ドラゴンは眠らない




竜の眠る都



そして、更に四十年後。キースは、フィフィリアンヌの元にやってきた。
彼は四十年前に宣言した通り、東竜都を収めていた。力任せのウェイランとは違い、やり方は穏やかだった。
民の声を良く聞いていて、必要以上に権力を振るうことはなく、東竜都を以前よりも大分活性化させていた。
ウェイランの時代にはあまり受け入れていなかった、遠方の移民竜族達を住まわせて、都を拡大させていった。
そして、青竜城と民達を守るためだ、という名目で軍に似たものを造り上げ、キースはその頂点に君臨していた。
彼は名実共に、現在の竜族を支配していた。それがなぜ唐突に、フィフィリアンヌに近付くのか、不思議だった。
キースには腹積もりがある。フィフィリアンヌはそう感じたが別に会わない理由もないので、竜王都で会った。
竜王城の前でお待ちしております、姉さん。キースから送られてきた魔導書簡には、そう書かれていた。
弟から手紙をもらって数日したのち、フィフィリアンヌは魔導師協会の仕事を片付けてから、竜王都に赴いた。
無数の竜の墓を見下ろす丘に着地したフィフィリアンヌは、竜の姿から擬態へと戻ると、竜王都を見下ろした。
広大な草原から、いくつもの巨大な竜のツノが生えており、墓標が並んでいた。さわさわと、夏草が揺れている。
高い山に囲まれた窪地の底にある湖は、空に浮かぶ雲の影を映していて、朽ちかけた竜王城を守っていた。
フィフィリアンヌはカバンから黒いローブを取り出すと、頭から被り、腰にベルトを締めて髪を一括りにした。
伯爵のフラスコをベルトに付けた金具に挟んでから、歩き出した。雑草に浸食された廃墟の間を、通り過ぎる。
竜の墓と廃墟以外の障害物がないので、相当な方向音痴であるフィフィリアンヌも、あまり迷わずに歩けた。
次第に竜王城が近付いて来るに連れて、フィフィリアンヌは気を張り詰めた。それを感じ、伯爵は呟いた。

「フィフィリアンヌよ。我が輩も、あまりいい予感はしておらんのである」

「ああ、そうだな。今更、私と友好を深めようというわけではあるまい」

フィフィリアンヌは、苔と草に覆われた瓦礫の向こうにある、竜王城を見上げた。

「だが、異様であることには違いない。竜を統べておるくせに、その上で何を求めるというのだ」

「いやはや、いやはや。我が輩には、力を欲する者共の心情など理解出来ぬのである」

フィフィリアンヌの腰に提げられたフラスコの中で、ごぼごぼと伯爵は泡立った。

「力など求めても、その力を得るまでにどれほどのものを失うことか。そして、その力を得たとしても、力を得た代償をどれだけ払わねばならぬことか。想像しただけで嘆かわしいというのに、人も竜も、そればかりを求めて止まぬ。フィフィリアンヌよ、貴君も力を得た一人ではあるが、貴君はその辺りを弁えているのであるからして心配はないのであるが、キースは力に溺れそうな類の男である。奴は己の立場と才覚に溺れておる。ということは、力を手にした己にも、力そのものにも溺れかねぬということであるからな」

「何、気にすることはない。奴は、既に溺れておるのだからな」

フィフィリアンヌは瓦礫の角を曲がり、開けた場所に出た。目の前に、竜王城のそびえる島と輝く湖面が現れた。
島と陸地を繋ぐ幅の広い石組みの橋は残っていたが、中央が落ちてしまっていて、橋としての機能を失っていた。
その橋の手前に、東方の衣装を身に付けた青年がいた。清らかな白の、袖が広く裾が長い衣を纏っていた。
背中から生えている翼は青味掛かった緑で、面差しには、アンジェリーナの目鼻立ちがはっきりと現れていた。
柔らかく微笑んでいる口元の上がり具合も目の細め方も母に似ていて、フィフィリアンヌは、一瞬ぎくりとした。
ただ、母と違うのは、彼はメガネを掛けていた。横に幅の広いもので、度は入っておらず、レンズは平らだった。
青年、キースは橋の欄干に座っていた。長い緑髪が後頭部の高い位置に括られ、風を孕んで広がっていた。
キースはフィフィリアンヌとの距離が狭まってから、顔を向けた。メガネの奧で、吊り上がった目が細められる。

