ドラゴンは眠らない




迷子の思い出



フィリオラは、道に迷っていた。
正確には、自分がどこにいるのか解らなくなっていた。左右を見ても、似たような光景が広がっている。
幅の広い廊下、背の高い壁、縦長の窓、いくつもの扉。見たことがあるような気がするし、ない気もしていた。
まず、どこに向かおうとしていたのかも解らない。レオナルドの行く先など解らないし、当てもなく歩いた。
ヴァトラスの屋敷は屋根裏も含めて四階建てなので、そのどれかの部屋にいるだろう、と思って歩き回った。
その結果、見事に迷った。あまり複雑ではないはずの屋敷なのに、なぜこうも簡単に迷ってしまうのだろう。
フィリオラは自分への不甲斐なさでまた苛々してきたが、魔法を使えばなんとかなる、と白墨を出そうとした。
ワンピースのスカートのポケットに手を入れたが、細長いものはなかった。手を出してみると、飴玉が出てきた。

「あれ?」

紙に包まれた飴玉は、フィリオラの体温で少し柔らかくなっていた。その飴玉を握ってから、ポケットを裏返す。
両方のポケットを裏返しても、白墨は出てこなかった。廊下に、ばらばらと細かなものが飛んで散らばる。
魔力安定のための魔導鉱石、綺麗な色が付いたガラス玉、道中で拾った赤い木の実などが落ちて転がった。
フィリオラはそれらを掻き集めてみたが、やはり白墨はなかった。歩いている途中で、落としてしまったらしい。

「うそぉ…」

ぺたっと床に座り込んだフィリオラは、急に心細くなった。レオナルドを蹴っ飛ばせなくなってしまうかもしれない。
屋敷の中にいれば、いつかギルディオスかリチャードが見つけてくれるだろうが、レオナルドは別なのだ。
彼がどこに行くかなんて、先程会ったばかりなのだから解るはずもない。感覚を澄まそうにも、ヴァトラがいる。
また、内側から聞こえる声を聞きたくはなかった。気色悪いし、得体が知れない存在と言葉を交わすのは怖い。
下手に感覚を澄ませれば、またヴァトラの声が聞こえてしまうかもしれない。それは、恐ろしくて嫌だった。
フィリオラは目元を拭って立ち上がると、ぐっと唇を締めた。こうなったら、自力でレオナルドを捜し出そう。
両の拳を握って、一歩踏み出した。直後、目の前の扉が勢い良く開かれ、フィリオラは驚いて飛び退いた。

「うるせぇんだよさっきから!」

扉を開け放っていたのは、レオナルドだった。レオナルドはフィリオラの襟元を掴むと、持ち上げる。

「捜しに出て迷っちまうぐらいだったら、最初から来るんじゃねぇよ馬鹿!」

「うっ」

フィリオラはまた泣き出しそうになったが、ぐっと飲み込んだ。レオナルドの手首を掴み、足を振り上げる。
蹴ろうとしたが、足が届かなかった。空しく空を切った足は戻ってきてしまい、反動で体が揺れてしまう。
レオナルドは、足を振り回している幼女を見下ろした。何度も上げているので、スカートがめくれ上がっている。

