ドラゴンは眠らない




猛り狂う本能



冷酷な表情の竜の女と、肩を怒らせる銀灰色の獣が向き合っていた。
ダニエルとレオナルドを悠に越えている獣の身長は、ヴェイパーと同等かそれ以上あり、翼もまた大きかった。
今は折り畳まれているが、あまりの大きさに地面に引き摺っている。艶やかな銀灰色の体毛は、薄汚れていた。
オオカミのような唸り声が漏れており、目元が強められている。体毛と同じく白銀色の瞳は、狂気に血走っていた。
レオナルドは、竜の翼を下げているフィリオラの背と、その肩越しに見える銀灰色の獣を見つめるしかなかった。
獣の気配は、間違いなくブラッドだ。魂も魔力も何もかも、あの少年のはずなのだが、姿形が違いすぎている。
ダニエルと共に旧王都を探し始めて、すぐに感覚に感知出来たのだが、その形相を見た途端に絶句してしまった。
ブラッドの気配を追いかけてきたはずが、少年の姿などどこにもなく、いたのは異様な巨体の獣だったからだ。
幸いなことにブラッドのいた旧王都の外れは軍も警察もおらず、人も出払っていたので、簡単に彼を追い詰めた。
だが、レオナルドもダニエルも、まさかブラッドに反撃されるとは予想だにしておらず、応戦に手間取ってしまった。
しかもブラッドは、あっさりとダニエルの念動力の弱点を捉えて打ち破った。彼の力は、範囲が決まっているのだ。
一点に絞れば力の圧力は増大するが、その分力の領域は狭くなる。特に今回は、ダニエルは手加減していた。
だから、その隙を突かれてしまった。ダニエル自身も、まさかブラッドに破られるとは思っていなかったのだ。
動きを止めてしまえばいいだろう、と二人とも考えていた。少年に過ぎないブラッドと戦う必要などない、とも。
だがそれは、大きな誤算だった。力を持て余した存在と渡り合うには、手加減などしてはいけなかったのだ。
フィリオラの薄い背を突き破るようにして生えている翼が、ばん、と広げられた。彼女は、横顔だけ向けてきた。
きつく吊り上がった赤い目が、レオナルドを捉えると少しだけ弱められた。だが、すぐに銀灰色の獣を睨んだ。

「行きますよ、ブラッドさん! 手加減なんてしませんからね!」

駆け出したフィリオラは銀色の獣との間を即座に詰め、懐に飛び込んだ。獣が腕を上げると、細い足が上がる。
振り下ろされそうとする大きな拳をつま先で蹴飛ばしてから、その腕を掴んだ。足を払うと、軽々と背負った。
銀色の巨体が傾ぎ、足が浮き上がる。竜の少女が体を折り曲げると同時に、獣は頭から石畳に叩き付けられた。
どん、と足元が揺れ、銀灰色の獣は倒れた。フィリオラはすぐさま後方へ跳ね飛ぶと翼を広げ、地面を蹴る。
高く上り詰めたフィリオラが落下を始めると、ブラッドは起き上がり、一直線に向かってくるフィリオラを見上げた。
血濡れた牙を見せ付けるように口を開き、咆哮した。びりびりと空気が震えて震動が起き、建物の窓が割れる。
その強烈な音に、フィリオラは落下を止めて耳を塞いだ。銀灰色の獣は咆哮を止めないまま翼を広げ、跳躍した。
真下から接近してくる巨体に、フィリオラは素早く身を引いた。だが、擦れ違い様に、脇腹を爪で切り裂かれた。

「あぐうっ」

華奢な腰から鮮血が散り、フィリオラは傷口を押さえた。高く昇った銀灰色の獣は、途中で止まり、地上に向いた。
街と空の間に浮かんでいる竜の女を見据えると、翼を畳んだ。己の重量を使って加速しながら、竜の女を掴む。
鋭い爪の生えた毛むくじゃらの巨大な手が、竜の女の細い体を握る。フィリオラは脱しようとしたが、遅かった。

