ドラゴンは眠らない




罪と罰



ブラッドは、複雑な心境だった。


向かい側に座る銀色の骸骨は、優雅な仕草で銀色の大きな手を動かし、ほう、と感嘆の息を漏らしていた。
細かな動作も声の調子も喋り方も、何もかもが父親であるラミアンそのものだったが、姿形が違いすぎている。
昨日、散々殴り付けた仮面は綺麗に磨かれ、ブラッドとの戦闘というよりもケンカで汚れたマントも清めてある。
やはり、未だに信じられなかった。狂気の機械人形、アルゼンタムが、ブラッドの父親、ラミアンであるとは。
グレイス・ルーの住まいである灰色の城の居間は、フィフィリアンヌの城など、足元に及ばぬほど豪奢だった。
趣味が悪くない程度に、だが見るからに値が張る美しい調度品が置かれていて、ブラッドは気後れしていた。
ちらりと左右を窺うと、フィリオラとレオナルドはあまり表情を変えることもなく、至って平然とした態度だった。
ああ、そうだった。考えてみたら、この二人も金持ちだった。だから場慣れしてるんだ、とブラッドは思った。
右脇のソファーに並んで座っている作業着姿の二人、ダニエルとフローレンスも、これといって動じてはいない。
フローレンスは煌びやかな調度品に物珍しげにしているが、それくらいで、ブラッドのように縮まっていなかった。
やりづれぇ、とブラッドは項垂れた。アルゼンタムが元が戻ったぐらいで、なぜ、皆が灰色の城に集まるのだろう。
左脇のソファーには、フィフィリアンヌとギルディオスと伯爵が座っており、正面にはグレイスとその妻子がいる。
ラミアンは、グレイスの隣に座っていた。銀色の骸骨の背後には、巨体の機械人形、ヴェイパーが立っている。
ブラッドが渋い顔をしているのを横目に、フィリオラはギルディオスに目を向けた。甲冑は首を縮め、手を挙げる。

「…よぉ」

「小父様。戻ってこられるなら戻ってこられるって、報せて下されば良かったのに」

フィリオラが訝しげにすると、ギルディオスはがりがりとヘルムを掻いた。

「そうしてぇのは山々だったんだが、そういうわけにはいかなかったのさ。まぁ、見ての通りの事情でよ」

「また、面倒なことになりそうな気がしますよ」

レオナルドは、苛立ちを隠さずに言い放った。いつにも増して険しい顔付きの彼に、フィリオラは眉を下げる。

「レオさん…」

レオナルドは、ギルディオスから目を逸らした。未だに、首都でのギルディオスの所業を許せてはいなかった。
許すべきだとは思うが、けじめが付けられない。ギルディオスとの距離を詰めたら、掴み掛かってしまいそうだ。
なぜ、また顔を出せるのか、理解出来ない。しかも今度は、旧王都市民を切り刻んだ機械人形と一緒なのだ。
その中身がブラッドの父親だ、と説明されてもすぐには飲み込めないし、現実味がなく突拍子もない話だった。
だから、尚のこと苛立っていた。レオナルドは紙巻き煙草を取り出すと噛み締め、先端を睨んで火を灯した。
廊下に繋がる扉が、軽く叩かれた。グレイスが返事をすると、開かれ、二人のメイドが紅茶を運んできた。
レベッカとキャロルは彼らの元にやってくると、一礼してから、それぞれの前に紅茶の入ったカップを並べた。
キャロルは銀色の骸骨にちょっと臆していたが、軽く頭を下げてから、ラミアンの前にも紅茶を差し出した。
ラミアンは胸の前に手を置き、深く頭を下げた。下がろうとしたキャロルの手を取ると、口元の前に持ってきた。

「ひゃっ」

いきなりのことに驚いたキャロルが小さく声を上げると、ラミアンはその手を放した。

「ああ、申し訳ございません。あなたの愛らしさで、この体でいたことをほんの一時ですが忘れてしまいました」

ラミアンは体を前に傾げ、下からキャロルを見上げる。

「どうぞ、無礼をお許し下さい」

「え、あ、いえ…。別に、気にしていませんから」

やりづらそうに、キャロルは曖昧に笑った。では失礼、とラミアンは立ち上がると、フローレンスの元に向かった。
そして、彼女の前に膝を付いた。フローレンスがぎょっとして身を引くと、ラミアンは騎士のように頭を下げる。