「何してんだよ、お前」

「けっとばしに来たんです!」

「蹴れてねぇじゃん。つうか足届いてねぇし」

レオナルドは、フィリオラを掴んでいた手を急に放した。床に落ちたフィリオラは、強かに尻を打ってしまった。

「うー、あー…」

「何しに来たんだよ、お前。帰れよ」

さも嫌そうに、レオナルドはフィリオラを掴んでいた手を振った。フィリオラは立ち上がり、言い返す。

「帰りません! レオナルドのお兄さんをけっとばすまでは帰りません!」

「はぁ?」

いきなりそんなことを言われても、訳が解らない。レオナルドが変な顔をすると、フィリオラは眉を吊り上げた。

「あんなこと言うなんてひどいです、嫌いです、大嫌いです! だからけっとばします!」

「ますます訳解んねぇ」

レオナルドは、顔を逸らして変な笑いになった。フィリオラは歯を食い縛りながら、レオナルドを見上げた。
リチャードよりも背は低いものの、幼児からしてみれば充分高い。見上げなくては、顔も見えないほどだった。
フィリオラはそれが面白くなかったが、どうにも出来なかった。これでは、丁度良い位置を蹴飛ばせない。
かといって、強い魔法を撃とうにも白墨がなければ魔法陣が描けないので魔力が安定せず、どうなるか解らない。
だが、このまま何もしないで帰ってしまいたくはないし、レオナルドがいなければもっと道に迷うことだろう。
フィリオラはぶすくれたまま、レオナルドをじっと睨んだ。レオナルドは、フィリオラを見ようともしていなかった。

「なんでこっち見ないんですか」

「見る価値ねぇもん」

やる気なく、レオナルドが返した。フィリオラはむきになって、声を上げた。

「こっち見てくれなきゃ文句言えません!」

「見なくたって言えるよ、そんなもん」

レオナルドは、かなり面倒そうにする。

「嫌いだ嫌いだって言われても、オレは別になんとも思わねぇよ。そもそもオレはお前みたいなガキなんて大っ嫌いだし、嫌われたところで痛くも痒くもねぇし、どうでもいいんだよ。蹴られたところで痛いはずがないし、骨に当たればちったぁ痛いかもしれねぇけどそれぐらいだし、やり合ったとしたってオレがお前に負けるはずがねぇもん」

「やってみなきゃ解らないじゃないですかぁ!」

「馬鹿かお前」

「わたしは魔法が使えます! だから、レオナルドのお兄さんなんかに負けはしません!」

「あっそう」

レオナルドはようやく振り返り、フィリオラに目を向けた。だが、その目は笑うことはなく、一点を鋭く睨んだ。
直後。強烈な熱が視線に沿って放出され、フィリオラの髪のすぐ脇を通り過ぎた。背後の床板から、薄く煙が昇る。
煙は、フィリオラの顔の脇からも出ていた。見ると、真っ直ぐに切り揃えられた髪の数本が焼き切れている。

「あ…」

「次は当てるぞ」

レオナルドの目線は、フィリオラを射抜いている。廊下に、熱が立ち込め始めていた。

「本気でうざったいんだよ、お前」

廊下の空気は、汗ばむほど熱が籠もっているにも関わらず、フィリオラはぞくりとした冷たさを感じて震えた。
熱を放ったレオナルドの目は、その力に反して冷ややかだった。空虚で冷たい、底のない暗さが潜んでいた。
本当に殺す気だ。フィリオラはそう直感したが、後退らなかった。それよりも今は、床に付いた火を消すべきだ。
フィリオラは深く息を吸い込んでから、魔力を高めた。両手を真下に向けて一度目を閉じ、そして、見開く。

「清涼たる潤いよ、迸りたまえ!」

唐突に、水が現れた。フィリオラの小さな手のひらから溢れ出した大量の水は、二人の足元を駆け抜けていく。
フィリオラは足を取られそうになったが、踏ん張って堪えた。上目にレオナルドを窺うと、彼も堪えていた。
お返しだ、とフィリオラは片方の手を上げた。溢れ出し続ける水が跳ね上がり、びしゃっ、とレオナルドを濡らす。
不意のことによろけたレオナルドは、背中から水の中に転んだ。ごっ、と鈍い音がして、頭を打ったようだった。
フィリオラは両手を握って、魔力を押さえた。流れ出ていた水も止まり、広い廊下にじわじわと染み渡っていく。
仰向けに転んでいたレオナルドは、咳き込みながら起き上がった。濡れて張り付いた髪を掻き上げ、顔を歪める。

「何しやがるんだ、人んちで!」

「やられたらやりかえせー、っておじさまもせんせーもいつもおっしゃっています。ですから」

悪気のない顔で、フィリオラは答えた。レオナルドは二人の方針に呆れ、げんなりと口元を曲げた。

「ろくでもねぇなおい…」

「わたし、帰ります。けっとばせませんでしたけど、ころばせましたから気は済みました」

ばしゃばしゃと廊下に満ちた水を蹴り飛ばしながら、フィリオラは歩き出した。途中で転んだが、立ち上がった。
竜の翼が生えた名残で、ワンピースの背中は大きく破れていた。ウロコらしき薄い緑も、まだ残っていた。
レオナルドは水を吸って体に張り付いた服が気持ち悪く、引き剥がした。階段に向かう幼女に、声を掛けた。

