色の城の裏口が開いた。両開きの厚い扉が、軽く動いた。
重たい扉を易々と開き切ったメイド姿の幼女、レベッカは階段を下りてきた。裏庭の親子に、駆け寄ってくる。
見事に咲き誇った花壇の脇を抜け、バラの花で出来ている生け垣を過ぎ、円形の人工池の傍までやってきた。
レベッカは持ち上げていた紺色のスカートを下ろしてから、グレイスを見上げた。グレイスは、幼女を見下ろす。

「なんだ、レベッカ」

「御主人様ー。こんなのー、来ましたー」

レベッカはエプロンの前ポケットから、一通の封筒を差し出した。グレイスは、それを受け取って宛名を読んだ。

「なんでこいつから来るんだよ」

「あら、本当。妙な相手から手紙が来たものね」

ロザリアは身を乗り出し、手紙の宛名を見た。そこには、リチャード・ヴァトラス、と綺麗な字で書かれていた。
グレイスは、訝しげに眉根を歪めた。裏返して封蝋を乱暴に開けると、やはり綺麗に畳まれていた便箋を抜く。
それを開き、文面を眺めた。宛名と同じく整った字で書かれていたことは、字にはそぐわない内容だった。
穏やかな言葉で書かれてはいたが、要するに宣戦布告だった。いつか必ずルーを滅ぼす、というものだった。
グレイスは、思わず便箋を握り潰した。質の良い便箋が千切れるほど強く握り締め、奥歯も噛み締めていた。
ロザリアは手紙の文面を読んでいたが、苛立ちを露わにしているグレイスを見上げ、彼の腕に手を添える。

「あんな魔導師一人、どうってことないでしょ」

「そういう問題じゃねぇよ」

グレイスはロザリアの手を外し、彼女に背を向けた。妻から見えない位置で二枚目の便箋を開き、文章を睨む。
リチャードは、こう続けていた。ヴァトラスはルーに報復する権利がある、そして、ルーは全て滅ぶべきだ。
ルーの直系であるグレイス・ルーだけでなく、その妻子も当然ながら滅ぶべきであり、滅ぼすつもりである。
そして最も滅ぶべき存在は、グレイス・ルー、あなたではなく、その血を受け継いだ幼子、ヴィクトリアである。
今は幼子だが、成長すればどのような力を持ち、どのような邪心を持ち策謀を巡らせるのか、予想も付かない。
世界の平穏のために、僕はヴィクトリアを最初に手に掛ける。あなた方夫妻は厄介なので、後に回すことにする。
そちらに隙が出来次第、僕は再度襲撃を行う。その際は、もう二度と呪いになど掛からず、迷わず目的を果たす。
どうか、その日を楽しみにしておいてくれ。リチャードの飄々とした笑顔が、目に浮かんでくるような文面だった。
グレイスは便箋を空中に放り投げると、指を弾いた。途端に、どこからともなく現れた火で便箋が燃やされた。
すぐに燃え尽き、薄っぺらい灰がひらひらと舞い落ちてきた。グレイスは、ぱしん、と手のひらに拳をぶつける。

「上等じゃねぇか。そこまで言うなら、こっちから遊びに行ってやろうじゃねぇか」

「でしたらー、わたしもー」

グレイスの背にレベッカが声を掛けると、グレイスはレベッカに振り向く。

「こういう時はな、オレ一人で充分なの。家庭を守るのは親父の仕事だろうがよ」

「わっかりまーしたー」

少し不満げだったが、レベッカは頷いた。ロザリアは、いつになく険しい目をしている夫をじっと見つめていた。
冒頭を少し読んだだけでは、よくある脅迫文だった。あんな内容の手紙は、この城にはよく来ているというのに。
普段のものとは、差出人が違うからだろうか。だが、リチャード・ヴァトラスなど、夫には脅威でもなんでもない。
一般的に見れば凄腕の魔導師だろうが、グレイスにしてみれば子供同然で、真っ向から相手をするほどではない。
なぜ、そんなに怒っているのだろう。ロザリアは、笑顔の消えたグレイスがほんの少しだけ怖くなり、顔を伏せた。
グレイスは妻の元に戻ると、彼女の顎を持ち上げて目線を合わせた。唇を押し当て、舌を絡めて深く口付ける。
ひとしきり味わってから、グレイスは顔を放した。不安げな眼差しのロザリアに、いつも通りに笑ってみせる。