「久し振りです、姉さん」

「見違えたぞ、キース」

フィフィリアンヌが割と素直な感想を漏らすと、キースは欄干から下り、気恥ずかしげに口元を綻ばせた。

「そうでしょうか。僕としては、昔とあまり変わっていないつもりですが」

声の響きはウェイランのものと近しいが、顔立ちはアンジェリーナだった。フィフィリアンヌは、少々複雑になる。
弟がもっとアンジェリーナに似ていたら、愛せはしなくても、近付けたかもしれない。と、現金なことを思った。
逆を言えば、母の面差しさえなければ嫌悪感は更に高まるということだ。ウェイランに似ていたら、尚のことだ。
何年経とうとも、ウェイランを許せはしない。そして、その種から生まれた子であるキースを、愛せなかった。
血が半分しか繋がっていないとはいえ、数少ない血族であり、実の弟だ。愛すべきであると、何度も思っていた。
だが、どうしても無理だった。キースの仕草や表情に垣間見えるウェイランの影が、愛することを阻んでいた。
妙なことにこだわりすぎてキース自身を見ることが出来ていない、と解っていたが、嫌悪感は消せなかった。
フィフィリアンヌはその苦悩を思い出したが、押し込めた。キースは衣の裾を翻し、小さな姉の前にやってきた。

「姉さん。そちらの世界は、どうなっているんですか」

「そうそう変わるものでもない。だが、変わっていないわけでもない」

フィフィリアンヌの答えに、キースは浮かべていた笑みを僅かに暗くした。

「こちらは芳しくありません。東竜都に集めた竜族達は、年々数が減っていきます。産まれる子の数と死する竜の数が合っていないんです。こればかりは、僕にもどうにも出来ません。姉さんの仰った通り、竜は滅んでいっています。僕は、生き残った竜族達を東竜都に集めれば、絶対数が増えて出生数も戻り、竜の血筋が蘇ると思っていました。ですが、竜の数が減ることを、止められませんでした。この世の摂理に逆らうことは、出来ないんですね」

「そうだ。我々は、世界という名の一つの生き物の一部に過ぎん。その世界から弾かれれば、滅びるしかないのだ」

フィフィリアンヌの吊り上がった目が、睨むように細められた。キースの目には、落胆の色が滲む。

「ええ、そうなんですよね。僕らは竜族は、もう、世界に認められた存在ではない」

「人のように、時代に順応して生きていたならば違ったであろうが、竜族はそれほど器用ではなかったからな」

「それは僕も認めます」

キースは、ゆっくりと頷いた。その言葉の棘のなさと落ち着いた声色に、フィフィリアンヌは内心で驚いていた。
四十年前、彼が少年であった頃は、己の世界にだけ生きていたが故に、独り善がりで価値観が凝り固まっていた。
それから四十年も経ち、人々の上に立つ存在となったためなのだろう、人格もそれなりに丸くなっていたようだ。
フィフィリアンヌは、弟に会う前に感じた疑念が嫌になった。真っ向から信じてやるべきだったか、と後悔した。
キースは真正面から、フィフィリアンヌを見下ろしていた。また、柔らかで人の良さそうな笑みに戻っている。

「姉さん。僕が姉さんを呼び出したのは、他でもありません」

フィフィリアンヌが黙っていると、キースは語気を強めた。

「僕を、人の世界に連れていって欲しいんです」

「いやはや、いやはや! 竜族を崇拝し人間を毛嫌いしている貴君らしからぬ言葉であるな、キースよ」

伯爵が驚きと困惑で声を上擦らせると、キースは苦笑する。

「あなた方は昔の僕しか知りませんから、そう言われても仕方ありません。ですが僕は、この四十年で考えを改めたんです。竜が世界と共にあるためには、竜が再び繁栄するには、人との関わりが不可欠だと確信したんです。昔と違って、世界は今や人のものです。だから、少数に過ぎない竜が人に背いても良いことはありません。むしろ、人と沿って生きていくべきだと思ったんです。ですから僕は、姉さんを通じて人の世界に赴き、人間と竜族を繋げるものを見つけたいんです」