「おい」

「ふぎゃっ」

途端に、フィリオラは滑って転倒した。頭からずぶ濡れになっているフィリオラは、顔を拭って振り返る。

「なんですか」

「お前、なんで魔法なんざやってんだよ。家、貴族で実業家なんだから、そんなことじゃなくたって腐るほど暇潰しがあるだろうが。この時代じゃ魔法はそんなに役に立たねぇんだから、やる意味なんてねぇだろうが」

訝しげなレオナルドに、フィリオラはきょとんとしたが、すぐに満面の笑みになる。

「あります。わたしは、魔法ぐらいしか出来ません。だから、魔法で色んなことがしたいんです」

「例えば?」

「せんせーのおよめさんになるとか」

「は?」

レオナルドが声を裏返すと、フィリオラは両手で頬を押さえ、照れくさそうに身を捩る。

「せんせーはやさしい人です。だから、およめさんになりたいんです」

「いや、それと魔法は関係ねぇだろ。マジで」

「あります。色んな魔法をきちんと覚えれば、いっぱいいっぱい役に立つじゃないですかぁ!」

むっとしたフィリオラは、レオナルドに背を向けた。歩いていこうとしたが、また足を滑らせ、顔面から転んだ。
べちゃっ、と水が飛び散り、幼女は俯せになった。このまま階段を歩きでもしたら、すぐに落ちていくだろう。
首の骨なんか折られたら夢見が悪い、とレオナルドは思い、立ち上がった。転んだままの幼女の、襟首を掴む。
ネコのように持ち上げられたフィリオラは、立たせられた。不思議に思っていると、レオナルドの脇に抱えられる。

