ドラゴンは眠らない




猛り狂う本能



その夜。ブラッドは、泣いていた。
旧王都の外に出たのはいいものの、どこにいるか解らなくなった。深い森の奧へ奧へと、ひたすら進んでいた。
真っ暗な闇を求めて、銀灰色の姿をも隠してくれる暗がりの中に入っていった。振り返るのが、怖かった。
木々の間を抜けて草を踏み潰し、息を荒げながら歩いた。使いすぎてくたびれた翼は、もう使い物にならない。
フィリオラとダニエルから受けた傷は癒えていたが、心は痛いままだった。涙も、少しも止まらなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい。そればかりが頭を渦巻いていて、言葉にしようとしても、あの笑い声しか出ない。
アルゼンタムに良く似たあの声も怖くて、何も喋りたくなかったが、走り続けていると喘ぎと共に声が漏れる。
それすらも、怖かった。体も心も疲れ果てていて、いい加減に休みたかったが、怯えの方が先に立っていた。
ぜいぜいと全身で息をしながら、太い木に手を当てて体を折り曲げた。手に触れた木の幹が、やけに小さかった。
体は、まだ大きいままのようだ。銀灰色の毛を見るのが嫌で、手元を見ることもなく、ずるりとへたり込んだ。
湿った枯れ葉の積もった地面に座り、木々の隙間を見上げた。藍色の空は東から白み始めていて、朝が近い。
いつのまにか、一晩が経っていた。フィオ姉ちゃんはどうしたかな、レオさんも大丈夫かな、と心配になってきた。
二人とも、痛め付けてしまった。戦い合ったフィリオラもそうなのだが、レオナルドを力一杯殴ってしまった。
彼は銃口を向けては来たが、撃ちはしなかったし、炎も放たなかった。なのにレオナルドを、攻撃してしまった。
ごめんなさい、レオさん。そう呟いてみるも、喉から出たのは掠れた吐息と甲高い声の切れ端だけだった。
枯れそうなほど流しているが枯れることのない涙が、目元から毛を濡らしている。顎を伝って、落ちている。
涙を流していると、ほんの少しだけ、自分が戻ってきたような気がした。姿形は獣だが、中身は元のままだ。
粋がっているくせに弱くて情けない、ほんの子供に過ぎない。ブラッドはしゃくり上げていたが、安心もしていた。
ああ、まだオレだ。オレがいる。オレはちゃんとオレでいる。思考も大分まともになっていて、落ち着いていた。
だから、尚のこと、この状態が嫌で怖くておぞましかった。頭の中は人なのに、体は獣という違和感が凄まじい。
肌だと思って触れても毛の感触があり、顔に触れても突き出た鼻先と牙があり、両手には太い爪が生えている。
どうすれば以前の少年の姿を取り戻すことが出来るのか、考えるだけ考えてみたが、まるで見当も付かなかった。
何度も深呼吸してみたが、効果はない。魔力を高めたら更に変化しそうだし、弱まってきた本能が高ぶりそうだ。
魔法を使おうにも、声が出ないのでは簡単な魔法すら使えない。魔法陣だって、まともに描けそうになかった。
それ以前に、有効な魔法を知らない。フィリオラとリチャードから教えてもらった魔法は、初歩の初歩なのだ。
物質の姿形を大幅に変化させる変形の魔法なら効果はありそうだったが、難しいのでまだ習っていなかった。
ブラッドは、深くため息を吐いた。ぐいぐいと涙を拭ってから、近くの木にもたれかかり、翼を折り畳んだ。
一生、この姿だったらどうしよう。そうなってしまったら、もう、フィリオラらの元には二度と戻れないだろう。
巨大で獰猛な獣と、一緒に暮らしてくれるはずがない。こんなに大きな体になってしまっては、部屋に入れない。
もう戻れないと思った途端に、フィリオラの作る料理が食べたくなった。優しくて温かな味が、とても恋しかった。
ブラッドは身を縮めると、丸まった。両手で目を塞いで、尖っている耳を下げ、柔らかな地面に横たわる。
土の匂いと草の青臭さが香ってきて、きちきちと小さな虫の鳴き声がする。このまま、眠ってしまおうと思った。
寝て起きたら、全てが夢であったらいいのに。この姿になったことも、彼らを攻撃してしまったことも、何もかも。
すると、ぎし、ぎし、ぎし、と鉄が軋む音が聞こえてきた。有機的な森の中には似合わない、無機質な音だった。
ブラッドは目を押さえていた手を外し、辺りを窺った。木々の隙間を縫うようにして、巨体が歩いている。
丸っこい胸部を持った、ずんぐりとした機械人形だった。ヴェイパーは、首をぐるりと一回転させている。
どうやら彼は、ブラッドを見つけるつもりのようだった。ブラッドはまた目を塞ぐと、来ないでくれ、と思った。
もう、一緒には遊べない。ちゃんと友達らしい友達になれたばかりなのに、と思うと、寂しくて悲しくなった。
重たい足音は、回りをうろついていたが、近付いてきた。それが頭上で止まると、どしゅう、と蒸気が噴き出た。
熱く白い蒸気を関節から漂わせながら、ヴェイパーは、地面に丸まっている銀灰色の獣、ブラッドを見下ろした。

