ドラゴンは眠らない




幸せの定義



玄関の扉を開けたキャロルは、見知らぬ来客を見上げた。
灰色のベストとスラックスを着た、身なりの良い若い男だった。長い黒髪を三つ編みにし、背中に垂らしている。
人の良さそうな顔立ちによく似合う丸メガネを掛けていて、深い灰色の瞳が印象的だった。男は、親しげに笑う。

「リチャード・ヴァトラスはいるか?」

「リチャードさんならいらっしゃいますが、どちら様でしょうか?」

キャロルが尋ねると、男は肩に引っかけて持っていた上着をキャロルに放って渡し、玄関に入ってきた。

「別に名乗る必要もねぇさ。会えば解るから。あっちがオレを呼んだんだから、来てやったまでよ」

「あの」

灰色の上着を抱え、キャロルは男を追いかけた。男は広間を見回していたが、ああ、と居間の方向を見て頷いた。
リチャードがどこにいるのか、キャロルが教えずとも解るようだった。そのまま、躊躇なく真っ直ぐに進んでいく。
キャロルは、戸惑いながら彼を追いかけた。会えば解ると言われても、こちらは解らないのだから困ってしまう。

「あなたは、どちら様なのでしょうか?」

「あー、そうか。あんたはオレのツラ知らねぇもんなぁ、悪ぃ、忘れてた」

居間に入る手前で立ち止まった男は振り返り、キャロルを見下ろした。

「オレはグレイス・ルーだ。で、あんたはキャロル・サンダースだな。親父さんにゃ世話になったぜ」

「え…」

キャロルは、害のなさそうな外見をした男の名に言葉を失った。グレイスと名乗った男は、へらへらと笑う。

「いやー、惜しいことしたぜ。リチャードの野郎があんたの親父さん、ウィリアムに目ぇ付けなきゃ、これからももっと利用してやるつもりだったんだがなぁ。アルっちの強化改造だけじゃなくって、レベッカちゃんの改造も手伝わせようとか思っていたんだが、逃げられちゃあどうしようもねぇよなぁ。まぁ、オレが頼んだ仕事はきっちり終わらせてから逃げたってことだけは、ありがたかったけどな」

キャロルは半開きになっていた唇を閉じ、唾を飲み下した。この男に聞きたかったことを、尋ねた。

「どうして、父はあなたに従っていたんですか」

「んー、ああ。ウィリアムの野郎、あんたに話していかなかったのか。んじゃ、教えてやろう」

グレイスは背を曲げ、キャロルと視線を合わせた。目の前に、灰色の瞳が現れた。

「ウィリアム・サンダースはな、あんたの母親、ソフィア・サンダースとその浮気相手を呪い殺すためにオレを雇ったのさ。料金後払いで、ってことでオレはその仕事をちゃーんとこなしたんだが、ウィリアムは支払いを渋った挙げ句に旧王都まで逃げやがってよー。癪に障ったから、死なねぇ程度に追い詰めて、オレの命令を聞くようにしたのさ。当然、呪いも掛けてな。アルっち、つまり、アルゼンタムの受注生産は、オレの命令のうちの一つだったのさ。これからもまだまだ使い勝手があるなーとか思っていたら、思いの外アルっちが大活躍したもんだから、ビビって逃げちまいやがった。だが、そろそろ野垂れ死んでる頃だろうぜ。オレがウィリアムに掛けてやった呪いは、反逆を禁ずる呪いだからな。その中には当然、逃亡を禁ずるってのも含めておいてやったからな」

キャロルは、目一杯目を見開いた。怯えと恐怖の色を浮かべる緑色の瞳に、灰色の呪術師が映っている。

「どうだ、爽快だろう? あんたを捨てた輩はもう死んだんだぜ。これからは、本当の自由がやってくるんだぜ?」

親しげな笑顔に、邪心が滲んでいる。キャロルは恐ろしさで腕が緩み、抱えていた上着を落とし、後退る。
今まで感じていなかった威圧感も感じ、その途端に膝から力が抜ける。逃げようと思っても、体が動かない。
圧倒的な魔力の気配が、目の前の男からする。竜の力を示していたフィリオラよりも、ずっとおぞましかった。
キャロルはなんとかもう一歩後退ったが、膝が折れ、床に座り込んでしまった。涙で、視界がぼやけている。
喉の奥まで迫り上がってきた悲鳴を飲み込むと、居間の扉が開かれた。リチャードが、困った顔をしている。

