翌朝。日も昇っていない早朝、フィフィリアンヌは母のいる森の奥へ進んでいた。 手に提げた鉱石ランプの青白い光が、背の高い草を照らしている。夜露に湿った葉が、つやりと輝いている。 木々の隙間の細い道には、何者かの足跡が付いていた。フィフィリアンヌのものよりも、大分大きかった。 嫌な予感は当たっていた。肌にまとわりつく、ねっとりと湿った空気に、ずしりとした重みが加わった気がした。 フィフィリアンヌは、いつのまにか急ぎ足になっていた。息を弾ませながら、雑草を踏み分けて、走っていく。 小屋に辿り着くと、扉は開け放たれていた。フィフィリアンヌは目を見開き、鉱石ランプを投げ捨て、駆け出す。 「母上!」 扉の中に飛び込んだ途端、鮮烈な赤と若草色が目に入った。 「母上」 呪いを刻み込まれた胸が、ゆっくりと上下している。柔らかくたっぷりとした乳房に、爪と思しき傷が付いている。 薄い寝間着は引き裂かれ、布の切れ端が無惨に散らばっている。押さえ付けられたのか、両腕には痣がある。 「ははうえ」 震える足を進めたが、崩れ落ちた。血の気の失せた太股の間からは、赤と白の混じったものが流れ出ていた。 何があったのかは、明らかだった。フィフィリアンヌは言葉を失って、呆然としたまま、母親を見上げていた。 変化出来ないはずなのに竜へと戻ろうとしたのだろう、白い肌の所々が若草色のウロコに変わっていた。 大きな翼は折り曲げられて、骨が露出している。翼の皮には爪痕が付けられ、破られている部分すらあった。 アンジェリーナは顔を歪めていたが、僅かに瞼を開いた。床に座り込んだ娘を認めると、目元を綻ばせた。 なんて顔してんのよ、あんた。青ざめた唇はそう動いたが言葉にはならず、弱々しい吐息が零れただけだった。 フィフィリアンヌは、頬を伝うものの感触に気付いた。ぼろぼろと溢れ出した涙が止まらず、声も上擦っていた。 「ははうえぇ…」 脇に抱えていた分厚い本が落ち、ごとり、と床に横たわった。それを見、アンジェリーナは声にならない声で言う。 ああ、本、ちゃんと持ってきてくれたのね。ありがとね、フィフィーナリリアンヌ。あんたって、本当、良い子ねぇ。 フィフィリアンヌは力の入らない腰を上げ、なんとかベッドへと近付いた。母は、頼りない笑顔を作っている。 手元が動いたのでそちらを見ると、手のひらには、布の切れ端が握られていた。あの男の服と、同じ色だった。 ウェイランの着ていた服の、黒い布地だった。フィフィリアンヌはぎちりと歯を噛み締め、唇を切ってしまった。 口中に鉄の味が広がってきたが、目の前の光景の凄まじさで感じられなかった。肩を震わせて、言葉を絞り出す。 「あの男を、殺してくる」 すると、アンジェリーナは首を横に振った。フィフィリアンヌは母の枕元に縋り、絶叫する。 「なぜだ、母上! あの男は母上を愚弄したのだぞ! 万死に値する者ではないか!」 私が、殺す。アンジェリーナの唇はそう動いたあと、にぃっと広げられた。気の強い、彼女らしい笑みになる。 「だが、その体では無理だ。もう、魔法も撃てぬではないか。いくら母上でも、勝てはせぬ」 フィフィリアンヌの呟きに、アンジェリーナはゆっくりと目を細め、弱々しい言葉を発した。 「かてるわ」 アンジェリーナの手が、フィフィリアンヌの濡れた頬を優しく撫でた。 「あしたもくるって、いっていたもの。そのときに、かみくだいてやればいいだけのことよ」 「だ…だが…」 フィフィリアンヌは母の細った手に頬を押し当て、項垂れた。アンジェリーナは指を滑らせ、娘の目元を拭う。 「とどめがさせなかったら、おねがいね。あんたのきばでもつめでも、なんでもくらわせてやりなさい」 「…解った」 フィフィリアンヌは深く頷くと、母の手に縋って泣き喚いた。