「この機械人形めに刃のない手を与えて下さったことを、心より感謝いたします」

「あ、まぁ…。仕事、だし」

フローレンスは気恥ずかしくなりながら、かしずいている銀色の骸骨を見下ろす。彼は、彼女の手を取る。

「心ばかりの礼を尽くさせて頂きます」

フローレンスが戸惑っていると、ラミアンはその手の甲に口付ける恰好をした。ダニエルは、思い切り動転した。

「なっ」

「ご安心を、ダニエルどの。私は妻がいる身ですので、口付けてはございません」

恰好だけですよ、と少し笑んだようなラミアンに、ダニエルは顔を歪め、立ち上がりかけたが座り直した。

「だが、だが、な…」

「妬いたぁ?」

フローレンスがにんまりしてダニエルとの間を詰めると、誰が、とダニエルは明らかに妬いた様子で顔を背けた。

「なんか、よく、わからない」

ヴェイパーはラミアンを見下ろし、首をかしげた。彼の行っている行動が、全く持って理解出来ないからだ。
女性達に挨拶をするのは礼儀として理解出来るが、理由が掴めないし、何の利点もないので無駄としか思えない。
ヴェイパーはしばらく考えてみたが、思考を止めた。あまり考え込んでしまうと、魔導鉱石が過熱してしまう。
ラミアンはレベッカにも同じことをしたが、ロザリアには礼をしただけだった。彼女は、銃を握っていたからだ。
下手に手を触れたりすれば、魔導鉱石を撃ち抜かれかねない。ロザリアならば、間違いなくそうするだろう。
せっかく元に戻ったのに、殺されてはたまらない。ラミアンがフィリオラに向くと、竜の少女は目を丸くしている。
この人なんなんだろう、と言いたげな顔をしているフィリオラの前にかしずいたラミアンは、彼女を見上げた。