「いやあっ」

石畳に、一際大きな亀裂が走った。がらがらと崩れた石畳の間にフィリオラが埋まり、押し込まれていく。
フィリオラは銀灰色の獣の手を押し返そうとするが、逆に押されてしまう。その間にも、びしっ、と石畳は割れる。
レオナルドは、己の判断の甘さに吐き気がしてきた。回復しきっていないフィリオラが、満足に戦えるはずがない。
やはり先程、躊躇などせずにブラッドを攻撃しておくべきだったのだ。くそぅ、と苛立ち紛れに吐き捨てた。
だが、この状況では何も出来ない。下手に炎を撃っても、ブラッドがフィリオラを盾にしないとも限らないのだ。
今のブラッドは、ブラッドではない。猛る本能のままに動き、飢えのままに血を喰らう、一匹の野獣に過ぎない。
レオナルドが悔しさに項垂れていると、ダニエルは片手を前に突き出した。それを横に振り、高めた力を放る。
目に見えない念動力の刃が飛び、銀色の獣の背を打ちのめした。フィリオラを握っていた手も緩み、よろける。
ダニエルは、致命傷を与えない程度の威力で刃を放ち続けた。翼、腕、肩、腹、足、手、と的確に叩いていく。
銀灰色の獣は衝撃波でひび割れた壁に背を埋め、動かなくなった。がっ、と半開きの口から苦しげな声が漏れた。

「すまない、フィリオラ。私には、これぐらいしか出来ないんだ」

ダニエルは、石の破片の中から起きたフィリオラを見下ろした。フィリオラは立ち上がると、髪の汚れを払う。

「いいえ、充分です。ああ、抜かりました。自分の体の動きが鈍っていることを、すっかり忘れていましたよ」

忌々しげに呟いてから、フィリオラは項垂れているレオナルドの前にやってくると、しゃがんだ。

「レオさん」

「すまん、オレのせいで」

レオナルドは、石の破片で肌の切れたフィリオラを見上げ、目元を歪めた。フィリオラは、彼の前で膝を付く。

「そんなに可愛いことを言わないで下さい、レオさん。レオさんの判断は甘っちょろかったかもしれませんが、決して間違っていたわけではありません。思い切り、状況は見誤っていましたけどね。ですから、そうご自分を責めないで下さいよ。いけないのは、あちらなんですから」

「その恰好でそんなに優しい物言いをされると、却って変な気がするな」

レオナルドが少し笑うと、フィリオラは冷徹だった表情を和らげた。

「あら、いけません?」

「なんでもいいが、さっさと戻ったらどうなんだ。まだ油断は出来んぞ」

見つめ合う二人に呆れ、ダニエルは銀色の獣を指した。フィリオラは顔を上げると、あ、と頬を染めた。

「すいません、つい…」

フィリオラはちょっと名残惜しげにしたが、レオナルドから離れた。レオナルドも、多少残念そうにしていた。
ダニエルは、ここまで来ても愛を確かめ合う二人にげんなりしてきた。せめて、戦闘中だけは勘弁して欲しい。
銀灰色の獣は崩れた壁から背中を脱し、踏み出してきた。フィリオラは緩んでしまった表情を、ぐっと引き締める。

「では、行きますよ!」

フィリオラは姿勢を低くして駆け出し、両手を広げた。銀色の獣の目の前までやってくると、その手を前に出す。

「はっ!」

掛け声と同時に、どう、と強い風が起きて壁が大きく抉れた。その中心に埋められた銀灰色の獣は、身悶えした。
銀灰色の姿が埋まっている建物の窓という窓が砕け散り、壁という壁にヒビが走り、抉れは確実に広がっていく。
獣の背が壁を破り、どお、と崩れた壁の内側に転げた。空き家だったようで、部屋の中はがらんどうだった。
レンガを砕きながら起き上がった銀灰色の獣は、牙を剥いた。部屋の中から這い出ると、白銀色の瞳を強めた。
竜の女は、無表情だった。それが、神経を逆撫でした。痛め付けられて薄れていた飢えが、より強く湧いた。
何が何でも喰ってやる。喰い尽くしてやる。石畳に踏み出して翼を広げると、足元を蹴り、前方に飛び出した。

