リチャードは、戦場を見下ろしていた。 広大な大地が、両軍の歩兵に埋め尽くされている。銃声と怒声がひっきりなしに轟き、けたたましかった。 斜面に添って吹き上がってくる冷たい風には、死臭と硝煙が混じっていて、リチャードは眉間を歪めた。 戦場は、荒い岩場に囲まれている広場のような平地だった。その平地の脇には、長い長い線路が伸びている。 今日の戦いは、その線路を巡る攻防だ。共和国軍は、国の南側の物流と経済を保つために線路を守っていた。 だが、守ると言っても線路は長いので、一点集中で防衛することとなり、結果として軍勢は一塊になってしまう。 付け込まれそうだな、とリチャードが思っていたら、案の定、この岩場に潜んでいた連合軍に待ち伏せられた。 ただでさえ消耗している共和国軍は、武装と兵力を増強した連合軍に勝てるはずもなく、かなり劣勢だった。 上から見ていると、それはよく解る。リチャードは、両軍の戦場と化した平地を見下ろす、岩場の頂点にいた。 背後には、彼がいる。大佐の階級章が付いた防寒着を着て、護衛の兵士を両脇に付け、リチャードを見ていた。 「それじゃ、頼むよ。ヴァトラス中尉」 「了解しました」 リチャードは手にしていた魔法の杖を岩の上に置くと、防寒着を脱いだ。ばさっ、と振って勢い良く裏返した。 防寒着の裏地には、金糸で魔法陣の刺繍が施されていた。それを岩の上に広げ、リチャードは杖を手に取る。 裏地の魔法陣に杖を突き立て、魔力を高めていく。彼の周囲だけ僅かに気温が上がり、ふわりと熱気が漂う。 リチャードは深く被っていた軍帽を押し上げ、細い目を出した。金糸で出来た魔法陣が、ほのかに光った。 眼下で争う兵士達はこちらの様子に気付くこともなく、戦い続けている。銃と剣を振り回し、殺し合っている。 首が飛び、臓物が散らばり、頭が爆ぜている。リチャードは込み上がった吐き気を飲み下し、魔法を唱えた。 「母なる土よ、父なる土よ、大いなる大地よ!」 リチャードは杖を持ち上げ、かっ、と魔法陣の中心に叩き付けた。ぶわりと風が起こり、防寒着が揺れる。 「天に見守られし、空に愛されし、土の子よ! 我が声を聞き、我が力を受け、我が意のままとなれ!」 リチャードは一息吸い込んでから、声を張り上げた。 「発動!」 その声に、彼はにやりと口元を上向けた。直後、兵士達の怒声が激しい悲鳴に変わり、平地が大きく窪んだ。 岩場の内側の平地が、椀のように中心から崩れた。砂ばかりだった地面が、水のように柔らかくなっている。 でろりとした泥に足を取られた兵士達は逃げようとするが、もがけばもがくほど飲み込まれ、次々に没していった。 虚空を掴む形で沈んでいく腕や、倒れたまま埋まっていく千切れた上半身や、放り出された銃や剣が沈んでいく。 そして、大半の兵士の影が泥に消えると、リチャードはぶはっと息を吐き出した。途端に、地面は固くなった。 中途半端に埋まった手足が出ている地面を見ていたが、身を引いた。防寒着を取ると、汗の滲んだ額を拭う。 「任務、完了しました、大佐」 魔力の大半を消耗したリチャードは、息が上がっていた。肩を上下させながら、紺色の防寒着を羽織った。 彼は満足げに笑み、頷いた。革靴の底を鳴らしながら、悠長な足取りでリチャードの背後にやってきた。 「素敵だよ。魔法は少々古いようだけどね」 「その方が、出力を上げやすいんですよ」 リチャードはにこりともせずに返し、杖を抱いた。彼はリチャードの傍に立つと、呻き声の漏れる平地を見下ろす。 敵も味方も、全て地面に没していた。体の半分が埋まった兵士から、彼やリチャードを呪う言葉が聞こえてきた。 裏切り者め、逆賊め、死んでしまえ、悪魔め。血を吐くような声で罵られ、リチャードはたまらずに顔を歪めた。 だが、彼は笑っていた。軍帽に陰っているメガネの奧の目を細め、実に面白そうに、肩を震わせて笑っていた。 「いやあ、楽しいねぇ」 リチャードが答えずにいると、彼はけたけたと笑う。 