「みつけた」

ブラッドが反応せずにいると、ヴェイパーはブラッドの傍に座った。

「ぶらっど、くるしい? だから、おきない?」

ブラッドが小さく頷くと、ヴェイパーは抑揚のない声で言った。

「ふろーれんすも、そう。でも、ふろーれんす、う゛ぇいぱーに、おしえて、くれた。ぶらっどの、いるところを」

余計なお世話だ。ブラッドが荒みきった言葉を内心で漏らすと、ヴェイパーは返してきた。

「よけい、じゃない。ふぃお、も、れおなるど、も、ふろーれんす、も、ふくたいちょう、も、しんぱい、している」

ヴェイパーは思念が読めるの、とブラッドが内心で問うと、ぎち、とヴェイパーは頷いた。

「うん。すこし、だけなら」

じゃあ、もう帰ってくれよ。オレは元に戻れない、一緒に遊べない。友達になれない。そう、ブラッドは返した。

「かえら、ない。う゛ぇいぱー、ぶらっど、つれて、かえるのが、にんむ」

誰の命令だよ、そんなの。

「う゛ぇいぱー」

なんだよそれ。自分で自分に命令っておかしくねぇか、そんなの。

「おかしく、ない。ぶらっど、まえに、う゛ぇいぱーに、いった。いまは、じゆうだから、なにを、かんがえてもいい、って。だから、う゛ぇいぱー、かんがえた。かんがえて、じぶんに、めいれいをした。ぶらっどと、いっしょに、いたいから」