「心配すんな。すぐに帰ってくるから」

「だけど」

「ああ、そうだ。ロザリア、今日はお前が夕飯を作ってくれよ」

グレイスの唐突な提案に、ロザリアは目を丸くする。

「どうして? いつも、レベッカが作っているじゃないの」

「いいじゃねぇかよ、一日ぐらい」

拗ねるグレイスに、ロザリアは渋い顔をする。料理の腕が悪いのは、自分が一番よく知っている。

「でも、私が作ると、どんな簡単な料理だって焦げるのよ。それでもいいの?」

「いいんだよ。オレがいいったらいいの」

にぃっと楽しげに笑ったグレイスに、ロザリアは仕方なしに頷いた。

「じゃあ、作るけど、期待はしないでね。お願いだから」

「そんなこと言われると、逆にしたくなっちまうなぁ」

グレイスにそう言われ、ロザリアは気恥ずかしさで頬を染めた。彼の言葉が嬉しいのだが、情けなくもあった。
新婚当初の苦い記憶が蘇ってきて、余計に情けなくなる。ほとんどしたことのなかった料理を、色々と作ってみた。
だが、その度に全てが失敗した。台所を何度も汚したし、食材もかなり無駄にしたし、何一つ上手く出来なかった。
幼い頃から、射撃の腕を活用したいと願っていて、警察学校に進むために勉強漬けの日々を送ってきたせいだ。
そのおかげで警部補にまで昇進出来たのだが、その弊害で、女らしいことは全くと言っていいほど覚えなかった。
家事も化粧も振る舞いも、両親は教えてくれたがロザリア自身が覚えようとしなかったため、身に付いていない。
グレイスの元にやってきて、ようやく色々と覚え始めた、というような状態だった。ロザリアは、彼を上目に見る。

「…しないでよ」

普段の気の強さが引っ込んでいて、頼りなく気弱な声だった。彼女の弱い表情が、グレイスには愛らしく思えた。
グレイスはロザリアを強く抱き締めたい衝動に駆られたが、ヴィクトリアを潰してしまう、と思って留まった。
その代わりに、妻の黒髪に指を差し入れた。長くしなやかな髪は手触りが良く、するりと簡単に滑り抜けた。
グレイスはロザリアの額に軽く口付けてから、離すのを名残惜しく思いながらも髪から指を抜き、距離を開けた。

