ドラゴンは眠らない




邪なる策謀



ダニエルは、酒を傾ける手を止めた。


「ネコ?」

思わず、ダニエルは傍らの友人に聞き返した。ダニエルの隣の席に座っているレオナルドは、頷いた。

「ああ、そうだ。金持ち連中の愛玩動物が死んだり消えたって被害届が、妙に多いんだよ」

参っちまうぜ全く、とレオナルドは度の強い蒸留酒を一気に呷った。ダニエルは、心持ち身を乗り出した。

「それで、犯人は挙がったのか?」

「まさか。オレ達には、そういうことよりもやるべき仕事が腐るほどあるんでね」

うんざりしているのか、レオナルドは唇の端を引きつらせた。余程、ネコに関する被害届が多いのだろう。
二人は、仕事の帰りに待ち合わせ、裏通りの安い酒場で飲んでいた。どちらも忙しくない限り、そうしている。
共同住宅に帰ると、レオナルドはフィリオラに接するので話す時間もなくなるし、酒を飲む間もなくなるからだ。
当初は、ダニエルが世間に付いていけるか、との懸念からレオナルドが始めたのだが、そのうち習慣になった。
ダニエルは、レオナルドの態度にいい気はしなかったが、仕方ないと思った。彼の仕事は、殺人事件の捜査だ。
動物一匹に構っていられるほどの暇などないし、それどころでないと解っているが、少し気に食わなかった。
ネコを、軽視されているように感じてしまったのだ。ダニエルは、レオナルドにネコの良さを力説したくなった。
ぴんと尖った耳に大きく鋭い目、小さな鼻先に愛らしい口元、すらりとしたヒゲ、柔らかな毛並みと長い尾。
そのどれを取っても、ネコは可愛い、そして素晴らしい。特に、仔ネコなど恐ろしいまでに可愛らしいではないか。
そんなふうに素晴らしいネコを攫ったり殺したり出来る人間がいることが、まず信じられず、腹立たしかった。
ダニエルは蒸留酒の入ったグラスを揺らしていたが、呷った。多少の酒ぐらいでは、苛立ちは落ち着かなかった。
レオナルドは、真剣な顔付きになった年上の友人に、苦笑してしまった。ダニエルの嗜好は、変わっていない。
異能部隊時代の頃から、彼は妙にネコが好きだった。時に、病的とも思えるほどの態度でネコに接していた。
二十年以上経った今でも、かなり好きなようだった。レオナルドは、ネコはそう嫌いではないが好きでもない。
なので、ダニエルの感覚が未だに解らず、理解に苦しむ時も多い。今も、正にそのような状態になっていた。
レオナルドも、多少は事件性があるかもしれないとはちらりと思っているが、そこまで真剣にはなれない。
近頃は、共和国軍による隣国への侵略戦争のせいで、国全体が高ぶっているため、犯罪の量も増えていた。
中でも軍人による市民への犯罪が格段に増えてきたが、軍が絡むと国家警察は途端に力を失ってしまう。
なので、ろくな捜査も出来ずに闇へと葬られる事件が後を絶たず、警察官達は皆、歯痒い思いをしている。
そんな中で、ネコの事件が次々に起きるので、世間から警察が馬鹿にされているような気分になってしまう。
無論、そんなはずではないだろうし、きちんと捜査をしておくべきだとは思うが、どうにもやる気が出なかった。
それでなくても、ここ一ヶ月近くは軍による捜査の規制が厳しくなったせいで、事件捜査が捗らないというのに。
レオナルドはかなり不愉快げなダニエルの横顔を見ていたが、冗談として言った。決して、本気ではなかった。

