ドラゴンは眠らない




戦渦の中で



真っ青な空を見上げ、ブラッドは息を上げていた。
両手を付いた下の草は枯れていて、手触りが硬い。体に吹き付けてくる秋の風が、体中の汗を冷やしていった。
肺一杯に空気を吸い込んでも、頭に酸素が回らない。心臓が痛くなるほど早鐘を打っていて、うるさかった。
額から落ちてきた汗を拭い、顔を上げた。目の前に立っているフローレンスは、汗ばんでいたが平然としていた。

「はい、もう十本」

ブラッドは答えようとしたが、声が出なかった。声を出すよりも先に息を荒げてしまって、言葉が出なかった。
その様子に、フローレンスの背後に立っているダニエルは首を横に振った。人外といえど、彼はやはり子供だ。
つい先日まで現役の軍人であったダニエルとフローレンスの訓練に、最初から最後まで付き合えるはずなどない。
数日前から、ブラッドは二人の訓練に付き合い始めた。というよりも、無理に押し切られて、合意させられた。
走り込みから始まって筋力増強から組み手まで全部やるとブラッドは言い張ったが、元々の体力が違いすぎる。
故に、ブラッドは走り込みの段階でバテていた。地面に座り込んだ少年は喘ぎ続けていて、動けそうにない。
本人はまだ続けたいようだったが、これ以上は酷なだけだ。子供の段階で体を痛め付けては、後々に影響する。

「もういい。しばらく休め、ブラッド」

ダニエルは組んでいた腕を解き、少年に歩み寄った。ブラッドはなんとか呼吸を整えると、首を横に振る。

「やる」

「無理をするな。それ以上やったところで、疲れてしまうだけだ。それに、物が喰えなくなる」

ダニエルは、真上からブラッドを見下ろした。ブラッドは何か言おうとしたらしかったが、言葉にならなかった。
フローレンスは小さくため息を吐いてから、草原の果てに立っていたヴェイパーを、手を振り回して呼んだ。

「ヴェイパー、戻っておいでー」

りょうかい、と鈍い声と金属の軋みが遠くから聞こえた。どしゅ、どしゅ、どしゅ、と重たい足音が近付いてくる。
ずんぐりとした巨体の機械人形は、時間を掛けて三人の元へ戻った。ブラッドの背後で、どしゅ、と足を止める。
関節と背中の煙突を開くと、真っ白な蒸気を噴き出した。それは、草原を走ってきた風ですぐに掻き消された。
ヴェイパーは上官二人に倣って、ブラッドを見下ろした。ブラッドはようやく落ち着いて、呼吸も穏やかになった。
心臓どころか胸全体が痛く、息が上がって苦しかった。限界まで酷使した体の筋肉が重たく、関節も軋んでいた。
ダニエルとフローレンスに合わせると、恐ろしいほど辛い。走り込みも、ブラッドが考えていた以上の距離だった。
しかも、その速度が速い。大柄で体格の良い、見るからに体力のあるダニエルはもとい、フローレンスもだった。
彼女は見た感じではそれほど筋肉は付いていないのだが、長年軍の訓練で鍛え上げられた体力は、強靱だ。
ちょっとやそっとではへばったりしないし、息も上がらないほどだ。ブラッドは、二人は人間じゃない、と思った。
ブラッドは喘ぎすぎて渇いた喉に、唾を飲み下した。酸欠でふらつく頭を押さえたが、目眩は収まらなかった。

「目ぇ回る…」

「だーから、無理だっつてんでしょーが。あたしらに合わせて平気なのは、レオさんぐらいなもんよ」

フローレンスは身を屈め、ぱちんとブラッドの眉間を弾いた。あいて、とブラッドは額を押さえる。

「そりゃそうだけどさぁ」

「あんまり、やると、しぬよ。まじで」

ヴェイパーが鈍い声で言うと、ダニエルは頷く。

「いくら訓練と言えども、限度を超えれば拷問に過ぎない。大体、子供のお前が、ついこの間までこれ以上の訓練量をこなしていた私達に付いてこられるはずがないだろう。なぜ、そこまでやろうと思うのだ」