「お久し振りにございます。歌劇場での戦いで、あなた様の翼を切り裂いたことをお許し下さい」

「あ、はぁ」

フィリオラが釣られて頭を下げると、レオナルドがすぐさま声を荒げた。

「許すなそんなもん!」

「私の愚息が、本当にお世話になっております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」

ラミアンが片手でブラッドを示すと、フィリオラは訳も解らず頷いた。

「はぁ」

「それでは、その白き手に心ばかりの感謝を」

と、ラミアンがフィリオラの手を取ろうとした時、レオナルドは慌ててフィリオラの手を取り上げた。

「するな! というか、なんなんだ、あんたは!」

「吸血鬼たるもの、血を頂く対象である女性には、最大の敬意と礼儀を払わねば失礼に当たります。これは、単なる挨拶のようなものです」

「それにしては過剰だ!」

レオナルドが腹立たしげにすると、それは失礼しました、とラミアンは頭を下げる。フィリオラは、二人を見比べた。
ラミアンはもう一度フィリオラに頭を下げてから、フィフィリアンヌの元に向かった。身のこなしは、優雅だった。
レオナルドを見上げると、フィリオラの手首を握り締めて息を荒げていた。相当に、腹立たしかったらしい。
口の中で、あの野郎、とぼやいている。フィリオラは掴まれた手首が痛かったが、彼の横顔をじっと見つめた。
不愉快げなレオナルドの表情に、レオさんも妬くんだ、と思ったフィリオラは、なんとなく嬉しくなってきた。
ふにゃりと表情を緩めたフィリオラとむかむかしているレオナルドから目を外し、ブラッドは小さくため息を吐いた。
ラミアンに目をやると、フィフィリアンヌにもかしずいている。フィフィリアンヌの表情は、かなり険しかった。
眉根が歪められ、口元が引き締めてある。腹の内に怒りを押さえ込んでいるかのような、そんな顔をしている。
だがブラッドは、その表情よりも、ラミアンに気が向いていた。思い出してみれば、父はそういう吸血鬼だった。
中世の貴族か騎士のような言動を、常にしていた。礼儀正しくて丁寧なのだが、何はなくとも気障ったらしい。
息子から見てもそうなのだから、傍目からだと凄いのだろう。レオナルドとダニエルは、かなり苛立っている。
二人ともそういったことに慣れていないせいもあるのだろうが、男からしてみれば、気に食わない類の男なのだ。
ブラッドが父親との距離を開けた、理由の一つでもあった。それまで思い出したブラッドは、げんなりしてきた。
父にまた会えて嬉しいのは確かだし、喜ぶべきだとは思うのだが、事情と状況のせいで素直には喜べなかった。
面と向かって接すると、気恥ずかしく、やりづらかった。あれほど会いたかったのに、いざ会うと困ってしまう。
ブラッドははっきりしない自分に、苛立ってしまった。俯いて口元を曲げた息子を見、ラミアンは少し笑った。
また会えたことを、素直に喜びたいのに喜べないのだろう。やはり息子は、幼い頃からちっとも変わっていない。
ラミアンは、フィフィリアンヌに目を向けた。かつての上司はいつもの無表情ではなく、怒りを露わにしている。
何を今更、とでも言いたそうだった。ラミアンはフィフィリアンヌから視線を外すと、グレイスの隣に戻った。
銀色のマントを整えてから、ソファーに腰掛けた。一同をぐるりと見渡してから、一度深呼吸し、言葉を発した。

「それでは、皆様。しばしの間、長話にお付き合い下さい」

ラミアンはブラッドを見つめ、内心で目元を和らげた。息子の表情には、妻の、ジョセフィーヌの面影がある。

「私、ラミアン・ブラドールの償いきれない罪と、ジョセフィーヌ・ノーブルを娶るまでの経緯と」

落ち着いた口調で、機械人形は語り始めた。

「そして、キース・ドラグーンを殺した理由を、お話しいたしましょう」




三十年前。ラミアンは、魔導師協会にいた。
長年培ってきた魔法の研究と腕を活用するために参入したが、そのうち、地位を上げることが目当てになった。
成果を上げれば上げたほど評価され、待遇も良くなることがやけに面白くて、とにかく手柄を立て続けていた。
共和国の片隅にある田舎町、ゼレイブにいた頃は権力になど興味はなかったが、手にするのは楽しかった。
上に行けば行くほどその楽しさが増していったので、調子に乗っているうちに、ある程度の地位に付いた。
更に上を目指そうかと思っていた矢先に、魔導師協会会長から直々に声を掛けられた。側近にならないか、と。
断る理由もなかったので、ラミアンは会長、ステファン・ヴォルグの側近となった。その際に、彼女の正体を知った。
魔導師協会の会長室に通された時の、驚きはまだ覚えている。厚い壁で作られた奥の部屋に、少女がいた。
絨毯の敷き詰められた床の先にある、大人が寝ころべそうなほどの幅の、書類の積まれた机に座っていた。
書類の束の手前、山と積まれた分厚い魔導書の上にはなぜかワイングラスがあり、赤紫が充ち満ちていた。
カーテンの引かれた薄暗い室内では、彼女の白い肌が際立ち、赤い瞳には知性を感じさせる光が宿っていた。
ラミアンは、黒いマントを羽織っている少女を見下ろした。十二歳程度の、幼い子供にしか見えなかった。
その頭にはすらりとしたツノが二本生えていて、耳も長く尖っており、マントの下からはドラゴンの翼が出ていた。
出来の良い人形を思わせる、整った顔立ち。すっと通った鼻筋と小さく薄い唇に切れ長の目、長い睫毛に細い顎。
薄暗いことも相まって、一層その美しさは引き立っていた。ラミアンは思わず、彼女に見入ってしまっていた。
これが、魔導師協会の会長なのかと思うと、意外だった。魔導師協会を統べるのは、並大抵のことではない。
昨今の魔導師達は、過去の者達とは違い、それぞれに野心を持って魔法を手にし、のし上がってきた者は多い。
ラミアンのように出世を楽しむためだけに地位を高めることなど滅多になく、ほとんどは政治に手を出していた。
中には、政治家の汚職や暗殺に手を出している魔導師達もいて、魔導師協会も軍と同様に腐敗が始まっていた。
だが、ここ最近は腐敗が止まっていた。魔導師達に、良くない仕事を斡旋していた役員達が解任されたからだ。
もちろん、その役員達は抵抗したし反発もしたのだが、ステファン・ヴォルグの手腕によって外堀を埋められた。
後は辞任しか生きる道はない、と言わしめるまで追い詰められた役員達は、押し出される形で辞めていった。
古株の役員達が辞めた後には、若いながらも優れた実力を持った魔導師達が就任し、体制が変わりつつあった。
ここ四十年は変わっていなかった体制を、ステファン・ヴォルグはものの数年で行い、変革を執り行っている。
中には、式典にも会議にも姿を見せないステファン・ヴォルグを疑う者もいたが、信頼している者は多かった。
ラミアンも、そんな中の一人だった。影から魔導師協会を操る存在に疑念は持っていたが、実力に敬服していた。
だからこそ、こんな少女に魔導師協会を掌握されていたかと思うと、かなり意外であり、また不思議でもあった。
魔導師協会会長の前任者は、魔法によって寿命を長らえていた人間だったが、彼女は一見して竜族だと解る。
なぜ、竜族が。吸血鬼である自分が言えた義理ではないが、人外が人を統べるのは、異様なことのように思えた。
ラミアンが美しい竜の少女に見惚れていると、彼女は吊り上がった目を細め、たおやかな仕草で頬杖を付いた。