「そんなに気になるんだったら、自分で捜査でもなんでもすればいいじゃないか」

「そのつもりだ」

至極真面目にダニエルが答えたので、レオナルドは目を丸くした。

「本気か、ダニー?」

「当然だ」

きっぱりと言い切ったダニエルに、レオナルドは妙に可笑しくなり、笑ってしまった。

「たかがネコだぞ?」

「されどネコだ。それに、多少引っ掛かるものがある」

ダニエルは空になったグラスに、酒を注いだ。やけに重みのある言い回しに、レオナルドは不思議そうにした。

「どういう意味だ?」

「趣味の悪い魔法には、魂を根源にしたものがあるんだ」

ダニエルはレオナルドにだけ聞こえるように、声を潜めた。眉間に、きつくシワが寄せられている。

「死に間際の兵士を最大限に活用出来るように、捉えた敵兵を有効に使えるように、という名目で開発された魔法なんだが、これがまた趣味が悪いんだ。一度死にかけた人間を見た目だけ元に戻して、仮初めの意識を持たせて敵の中に放り込む。攻撃されたり仮初めの意識が失われたり、要はその兵士が倒されれば、魂の魔力が逆流し、魔力中枢ごと吹き飛ぶ、というものだ。簡単に言えば、人間爆弾みたいなものだ。魔力中枢が爆発する威力と吹き飛んでくるものが強烈だから、という理由で、あまり使用許可は下りないが、許可が下りたとしても私は使ったことはない。これを生きている人間に施す場合もあると聞いたことがあるが、それが真実でないことを願うよ」

「そんな魔法は知らないな」

レオナルドが訝しむと、ダニエルは呟いた。

「ある程度地位と経験がなければ知らんさ、そんなものは。むしろ、知らない方がいい」

「だが、ネコだぞ。例え、その魔法を掛けられたとしても、ネコの魔力も魂もたかが知れている」

「肉体強化と魔力増強の改造を施されれば別だ」

「…考え過ぎじゃないのか?」

レオナルドが変な顔をすると、ダニエルは表情を変えずに言う。

「考えないに越したことはない。だが問題は、そのネコの生体兵器をどこで使うか、だ」

「使うのか、そんなもん」

「作れば使うさ。作られなければ、使えない」

ダニエルは、そこまで言って言葉を止めた。

「そうだな。作られる前に、なんとか出来るかもしれない」

「改造をされるまで、間があると言うことか?」

レオナルドが問うと、ダニエルは頷く。

「私の知っている限りでは、肉体強化と魔力増強のための手術の前には、二日ほど時間が掛かるんだ。魂の安定と魔力変換を行うために、徐々に魔法を掛けていくんだ。それが終わるまでの時間は魂の体積と魔力の量で、多少ずれはするが、この魔法が本格的に実用化される前に見せられた実験結果は、人でも動物でも大差はなかった」

あまり、現実味のない話だった。レオナルドはダニエルの話を、少なからず疑ってしまい、信じられなかった。
確かにレオナルドは軍の内情には詳しくないが、いくら軍といえども、そこまで極端なことをするだろうか。
下手な猟奇事件よりも余程タチの悪い魔法を開発しているなど、一度も聞いたことがなかったからでもある。
レオナルドが疑わしげな顔をしているので、ダニエルは心外だった。あからさまに疑われると、気分は良くない。

「少しは私の話を信用してくれ、レオ」

「まぁ、異能部隊があることからして無茶苦茶なんだ、そういう面があってもおかしくはないが」

そうは言いながらも、レオナルドは信用していない口振りだった。ダニエルは、彼に信じてもらうことを諦めた。

「すぐに信じろとは言わない。だが、そういうものなんだ」

ダニエルは、また酒を飲み始めたレオナルドから目を外した。念のためにもう一度、酒場をぐるりと見渡してみた。
薄暗い室内では、様々な人間がそれぞれで酒を酌み交わしていた。絶え間ない喋りとざわめきが、やかましい。
汗臭さと酒の酒精が入り混じり、独特の匂いを作っている。息を詰めて感覚を張り詰め、周囲に目を配った。
二人と同じく仕事帰りなのか、作業着姿の人間が多かったが、所々に共和国軍の兵服を着た男達の姿がある。
まだ若い兵士達は、今のところは平穏な旧王都の寂れ具合を笑い、戦地で英雄になる、などと言い合っている。
こんな僻地に回されて損だな、けど死ぬよりかはいいじゃねぇか、いい女がいないのは田舎だからだな、などと。
他にも、幾人か兵士の姿はあった。だが彼らは、ダニエルへと向くこともなく、様子を窺っているふうでもない。
軍人はいても、どれもこれも下っ端兵士のようだ。この様子では、首都で起きた異能部隊の件も知らないのだろう。
だが、油断は出来ない。下といえども兵士は兵士だ、下手な動きをすれば、見咎められてしまうことだろう。
ネコの行方を探るにしても、慎重に行かなくては。ダニエルはどこから調べるべきか、レオナルドに聞こうとした。
レオナルドは、やけに思い詰めた目をしていた。言うか言うまいか迷っていたようだったが、弱々しく漏らした。

