フィフィリアンヌに命令を下されたその夜、ラミアンは異能部隊基地に潜入していた。 音もなく空を飛び、気配を殺し、灰色の塀の内側に着地した。首都に繋がる正面の門とは、逆方向の場所だった。 すぐ近くから、潮騒が聞こえている。いくつも並んだ倉庫の周辺には、見張りの兵士が眠たそうに立っていた。 一際背の高い建物である営舎の裏へと回ると、壁に背を貼り付けた。周囲を窺いながら、感覚を研ぎ澄まさせる。 フィフィリアンヌからキースの部屋の情報などは得ていたが、それだけでは心許ないので、己の感覚に頼った。 深い藍色の夜空には、月は出ていない。兵士達の持っている鉱石ランプの明かりが、辺りを淡く照らしている。 冷たい壁に寄り掛かり、息を殺した。ここにいる人々は異能者だ、魔導師相手よりも気を付けなければならない。 魔導師などよりも余程感覚が鋭敏だし、精神感応の力に捉えられてしまっては、それこそ仕事に失敗する。 キースの居所はこの営舎ではなく、別の建物だ。そう感じ取ったラミアンが闇へ飛び出そうとした、その瞬間。 「まってたよ」 不意に、幼い声がした。ラミアンが反射的に止まって身を翻すと、鉄格子の填った窓から子供が顔を見せていた。 あまり開かない窓を限界まで開けていて、細い隙間からラミアンを見下ろし、にこにこと楽しげに笑っていた。 子供のいる窓は、ラミアンの頭上よりも高い位置にあった。よく見ると、子供は痩せ細っていて、頬が薄い。 部屋の中の鉱石ランプが眩しく、逆光によって子供の表情は良く見えなかった。ラミアンは、じっと目を凝らす。 最初は男か女か解らなかったが、目は丸っこく愛嬌があり、睫毛がやや長めなので、恐らく女の子なのだろう。 子供は怪訝そうに立っているラミアンを見下ろしながら、くいっと首をかしげた。栗色の髪が、さらりと揺れる。 「ドラゴンのお兄ちゃん、みはりにきたんだよね」 ラミアンが無言でいると、子供は笑った。 「それでね、ジョーはおよめさんになるの。あなたのおよめさんに」 「…は?」 ラミアンが呆気に取られると、子供は照れくさそうにしている。 「そうなんだよ。でもね、ここからさきはわからないの。ジョーは、なんじゅうねんもさきのことはみえないから」 「…予知能力者か」 ラミアンが小さく呟くと、うん、と子供は頷いた。 「そうだよ。ジョーはね、いろんなことがみえるの。だから、あなたがくるのはしっていたの」 「ならば、全て忘れた方がよろしいです、お嬢様。私は卑しき闇の住人であり、日の当たる世界に生きられません」 ラミアンは胸の前に手を当てて、深々と礼をした。女性だと解ると、礼をせずにはいられない性分だった。 「私めは人ではございません。闇に生き、血を啜り、命を喰らう吸血鬼。あなたのような可愛らしい方が妻となるべき相手は、このような血生臭い魔物などではごさいません。どうぞ、今宵のことは夢と思いませ。私めのことなど、記憶に止めておくに値しません」 「だーめ」 子供は窓の隙間から手を出し、ラミアンを手招いた。 「ラミアンは、こっちにくるの。いっしょに、ジョーとあそぶの」 名を言い当てられ、ラミアンはぎょっとした。どうやら、ジョーの予知能力は、予想以上の範囲を知れるようだった。 ラミアンは周囲を窺っていたが、はやくはやく、とジョーは急かしている。このままでは、兵士に見つかってしまう。 仕方なく、ラミアンは地面を蹴って浮かび上がった。幼子のいる窓の脇に手を当て、口の中で素早く呪文を唱えた。 一瞬の後、ラミアンは壁の内側にいた。無機質な灰色の箱のような部屋の中には、ベッドと僅かな家具しかない。 