「ほう、驚いたようだな。私の外見と、この地位に」

「…はい」

失礼かと思ったが、ラミアンは頷いた。彼女は大きな椅子から下りると、ラミアンの前にやってきた。

「まぁ、それは当然の反応だ。私とて、この地位に据えられた時は困惑した。悪事が行いづらくなるな、とな」

「悪事、ですか?」

ラミアンが戸惑うと、彼女はラミアンを見上げてきた。

「そうだ。私は長いこと魔法薬学者なる仕事をしていてな、研究している事柄のせいで様々な方面から毒やら薬やらの注文を受けては、ここぞとばかりに値段を吊り上げて報酬をもらっていたものだ。その合間合間に、竜族の間の諍いやら人と竜の争いなどに手を出しては煽ったり宥めたり、と色々なことをしたものだ。私の経歴は決して綺麗ではないし、少し洗えば腐るほど膿が出てくる。それに、私は半竜半人だ。純血の竜に比べれば、人の世界に対する許容は広いかもしれないが、純血に比べれば力は大したことはない。だから、前任の会長であるアルフォンス・エルブルスにこの話を持ち掛けられた時は、何度も辞退すると言ったのだが、どうしても奴が譲らなくてな。汚れ仕事には汚れた者が相応しい、という意味のことをやたらに取り繕った言葉で言われたし、ある程度の金も積まれたから、仕方なくこの地位に収まったようなものだ」

彼女は、薄い唇の端をほんの少し上向けた。

「だが、考えようによっては、政治に関わる魔導師共を叩き落として政治家共の地位を引き摺り下ろすのも真っ当な悪事だ。策略を巡らせることには変わらぬし、甘言で人をたぶらかすのも、心を揺さぶることも同じだ。ただ、やり方が少々違うだけだ。それに、金も割と綺麗なものが手に入るし、仕事としてもなかなか面白い。まぁ、要は、多大なる暇潰しに過ぎんのだ」

ラミアンは、言葉を返せなかった。役員達の間で囁かれていた会長の悪い噂は、端々ながら真実だったのだ。
腐った役員達を追放するまでの手法が、時折やりすぎだと思えるほどえげつなかったので、こんな噂が立った。
会長は、悪事を楽しんでいる。人を貶めることを快感としている。グレイス・ルーのような価値観の者だ、と。
ラミアンは最初、信じたくなかったし信じていなかったが、目の前でこんな言葉を吐かれては信じるしかない。
ステファン・ヴォルグという名の竜の少女は、人を追い込むことを楽しんでいる。明らかに、そして、相当に。
ラミアンは内心でかなり幻滅したが、顔には出さなかった。彼女はラミアンとの間を詰めると、細い腕を組んだ。

