フィフィリアンヌは、墓を見上げていた。 高く、高く、空に向かって突き出ている一本のツノ。そのツノが埋まっている根元には、墓標が据えられていた。 白く滑らかな石に丁寧に彫られた竜の横顔の下に、中世の古めかしい字体で、墓の主の名が刻み込まれている。 アンジェリーナ・ドラグーン。竜王都、西の守護魔導師。二十年ほど前に死した、フィフィリアンヌの母親の名だ。 青々と茂った高い山を背景に、母のツノがそびえている。その周辺にも、いくつもの竜のツノが突き出ていた。 この三百数十年で、竜王都は姿を変えた。かつては竜族が住まっていた街は崩され、広大な墓地となっていた。 山に囲まれた窪地の中央にある湖には、過去の栄華の名残である竜王城はまだ残っていたが、崩壊寸前だった。 手入れをするものもなく、朽ちるのを待っている。その城の主の竜王族も滅ぼされ、銀竜の血は途絶えてしまった。 フィフィリアンヌは、母のツノに触れた。冷ややかでざらついた表面は、砂埃や風雨で汚れ、埃っぽくなっている。 「母上」 墓以外は更地になっている竜王都を吹き抜けてきた風が、フィフィリアンヌの長い髪を揺らし、通りすぎていく。 ざあざあと木々が騒がしく、竜王城を囲む湖は波打っている。鮮やかな陽光が、静寂に満ちた都を照らしていた。 フィフィリアンヌは目を閉じて、母のツノに額を当てた。あの高飛車ながら美しい母は、もう土と化してしまった。 他の竜も、そうだ。フィフィリアンヌは母のツノから額を外すと、周囲を見渡し、あるツノと墓石に目を留めた。 エドワード・ドラゴニア。竜王軍副将軍。彼が死してから、大分時が過ぎ去った。巨大なツノも、朽ち始めていた。 そして、そのすぐ奧には、一際大きな黒い墓標が据えられている墓があった。ガルム・ドラグリク。竜王軍将軍。 フィフィリアンヌがガルムの墓を見据えていると、腰に提げたフラスコの中でスライムが蠢き、ごぼりと泡立った。 「もう、何年になるのであろうな」 「三百八十四年だ」 即答したフィフィリアンヌは、長く伸びている雑草をざくざくと踏み分けて歩き出した。道なき道を、突き進む。 エドワードの墓を過ぎ、もう一人の竜王軍幹部の墓を過ぎた先にあるガルムの墓に近付こうとして、足を止めた。 黒い墓標の傍に、白い影がいた。日光を反射した白衣が眩しく、その背から出ている翼の黒さが際立っていた。 褐色の肌に赤黒い瞳を持った、それなりに体格の良い中年の男だったが、頭には二本の長いツノが生えている。 彼は、竜の少女に気付いて振り向いた。ガルムの墓標に触れていた手を外し、やあ、と親しげな笑顔を見せる。 「これは珍しいな、フィフィリアンヌ。会長どのがこんな墓場にいらっしゃるとは」 「久しいな、ファイド」 フィフィリアンヌはガルムの墓の前にやってくると、白衣姿の黒竜族の男を見上げた。 「フィリオラの定期検診は終わったのか?」 「うん。彼女の健康状態は、至って良好だった。ここ最近負傷することが多いみたいで、生傷が多かったけど、それぐらいだね。生殖機能がきちんと働くかどうかを聞かれたけど、今のところは私にもなんとも言えないからそう答えたけど、ひどく落ち込ませてしまったよ。なんでも、ヴァトラスの末裔との間に子供が欲しいんだそうだ。いじらしいね、全く。そのついでに、ブラッド・ブラドールとかいう半吸血鬼も診てきたよ」 白衣姿の黒竜族の男、ファイド・ドラグリクはくたびれた白衣のポケットに両手を突っ込む。 「竜の血の飲み過ぎと成長期がかち合ったせいでちょっと暴走していたから、擬態の姿に戻してやって、フィリオラに魔物用鎮静剤の処方を渡してきたよ。やっぱり、近頃の魔物族は自己制御が下手になっているね。それだけ人間に近くなってきた、ってことなんだろうけど、昔は薬なんて使わなくても元に戻れていたはずなのに。原因として考えられるのは、近代文明の発達で魔法全体が減少しているからだろうね。