「じゃ、行ってくるわ」

「行ってらっしゃいませー、御主人様ー」

レベッカはグレイスの背に、深々と頭を下げた。その動きに合わせて、頭の両脇でバネ状に巻かれた髪が揺れる。
ロザリアはヴィクトリアの小さな手を取り、振らせてやった。途中で振り返ったグレイスは、彼女らに手を振り返す。
花壇の脇を過ぎて、灰色の城の裏口の扉に向かって直進しながら、グレイスはじわじわと怒りを高めていった。
ポケットに両手を突っ込むと、右側に折れ曲がった紙の感触があった。便箋だけ焼いて、封筒は残してしまった。
これも後で焼いてやろう、と思いながら、グレイスは裏口の扉を開けた。薄暗い廊下に入り、真っ直ぐに進む。
ひやりとした空気の廊下に、自分の足音だけが反響する。正面玄関に向かいながら、無意識に拳を握っていた。
自分でも、こんなに怒るのは珍しいと思っていた。脅されるのなんて日常茶飯事だし、むしろ脅す方が多い。
だが、怒らずにはいられない。その理由は考えずとも解っていたし、あの手紙の原因は自分にもあるのだ。
家宅捜索の際にリチャードを罠に填め、その本心を暴いてしまったから、あんなにも大胆になったのだろう。
本心を暴き出す、という魔法はその人物を辱めるのが目的なのだが、たまに開き直らせてしまうことがある。
密かに思っていたことを前に出してしまったのだから、いっそのこと認めてしまおう、と。大方、そうなのだろう。
リチャードなど気にも掛けていない存在だったし、接したのはごく最近だから、彼の遣り口を良く知っていない。
レオナルドのように、短絡的に思えるほど実直な行動を取らないことぐらいは、先日の家宅捜索で理解している。
前に出ず、後ろから他人を利用して攻めてくる。グレイスの遣り口に似てはいるが、根本的な部分が違っている。
まず、目的が違う。グレイスはただ己の快楽と道楽のために他者を利用するが、リチャードはそうではない。
ヴァトラスのためにルーを滅ぼす。その大義名分があるがために、己の能力以上に大胆になっているようだ。
ならば、その自信を崩してやろう。そして本心の更に奧、深層まで暴いて痛め付けて、思い知らせてやる。

「このオレ様に楯突こうなんざ、千年早いってなぁ」

グレイスはにやりとしながら、扉を開けた。着ていた灰色の上着を脱いで片手に持ち、背中に引っ掛ける。
温かく鮮やかな日差しの下に出た灰色の呪術師は、片手を挙げた。親指と人差し指を重ね、ぱちん、と弾く。
乾いた破裂音が響き渡り、ふわりと弱い風が巻き起こった。彼の足元から吹き上がった風が、上に昇っていく。
弱い風がグレイスの緩い三つ編みを揺らす直前に、彼の姿は徐々に薄らぎ、風が消えるとその姿も消えていた。
開け放たれたままの正面玄関からは、草の匂いのする春風が吹き込んできた。




その頃。ヴァトラスの屋敷は、穏やかだった。
キャロルは、手入れの行き届いた前庭を歩いていた。今し方届けられた今日の新聞を、大事に抱えていた。
その新聞は大衆紙とは少し違っていて、文面も硬いし小難しい見出しが多い。政治と経済を扱う新聞だった。
玄関に向かいながら、キャロルは緊張していた。両脇の花壇から漂う甘い花の匂いを感じても、安らげない。
新聞を届ければ、その後がどうなるか解っているからだ。リチャードが始めた勝負は、未だに続いていた。
リチャードは何かにつけてキャロルに手を出し、構ってくる。それは、キャロルを追い詰めるためのものだった。
キャロルが彼を求めたらキャロルの負けで、リチャードが彼女に本気になれば彼の負け、という勝負をしている。
よくよく考えてみれば訳が解らないし、勝敗の判定が釣り合っていない気もしたが、今更言い出せるはずもない。
後にも先にも、リチャードがあんなことを言ったのは初めてだし、理由はどうあれ好きな人に構われるのは嬉しい。
キャロルが勝負に負けてしまったら、彼はキャロルを手放すと言った。だが、そうなっても、悔いはないだろう。
生まれて初めて心から愛した人の傍にいることが出来て、必要とされて、構われているというだけで幸せだ。
リチャードと触れ合っていると、以前のような愛情への歪んだ渇望は現れなくなったし、心が満ち足りてくる。
だから、勝負に負けても、大丈夫だと思った。心と体に満ちた幸せがあれば、離れてしまっても平気だろう。
キャロルは扉を開けて玄関前の広間に入り、その左側にある居間に入った。ソファーには、彼が座っている。
失礼します、と頭を下げてからキャロルはリチャードの側に寄った。リチャードは、組んでいた足を正す。