「なんでまた、いきなり来たんですか。あの手紙のせいですか」

「よぉーく解っているじゃねぇか」

グレイスは上半身を起こし、リチャードに振り返った。

「あんなのを送ってきたっつーことは、それ相応の覚悟があるわけだな? ん?」

「まぁ、それなりにはね」

普段と変わらず、リチャードは平然としていた。グレイスは、リチャードのキャロルとの間に立ち、腕を組む。

「そっちがそういう考えなら、オレにも考えがある」

「ほう?」

あまり興味なさそうに、リチャードは気の抜けた声を出した。グレイスは、少し不愉快げに眉根を曲げた。

「リチャード・ヴァトラス。あんたはルーを滅ぼそうと思っているようだが、そんな物騒な考えを起こすには大層な理由があるはずだ。そこんとこ、きっちり教えてもらおうじゃないか」

「そんなことでいいのかい」

リチャードは、グレイスの言い分に拍子抜けしてしまった。グレイスは、口元を上向ける。

「今のところ、オレが知りたいのはそれだ。リチャード、あんたは、ヴァトラス一族の中でもなかなか優秀な人間だ。魔法の方も頭の方もな。オレは長いこと生きているから、あんたらヴァトラスの歴史も嫌になるほど知っている。オレの兄貴はもう一つのヴァトラスにご執心だったが、オレはあくまでも王国側、つまり、あんたら魔法のヴァトラスの方が好きなんだ。理由は至って簡単、愛しのギルディオス・ヴァトラスの直系の血縁だからさ。だが、オレがあんたらを好きな理由はもう一つあったりする」

グレイスは、穏やかに話した。

「あんたら魔法のヴァトラスは、黒竜戦争で帝国王国が共に大敗したことで魔法の絶対的な立場が失われようとも産業革命が起きようとも、頑なに魔法を守り続けてきた。千年以上に渡って伝えられてきた大魔導師ヴァトラの教えを連ね、一度は方向性を違えたヴァトラスの方向性を軌道修正し、魔力のない者がヴァトラの意思を継ぎし者として家督を継ぎ、古代魔法研究の成果と魔法開発の技術を買われて共和国政府からも重宝されている一族だからな。野心と功名心によって上り詰めた政治のヴァトラス、帝国側のヴァトラスと違って、謙虚な姿勢は相変わらずだよ。まぁ、最近はそれも変わってきているようだがね。あんたとレオちゃんの両親は政治なんぞに目覚めちゃって、近頃は共和国議会議員の先生方にご執心で、ここ十何年かは首都から旧王都に戻ってきてねぇもんなぁ」

リチャードが黙っていると、グレイスは残念そうにしたが続ける。

「まぁ、それはそれとして。リチャード、あんたはヴァトラスの典型のような男だ。子供の頃から魔法に囲まれていたおかげでそこそこの高魔力と才能を見つけて最大限に生かし、その歳で魔導師協会の役員になって、魔法大学の講師にもなっている。魔法を重んじながらも、近代文化に背かない生き方をしている。器用なもんだと思うぜ。魔法と文明の両立ってのは結構面倒でな、どちらか一方を立てればどちらかが疎かになっちまう。魔導兵器の類もそんなもんで、アルっちに至っても魔法重視に作ったつもりが、どこをどう間違ったのかも解らねぇうちに歯車だらけの機械になっちまったほどだからな。何が言いたいかっつーとだな、オレはあんたがおかしいと言いたいんだ」

「僕が?」

訝しげなリチャードに、そう、とグレイスは頷く。

「魔法と文明のどちらも立ててどちらにも存在することが出来ているほど器用なあんたが、なぜこんな危険を冒す? オレらルーに関わるってことがどれだけやばいか知っているはずだろうに」

「知っているからこそ、滅ぼすべきだと判断したんだよ」

リチャードは、穏やかな口調に力を込めた。

「あなた方ルーは、中世の穢らわしい遺物だ。呪術の研究と発展に大いに貢献してくれたことは認めるけれど、その方向性が全て負であることが頂けない。そして、やっていることも悪でしかない。いつの時代も政治家や貴族に取り入って、甘言で惑わしては金と権力を奪って意のままに操り、堕落させていく。悪事の邪魔となるような者がいれば躊躇なく殺し、殺戮を楽しんでいるほどだ。あなた方の後ろに、どれだけの死体の山があるか想像したくもないよ。あなた方を生かしておけば、今後、どれほどの人間が命を落とすだろうか、どれほどの人間が道を誤ることだろう。それらを考慮した結果、僕は手紙に書いた通りの結論を出したわけだ」