「強くなりてぇんだ、オレ」

ブラッドは疲れ果てた顔で、弱く笑った。ダニエルは、眉根をしかめる。

「一朝一夕では、体力も戦闘能力も手に入らない。増して、今まで基礎体力すら鍛えていなかったお前が、いきなり私達の訓練に付き合うのは無茶を通り越して無謀だ。確かに、具体的な強さを得るには体を鍛えるのが妥当だが、鍛えられる前に体を壊しては元も子もないぞ」

「そうそう。ていうか、なんでそんなに強くなりたいわけ?」

フローレンスは不思議そうに、首をかしげた。ヴェイパーも、同じように首をかしげる。

「ぶらっど、こども、にしては、じゅうぶん、つよい。まほうを、つかえるし、きゅうけつき、だから。なのに、なぜ」

「それじゃダメなんだよ、それじゃ。ちゃんと、オレが強くならなきゃなんねぇの」

ブラッドは立ち上がろうとしたが、よろけて座り込んでしまった。

「強くなりたいんだ。このままじゃ、オレ、何も出来ないままになっちまうから」

「子供というものはそういうものだ。何も出来ないのが、子供だ」

ダニエルが返すと、うん、とブラッドは仕方なさそうに頷いた。

「けど、オレ、それじゃダメなんだ。オレ、いつも皆に頼ってばっかりなんだ。スライムの時も、首都の時も、この間の時も、オレは何も出来なかった。首都の時は、ダニーさんとフローレンス姉ちゃんが敵だったし、おっちゃんもそっちにいたから、レオさんから下手に動いちゃダメだって言われたからってのもあるんだけど、レオさんにそう言われて、オレ、ちょっと安心しちまったんだよな」

ブラッドの口調は、腹立たしげになる。

「オレは戦わなくていいんだ、怖い目を見なくていいんだ、って、ちょっとだけ思っちまった。本当はレオさんと一緒にダニーさん達の基地に行って、フィオ姉ちゃんを助けたかったんだ。だけど、そうしなくていいって言われて、少しでも安心しちまったオレが凄く嫌なんだ。で、この間の暴走で、またオレは逃げちまった。父ちゃんが死んじゃった時も、そうだった。フィルさんにきっつく言われるまで、父ちゃんが死んだことをまともに見ようともしなかったし、挙げ句に言い訳並べて旧王都まで逃げてきちまったんだ。そのおかげでフィオ姉ちゃんとかギルのおっちゃんに会えたのは良かったんだけど、そうじゃなかったら、って思うと怖くなっちまう。もしもギルのおっちゃんに拾われなかったら、オレはずうっと逃げ続けてたんだろうな、って」

ブラッドは、苦い記憶と心中の痛みと戦っていた。いつも、自分は何かにつけて目の前の壁から逃げていた。
父親が死した時も、自分のせいでスライムが暴れ出した時も、フィリオラが攫われた時も、獣の血が猛った時も。
真正面から立ち向かって、最後まで戦い抜いた時などない。誰かが助けてくれるはずだ、と常に甘えがあった。
事実、フィリオラやギルディオスが事ある事に手を貸してくれたし、レオナルドが代わりに戦ってくれもした。
だがそれは、彼らの強さを見ることで、自分の弱さから目を逸らしているだけだ。自分が、強いわけではない。
このままでは、彼らに甘えたまま生きていてしまう。誰かに頼らなければ、生きていけない人間になってしまう。
それでは、いけない。彼らにも悪いし、何より、自分自身が許せない。弱いままの自分は、情けなくて嫌なのだ。
努力も苦労もしないで弱さを嘆き続けることも、嫌だった。だから、ダニエルらに付き合って鍛えることにした。
ブラッドも、これは無謀だったと思う。心身共に鍛え上げている軍人と少年が、対等に渡り得るはずがない。
それでも、やるだけやりたかった。何も出来ないやるせなさと、強さを求める衝動が、ブラッドの心を急かしていた。
ダニエルは、思い詰めた表情の少年を見下ろした。彼の本音で理由は解ったが、多少なりとも懸念があった。