「じゃあ、解っているね」

にこやかに笑ったリチャードにそう言われ、キャロルは反論出来るはずもなく、赤面しながら頷いた。

「承知しております」

キャロルはリチャードに新聞を渡してから、黒いメイド服のスカートを正した。深呼吸してから、彼に背を向ける。
スカートの後ろを押さえ、リチャードの足の上に腰掛けた。背筋を伸ばして、膝の上に置いた手を握り締める。
なるべく背を当てないように体重を心持ち前に傾け、キャロルは身を縮めた。すぐ後ろに、リチャードがいる。
それを意識しただけで、キャロルの緊張は更に増してきた。頬が熱くなっていくのが、自分でもよく解った。
何度やっても、慣れなかった。事ある事に口付けられるのも、強く抱き締められるのも、体に触れられるのも。
リチャードは手慣れた様子でキャロルを扱ってくるので、尚のこと戸惑ってしまうが、逃げられたことはない。
身を引いても間を狭めてくるし、彼の腕を振り解けるほどの度胸もないし、何より、彼に触れられたかった。
もう、勝負には負けている。最初から勝ち目なんてない。辛うじて、欲求を押さえ込めているだけのことなのだ。
もっと傍にいたい。もっと触れてきて欲しい。キャロルは沸き上がってくる欲求を押し止め、目線を前に戻した。
前方は、リチャードの広げた新聞によって塞がれていた。質の悪い紙に、粗い印刷で小難しい話が書いてある。
キャロルはそれを目で追うこともなく、胸を手で押さえた。どくどくと暴れている心臓の鼓動が、痛いほどだった。
すると、背中に温かなものが被さってきた。キャロルがびくりとすると、リチャードは彼女に肩に顎を乗せる。

「字、どれくらい読めるようになったんだっけ?」

耳元にリチャードの声がしてきたので、キャロルは身を縮める。

「難しい言葉でなければ、大体は、読めるようにはなりました」

「計算は?」

「たっ、足し引き出来る数は増えたんですが、掛け算と割り算は、まだ」

「そう。でも、それも時間の問題だね。フィオちゃんが帰ってきたら、また教えてもらえるだろうから」

リチャードはキャロルの波打った赤毛に、頬を当てた。キャロルは、緊張の上にかなり動揺してしまった。

「ひゃっ」

「魔法の方はどうなんだい? 炎ぐらいは出せるようになった?」

キャロルの動揺を気にせず、リチャードは穏やかに言った。キャロルは身動き出来ず、頷きも出来なかった。

「ほのおは、まだ、出せませんけど、水を固めるぐらいなら」

「あー、フィオちゃんらしいねー。物質操作の魔法の初歩はどれも同じだけど、一番安全なのは水だもんね」

教え方って性格が出るなぁ、とリチャードは感心している。キャロルはそれどころではなく、息まで詰めていた。
ぎゅっと唇を結んで目をきつく閉じ、震えそうなほど手を握り締めている。おかげで、エプロンが歪んでいる。
リチャードはそれを、可愛いなぁ、と思いながら彼女を見下ろした。ここまで意識されると、いっそ面白い。
こちらとしては大したことはしていないのに、少し触れただけでがちがちに緊張し、頬を真っ赤にしてしまう。
目に見えて、好かれているのが解る。リチャードは目では新聞を追っていたが、内容はあまり入ってこなかった。
足の上に感じる少女の柔らかさが、心地良かった。まだ肉の薄い太股の感触が、スカート越しに伝わってくる。
欲情するほどではないが、悪いものではない。リチャードは細めていた目を開き、キャロルの横顔を眺めた。
彼女との勝負を始めて、一週間程度しか経っていない。だがそれでも、日に日に触れている時間は増えている。
当初は、あからさまに煽るためにしか触れなかった。口付けて抱き締めて、というものばかりを行っていた。
それでもキャロルが音を上げないので、増やしてみたらどうなるか、と思い、今のようにやたらと近付かせた。
反応が大きいキャロルで遊ぶ意味もあったのだが、そのうち、近付いて接することが心地良くなっていた。
まずい傾向だな、とリチャードは思った。その感情が発展してしまえば、どうなってしまうのか目に見えている。
だが、不思議と嫌ではなかった。その感情をもっと嫌悪するかと思っていたが、意外にすんなり受け入れている。
自分らしくない、と思う反面、求めていることを求めないようにしていたのはこちらも同じなんだ、と感じていた。
だから、触れ合うことが楽しくてたまらない。リチャードは浮かんできそうになる本心の笑みを、打ち消した。
体を起こして彼女の肩から顔を放すと、キャロルは安堵して肩を落とした。はあ、と力の抜けた息を吐いている。
それでも緊張は収まってないようで、手は握られたままだ。リチャードは新聞から手を放し、その手に手を重ねる。