リチャードは、グレイスを見据える。

「僕は必ず、ヴィクトリア・ルーを殺す。あなたの力を受け継いだ子供が成長することなど、悪夢そのものだ」

床の冷たさを尻に感じながら、キャロルは呆然としていた。二人の交わす言葉の内容が、すぐには理解出来ない。
時間が経つにつれて飲み込めてきたが、信じられなかった。リチャードの言葉を、理解するのが怖かった。
リチャードは、グレイスの子供を殺すつもりなのだ。確かに、リチャードの言っていることはもっともだと思った。
恐ろしい呪術師であるグレイスの血を持つ子供が、彼と同じ道を進むのであれば、脅威は更に増えてしまう。
だが、グレイスの子供だからグレイスと同じ道を進む、と考えるのは少々短絡的ではないか、とキャロルは思った。
キャロルは座り込んだ姿勢のまま、恐る恐る二人の様子を窺った。リチャードとグレイスは、睨み合っている。
グレイスはキャロルに背を向けているため、表情が見えなかった。それが、キャロルの不安を掻き立てた。

「悪夢か。なるほど、あんたはそういう感覚の持ち主か」

「悪夢以外の何者でもないでしょう。単純計算で七百年以上生き長らえているあなたの魔力と知識は、人を遥かに越えている。その全てをヴィクトリア・ルーが継いでいたら、そして彼女があなたと同じく、いや、あなたを越えるほどの呪術師を志すとしたら、呪術師でなくとも強大な魔導師としてのさばるとしたら。この国だけでなく、大陸全体にも混沌をもたらすかもしれない。それが、悪夢でないはずがない」

「嬉しいねぇ。ヴィクトリアのこと、そこまで買い被ってくれているのかぁ」

リチャードの言葉に、グレイスはわざとらしく喜んでみせた。だがすぐに、表情を険しくする。

「だがそいつは、間違いだぜ。オレにとっちゃ、ヴィクトリアは悪夢なんかじゃねぇ。大事な大事な宝物さ」

「意外ですねぇ。あなたみたいな冷酷な人にも、人らしい感覚があったんですか」

リチャードもまた、わざとらしく感心した。まぁな、とグレイスは素っ気なく返す。

「オレは、自分で言うのもなんだがろくな人生送ってきてねぇんだ。ルーの家の中でも大した生まれじゃなかったし、えげつねぇことが大好きだから変な奴らとしか関わってこなかったし、家族なんてものは端っからなかったし、惚れた女は死んじまうし、惚れた男も連れないし、欲しいものは大体手に入れちゃってもうやることなんてねぇし、ここんとこお偉方で遊ぶのも面白くなくなってきたし、ろくなことがねぇ。だがな、ロザリアとヴィクトリアは別なんだ。ロザリアはいい女さ。乱射が大好きで人殺しも好きで好きでたまらないような性格で、ちょっとばかし不器用なんだが、それすらもオレに取っちゃ愛しくて仕方ねぇ。ロザリアがオレを愛してくれているからさ。だからオレも、ロザリアを愛している。ロザリアがオレを欲しがってくれたみてぇに、オレもロザリアが欲しくてたまらねぇのさ。夫婦になった今だって、まだまだ物足りないぐらいさ。一緒になってから二年しか経ってねぇから、知らない部分の方が多いし、これからそれを知っていくのが楽しみでならねぇんだ。そして、俺が愛して止まない女とオレの血が混じった娘は、何よりも大切だ。惚れた女との間に子供が出来ることぐらい、幸せなことはねぇと思うぜ。だからオレは、ヴィクトリアをロザリアと同じかそれ以上に愛している。こんなろくでもねぇ男を、一端の父親にしてくれたんだからな」

グレイスは、表情を変えないリチャードを睨む。

「リチャード。お前なんぞに、オレの幸せをぶっ壊す権利なんてあるわけがねぇ。あんたみてぇな若造に、オレの何が解る。解るわけがないよな、理解しようとしねぇんだから。あんたは他人を利用する。だが、ただ使うだけでその後のことは何も考えちゃいねぇ。オレは色々と考えて、色んな人間を使ってやっているのさ。どうやればこいつをどん底に突き落とせるか、どうやれば死ぬほどの絶望を味わわせられるか、とかな。オレはな、オレが持ち上げたおかげで有頂天になっている人間を地獄の底まで叩き落とすのが大好きなんだ。だがそれは、ちょっとした温情でもある。散々幸福を味わったんだから、その逆になるのが当然だ、っていう法則を教えてやっているんだよ。どこの世界でも通用する、どこの神様も取り決めている当たり前のことをな」

グレイスの口調は変わらない。

「あんたがオレらルーを狙う真意も、その辺にあるんじゃねぇのか。確かにオレは、色んな人間を不幸にして殺してきた。だが、それはオレ自身のことじゃねぇ。オレは他人で遊んで楽しんできただけだし、これからもずっと楽しんでいくつもりだ。だが、オレ自身の不幸はやっとなくなってきたところなんだ。馬鹿なご先祖に振り回されて生きなきゃならなかったのが終わってくれたし、ルーの血族だからっつーしがらみもやっと消えてきてくれたし、奥さんと子供も出来て、幸せの真っ直中にいる。だが、あんたはそれが気に食わないんだ。そうだろう?」