人々が魔法を使わなくなれば、その分放出される魔力が減り、大気中の魔力含有量も下降する。すなわち、人も魔物も魔力に対する耐性が弱くなる。結果、魔力が高ぶっても免疫がないので抑制が出来ず、変化も上手く行かなくなり、暴走してしまう。と、いう仮説を立ててみたんだけど、どう思うかい?」 「なかなか鋭い推察だ。私もそのような考えに至っている」 フィフィリアンヌが吊り上がった目を細めると、ファイドは笑んだ。 「いや、ありがたいね。君に褒められる日が来るとは思ってもいなかったよ」 「はっはっはっはっはっは。この女はニワトリ頭と復交してからというもの、えらく機嫌が良いのである。故に、今だけやもしれんが、気色悪いほど愛想が良いのであるぞ」 伯爵がうにゅりと流動すると、ファイドは目を丸くしてから声を上げた。 「本当かい、フィフィリアンヌ! そりゃあ良かった!」 「少々、遠回りをしたがな」 フィフィリアンヌが僅かに微笑むと、ファイドは、良かった良かった、と繰り返した。 「いやあ、私も気が気じゃなかったんだよ。君とギルディオスの仲の良さは私もよく知っているから、君らが敵対している姿を見るのは痛々しくてたまらなかったんだ。うん、安心した。本当に良かったよ」 ひとしきり、ファイドは嬉しそうにしていた。一人で何度も頷いて、良かった、と更に何度か連呼していた。 それが落ち着いてから、彼はガルムの墓標を見上げた。四百年近く風雨に晒されているが、欠けてすらいない。 墓標の後ろでそびえている彼本人のツノは、先端が風化しているが、墓標は艶やかに磨き上げられたままだ。 それは、墓標に刻み付けてある魔法陣のおかげだった。遥か昔に掛けられた魔法は、現在も効果を保っている。 物質の現状を保有し、損傷させないための魔法。いわゆる防腐の魔法の、もう一つ上位の高位魔法だった。 エドワードの墓標にも同じ魔法が施されているが、ガルムのものほど強くなく、事実、あちらは切れかかっている。 将軍と副将軍といえど、扱いに隔たりがある。ガルムの起こした戦争、黒竜戦争当時も二人の評価に差があった。 好戦的で強攻を好むガルムと、穏健に進めようとするエドワード。部下の思想も、その二つに分かれていた。 そして、竜族達も大まかに分ければその二派となっていた。だがどちらも、根本的な考えは変わらなかった。 竜王都と竜族を守るため、悪しき帝国を滅ぼすため。だが、そのどちらも果たされず、両者は滅びてしまった。 黒竜戦争は、長年燻っていた帝国と竜族の関係に終止符を打つべく始まったのだが、結果は相打ちに終わった。 帝国を焼き尽くすために進軍した竜王軍を、王国軍が迎え撃ったことを発端に、竜王軍は総攻撃を受けた。 積年の恐怖を憎悪に変えた人間達の攻撃に、さすがの竜族も怯むかと思われたが、戦況は竜へと傾いた。 当初は空中戦を主立った作戦としていた竜王軍が地上戦に切り替えたことで、帝国王国両軍は大いに混乱した。 だが、そのために、双方は多大なる損害を受けた。最前線の竜達が、やはり最前線の魔導師と戦ったからだ。 魔導師達はドラゴン・スレイヤー達の残した竜の殺し方を元にして、確実に竜王軍の兵士達を屠っていった。 しかし、竜も負けてばかりではなく、力任せに魔法ごと魔導師を喰らった。竜の屍を積み重ね、進軍を続けた。 そして竜王軍は帝国の帝都へと辿り着いたが、時を同じくして、帝国王国の連合軍が王都に攻め入ってきた。 その際に応戦したアンジェリーナは、敵の魔導師に呪いを受けた。時間を掛けて魂と体を蝕む、強い呪いだった。 人であれば一年ほどで死する呪いだったが、竜であるが故に命を長らえてしまい、四百年近くも苦しみ抜いた。 深い冬眠を重ねて痛みを凌いでいたが、目覚めるたびに母は言った。ああ、私、まだ死ねてないのねぇ、と。 呪いでやつれていながらも、美しさと誇り高さを失わないアンジェリーナが、フィフィリアンヌは痛々しかった。 何度か、母を殺そうと思った。苦しむのであればいっそ楽にしてやろう、と強烈な毒を調合したこともあった。 