「そんなに君は僕が嫌い?」

「決して、そのようなことではございません!」

驚いたように、キャロルは声を上げた。リチャードは手の中に収まる彼女の手に、指を滑らせる。

「じゃ、何をそんなに我慢してるのさ?」

「がっ、我慢、している、と言いますか、その」

照れくさそうに、キャロルは俯いた。自分の手の上に重なっている、リチャードの手は大きい。

「あまり、お近づきになられるから、困ってしまうのでございます」

「へぇ。どうして?」

「そんなこと、ご存知でいらっしゃるのに…」

かなり困ったキャロルは、泣きそうですらあった。本心を口に出してしまえば楽だが、それでは負けてしまうのだ。
嬉しい、愛おしい、けれど気恥ずかしい。キャロルは、様々な感情で紅潮した頬が熱く、体も熱を持っていた。
リチャードの手が載せられている方の手は、緩められない。だが彼は、指先を滑らせて緩めようとしてくる。
キャロルは意識を逸らそうとしたが、ダメだった。こうして意地が悪い時だけは、少し、嫌いになりそうだった。
けれど、本当に嫌いになってしまう、というわけではない。解っているくせに、意地悪をする部分だけだからだ。
リチャードの指が止まると、今度はしっかりと握ってきた。暗に、逃げるな、とでも言っているかのようだった。

「少しは楽にしたら? 辛くない?」

「いいえ、別に」

キャロルは意地になって、リチャードに言い返してみた。こうなったら、とことん耐えてしまえばいい、と思った。
あまり意地の悪いことをされると、逆に反応を返さない方がいい。そうすれば、そのうち彼も諦めてくれるだろう。
思い掛けない言葉に、リチャードは面白くなってきた。新聞を床に落とし、表情を強張らせるキャロルに腕を回す。

「ああ、そうなの。じゃあもっとやるよ?」

「ひぃん…」

困り果ててしまったキャロルは、情けない声を漏らした。どう対抗してみても、リチャードにはまるで敵わない。
それどころか、調子に乗らせてしまった。なんでこんなにこの人は意地悪なの、と思うが、口には出せない。
体に回された腕に押さえ込まれ、キャロルはリチャードの胸の中に納められた。背中に、広い胸が被さった。
もう、逃げられはしない。キャロルはまだ緊張は解けなかったが、張り詰めていた気を緩め、肩を落とした。
こうなったら、抵抗しない方がいいのかもしれない。リチャードが構うがまま、流されるままでいるべきだ。
だが、どちらにせよ身が持たない。こうも毎日のように緊張しているせいで、夜になると疲れ果ててしまう。
その上、夜になってもリチャードと一緒に眠らなくてはならないし、キャロルの気が休まるときなど無きに等しい。
そのうち、心も体も参ってしまう。けれど、それすらも心地良く思えてしまうのだから、恋とは不思議なものだ。
背中に感じる彼に、自分の鼓動が伝わっていないか心配になる。頬に触れてみると、相当な熱があった。