オレはもう、一緒になんていられねぇよ。こんなんになっちまったんだから。

「だったら、まつ。ぶらっどが、もとに、もどるまで。ずっと、ここに、いる」

錆びちまうぞ。

「さびても、へいき。ふろーれんすが、なおして、くれるから」

でも、オレはずっとこのままかもしれねぇぞ。帰れないかもしれねぇぞ。それでもいいのか、ヴェイパーは。

「うん、いい。それも、わるく、ない」

そうかな。オレに取っちゃ、マジで良くねぇよ。

「う゛ぇいぱーにとっては、わるく、ない」

日に日に人間らしくなってくるな、お前って。

「ぶらっども、そうだ、けど、ふぃお、とか、れおなるど、とかからも、おしえてもらっている」

そうなん。

「そう。みている、だけだけど、けっこう、いい、べんきょうに、なる」

何の。

「あい、とか、こい、とか」

フィオ姉ちゃんとレオさんのは参考にならないと思うな。

「どう、して?」

だって、あの二人、ただイチャイチャしてるだけじゃんか。それが恋愛かっつーの。

「ふろーれんすは、そうだ、って、いっていた。はりたおしたくなる、って、いっても、いた」

あー、その気持ちはオレにも解る。レオさんがでれんでれんになってるところなんて、オレもたまに苛々してくる。

「う゛ぇいぱーには、よく、わからない。ふたりは、しあわせなのに、なんで、こうげき、したくなる?」

わかんねぇ。でも、なんか、そんな気分になっちまうんだよな。実行したりはしないけど。

「しないんだ」

うん。だって、本当に張り倒したら可哀想じゃんか。二人とも。

「うん。ふいうちは、ひきょう」

そういう意味じゃねぇんだけどなぁ。ブラッドは、内心でそう言い返したが、なんとなく楽しくなってきていた。
ちゃんとした言葉ではないとはいえ、まともに会話が出来る喜びに浸っていた。いつのまにか、涙は止まっていた。
心を裂かんばかりであった痛みも少しばかり安らいで、温かだった。ヴェイパーがここにいてくれて、嬉しかった。
こんな姿になっても、友達でいてくれている。捜しに来てくれる。嬉しくて嬉しくて、また涙が出てきそうだった。
帰りたい。フィリオラらのいるあの場所に、今すぐに帰りたくて仕方ない。けれど、もう帰れるはずがないのだ。
不意に、ヴェイパーは顔を上げた。あ、と鈍い声で呟いてから、木々の間を見た。ブラッドも、そちらに目をやる。
ほんの少し風景が歪んだかと思うと、どさっ、と何かが落ちた。草むらから起き上がった人影は、額を押さえた。

「魔力がないのに、空間転移魔法なんて、使うもんじゃありませんね…。きっ、きつすぎるぅ…」

弱々しく呟いた小柄な影の後ろで、同じようにぐったりしている人影が漏らした。

「ああ、オレもだ…。二人分の魔力を掻き集めても、本当にギリギリだったな…」

その声と気配で、ブラッドはすぐに誰であるか察した。ヴェイパーは立ち上がると、歩み寄ってくる二人に敬礼する。
木に手を付いて歩いてきた彼女は、顔色が冴えなかった。少し歩いただけで立ち止まり、脇腹を押さえている。
その肩を支える彼も、疲れ果てていた。二人とも消耗が回復していないのは明白で、ブラッドは罪悪感が起きた。
二人をそこまで痛め付けてしまったのは、紛れもなく自分だ。正視出来なくなってしまい、目を逸らして手で塞いだ。
ヴェイパーの隣で、二人分の足音が止まった。かなり力の抜けているフィリオラの声が、すぐ上から聞こえてきた。

「ああ、無事でしたか、ブラッドさん」

「けっこう、げんき。う゛ぇいぱー、と、いろいろ、はなした」

ヴェイパーが二人に報告すると、レオナルドはヴェイパーの胸部に手を付いた。

「そりゃ良かった。が、オレらはもう限界だ。本当に限界だ。帰りは頼む、ヴェイパー」

「うん。さんにんとも、ちゃんと、つれて、かえる。にんむ、りょうかい」

ヴェイパーは再度敬礼し、頷いた。フィリオラは銀灰色の獣の頭上にしゃがむと、涙の筋の付いた目元に触れた。

「ブラッドさん」

ブラッドは、目どころか顔全体を覆った。フィリオラは、鋭く太い爪の生えた大きな手を撫でた。

「怖いですか?」

ブラッドは、僅かに身動きした。

「苦しいでしょう、嫌でしょう、おぞましいでしょう。ですが、目を逸らしてはいけません。それが、あなたなんです」

震えながら肩を縮めた銀灰色の獣に、穏やかな言葉が掛けられる。

「私の血を飲んだことも、フローレンスさんの血を飲んだことも、レオさんを殴ったことも、ダニーさんに攻撃したことも、私と戦ったことも、全てあなたがしたことです。受け入れなさい」

フィリオラの語気が、強まる。

「本能に負けてしまったことも、戦ってしまったことも、何もかもあなたのしたことです。全てあなたです。否定しないで下さい。認めてあげて受け入れて、それから責めなさい。自分で自分を否定することほど、哀れなことはないと思うんです。ですからブラッドさん、今の自分を全て認めて下さい」