「危なっかしくて見てらんねぇよ。下に行ったらさっさと帰れよ」

「言われなくたって帰ります! わたし、レオナルドのお兄さんなんて大嫌いですもん!」

レオナルドの脇に抱えられたフィリオラは、顔を背けた。レオナルドは壁に手を当て、慎重に階段を下りる。

「オレもお前なんか嫌いだ。このまま、階段の下まで放り投げちまいたいぐらいだ」

一歩一歩、階段を踏み締めていった。気を抜けばすぐに滑ってしまいそうなほど、見事なまでに水浸しだった。
階段を一階分下りても、その量は変わらない。フィリオラが放った水は、思っていたよりも多いようだった。
子供、しかも六歳の幼女の魔法にしては出力が強いように思える。レオナルドは、顔を背ける幼女を見下ろす。
だが、先程フィリオラが使った呪文は初歩だ。魔法陣を使わなくてもいい魔法の中でも、一番弱い魔法だった。
余程、彼女の持つ魔力が強いのか、それとも才能なのか。両方なのかもしれない、とレオナルドは感じていた。
腕に感じる幼女の重さと体温は、鬱陶しかった。こうして他人に触れるのは久々だったから、というのもある。
本当なら、なるべく接していたくない。不用意に炎の力が暴発でもしたら、と思うと、恐ろしくて堪らない。
未だに、幼い頃に経験した殺人の記憶が消えていないせいだった。五歳から七歳半まで、人を殺し続けていた。
異能部隊なる共和国軍の部隊に引き摺り込まれ、恐ろしい上官が指示するまま、様々な人々を燃やしていた。
じっと睨んで力を放てば、標的となった人間はたちまちに燃え、肌が焼けて脂が溶け、骨が崩れ落ちていく。
その、悪夢のような記憶があるせいで、他人と接するのが怖くなった。燃やしてしまいそうで、嫌だった。
異能部隊で犯した罪は、家族の中ではなかったことにされているが、レオナルドは振り切れずに出来ずにいた。
むしろ、忘れてはならない、とすら思っていた。罪を忘れないことが自分への罰なのだ、と思っているからだ。
忘れようとしても、殺した人々の死に様は目に焼き付いているし、未だに夢に出てきて呪いの言葉を吐いている。
異能部隊から逃げ出して十年も経っていないし、あんなに強烈な経験をすぐ忘却しろと言う方が無理なのだ。
レオナルドは、横目にフィリオラの髪を見た。左端の数本が焼き切れていて、そこだけ不自然に短かった。
またやっちまった。強い後悔と憤りが沸き起こり、押さえ込んだはずの炎の力が迫り上がってきそうだった。
怒りに任せて力を放ってしまうなど、一番やってはいけないことだ。なのに、何度もその過ちを犯していた。
力を制御しきれない自分へのふがいなさと、過去の罪悪に苛まれ、訳の解らない衝動が起きることがある。
それを発散するために夜の街へ出て、手当たり次第にろくでもない輩と戦うと、少しはそれが収まった。
だが、どれだけ人間を殴っても蹴っても止まらない場合もよくあり、そんな時は無意識に力を放ってしまう。
ケンカの相手を燃やしかけたことは何度もあるし、魔法がなければ自分も相手も死んでいたかもしれない。
その度に、衝動は発散されても空しさや悔しさが残った。そしてまた衝動が溜まり、同じことを繰り返していた。
きっと、自分が死ぬまで止められない。というより、訳の解らない衝動そのものが死への渇望かもしれなかった。
死んでしまえば楽になる。生きていなければ、力も何も失って自由になれる。そう思うことは、よくある。
レオナルドは、フィリオラを見据えた。そのうち、この幼女もそう思う日が来るだろう。境遇は近いのだから。
すると、フィリオラはこちらを見上げていた。落ちてしまわないためなのか、レオナルドの腹の辺りを掴んでいる。

「レオナルドのお兄さん」

「んだよ」

レオナルドが乱暴に返すと、フィリオラは怯えながらも笑った。

「ありがとうございます」

「お前、マジでおかしくねぇ? オレはお前の髪、焼き切ったんだぞ」

力を恐れろ、そして怯えろ。そういう態度を取ってもらった方が楽なんだよ、とレオナルドは内心で漏らした。
フィリオラは焼き切れている髪をつまみ、う、と声を詰まらせたが、再度レオナルドを見上げて首を横に振る。

「ですけど、それとこれとはちがうんです。迷子になっていたのを助けてくれて、どうもありがとうございました」

「だからなんだってんだよ」

やりづらくなり、レオナルドはこれ以上返事をしないことにした。脇に抱えているフィリオラは、まだ喋り続けていた。
迷子になってどれだけ怖かったか、このまま帰れないんじゃないかと不安だったとか、下らないことを言っていた。
縋り付く幼女の手は頼りなく、力が籠もっていなかった。捜し回ったのと魔法を放ったので、疲れたのだろう。
こんな子供は、嫌いだ。馴れ馴れしくて鬱陶しくてうるさくて馬鹿で、おまけに、あのギルディオスを従えている。
これからも、好きになんかなれないしなるつもりもない。仲良くなったところで、いいことなど何一つないのだから。
竜なんかと親しくしても、炎の固まりなんかと親しくしても、最後に訪れるのは畏怖による別離だけなのだ。
だから、親しくなんてしない方がいい。どうせ友人など出来やしないのだから、最初から作らないべきなのだ。
レオナルドは階段を下りきり、一階の廊下に到着した。フィリオラを落とすように下ろすと、階段を駆け上がった。
フィリオラが何か言っていたが、それが聞こえる前に濡れた階段を昇った。自分の部屋に戻ると、扉を閉めた。
扉に背を預けてずり下がり、水が広がった床に座り込んだ。レオナルドは、無性に悔しくて腹立たしくなった。
何がありがとうだ。何が助けただ。そんなことがなんだというんだ。子供に感謝されたぐらいで、いい気になるな。
一瞬でも、他人と仲良くなろうと思おうとした自分が許せなかった。力の暴走で、燃やしてしまうだけなのに。
嫌いだ。あの子供も自分も何もかも。レオナルドは、腹立たしさで高まった力を無意識に放出してしまっていた。
足元の水が温まり、ふわりと湯気を昇らせていた。部屋の中はむっとした湿気に包まれ、蒸し暑くなっていた。
深い霧のような真っ白な湯気が視界をぼやけさせ、それはまるで、先の見えない自分自身のようだと思った。
道に迷っているのは自分の方だ、とも。