だが、アンジェリーナに会うとその気は失せた。苦しみの最中でも愛情を示してくる母を、殺せるはずもない。 フィフィリアンヌは、ガルムの墓標に手を触れた。アンジェリーナの苦しむ姿に、彼が苦悩する姿を何度も見た。 ガルムは、アンジェリーナを愛していた。彼はそれを決して口には出さなかったが、エドワードから教えられた。 そして彼は、思いを告げることもなく、帝都で死した。帝都を破壊し尽くしたあと、エドワードに首を刎ねられた。 その時のガルムは清々しげで、悲しげでもあったとエドワードは言っていたが、その後にエドワードも自害した。 それは、二人の決めた約束だった。遠い昔に、フィフィリアンヌの城で取り交わされた契りを果たしたのである。 ガルムが人の世界を滅ぼしてしまいそうになった時には、エドワードの手でガルムを止める、というものだった。 帝都を襲ったガルム率いる将軍一派は、本当にそんな勢いだった。竜王都を破壊された怒りに、充ち満ちていた。 二人の約束がなかったら、この時代はなかったかもしれない。フィフィリアンヌは、黒竜将軍の墓標を見上げる。 「ガルム。そちらの世界に、戦いはあるか?」 フィフィリアンヌの細い指が、黒い石に刻まれたガルムの名をなぞる。 「こちらでは、また起きておるぞ。いつの時代になろうとも、生き物のやることは変わらんな」 「共和国と隣国の戦争は、私も上からちらっと見てみたが、ありゃあひどいよ」 ファイドはフィフィリアンヌに倣い、漆黒の墓標を仰ぎ見る。 「共和国は巻き返そうと必死になっているようだけど、やるだけ無駄だと思うね。隣国、というか、連合軍は、連帯の鈍い共和国軍の綻びを見つけては猛攻を繰り返しているだけだけど、それでも充分打撃を与えられている。まぁ、考えてみれば、隣国があんなに必死になるのは当然だよ。元はと言えば、共和国が隣国の経済に圧力を掛けたのが発端なんだから、悪いのは共和国だ。だけど、なぁ…」 「隣国の方は、最早目的を見失っている。手段が目的へ切り替わってしまったのだ」 フィフィリアンヌは、眉根を歪める。 「戦争は、手段であって目的ではないというのに。嘆かわしいことだ」 「全くだよ」 ファイドは、ガルムの墓に背を向けた。墓の間を縫うように伸びている細い道を、歩いていく。 「フィフィリアンヌ。せっかく君に会ったんだ、ワインの一杯ぐらいは、付き合ってくれたまえよ」 「ああ、そうだな。私も、もうしばらく貴様と話をしていたい気分だ」 フィフィリアンヌもガルムの墓に背を向け、彼に続いた。 「はっはっはっはっはっは。リリアスウェルナンとまでは行かなくとも、良いものを出して欲しいものであるぞ」 伯爵の高笑いに、フィフィリアンヌの数歩先を行くファイドは肩を竦める。 「期待はしないでくれよ。私は君達ほど、ワインにはこだわりを持っていないんでね」 付いて来たまえ、とファイドは白衣の裾を翻して歩いていった。フィフィリアンヌは草を踏み分け、その後を追った。 無数に並ぶ竜の墓の周辺には、竜王都が栄えていた頃の名残である瓦礫が積み重なり、ツタが這い回っていた。 竜王家の紋章が施された壁も朽ち果て、触れれば容易く崩壊しそうだった。草と土の間に、見え隠れしている。 地面に埋まっているレンガに時折足を取られたりしながら、フィフィリアンヌは目線を上げ、竜王都を見渡した。 竜王城のある島を囲んでいる湖の水面は、鮮やかな夏の日差しを受けていて、風に揺れるときらきらと煌めいた。 澄み切った高い空にはワイバーンらしき影が飛んでいて、くるりと輪を描いている。ぎぃ、と鳴き声もしてきた。 穏やかな風が、頬を撫でていく。雑草に隠れながらも自生している花から、甘く優しい香りが零れ、広がってきた。 細い道をしばらく歩いた先に、こぢんまりとした家があった。竜王都の外から運んできたようで、比較的新しい。 その家の前には、診療所、と書き記された看板が立てられていた。