「見てごらん、この光景! 正に地獄絵図だ! とても素晴らしいよ、ヴァトラス中尉!」 「…お褒め頂き、ありがとうございます」 リチャードが平坦に返すと、笑いを押し殺しながら、彼はリチャードに目を向けた。 「全く、君って男は最高だよ。大抵の魔導師は、僕に命令を聞いただけで怖がるから、ああするんだけどね」 彼の目が、微動だにしない二人の兵士に向いた。兵士達の側頭部には、銀色に輝く金属片が埋め込まれている。 人形のように表情のない彼らは、笑い転げる彼も嫌悪感を堪えているリチャードを見ても、全くの無反応だった。 彼はひとしきり笑ってから、くるりと背を向けた。跳ねるように岩場を歩き、帰還するよ、と軽く手を振ってみせた。 リチャードは敬礼し、了解しました、と返してからその後に続いた。兵士達は、リチャードの後からやってきた。 「先に行っていて良いよ」 リチャードが兵士達に命ずると、彼らは答えもせずにリチャードを追い越し、数歩先の上官の背を追っていった。 彼らの姿が遠のくと、リチャードは息を吐いた。岩場に足を取られないように注意しながら、慎重に歩いた。 魔法の杖を握っている手は、じっとりと湿っていた。秋も深まって肌寒くなったはずなのに、汗が滲み出ていた。 背筋には、嫌な汗が伝っている。魔力減退による疲労とは全く別の倦怠感が、肩にずしりとのし掛かっていた。 人を殺したのは、これでもう何度目だろう。最初は人数を数えていたが、今ではもう、数え切れないほどだった。 仕方のないことだ。自分だけのせいじゃない。悪いのは共和国政府と軍であって、根本的な責任は自分にはない。 最初はそうやって言い訳していたが、次第に効かなくなった。押し潰されそうな罪悪感に、魂がねじ曲がりそうだ。 彼に逆らいたいと思ったことは一度ではないが、逆らってしまったら、キャロルの元へ帰れなくなってしまう。 旧王都に帰らなかったら、彼女はどうなってしまうだろう。それを想像しただけで、自分が死するよりも恐ろしい。 リチャードは立ち止まると、左手の薬指に填めた指輪に触れた。その指輪を額に当て、呻くように言葉を出した。 「ごめんよ、キャロル」 すぐにでも、愛しい幼妻の元へ帰りたい。魔法でも何でも使って、キャロルの傍に戻り、抱き締めてやりたい。 だが、すぐには帰れそうにない。現に、旧王都を出て戦地で戦うようになって、もう一ヶ月以上が過ぎていた。 連絡役の兵士が報告する戦況は、日を追うごとに悪化している。もう、共和国が勝利することなど、有り得ない。 首都は滅ぼされ、主要都市のいくつかも制圧されてしまい、国としての機能だけでなく、国民も激減していた。 男達は出征し、女子供ばかりが街に残され、そこを狙われる。そんなふうに破壊された町を、いくつも見た。 瓦礫の中に横たわる若い母や幼い子供達の姿に、彼女を重ねてしまう。旧王都は、まだ無事でいるのだろうか。 一刻も早く、戦争が終わって欲しい。そして、キャロルと共に目覚める朝を迎え、再び彼女を愛してやりたい。 離れてしまうと、一層愛情は深まった。手の届く場所に愛おしい者がいないことは、この上なく、苦しかった。 今頃、キャロルはどうしていることだろう。額から手を外して懐中時計を取り出すと、針は朝の時刻を示していた。 この時間は、普段であれば彼女は仕事を始めている。台所で動き回って朝食を作り、リチャードの元にやってくる。 朝食が出来ましたので、もう起きて下さいね、リチャードさん。そう言いながら、寝室に顔を出してくるのだ。 リチャードが起き上がらないでいると彼女はベッドまでやってくるので、それを引き摺り込んで、抱き締めてしまう。 いけません、またなんですか、起きて下さいよぉ。照れくささで真っ赤になって言うが、彼女は抵抗しない。 その際に決まって口付けるのだが、近頃は体の力を抜いてくれているので、すんなりと舌を滑り込ませられた。 以前のキャロルはいつもがちがちに緊張していて、ろくなことが出来なかったから、それが嬉しくて仕方なかった。 