「随分と高尚な考えだな」

「もちろん、すぐに見つかるとは思っていません。ですが、姉さんの傍には、それを見つける糸口があります」

「ニワトリ頭のことか」

フィフィリアンヌが答えると、はい、とキースは頷いた。

「ギルディオス・ヴァトラスの存在です。彼は長い間、人と竜の狭間にいながらも、どちらでも生きている貴重な人間です。死していますけどね。僕は、彼から見習えるものがあれば見習いたい、と思っているんです」

「はっはっはっはっはっは。あの馬鹿なニワトリ頭から学ぶことなど、そうそうあるものではないのである」

伯爵はぶるぶると震え、高らかに笑った。フィフィリアンヌはスライムを一瞥し、長身の弟を見上げる。

「着眼点としては悪くない。実際、あのニワトリ頭は馬鹿ではあるが考えはしっかりしていてな、昨今では共和国軍に設立された異能者ばかりの部隊、異能部隊などというものを統率する、隊長になっている。ニワトリ頭が言うには、人の中に存在する人でない者達、異能者達に人らしく生きる場所を与えてやっているのだそうだ。そういう輩であるから、傍で見るには悪くはないかもしれんが、ギルディオス本人が馬鹿で馬鹿でならんから、あまり大した勉強にはならんと思うぞ」

「…随分と、ひどい言われようですね」

キースが少々呆れ気味に呟くと、フィフィリアンヌは澄ました。

「ギルディオスが馬鹿なのは事実なのだから、容赦する必要はあるまい」

山から吹き下ろされてきた強い風が、二人の周囲の草を薙ぎ倒した。さあっと湖面が波打ち、さざ波が広がった。
フィフィリアンヌは目元に掛かった髪を掻き上げて、風で乾いた目を瞬きさせながら、上目にキースを見上げた。
弟の表情は、愛想でもなく素でもなく、全く別の表情を見せていた。邪心と慢心に満ちた、悪意のある顔だった。
フィフィリアンヌがもう一度瞬きすると、それは失せていた。キースは再び愛想の良い笑みになると、姉に言う。

「ですから、姉さん。僕を、ギルディオス・ヴァトラスに会わせて下さいませんか」

「それは構わんが、貴様の方はどうするのだ。東竜都を放り出すのか」

フィフィリアンヌが片方の眉を吊り上げると、キースは笑みを崩さずに返した。

「東竜都は」



僕が滅ぼしました。



ざあざあと木々の枝が擦れ合い、ざわざわと無数の葉が揺さぶられ、さらさらと湖面が波打つ、様々な音によって。
彼の声は、掻き消された。口の動きだけだったが、その言葉は解った。だがその表情は、微塵も動かなかった。
愛想の良い笑み。人の良い表情。穏やかな口調。そして、母に似た顔立ち。その全てに、変化は見えなかった。
フィフィリアンヌは、弟の言い放った言葉に耳を疑ったが、確かに聞こえていた。東竜都は、僕が滅ぼしました。
キースは、笑っている。平たいメガネの奧で、竜族の証である深紅の瞳に愉悦を浮かばせながら、淡々と話した。

「全て、僕の思い通りに行きましたから。もう、必要はないんです」

口調には、動揺も後悔も見えない。

「楽しかったですよ、この五十数年間。皆、僕を慕ってくれて、新たな竜王だと祭り上げてくれました」

口元から覗く牙は鋭く、眩しい陽光に輝いていた。

「だが、東竜都は僕のものではない。ウェイランとかいう僕の父親が随分前に造り上げたものであって、僕が造ったものではない。だから僕は、遊んでいただけだ。父親の残した都を守っていたつもりなんてなくて、ただ、僕は僕の目指す未来を造るための予行練習として、東竜都を利用させてもらっていただけだ」

そして、とキースは満面の笑みになる。

「僕は、それを片付けたに過ぎない。遊び散らしたものを、一掃してきただけなんです」

フィフィリアンヌが身動きせずにいると、キースは心底楽しげに言った。

「民も同様ですよ、姉さん。皆、骨も残さずに焼き尽くしてきました。あ、ですが、母さんだけは残しておきましたので安心して下さい。あの人を殺してしまうのは僕も惜しいし、何より、姉さんに殺されてしまうから」