「なぁ、ダニー。恋愛って、こんなに辛いものなのか…?」

「フィリオラと何かあったのか?」

ダニエルが尋ね返すと、レオナルドは首を横に振る。

「そうじゃない。何もないんだ」

「なら、いいじゃないか」

「何もないから、辛いんだ」

レオナルドは、苦々しげな笑いを作った。

「あの女とそういう仲になって、もう一月半以上も経つのに一向に進めていないんだ」

「だが、彼女がレオの部屋に行くのは何度も見ているぞ。てっきり私は、もう一線を越えたものだと思っていたが」

ダニエルがさも意外そうに言うと、レオナルドは情けなく眉を下げる。

「やろうとしても出来ないんだよ。押し倒そうが服をめくろうが何をしようが、あいつは逃げちまうんだ」

「今までその手の経験がなかったから、怖いんじゃないのか?」

「オレもそうじゃないかと思って聞いてみたんだが、そうじゃないらしい」

「じゃ、どういうわけだ?」

「それが、答えないんだ。あまり問い詰めると泣きそうになるから、問い詰めようにも問い詰められないしなぁ」

いつになく弱っているレオナルドに、ダニエルは哀れみ混じりに笑んだ。

「隣の部屋に自分の女がいるのに何も出来ないとは、生殺しだな、レオ」

「そんな生易しいもんじゃない。生き地獄だ」

ええいくそぉ、とレオナルドは苦悶の呟きを漏らした。グラスに酒を注いで一気に呷り、喉に流し込んだ。
ダニエルは、彼の状況に心の底から同情した。恋愛関係になっていても、一向に進展しないのは辛すぎる。
フィリオラが、そういったことに免疫がなさそうなのは見るからに解るが、これはいくらなんでも極端だと思った。
男が怖いわけではあるまいに、なぜそこまでレオナルドとの一線を越えることを避けるのか、不思議だった。
女心は解らんな、とダニエルはフィリオラの心境を察するのを止めた。そして再び、思考をネコへと戻した。
自分でも、ネコが生体兵器に改造されている、と考えるのは突拍子もないと思った。やはり、昔からのクセだ。
どんな些細なことであろうとも、裏に何かあると勘繰ってしまう。しかもそれが、軍絡みであると思ってしまう。
ネコがいなくなる原因として、普通に考えれば魔物の仕業であるとかおかしな人間がいるとか、となるはずだ。
なのに、なぜそこで軍に繋げてしまうのだ。こんな調子では、いつまで経ってもまともに社会には馴染めない。
軽い自己嫌悪を感じつつ、ダニエルは目線を遠くに投げた。酒が回ってきたのか、視界が少しぼけている。
酔いを感じながら目線を動かしていると、ふと、何かの気配を感じた。酒場の汚れた窓に、小さな影がいた。
爪を立ててかりかりとガラスを引っ掻く、肉球の付いた前足が動いている。尖った耳と、鋭い目が見える。
ダニエルがそちらを凝視すると、窓枠によじ上った小さな影は、鼻先を突き出した。黒いネコが、いた。
緑色の瞳を輝かせながら、闇の化身のような真っ黒なネコはダニエルを見据えていたが、その目が瞬きした。

 ダニエル・ファイガー大尉に将軍閣下からの命令が下された。至急連絡せよ。

言葉ではない言葉が、ダニエルに語り掛けてきた。感覚に直接触れてくる声を、黒ネコが発している。

 繰り返す。ファイガー大尉に将軍閣下からの命令が下された。至急連絡せよ。

ダニエルは淡々とした平坦な声を聞きながら、そのネコを見据えた。黒く滑らかな体毛の間に、光があった。
黒ネコの額には、不似合いな金属が埋め込まれていた。その金属を発信源にして、思念の言葉が続いている。
機械的に、同じことを繰り返すだけの言葉だった。ダニエルは、普段はあまり使っていない力を高めていった。
フローレンスとまでは行かないまでも、小手先の精神感応の力を持ち合わせているので、それをネコへ放った。