リチャードは、僅かながら眉根を歪めた。その反応に、グレイスはにたりと笑う。

「ま、気に食わなくて当然だよな。リチャードとレオちゃんの世代になってからのヴァトラスは、世界的な魔法の衰退に引き摺られる形で没落へと直進している。魔法の需要が目に見えて減ってきたから、魔導師の地位もガタ落ちしたし、何百年にも渡って積み上げてきた王族との繋がりも、王国の崩壊と一緒にパァだし、かといってストレイン家みたいに器用じゃないから、方向転換出来ずにいる。その結果、首都におわす政治家の先生方に縋り付かなきゃ今までの地位を保てないぐらい、落ちぶれちまった。あんたの地位やこの屋敷があるおかげで今のところは辛うじて堪えているが、レオちゃんみたいな跳ねっ返りはいるし、偉大なご先祖のギルディオス・ヴァトラスは異能部隊絡みで変なことをやらかしちまってるし、完全に失墜するのは時間の問題だ。だからこそ、あんたはルーを滅ぼしたい。ルーを滅ぼして、再び魔導師と魔法の地位を確立し、ヴァトラス家に栄光と幸せを取り戻してぇんだ。違うか?」

グレイスの言葉が止んでも、リチャードは答えなかった。答えようにも、言い返すための言葉が出てこなかった。
心を見透かされているかのようだった。ルーを滅ぼしたい真意など、それに関わることなど出したことなどない。
全て、外からの考察だ。だが、そのほとんどが的を射ている。この男は、思った以上に感情を読めるようだ。
考えてみれば、そうでないはずがない。グレイスの行う悪事は、標的の感情に添いながら行われているからだ。
持ち上げるにしても突き落とすにしても、その相手の感情が掴めなければ、どんな言葉も上滑りしてしまう。
だが、解っていれば、そんなことはない。全て解っているからこそ、容易く相手の心を絡め取り、操れるのだ。
今更ながら、とんでもないのを相手にしてしまった、とリチャードは悟った。何事にも、上には上がいる。
グレイスの、呪詛に似た言葉から逃れようとしても、もう出来ない。勝てないと解ったから、言葉に詰まったのだ。
リチャードは、内心で自嘲した。グレイスの言う通りだと認めてしまえば楽だが、その後、どうなってしまうだろう。
間違いなく、殺される。呪いにせよ何にせよ、命を奪うことだろう。それが、グレイス・ルーという男なのだ。
子供のような感性で、気に入ればいつまでも執着し続けるが、気に入らなくなれば簡単に切り捨ててしまう。
リチャードは、グレイスの魔力の高さによる威圧感とは違った畏怖を感じていたが、表情には出さなかった。
だが、なぜ怖いのだろう。目の前に仇とした男がいるのだから、逆説的に捉えれば、打ち倒す恰好の機会なのだ。
家宅捜索の際も、城に乗り込むことは危ないとは思ったが恐れはしなかった。むしろ、喜びすらあったほどだ。
これでグレイス・ルーを倒せる、倒すための切っ掛けを掴むことが出来る、と。だが、今は、恐ろしかった。
リチャードは、目線を動かした。グレイスの背後で床に座り込んでいるキャロルは、とても怯えた顔をしていた。
キャロルは泣きたいのを堪えているのか、目に涙を溜めていた。先程見た慈愛の微笑みなど、見る影もない。
そういうことか、とリチャードは納得した。死してしまえば、彼女と触れ合うことなど、出来なくなってしまう。
きっと、それが嫌だから死ぬのが惜しく、恐ろしいのだろう。勝負には負けてしまったな、と内心で呟いた。
無意識ながら、リチャードの表情は変化していた。笑みは作っていたが、最初の余裕は消え失せている。
グレイスはリチャードから目を外し、背後の少女に向けた。キャロルがびくつくと同時に、彼の笑みも消えた。
そういう関係か、とグレイスは察して内心でにやりとする。新たに見つけた彼の弱点を攻めるべく、言う。