「ブラッド。お前は、強くなってどうするつもりなんだ」

「え?」

ブラッドがきょとんとすると、ダニエルは厳しい顔付きになる。

「力を得て、力を求めて、どうなる気だ。力を持ったところで、向ける先が間違っていてはどうにもならないぞ」

ブラッドは、威圧感のある眼差しを向けてくるダニエルを見上げた。確かに、力を得たその先を決めていなかった。
強くなることしか、考えていなかった。自分の弱さを圧倒して、力を手にして、ただ強くなりたくて仕方なかった。
強くなりたい、とは思っているが、強くなって何をするのだろう。改めて考えてみたが、差し当たって思い付かない。
ギルディオスは、誰かを守りたいがために剣を振るう。フィリオラは、戦わなければならない時だけ竜の力を使う。
レオナルドは、己の正義のために炎を放つ。そして、ダニエルらも、揺るぎのない信念で異能の力を使っている。
だが、自分はどうなのだろう。力を手にした後に、進む道を誤らないという可能性は全くないわけではないだろう。
様々な壁から逃げ出してきた経緯もあるし、その弱さが道を誤らせるかもしれない。そう思ったら、少し怖くなった。
ブラッドが表情を曇らせて俯くと、ダニエルはその頭にぐりっと拳を当てた。あいてぇ、と少年は声を裏返した。

「いくらでも悩んでおけ、ブラッド。お前には、まだその時間がある」

ブラッドが拳の下から顔を上げると、ダニエルは少しだけ表情を和らげていた。

「悩む時間すらなかった、私達と違ってな」

「まぁ、下手に力なんて持たない方が人生楽だし生きやすいのは確かだけど、あったらあったで楽しいしね」

フローレンスは、にやりとしてダニエルに向いた。

「副隊長なんてさー、一昨日の夜、念動力であたしの」

「馬鹿、言うな、フローレンス!」

ぎょっとして声を上げたダニエルに、フローレンスはにやにやする。

「だって副隊長、マジで楽しそうだったんだもーん。言わなきゃ損だと思ってぇ。あ、じゃ、思念で送ろうか?」

「余計に悪い! というかお前には羞恥心というものがないのか!」

必死になって叫ぶダニエルに、フローレンスはあっけらかんと返す。

「別にぃ。あたし、そういう教育されてるもん。服ひん剥かれても敵を殺せるように、ってさ」

「だっ、だからってなぁ!」

次第に、ダニエルは狼狽え始めていた。ブラッドは、弱り果てたダニエルとにやけるフローレンスを見上げた。
ああ、この二人もか。ブラッドは、ダニエルとフローレンスの関係が、上官と部下ではなくなったのだと察した。
慌てふためくダニエルを、フローレンスはひたすらにからかっている。どうやら、彼女の方が優位にいるようだ。
普段は口調も態度も威圧的なダニエルが弱っている姿は、情けないことこの上なく、同時にだらしなくもあった。
いつのまにか、この二人にも恋が訪れている。ブラッドは、聞いているだけで恥ずかしい二人の会話を聞き流す。
まともに聞いたら、毒気に当てられる。恋愛の甘ったるい空気は、ブラッドにとってはもう毒でしかなかった。
ブラッドは心底げんなりしながら、立ち上がった。ヴェイパーを見上げると、彼は両手を上向けて肩を竦める。