認められるもんか。受け入れられるもんか。そんなことしたら、オレは、本当にただの化け物になっちまう。

「あ、はい。そうですか」

フィリオラはヴェイパーを見上げてから、ブラッドを見下ろした。機械人形を中継して、彼の思念が伝わってきた。

「ブラッドさん。よく、聞いて下さいね」

涙と土で汚れた銀灰色の毛を、細い指が梳く。

「私もレオさんも、化け物のようなものです。ですけどね、それを否定してはいけないんです。その部分がなければ、今の私はありません。私というものを成しているものなんですから、否定しては可哀想です」

肯定なんて、出来るもんか。

「すぐには出来ないかもしれません。ですけど、きっと出来るようになります」

「だから、今は眠っておけ、ブラッド」

レオナルドの言葉に、フィリオラが続ける。

「寝て起きたら、きっと元に戻っていますから。疲れているでしょうから、すぐに眠れますよ」

そんな保証はない。そんなわけがない。ブラッドはそう思ったが、フィリオラの優しい声と疲労に負けてしまった。
手で塞がれた目がとろりとし、重たい瞼が下がっていった。すうっと意識が遠のいていき、緊張が抜けていく。
薄らいだ意識に、いい子ですね、とフィリオラの声が聞こえてきたが、それを最後に意識は深く落ちていった。
ブラッドは、どろりと重たい夢を見た。血生臭い泥溜まりの中を、銀灰色の獣が、這いつくばって進んでいた。
口に泥が入ると苦しくなり、血の匂いに吐き気がした。それでも止まってはいけない気がして、這い進み続けた。
毛という毛にまとわりつく泥は重たく、足を取られ、翼は役に立たない。血の赤と土の黒が、毛の色を変えていた。
そんな、夢を見ていた。




三日後。ブラッドは、目を覚ました。
腫れぼったい目を開くと、ぼんやりとした天井が見えた。関節の軋みと筋肉痛が、次第に意識を強めてくれた。
目を左右に動かしていると、額に何かが当てられた。それは人の手で、指先が少しだけひやりとしていた。
何度か瞬きをすると、手の主が見えてきた。長い金髪を後頭部の高い位置で括った女、フローレンスだった。

「あ、起きたね」

ブラッドは寝過ぎて重たい頭を起こし、フローレンスを見上げた。その首筋には、噛み痕が残っている。

「まぁ、うん」

口から、ちゃんとした人の言葉が出た。掠れている上に潰れていて覇気など欠片もなかったが、とても嬉しかった。
フローレンスはベッドの脇から立ち上がると、机から何枚かの書類を持ってきた。それを、少年に向けてきた。

「はいこれ、診断書」

「あ?」

ブラッドがきょとんとすると、フローレンスはベッドの端に座った。数枚の書類を、ぺらぺらとめくる。

「ブラッド君が寝てる間に、黒竜族のお医者様が来たのよ。ファイド・ドラグリクっていう人。フィオちゃんの定期検診に来てたんだけどね、そのついでだって言ってブラッド君の体のことを調べていってくれたのよ」

「オレの、体?」

ブラッドは、慎重に手を上げてみた。あまり大きさのない、色白な子供の手が現れたことに心底安堵した。
顔に触れてみても、毛は生えていない。爪も長くないし、翼も生えていないし、体格も年相応に戻っている。
そう、とフローレンスは頷き、診断書の一枚をブラッドに突き出した。視界が塞がれ、ブラッドは一瞬戸惑った。