簡素なベッドの上には、ジョーと名乗った子供がちょこんと座っていた。大人用の服を、無理に着せられていた。 だぼだぼの襟元からは骨と皮ばかりの首筋が見え、痛々しかった。あまり、ろくに食べていなかったのだろう。 ジョーは、部屋の中央に唐突に降ってきた真っ黒な男を見上げ、目を輝かせていた。うわぁ、と歓声を上げる。 「すごいね、ラミアン!」 「別に大したことではございません。簡単な空間転移魔法にございます」 ラミアンはジョーの前に膝を付くと、頭を下げた。ジョーはベッドを這って彼に近付いた。 「ね、ラミアン」 「なんでございましょうか」 ラミアンが顔を上げると、肩から滑らかな銀髪が滑り落ちた。幼女の澄んだ黒い瞳に、黒衣の男が映っている。 ジョーは、ただ嬉しそうだった。ラミアンの整った容貌を見ても反応を示さないのは、予知していたからだろう。 そのまましばらく、幼女と吸血鬼は見つめ合っていた。営舎の中に入っても聞こえてくる潮騒は、うるさかった。 邪心の欠片もない笑顔をじっと見ていると、ラミアンは、張り詰めていた神経を緩めてしまいそうになった。 慌てて元に戻したが、気が緩んだのは久々だった。日々の仕事が仕事であるだけに、気を張っていない時はない。 暗殺に手を染めていると、いつ何時どのような敵に襲われてしまうか解らないし、殺されてしまうかもしれない。 今だって、そうだ。ジョーが兵士を呼ばないとも限らないし、彼女に接したことで、キースに知られるかもしれない。 ラミアンは緊張感を高まらせながら、ジョーから顔を逸らした。あ、とジョーは残念そうにし、ぺたっと座った。 また目を向けたら、今度こそ気が緩む。そんなことではいけない。ラミアンが神経を尖らせていると、手が触れた。 本能的に、ラミアンは身を引いて構えた。見ると、伸ばしかけた手を引っ込めたジョーが、泣きそうになっている。 「ご、ごめんなさい」 「いえ…」 今にも泣き出してしまいそうな幼女に、ラミアンはひどく申し訳なくなった。ジョーは、ごしごしと目元を擦る。 「ラミアンに、いいこしようとおもっただけなんだよ、ほんとだよ」 「良い子?」 「うん。たいちょーさんがね、いっつもジョーにそうするの。たいちょーさんがしてくれるとね、うれしいの」 ジョーはすぐに笑顔を取り戻すと、床に下り、ラミアンに近寄った。 「だからね、ラミアンにもするの! ラミアンは、いいこだから!」 「それは間違っております。私めは人の血を啜る魔物、そして、人を殺める命を受ける闇の化身にございます」 ラミアンは口元を広げて、うっすらと笑った。鋭い牙を、見せ付ける。 「そんな者が、良いはずがございません」 「ううん、とってもいいこ。とってもえらい。だって、ラミアンは、ジョーのおへやにきてくれたもん」 ジョーは本当に嬉しそうな顔で、ラミアンを見上げた。 「たいちょーさんいがいのひとはね、ジョーにちかづかないの。ジョーのいうことがこわいんだって。なんでもかんでもみすかされて、きしょくわるいんだって。でもね、ラミアンはちがうの。ジョーがさきのことをいっても、きてくれたもん。だから、いいこ!」 「ですが…」 ラミアンが渋っていると、ジョーは背伸びをしてラミアンの袖を引っ張った。 「いいこはいいこなの! だから、いっしょにあそぼう、ラミアン!」 袖越しに、小さな手が腕を掴んだ。これもまた、久々に感じた他人の体温と感触に、ラミアンは再びぎょっとした。 びくりとした彼が動きを止めていると、ジョーはきょとんと目を丸くして、どうしたの、と首をかしげている。 なんでもありません、とラミアンは返したが、動揺は消えなかった。