 連絡先を教えろ。それを知らなければ、こちらとしてもどうしようもない。

黒ネコは、宝石のような艶やかな目を細め、長いヒゲをぴんと立てる。

 この者に付いてくれば良い。 

 貴君の所属を乞う。部隊名と階級と上官名と名を名乗れ。

ダニエルの問い掛けに、黒ネコは更に目を細めていった。

 特務部隊第二小隊長、ゾルフ・ダリウズ中尉。上官名は機密であり、口外するなという命令が下されている。

 信用出来ない。この命令は受けられない。

ダニエルが跳ね付けると、黒ネコは返した。

 これでもか?

黒ネコの広がっていた瞳孔が、ぎゅっと収縮した。魔力が高まる気配が感じられたかと思った瞬間、破裂した。
膨らませた紙袋を叩き割った時のような、ぱん、と軽い炸裂音が酒場の空気を震わせ、赤黒い飛沫が散った。
砕け散った骨と、黒い毛が絡まる血肉が窓に当たり、滑り落ちていく。窓ガラスには、何本もヒビが走っていた。
唐突な炸裂音と衝撃に、人々は喋るのを止めて窓に向いた。肉片と血飛沫があると知ると、悲鳴が上がった。
ざわめきに怯えと恐れが混じり始め、不安げな顔を見合わせている。若い兵士達も、顔を引きつらせていた。
ダニエルは、ネコが吹き飛んだ場所を見つめていた。赤黒い血の筋が付いた窓には、隣の彼も映っていた。
レオナルドは突然のことに困惑していたが、ダニエルに小さく呟いた。その声は、申し訳なさが含まれていた。

「すまん、ダニー。信用しなくて」

「いや」

ダニエルはそう返すだけで、精一杯だった。気を抜けば、怒りによって念動力が溢れ出してしまいそうだった。
無意識に断片を放出してしまったらしく、テーブルの上の二つのグラスにはヒビが入り、残った酒が漏れている。
じわじわとテーブルに広がっている蒸留酒のつんとした匂いに、生々しく新しい鉄錆の匂いが混じり始めていた。
黒ネコを吹き飛ばされたこともそうだが、特務部隊隊長の命令が特に腹立たしかった。なぜ、隠れる必要がある。
機密重視なのだろうが、それにしては穏やかではない。真っ当ではない、と自分から言っているようなものだ。
異能部隊時代に、特務部隊という名は何度か聞いた覚えがあったのだが、今の今まで一切の関わりはなかった。
特務部隊は異能部隊と役割は似ているが、どちらかと言えば共和国政府寄りの任務をこなしていた部隊だった。
方向性も違えば、任務の内容も違う。そんな部隊が、なぜ今になって、ダニエルに接触しようとしているのか。
ダニエルは黒ネコの残骸を見つめていたが、また、あの声が聞こえてきた。至極冷静な、落ち着いたものだった。

 次は人間だ。

その言葉に、ダニエルはうんざりした。旧王都に来てまで戦いたくはなかったが、そこまで言われては仕方ない。
軍の中の厄介事で、一般市民に被害をもたらしたくはない。それに今ならば、ネコ達を救い出せるかもしれない。
だが、一人だけで動くのは逆に危険だ。念のため、フローレンスとヴェイパーに手を貸してもらわなければ。
ダニエルの内側に響いている声は、接触する場所を教えてきた。来ないはずがない、と踏んでいるのだろう。
明らかに罠の匂いがするが、行かないわけにはいくまい。ダニエルは、呆然としたままのレオナルドに向いた。