黒のメイド服の下の胸も、平べったく硬いものから柔らかなものへと変わり始めていて、体型も少し丸くなった。 十四歳の段階でフィリオラよりも膨らみが若干大きいように思えたので、これから先の成長がとても楽しみだった。 今はまだちゃんとしたことはしていないが、彼女の体が成長し切ったら、彼女の中にも愛情を注いでやりたい。 思い出せば思い出すほど、キャロルが恋しくなってしまう。だが、彼女はまた腕に収まってくれるだろうか。 リチャードは、痛くなるほど手を握り締めた。この手で、この力で、人を殺した男の腕になど入ってくれるのか。 それが、怖かった。リチャードはもう一度、ごめんよ、と呟いてから、足を引き摺るようにして歩き出した。 岩場の下には、軍用蒸気自動車が待っていた。座席には彼と兵士達と、上位軍人と思しき軍人が乗っていた。 リチャードのものよりも階級章が大分上であるその軍人は、見た目は普通に見えるが、目がどこか虚ろだった。 恐らく、今回のような強行作戦を行うに当たり、彼が魔法を施したのだ。彼は、いつもそうして無理を通す。 特務部隊などというとち狂った部隊が軍の中に存在出来るのも、彼の徹底した魔法での洗脳のおかげだろう。 腐っている。リチャードは彼の神経も思考も何もかも理解出来ず、強烈な嫌悪感が湧いたが、それを堪えた。 岩場を下りて軍用蒸気自動車の脇にやってきたリチャードは、上位軍人に敬礼してから、蒸気自動車に乗った。 彼が一言命ずると、人造魔導兵器である蒸気自動車は独りでに車輪を回し、蒸気を噴き上げながら走り出した。 次なる戦場に、向かっていった。 とても、嫌な夢を見た。 銃声が響く。彼の体が貫かれ、鮮血が迸る。彼の体が崩れ落ちる。そして、息絶える。その前で、泣いている。 今までに、何度となく見た夢だった。目を薄く開くと、滲み出ていた涙が零れ落ち、全身に嫌な汗が出ていた。 キャロルは瞬きをしてから、天井を見上げた。そして傍らを見てみるが、彼の姿もなく、声もしてこなかった。 ああ、夢だ。起き上がって目元を拭い、ベッドから下りる。もう一度振り返ってみたが、リチャードの姿はない。 カーテンを引いて窓を全開にすると、乾いた風が吹き込んできた。嫌な汗が乾かされ、少しだけ心地良くなった。 頬には、寝ていた時に出た涙の跡が付いていた。顔を洗わなきゃ、朝食を作らなきゃ、と思うが体が動かない。 ぼんやりと、窓の外を見ていた。旧王都はひっそりと静まっていて、時計塔の鐘の音が、穏やかに響いていた。 ヴァトラスの屋敷は、死んだようになっていた。庭を手入れしていた庭師も出征してしまい、庭は荒れてきた。 リチャードがいなくなってから、キャロルは無気力になっていて、屋敷の掃除も怠りがちになってしまっていた。 それではいけない、と思うが、帰りを待っていても彼は帰ってこないし、食事を作ってもそれを食べる人がいない。 目覚めたらリチャードが傍にいることを願って、リチャードの寝室で寝起きしているが、嫌な夢ばかりを見る。 時折、幸せで満ち足りた夢を見ることもあったが、それよりもずっと多い頻度でリチャードが死ぬ夢を見る。 ちゃんと、生きているのだろうか。自分がいなくても、きちんとしているだろうか。あの人は、少々朝が弱い。 起こしに行かなくても目を覚ましているだろうか、しっかり食べているのだろうか、服は洗濯しているだろうか。 とても心配で、不安だった。明日にも、彼の死を告げる手紙が来てしまいそうで、恐ろしくてたまらなかった。 キャロルはまた泣いてしまいそうになったが、涙を拭い、気を取り直した。食事を摂って、家事をしなくては。 「着替えなきゃ」 キャロルは窓を閉めてから、寝間着を脱いだ。膨らみかけでまだ硬い胸を見下ろしたが、そこに赤い跡はない。 結婚後の初夜の翌日は彼の付けた跡は残っていたが、一ヶ月以上も過ぎた今、残っているはずはなかった。 初夜に、彼に今までにないほど愛された。