「やって、らんない」

「全くだよ」

ブラッドは汗の伝った頬を拭い、ため息を吐いた。どうして男と女は、こうも簡単に恋に落ちてしまうのだろう。
本当に、こんなに傍迷惑なことはない。ブラッドは、こういう大人にだけはなりたくねぇや、と痛切に思った。
ブラッドは二人に背を向けて、広大な草原を見渡した。巨大な城壁に囲まれている旧王都が、遥か遠くに望めた。
以前は聞こえていた工場の音も、機関車の汽笛も、ほとんど聞こえなくなった。まるで、街が死んだようだった。
それは、間違いではないのかもしれない。旧王都を成していた人々は、戦乱で命を落とし、死に絶えているのだ。
街も、都市も、国も、人がいなくては成り立たない。だが、その人が消えてしまっては、成り立つはずがない。
このまま、共和国内から誰も彼もいなくなってしまうように思えてしまって、ブラッドは背筋がぞっと冷たくなった。
今まであまり感じていなかった戦争の実感が、急に起きた。戦いが近付くと言うことは、そういうことなのだ。
人も街も破壊されて、何もかもが滅びてしまう。人が人を殺すことが当たり前となって、日常が徐々に歪んでいく。
そしていつか、全てが失われる。ブラッドは喩えようのない恐怖を感じ、涙が出てきたが、力任せに拭った。
戦いは怖い。だが、逃げられない。だから、強くなってやるんだ。ブラッドは口元を固く締めて、拳を握り締めた。
逃げないために、強くなりたい。目の前の事からも、壁からも、そして弱さからも逃げないために、力を得たい。
力を向ける先はまだ見定めていなかったが、強くなるための目標が見えたので、ブラッドは一層決意を強くした。
逃げないために、強くなるのだと。




銀色の骸骨が組み上げられ、石組みの床に横たわっていた。
狂気の笑いを浮かべた仮面、骨のような手足、肉のない胴体。魔導金属糸製のマントを付けた、機械人形だった。
だが、その胸装甲には、アルゼンタムの魂を込めた緑色の魔導鉱石は填っておらず、空虚な抉れがあるだけだ。
グレイスは銀色の骸骨の腕を取り、刃物で出来た手を曲げた。きぃ、と関節が軽く軋み、滑らかに動いてくれた。
これを見るのも使うのも、久々だ。最初の機体はギルディオスに破壊されたが、予備はまだまだ残っているのだ。
アルゼンタムの製造を、キャロルの父親であるウィリアム・サンダースに発注した時に、大分余分に作らせた。
もう使わないと思っていたが、まだ使い道はありそうだ。グレイスは、銀色の骸骨の傍に置いていた手紙を取る。
手紙を広げていると、背中に温かなものが覆い被さった。首に腕が回され、ロザリアの顔がすぐ傍に現れた。