こんな状態になっても、母は愛を示してくれている。 それが嬉しくて、悲しかった。どうして帰ってしまったのだろう、どうして無理にでも傍にいてやらなかったのだろう。 強い後悔と自分への腹立たしさで、ずっと泣いていた。その間、アンジェリーナは、娘の髪をずっと梳いていた。 痛みと苦しみで表情は歪んでいたが、穏やかに微笑んでいた。竜女神のような、愛情に溢れた美しいものだった。 相打ちになってでも、殺すつもりなのだ。与えられた痛みの分だけ、それ相応の報復をウェイランに返す気だ。 手伝いたかったが、今すぐにでもウェイランを殺しに行きたかったが、母の気持ちを考えると出来なかった。 アンジェリーナは、気位も自意識も高ければ誇りも高い女性だ。自分の手でやらなければ、気が済まないのだ。 母がウェイランを殺せなかったら、母の目の前でなぶり殺してやる。フィフィリアンヌは内心で、強く誓いを立てた。 舌の上には、血の味と涙の味が広がっていた。 その夜。フィフィリアンヌは、森の入り口に座っていた。 分厚い魔導書を膝の間に広げて倒木に腰掛け、鉱石ランプの明かりを頼りに活字を辿り、黙々と読んでいた。 一日、東竜都の中を回ってみたが、誰も昨夜のことは知らないようだった。ウェイラン自身にも、会ってみた。 青竜城に赴き、執務を行っていたウェイランを呼び止め、昨夜は何をしていたか、ととりあえず尋ねてみた。 彼は愛想の良い笑みになり、寝ていたぞ、と返してきた。だが、彼の体からは、母の血の気配が立ち込めていた。 フィフィリアンヌは即座に確信し、母上は貴様を殺す気だ、と言い返すと、ウェイランは笑みに悪意を混ぜた。 そして、こう言った。殺されても構わない、あの女が一夜でも私のものになったのだから、悔いなどない、と。 フィフィリアンヌは吐き気がしてきたが、侮蔑の視線を送ってから青竜城から出、その後は読書に没頭した。 現実逃避をしたかったわけではなく、ウェイランを確実に殺せる魔法を見つけ出し、確認しておくためだった。 母を強姦した男に触れたくもないし、近付きたくもないので、出来るだけ近付かないで殺せる魔法を探していた。 いくつか妥当なものを見つけたので、今はその魔法が載っている本を読んでいたが、何度も読み込んだ本だった。 読まなくても先が解っていたが、読んでいた。半分ほど読み進めたところで、足音を殺した人影がやってきた。 その者の気配と血の臭気で、影の方を見なくても誰だか解った。フィフィリアンヌは顔を上げずに、言った。 「ウェイラン。止まれ」 フィフィリアンヌの声に、影は足を止めた。鉱石ランプの青白い光を浴びたウェイランは、少女の前で止まる。 男は、昨日と同じ服装をしていた。下半身まで覆う黒く長い衣を着ているが、表情は普段と違っていた。 強く頼りがいのある指導者でも、女に岡惚れした男でもなく、雄の顔をしていた。赤い瞳が、少女を捉える。 「さて、何の用事だ」 「母上の牙に喉笛を噛み切られたくなければ、今すぐにここを去れ」 フィフィリアンヌの感情を含まない言葉に、ウェイランは一笑した。 「またそれか」 「母上は、至って本気だ。命が惜しくば早々に城へ帰り、貴様が掻き集めた女共で遊んでおれば良い」 フィフィリアンヌは切れ長の目を横へ動かし、ウェイランを見上げた。ウェイランは、悠然としている。 「私はただ、アンジェリーナ様にお会いするだけだ」 「そのついでに、母上に男根をねじ込むのか? それが、都を支える男がすることか」 フィフィリアンヌはぱたんと本を閉じると、ウェイランの前に立ち塞がった。 「貴様は、力に溺れているな。たかだか都一つを収めているぐらいで、いい気になるな。力で押し通せば何もかもが貴様へと向くはずもないし、増して、母上のような気位の高い女が貴様のような愚か者になびくものか」 「アンジェリーナ様は私を受け入れて下さった」 「押し込んだ、の間違いであろうが。