辺りが薄暗くなった頃、フィリオラの思い出話は終わった。
レオナルドが買い物から戻ってくると、フィリオラは突然昔の話を始めた。なんでも、急に思い出したらしい。
フィリオラが懐かしげに語る話を聞くに連れて、レオナルドも思い出した。初めて、彼女に会った時のことを。
路地の壁に隣り合って寄りかかり、十二年も前の話をしていた。互いの記憶を縒るように、話を確かめ合った。
細かな部分での相違はあったが、大体は合っていた。初めて会った時の出来事は、お互いに忘れていなかった。
レオナルドは腕を組み、目の前にあるレンガ造りの壁を見つめていた。隣では、彼女が延々と喋り続けている。
あの頃のレオさんは怖かった、本当に凄く怖かった、殺されるかと思った、でも助けてくれて嬉しかった、と。
彼女の話を聞き流しながら、レオナルドは感慨に耽った。今にして思えば、フィリオラに会って良かったと思う。
あのまま道を違えて生きていたら、どうなっていたか解らない。だが、彼女の存在が行き先を修正してくれた。
あんな子供に舐められてたまるか、という妙な根性で魔法の勉強を始め、ヴェヴェリスの魔法大学に進学した。
勉強に明け暮れていると、あの衝動は沸き起こってこなくなった。恐らくあれは、有り余った力だったのだろう。
過去から逃れられないがために己の世界に閉じ籠もってはいたが、その世界の中だけでは力を使い切れない。
その方向がケンカか勉強か、の違いでしかなかったのだ。要するに、無心に打ち込めるものが欲しかったのだ。
異能部隊にいた頃は与えられていた役割がなくなって、家庭の中でも子供としての居場所など失ってしまった。
だから、なんでもいいから、力を放っていたかった。そして、自分の存在を感じられるものが必要だった。
レオナルドは、フィリオラに出会った頃のことを長らく忘れていた。むしろ、思い出さないようにしていた節がある。
共同住宅で再会した当初はあれだけ嫌いだ嫌いだと言ってしまったし、彼女に感謝するのが、少し癪だった。
道を間違えなかったのはお前のおかげじゃない、オレ自身の力だ、という変な意地が出てしまったせいだった。
我ながらなんてガキ臭い、とレオナルドは情けなくなってきた。すると、フィリオラは面白くなさそうに言った。

「聞いてますか、レオさん?」

「何がだ」

レオナルドは、フィリオラに意識を戻した。フィリオラは、不愉快げに唇を曲げる。

「やっぱり聞いていませんでしたか。上の空でしたし」

「仕方ないだろう。どうでもいいことを延々と話されていても、飽きてしまうんだ」

レオナルドは壁から背を外し、路地から出て歩道を歩き出した。フィリオラはむっとしたが、その後に続く。

「私にとってはどうでもよくありません。大事なことなんです」

「お前の言う大事はそんなに大したものじゃなさそうだが」

レオナルドは歩調を緩めずに進むので、フィリオラは小走りに駆けて彼の隣に追い付いた。

「大事ったら大事なんです!」

むきになっているフィリオラは、怒っているようだったが決して表情は険しくなく、むしろ愛らしさすらある。
レオナルドはそれが可愛らしくて気が緩みそうになったが、正面に向いた。緩んだ表情を、見せたくなかった。