「レオ。悪いが、私の支払いを立て替えておいてくれないか。用事が出来た」

「明日にはちゃんと払ってくれよ。オレもそう楽な方じゃないんだ」

レオナルドはダニエルの言わんとしていることを察し、返した。ダニエルは、レオナルドに背を向ける。

「明日の朝までには戻る。その時にでも払うさ」

そのまま、ダニエルは酒場を出ていった。落ち着きなくざわめいている客の間を擦り抜け、通りに消えた。
レオナルドは多少動揺した心中を落ち着けるため、深く息を吐いた。ダニエルの表情は、大分固くなっていた。
これから、戦いに赴くつもりなのだろう。敵が何かは解らないが、彼の様子からして、楽な相手ではなさそうだ。
ダニーも大変だな、とレオナルドは同情したが、気を取り直した。今日こそ、フィリオラとの関係を進展させたい。
夕食を終えた後に部屋に来ると言っていたので、頑張るだけ頑張ってみよう。だが、また逃げられるかもしれない。
なぜ、そこまで彼女は受け入れたがらないのだろう。レオナルドは、自分に非があるような気がしてしまった。
ここ最近以前ほど激しく罵倒してもいないので、心当たりはない。でなかったら、気付かないうちに傷付けたか。
重たい不安が胸を占め始めたので、レオナルドはそれを払拭するべく酒を口に含んだが、味は解らなかった。
鋭い酒精の刺激だけが、舌を刺してきた。




ダニエルは夜の裏通りを歩いていたが、足を止めた。
人々の向こうに、浮かび上がるように感じるものがある。街灯に照らされた雑踏の間に、彼女が立っていた。
足早でもなく、普段は下しか着ていない作業着を上まで身に纏い、目立つ長い金髪を帽子の中に納めていた。
その帽子は、ダニエルとフローレンスが勤める鉄工所の作業用のもので、くすんだ色合いの地味なものだった。
それでも、フローレンスの存在は解った。見るよりも先に、そこに彼女が居る、という気配が感じられていた。
先程、弱いながらも精神感応の力を放ったからだろう。フローレンスは、それを感じて先回りしてきたようだ。
家路を急いでいたり飲み歩く途中である人々の間を擦り抜けたフローレンスは、ダニエルの前にやってきた。
ダニエルの前を塞ぐように立ちはだかると、横一線に結んでいた唇を緩め、僅かに肩を震わせて俯いた。

「あたしにも、聞こえた。色んな声が」

フローレンスは、大きく張り詰めた胸の前で手を握り締めていた。声は、かなり沈んでいた。

「副隊長には、あのネコを仲介した声しか聞こえなかっただろうけど、あたしには、全部が」

その全部がどこからどこまでなのか、ダニエルはすぐに察した。その肩に触れると、彼女は顔を押さえた。

「しかも、あいつら、改造してる。あの子達だけじゃなくて、自分達も。だから、凄く、頭が痛い…」

「無理はするな」

ダニエルは、フローレンスの肩を叩いて宥めた。フローレンスは頷き、作業着のポケットをまさぐった。

「うん」

フローレンスは、小振りの丸薬を二つ取り出して一つを口に入れ、噛み砕いた。もう一つを、ダニエルに渡す。

「副隊長もいる?」

「そうしておこう。私の方も、気を抜けばどうなるか解ったものではない」

フローレンスから手渡された丸薬を口に入れ、噛み砕いて飲み下した。ダニエルの口中に、苦みが広がる。
胃の中に飲み下された薬が酒と共に回り、内側で荒れ狂いかけていた念動と精神感応の力が安らいできた。
以前使っていた異能部隊の医療班が作った魔力鎮静剤に比べれば、多少なりとも味が柔らかく、苦みが薄い。
フィリオラの作った魔法薬なので、配合が若干穏やかなのだ。味に気を配っている辺りが、フィリオラらしい。
だが、小手先の魔法の知識で作ったものではないので効果は強く、飲み過ぎると魔力が減退すらしてしまう。
一日二つまで、というのがこの薬の制限で、この薬を渡される際にはフィリオラからいつも念を押されていた。
ダニエルは薬が回るのを感じながら、暗い表情のフローレンスを見下ろした。相当、敵の声を聞いたのだろう。
青緑色の瞳も快活さが影を潜め、下を見ていた。ダニエルは、フローレンスの帽子の鍔をぐいっと押し下げた。