母上を押さえ付けて傷付けて、独り善がりな思いを遂げただけに過ぎん。貴様の薄汚れた精液が母上の中を汚したかと思うと、気色悪さで吐き戻してしまいそうだ」 フィフィリアンヌは眉根を歪めた。ウェイランは、口元に下卑た笑みを浮かべる。 「お前、よく見るとアンジェリーナ様に似ているな。あの方とまでは行かないが、なかなかの麗しさだ。そんなに綺麗な顔で下劣な言葉を吐かれると、却って面白いものがある。普通の女が言うよりも、余程卑猥だ」 「下らんな。貴様は発情期か」 フィフィリアンヌが吐き捨てると、ウェイランは気分良く笑い声を上げた。 「間違いではないな! 私は、あの方が欲しくてたまらないのだ。竜女神と見紛うばかりの麗しさと、あの気の強さがたまらん。ガルム将軍閣下ですら堕とせなかった女を私のものに出来たと思うと、余計に清々しくなる。私は、将軍閣下にも勝る竜なのだ。そして、この私の血があの方の血と混じり連なったとしたら、どれほど良いことだろう!」 ウェイランは更に笑う。 「竜王都の守護魔導師と青竜族の長の間の子となれば、お前など足元にも及ばぬ優れた血統の子となるのだ! そしてその子が他の竜族の長と血を連ねれば、竜族の再建も夢ではない!」 「竜王朝は滅びた。そして私達も滅びつつある。何を世迷い言を」 フィフィリアンヌが薄い唇を曲げると、ウェイランは彼女の横を過ぎた。 「滅びてはおらんさ。現に、我々はこうして生きている。血を連ねることも、都を作ることも出来る。再び竜族が世界を凌駕する日も遠からず訪れるはずだ」 「竜の血は日に日に濃くなりつつある。男でも女でもない子が幾人も生まれ、そして死んでいるではないか」 フィフィリアンヌは、森へと踏み入っていくウェイランの背に言葉を投げた。 「それを滅びと言わずなんとする」 「だからこそ、血を連ねなくてはならんのだよ。新たな血筋の子とするために」 ウェイランの横顔は、欲望にぎらついていた。フィフィリアンヌは生理的な嫌悪感に苛まれたが、呟いた。 「彼の者に、安らかなる時を」 「何の魔法だ」 立ち止まったウェイランは、フィフィリアンヌに振り返らずに言った。フィフィリアンヌは、にやりとした。 「さあて、教えられんな。教えたところで、貴様如きにどうこう出来るはずもないがな」 「…ふん」 ウェイランは興味なさそうに息を漏らし、森の奥へと進んでいった。その背が遠のいてから、足元を見下ろした。 フィフィリアンヌの足元には、拡大して簡略化された魔法陣が描かれていたが、一見しただけではそう見えない。 地面には、途切れ途切れの線があったり、繋がれていない二重の円があった。傍目に見れば、ただの落書きだ。 増して、夜だと言うこともあって地面はろくに見えていない。思った通り、ウェイランは魔法陣に気付かなかった。 この魔法は、どちらかと言えば呪いに近い。一定時間を置いて発動し、被術者の魂と肉体の自由を奪うものだ。 魔力が高くとも簡単には打ち破れないし、竜に合わせて出力を上げてある。これで、母はあの男を殺せるだろう。 これぐらいであれば、手伝っても文句は言われないだろう。フィフィリアンヌは倒木に腰を下ろし、肩を落とす。 だが、それ以外は何も出来ない。アンジェリーナの体の傷を治すために魔法を施してみたが、効果はなかった。 痛み止めも最近ではめっきり効果が減ってしまい、強い薬を作って飲ませても、以前の半分以下しか効かない。 それでも、やれるだけのことはしてきた。体中に付けられた傷に薬を塗って包帯を巻いて、中を清めてやった。 本当なら、戦いに赴くのだから、魔導師の衣装でも持ってきて着せてやりたかったが、手元にはなかった。 