「かかかかかかかかかっ」

鳥に似た甲高い笑い声を上げ、竜の女に掴み掛かる。拳が竜の翼を吹き飛ばす寸前、その翼が引かれた。
小柄な影が横へずれたかと思うと、首を蹴り上げられる。太い喉元に細い膝がめり込み、喉が閉じてしまう。
上を向いた顎を、更に蹴られる。上体が逸らされると、今度は鳩尾に強い打撃が加えられ、息が止まった。
銀灰色の獣は前のめりになったが辛うじて堪え、咆哮して喉を開いた。姿勢を戻すと片足を引き、体重を傾けた。

「けけけけけけけけっ」

片足を踏み締めて体を回転させ、後方に向く。浮かび上がり掛けた竜の女に足を上げたが、掴まれた。

「遅いっ!」

その足が捻られ、また、石畳に叩き付けられる。がしゃっ、と細かな石の破片が飛び散り、毛の下の皮を掠る。
痛みに次ぐ痛みに、涙が出てきた。痛い、苦しい、怖い、悲しい。本能が弱まると、様々な感情が乱れ飛ぶ。
ああ、オレ。何、やってんだろう。そんな言葉が頭を過ぎった瞬間、血への飢えが落ち着き、記憶が溢れ出した。
息を弾ませた竜の女、フィリオラが目の前に立っている。その首筋に牙を突き立てて、血を吸い出して飲んだ。
飲んで飲んで、飲み尽くす勢いだった。食べ終えた直後の恍惚感が忘れられなくて、フローレンスも喰った。
だが、彼女では満足出来なかった。魔力が足りなかった。もっと力が欲しかった。もっと、血が喰いたかった。
フィフィリアンヌが良いかもしれない、いや、もっと他にも。そう思って外に出たら、体が急に膨れ上がった。
怖くなったけど、驚いたけど、どうにも出来なかった。魔力を失った時とは真逆の、変化をしてしまったのだ。
不意に、理性が舞い戻ってきた。ブラッドは砕けた石畳から起き、割れた窓ガラスを見た。そこには、獣がいた。
銀灰色の毛に覆われ、翼を生やした、巨体の獣。手を動かしてみると同じ動きをし、翼を畳むと、やはり縮まった。
見開かれた白銀色の瞳が震えた。舌に残る血の味が生々しく、二人から受けた打撃の痛みが、至る部分にある。
なんでなんだ、なんでどうしてこうなっちまってるんだ。ブラッドが数歩後退すると、フィリオラは間を詰めてきた。

「あら、もう終わりですか?」

フィオ姉ちゃん。そう叫ぼうとしても言葉にならず、喉から吐き出されたのは、あの甲高い咆哮だけだった。

「かかかかかかかかかっ」

オレはどうしちまったんだよ。なあお願いだ、どうしてこうなっちまったのか教えてくれよ、フィオ姉ちゃん。

「けけけけけけけけけっ」

人の言葉が使えない。意思が表せない。恐怖を遥かに超えた絶望が訪れ、ブラッドは震えながらずり下がった。
フィリオラの赤い瞳が、怖い。あの優しい眼差しではなく、殺意をも含んだ鋭い視線に貫かれてしまいそうだ。
レオナルドもダニエルも怖い顔をしている。辺りの建物や石畳が壊れている様も、とてつもなく、恐ろしかった。
嫌だ嫌だ嫌だ、怖い怖い怖い。ブラッドはがちがちと歯を鳴らしながら肩を上下させると、翼を大きく広げた。
怖い、怖い、怖い。何もかもが怖い。足元を強く蹴って跳ね、翼を張り詰めて風を捉え、涙を散らしながら飛んだ。
逃げなくては。ブラッドは必死に翼を羽ばたかせて、旧王都の外へと向かった。とにかく、遠くに行きたかった。
銀灰色の獣の巨体が飛び去る姿を、フィリオラは見上げた。ちぃ、と舌打ちして羽ばたこうとしたが、膝が落ちた。

「あっ」

立ち上がろうとしても、腰に力が入らない。半分だけ広げた翼も徐々に縮まっていき、手足も細くなっていく。
若草色のウロコが薄い肌に吸い込まれ、髪の色も元に戻る。フィリオラは力を高めようとしたが、出来なかった。
脇腹の裂傷がずきずきと痛みを増し、生温い血が溢れて落ちていく。レオナルドの魔力が、切れてしまったのだ。
やはり、彼の魔力だけでは変化を続けることが出来ない。フィリオラは悔しくてやるせなくて、石畳を殴り付けた。
だが、その拳は人のものに戻っていた。フィリオラは手と言わず腕にまで響いた痛みで痺れてしまい、項垂れた。