「で、何がどう大事なんだ」

「ですから、なんでレオさんはなかなか戻ってこなかったんですかー、ってさっき聞いたんですよ」

なのに、とフィリオラは上目にレオナルドを見上げる。

「レオさんてば、ちっとも私の話を聞いていないんですから。だったらもういいです、聞きません」

拗ねてしまったのか、フィリオラはぷいっとそっぽを向いた。レオナルドはまた情けなくなってきて、顔を背けた。
上着の脇のポケットに手を入れると、指に金属が触れた。自分の体温が移っていて、ほのかに温かくなっていた。
彼女から離れていた理由は、これを選んでいたからだった。だが、それを口にするのも恥ずかしくてならなかった。
選んでいる時は、どれだけフィリオラが喜ぶかとか考えて内心でにやけてすらいたが、実行するのは照れくさい。
だが、このまま自分が持っていても仕方ない。それに、宿屋の部屋に帰ってしまえば渡す機会はなくなってしまう。
レオナルドは、意を決して足を止めた。胸の痛みは途端に強くなり、気恥ずかしさを隠すために顔をしかめた。
彼が立ち止まったので、その背後でフィリオラも立ち止まった。首をかしげて、レオナルドの広い背を見上げる。

「どうかしました?」

「やる」

出来るだけ感情を殺し、レオナルドは言い捨てた。例のものを握り締めた手をポケットから出し、彼女に突き出す。
フィリオラは、目の前に突き出されているレオナルドの手に、銀色のものが握り締められているのに気付いた。
彼は指を開き、手のひらを見せる。そこには、竜の横顔を模した浮き彫りが施された、銀製の髪留めがあった。
フィリオラは、その髪留めとレオナルドを見比べた。レオナルドは彼女に振り向かずに、素っ気ない態度を取る。

「別に、大したものじゃないぞ。オレの持ち金などタカが知れている。一応、お前が付けていたものと似ているものを探してみたんだが、ろくなものがなくてな。安易だとは思ったんだが、それにしたんだ」

「だから、遅くなったんですか?」

フィリオラはレオナルドの手から、竜の髪留めを取った。竜の表情は、凛々しく引き締まっている。

「そうだ」

レオナルドは頷くと、すぐに手を引っ込めて両方ともポケットに突っ込んだ。かなり、照れくさくて仕方ない。
わぁ、と小さく歓声がした。気に入ってくれたらしく、フィリオラの嬉しそうな声が背中越しに聞こえる。

「ありがとうございます、レオさん。大事にしますね」

フィリオラは竜の髪留めを見つめていたが、レオナルドの背を見上げた。彼の表情を、窺い知ることは出来ない。
それが、とても残念でならなかった。レオナルドの表情を、どんなものでもいいから見ておきたい気分だった。
竜に変化した際に彼が見せてくれた笑顔が、忘れられない。決して優しくはなかったけど、嬉しかったのだ。
もう、ああしてレオナルドが笑いかけてくれることはないのだろうか。いつも、彼はこちらに背を向けてしまう。
なんで見てくれないのだろう。フィリオラは寂しくなると同時に、ちくりとした痛みを胸に感じて、目を伏せた。
やっぱり、彼がツノに口付けてくれたのは夢だったのだろうか。好かれている、と思ったのは勘違いなのだろうか。
今も、嫌いなのかな。昔みたいに、見る価値なんてないって思っているのかな。そんな不安に、締め付けられた。
レオナルドは、背を向けたまま歩き出そうとした。フィリオラは、彼との距離が開くのが、ひどく恐ろしくなった。
理由は解らないが、無性に不安になった。離れてしまいたくない、もっと、この人の近くにいたくてたまらない。
反射的に、体が動いてしまった。レオナルドの腰に腕を回して、大きな背に体を押し当て、離れないようにする。
フィリオラは不安を示すかのように、彼の腰に回した腕に力を込めた。間近から、渋い煙と男の匂いがした。