ただ、幼い子供に触られただけだというのに。 ジョーと遊んでも、動揺は消えなかった。気が緩んだこともそうだが、なぜ触れられただけでああなってしまう。 貴婦人達を魅了する時に浮かべる笑みを作り、ジョーと他愛もない遊びをしながら、ラミアンは必死に考えた。 だが、答えは出なかった。その間にも、些細なことで動揺したり戸惑ったり、そんなことばかり繰り返していた。 遊び疲れたジョーが寝入った頃、ようやくラミアンは彼女の部屋を抜け出し、キースを見張りに外へ出ていった。 空間転移魔法を使って営舎から離れた見張り台の屋上に現れ、着地すると、塀に囲まれた基地島を見渡した。 いつのまにか、夜が明け始めていた。東の空が白み始めていて、淡い光が闇を切り取ったような服を照らした。 冷え切った潮風が、体温の低い頬を撫でた。ラミアンは、穏やかで不可解な気持ちを、胸中に抱えていた。 感覚に感じられるキースの気配は、とても穏やかだ。今は眠っているのだろう、感情の波も気配も強くない。 だが、ラミアンの注意は、キースに向いていなかった。あの幼女、ジョーのことが頭から離れなくなっていた。 ラミアンはマントが広がらないように裾を足の下に入れ、見張り台の上に座ると、幼女のいる営舎に向いた。 別れ際、というより、ジョーが眠る前に言った言葉が忘れられない。またあそんでね、と無邪気に笑って言った。 また、と言われたのは初めてだ。ラミアンが夜中に部屋を訪れ、血を啜った女性は、ラミアンにこう言うのだ。 一夜限りの夢ならば、あなたはとても素晴らしい御方。ですが夜が明けてしまえば、あなたはただの魔物。 貴族の貴婦人達は、揃って似たことを言う。つまり、一夜だけなら身を捧げてもいいが後は嫌だ、ということだ。 ラミアンもそう思っていたから、後腐れのないように彼女達の言葉に従って部屋を去り、また夜の闇に帰った。 他の吸血鬼族はどうなのかは知らないが、ラミアンは、そうすることで捕食者と餌の距離を一定に保っていた。 その方が、楽だった。元々、あまり他人と深入りして付き合う方ではないし、どちらかと言えば無下にしていた。 上っ面の良さも、その辺りの性格によって作られたものだ。人当たりが良ければ、離れる時も簡単だからだ。 暗殺や諜報の危険な仕事を好むのも、死んでも誰も悲しまないのだから、という投げやりな思いからだった。 吸血鬼族は、孤独を好む種族だ。ある程度成長したら親元を離れて、一人で闇を飛び回り、人の血を喰らう。 寿命が長く魔力も強いので、滅多なことでは死なないので、同族の異性と会ったら、戯れに子を成す程度だ。 気紛れで、いい加減で、協調性のない種族だ。だからラミアンは、今まで、一度も同族に会ったことはない。 吸血鬼族の大半が、黒竜戦争の影響で散り散りになり、共和国内外に散らばってしまったのも原因だった。 だが、探そうとも思わないし、探したところで子を成すつもりもなかった。その方が、やはり、楽だからだ。 緊張感と危機感の中で、人を殺しながら生きているのが相応しい。そしていつか、呆気なく死すべきなのだ。 いつもそう思っているはずなのに、今日に限ってそれが嫌だと思った。無性に、寂しいな、と思ってしまった。 それでなくても、三百年以上の時を一人で生きてきた。物心付いた頃から一人で、魔法だけが唯一の友人だった。 寂しいなどと言う感覚を覚えるよりも先から、一人きりだった。何を今更、とは思ったが思考から外れない。 それもこれも、ジョーのせいだ。ラミアンは幼女に触れていた手を広げたが、その手は血にまみれているものだ。 