弟の並べ立てた言葉に、フィフィリアンヌは言葉を失っていた。すぐには信じられず、そして、信じたくなかった。
怒りより先に、動揺ばかりが駆け巡っていた。彼が竜族達を殺したのならば、その気配が感じられるはずなのに。
だが、竜が死する咆哮も魂の嘆きも、感じ取れなかった。東竜都との距離は空いているが、感じないはずはない。
殺していないのであれば、それも有り得る。だが、風が止むと、弟の言葉が嘘ではないのだと、すぐに解った。
キースからは、竜の血の気配がしていた。返り血を浴びたのだろう、残留思念のように、竜の魔力が残っている。
その残留した魔力からは、竜族の断末魔が伝わってきた。信頼する長に裏切られ、絶望のまま死して行く様だ。
恐らくキースは、竜族達に咆哮すらさせぬうちに、殺し尽くしたのだろう。その様が、目に浮かぶようだった。

「…貴様」

フィフィリアンヌがようやく言葉を絞り出すと、キースはフィフィリアンヌの脇を通り過ぎた。

「さあ、姉さん。ギルディオス・ヴァトラスの元へ、案内して下さい」

「貴様は竜と人を繋げると言った。だが、竜を滅ぼしては、同族を殺しては何の意味もないではないか!」

フィフィリアンヌが声を荒げると、立ち止まったキースは横顔だけ見せた。

「姉さん。僕がいつ、竜族全てを、と言いましたか? 僕が繋げたいと思うのは、僕と人と、つまり、僕という至高の竜と愚劣な人間との接点を作りたいだけなんです。それを、勘違いしてもらっては困るな。僕は竜と人との平和なんか望んじゃいない、僕は僕のあるべき世界を作ることが望みなんですよ、姉さん」

キースはフィフィリアンヌに向き直ると、手を差し出した。その手は、魔力を帯びていた。

「さあ、姉さん。僕をギルディオス・ヴァトラスの元へ案内して下さい」

「しなければ、殺すのか?」

見開いていた目を細めたフィフィリアンヌは、キースを睨んだ。キースは、口元を上向ける。

「ええ」

「随分と分の悪い取引だな。私を殺してしまえば、貴様は私から何の情報も引き出すことが出来ん。愚かな」

フィフィリアンヌが平坦に返すと、キースは差し伸べている手をぐっと握り締める。

「ええ、そうです。ですが、僕はあなたを殺すとは言っていない。僕が殺すのは、母さんです」

キースの手が開かれると、その手のひらには魔法陣が浮かび上がっていた。それは、あの呪いの魔法陣だった。
アンジェリーナの胸元に刻み付けられているものとほぼ同等であったが、魔法文字のいくつかが違っている。
フィフィリアンヌは、途端にそれが何の魔法陣であるか察した。空間移動魔法を併用した、遠隔操作の魔法だ。
母の命を削っている呪いを、遠方から操作するためのものだった。キースは、ゆっくりと白い指を曲げていく。

「この手を握れば、母さんは死にます。確実にね」

弟の、女のような華奢な指が折り曲げられていく。それが全て曲がりきる前に、フィフィリアンヌは呟いた。

「誰であろうと何であろうと、命を盾にするほど愚かしいことはないと知らぬのか、貴様は」

「愚かだろうが何だろうが、手段として有効であれば使いますよ。僕は、綺麗事よりも効率を重視しますので」

キースの手は、徐々に握られていく。

「それで、どうするんです、姉さん? 母さんを殺しますか、それとも僕を案内しますか?」

フィフィリアンヌは弟の整った顔から目を外し、背を向けた。苦々しげに、顔を歪める。

「私は、貴様を一生軽蔑しよう」

「そう、それでいいんです」

キースは満足げに頷くと、手を開いた。小さな竜の翼を生やしている、姉の頼りない背を追って歩き出した。
フィフィリアンヌは、やれることならキースと戦いたかった。この場で叩き殺し、首を切り落としたいほどだった。
だが、ここは竜の墓場だ。戦い抜いて死した竜族達が、ガルムやエドワードが、安らかに眠っている場所だ。
そんな場所で、血は流せない。フィフィリアンヌは沸き起こる殺意と焦燥を堪えながら、一心に歩き続けていった。
背後の弟は、笑い続けていた。