どうやら、ファイドの仕事場のようだった。 ファイドは竜族の医者だが魔物にも精通しているため、何百年経とうとも患者は途絶えず、現在も開業している。 普段は人間に紛れて下界で暮らしているが、時折、こうして竜王都に戻ってくるときがある。休暇、なのだそうだ。 フィフィリアンヌには、その気持ちは良く理解出来た。生者はいなくとも、誰も住んでいなくとも、竜王都は竜王都だ。 竜族にとっての郷里であり、長い間守ってきた場所だ。何はなくとも、そこにいるだけで、安らぐものがある。 小さな木造の診療所に向かう前に、フィフィリアンヌは足を止めた。竜王城に繋がる、石造りの幅広の橋がある。 だが、その橋は中央が崩れ落ちていた。ばらばらになった石の破片が、冷たく薄暗い水中に積み重なっている。 その光景を目にした瞬間、過去の記憶が蘇ってきた。 七十八年前。フィフィリアンヌは、東竜都にいた。 共和国は目に見えて繁栄し、国土を拡大するに連れて軍事力の増強を始めていたが、その頃は興味がなかった。 暇潰しに、と思って魔導師協会に参入したばかりの頃でもあったのだが、まだ地位も低く、権力もなかった。 故に西にいる必要もないだろうと思い、東方の山奥に存在している青竜族の都、東竜都に長い間滞在していた。 東竜都でアンジェリーナが療養しているから、というのも滞在の理由だった。なるべく、母の傍にいてやりたかった。 ギルディオスは、ストレイン家やヴァトラス家が彼を離してくれなかったため、東竜都には来られず終いだった。 行けるもんなら行きたいが、とフィフィリアンヌが出発する前に言っていたが、結局最後まで来ることはなかった。 東竜都は共和国から大分遠い上、空を飛べなければ来られないような、本当に森の奥にぽつんと造られていた。 太古の自然が手付かずで残った、人の手の届かない世界。そこで、青竜族を中心とした竜族達が生きていた。 青竜族の若き長、ウェイラン・ドラグラウを中心とした社会が成り立っていて、小さな国のようになっていた。 竜族達は都を統べるウェイランに従い、人の世界に下りることはなく、ゆるやかな滅びへの時を過ごしていた。 西方諸国が冬を迎えている頃、東竜都は穏やかな春に包まれていた。その日も、フィフィリアンヌは母を見舞った。 赤く塗られた柱で造られた家々を過ぎ、西方に比べて背の低い建物が並ぶ街並みを抜けると、深い森があった。 悠久の時を長らえてきた巨木達の枝と葉が多いため、昼間でも夜のように薄暗く、陰鬱な雰囲気すらあった。 フィフィリアンヌは伯爵が入ったフラスコを腰のベルトを提げ、食事と薬を持ち、森の奧の小屋へと向かった。 木々の間隔が空いてくると、そこに押し込められるような形で無理に建てられた、本当に小さな小屋があった。 フィフィリアンヌは木の枝を避けて、柔らかな日光が差し込んでいる空間に出ると、母のいる小屋に近付いた。 扉を開けると、日の差し込む窓の傍のベッドに、母が座っていた。翼を折り畳んで目を閉じて、眠っている。 フィフィリアンヌは扉を閉め、アンジェリーナの元に近付いた。寝間着から出ている手足は、痩せ細っている。 大きく開いた襟元から覗く白い胸元には、遥か昔に刻み付けられた呪いの魔法陣が、くっきりと印されていた。 血の色に似た赤で描かれている魔法陣に、色鮮やかな緑髪が落ちていた。フィフィリアンヌは、母を覗き込む。 「母上」 フィフィリアンヌの声に、しばらく間を空けてから、アンジェリーナは何度か瞬きし、薄く目を開いた。 「あら、フィフィーナリリアンヌ」 「また、冬眠してしまうのだな」 フィフィリアンヌは手に提げてきたカゴから、陶器で出来た鍋と器を取り出し、魔法薬の入った瓶も出した。 アンジェリーナはとろんとした目をしていたが、小さく頷いた。乾いた唇が僅かに開き、掠れた言葉が発された。 「ええ、また眠るわ。眠ってないと、苦しくって仕方ないから」 「今日も天気が良いぞ。