今まで、どれほどの人を殺しただろう。フィフィリアンヌの命に従って、自分自身の意思で、何人も殺してきた。 そんな手の主が、またあの純真な幼女に触れて良いはずがない。もう、あの子の元に行かないことにしよう。 そう思ったラミアンは立ち上がり、飛び立つためにマントを翼に変化させたが、振り返らずにはいられなかった。 彼女のいる灰色の営舎は、朝日に染まっていた。 それから、三ヶ月の間。ラミアンは、キースを見張る名目の元、ジョーと触れ合った。 真夜中に音もなく訪れる吸血鬼を幼女はいつも待ち受けていて、まってたよ、とにこにこしながら言ってくれた。 他の人に見つからないために、ということで、ラミアンは深夜になってから彼女の部屋に空間転移魔法で赴いた。 遊ぶことはこれといって大したものではなく、他愛もないぬいぐるみ遊びや絵本の読み聞かせばかりだった。 それでも、ジョーはとても楽しそうだった。異能部隊基地にいる兵士達は、彼女と遊んでくれないのだという。 同じ異能者とはいえ、念動力や精神感応などと違い、予知の力は特異だ。自然と、距離が開いてしまったらしい。 ジョーは、しかたないもん、と笑っていたがが寂しげなのは明白だった。ラミアンは、そんな彼女を抱き締めた。 いつしか、どちらにとっても互いが欠かせなくなり、彼の仕事はキースの見張りではなく幼女の遊び相手になった。 もちろんキースの見張りも続けていたが、異能部隊基地に赴くことが楽しみで仕方なく、多少浮かれるほどだった。 遊ぶうちに、彼女は様々なことを話してくれた。本名がジョセフィーヌであることや、両親が既にいないことなど。 日々を重ねていくうちに、ジョセフィーヌは細っていた手足が子供らしく柔らかになり、体もふっくらとしてきた。 軍に入って食べる物を食べられているからだが、ラミアンと遊ぶようになったからでもある、と彼女は言った。 ラミアンもジョセフィーヌに対しては、美しく飾り立てた言葉を使わなくなり、ごく普通の態度で接するようになった。 二人だけの秘密の夜は、幸せだった。その時間がずっと続いて欲しいと、ラミアンもジョセフィーヌも思っていた。 そんな、ある日の夜。ジョセフィーヌはベッドに座ったラミアンの膝に座り、お気に入りの絵本をめくっていた。 ウサギの女の子が森を探検する話の絵本で、ジョセフィーヌはいつもこの絵本をラミアンに読むように頼んだ。 だが今日に限って、ジョセフィーヌは黙っていた。どことなく不安げな顔をしていて、絵本をめくる手も遅い。 「ジョー。具合でも悪いのかい」 ラミアンがジョセフィーヌの額に手を当てると、ジョセフィーヌは首を横に振った。 「ちがうの」 「じゃあ、何なんだ」 ラミアンは背を丸め、幼女を真上から見下ろした。ジョセフィーヌは絵本を畳み、頭上の吸血鬼を見上げる。 「とっても、こわいことがおきるの」 「それは、どんなことなんだい?」 泣き出す直前のような彼女の声に、ラミアンは心配になりながら尋ねた。ジョセフィーヌは、彼の胸に縋る。 「ずっとさきだけど、いっぱいいっぱい、へいたいさんがしぬの。しゅとが、もえてなくなっちゃうの」 「戦争か…」 「いっぱいひとがしんじゃうの。いろんなひとが、しんじゃうの」 ラミアンは返す言葉がなく、ジョセフィーヌの栗色の髪を優しく撫でた。最初に会った頃よりも、大分伸びている。 肩の下程度まで伸びた柔らかな髪を、指で梳いてやった。ジョセフィーヌは暗い表情で、虚ろな目をしていた。 「ドラゴンのお兄ちゃんがね、すっごくわるいことをするの。とってもとっても、いけないこと」 ジョセフィーヌの言葉が、淡々と続く。 