ファイドの診療所には、あの日と同じく、風が吹き込んできていた。
簡素な作りの木造の家に、開け放たれた窓から爽やかな風が滑り込む。ふわふわと、白いカーテンを揺らした。
手狭な診察室の診察台に腰掛けたフィフィリアンヌは、手の中のワイングラスを揺らしながら、目を伏せていた。
医学書や書類が高く積み重なった机の前で、椅子に座っているファイドは、生温いワインを一気に飲み下した。
診察台に座る竜の少女の傍らには、並々とワインを注がれたフラスコがあり、その中でスライムが蠢いていた。
ごぼり、と気泡が吐き出され、ワインの量が減ってスライムの体積が増す。伯爵は、心持ち潤った声を発した。

「思えば、あの時にキースを屠ってしまうべきだったのかもしれぬな、フィフィリアンヌよ」

「ああ。私もそう思う。だが、殺せなかったのだ。殺す気はあっても、殺せず終いだった」

フィフィリアンヌは唇を開き、ワインを流し込んだ。白い喉が動いて飲み下されると、グラスを離す。

「私も、ニワトリ頭のことは言えんな。人など愛してしまったせいで、すっかり甘くなってしまった」

「それが悪いことだは思ってはならないよ、フィフィリアンヌ」

ファイドが少し笑うと、フィフィリアンヌは空のワイングラスを診察台に置いた。ことり、とガラスの底が板に当たる。

「案ずるな。他者を信じられるようになったことを、悪いと思ったことはない」

「本当に、どこでどう間違えてしまったんだろうね」

ファイドは机からワインボトルを取ると、どぼどぼとグラスに注いでから、ボトルを彼女に渡す。

「向かう行き先さえ間違えなければ、素晴らしい指導者になっていたはずだ。それがどうして、ああなったのか…」

フィフィリアンヌはファイドから受け取ったボトルを傾けて、グラスに並々とワインを注ぐと、ボトルを置いた。

「全くだ。ギルディオスは、奴をどうにかしてまともにしようとしたようだが、それも無駄だった」

「異能部隊で大暴れして、予知能力者の子を殺そうとして、その挙げ句に殺されてしまったからねぇ」

ファイドはグラスの半分ほどに満ちた赤紫の液体を、ゆらゆらと軽く動かした。

「因果応報というか、なんというかだな」

フィフィリアンヌは口に含んだワインを飲み下し、診療台のすぐ隣にある窓に目をやり、日差しに目を細めた。
竜の墓場の上で、数羽の小鳥がさえずっている。殺伐とした光景であるにも関わらず、いやにのどかだった。
竜王城を望む湖の対岸に、キースの墓があった。まだ新しさを残したツノが、地面から生えるように立っている。
異能部隊基地で命を落とした弟の死体は、フィフィリアンヌが回収し、ファイドと共に竜王都へ運んできてやった。
検死のためと、埋葬のためだった。検死の結果、キースは真後ろから脳髄を一発で貫かれて、即死していた。
フィフィリアンヌは、その傷口の鮮やかさと放たれた魔法の強さを目の当たりにした瞬間、強い後悔に苛まれた。
部下が、弟を撃ち抜いたのだと解ったからだ。竜の頭部を一発で貫けるほどの魔法を放てるのは、彼ぐらいだ。
その者は、フィフィリアンヌに忠実な部下だった。長年護衛と秘書を兼ねた位置付けにいて、信頼していた。
だからこそ、異能部隊に身を置いたキースを監視する任務を下した。だが、弟を殺せとは、一度も命じていない。
なのに部下は、弟を、キースを殺してしまった。そして、その理由をまともに話さないまま姿を消してしまった。
形がどうあれ、経緯がどうあれ、結果としてキースに手を下したのは自分だ。再び、後悔の念が蘇ってきた。
フィフィリアンヌが俯いていると、ファイドはグラスに残っていたワインを飲み干してから、頬杖を付いた。