外に出たら爽快なのだが、そうもいかぬな」 フィフィリアンヌは柔らかく煮たヘビの肉のスープを器に盛ると、アンジェリーナの手元に置いた。 「もうしばらくしたら、私は一旦共和国に戻る。いくら仕事がなくとも、魔導師協会に顔は出さねばならんからな」 「あんたも変わったわねー、フィフィーナリリアンヌ。昔はそういうこと、大っ嫌いだったのにねぇ」 アンジェリーナが唇の端に笑みを浮かべると、フィフィリアンヌは目元を和らげた。 「それだけ暇なのだ」 「はっはっはっはっはっはっは。我が輩は常日頃から暇であるからして慣れているのであるが、この女は何かと仕事をしておらんと落ち着かぬようなのである。暇を楽しめぬというのは全く持って哀れであるぞ、フィフィリアンヌよ」 腰のフラスコから伯爵が喚くと、フィフィリアンヌは軽く小突いた。 「城の蔵書を十回も読み直してしまうほど暇では、いっそ毒なのだ。このままでは、頭が腐ってしまいそうなのだ」 「はっはっはっはっはっはっは。貴君という女は、脳髄どころか根性も神経も、既に腐り果てているのであるぞ」 「脳髄も神経も持ち得ぬ貴様が言えた義理か」 「はっはっはっはっはっは。我が輩も貴君ばかりが相手では、飽きてきたのである。気持ちも腐るというものだ」 「そろそろ雨期だからな。またカビが生えてきたのか」 「まだ生えておらん! 今年はまだ無事である、見て解らぬか! というか、我が輩のこの麗しくも素晴らしい肉体に青や緑のおぞましいカビが生えてしまうのは、貴君が我が輩の世話を怠っているせいであって、我が輩は一切責任はないのであるぞ!」 「何もにも好かれぬ貴様でも、カビにだけは好かれているのだから良かったではないか。喜ぶべきだぞ、伯爵」 「喜べるわけがなかろうがぁ!」 じたばたと、フラスコの中で赤紫のスライムが暴れた。二人のやり取りに、アンジェリーナは弱く笑んだ。 「あんたら、元気ねぇ」 「それぐらいしかやることがないのだ。東竜都の書庫も読み潰してしまったし、薬の注文も少ないからな」 フィフィリアンヌはベッドに腰掛けると、母を見上げた。アンジェリーナは、ちょっと呆れた顔をする。 「ここの書庫って言ったって、いくつあると思ってんのよ。あんた、どれだけ暇なわけ?」 「青竜城の書庫を五つと歴史学者の蔵書と、書肆のものを全てだ。少々時間は掛かったが、なかなかだった」 「…あんた、目ぇ大丈夫? いくらなんでも、それは読み過ぎじゃない?」 アンジェリーナがげんなりすると、フィフィリアンヌは首の後ろを手で押さえる。 「一応な。視力は昔から落ちているし、これ以上落ちることもない。ただ、眼神経の凝りが以前よりもひどいな」 「はっはっはっはっはっは。フィフィリアンヌよ、貴君も確実に老化しているのであるぞ」 「否定はせん。五百年も生きてきたのだ、少しは体も痛んでくるというものだ」 フィフィリアンヌは腰のベルトに付けた金具からフラスコを外し、ベッドに置いた。中身が動き、ごろり、と転げる。 「貴君は外見がそれであるから、一見すると解らないだけなのである」 「あんたも、もういい歳だもんね」 アンジェリーナはスープの入った器を取り、スプーンで中身を掬った。ひとさじ分を飲み込んだが、手を止める。 母の目が、動いた。吊り上がった赤い目は幼い姿の娘から外れ、その後ろの、開け放たれたままの扉に向いた。 扉から差し込む光が、人影に塞がれていた。ツノと翼を持った大柄な影が、小屋の中に踏み入ってくる。 窓際に近付いてくると、濃い影が弱まった。黒く長い衣を身に付けている、背の高い青竜族の青年だった。 大柄で逞しく、見るからに若さの溢れる男だった。西方の竜族に比べると、多少彫りの浅い顔立ちをしている。 色の暗い青髪を緩くまとめ、肩に載せていた。彼が深々と頭を下げると、骨格の太い肩から髪束が滑り落ちた。 「ご機嫌麗しゅうございます、アンジェリーナ様。お加減はいかがでしょうか」 「いいわけがないでしょうが」 アンジェリーナはやる気なく返し、顔を逸らした。