「さて。貴様は、私をどうしたい?」

「と、仰りますと」

ラミアンが返すと、彼女はにやりとした。

「簡単なことだ。私を嫌うか、蔑むか、それかもしくは、屠りたいか。さて、どれだろうな」

思い掛けない言葉に、ラミアンは目を見開いた。噂が真実だと知り、疑念が確信に変わり、嫌う感情が出た。
だが、憎むとまでは行かない。会長自身を知らないから憎むはずもないし、社会正義を行うほど正義感はない。
屠りたいなど、思うはずもない。それ以前に、吸血鬼が竜に手を出したところで、返り討ちにされるだけだ。
ラミアンは彼女を見下ろしながらしばらく悩んでいたが、己の中で答えをまとめると、慎重に口に出した。

「正直に言いますと、幻滅いたしました」

「ほう」

心なしか、彼女は面白そうにした。ラミアンは続ける。

「私は、今日この日まで、会長がこれほどまで美しい女性とは存じていませんでした。そして、会長の信念がここまで歪んでらっしゃることも知り得ていませんでした。だから、私は、多少なりとも会長に尊敬の念を抱いており、混沌とした魔導師協会を統べていらっしゃる実力に、感服していました。ですが、先程の会長のお言葉により、私はあなたに対しての考えを改めました」

「と、言うと?」

ラミアンは一呼吸してから、言った。

「会長に逆らえば命はない、と思った次第です」

「なかなかの答えだ。だが、そんな言葉を口に出来ると言うことは、貴様は多少なりとも逆らう気があるのだな」

ラミアンは多少間を置いてから、小さく頷いた。こんなに強烈な女には、従いきれないと思ったのだ。

「事と次第によりましては」

「気に入った。それぐらいの根性がなければ、側近などには選ばん。さすがは貴様の見立てだな、伯爵」

彼女は満足げにすると、ちらりと机に目をやった。すると、ワイングラスから返答があった。

「はっはっはっはっはっは。我が輩が思った通りの男であるぞ、ラミアン・ブラドール。貴君の業績や研究から察した貴君の性分は、我が輩の想像と寸分違わぬものであったのである。いやはや、いやはや、貴君のような男ならば、この女の側近としては申し分あるまい。何事に置いても、従順すぎる輩では面白みがないのであるからして、程良く跳ねっ返りである方が、見ていて面白いのである。増して、骨があるとなれば、尚のこと良いのである。我が輩も、骨のある男は好きであるからな」

「貴様自身に骨も髄もないからな」

彼女はワイングラスから目線を外し、ラミアンに戻した。

「よし。今日この瞬間から、貴様は私の側近だ」

「ですが、会長。私にはまだ仕事が余っておりますし、それを片付けてからの方が」

ラミアンが困惑すると、彼女は背を向けた。その動きに合わせて、裾の長い黒いマントがふわりと翻る。

「それぐらい部下にやらせろ。それとも何か、貴様の部下はそれほど無能な連中ばかりなのか?」

「い、いえ…」

言い負かされてしまい、ラミアンは曖昧に返した。彼女は机に戻る途中で足を止め、振り返った。

「それと、私の側近となるに当たって、一つ教えておくことがある」

「なんでしょうか」

「私の名は、ステファン・ヴォルグではない。あれは筆名のようなものであって、本名ではない」

「では、会長のお名前は」

ラミアンの問いに、机に戻った彼女は椅子に腰掛け、足を組んだ。幼いながらも良く通る声で、名乗った。

「フィフィリアンヌ・ドラグーンだ」

「但し、口外はせぬ方が良いのである。この女の珍妙な名は、裏の世界では割と知れているものであるからな」

ワイングラスの中で、スライムがごぼごぼと泡を吐き出していた。

「申し遅れた。我が輩の名はゲルシュタイン・スライマス、伯爵と呼ぶが良いぞ」

「心得ました」

ラミアンは胸の前に手を置いて膝を付き、騎士のような仕草で礼をした。彼女、フィフィリアンヌは変な顔をした。

「なんだそれは」

「吸血鬼たるもの、血を頂く相手である女性には礼儀を尽くすよう心掛けておりますゆえ」

ラミアンは、深々と頭を下げた。頭上から、そうか、と不可解そうなフィフィリアンヌの声が聞こえた。

「おかしな奴だ」

「はっはっはっはっはっはっは。ラミアンよ、間違ってもこの女を口説こうなどと思うな。並大抵の文句では心どころか眉も動かさぬ冷血オオトカゲである上に、多大なる金を積まれなければ気を許さぬのである。このような非道な女の血など、触れただけで毒なのであるから、飲まぬことを勧めておくのである」