「一言で言えば成長期なんだってさ。今はその第一段階だから、今後も何度かあの姿になるんだって」

診断書は、几帳面な字で書かれていた。文体と文字が少々古いので読みづらかったが、読めないことはなかった。
疾患なし。戦闘による負傷、数カ所。急激な肉体変化の影響で魔力は減少しているが、生命維持には問題なし。
肉体変化の要因。魔物族特有の肉体の成長に伴う魔力高揚期、すなわち、成長期であると推測される。
変化時の形態、体格から察するに今回の変化は第一段階であり、今後も数回の変化がある可能性は高し。
変化の際の注意点。変化の前後に魔力を過剰摂取すると、我を失う危険があるので、十分注意するべし。
対処法。変化してしまいそうになったら自制せずに変化してしまうこと。その後、擬態への変化を試みるべし。
慣れないうちは鎮静剤を服用しての擬態への変化を勧めるが、慣れてきたら鎮静剤を服用せずに行うこと。
それを繰り返すうちに、擬態への変化と獣人態への変化を意思だけで行えるようになるので、頑張るべし。
ブラッドは文面を読み終えてから、その後ろのフローレンスを見上げた。フローレンスは、診断書を下げる。

「ま、そういうこと。鎮静剤の処方はフィオちゃんがもらってるから、必要だったら作ってもらってね」

「成長期…?」

ブラッドは体をいじってみたが、そんな気はしなかった。フローレンスは、診断書を机に投げる。

「あと、血の食べ過ぎも原因じゃないかってファイド先生は言ってたわよ。フィオちゃんの血は魔力濃度どころか色々と濃いから、食べ過ぎると魔力が飽和しちゃうんだって。だから、フィオちゃんの血を食べるのは一週間おきぐらいで充分だろうってさ」

「あー…それもあったのかー…。三日おきぐらいに食べちゃってたもんなぁ、オレ」

食い過ぎかよ、とブラッドは馬鹿馬鹿しくなった。フローレンスは、首筋の噛み痕を押さえて顔をしかめる。

「ホント、いい迷惑よ。そんな理由で大暴れされた挙げ句に喰われたんじゃ、たまったもんじゃないわよ」

「…ごめんなさい」

ブラッドが声を落とすと、フローレンスはブラッドの額に手を当て、ぐいっと上向かせる。

「本気で謝ってるみたいだから、まぁ今は許す。でもね、あたしは全部を許したわけじゃないから」

フローレンスに真正面から睨まれ、ブラッドは少し臆したが、言った。

「解ってる。オレだって、オレが許せない」

本能に負けた。そして、皆を傷付けた。強くなろうと願っていたくせに、ちっとも強くなんかなれていなかった。
欲望のままにフィリオラとフローレンスを喰い、レオナルドを殴り、ダニエルに反撃し、街を破壊してしまった。
自分が作った罪の重さに、心が押し潰されそうだった。悔やんでも悔やみきれず、腹立たしさばかりが起きる。
フローレンスは、ブラッドをじっと見据えていた。少年の思念を読んでいたが、ぱちん、と彼の額を弾いた。

「あたしが一番許せないのはね、そういうところじゃないの!」

弾かれた部分を押さえて顔をしかめるブラッドに、フローレンスは迫る。

「あんたが逃げたことよ!」

ブラッドは額の痛みと悔しさで、涙が滲んできた。そうだ。そうなのだ。変化したあとは、恐れて逃げてばかりいた。
正気を取り戻してからは、何もかもが怖く、ヴェイパーすら拒絶しようとした。目を塞いで、何も見ようとしなかった。
また、やってしまった。父親の死を認められなかった時のように、また目の前の現実から逃げ出してしまった。
どうしてこうも、弱いのだろう。強くなりたいのに、強くなれない。ブラッドは悔しくて悔しくて、拳を固く握り締めた。
手の甲に、ぼたぼたと涙が落ちた。嗚咽を押し殺しても喉から呻きが漏れ、噛み締めた奥歯は痛いほどだった。
強くなりたい。もっと、本当に強くなりたい。ブラッドが肩を震わせていると、フローレンスはその頭に手を置いた。

「しばらく、そうしてなさい。自分の弱いところ、全部見ちゃいなさい」

「オレ…なんで、こんなに弱いのかなぁ…」

涙で声を潰したブラッドに、フローレンスは少年の頭を軽く叩いた。

「あたしも、昔にこんな時期があったわ。色んな人の声が頭の中に聞こえてくることが怖くて怖くてどうしようもなくて、ずうっと部屋の中に閉じ籠もっていたの。そしたら、隊長に引き摺り出されて、こう言われたんだ」