「何か、あったんだね?」

「ああ、色々とな」

フィフィリアンヌはファイドに意識を戻すと、足を組んだ。

「ファイド。貴様は、死者の魂が生き続ける方法として、何があると思う?」

「そうだねぇ。まず最初に思い出すのは、君の最高傑作であり一番の友人である、ギルディオス・ヴァトラスだ」

ファイドは、無表情な竜の少女を見上げる。

「彼は最も効率が良い。魔導鉱石を魂に癒着させると、それだけで魔導鉱石は魂から干渉を受け、魔力増幅装置となって死者の魂を繋ぎ止めておくことが出来る。彼の場合は、魔力の自己生成が出来ないから、君の魔力を借りていたわけだけど、それでも無駄がない。次に思い出されるのは、グレイス・ルーの造った、レベッカのような構造だ。あれはどちらかって言えば人造魂の方が相性が良いけど、魔導鉱石をこれでもかって使ってあるから膨大な魔力と同時に戦闘能力も得ることが出来る。だが、彼女のように肉体と魂を分離させて稼働するためには、膨大な魔力に負けないほどの力がなくてはいけないから、人を選ぶどころか、人間でも竜でも魂が堪えきれないだろうね。そして、もう一つは生体材料を使った魂の維持方法だ。私はこれが一番好きじゃない」

ファイドは眉をひそめ、表情を曇らせる。

「死した魂を、まだ新しい死体にねじ込むのが一般的な方法だけど、普通の神経で出来ることじゃないね。俗に言う生体魔導兵器は、死体に魂を入れていないだけのものだけど、それにしたって趣味が悪過ぎる。だって、死体だよ死体。鼓動も脈も体温もなくなった、蛋白質の固まりに過ぎない物体を無理矢理に動かすことは、どれだけ不自然で不条理か、解っていないんだねぇ。生き物ってのは血が通ってて生きていてこそ生き物なのに、そうでなくなった状態で動かしたりしたら哀れでならない。人間というのは綺麗事が好きなわりに、時に恐ろしく残酷なことをするよ。フィフィリアンヌ、君の権力で、生体魔導兵器の禁止令を敷いてくれるように共和国政府に掛け合ってくれたまえよ」

「三年前に、共和国議会に進言した。だが、その後は音沙汰がないのだ」

フィフィリアンヌが苦々しげにすると、そうかぁ、とファイドは肩を落とした。

「これもまた、近代文明の弊害だね。効率と経済を重視するあまり、人としての倫理や道徳を見失ってしまっているようだね。一昔前だったら、修道院や大司教が黙っていなかったはずなんだけど、昨今じゃ教会に通い詰める人間も数が減ってしまっている上に宗教観も大分変わってしまったからなぁ。ああ、嘆かわしい」

「いやはや、いやはや。経済が潤おうとも、人の心が乾いては意味がないのである」

伯爵は並々と満たされたワインの下から、にゅるりと触手を出した。赤紫に濡れた先端をフラスコから出し、振る。

「して、フィフィリアンヌよ。貴君は、何を言いたいのだね?」

「解っておるくせに、わざわざ問うな。面倒だな」

フィフィリアンヌは、本当に面倒そうに漏らした。ファイドは顎をさすっていたが、二人を見比べる。

「つまり、なんだね。今日、君が私に会ったのは、昨今の魔導兵器の何たるかを知るためなのか? だが、その手のことに関しては私より君の方が精通しているはずだよ、フィフィリアンヌ。何せ、君は共和国の魔導師や魔導技師の総元締めなんだから、彼らの技術は知り尽くしているはずだろう?」

「うむ。だが、私が知り得ているのは魔法や魔導鉱石の扱い方であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ」

フィフィリアンヌは、心持ち身を乗り出した。あまり表情を変えることのない黒竜の医者を、見据える。

「近頃の出来事の真相を推察していたのだが、少々、荒唐無稽な考えに至ってしまったのでな。普通でないことには慣れておるのだが、この考えばかりはあまり自信がない。我ながら突飛だと思ったが、そうとしか考えられんのだ。だから、貴様に意見を求めに来たのだ。私の推察が間違っていたら、考え直す必要があると思ってな」