さすがに情交にまでは至らなかったが、その寸前まで、事に及んだ。 誰にも触られたことのない場所に触れられ、様々な部分に口付けられ、感じたことのない甘い感覚に襲われた。 とても気持ち良くて、彼が去ってしまう悲しみがほんの少しだけ安らいだ気がしたが、結局はもっと寂しくなった。 リチャードでなければ、リチャードに触れられなければ、ああはならないのだ。ますます、心も体も切なくなった。 キャロルは寝間着を置いてから、畳んであったメイド服を広げて着た。エプロンを付け、髪をまとめて整える。 波打った赤毛をリボンで一つに結び、寝癖を撫で付けた。寝間着を抱えて寝室から出ようとして、足を止めた。 ベッドの脇には、リチャードが結婚式で着た礼服が掛けてあった。片付けるべきなのに、片付けられずにいた。 目に入れば一層寂しくなるのが解っているのに、どうしても出来なかった。キャロルは、礼服に手を触れた。 質の良い上着をそっと撫でてから、顔を埋めた。ほんの少しだが、リチャードの匂いが残っている気がした。 「早く、帰ってきて下さいね」 キャロルは首に下げている結婚指輪を、強く握り締めた。 「待っていますから」 キャロルは礼服を抱き締め、目を閉じた。これが本当にリチャードだったら、と思いながら、頬を押し当てる。 生きて帰ってきてくれたら、それでいい。無事にここに戻ってきてくれるなら、なんでもいい。そう、思っていた。 リチャードが、戦地でどう戦っているのかなど解らない。どれだけの兵士を殺しているのかも、知る由もない。 それ自体は悪いことだと思うし、人を殺すことは罪には違いない。けれど、それでも、リチャードが愛おしかった。 生まれて初めて、好きになった人。自分を必要としてくれた人。心から愛していて、愛してくれている、大事な夫。 それだけで、何もかもが吹き飛んでしまう。身勝手だとは思うし、彼の罪は消えないが、恋しくて愛しくて仕方ない。 「リチャードさん」 キャロルは礼服から離れると、弱々しく微笑んだ。そして、ちらりと姿見に目を向けると、やつれた自分がいた。 彼のことが気掛かりでろくに食べていないせいもあり、顔色もあまり良くなく、以前に比べて明らかに弱っている。 これでは、ブラッドが不安げな顔をするわけだ。キャロルは鏡の中の自分に笑ってみたが、表情は暗かった。 せめて、食べるだけ食べておかないと、体が持たない。リチャードが帰ってきた時に、倒れていては元も子もない。 食欲はあまりなかったが、好きなものを作れば食べられるはずだ。そう思いながら、キャロルは寝室を出ていった。 一階の台所に向かって歩きながら、何を作ろうか考えた。そして最初に思い当たったのは、パンケーキだった。 フィリオラに弟子入りをするために訪れた時に、彼女が作ってくれたパンケーキのおいしさは未だに忘れられない。 柔らかくて優しい味がして、緊張が解けてしまったほどだ。だが、自分では、あれほど上手く作れたことがない。 何度か作ってみたが、あの柔らかさはフィリオラにしか出来ない焼き加減のようで、いつも少々硬くなってしまう。 もっと練習すれば、少しは近付けるかもしれない。キャロルは階段を下りかけたが、手すりに滑らせた手を止めた。 手に付いた埃を見、顔をしかめる。よく見ると、手すりと言わず壁の端や廊下にもうっすらと埃が積もっていた。 すっかり、屋敷の掃除を怠けてしまった。これでは、メイドとして失格である以前に、妻としても失格ではないか。 こんなことでは、リチャードが帰ってきても喜んで迎え入れられない。綺麗にしておかないと、気が引けてしまう。 キャロルは、うん、と力強く頷いた。いつまでも落ち込んでいても仕方ないし、出来ることを出来るだけしよう。 それが、夫を待つ妻の役目だ。キャロルは胸元で揺れている結婚指輪を持ち上げると、唇に触れさせた。 夫への愛しさを込め、口付けた。 緩やかな時間が、流れていた。 フィリオラは布団を引っ張り上げて、裸の肩を隠した。