ラミアンはその言い草に、可笑しくなってしまった。笑わないべきだ、とは思ったが、僅かに表情が崩れてしまった。
確かに竜の血は味も濃ければ魔力が高く、吸血鬼にとっては飲み過ぎれば毒だが、そこまでひどくないだろう。
ラミアンが必死に笑いを噛み殺していると、伯爵という名のスライムは更に高笑いした。かなり楽しげだった。

「はっはっはっはっはっは。笑いたければ笑うが良い、ラミアン! この女を嘲笑するのは楽しいのであるぞ!」

「なるほど、良い度胸だ」

フィフィリアンヌは、先程よりも楽しげに言った。その声色は笑っているようだったので、ラミアンは顔を上げた。
彼女は、笑みとまではいかないまでも、少しばかり口元が綻んでいた。どうやら、完全な鉄仮面ではないようだ。
悪くないかもしれない。これほど凄まじい女性に付き従うというのは、それはそれで楽しいような気がしてきた。
それに、女性に振り回されるのは面白い。吸血鬼という性分と外見のせいで、大抵の女性は自分に従うのだ。
人間の、それも、女性の血を好んで食する種族である吸血鬼は、男であろうとも女であろうとも外見が美しい。
人を捕食しやすくするために、人間からしてみれば相当な美形である者ばかりで、ラミアンもそんなものだった。
しなやかな銀髪を長く伸ばしていて、深みのある銀色の瞳を持っている、人からすれば整った容貌の男だった。
だから、こうして自分に直面しても動揺しない女性はあまりいないので、フィフィリアンヌの反応は新鮮だった。
彼女自身が人並み以上に美しい外見だからからかもしれないが、ここまで冷静でいられるといっそ面白かった。
フィフィリアンヌは逆らいがたい女性であるが、それ以上に、側近となればさぞや楽しい日々が始まるだろう。
ラミアンが地位を求めて上へ上へと昇っていたのは、地位を高める際の、様々な駆け引きを楽しむためだった。
田舎町で生きていた吸血鬼としての日常に比べれば、相当な緊張と興奮があり、いつしかやめられなくなった。
だが、フィフィリアンヌの傍はそれ以上だ。頭の硬い古株の役員達を翻弄するよりも、ずっと、面白そうだ。
ラミアンは膝を付いたまま、低い笑い声を響かせる伯爵と、それを淡々と罵倒するフィフィリアンヌを見ていた。
それだけで、やけに楽しくなっていた。