「帰るなら今のうちだ、フローレンス」

「ううん、行く。行かなきゃならないと思うから」

フローレンスは帽子の鍔の下から、ダニエルを見上げた。暗かった瞳に、戦意の強い光が宿った。

「あたし達じゃなきゃ、相手が出来ないと思うし」

「ヴェイパーは連れてきたのか?」

「うん。先で待ってる。ていうか、あの子が付いて来た。今までこんなことはなかったから、変な気がするけど」

フローレンスは、不思議そうに首をかしげた。ダニエルは、ヴェイパーの自我が強まったことに驚いた。

「ヴェイパーが、自分の意思で動いたのか?」

「うん、そうなの。あの子、ブラッド君とちょこちょこ一緒に遊んでるから、何か影響を受けたのかもね」

フローレンスは押し下げられた帽子を元に戻し、ダニエルと同じ方向に向いた。雑踏の先を、見据える。

「ネコが可哀想だ、自由な生き物を自由じゃなくしちゃいけない、って何度も言ってたしね」

「良い傾向だな」

ダニエルは、少し笑った。フローレンスは、ようやく表情を柔らかくさせた。

「うん。あたしもそう思う」

「場所は解っているな」

歩き出したダニエルは、フローレンスに小声で囁いた。うん、とフローレンスは頷いたが言葉では答えなかった。
かなり押さえた精神感応の力を通じ、内側から語り掛けてきた。傍目には無言だが、彼女は力で喋っていた。

 あたしも知っている。声に教えられたから。南の門を出た先にある、廃屋になっている昔の貴族の邸宅だよね。
 声が聞こえた時、色々と見えた。あっちは見せたつもりはないだろうけど、あたしには、絵が見えていた。
 暗闇、戦闘服姿の兵士が五人いた。小隊だね。思念の中には上官の記憶もあったけど、全然見えなかった。
 感じ直してみると、見えないんじゃなくて、見せないように、その上官の思念が兵士の思念を遮断している。
 思念の扱いにかなり長けているみたい。魔法でいじられている感じはしないから、そいつの才能なんだね。
 だけど、その上官に会うことは出来ない。もう、去った後だから。残念っていうか、ありがたい気もするけど。

十字路に差し掛かると、二人は足を止めた。客を乗せた馬車が、車輪を激しく鳴らしながら駆け抜けていった。

 でも、精神感応能力者の兵士に、その上官の力は残留している。ほんの僅かだけど、なんとか掴めた。
 この感じは、前にも感じたことがある。とっても強くて、圧倒的で、近付きすぎると喰われちゃいそう。
 そうだ、あれだ。フィオちゃんの精神に繋げて、その一番底に触った時の感じとよく似ている気がする。