この季節になると、何も着ないで朝を迎えるのは寒い。 傍らに目をやると、レオナルドはまだ眠っている。いつもの険しい表情は失せていて、穏やかな寝顔だった。 こうして、二人で朝を迎える日が続いていた。以前にも増して、レオナルドはフィリオラを求めるようになった。 家具の少ないレオナルドの寝室には、フィリオラの持ち物が増えてきていて、替えの下着や服がタンスに入った。 フィリオラとしては、こちらで寝起きするから便利だろうと思ってしたのだが、レオナルドは気恥ずかしげだった。 何が恥ずかしいのか解らないが、とにかく恥ずかしそうだった。フィリオラはそれを思い出し、くすりと笑った。 体をずり上げ、レオナルドの肩に頭を傾けた。自分よりも体温の高い彼が温かくて心地良く、眠気が戻ってくる。 フィリオラがとろりと目を閉じると、レオナルドが身動きした。彼は何度か瞬きしてから、ゆっくりと目を開いた。 「もう、朝か」 「朝ですよぉ」 フィリオラは、上目にレオナルドを見上げた。レオナルドはフィリオラの額に、軽く口付ける。 「今日は、仕事はないのか」 「ええ、ありません」 フィリオラは体を横にして、レオナルドに腕を回す。肌と肌が触れ合い、心地良さが増した。 「というより、なくなっちゃったみたいなものですけどね。皆さん、魔法でもダメだって解ったみたいですから」 「お前、どんな仕事をしていたんだ」 レオナルドはフィリオラの華奢な肩を手に収め、短いツノの生えた頭を見下ろした。彼女は、少し笑う。 「一言で言えば、おまじないです。戦争に行っても死なないように、って、色々な方達から魔法を掛けるように頼まれました。もちろん、そういう魔法はありません。負傷した時に一度だけ回復出来る魔法もありますけど、それはただの一度きりだし、必ず命を守るものではありません。中には、小父様のように魔導兵器のようにしてくれとも頼んできた方もいましたけど、丁重にお断りしました。小父様のような方は死んでいないのであって、生きているわけではありませんから」 フィリオラはレオナルドの厚い胸に、頭を預けた。 「それでも、気休めにはなるだろうと思って、色々な魔法を掛けてきました。戦いに出ても死んでしまわないように、生きて帰ってこられる方が一人でも増えるように、って思って。私だって、人が死ぬのは嫌です。知らない人だって、どんな人だって、生きているんですから。だけど、やっぱり、無理なものは無理なんですよね」 レオナルドがフィリオラを抱き締めると、彼女は顔を伏せ、声を沈めた。 「レオさん。魔法って、あんまり、役に立ちませんねぇ…」 レオナルドは、シーツの上に散らばる黒に近い緑髪を指で梳いてやった。フィリオラは、くすぐったそうにする。 腕の中の彼女は、いつにも増して小さく思えた。戦争とは無縁とも思える魔導師にも、戦いの影は近寄っている。 それも、人の弱さと苦しみが一番出ている部分だ。何に対しても優しくあろうとする彼女には、辛かっただろう。 魔法を掛けたところで、人が死ぬのを止められるはずがない。戦争が近付いてくるのを、阻めるはずがない。 フィリオラは、仕事の内容を口にすることはあまりない。魔導師の仕事は、基本的に内密なものばかりだからだ。 レオナルドも魔導師の端くれだが、免許を持っているだけで、フィリオラのように魔法で商売はしていない。 だから、想像に過ぎないが、この状況では苦しい仕事ばかりだっただろうと思った。何をしても、無駄なのだから。 レオナルドも、そんな思いを味わっていた。首都が壊滅して以来、国家警察は警察としての機能を失っている。 故に、事件捜査など出来るはずがなかった。不況と戦争の恐怖で、荒れた人々が事件を起こし続けているのに。 こんな時だからこそ締めるところを締めるべきだとは思うが、元々、国家警察は軍よりも下の位置付けの組織だ。 軍よりも歴史が浅く、権力も少々弱い。だから、ここぞとばかりに圧力を掛けられて、警官達は軍人にされた。 