「痛ぁ…」

「無理をするな」

レオナルドは彼女に近付くと、その背に上着を掛けた。フィリオラは脇腹の傷を押さえ、彼を見上げる。

「で、でも、早くブラッドさんをなんとかしてあげないと」

「腰も立たないのに、どうにか出来るはずがないだろうが」

レオナルドは、へたり込んでいるフィリオラの傍に膝を付いた。フィリオラは、レオナルドの胸に頭を預ける。

「もうちょっと、頑張れると思ったんです。でもやっぱり、レオさんの魔力だけで変化を保つのは無理でした」

「今はさすがに、オレの力はやれんぞ。この状態でお前に注いだら、それこそオレが死んじまう」

レオナルドは、戦闘で乱れたフィリオラの髪を撫で付けた。フィリオラは、泣き出しそうな顔になる。

「ですけど、あのままだと、ブラッドさんは何をしてしまうか解りません。それに、正気に戻ってかなり混乱していたように見えるんです。そんな状態でいては危険ですし、なにより、ブラッドさんが可哀想で仕方ないんです」

「竜に戻った時のお前と、同じようなものなのか」

ダニエルが言うと、フィリオラは頷く。

「はい、そうなんです。私の場合は小父様や大御婆様から訓練を受けましたから、竜に変化してもある程度の理性を保つことは出来るんですが、ブラッドさんはそういった訓練をしたことがないと思うんです。あの様子だと、今まで獣の姿に変化したことがなかったみたいですし。以前に変化したことがあるのなら、もう少し冷静に動くはずでしょうから。ですから、今回が初めての変化なんだと思います。ですが、その初めてが一番危険なんです。本能に負けてしまって暴れてしまうし、自分の姿に驚いて混乱してしまうので。早く、ブラッドさんを宥めてあげないと」

「どうやって宥めるんだ?」

レオナルドは、胸に縋るフィリオラを見下ろした。フィリオラは、んー、と少し考えてから言った。

「私の場合は、ツノの根元を撫でてもらいましたが、それは竜に対するやり方ですからねぇ。吸血鬼に対するやり方なんて、私は知りません。明後日には、私の定期検診のためにお医者様のファイド先生がいらっしゃるんですけど、それまでに出来るだけのことはやってみませんと」

「頼りにならんなぁ」

ダニエルがため息を零すと、フィリオラはむくれる。

「そう言わないで下さい。私だって悔しいんですから!」

「とにかく、今は帰ろう。それしかない」

レオナルドはフィリオラを抱え、持ち上げた。その拍子に傷が引きつって、フィリオラは涙目になった。

「あいたっ!」

「だが、帰ったところでどうにも」

ダニエルが眉をひそめると、レオナルドは辺りを見回した。

「帰るというか、逃げるんだ。警察か軍が来たりしたら、この破壊活動の言い訳をしなきゃならん」

「ああ、それも、そうだな…」

ダニエルは口元を引きつらせた。それではいけないような気がしたが、確かに、この惨状の言い訳は出来ない。
石畳には深い抉れとヒビがある上に砕けており、建物の壁も吹き飛んでいて、ガラスもほとんど割れている。
破壊音が静まったからか、付近の建物の窓や路地からちらほらと人の姿が現れ始め、恐る恐る眺めている。
レオナルドはポケットを探り、白墨を取り出してダニエルに投げた。ダニエルはそれを受け止め、握った。