昔が恋しくなっちゃうから、とアンジェリーナが悲しげに言ったので、フィフィリアンヌの城に全て置いてあるのだ。 その夜、フィフィリアンヌはずっと泣いていた。腰に提げた伯爵は何も言わずに、フラスコの中で泡を吐いていた。 月が夜空の頂点に昇り、フィフィリアンヌの涙が枯れかけた頃、湿っぽい夜の空気に血の臭気が漂ってきた。 ああ、殺したんだ。それが解ると、フィフィリアンヌはまたしばらく泣き伏せた。母の気の強さを、感じたからだ。 呪いに蝕まれようが強姦されようが、母は変わらない。気位の高さ故に不器用な、愛すべきただ一人の母だ。 疲れ果てていたが、フィフィリアンヌは立ち上がった。泣きすぎて腫れぼったい目を擦りながら、小屋へと歩いた。 小屋までの距離は短いはずなのに、ひどく長く感じた。 狭い小屋の中は、赤黒く染まっていた。 天井まで噴き上がった血飛沫の主は首を飛ばされて、転げていた。ただの物となって、床に横たわっていた。 死体と化したウェイランの衣の下半身がはだけていて、それがやけに穢らわしいものとして目に映った。 ベッドの上のアンジェリーナは、息を荒げていた。巻いたばかりの包帯の中から、新しい血が滲み出ている。 フィフィリアンヌの影を感じ、目を向けてきた。アンジェリーナは、べっとりと血に汚れた右手を挙げてみせた。 「あんた、こいつに魔法掛けたでしょ。動きを止めるやつ。でも、意味なかったわ」 フィフィリアンヌが小さく頷くと、アンジェリーナは右手を下ろした。 「発動する前に、首根っこ吹っ飛ばしてやったわ。魔法が出せるか解らなかったけど、やれば出来るもんなのね」 簡単な斬撃の魔法だけど、と呟いたアンジェリーナは、フィフィリアンヌの足の傍に転げている頭部を見下ろした。 「どのくらいぶりかなぁ、魔法なんて使うの。でも、久々の魔法がこれじゃあねぇ…」 アンジェリーナはフィフィリアンヌから目線を外すと、窓へと向いた。返り血に汚れた窓の外は、白んでいる。 「この森、結構好きだったんだけど。こんなことしちゃ、もう、いられないわねぇ」 フィフィリアンヌはぬるついた床を歩いて、母の枕元に立った。アンジェリーナの、血に汚れた右手に触れた。 冷たくもあり、温かかった。目に入っている光景はかなり凄絶だというのに、不思議と、心中は穏やかだった。 これで、母は死ねるのかもしれない。痛んだ体と魂で魔法を放ったのだから、限界が訪れてもおかしくはない。 そんな思いが、胸の内を巡っていた。苦しみ抜いて戦い抜いたのだから、いい加減に楽になるべきだ、とも。 だが、アンジェリーナは楽になれなかった。ウェイランが死ぬ直前に何度も放った子種が、受精してしまった。 そのために母は、東竜都を追放されなかった。長を殺した罪よりも、新たな竜を成した手柄の方が大きいからだ。 フィフィリアンヌは、東竜都に留まらざるを得なくなっていた。母の身と行く末を案じると、動くに動けなかった。 そして、一年ほど過ぎた後。彼が、生まれた。 更に十四年ほど過ぎると、アンジェリーナは起き上がれなくなっていた。 ウェイランを殺すために魔法を放ったことと、彼の子、キースを産み落としたために、更に命が削れていった。 毎日のように深い眠りに落ちて、時折目を覚ますが、また眠る。そんな日々の繰り返しで、死んだも同然だった。 それでも母は生きていた。フィフィリアンヌは何をするでもなく、眠り続ける母の傍に、伯爵と共に居続けた。 東竜都と旧王都、首都を行き来する忙しい日々だった。魔導師協会の会長の役職に、付いてしまったからだ。 だから、キースに会うことはほとんどなかった。キースは東竜都の竜族達に、王族の如く愛されて生きていた。 新たな竜の子、次世代の竜族を作る子。そんな扱いで、何かにつけて甘やかされ、勉強を教え込まれていた。 