フローレンスは懐かしげだったが、気恥ずかしげでもあった。

「お前は逃げるために異能部隊に来たんじゃねぇだろう、生きるために来たんだろう、ってさ」

ブラッドは、力任せに涙を拭った。次から次へと溢れてきて止まりそうになかったが、拭わずにはいられなかった。
フローレンスは作業着のポケットからハンカチを出すと、少し乱暴に少年の頬を拭ってから、柔らかく笑んだ。

「大丈夫。弱いところを認めさえすれば、強くなれるから。これから、もっともっと強くなれるんだから」

「フィオ姉ちゃんも、似たようなこと言ってた」

ブラッドが呟くと、だろうねぇ、とフローレンスは頬杖を付く。

「あの子もあたしもあんたも、みーんな同じようなもんだからね。人であって人じゃない、人だけど人になりきれない、力にばっかり振り回されて生きてきたんだもん。考えつく先は一緒になっちゃうみたいね。結局のところさ、あたしらみたいな存在は、その力があってこそなわけよ。その力がなかったら今の自分はないし、その力も全部ひっくるめて自分なわけだ。だから、受け入れて認めて、生きていくしかないんだよ。すぐには上手く行かないだろうけどね」

「オレも、そう出来るかな」

自信なさげに、ブラッドはフローレンスに目を向けた。フローレンスは、大きく頷く。

「大丈夫大丈夫! あたしにだって出来たんだから! 出来ないはずがない!」

「…うん。オレ、頑張ってみる」

あまり覇気はなかったが、ブラッドは笑った。フローレンスは満足げな顔になり、ぐしゃぐしゃと少年の髪を乱した。

「うん、頑張れ! また暴れたら、今度はあたしもあんたを倒しに行ってやるからね!」

「うえ」

冗談じゃない、と言わんばかりにブラッドが目を剥くと、フローレンスはけらけらと笑いながら扉に向かった。

「本気にしないでよ。大体、あたしの攻撃なんてたかが知れてるし。じゃ、あたし、これから仕事だから」

「あ、うん。行ってらっしゃい」

ブラッドが手を振ると、じゃーねー、とフローレンスは部屋を出ていった。彼女がいなくなると、急に静かになる。
窓の外を見てみると、日差しは強かったが多少穏やかだった。どうやら、昼も過ぎて午後になっているようだ。
遠くから聞こえる機関車の駆動音に混じって、人々の生活音もする。ブラッドは、妙にしんみりとした気分になった。
涙は止まったが頬に残っていたので、フローレンスのハンカチで拭いた。彼女のものらしく、機械油の匂いがした。
ブラッドは、開け放たれている窓の外に向いた。直視したばかりの自分の弱さが、内側から迫り上がってくる。
それに乗じて、様々な脆さも出てきた。どれもこれも、まともに見たり触れたりすると、痛みがあり、苦しかった。
扉の向こう、居間からはフィリオラとサラの話し声がする。さすがに、フィリオラは仕事を休んでいるようだった。
フィリオラに甘えれば、彼女は慰めてくれるだろう。母のような温かな態度で、柔らかく受け止めてくれるはずだ。
だが、それではいけない。そんなことでは、いつまでたっても強くなんてなれないし、前に進むことも出来ない。
これは、自分自身との戦いだ。勝ちも負けもないけれど、終わりなどないけれど、決して逃れられない戦いなのだ。
だが、戦い続ければ戦った分だけ、確実に強くなれるはずだ。強くなれば、立派な魔導師にもなれるはずだ。
ブラッドは、改めて決意を固めた。部屋の片隅に積み上げてある手付かずの魔導書を見、うん、と頷いた。
まずは、きっちり魔法の勉強をすることから始めよう。勉強であれば、体がまともに動かなくても出来るだろう。
ブラッドは筋肉痛のひどい体をベッドから出し、歩いた。ずっと寝ていたから、ちょっとよろけてしまった。
積み上げてある魔導書を持ち上げて散らかっている机に載せてから、椅子を引いて腰掛け、魔導書を広げた。
ページに詰め込まれた細かな文字の多さに、一瞬、詰まってしまったが、すぐに気を取り直して読み始めた。
読み進めていくと、以前には理解出来なかった魔法陣の意味も魔法文字の効果も、理解出来ているのが解った。
そのうち、楽しくなってきた。復習って悪くないんだな、とブラッドは思いながら、魔導書のページをめくっていった。
ブラッドの脳裏には、父親の姿が蘇っていた。父はいつも、膝の上に魔導書を広げて、一日中読んでいた。
思い出してみれば、ラミアンは何度かブラッドに本を読ませようとしたが、その頃は魔法にあまり興味がなかった。
本を読むよりも遊んでいる方がいい、とラミアンを邪険にしたことも少なくなく、今更ながら申し訳なくなった。
ラミアンがこの姿を見たら、どう思うのだろう。きっと喜んでくれるだろうな、と想像したが、今度は寂しくなった。
喜んでもらおうにも、見てもらえるはずがない。死して灰となってしまったのだから、もう、会おうにも会えない。
ブラッドは魔導書から顔を上げて、窓の外を仰ぎ見た。時折吹き込んでくる煙混じりの風は、じっとりと暑い。
寂しさでまた涙が出たが、それは頬を伝わずに、すぐに乾いた。