「何かあった、の何かの話かい?」

ファイドは腰を上げると、診察台の下から木箱を引き摺り出した。年代物のワインボトルが、数本入っている。

「ならば、ワインの続きと行こう。君の話は堅苦しいし、いつもえらく長くなるからな」

木箱に並べられていたワインボトルの右端のものを取ったファイドは、そのラベルを二人に見せた。

「せっかくだからとことん付き合ってやるよ、フィフィリアンヌ」

「リリアスウェルニール…」

伸ばしていた触手をへたりと下ろし、伯爵は唖然としたように呟いた。古びたラベルには、そう書き記してあった。
製造年数は大分離れていて、百五十年ほど前のものだった。ボトルの向こう側で、ファイドはにこにこしている。

「なんだ、そんなにいいものなのかい?」

「良いも何も、最上である」

心底嬉しそうに、伯爵は伸ばした触手でボトルの表面に触れた。埃の被った瓶を、優しく撫でる。

「リリアスウェルニールは、リリアスウェルナンよりも数段上の味と値段を誇る上級酒である。産地はそれほど違ってはおらんのだが、ウェルナンの渋さと香りを数倍に高めたような濃い味と深みのある味わいが素晴らしいのであるが、八十年ほど前にウェルニールに使うブドウを作っていた畑の地質が変わってしまってからというもの、すっかり味も落ちてしまったのである。だが、このウェルニールは地質が変わる以前のものであり、その上、百五十二年物と来ている。この年代のものはいずれも味が良いのであるが、この年は特に素晴らしいのである。なんと運命的で、素晴らしい出会いであろうか! ウェルニールよ、我が輩は貴君が愛おしくてならん、いや、愛しておるぞ! 貴君はシャルロットの代わりとはならずとも、その穴を埋めることが出来るやもしれん女性である!」

伯爵の講釈が急に方向を変えたので、ファイドは不思議そうに目を丸くしていたが、フィフィリアンヌを見下ろした。

「シャルロットって誰だい、フィフィリアンヌ」

「白ワインだ」

「なんだねそれは?」

フィフィリアンヌの答えに、ファイドは更に訳が解らなくなった。フィフィリアンヌは、彼の手から瓶を奪い取る。

「こんなにいいものを飲むのは、私も久々だ。こんなものがあるならば、さっさと出さぬか、ファイド」

「随分前に、治療代の代わりにもらったものなんだけどねぇ」

そうかぁそんなにいいものかぁ、とファイドはやけに感心した。フィフィリアンヌはコルク栓に、栓抜きを差し込んだ。

「さて、飲むとしようではないか。麗しのウェルニールをな」

「のっ、飲んでしまうのであるか!」

びくりと触手を震わせた伯爵は、慌てながらフィフィリアンヌの手元に伸ばし、べちべちと彼女の手を叩く。

「おお、愛しのウェルニール! 我が輩に恋心を抱くよりも先に、こんな女に飲み下されて血肉と化してしまう不幸を嘆こうではないか! おお、ウェルニール! 愛の女神、美の化身、天上の光、麗しのウェルニールよ!」