四年後。ラミアンは、フィフィリアンヌの側近として仕事に明け暮れていた。
仕事と言っても、普通の秘書のようなものだけではない。命じられれば、暗殺から諜報まで様々なことをやった。
政治家と癒着している魔導師の証拠を掴んだり、とんでもない悪事を行おうとした魔導師を殺したり、色々だった。
とても、楽しかった。魔導師としての実力を際限なく発揮出来ることもあるが、何より、危険が心地良かった。
三百年以上の月日を長らえてきたため、ただ淡々と生きるだけの日々がつまらなくて、敢えて命を危機に曝した。
軍も国家警察も政府の諜報機関も出し抜いて、美しい竜の少女の元に情報を運ぶのは、とてつもなく面白かった。
自分でも、そういう考えではいけない、と思うこともたまにあったが、目先の楽しさに負けて深く考えなかった。
フィフィリアンヌと伯爵にも、ラミアンの危うさを面白がっている節があり、飛び抜けて危険な仕事を与えたりもした。
逆を言えば、それだけ信頼されている、と言うことでもあった。それだけ、ラミアンは実績を上げていたのである。
政治の闇と人の暗部を擦り抜けて仕事をしていると、時折軍にも接することがあり、異能部隊の噂を聞いていた。
フィフィリアンヌの旧知の友人である鋼の戦士が、異能者達を人らしく生かすための場所として作った部隊だ、と。
そんなある日。フィフィリアンヌが、自分の弟だと言う竜族の青年を連れてきて、彼をギルディオスと引き合わせた。
ラミアンは会長の弟であるキース・ドラグーンと、ほんの一時だけ接した。彼を、会長室に案内するまでだった。
その間、キースは穏やかな笑みを浮かべていた。ラミアンはその表情に、自分と似た危うさがあると思っていた。
真っ当でないことを、すなわち、暗躍の危機感を楽しむ時の自分の顔と似ており、見ているとぞくりと悪寒がした。
その後、キースとは一度も対面しないまま、キースはギルディオスに連れられて異能部隊へと入隊していった。
ラミアンは、キースがやけに気掛かりだった。己に似た危うさもそうだったが、かなり良からぬものを感じていた。
何か、大それたことをしそうに思えて仕方なかった。フィフィリアンヌもそう思っているようで、不安げだった。
キースが異能部隊に入隊して一年ほどした、穏やかな初夏の日だった。会長室の窓も、珍しく開かれていた。
真っ青な空を四角く切り取った窓の前で、フィフィリアンヌは、首都の整然と揃った街並みを見下ろしていた。
鮮やかな日光で、幼さを残した横顔に光の輪郭が出来ていた。淡い色合いの花びらのような唇が、開かれる。

「ラミアン。仕事だ」

机の前に立っている長身の吸血鬼を、竜の少女は見上げた。

「キースを見張れ」

その命令に、ラミアンは内心で拍子抜けした。いつもであれば、危険分子や不安要素は排除しろ、と言うのに。
それは、時と場合によって暗殺しても構わない、という命令だった。だが、見張れ、となると大分軽減される。
手を出すな、殺すな、ということだ。だが、ラミアンにしてみれば、キースはすぐにでも殺すべきだと感じていた。
ただ一度会ったときに見たあの表情もそうだったが、フィフィリアンヌの様子がおかしく、かなり気に掛けていた。
毒を盛られようが目の前で人が殺されようが平然としている彼女が、それほどまでに不安定なのは珍しかった。
だから自然と、キースが恐ろしく危険な存在であるというのが感じられており、早々に殺すべきだと思っていた。
それに、こんな判断はあまりにもフィフィリアンヌらしくない。彼女は、冷酷な部分は極めて冷酷な女なのだ。
身内だから、なのかもしれないが、それにしては甘すぎる。ラミアンが訝っていると、フィフィリアンヌは言った。

「殺すべきだと思うか」

「はい」

ラミアンが頷くと、フィフィリアンヌは窓に向き、街並みを囲んでいる海岸線へ目線を投げた。

「だろうな」

「でしたら、なぜ」

「私も、私が不思議でならない。だが、思ってしまったのだ」

フィフィリアンヌの平坦な口調が、少し、揺れた。

「今からでも間に合うかもしれない。生かしておけば、あの子を愛せるかもしれない、とな」

フィフィリアンヌは、深緑の髪を掻き上げた。きつく吊り上がった赤い目には、後悔の色が滲んでいた。
ラミアンは、キースが産まれる経緯や彼が異能部隊に来るまでの所業を、彼女の口からある程度は聞いていた。
望まれずに生まれた子、愛されずに生きてきた竜、治めていた都と共に同族を皆殺しにした、種違いの弟。
傍目から見ても、とてもじゃないが愛せない男だ。実の母の命を盾にして、人の世界に下りてきたとも聞いた。
そんな輩を、愛そうというのか。ラミアンはフィフィリアンヌの葛藤と苦しみを察し、さすがに心苦しくなった。
首都の南西側にある島は、灰色の塀に囲まれている。そこは、異能部隊の基地で、まるで箱庭のようだった。
箱庭の中にいる、孤独で残酷な竜の青年。ラミアンは彼の危うい表情を思い出すと、とても愛せないと思った。
どんな形であれ、彼に触れてしまえば、その危うさが表面に表れそうな気がしたからだ。







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