「ジョーをころそうとするの。いろんなへいたいさんをおかしくさせちゃうの。えらいひとたちをだますの。いのうぶたいをだめにしちゃうの。たいちょーさんがしょーささんじゃなくなっちゃうの。ほかにも、いっぱいいっぱい、いけないことをするの。でもね、だれも、とめられないの。ラミアンが、ドラゴンのお兄ちゃんをころしちゃうの。だけど、やっぱり、とめられないの」 ラミアンは、縮こまった幼女の肩を抱き締めた。子供の口から出る言葉にしては、恐ろしい言葉ばかりだ。 感情の籠もっていないジョセフィーヌの幼い声が無機質な部屋に広がり、灰色の冷たい壁に反響して消えた。 「ジョーも、とってもわるいことをするの」 ジョセフィーヌはラミアンを見上げると、泣き出すのを堪えるかのように目元を歪めた。 「だから、いま、あやまっておくね。ごめんね、ラミアン」 「ジョーは、悪いことをするはずがないよ。ジョーは、とても良い子なのだから」 ラミアンが慰めるように笑むと、ジョセフィーヌは首を横に振った。 「ううん、とってもわるいこ。とっても、いけないこ」 ごめんね、と繰り返し、ジョセフィーヌはラミアンの腰に短い腕を回した。黒の上着を、小さな手が握った。 ラミアンは、幼女を抱き締めるしかなかった。彼女が予知した未来は、想像するだけで恐ろしいものがあった。 いくら吸血鬼といえど、人の世界の近くで生きているのだから、戦争が起きるのはやはり恐ろしくてならない。 彼女の口振りからすると、しかもそれはキースの仕業のようだった。何をどうやって起こすのかは解らないが。 どちらにせよ、やはりキースを生かしておくべきではない。彼女の視た未来を、変えられるかもしれないのだから。 特に、ジョセフィーヌを殺そうとする、というのが気に掛かっていた。確かに、キースならばやりかねないだろう。 殺させてたまるか。彼女を、死なせてなるものか。ラミアンはジョセフィーヌを抱いている腕に、力を込めた。 いつしか幼女は眠りに落ち、穏やかな寝息を立てていた。 それから、数日後。キースが、本性を露わにした。 ラミアンはその様を、見張り台の上から見ていた。建物の一部が吹き飛ばされ、幾人もの兵士達が殺されていた。 崩れた壁の中から飛び出してきたキースは、腕にジョセフィーヌを抱えていて、駆け寄ってくる兵士を殺した。 魔法を用い、蹴りを放ち、いとも簡単に兵士達を屠っていった。くるりと身を翻した彼の横顔は、楽しげだった。 轟音と人を打ち砕く音の合間に、キースの笑い声が聞こえていた。その高笑いは、凄絶でおぞましかった。 いくつもの死体が転がる異能部隊基地を見下ろしながら、ラミアンは動けなかった。動こうにも、動けなかった。 神経を逆撫でする笑い声や、無理に抱かれて泣き喚くジョセフィーヌの様子に、怒りは強く沸き起こっていた。 だが、竜への畏怖が起こっていた。今まで押さえ込まれていた、キースの竜としての力が感覚を圧倒していた。 兵士達の屍の中、キースは竜人へと変化した。怒り心頭の甲冑、ギルディオスに斬り掛かられ、少し押された。 ラミアンは二人の戦いを見つつ、ジョセフィーヌを窺った。キースに放り出された幼女は、大声で泣いていた。 今すぐにでも、助けに行きたかった。だが、今の状況で姿を見せてしまっては、キースに見つかってしまう。 そうなれば、ジョセフィーヌの命どころか異能部隊基地全て、或いは魔導師協会まで危うくなってしまう。 歴戦の剣士、ギルディオスに押され始めたキースは、遂に竜へと変化した。巨体となった彼は、咆哮している。 