「空間転移魔法でいいんだな?」

「出力は上げるなよ。確実に飛べるようにしてくれ」

レオナルドは、フィリオラを抱えている腕に力を込めた。フィリオラは傷の痛みに苛まれながらも、彼に縋る。
魔力の失せた感覚と戦闘による疲労でぐったりしていたが、裸身に近い状態で彼に抱かれるのは恥ずかしい。
しかも、外だ。フィリオラは居たたまれなくなってレオナルドの胸に顔を埋めると、彼の手が後頭部を押さえた。
上目にレオナルドを見上げると、顔をしかめていた。やはり、レオナルドも気恥ずかしくて仕方ないようだった。
ダニエルが魔法陣を描き終えたので、三人はその上に立った。ダニエルは、なるべく二人を見ないようにする。
フィリオラが裸体に近いからということもあるのだが、レオナルドが恥じらっている姿はかなり情けなかった。
ダニエルは内心で呆れながらも、とん、と魔法陣の端をつま先で小突いた。ふわりと、弱い風が立ち上ってくる。
風が抜けると、三人の姿は消え失せた。石畳の上に残った白墨で描かれた魔法陣も、じわりと滲んで消えた。
激しかった戦闘音がなくなると、静けさが訪れた。無惨に砕けた石畳の破片が落ち、から、と音を響かせる。
そこに、足音が近付いてきた。規則正しく落ち着いた足音が通りかかると、人々はすかさず顔を引っ込めた。
砂埃と僅かな血の匂いが残る空気が、暑い風に流されてくる。彼はそれを深く吸い込んでから、吐き出した。

「いやぁ、素敵な眺めだ」

彼の背後に控えていた軍服姿の兵士が、呆気に取られた様子で、戦闘で破壊された通りを見回した。

「こりゃ凄い…」

「そりゃそうだよ。二人とも人外だからね」

彼はメガネを直してから、革靴の先でひび割れている石畳を小突いた。こき、と砕けた石がずれる。

「破壊力も戦闘能力も上々だ。これなら、改造した直後に前線投入出来るだろう」

「しかし、大佐。あの竜の女は、異能部隊基地を破壊した女ではないのですか。そんなものを、どうしてまた」

兵士の呟きに、彼はメガネの奧で目を細めた。

「そんなものだからだよ。上にとっても下にとっても脅威なのであれば、その脅威すらも力にすればいい」

兵士が言葉に詰まっていると、二人の後ろから、共和国軍の兵士達が統率の取れた動きで素早く駆けてきた。
破壊された通りの前後を手早く封鎖し、損壊した石畳の撤去を始めた。彼は兵士達を眺めつつ、微笑んだ。
予想以上の力だ。ブラッドの持っていた吸血鬼の力も本能も、思っていたよりも、ずっと使い道がありそうだ。
さすがに、アルゼンタムと化したラミアンの息子であるだけのことはある。理性の奧に潜む、狂気が凄まじい。
ブラッドの血筋であるブラドールは、共和国に存在する吸血鬼族の中でも、最も獣の血が濃い血族なのだ。
故に、本能が解き放たれれば、貪欲な猛獣と化す。そんな獣を手懐けて操れば、最高の兵器になるだろう。
銀灰色の体毛を持つ獣の外見もさることながら、人の血を喰らうものが、人にとって脅威でないはずがない。
それに、ブラッドはまだ子供だ。魔導金属を使った強化手術を施さなくても、魔法だけでの支配は可能だ。
人間に脳手術を施して魔導金属を埋め込み、強引に異能の力を引き出すと、それだけで相当な過負荷が掛かる。
手術をした途端に死ぬ者も少なくないので、特務部隊の能力強化兵の量産は、あまり上手く行っていなかった。
だが、人外であれば別だ。人よりも強靱な肉体と精神を持ち合わせている人外なら、脳手術も耐え抜くだろう。
アルゼンタムのように魂だけを抜いて機械人形とするよりも余程効率的だし、肉体があった方が都合が良い。
せっかく人を越えた肉体なのだから、使わなければ損だ。特に、フィリオラの肉体にはかなり魅力があった。
異能部隊基地を破壊した際の彼女は、竜へと戻ったと聞く。竜を手駒とすれば、どれほどの戦力になるだろう。
そして、どれほどの事が行えるだろうか。その様を想像しただけで楽しく、笑みが浮かんでしまいそうになった。
計略は、頓挫していない。多少、想定の範囲外の出来事が起きていたが、それほどの障害ではなかったのだ。
アルゼンタムを再び手元に置いておきたい気持ちは変わっていないが、いなければいないで、やりようはある。
彼の穴を埋めるために、手駒の数を増やしてしまえばいいだけのことだ。そのための手筈も、着実に整っている。
当初は、アルゼンタムを使って全ての事を運ぶつもりでいた。異能部隊を滅ぼす切っ掛けも、彼で作ろうと思った。
だが、思っていたよりもフィフィリアンヌとギルディオスの溝は深く、フィリオラをも巻き込んでの争いとなった。
そして、手を出すよりも前に異能部隊基地は壊滅した。異能部隊も解散し、ギルディオスの地位は失われた。
ダニエルとフローレンスは引き入れられなかったが、他の隊員達は、少数ではあるが配下に入りつつあった。
突然、軍隊から世間に放り出されてしまい、適応出来ずに混乱していた異能者達は、以前の日々を望んでいた。
なので彼らは、呆気なく特務部隊へ参入してくれた。与えられる任務が、強化手術の実験台であることも知らずに。
馬鹿の部下は馬鹿だねぇ、と彼は笑った。今頃、特務部隊基地では、彼らは生ける人形と化しているだろう。
中には、途中で事の真相に気付いて逃げ出そうとした瞬間移動能力者もいたが、すぐに捕らえて手術した。
確か、ポール・スタンリーと言う名の男だった。異能部隊の古参で、ダニエルと同等の経験を持っていた。
本当は手術しないでおきたかったのだが、抵抗したから手術した。部下は、道具でなければいけないのだ。
彼は、背後に立つ軍服姿の兵士を見上げた。目深に被った軍帽に隠れている目は、怯えたように彷徨っている。
この兵士は、士官学校上がりの精鋭だった。だが実戦経験が少ない、とのことで、特務部隊へ回されてきた。
侵略戦争に赴くまでの繋ぎとしての配属だったが、部下は部下だ。彼は兵士から目を外すと、小さく呟いた。