「キャロル」

不意に名を呼ばれ、キャロルはびくりとする。

「なっなんでございましょうか!」

「なんでもない」

そう呟いたリチャードは、ソファーの背もたれに背を預けた。それに合わせて、キャロルも体が傾いてしまった。
肩に回されていた腕が下がって腰を引き寄せる形になり、頭の位置も少し下にずれて、胸の上に頭を預けた。
音が、聞こえてきた。キャロルの耳に、ほんの僅かではあったが、リチャードの規則正しい鼓動が聞こえてきた。
それは、とても優しい音だった。自分のものではない鼓動など聞いたのは初めてで、妙に嬉しくなってしまう。
ずっと聞いていると、緊張が少しずつほぐれてきた。頬の熱さも胸の苦しさも残っていたが、気分は安らいだ。
目を閉じれば、眠ってしまいそうだった。まだまだ仕事は残っているし、これから洗濯もしなくてはならない。
そうは思っていても、リチャードの腕から逃れてしまいたくはなかった。このまま、ずっと傍にいたかった。
膝の上に置いている手を上げて、彼の腕に縋りたい。彼の胸に耳を当てて、心臓の音をもっと良く聞きたい。
けれど、それは叶わないことだ。とっくに勝負には負けてしまっているし、彼を求めてしまうのは時間の問題だ。
求めてしまえば、この場所から去らなければならない。そういう決まりだと解っていて、勝負を始めたのだ。
だが。一度だけでも、求めてしまいたい誘惑もある。求めて、答えられたら、どれだけ嬉しくて幸せだろうか。
想像しただけで鼓動が高まり、頬の熱が上がりそうだった。キャロルは彼に見えないように、表情を緩めた。
教えてあげたい。知って欲しい。もっと、解って欲しい。こうして傍にいるだけで、とても幸せだということを。
上手い言葉なんて知らないし、思いの伝え方も知らないから、そういった思いをどう表現するのか知らなかった。
けれど、これが愛だと直感はしていた。恋心と合わせて生まれてくるが、恋に比べて確かな力のある感情だった。
この場所と同じく、失いたくなかった。そして、この感情ををリチャードに教えてあげたくて、たまらなかった。
言ってはいけないと思うと、余計に言いたくなってしまう。なんとなく、先程の彼の心境が解ったような気がした。
制限されると、逆にそれに背きたくなってしまってくる。相反しているが、決して悪いものではなかった。
キャロルは、不意に可笑しくなった。あれほど彼に振り回されていたのに、自分も割と楽しんでいるではないか。
彼女が笑いを堪えて肩を震わせていると、リチャードが顔を起こし、訝しげな目で、キャロルを見下ろした。

「何が可笑しいのさ?」

「いえ、別になんでもございません。ただ」

キャロルは言おうかどうしようか迷ったが、これぐらいはいいだろう、と思い、言ってしまうことにした。

「幸せだなぁって、思ったのでございます」

頬を赤らめて目を細めたキャロルは、穏やかな笑顔を浮かべていた。そして、リチャードの胸に頭を預けた。
一瞬、言葉が詰まった。リチャードはまた言い返そうと思っていたのだが、それがどこかに消えてしまった。
あまり、少女らしくない表情だった。何に似ているかと問われれば、子供を愛でる母親の顔に似ている気がした。
リチャードは、妙に悔しくなってきた。先程のキャロルの表情が忘れられず、あの感情も払拭出来ずにいる。
認めてしまうのは簡単だ。だが、一度でも認めてしまえば、そのままずるずると引き摺られてしまうだろう。
そうなってしまうのは、好ましくない。だが、深淵に踏み入るような蠱惑的な魅力があるのも、確かだった。
どうするべきなのか、判断に迷ってしまう。リチャードはキャロルの腰に回していた腕を緩め、片手を外した。
その手をどこに伸ばそうか考えていると、玄関の扉が叩かれた。金属の輪を、扉に打ち付ける重い音が響く。
恐ろしく、嫌な予感がした。







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