「だが、オレは売られたケンカを直接買うほど馬鹿じゃない。真っ向からあんたを攻めても、面白くねぇしな」

グレイスは、リチャードの表情に僅かながら怯えが垣間見えたのに気付き、楽しくなった。

「オレは、ウィリアム・サンダースの野郎に貸しがあるんだよ。これからもっとこき使ってやろうと思ったのに、勝手に逃げ出しておっ死んじまった。だから今度は、その娘で遊ぼうかと思ってよ。アルゼンタムはぶっ壊されちまったままだし、愛しのギルディオス・ヴァトラスもフィフィリアンヌも近くにいないもんから、暇で暇でどうしようもねぇんだよな。だから、この娘をいじって、あんたとやり合わせるってのはどうだ? 近頃はフィリオラに魔法を教えてもらっているみたいだし、魔力は低いみてぇだが呪いを掛けちまえばいくらだって水増しが出来るから、使い勝手は良さそうだ。人間の傀儡なんざ作るのは久々だなぁ、何百年ぶりかなー。無機物で作るよりも耐久性がなさすぎるから使い捨てみたいなもんだが、これはこれで楽しいんだぜ。死なせる時にだけ意識を戻してやって、それまでの所業を頭ん中に流し込んでやると、狂いながら死んでいくんだよ。それがまた、たまんねぇんだよなぁ」

灰色の呪術師の笑みには、悪意が満ちていた。

「他人を利用するのが大好きなあんたが利用してきた娘を、今度はオレが利用する。イケてると思わねぇか?」

「待て!」

リチャードが反射的に声を上げると、グレイスはけたけたと笑う。

「馬鹿なことを言うんじゃねぇよ、リチャード。オレに戦いを吹っ掛けてきたのは、あんただろうが。オレがどうやって応戦しようが、オレの勝手なんだよ。それともなんだ、馬鹿正直に真正面からやり合おうってのか? そんなもん、オレもあんたも柄じゃねぇよなぁ?」

丸メガネの奧にある灰色の瞳は、愉悦を浮かべていた。心の底から、おぞましい所業を楽しんでいるのだ。
リチャードは、拳を固く握り締めた。グレイスの肩越しに見えるキャロルは、真っ青になってしまっている。
グレイスは、笑っている。笑い声を押し殺してはいるが、至極愉快そうな声が、喉の奥から漏れていた。
冗談ではなさそうだった。この男ならば、躊躇いなくやりかねない。本気で、キャロルを傀儡にする気なのだ。
リチャードは、恐怖と共に寒気を感じた。灰色の城での戦いの際に、切り捨てられた警官隊達の姿が浮かんだ。
あの時、血の海の中に立っていたのはレベッカなる石人形だったが、それがキャロルになるかもしれない。
それだけは、いけない。リチャードは腹立たしさと苛立ちで強く噛み締めていた奥歯を緩め、語気を強めた。

「僕が、戦う。だから、彼女には手を出さないでくれないか」

「そいつぁ構わねぇが、正攻法だとは思うなよ。オレは攻撃魔法は下品で嫌いでね、使いたくないんだ」

グレイスの目が、細められた。リチャードは、焦燥を堪えながら笑みを作った。

「それはこちらも同じだよ。僕も、真っ当に戦うのは好きじゃないんだ」

キャロルは、グレイスの肩越しにリチャードを見上げた。彼が死んでしまうのでは、と思うと怖くてたまらない。
リチャードが、守ってくれようとしている。それはとても嬉しいが、だからといって、命まで張って欲しくなかった。
自分はそんなに価値のある存在ではないし、何より、リチャードが死んでしまったり傷付くことが恐ろしかった。
グレイスという男は、底が知れない。キャロルは感覚的にそれを理解していたので、余計に恐ろしさは増していた。
リチャードであっても、魔法では勝てないかもしれない。本当に、戦い合うことになったら、きっと彼は負ける。
そうなったら、と思うだけで嫌だった。あの温かな手が、優しい声が、苦しいほどの愛しさが、失われてしまう。
お願い、その人を殺さないで。その人は私の大事な人。そう言おうと思っても、喉が詰まっていて言葉が出ない。
キャロルは力の抜けた手をぎゅっと握り締め、浅く呼吸した。なんとかして、グレイスを止めなくてはならない。
足元に落ちている灰色の上着が、目に留まった。内側の胸ポケットに、冷たく黒光りするものが、入っている。
黒い鉄の固まり、回転弾倉式の拳銃だった。これは、グレイスのものだろう。キャロルは、小さく息を飲んだ。
上目に、目の前のグレイスの背を窺った。グレイスはリチャードを見据えていて、こちらには気も向けていない。
これなら、きっと。そう思い、キャロルはそっと手を伸ばした。上着の内側に手を入れ、冷たい拳銃を取る。
予想以上の重たさが手に訪れ、支えるのがやっとだった。力の抜けた腰を上げて立ち、なんとか構えた。
キャロルは、大きく息を吸った。引き金に指を掛けて真っ直ぐに腕を突っ張り、ごっ、と銃口を押し当てる。