「ハワード・アンダーソン士官候補生」

「なんでしょうか、大佐」

軍服姿の兵士、ハワードが問い返すと、彼は唇の端を持ち上げた。

「君は街中で戦闘訓練を行った。僕の許可なしに」

「…は?」

「僕は、君に何も命令していない。にも関わらず、君は勝手に訓練を行い、しかもそれを化け物同士が戦っていたという虚偽の報告書を僕に提出した」

淡々と述べる彼に、ハワードはぎょっとする。

「わ、私が何をしたというのですか! あの獣と竜の女の乱戦は事実ですが、それ以外は!」

「それ以外は、なんだと言うんだい。上官に口答えするつもりか?」

彼が顔を上向けると、メガネに眩しい日差しが跳ね、その奧の表情が見えなくなった。

「僕は、君の報告書を虚偽だと見破った。だが君は、頑として譲らない。だから僕は、君を処分する。勝手に兵力を使って市民を脅かし、僕にとんでもない嘘を吐き、おまけに口答えもしたのだから。だが君は、僕の処分を言い渡すより前に、こう言った」

彼は、笑っている。

「全責任を取り辞任します、とね」

「あなたは、私の父親が誰であるか知っていてそれを言うのですか!」

動転しながらも言い返してきたハワードに、彼は目を逸らす。

「ああ、知っているよ。君の父親は共和国議会の下院議員だけど、僕は将軍閣下ととても親しいのさ。だから、君の親が何をどうしようが、僕には全く影響は出ない。それどころか、君の父親だけじゃなく一族全てを焼き払える。君が辞任しないのであれば、僕は将軍閣下に進言し、そうしてもらってもいいんだけど?」

「う…」

言葉に詰まったハワードに、彼は一笑する。

「そう、それでいい。今度の事の責任を取って君が辞任すれば、全ては丸く収まるんだ」

両の拳を握り締めたハワードは、がっくりと項垂れた。彼はその脇を通り過ぎ、革靴の足音を響かせていった。

「僕は仕事に戻る。後はよろしく頼むよ、アンダーソン元士官候補生」

彼の姿が見えなくなってから、ハワードは呻いた。悔しさと腹立ちで息を荒げ、喉の奥から言葉を絞り出した。

「なぜだ」

彼が去っていった通りを睨み、力一杯吐き捨てた。



「なぜ、あんな奴に!」





 


06 2/16