居間では、フィリオラがサラと共に紅茶を飲んでいた。
食卓にはフィリオラの作ったケーキとクッキーが並べられ、ティーポットからは柔らかな湯気が昇っている。
オレンジの皮を刻んで練り込んであるケーキが切り分けてあり、それが二人の前に一切れずつ置いてあった。
フィリオラは、ブラッドの部屋の扉を窺った。フローレンスが出ていってから、少年の泣き声は聞こえなくなった。
彼女が、あたしもちょっとは役に立ちたいから、と言ってブラッドの傍に付いてくれたことは良かったようだ。
ブラッドの暴走の被害者であるはずなのに、彼を支えてくれたフローレンスは立派だとフィリオラは感服した。
フローレンスも、ブラッドのことを弟のように思ってくれているのだろう。可愛いですもんね、と内心で笑った。
フィリオラは、脇腹を押さえてみた。傷はすっかり塞がっていて魔力も戻ったが、うっすらと傷跡が残っている。
やろうと思えば消えるのだが、消してしまいたくなかった。ブラッドとの絆が出来たような、そんな気がしたのだ。
真正面からぶつかって、傷が付くほどやりあって、痛みを感じるほど感情を出してこそ、絆は生まれるものだ。
自分の両親や兄弟はその傷を恐れ、ぶつかってくることはおろか触れても来なかった。だから、見切りを付けた。
だから、ブラッドとは、本当の家族になれた気がした。血は繋がっていなくとも、種族が違っても、姉と弟だ。
これからは、もっともっと仲良くなれるだろう。そう思っただけで嬉しくなって、フィリオラは表情が緩んでいた。
紅茶を傾けていたサラは、にこにこしているフィリオラに気付き、ティーカップを下ろした。彼女に釣られ、笑う。