なので、フィフィリアンヌが東竜都に来ても顔を合わせることは希で、最初はどちらも姉弟だと解らなかった。 だが、それではいけない、とキースの世話をする女達に言われ、フィフィリアンヌはキースに会うこととなった。 母のいる小屋の正反対、森の傍に位置する青竜城に、キースはいた。青竜城は、赤い柱と瓦屋根の城だった。 東方の建物に似ているが、竜の瓦があったり柱に竜の彫り物が施されていたりと、至るところに竜の気配がある。 板張りの廊下をずっと歩いて、手前の建物から見えない位置の建物にやってきた。そこは、内側の城だった。 丁度、青竜城の敷地の中央に立っていて、四方を建物に取り囲まれていた。内側からは、外は見えなかった。 箱庭だ、とフィフィリアンヌは見た瞬間に嫌な気分になったが、顔には出さずに青竜の女に連れられて進んだ。 青竜城の中央に据えられた、周囲の建物よりも一回り小さい平屋の屋敷。そこに、弟が、キースがいるのだ。 正面の階段を昇って、両開きの扉を開けると、薄暗い広間があった。その奧に、幼さの残る少年が座っていた。 フィフィリアンヌに良く似た、幼いながらも整った顔立ちをした緑竜族の少年が、じっとこちらを見据えていた。 光のない赤い瞳が、フィフィリアンヌを見つめていた。フィフィリアンヌが動かずにいると、少年は言った。 「あなたが、僕の姉さんですか」 「そうだ」 フィフィリアンヌが返すと、少年、キースの目は険しくなる。 「いきなりそんなことを言われても、どうしろって言うんですか。僕は、あなたを姉だとは思えない」 「私もだ。貴様の父親は、下劣な男だったからな」 フィフィリアンヌは青竜の女を下がらせてから、扉を閉めた。光が失せ、広間は真っ暗になる。 「血も半分しか繋がってはおらんし、顔を合わせたのは初めてだからな。兄弟の実感など、あるはずもない」 椅子から下りると、キースはフィフィリアンヌに近付いてきた。数歩前で立ち止まり、小柄な姉を見下ろす。 「姉さん。あなたは、半竜半人だと聞いていますが、それは本当なのですか?」 「ああ、本当だ」 フィフィリアンヌが冷淡に返すと、そうですか、とキースは無表情だった顔立ちに僅かばかり表情を浮かべた。 興味と侮蔑と羨望と、様々なものが垣間見えた。少年は、ウェイランに似た眼差しで、姉を見据えてきた。 「教えて下さい、姉さん」 「何をだ」 「なぜ、竜はこのような惨状になっているのですか。なぜ、竜は人に報復しないのですか」 「決まり切っている。竜に人は滅ぼせんのだ」 「嘘です。竜に不可能はない。竜の圧倒的な絶対の力が、人間如きを制圧出来ないはずがない」 「竜も人も生き物だ。絶対など有り得はしない。それに、竜が滅びへと進んでいるのは自然の摂理に過ぎん」 フィフィリアンヌは、少しばかり語気を強めた。 「竜は長く生き過ぎた。役割を失った。それだけのことだ。竜の血が途絶えるのも、竜の繁栄が戻らないのも、最早我々の力ではどうにも出来ん。いくら足掻こうが何をしようが、世界の流れは変わらん。無理に滅びの道から脱しようとしても、結果として滅びを進めるだけなのだ。仮に人の世界を制したとしても、竜が仮初めの繁栄を得ても、すぐに崩壊する。過去は過去であり、現在は現在であり、未来は変わらんのだ。下らん妄念に囚われるな」 「下らない? 僕には、そうして諦めてしまう方が余程下らない!」 キースはフィフィリアンヌの言葉に煽られ、言葉を荒げた。 「僕には解る、竜は人を支配出来る! なのに、どうしてやりもしないでそんなことを言うんだ!」 「貴様、歴史書は読んでいるのか? 黒竜戦争の歴史を読んだはずではなかろうに」 「ああ、読んだ。だけど、あれは失敗だ。敵も味方も感情論に囚われてすぎていたから、失敗したんだ」 キースの整った顔立ちが、慢心に歪んでくる。 