「それ、何?」

「ちょっとした依頼だよ、フィフィリアンヌからの」

グレイスが手紙をロザリアに渡すと、ロザリアは手紙を広げ、グレイスの肩越しにその文面を読んだ。

「あら本当。でも珍しいわね、あの女があなたに近付くなんて。嵐の前触れかしら」

「まぁ、似たようなもんだな」

グレイスはロザリアの頬に手を触れ、引き寄せた。ロザリアは手紙を下ろすと、夫を抱き締める。

「それで、引き受けたわけね? アルゼンタムが組み上がっているってことは」

「まぁな。フィフィリアンヌには、家宅捜索ん時、ヴィクトリアを預かってもらったかな。借りを作りっ放しってのは、性に合わねぇんだよ」

グレイスは妻の頬に口付けてから、居間の窓辺に目を向けた。日の差し込む窓の傍では、幼い娘が眠っていた。
子供用の小さなベッドの上で熟睡しているヴィクトリアを、上機嫌ににこにこしているレベッカが、見守っている。
思えば、あの家宅捜索の時から、彼の計略に綻びが出来た。グレイスが、彼の計略から徐々に外れたからだ。
当初、家宅捜索の日には彼にヴィクトリアを預かってもらうはずだったが、ふとした気紛れで預け先を変えた。
首都から旧王都に戻ってきたフィフィリアンヌに娘を預かってもらって、警官隊と戦い、ヴァトラスの兄弟で遊んだ。
本当に、たったそれだけのことだった。だが、ヴィクトリアを預かったフィフィリアンヌは、何かを察したようだった。
彼女は灰色の城に家宅捜索が行われることは知っていたし、グレイスの狙いも知っていたが、その奧を見定めた。
これといった情報も与えなかったし、グレイスは彼の気配をさせないようにしていたが、彼女の勘は冴えていた。
ギルディオスとの敵対関係で相当いきり立っていたはずだが、判断を誤らずに、彼の外堀を埋め始めている。
恐ろしい女だぜ、とグレイスは内心で呟いた。近頃は、彼女には、魔導師協会が絡むので手を出していなかった。
だが、その魔導師協会を束ねているうちに、フィフィリアンヌの鋭敏な頭脳はますます切磋琢磨されたようだ。
敵に回して楽しみたいが、共和国が敗色濃厚となったこの状況ではそんな暇はないし、今は彼の相手が優先だ。
彼の元に送り込んだ手駒、リチャードが死んだという知らせはないので、今のところは順調に進んでいるらしい。
元々、リチャードという男は外見を取り繕うのが上手い。そう滅多なことでは、ボロを出す心配もないだろう。
それに、リチャードに情報を与えた際に、仕掛けをしておいた。リチャードも気付かないほどの、些細な呪いだ。
その呪いに彼が気付けば、こちらの策略は崩されてしまうが、気付かれさえしなければ順調に進むはずだ。
楽しくて楽しくて、グレイスはにやにやしてしまった。彼が絶望に堕ちる様を想像しただけで、ぞくぞくする。
ロザリアはにやける夫を横目に、フィフィリアンヌらしい神経質で丁寧な文字で書かれた手紙を、読み直した。
簡潔に、用件だけを示してあった。アルゼンタムを元に戻すために手を貸せ。要約すると、たったそれだけだ。
報酬を書いてあるわけでもなく、利益をちらつかせるでもない。ロザリアは、珍しく、ちくりとした嫉妬を覚えた。
フィフィリアンヌはグレイスのお気に入りであることは知っているが、ここまで来ると、寵愛の域に入っている。
明らかに、他とは扱いが違う。ヴァトラス一族にはべったりしているが、こちらには敢えて距離を開けている。
過剰に触れてしまわないように、気を遣っているのだ。ロザリアはそれが不愉快で、夫の首を腕で絞め付けた。

「何よもう」

うぇ、とグレイスは息を詰まらせ、妻の腕を押し退けた。むくれた彼女の横顔に、灰色の瞳を向ける。

「何すんだよ、いきなり」

「だって、気に入らないんだもの」

ロザリアが拗ねると、グレイスは彼女の手から手紙を引き抜いた。

「フィフィリアンヌが?」

ロザリアは、小さく頷いた。色白な頬はすぐに赤く染まっていき、気恥ずかしげになり、夫の肩に顔を埋めた。
グレイスはフィフィリアンヌの素っ気ない手紙を見ていたが、首に回された妻の腕に手を添え、彼女に頬を寄せる。
指通りの良い黒髪に手を滑らせていると、ロザリアはやっと聞こえるほどの声で、かなり言いづらそうに言った。