「…おねがい」

背中の硬い感触と恐怖に満ちた少女の声に、グレイスは振り返った。キャロルは、震える手で銃を握っている。

「そのひとを、ころさないで」

「良い度胸だな。腰抜けの親父とは大違いだぜ」

気に入った、と言わんばかりにグレイスは笑った。

「撃つなら撃てよ。だが、その前にハンマーを起こして弾倉を回しな。一番上の弾倉は空だから空砲しか出ねぇぞ」

キャロルは親指でハンマーを動かそうとしたが、固かった。それ以前に力が籠もらず、銃が下がりそうだった。
ぎちぎちと軋むハンマーを起こして弾倉を回し、かきん、と固定させる。重みと緊張で、指が痺れてしまいそうだ。
曲がってしまいそうな手首を据えて、引き金に人差し指を掛けた。キャロルは引き絞ろうとしたが、顔を逸らす。
いつのまにか詰めていた息を取り戻し、ぎゅっと瞼を閉じた。滲んでいた涙が溢れ、頬を伝って顎から落ちた。
引き金を、絞らなければ。この男の体を撃ち抜いて、リチャードを殺させないようにしなくては、いけない。
だが、震えが止まらない。キャロルは涙をぼろぼろ落としながら、小刻みに震えている肩を止めようとした。
しかし、体は言うことを聞かなかった。グレイスに対する恐怖とリチャードを失う恐ろしさと、もう一つあった。
人を殺すおぞましさが、体を震わせている。殺さなくては、と頭で思っても、心はそれを受け付けてくれない。
グレイスの背中に押し付けた銃口をずり下げ、キャロルは項垂れた。足元に、ぱたぱたと涙の滴が散らばった。

「おねがい、します。おねがいだから、そのひとは」

目を閉じると、足元の水滴の量が増した。

「大事な人なんです。大好きなんです、愛しているんです」

キャロルは、言葉を押さえようとした。だが、一度放った思いは止められない。

「私を、必要としてくれた、人なんです。だから、だから」

全身の力を振り絞り、キャロルは叫んだ。



「私はその人が欲しいんです! だから、殺さないでぇ!」



ああ。言ってしまった。引けず終いだった引き金から指を抜き、キャロルは崩れ落ちるように座り込んだ。
これで、終わりだ。リチャードの傍で、彼の体温を感じることも、彼の鼓動を聞くことも、なくなるのだ。
けれど、不思議と後悔はなかった。先程聞いた、リチャードの鼓動が耳の奧に残っていたからかもしれない。
キャロルは手を緩め、拳銃を足元に落とした。ごとん、と横たわった黒光りする銃身を、涙が濡らしていく。
考えるよりも先に、体が動いていた。リチャードは力任せにグレイスを押し退け、少女を腕の中に納める。
抱き締めた途端に縋り付いてきたキャロルは、声を上げて泣いている。小さな手が、服を握り締めてくる。
リチャードは彼女の後頭部に手を添え、ぐいっと胸に押し当てた。膝に、床に転がる銃が触れた感触があった。
背後は、気にならなかった。グレイスがどう動くかよりも、戦おうとして戦えなかった彼女が気掛かりだった。
リチャードは、泣き止みそうにないキャロルを固く抱き締めたまま、背後に立つ灰色の呪術師を見上げた。
グレイスは、笑っていなかった。その代わり、妙に得意げなしたり顔で、リチャードを見下ろしていた。

「解ったか?」

グレイスの明るい声が、少し上から聞こえている。

「オレは別に、あんたを殺しに来たわけじゃない。殺しても意味はねぇし、殺しても楽しくもなさそうだからな。だから殺す代わりに、思い知らせてやりたかったのさ。オレの気持ちってやつをよ」

傍らを、灰色の呪術師が通りすぎた。床から上着と拳銃を拾い、上着を肩に引っかけるように持つ。

「どうだ、いいもんだろう。他人に思われるのも、思うのも。一度でも経験しちまうと、やめらんなくなるんだぜ」

開け放たれたままの玄関に向かう途中で、グレイスは横顔だけ振り向かせた。

「愛ってのはよ」

「帰れ」

リチャードは、声を落としていた。態度を取り繕えるほどの余裕などなくなってしまっていて、素の言葉が出た。
グレイスは玄関から出、肩を竦めた。こちらを見ようともしないリチャードを見たが、すぐに外へと向いた。

「言われなくとも。大事な家族が待っているんでね」

扉を閉めていったのか、蝶番が軋む音が響いた。どん、と重たいものが止まると、光が失せて薄暗くなった。
廊下には、しゃくり上げるキャロルの声が反響していた。悲しげで切ないその声は、止むことはなかった。