「僕なら上手くやれる。僕だったら、ガルムとか言う将軍よりもずっと優れた采配を振ることが出来る!」 「後からでは何とでも言える」 フィフィリアンヌは、吊り上がった目を僅かに細めた。 「貴様は、子供だな」 「五百年以上経とうが、子供のままのあなたにだけは言われたくはないな」 キースは、ふん、と顔を背けた。フィフィリアンヌは、身長だけなら遥かに越えている弟を見上げた。 「外へ出ろ。そして、己の目で全てを確かめろ。まずはそれからだ」 「僕にこの都を離れろと? 冗談じゃない」 キースはあからさまに嫌そうに、フィフィリアンヌを睨む。 「僕はこの都の主となる存在だ。行く行くは、竜族を復興させる。そのためには、ここにいなければいけない」 「視野の狭いことだ」 フィフィリアンヌはキースに背を向けると、キースは急に声を上げた。 「待て、どこへ行く」 「母上の元だ。他にどこがある」 フィフィリアンヌは横顔だけキースに向けたが、すぐに前に向き直った。 「貴様のような下らん輩に、これ以上付き合っておれんのだ。私は私で、忙しいのだ」 キースは、苦々しげにしていた。一番露わになっている感情は悔しさだったが、他のものもいくつか含まれていた。 寂しさや物悲しさが、浮かんでいた。無意識のもののようだったが、その表情で、フィフィリアンヌは察した。 キースの、妄想とも思えるほどの竜族への執着は、寂しさからのものに違いない。彼は、一人でいたくないのだ。 薄暗い屋敷の中に押し込められて、見たこともない外の世界への憧れと恐れを抱いて、自己に慢心している。 自分が優れた存在であると、優れた種族であると信じていたいがために、人間を貶めた考えに凝り固まっている。 良い傾向ではないな、とフィフィリアンヌは眉根を歪めた。一度、その慢心と驕りを崩壊させてやらなくては。 「キース」 フィフィリアンヌは扉に手を掛けると、弟に言い捨てた。 「貴様は愚かだ。誰よりも、愚かだ」 弟の顔が引きつったのを見てから、フィフィリアンヌは外へ出た。扉を背中で閉めてから、空を仰ぎ見た。 扉の内側から音が聞こえてこなかったので、しばらく、そうしていた。真っ青な空に、千切れた雲が漂っている。 深い木々の向こうから、竜と思しき猛りが聞こえてくる。雷鳴に良く似ている荒々しい咆哮が、放たれていた。 キース。その名は、聞いた覚えがあった。黒竜戦争が始まる以前に、アンジェリーナが話してくれたことがある。 フィフィリアンヌに弟が出来たなら、そういう名前を考えていたことがあったのよ。あの人が死ぬ前にね。 でも、二人目を作る前に、ロバートは死んじゃった。使わず終いで終わりそうだわ、この名前。仕方ないけどね。 フィフィリアンヌの脳裏に、不意にそんな記憶が蘇った。アンジェリーナは、キースを愛そうとしていたようだ。 出生がどうであろうと我が子は我が子、とでも思ったのだろう。だが、愛情を示そうにも、母は眠り続けている。 フィフィリアンヌはその感情が解らないでもなかったが、キースに対して愛情を感じることは一切なかった。 愛してやろうと思っても、愛するべきだと解っていても、ウェイランの姿が瞼の裏をちらついてしまうのだ。 母を愚弄し、蹂躙し、犯した男。そして、その種で生まれた子。そればかりが先立って、嫌悪感すらあった。 フィフィリアンヌは扉から離れ、静かに歩き出した。何年経とうが、気持ちの整理は付けられないままだった。 母の世話をして、言葉を掛けてやった後には帰らなくては。魔導師協会の仕事は、まだまだ沢山残っている。 忙しいからだ、と自分に言い訳をして東竜都を去った。それではいけない、それでは悪くなる、と解っていたが。 どうしても、直視することが出来なかった。 06 2/18 |