今では、同僚の大半が出征してしまった。残っている警官達も、次は自分ではないかと怯えながら生きている。 彼らの気持ちは、痛いほど解った。だが、どうにも出来ない。軍の命令に背いても、戦争からは逃れられない。 レオナルドはフィリオラの後頭部を押さえ付けると、寝乱れている髪をまさぐって、ツノの根元に触れた。 「やぁん」 敏感な部分であるツノの根元をいじられ、フィリオラは身を捩った。レオナルドは、ツノの根元に指を這わせる。 「お前、ここはそんなに嫌じゃないだろうが」 「だ、だってぇ」 くすぐったいんだもん、とフィリオラが甘えたような声を出すと、レオナルドはその顔を上げさせた。 「可愛い声出しやがって」 「それはレオさんが」 と、フィリオラが言い返すと、レオナルドは身を屈めて唇を重ねた。彼女の顎を持ち、唇を開かせる。 「や、ぅ」 いきなり深く口付けられ、フィリオラは戸惑った。彼の舌が口内を這い、舌をなぶってきたので、息を漏らした。 昨夜の情交の余韻がまだ体中に残っているので、すぐに高ぶってしまいそうだったが、理性で押し止めていた。 レオナルドの大きな手が腰を滑り、その下に向かう。太股の内側には、注ぎ込まれて溢れたものが伝っている。 一晩も経てば乾いていたが、触れられるとぎくりとしてしまった。フィリオラはレオナルドを押して、間を開けた。 「スケベ」 「すまん」 ついな、とレオナルドが漏らすと、フィリオラは顔を背ける。 「だから、朝はダメです! 何度言えば解るんですか、もう!」 「朝だろうが夜だろうが、やることは同じなんだから、別にどうでもいいと思うが」 レオナルドが不思議そうにすると、フィリオラは彼に背を向けて身を縮めた。 「明るいと、すっごく恥ずかしいんです! 暗くても恥ずかしいのに、見えるともっと恥ずかしいじゃないですか!」 「オレとしては見えた方がいい」 「レオさんのドスケベ…」 フィリオラは、徐々に頬が熱くなってきた。こうして、彼と共に目覚めるのは好きだが、これだけは参ってしまう。 嫌ではないのだが、どうにもやりづらい。何度も肌を重ねていても、やはり、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。 レオナルドは、不機嫌そうに眉をしかめるフィリオラの背を抱き締めた。今度は、下手に触れないようにする。 また先程のようにやってしまったら、今度こそベッドから逃げ出されてしまうだろう。それは、さすがに嫌だった。 戦火が目に見えて迫ってくるに連れて、不安が湧いてくる。彼女と触れ合っていると、それが少しだけ消えるのだ。 愛情を与えてくれる、与えるべき相手が傍にいると、不思議と心が安らぐ。だから、投げやりにならずに済んだ。 これで一人であったなら、また荒れていたことだろう。両親が死に、兄も死線と隣り合わせの立場に立っている。 次は自分だ、と思うことも少なからずあり、訳の解らないやるせなさが起きる。そして、炎の力も高まってくる。 だが、フィリオラが手元にいれば、そうはならない。温かな体温と甘い匂いを感じていれば、衝動は和らいだ。 抱くだけの女なら、他にいくらでも都合が付く。だが、子供まで欲しがるほど愛してくれる女は、そうはいない。 むやみやたらに情欲をぶつけてしまうこともあるが、傍にいることの方が余程心地良く、穏やかな気分になれる。 むしろ最近では、彼女に欲望を注ぐよりも、そちらが目当てになっている節があり、微睡む時間も長くなった。 レオナルドはフィリオラの白い首筋に唇を当ててから、ついっと舌を這わせた。尖り気味の耳に、口を寄せる。 「フィリオラ」 「は、はい?」 耳元で名を呼ばれ、フィリオラは上擦り気味に返した。レオナルドは、小さく囁く。 「愛してる」 「ふぇ」 レオナルドの優しくも愛しげな声と言葉に、フィリオラは困惑してしまい、言葉に詰まって変な声を出した。 彼は、こういうことは滅多に言ってくれない。