フィフィリアンヌは、青竜族の青年、ウェイランに言う。 「貴様も酔狂な男だな、ウェイラン。早く諦めたらどうだ」 ウェイランは一瞬、戸惑ったように目を見開いた。フィフィリアンヌは、ウェイランを睨む。 「母上の心は父上のものだ。今更、貴様のような男になびくはずがあるものか」 「大体ね、こんな病人なんて嫁にもらったってつまんないわよ。それに、私は今更誰ともまぐわうつもりはないの」 アンジェリーナは、弱ってはいたが覇気のある口調で言った。ウェイランは、アンジェリーナを見据える。 「違います、私はそういうつもりではない! ただ、本当に、あなたを」 「下がれ、ウェイラン。ここは貴様の都かもしれんが、母上は母上であり、貴様の配下の女ではない」 フィフィリアンヌが語気を強めると、ウェイランは苦々しげに少女を睨む。 「…半竜半人の分際で」 「その手の文句は聞き飽きた。どうしてこう、貴様らのような輩は語彙が少ないのであろうな」 呆れたように、フィフィリアンヌは目線を逸らした。フラスコの栓が押し抜かれ、にゅるりと赤紫の触手が伸びる。 「ウェイランよ。この女を侮蔑するのであれば、脳髄が腐るほど本を読んでから出直すのが良いのである。そして、母上どのからも身を引くがよい。フィフィリアンヌに激烈な毒を盛られてしまう前にな」 ウェイランは悔しげに歯を食い縛り、三人を睨んでいた。アンジェリーナは気圧されることなく、表情を固めた。 やつれてはいるが衰えのない美しい顔立ちと表情は、気高かった。意志の強い瞳が、青竜の男を射抜いている。 木々のざわめきが、張り詰めた空気を掻き乱した。小屋の中に残る香の匂いが、窓から入った風で薄らいだ。 ウェイランはくるりと背を向けた。振り返ることもなく、足早に小屋を出ていくと、駆け出していったようだった。 フィフィリアンヌは、木々の間を抜けていく男の背を見つめた。ウェイランは、いつの頃からか母を愛していた。 アンジェリーナが、百年ほど前に東竜都にやってきてからというもの、何かにつけてウェイランは母の傍に来た。 彼は黒竜戦争時代の生き残りで、帝都決戦にも参加していた。いわゆる、将軍派の思想を持っている男だった。 ガルムの強攻的なやり方を好み、崇拝すらしていた。その力任せの姿勢も、決して、悪いというわけではない。 衰退しつつある青竜族をまとめ上げて他の竜族を引き入れ、東竜都を成し上げるには、生半可な力では無理だ。 他者の心を掴む力と勢いに溢れていても、指導者の才を持っていなければ、誰もその後に付いては来ない。 だが、少々強引すぎる嫌いがあった。結果としてそれが良いこともあるが、悪い方向に進むのもしばしばだ。 アンジェリーナに近付いたのも、当初は敬愛する将軍の心を奪った女を支配してやりたい、との考えだった。 だが、何をどうやってもアンジェリーナが一向になびかないので、本当にその気になってしまったらしかった。 ウェイランの動向が気掛かりなことも、フィフィリアンヌが東竜都から離れない理由の、一つとしてあった。 以前のアンジェリーナであれば、男に迫られても返り討ちどころか逆襲していただろうが、今はそうはいかない。 呪いを受けているせいでまともな魔法も使えないし、体も上手く動かない。そんな状態では、抵抗すら出来ない。 ウェイランのような若く屈強な男には、簡単に手込めにされてしまうだろう。それが、一番気掛かりなことだった。 フィフィリアンヌが表情を曇らせているのを見、アンジェリーナはにぃっと唇を広げ、鋭く白い牙を覗かせた。 「大丈夫よ。手ぇ出されそうになったら、喉笛噛み切ってやるから」 「母上。今夜は、私もここにいるべきではなかろうか。だから、いても良いか?」 不安げに眉を下げたフィフィリアンヌに、アンジェリーナは手を伸ばし、娘の頬に指先を触れた。 「ありがと。でも、本当に大丈夫よ。