「もう、ダメでした」

キャロルは、掠れた言葉を発した。間近から聞こえてくるリチャードの鼓動は、先程よりも速い気がした。

「もう、我慢、出来ませんでした。やっぱり、私、もう、自分に、嘘は吐けません」

涙に濡れて熱くなった頬を、リチャードの胸に当てた。

「好きです、大好きです、愛しております。だから私、リチャードさんが欲しい。ずっと、傍にいて欲しい」

ここにいて欲しい。もっと構って欲しい。もっと口付けて欲しい。もっと、触れてきて欲しい。

「欲しくて欲しくて、仕方ないんです」

リチャードは、キャロルの涙が服に染みているのが解った。熱い水が胸元に染み込んで、とても温かい。
認めてしまえば終わりだ、と思っていたが、一度でも受け入れてしまうとダメだった。リチャードは、呟いた。

「僕もだ」

リチャードは腰を下ろして、キャロルとの距離を狭めた。柔らかな赤毛に頬を当てて、その匂いを感じた。
彼女の後頭部と背中に回していた手を外して、顔を上げさせる。頬を両手で挟むと、べたべたに濡れていた。
呆気に取られているのか、唇は薄く開かれていた。リチャードは身を屈めると、その唇を塞ぎ、舌を押し込む。
塩辛い涙の味がした。それをもっと味わいたくなって、リチャードは舌を抜いて彼女の唇を軽く噛み、舐めた。
すぐ傍から、キャロルのくぐもった声が聞こえた。息苦しさと驚きと悲しさと嬉しさが、全て入り混じっている。
唇を濡らしていた涙を全て拭ってから、リチャードは顔を放した。キャロルは、目を丸くして見上げてきた。

「あ、あの」

「欲しいって言ったじゃないか。だから」

「で、ですけど、私、その」

負けちゃった、と言おうとしたキャロルに、リチャードは再度口付けて言葉を消させた。んぅ、と彼女は息を詰める。
長く深い口付けを終えて、リチャードは彼女の唇を解放した。涙の滲んだ目元を、指先で慎重に拭ってやった。

「これでも、僕の勝ちだと思う?」

「ですけど」

「鈍いなぁ。好きでもないなら、何度も何度も口付けたりはしないだろう?」

リチャードの言葉に、キャロルはみるみる頬を赤くした。手に触れている濡れた肌が、熱くなるのが解る。

「え…」

「ダメだね、男って。やっぱり、女性には勝てないや」

リチャードは、情けなく笑う。キャロルは、一度目を瞬きさせた。

「はぁ」

「なんか、僕もダメだ。君がやられるかもしれないって思ったら、何か、切れちゃったみたいだ」

「何って、なんですか?」

不思議そうなキャロルに、リチャードはにんまりと笑った。

「理性」

「え、あっ、でっですけど!」

狼狽えたキャロルは身を引こうとしたが、リチャードに頬を挟まれているので動けない。

「まっ真っ昼間ですしここ廊下ですしお洗濯もお掃除もしなきゃならないので!」

「そういう意味じゃないんだけど。まぁ、いいか」

リチャードは楽しげに言いながら、キャロルの頬から両手を外した。逃げ腰の彼女の、肩に手を触れた。
キャロルはびくっと肩を震わせたが、それ以上は逃げなかった。薄茶の瞳に、真っ直ぐに見下ろされていた。
リチャードは笑うでもなく、目を開いていた。普段はあまり見せることのない澄んだ瞳に、少女が映っている。

「リチャード、さん」

「勝負は双方負け、つまりは引き分けってことでいいね?」

「はい」

「じゃ、どちらも負けてどちらも勝ったってことだ」

「そう…なるんでしょうか」

「そうなんだよ。だから、僕は君の願いに答えなくてはならない。そういう決まりだからね」

「え、って、ことは」

キャロルは更に赤くなって、徐々に俯いてしまう。リチャードは彼女の手に、自分の手を重ねる。

「今、ってわけにはいかないけどね。でも、何年かして、君がもう少し成長したらお嫁さんにしてあげるよ」

「ほんとう、で、ございますか」

気恥ずかしさで、キャロルはしどろもどろになっている。リチャードは、少し首をかしげた。

「嫌なの?」

「いいっ嫌なわけないじゃないですか! たっただそのあの、凄く…嬉しくて」

強張っていた表情を緩め、キャロルは笑顔になった。かなり気恥ずかしげであったが、同時に幸せそうだった。
その笑顔は、あの慈愛に満ちた笑みに似ていたが、少し違っていた。母でも子供でもなく、女のものだった。
リチャードは唐突に、幸福感に襲われた。彼女に愛されているのだ、という実感が沸き上がり、押さえられない。
また、キャロルを求めた。小さく薄い唇を何度も味わって、舌を絡ませ、彼女の味を溜飲しても収まらない。
押し倒してしまわないように気を張りながら、思っていた。ルーを滅ぼさすとも、幸せは手に入るものなのだ。
ヴァトラスを復興、それすなわち一族の平穏であり幸福なのだと思っていたが、そうではなかったようだった。
利用しても近付いてくる彼女。利用されていてもそれを受け入れる彼女。傍にいてくれる、大切な彼女。
これが恋ってもんか、とリチャードは内心で笑った。経験したことのなかった欲望が、次から次へと溢れてくる。
ルーを滅ぼすよりも、余程気分が良い。キャロルが苦しげに身を捩ったので、リチャードはようやく離れた。