「大事に、してるみたいだから」

「そりゃ大事さ。フィフィリアンヌは永遠の美少女だし、つんけんしたところが可愛いし、遊び甲斐のある女だ」

グレイスは妻の顔を上げさせると、ほっそりとした顎に手を滑らせる。

「けどな、愛してるのはお前だ」

ロザリアの顔には、嫉妬と思しき表情が見えていた。面白くなさそうな目をして、すぐ傍の夫を見据えている。
細い眉を吊り上げているロザリアに、グレイスは嬉しくなった。嫉妬されるというのも、なかなか悪くないものだ。
彼女は、恋愛に関しては淡白な女だ。元々の性格がきっぱりしているので、愛情表現もかなりあっさりしている。
どれだけギルディオスに執着しようとも、レオナルドに興味を示そうとも、一切嫉妬などしなかったというのに。
どうやら、女が相手なら、さすがのロザリアも妬くようだ。グレイスは、いいことを知った、とまたにやにやした。
むくれている夫人と上機嫌ににやける主を見ていたレベッカは、安らかに眠っているヴィクトリアに向き直った。
小さなベッドの上で柔らかな手を握り締め、胸を上下させている。成長するに連れて、少しずつ両親に似てきた。
瞳の色はグレイスで、目鼻立ちはロザリアだ。大きくなれば、美しい母に良く似た少女になるのが予想出来た。
レベッカはグレイスから伝わってくる至福の感覚を味わいながら、目を細めた。今回は、出番はなさそうだ。
自分が手を下さずとも人は勝手に死んでいくし、主が戦いを引き起こすよりも先に、彼が戦争を起こさせた。
それに、今の仕事は人を殺すことではない。主の血を引き継いだ幼子を守り、育てていくのが役目なのだ。
それもまた、傀儡の役目だ。形はどうあれ、グレイスの道具として長らえられていれば、それでいいのだから。
レベッカは、ちらりと後方を窺った。グレイスはロザリアを引き寄せて深く口付け、心地良さそうにしている。
邪魔をしてはいけない、と思い、レベッカは微笑んだまま外へ向いた。灰色の城から見える旧王都は、静かだ。
遠い昔にも、この都が戦乱に飲まれた時がある。だが、黒竜戦争の時は、アンジェリーナが守りにやってきた。
竜王軍の将軍であるガルムを押し止め、必死になって夫の墓を守り抜いた。だから、この都も無事だった。
だが今は、アンジェリーナも、その願いを聞き入れる黒竜の将軍もいない。旧王都は、破壊されることだろう。
レベッカは、寂しくなった。長い間見てきた景色が失われてしまうと思うと、ぽっかりと空虚な気持ちになる。
だが、どうすることも出来ないことだ。形ある物は破壊される。無機物は土へと還る。有機物も土と同化する。
ただ、それだけのことだ。兵士の死体に埋め尽くされた大地も、いつしか平らとなってしまうのと、同じなのだ。
レベッカは、人工外皮に覆われた手で幼子の頬に触れた。体を成している液体魔導鉱石が、少しだけ疼いた。
近頃、この感覚が起きる。石で出来ているレベッカにとっての眷属も同然である土に、異変が起きているのだ。
どこであるかは解らないが、土が兵士達を殺しているようだった。それも、かなり強烈な魔法に使われて。
レベッカは、あまり面白くはなかったが、何も感じていないことにした。傀儡は、傀儡であり続けるべきだ。
それ以上でも、それ以下でもないのだから。




戦場は、夕暮れに染められていた。
広大な地面に、無数の手や足、死体が埋まっている。足元の土は、踏み締めてみると不自然なほど硬かった。
魔法の気配が、感じられた。つい先日見た時は、多少なりとも起伏があったはずなのに、平らに均してある。
まるで、器に流した水を凍らせたかのようだ。死体の周囲には、やはり妙な形で埋まっている岩があった。
ギルディオスは、その岩に触れた。岩にほんの少し残留している魔力はまだ新しく、覚えのあるものだった。

「リチャードの魔法か」

ギルディオスは岩に触れたまま、岩場を見上げた。ごつごつと荒い岩が積み重なって、周囲を取り囲んでいる。
線路沿いに、旧王都に向けて歩いてきた。その途中で見つけた異様な光景は、もう両手では足りない数だった。
数日前に通りかかった時に、両軍が進行してくる気配があったので引き返したのだが、まさかこうなっていたとは。
しかも、リチャードの魔法によって。ギルディオスは岩から手を離して数歩後退すると、強烈な西日の中に立った。

「あの野郎…」

やはり、フィフィリアンヌの推察通りだ。間違いなく、彼がいる。でなければ、リチャードが戦場に出るはずがない。
ギルディオスの唸りに、腰のホルスターの中から声がした。西日に表面をぎらつかせた、緑色の魔導鉱石が話す。