今日は体の調子も良いし、あんたが心配してくれただけで、充分よ」 嬉しいわ、とアンジェリーナが笑ったので、フィフィリアンヌもぎこちないながらも笑ってみせた。 「ならば、良いのだが」 アンジェリーナは力の入らない腕で、娘を抱き寄せた。呪いの魔法陣が刻み付けられた胸元に、押し当てる。 「ロバートに見せてやりたいわ、今のあんた。あんたが笑うようになったって知ったら、どれだけ喜ぶかしら」 「父上のことだ、私を振り回して喜ぶに違いない」 母の胸元に額を当て、フィフィリアンヌは目を閉じた。香の甘い匂いがしていたが、病人特有の匂いもしていた。 胸元のすぐ上にある鎖骨は痛々しいほど浮き出て、長い間日に当たっていない肌は青白く、静脈が透けている。 ここ数年で、母は更に弱っていた。以前は竜への変化も出来ていたが、最近は擬態の姿から変化出来ていない。 竜族の本来の姿である竜の姿にすら、戻れなくなってしまった。歩けなくなってしまうのも、時間の問題だろう。 やはり、今夜は母の傍にいるべきだ。そう思っていたら体を押し戻されたので、フィフィリアンヌは母を見上げた。 「母上…」 「本当に、大丈夫だから」 ね、とアンジェリーナに優しく微笑まれ、フィフィリアンヌは頷くしかなかった。心配を、掛けまいとしているのだ。 その気遣いに余計に不安になってきたが、フィフィリアンヌは母の腕から脱すると、伯爵を手にして立ち上がった。 「ならば、明日は早く来よう。どうせ暇なのだ、私も伯爵も」 「そして私もね」 アンジェリーナは座り直すと、扉へと向かう娘の背に声を掛けた。 「今度、あんたの読んでる本でも持ってきてちょうだいよ。面白かろうが面白くなかろうが、暇潰しにはなるわ」 「ああ、解った」 フィフィリアンヌは扉を閉めながら、頷いた。扉を閉じる寸前、アンジェリーナはひらひらと手を振っていた。 扉が閉まりきった途端、激しく咳き込む声がした。苦痛を滲ませた喘ぎが合間に入り、咳が繰り返されている。 フィフィリアンヌは扉を開けようかと思ったが、取っ手からから手を放した。もう、母にしてやれることはない。 母の魂と体を蝕む呪いは、術者の命で刻まれており、被術者が死なない限り、呪いは消えないように出来ている。 グレイスにも、どうにも出来なかった。魂の奥深くにまで掛けられた呪いとなると、さすがの彼も手が出せない。 緩やかに、穏やかに、アンジェリーナは死を待つしかないのだ。フィフィリアンヌは目を伏せると、歩き出した。 覚悟など、当の昔に出来ている。だが、母の死が近付いてくるとなると、腹に据えた覚悟も揺らぎそうになった。 誰かが死ぬのは慣れている。父親も、セイラも、カインも、カインとの間に出来た子供達も、皆死んだのだから。 だが、苦しくないはずがない。フィフィリアンヌが足を止めて目元を押さえていると、ごぼり、と伯爵が泡立った。 「フィフィリアンヌよ」 伯爵の低い声が、フラスコの内側から響いてきた。 「我が輩が死す時は、貴君と同じ時であろうぞ」 「…だろうな」 慰めにもならない言葉だったが、ほんの少しだけ楽にはなった。フィフィリアンヌは、ぐいっと目元を拭った。 「さっさと戻るぞ。母上の好きそうな本を選んでやらねばならん」 「うむ、そうであるな。我が輩も付き合おうぞ、フィフィリアンヌよ」 太い木々の根元を歩く少女の歩調は、遅かった。歩きにくいと言うこともあるのだが、気が進まないからだった。 母が心配なのは、変わらない。このまま帰らない方がいいのでは、とも思ったが、母の気遣いを無駄にしたくない。 せっかく、どちらも素直になって愛情を示せるようになったのだから、その愛情を感じたならば受け止めるべきだ。 アンジェリーナの命が尽きてしまうまでの間は、母と娘として、親と子として、心を開き合っていると決めたのだ。 フィフィリアンヌは森の出口付近で、止まった。振り返ってみるも、鬱蒼とした木々の奧には小屋は見えなかった。 薄暗く、湿った闇があるだけだった。 06 2/18 |