つい先程まで優勢でいたためか、劣勢に追い込まれた途端に逆上したらしく、言葉の端々に苛立ちが見える。 この様子では、下手に手出しをすれば、本当にどうなるか解らない。ラミアンは、強く奥歯を噛み締めた。 巨体の緑竜は尾を振り回し、炎を吐き出し、ギルディオスを追い詰めていたが、その赤い目が幼女に定まった。 遠目から見ていても、ジョセフィーヌがびくっと震えるのが解った。だめ、だめ、だめなのぉ、と泣き声がする。 彼女は大きな軍帽を胸に抱えていて、その両脇が歪むほど握り締めていた。首を振るたびに、涙が散らばる。 キースの鼻先がジョセフィーヌに近付き、口が開かれ、鋭く太い牙が見えた。もう、見ていられなかった。 ラミアンは出来る限り魔力を高め、拳を握り締め、足を広げて構えた。呪文を唱えずに、力をそのまま放った。 もう一方の手を開き、キースのツノの生えた後頭部に向けて突き出した。真っ直ぐに、光線が空を飛び抜ける。 最大出力で放った魔力弾は、竜のウロコも骨も貫き、キースの脳天を突き抜けた。頭蓋骨が、砕ける音がする。 赤い瞳が震え、光を失う。額の傷口から血を流しながらよろけた巨体の竜は、一言、声にならない声を言った。 それが何であるかは、ラミアンには聞こえなかった。ずん、と基地の中で横たわった竜は、息絶えていた。 いつになく高めた魔力を一気に撃ち出したためか、手が多少痺れていた。肩を上下させて、呼吸を整える。 ジョセフィーヌの予知は、正しかった。確かに、ラミアンはキースを殺した。彼が、彼女を殺そうとしたから。 だが、逆を言えば、ラミアンがキースに近付きさえしなければ、彼を死なせることもなかったのかもしれない。 甲冑、ギルディオスの視線がこちらに向いたので、ラミアンは条件反射で体を傾げ、マントを翼に変化させた。 日暮れた首都に向かって飛びながら、異能部隊基地に振り返った。誰も気付いていなかったのか、追っ手はない。 高度を上げて、街との距離を開ける。痺れの残っている手を握り締めながら、魔導師協会の建物に目をやった。 フィフィリアンヌの命に、背いてしまった。そんなことは初めてだった。だが、キースを殺したことに後悔はない。 彼を殺さなければ、ジョセフィーヌは死んでいた。それに比べたら、命令に背いたことなど大した問題ではない。 ラミアンは魔導師協会の建物に向かう途中で、高度を下げた。手近な高層建築の上に、足を降ろし、着地した。 日が落ちたので、空は暗くなった。異能部隊基地も暗がりに包まれ始めていて、竜の死体は見えなくなった。 「ジョー…」 ラミアンは、無意識に彼女の名を口に出した。今頃、泣いてなどいないだろうか、怖がってなどいないだろうか。 上司の命に背いた罪悪感よりも、キースを殺してしまった後悔よりも、ジョセフィーヌへの心配が遥かに大きい。 もう、一時も離れたくなかった。可愛らしい笑顔や甘えてくる態度が、無条件に慕ってくれる彼女が愛おしかった。 このまま、ジョセフィーヌを異能部隊基地に閉じこめておくべきではない。外に連れ出して、共に生きていきたい。 それに、ラミアンがキースを殺してしまったことで、ジョセフィーヌに何らかの処罰が下されないとも限らない。 いくら彼女自身が何もしていなくても、予知していたのに防げなかった、と責められる可能性は十二分にある。 その処罰がどんな形のものであろうとも、ジョセフィーヌが苦しめられると思っただけで、居たたまれなくなった。 ラミアンは、一度、魔導師協会の建物を見上げた。首都の建築物の中でも一際背が高く、強い存在感があった。 魔法陣の紋章が刻まれている壁に、背を向けた。