たまに、言って欲しいなぁ、と思っても言わせることも出来ないのだ。 だから、嬉しいのは嬉しいのだが困ってしまった。どくどくと心臓が脈打って体が火照り、頬が一気に熱くなる。 「お前は?」 今度は、少々意地の悪い声だった。フィリオラが口籠もっていると、ついっと首筋を指がなぞっていく。 「ひゃあ!」 「色気のない声を出すな」 レオナルドが嫌そうにすると、フィリオラは背後の彼を見上げて声を上げる。 「やっ、やりませんからね!? 朝だけは、お願いですから勘弁して下さいね!」 「誰もやるとは言っちゃいないんだが」 そうは言いながらも、レオナルドの指先は細い鎖骨を辿った。うひゃ、とフィリオラは仰け反る。 「やっ、やる気じゃないですか思いっ切りぃ!」 「悪いか」 「悪いに決まってますよぉ!」 フィリオラは強引にレオナルドの腕を押し退けると、ベッドから下りた。すぐさま服を着込んで、ぎっと彼を睨む。 レオナルドは、にやりとしていた。本気だ、とフィリオラは直感してベッドから距離を上げ、じりじりと後退する。 「やりませんからね、絶対に、絶っ対に、やらせませんからね!」 「じゃあ昼だ」 「もっとダメです! ていうか、昨日の夜に散々したじゃないですか!」 「あれはあれだ、これはこれだ」 「屁理屈こねないで下さい!」 フィリオラは寝室の扉に背を当て、むくれている。レオナルドは起き上がり、残念そうにする。 「この間は、それで押し通せたんだがなぁ」 「あっ、あのときは、その、あの、えっと」 フィリオラは目線を足元に落とし、口元を押さえる。羞恥で、耳まで赤らめた。 「さ、寂し、かった、から…」 「下がか?」 「いっ、色々です!」 フィリオラは力を込めて言い、寝室を出た。ばん、と勢い良く扉が閉められ、レオナルドはちょっと肩を竦めた。 扉越しに、レオナルドへの文句が聞こえてきた。言っていることはいつも変わらないので、微笑ましいだけだ。 レオナルドは、薄いカーテンを透かして差し込む朝日に目を細めた。あれだけ注いでも、彼女は孕まなかった。 先週月経が訪れ、七日程度で終わったのだ。レオナルドとしては、てっきり孕んでいるものだと思っていた。 毎日とはいかないまでも、あまり間を置かずに体を重ね合い、その都度フィリオラに注げるだけ注ぎ込んでいた。 人であれば、必ず孕んでいるはずだ。だが、フィリオラはそうはいかなかった。通常通り、月経が訪れたのだ。 それを言いに来たフィリオラの残念そうな顔が、忘れられなかった。多少なりとも、期待していたらしかった。 また次がある、とレオナルドは彼女を励ましたが、フィリオラは泣くのを必死に堪えて無理矢理笑ってみせた。 その痛々しい笑顔を思い出し、胸が痛んだ。なんとかして孕ませてやりたいが、こちらにもやはり限界がある。 どうにかならないものか、とは思うがどうにも出来ない。こればかりは、どんな魔法を使っても無理なのだ。 レオナルドもそれなりに調べてみたが、人造魔物を作る魔法はあれど、人間の子を作るための魔法はなかった。 人の命は、簡単には作れない。魔物のように魔力に特化した生体構造ではないから、生成するのはかなり難しい。 それに、魔法を使って子供を作ったところで、フィリオラが喜ぶことはないだろう。彼女は、そういう性格の女だ。 レオナルドは、虚空を見つめた。戦争が起きていなければ、ここまで急いで子供を作ろうとは思わなかっただろう。 いつ旧王都が襲撃されて、いつ自分が死ぬか解らない。だからせめて、彼女の中に自分の血を連ねておきたい。 あまり上手く行かないが、行為が出来ているだけまだいい方だ。兄に至っては、それすらも出来ないかもしれない。 レオナルドはベッドから下りると、服を着込んだ。扉の向こうからは、フィリオラが朝食を作る音と鼻歌がしてきた。 まだ、ここは平和だ。レオナルドはそのありがたさを噛み締めながら、居間に繋がる扉に向かって歩いた。 一時でも、彼女と離れていたくなかった。 06 2/28 |