「嬉しそうね、フィリオラさん。ブラッド君が元に戻ったから?」

「それもありますけど、ブラッドさんと戦えたからっていうのもあります」

ケーキをフォークで切りながらフィリオラが返すと、サラは意外そうに目を丸める。

「どうして、それが嬉しいの?」

「私は今まで、兄弟ゲンカなんて一度もしたことがないんですよ」

フィリオラはケーキの切れ端を口に運ぶと、飲み込んでから続けた。

「ですから、なんか、嬉しいんです。ブラッドさんと兄弟ゲンカを出来たみたいで。ちょっと、変かもしれませんけど」

「大変なのね、あなた達は」

サラの慈しむような口調に、フィリオラはにんまりする。

「慣れてしまえば平気ですよ。結構、楽しいときもありますから」

「私はあなた達とは違って普通の人間だから何も出来ないけど、役に立てる時があったら言って下さいね?」

サラは、穏やかに微笑んだ。フィリオラはその気持ちが嬉しくて、また笑った。

「ありがとうございます、サラさん」

フィリオラはフォークを手にし、ケーキの続きを食べた。オレンジの皮の砂糖漬けの味は、甘酸っぱかった。
次に作る時はもう少し砂糖の量を減らそうかな、と思いながら、フィリオラはケーキを半分ほど食べていった。
食べながら、ふと、引っ掛かりを思い出した。ブラッドの暴走による戦闘から三日が過ぎても、何も起きていない。
あれだけ派手なことをやらかしたのに、軍どころか国家警察からもお咎めがなく、つつがない日々が続いている。
それはそれでいいのだが、何か、妙な気もする。考えてみれば、異能部隊基地を破壊した後も、そうだった。
何かしらの罪に問われてもおかしくないはずなのに、これもまた、何もないのだ。かなり、異様なことだと思った。
竜だから、かもしれないが、それにしては軍も国家警察も動きがなさすぎる。何か、目的でもあるのだろうか。
そこまで考えて、フィリオラはちょっと馬鹿馬鹿しくなった。いくらなんでも、それは考えすぎというものだろう。
きっと、侵略戦争に忙しいから忘れてしまっているのだろう。フィリオラはそう思うことにして、紅茶を飲んだ。

「平和ねぇ」

開け放ってある出窓から緩い風が滑り込み、サラは目を細めた。

「首都や国境付近は大変だって言うのに、ここはこんなにも穏やかだから、戦時中だってことを忘れそうね」

「そういえば、サラさん」

フィリオラは二杯目の紅茶を自分のティーカップに注いでから、サラに尋ねた。

「ここのところ、お出掛けが多いみたいですけど、何かあったんですか?」

「そう言われてみれば、そうね」

サラはティーカップに目を落とし、澄みきった琥珀色を見つめた。

「この間、私の知り合いが戦争に出征したのよ。だから、その見送りに行っていたのよ」

「そうですか…」

フィリオラは目を伏せ、声を沈ませた。まだ遠くでしかないと思っていた戦争の影は、確実に近付いてきている。
現時点では、侵略戦争の戦地は隣国との国境付近や、軍事力が多く集まっている首都周辺に止められている。
だが、それが広がらないはずがない。新聞で伝えられる戦況は芳しくなく、共和国軍は負けを繰り返している。
それでも共和国政府は強攻を続けているが、戦況が共和国側に傾いてくることは、素人目に見てもなさそうだ。
隣国は周辺諸国と手を組んだ連合軍を編成して攻めてきているが、共和国は手を組もうとして失敗している。
発展途上の小国でしかなかった隣国が勢力を増すに連れて、共和国はじりじりと兵力を削られ、戦力も落ちた。
遠からず、この国は負けるだろう。そうなったら何がどうなるか解ったものではないが、今は考えるべきではない。
今は、再び貧窮してきた己の懐事情をなんとかするべきだ。国全体の不況のせいで、報酬が減っているのだ。
物価も乱高下している上に経済も混乱しているので、余計にしっかりしておかなくては、とフィリオラは思った。
街のどこからか、拙い歌声の軍歌が聞こえてきた。子供達の舌足らずな声で、兵士を讃える歌が歌われている。
国家のために命を散らせ、戦いこそが素晴らしき、と、その一節だけが延々と繰り返され、先へは進まなかった。
そのまま、先には進まないで欲しい。戦いが進んでしまえば、この街も、人々も、破壊されてしまうのだから。
フィリオラは、少し温くなった紅茶を傾けた。戦うことは生き物の本能だが、戦争は、その一番悪い現れ方だ。
とても恐ろしい、本能だと思った。




猛り、暴れ、荒れる、獣の血と本能。
だが、それは己の一部であり全てであり、逃げることは出来ない。
目を逸らさずに、背を向けずに、真っ向から受け入れてこそ。

真に、強さを得られるのである。







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