「うけけけけけけっ。コイツァナァーンダァーヨォー、超趣味の悪ィ景色ダッゼェーイィ」

「あ、起きたのか」

ギルディオスは、ホルスターを見下ろした。魔導拳銃の代わりに、アルゼンタムの魔導鉱石がねじ込まれている。
アルゼンタムは、アーウーオー、と力は抜けているが甲高い声を漏らしていた。ここ最近、彼は寝てばかりだ。
機械仕掛けの体がないから魔力を摂取出来ないので、魂を魔導鉱石に繋ぎ止めている魔力は、減る一方だ。
なので、近頃のアルゼンタムは、休眠ばかりしていた。首都を出た当初は、うるさいぐらいに話していたのだが。
明らかに、彼は弱り始めている。ギルディオスは一刻も早く、アルゼンタムをラミアンに戻してやりたかった。
だが、そのためにはフィフィリアンヌに来てもらわなければならない。時期を見て、彼女が迎えに来る約束なのだ。
ギルディオスは、次第に陰り始めてきた空を見上げた。東から藍色へと変わりつつある空には、星が瞬いている。
フィフィリアンヌの推察の通りなら、ジョセフィーヌを早く救わなくてはならないのに、あまり前に進めていない。
その間にも戦争は拡大して、旧王都に戦火が迫っている。その前に事を終わらせなければ、皆、死んでしまう。
くそ、とギルディオスは呻いた。アルゼンタムは彼の腰から、項垂れて悔しげに肩を怒らせる甲冑を見上げていた。
ここに至るまでの道中、起きている間はずっとギルディオスと言葉を交わした。その時間は、とても楽しかった。
会話の合間合間にギルディオスは、お前を助けてやる、と何度となく言ってきてくれて、それがまた嬉しかった。
だが、この数日、意識は徐々に薄らいでいる。言葉を発するのにも少々苦労するし、意識を保つことが難しい。
気を抜くと、魔導鉱石の中に溶けていきそうな感覚すらあった。そのうち死ぬのだ、と朧気ながら感じていた。
むしろ、そのまま死んでしまうべきだとも思っていた。冷静になると、己が犯した罪の大きさを痛感した。
あれだけの人間を殺し、血を啜り、喰い散らかした。狂気に駆られた最中は忘れていた、罪悪感を思い出した。
そして、こうして戦場を目の当たりにすると、一層罪の重さを感じた。自分はこれに近いことをしたのだ、と。
だから、死すべきだ。罪を償うには、それしかない。だが、自分の過去を知りたい欲求は、まだ残っていた。
死を選ぶ道と、過去を望む道。その狭間で薄らいだ意識を揺らしていたアルゼンタムは、不意に、気配を感じた。
あ、とギルディオスが顔を上げた。アルゼンタムはその視線を辿るより先に、巨大な影と、畏怖に圧倒された。
途端に、ある言葉がアルゼンタムの意識を駆け巡った。


 間違ってはおらんかもしれない。だが、正しいわけではない。

聞き覚えのない声が、聞き覚えのない言葉を連ねる。

 許しはしない。だが、殺しもしない。

どこの誰の声なのか思い当たらなかったが、鮮やかに蘇ってきた。

 死は逃避に過ぎない。

言葉は続く。ぼやけた意識の底から、声だけが現れてくる。

 だから、私は、貴様を。


その声が、途切れた。アルゼンタムは魂を逆撫でする畏怖に意識を引き戻され、間近に迫った影に気付いた。
巨体の竜が、空を覆い隠していた。戦場は一足先に闇に包まれ、強烈な風が甲冑のマントを揺さぶっていた。
ニワトリのトサカに似た赤い頭飾りがばさばさと兜を叩き、上向けているヘルムが陰り、輝きが失せている。
アルゼンタムは、その影を見ていた。西日による淡い輪郭を持った竜の影は、空気を抜くように萎み始めた。
あっという間に影が失せ、二人の頭上に西日が戻ってきた。藍色になってきた空の中央に、小さな影が現れる。
少女だった。真っ直ぐな長い髪が風になぶられ、薄い背から生えた竜の翼が広げられ、その目が開かれた。
吊り上がった赤い瞳が、二人を射抜いた。ギルディオスは片手を挙げると、よう、と宙に浮いた少女に言った。