フィフィリアンヌには悪いが、今度ばかりは従っていられない。 何が何でも、ジョセフィーヌを生かしてやりたい。そのためには、フィフィリアンヌを裏切ることなど厭わない。 ラミアンは決意を固め、異能部隊基地を見据えた。薄い闇と潮騒に包まれた箱庭は、少しばかり静まっていた。 潮風が、彼の黒いマントをはためかせていた。 その夜。ラミアンは、いつものようにジョセフィーヌの部屋を訪れた。 彼女は、ベッドの上で丸まって泣いていた。来ることは解っていたはずなのに、起き上がらずに伏せっていた。 小さな肩が震え、弱々しい声が上がっている。ラミアンが近付くと、ジョセフィーヌはがばっと起き上がった。 「う、あぁ!」 「落ち着け、ジョー。私だ」 ラミアンが手を差し伸べると、ジョセフィーヌはずり下がって壁に背を当てた。 「あ、う、あぁああ…」 「すまない。とても、怖い思いをさせてしまって。ジョーの言った通り、私は、あの竜の青年を殺してしまったよ」 ラミアンは、彼女の頭上にある窓の外を見下ろした。基地の敷地内には、未だに竜の死体が横たわっていた。 「だが、解ってくれ。私は、お前を助けたかったのだ」 「ラミアン、らみあぁん…」 ジョセフィーヌは頭を抱え、しゃくり上げた。ラミアンはベッドに膝を付いて幼女を抱き寄せ、腕の中に収めた。 ぐしゃぐしゃに乱れた髪を何度も撫で付けてやると、ジョセフィーヌは息を上げてはいたが、泣くのを止めた。 鼻を啜り上げた彼女は、ラミアンの服を握り締めた。濡れた頬を黒い上着に押し当てると、か細い声を発した。 「ごめんね、らみあん」 「ジョーは悪くない。悪いのは、全て私なのだ」 ラミアンはジョセフィーヌの髪に頬を当て、目を伏せた。 「ジョー。一緒に、外へ出よう。こんなところから出て、遠いところへ行って、私と共に生きよう」 ジョセフィーヌは目元を拭ってから、ラミアンを見上げた。ラミアンが優しく笑むと、ジョセフィーヌも笑った。 「…うん。ジョーも、ラミアンといっしょにいたい。だって、ジョーはラミアンのおよめさんになるんだもん」 ジョセフィーヌの気分が落ち着いてから、二人で一緒に荷物をまとめた。絵本やぬいぐるみばかりだったが。 中には、ギルディオスのものと思しき軍帽があり、持って行って良いのかとラミアンが不思議がると彼女は笑った。 だってたいちょーさんはつかわないもん、と。大半がまとまった頃、ジョセフィーヌは急に部屋から出ていった。 しばらくして戻ってきた彼女は手を後ろに隠し、何を持ってきたのか見せないようにして、カバンの中に入れた。 ラミアンはそれが多少気になったが、ジョセフィーヌが、ひみつなの、と言ったので深く聞かないことにした。 そして、ジョセフィーヌのあまり量のない荷物を持ったラミアンは、彼女を腕に抱いて空間転移魔法を使った。 行き先は、魔導師協会だった。 魔導師協会の会長室の前に、吸血鬼は降り立った。 荷物を抱えたジョセフィーヌに、しばらく良い子にしていてくれ、と言い聞かせてから、ラミアンは扉を軽く叩いた。 すぐに、竜の少女の声で返事があった。ジョセフィーヌは不安げにしていたので、ラミアンは笑い返してやった。 その表情に安堵したのか、ジョセフィーヌは壁により掛かった。泣き疲れているので、少し眠たそうにしていた。 ラミアンはなるべく平静を装って、扉を開いた。机の上に灯されている鉱石ランプが、煌々と明るく光っていた。 その青白い光に、竜の少女が照らされていた。かなり険しい顔をして、ラミアンを射竦めるように睨んでいる。 「どういうことだ、ラミアン」 フィフィリアンヌの怒りを含んだ言葉に、ラミアンは気を張り詰め、言い返した。 