「あ、ごめんね。ちょっとやりすぎた」

「あの」

互いの唾液で濡れた唇を拭ったキャロルは、おずおずとリチャードを見上げる。

「次は、その、私、からじゃいけませんか?」

「ダメって言ったら?」

「無理にでもします!」

「ああ、そう。嬉しいなぁ、全く」

リチャードは背を曲げて、キャロルと視線を合わせた。キャロルは緊張した面持ちだったが、躊躇いはしなかった。
優しく、柔らかなものが唇に触れた。舌を使うこともない、ただ、互いの存在を確かめ合うようなものだった。
そのまま、二人は動かなかった。キャロルの手を握っているリチャードの手に、一層力が込められていた。
これが、幸せなんだ。どちらもそう感じていており、その幸せを失いたくないがために、動かなかった。
二人の鼓動は、速まったままだった。




その夜。グレイスは、妻の作った夕食を食べていた。
食堂の豪奢なテーブルに並ぶ美しい皿の上には、ぐすぐずに崩れたものや焼け焦げたものが載せられていた。
料理の際に切ってしまったのか、膝の上で握られているロザリアの白い指先には、布が巻き付けてある。
グレイスは隣に座るロザリアを見、食べる手を止めた。今し方まで食べていた、真っ黒に焦げた肉を指差した。

「これ、充分喰えるけど?」

「そんなもん、喰う方がおかしいのよ」

気恥ずかしさと情けなさで、ロザリアは赤面している。グレイスは、向かい側に座るレベッカを見た。

「で、手は出さなかったんだろうな、レベッカちゃん?」

「はいー、御主人様のご命令ですからー。物凄ーくじれったかったですけどー」

レベッカはつまらなさそうに、足をぶらぶらさせている。その腕の中から、ヴィクトリアが両親を見上げていた。
だー、あー、と小さな手を振り回して母の作った焦げた料理に触れようとするが、レベッカに制止されている。
ロザリアは、料理を食べ続ける夫から顔を逸らす。見ただけでまずいと解るものを、食べてもらいたくはない。

「だから、さっさとレベッカに作り直してもらいなさいよ! 体に悪いわよそんなもん!」

「それとこれとは別だぜ。これはロザリアが作ってくれたことに意義があるのであって、味は二の次だ」

うん、と頷いたグレイスに、ロザリアは泣きそうになった。

「やっぱりまずいんじゃないのよ…」

「それでもいいんだよ」

グレイスは、固く苦い肉を飲み下した。ロザリアとレベッカは、理解しがたい、とでも言いたげな顔をしていた。
事実、ロザリアの料理はひどい。火が通っているかと思えば生だし、適度に焼けているかと思ったら芯まで炭だ。
塩は多いわ香辛料の使い方は下手だわ切り方はおかしいわ、だが、それでもグレイスにとっては嬉しかった。
誰かに夕食を作って待っていてもらった経験など、実家にいた頃は、ほんの数えるほどしかなかったからだ。
父親の二番目の女である母はあまり体が丈夫ではない上に、子供を身籠もっていたので相手をしてくれなかった。
母と呼ぶべきかどうか未だに迷う、父親の他の女達も、自分の子供を愛して構うことで精一杯だったのだ。
だから、誰かに食事を作って待っていてもらうことは、ある意味では夢だった。子供の頃の、密かな願いだった。
故に、今はとても幸せだった。帰りを待っていてくれる妻と娘がいて、その妻の料理を食べられるのだから。
誰かを愛し、愛してもらえることほど、幸せなことはない。グレイスはにこにこしながら、焦げた料理を食べ続けた。
不意に、ふと、思った。黒幕は、彼は、食事を共にする相手はいるのだろうか。そして、彼は幸せなのだろうか。
決して、幸せではないだろう。計略が滞りなく進んでいるから、満ち足りてはいるようだがそれとこれとは別だ。
グレイスは無性に、彼が哀れであると思ってしまった。孤独な世界で生き続けている彼が、寂しくないはずがない。
だがそれを口に出すことはなく、味は悪いが幸せの証である料理を噛み締めていた。




幸せはそれぞれ違うが、根底にあるものは近しい。
愛情を求め、愛情を求め合い、そして、深い愛情を注ぎ合うこと。
二人の間にあった小さな駆け引きは、互いの敗北と勝利によって終わった。

だがそれは、二人にとっては始まりに過ぎないである。







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