そこで、フローレンスは言葉を切った。正確には、ダニエルの感覚に繋げていた精神感応の力を切り離した。
ダニエルも同じく、力を更に押さえ込んだ。旧王都の南側に続いている大通りに出ると、並んで歩いていく。
あまり力を放つと、あちらに感付かれる可能性が高い。異能力は、使いどころを間違えばただの隙になるのだ。
ただの人間が相手であれば平気なのだが、同じ異能者達が相手となれば、それは全くの逆になってしまう。
相手が同じように異能力を持っているということは、利点も欠点も把握している、ということだからである。
そんな相手に、むやみやたらに力を使えば、容易く弱点を突かれてしまうのだ。今回は、気を付けなくては。
異能力は、特定の波長を持った魔力だ。異能者と通常者の違いは、それを放てるか放てないか、でしかない。
炎にせよ念動力にせよ精神感応にせよ瞬間移動にせよ、ある一定の力が突出した、突然変異に近しいものだ。
能力の種類などは、その突然変異の方向性の違いに過ぎない。根本的な力としては、いずれも同系統なのだ。
だから、異能者達は、同じ異能者だけが共有する感覚を持っている。ごく狭い、限られた世界のようなものを。
言うならば、それは同族に対する感覚だ。異能者達は、ある意味では、人とも魔物とも竜とも違う一種族なのだ。
それがあるから、異能部隊はまとまっていた。逆の意味での異能者の、ギルディオスが隊長だからこそ成立した。
だが、特務部隊はそうではない部隊だ。ダニエルは、何年か前に接見した時の、特務部隊の様相を思い出した。
それぞれが持ち合わせている力を最大限に活用出来る場ではなく、ただの、便利な手駒達のいる部隊だった。
特務部隊は、三十年以上存在していた異能部隊とは違い、十年ほど前に発足されたまだ歴史の浅い部隊だ。
発足当時、特務部隊の隊長にギルディオスが接見する予定だったが、それが中止になったことを覚えている。
特務部隊に急な任務が入った、とのことだったが、ダニエルには理由を付けて逃げられたとしか思えなかった。
軍の内部ではよくあることだし、別に特務部隊の隊長と接見する意味も見当たらないので気にはならなかった。
今にして思えば、会っておけば良かったとは思うが、その時はダニエルもギルディオスもそう考えていた。
下手に秘密主義の相手を引っ掻き回すとろくなことにはならない、というのが、軍の中での定説だからである。
夜なので店が閉まっている商店街を通り、南区を抜ける。旧王都の南側は、駅があることも相まって店が多い。
巨大な城壁の一部を壊して通した線路が敷いてある場所だけ、妙に空間が開けていて、温い風が抜けてきた。
昼間の暑さと煙の匂いが残る、湿った空気が吹き付けた。商店街を抜けて駅を過ぎると、その奧に門が見えた。
重厚な城門が開かれていて、薄明るい夏の夜空がその先にあり、城壁にぽっかりと穴が開いているようだった。
星々の散る藍色の空間の中心に、丸っこい体形の者が立っていた。近付くに連れて、輪郭が明確になってくる。
ヴェイパーだった。無言のままで歩いてきたダニエルとフローレンスが傍らを過ぎると、それに続いていく。
がしゅ、がしゅ、と関節が擦れる音をさせながら、重々しい足取りで、巨体の機械人形は二人に連れ立って歩く。

「ふくたいちょう、ふろーれんす。さくせんの、せつめいを、おねがいします」

「作戦なんか立てている暇はない。だから、やるだけやるしかない。少々無謀だがな」

ダニエルは、背後のヴェイパーを仰ぎ見た。フローレンスは被っていた帽子を外し、くるりと回す。

「敵の狙いが何かは解らないけど、あたし達にとっちゃ迷惑千万なのよね。だから、ぶちのめしても平気でしょ」

「ぐんき、いはん。だけど、いきものの、じゆうを、うばうのは、もっと、いはん」

ヴェイパーの平坦な口調が少しぶれて、悔しげになった。ダニエルは、その言葉に感心する。

「ヴェイパー。お前も、なかなか人間味のあることを言うな」

「ぶらっどが、おしえて、くれた。う゛ぇいぱーに、いろいろと、おしえて、くれた」

褒められて照れくさくなったのか、ヴェイパーは俯いた。フローレンスは拳を握ると、手のひらに当てる。

「行くわよ、ヴェイパー! 蒸気機関全開でぶっ飛ばしていこうじゃないのよ!」

「うん。ねこの、かたき」

ヴェイパーの語気に、力が込められた。ダニエルは、表情を強張らせる。

「あまり張り切って空回りするんじゃないぞ」

「了解、了解ー」

フローレンスは敬礼してから、前に向き直った。旧王都の南側へ、迷いのない確かな足取りで歩いていく。
旧王都の北東西には多い工場も南側にはあまり多くなく、障害物が少ないために、辺りがよく見渡せた。
昔は畑であったが今は荒れ放題の土地の奧に、中世時代からある建物が、ぽつりぽつりと点在していた。
崩れたまま放置されている屋敷のうちの一つ、左手の森の手前に建っている屋敷に、フローレンスは目を留めた。
気配がある。異能力が発されている。一旦は途絶えていた思念が、近付いたことで強さを増して飛んできた。
思念は、三人を誘う言葉が含まれていた。青い草と水の匂いが混じった夏の風が、ざあ、と木々をざわめかせた。
ダニエルは作業着のポケットに突っ込んでいた手袋を取り出すと、両手に填めた。一度目を閉じ、見開く。
魔力中枢の奥深くに押さえ込んでいた念動力を、解放する。力が表層に迫り出る感覚に、背筋が逆立った。
戦いの、始まりだ。







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