「待ってたぜ、フィル!」

「これでも急いでいたのだぞ。遅い、などと文句は抜かすな」

裸身の少女は翼を折り畳み、下りてきた。つま先が地面に触れると同時に、その背後に何かが落ちてきた。
ごろり、と中身の入ったフラスコが地面に転がり、その拍子に球体の中でスライムが揺れて、つるりと滑った。
彼女は長い髪を背に投げてから、フラスコを取った。暗がりの中でも、その小柄な体の肉の薄さはよく解る。
フィフィリアンヌは甲冑の元へ歩み寄ると、彼の背後の光景に表情を険しくした。平たい胸の前で、腕を組む。

「…ひどいな」

「ああ。遠慮ってものがまるでねぇ」

ギルディオスの声には、怒りが含まれていた。フィフィリアンヌの手元で、ごぼごぼと伯爵は泡立つ。

「して、ニワトリ頭よ。こちらの手筈は順調であるからして、次は貴君が動く番なのであるぞ」

「うっかり擬態に変化してしまったが、変化しない方が楽だったな。すぐに旧王都に戻るのだから」

手間だな、とフィフィリアンヌは面倒そうに眉を曲げる。ギルディオスはホルスターの中から、魔導鉱石を出す。

「フィル。疲れてるところに悪いが、ちょいとアルゼンタムに魔力注いでやってくれねぇか?」

「なぜだ」

訝しげに眉を吊り上げたフィフィリアンヌに、ギルディオスは彼女の目の前に緑色の魔導鉱石を突き出した。

「こいつ、長いこと血ぃ啜ってねぇだろ? だから、そろそろ魔力がやばいんだ」

「魂の癒着維持の限界が近い、というわけか」

「ああ、そうだ。だから、アルゼンタムが元に戻るまでの繋ぎで良いんだが、少し注いでやってくれねぇか」

ガントレットに握られた緑色の魔導鉱石は、弱々しく光を放っていた。フィフィリアンヌは、その石に触れた。
冷たい表面から伝わる魂の気配は、脆弱だった。強い刺激を与えれば、呆気なく吹き飛んでしまいそうだった。
ギルディオスの言う通り、状態はかなり悪い。だが、この時点で彼に力を注げば、元に戻る妨げになってしまう。
そう思い、フィフィリアンヌは手を引いた。ギルディオスは白い手が遠のいたのを見て、少し残念そうにした。

「やっぱ、ダメなのか」

「ああ。これに施された魔法は少々厄介でな、妙な手出しをするとどうなるか解ったものではないのだ」

それに、とフィフィリアンヌは石の冷たさが残る指先を、握り締めた。

「この者には、少し思うところがあるのでな。下手なことをしたくないのだ」

フィフィリアンヌは、無言のアルゼンタムを見据えていた。そしてアルゼンタムもまた、竜の少女を見据えていた。
覚えはない。だが、知っている。だが、どこで。様々な思いが意識を交錯するが、言葉としてまとまらなかった。
美しく整った顔立ちの、幼い少女。ほとんど表情の変わらないはずの顔が、苦しげだ。ああ、これは、きっと。
そこまで思考を巡らせた途端、アルゼンタムの意識は没した。泥のように重い眠りに、一気に引き摺り込まれる。
浮上させようとしても力は起きず、魂は闇に沈む。夜の帳が下りた空も、竜の少女も、甲冑も、ぼやけていく。
夢を見た。取り留めのない記憶ばかりが過ぎる、夢と言うには他愛もなく、追憶と言うには弱々しいものだった。
その中で、何度となく言葉が蘇る。そのうち、その言葉の主が誰であるか、誰の声なのか、ようやく解ってきた。
だがその名を明確に思い出す前に、その者に対する感情を起こすより先に、眠りは更に深くなり、深淵に没した。
暗く冷たい闇の底に、堕ちていった。




広がり続ける戦火は、次第に、彼らの日常を侵していく。
決して、逃れることは出来ない。今はただ、消えゆく平和を味わうのみ。
滅びへと向かいつつある国の片隅で、戦場に蠢く彼の計略を阻むために。

策謀が、始まるのである。







06 3/1