「言い訳はいたしません。私は、キース・ドラグーンを殺しました」 「私はあの子を見張れと言った。殺せなどとは言っておらん」 「承知しております」 「ならば、なぜあの子を殺した。理由を話せ、ラミアン」 「お答え出来ません」 ラミアンが平坦に返すと、フィフィリアンヌは拳を固め、だん、と机を殴り付ける。 「貴様、私に逆らうか」 「逆らいます。今度ばかりは、私はあなたに従うことが出来ません」 申し訳ありません、とラミアンは頭を下げた。フィフィリアンヌは机に膝を載せ、身を乗り出した。 「答えろ、ラミアン! 理由を言え!」 フィフィリアンヌの激しい咆哮が、閉じられている窓を揺さぶった。肩を上下させる彼女に代わり、伯爵が言った。 「全く持って、貴君らしからぬ行動であるぞ、ラミアン。貴君は冷徹に仕事をこなす性格と魔法の技量を買われ、この女の側近とされた男である。そのような感情的でない者が、なぜ唐突に、この女の命に背いたのであろうな。かなり不可解であるぞ、ラミアン。この女に噛み砕かれたくなければ、答えておくべきである」 「…お答え出来ません」 ラミアンは、静かに首を横に振った。 「殺したければ、どうぞ殺して下さい。それで会長の気が済むのであれば、安いものです」 「命を厭わぬほどの、理由があるのか」 「はい」 ラミアンは、深く頷いた。フィフィリアンヌは、握り締めていた拳を緩めた。 「貴様はそれを、正しいと思うのか」 「私は、正しいと確信しています」 強く言い切ったラミアンを、フィフィリアンヌは睨み付けた。 「貴様がそこまで言うなら、間違ってはおらんかもしれない。だが、正しいわけではない」 ラミアンは、微動だにせずに竜の少女を見返した。真正面から睨み合うと、キースとは違った畏怖が湧いた。 「許しはしない。だが、殺しもしない」 フィフィリアンヌは、揺るぎのない眼差しの吸血鬼に、声を張った。 「死は逃避に過ぎない。それに、貴様如きを殺したところで、有益とは思えんし、気も晴れんからな」 フィフィリアンヌは机の上から膝を引くと、椅子に座り直した。黒い革張りの椅子が、ぎっ、と軽く軋んだ。 「だから私は、貴様を追放する。今後、魔導師協会には二度と顔を出すな、ラミアン」 「了解しました」 ラミアンは胸に手を当てると、深々と礼をした。一歩後退してから彼女に背を向け、扉を開けて廊下へ出た。 そっと扉を閉めてから、息を吐いた。限界まで張り詰めていた緊張が一気に緩んで、崩れ落ちそうになった。 それを辛うじて堪えると、壁にもたれてうとうとしている幼女を見下ろし、ラミアンは穏やかな笑みを浮かべた。 屈んで、彼女の柔らかな頬に触れた。涙の筋が残っていて赤らんでいたが、温かく柔らかで、愛おしかった。 ジョセフィーヌを起こさないように抱き上げ、ラミアンは頬を寄せた。すると彼女は、ごめんね、と漏らした。 寝言だったようで、起きる気配はない。ラミアンは彼女が寝ていると解っていても、言わずにはいられなかった。 「ジョーは、悪くないさ」 上司の命に背いて刃向かい、竜の青年を殺し、挙げ句、彼女を攫ってきた。これが、悪くないはずがない。 一晩のうちに、様々な罪を犯した。そのどれに対しても罪悪感はあったが、間違っているとは思っていなかった。 むしろ、清々しくもあった。これで、彼女と共に生きることが出来る。ジョセフィーヌの傍に、ずっといてやれる。 後悔など、欠片もなかった。キースを殺したことだけは多少なりとも心苦しかったが、それぐらいしかなかった。 とても、幸せだったからだ。 06 3/7 |