「やかましい」

フィフィリアンヌは手を払い、伯爵の触手ごとフラスコを転ばせた。診察台に転げ、おぉう、と鈍い悲鳴が聞こえた。
伯爵はフラスコを回転させるように起き上がると、また触手を伸ばしたが、フィフィリアンヌの指に軽く弾かれた。
なんと無慈悲な、血も涙もないのである、この冷血オオトカゲめ、と続く伯爵の罵倒を、彼女は聞き流している。
ファイドは、まだ中身が残っている最初のワインボトルを手にすると、その中身を全て自分のグラスに入れた。
彼自身の趣味で渋さよりも甘さの強いワインを飲みながら、冷淡なフィフィリアンヌを罵倒する伯爵を眺めていた。
ああ、微笑ましいなぁ、とにやにやした。この二人のやり取りはじゃれ合いのようなものだし、見ていて面白い。
ここにギルディオスがいれば、もっと楽しくなることだろう。その光景を再び目にするのも、そう遠くないはずだ。
彼が二人の元を去ったと聞いた時は、本当に驚き、その理由を聞いて納得はしたがすぐには飲み込めなかった。
フィフィリアンヌとギルディオスの異能部隊を挟んだ争いは、彼らの過去からの姿を知っていると、辛かった。
どちらもどちらで譲れぬ信念を持っていて、真剣だった。魂を削り合うかのような、痛みの絶えない日々だった。
まるで、キースが死んだ直後のようだった。あの時も二人は、それぞれの責任と罪を背負い、睨み合っていた。
どちらも悪いからこそ、恨まずにはいられなかった。時間と共に薄らいだと言っても、まだまだ二人に傷はある。
ファイドはワインの甘みを味わいながら、感覚を高めた。死したはずのキースの魂を、感じる時がたまにあった。
無論、気のせいかもしれない。だが、気のせいにしては明確ではあったが、竜の存在感が薄いのが引っ掛かった。
暇を見て調査に行こうかと思っていたが、共和国と隣国の侵略戦争で傷付いた魔物達の治療に追われていた。
フィフィリアンヌの推察がそれに関するものならば、願ったり叶ったり、というものなので、多少期待していた。
彼の魂が存在している理由を調べれば、今後に役立つかもしれない。不謹慎だが、ファイドはわくわくしてきた。
フィフィリアンヌと伯爵の罵り合いは、もうしばらく続きそうだった。


夜になって、フィフィリアンヌは旧王都に帰っていった。
ファイドは、藍色の夜空に消えていく巨大な緑竜を見送っていた。彼女の羽ばたきで、雑草が薙ぎ倒されていた。
強烈な風が何度も訪れ、ばさばさと白衣がなびく。草の間から聞こえる虫の鳴き声を、力強い咆哮が圧倒した。
その咆哮が遠ざかると、ファイドは体を反転させた。細い道をのんびりと歩きながら、彼女の推察を思い出す。

「荒唐無稽、っていうか」

ファイドは白衣のポケットに両手を突っ込み、ひょいと肩を竦めた。

「無理にも程があるぞ」

竜族達の墓、彼らのツノの間を擦り抜ける風が低い音を奏でている。咆哮にも似ているが、弱々しかった。
真っ暗な墓場を進んでいたが、ファイドは立ち止まり、夜空を仰いだ。標高の高い竜王都では、星が良く見える。
ちかちかと瞬く無数の星で成された光の運河に、目を細めた。温度の低い夜風が、酒に上気した体を冷ます。

「こりゃ、大手術になりそうだな」

ファイドは独り言を呟きながら、窓から明かりが漏れている診療所へ歩いていった。

「執刀医はフィフィリアンヌか、それともギルディオスか。もしくはグレイス・ルー、あー、いや、違うかな?」

言葉を止めたファイドは、ああ、と自分の思い付きに納得して頷いた。

「フィリオラだな」

うん、彼女が適任だ、と独り言を続けながらファイドは夜道を急いだ。早く戻って、彼女の話を書き記したかった。
記憶が薄らいでしまわないうちに、フィフィリアンヌの推察を書いて、それを自分なりに考察してみたかった。
興味深い話だったし、真相が明らかになれば、その者の治療や診察に赴く必要があるかもしれないからだった。
医者としての腕が鳴る、というよりも、生体学者としての好奇心がくすぐられ、まるで子供のように浮かれていた。
いかんなぁ、とは思うが、こればかりはやめられない。元々、医者になった理由も、生き物を知りたかったからだ。
体の構造だけでなく、魂や魔力中枢の仕組みも調べて研究するうち、気付いたら医者になっていたようなものだ。
ファイドは、近くに誰もいないのをいいことに、にやにやしていた。楽しくて楽しくて、独りでに顔が緩んでいた。
竜の眠る都の夜は、静かに更けていった。



かつて竜の棲まった都は、竜の屍が眠る都となっていた。
そこに眠る弟の屍によって、竜の少女に、忌まわしき記憶が蘇る。
血と欲望に満ちた過去を持ち、狂気の如き慢心に生き、そして死した弟の影を。

少女の如き姉は、密やかに、手繰り寄せるのである。







06 2/20