「レオさん」

背中に、彼女の頼りない体が当てられた。レオナルドが戸惑っていると、フィリオラは彼の背に顔を埋めた。

「こっち、見て下さい」

その声は、泣き出しそうなほど切なかった。

「嫌いじゃないんだったら、こっち、向いて下さい」

レオナルドは、服を握り締めている手を緩めさせ、手首を取った。強く握れば、折れてしまいそうに思えた。
あ、と嬉しさと困惑の混じった声がした。レオナルドは壊れ物でも扱うような気持ちで、彼女の手首を握る。
何を不安になっているんだ、この馬鹿が。そんなはずがないだろう。そう言いたかったが、言葉には出来ない。
手首を離してから、振り返った。不安げな眼差しのフィリオラを見た途端、強烈な罪悪感と衝動に襲われた。
フィリオラの両肩を掴んで強引に引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。背中と腰を抱き竦め、髪に頬を触れた。
胸の奥の痛みは、魂を痛めそうなほど強まっている。どくどくと暴れる鼓動がうるさく、耳の奧でやかましい。
ああ、好きだ。レオナルドは彼女の髪から頬を放し、見下ろした。フィリオラは、耳まで真っ赤になっていた。
いきなりのことに混乱しているのか、青い瞳が彷徨っている。それがようやくレオナルドに向き、見上げてきた。
我慢出来なくなった。レオナルドはフィリオラの背中と腰から手を放すと、肩を押さえ付け、身を屈めた。
や、と小さく抵抗する声がしたが、それを無視して唇を塞いだ。いつかの日と同じように、舌をねじ込む。
温かくぬめった彼女の口内に舌を這わせていくと、驚いたことに、彼女の舌がレオナルドのものに絡められた。

「ん、ぁん」

鼻に掛かった喘ぎを漏らし、フィリオラは自分が何をしているのか気付いた。レオナルドを、求めている。
慣れない仕草で舌を滑らせ、レオナルドのものに添わせる。すると、彼のものは動きを弱め、そっと触れてきた。
胸の内側を心臓に叩かれ、痛い。フィリオラはかかとを上げてレオナルドと高さを合わせ、舌を奧に進めた。
温かく、熱く、それでいて優しい感触だった。これは夢じゃない、間違いなく、彼が触れてきてくれている。
もっと確かめていたくて、レオナルドの首に手を回す。こっちを見て、ここにいて、もう離れてしまわないで。
唇を軽く吸われたあと、彼の舌が抜かれた。フィリオラは名残惜しくなったが、仕方なしに彼の首から手を外す。
かかとを下ろしてから、レオナルドを見上げた。彼は、フィリオラの唾液が残る唇を舐めてから、肩を上下させた。

「これでも、まだ」

フィリオラの肩から手を外したレオナルドは、妙に情けなさそうに表情を綻ばせていた。

「嫌いだと思うのか」

熱と感触の残る唇を押さえたフィリオラは、首を横に振った。もう、嫌いじゃない、嫌いなわけがない。
涙が出そうなほどの苦しさと切なさが胸と言わず全身にあり、甘ったるい余韻が頭の芯を痺れさせている。
熱を持った頬は、火に炙られているようだった。フィリオラはレオナルドを見つめ、弱々しく漏らした。

「思い、ません」

「帰るぞ、フィリオラ。道に迷われたら困るからな」

レオナルドは背を向けることなく、フィリオラに手を伸ばした。フィリオラは、その大きな手を取る。

「そしたら、また助けに来て下さい。レオナルドのお兄さん」

「言われなくとも」

幼い頃の呼び方に、レオナルドは気恥ずかしくなって笑った。フィリオラはそれが嬉しくて、笑い返した。
街灯に光が灯り始めた通りを、二人は隣り合って歩いていった。レオナルドは、彼女に歩調を合わせて歩く。
細い指に握り締められた手に、自然と力が入った。痛くさせないように気を遣っていたが、緩められない。
彼女が道に迷わないように、また良からぬ企てに使われてしまわないように、そう願いながら握り返す。
すぐに帰ってしまいたくなくて、レオナルドはいつになく遅く歩いた。ブラッドには、少々申し訳なかったが。
藍色に変わりつつある夜空には、星が一つ輝いていた。北の端を示す星が、小さくも眩しく光っていた。
それは、道標のようだった。




幼き頃に、初めて二人が出会った記憶。
道を見失い違えていた少年に、道に迷った幼女が先を示した。
十二年の時と様々な紆余曲折を経たのちに、竜の末裔と若き刑事は。

同じ道を、歩み始めたのである。







06 2/1