雪は、古びた城の上に静かに舞い降りていた。 フィフィリアンヌの城の傍にあるあまり広さのない湖は、その城の主の魔法によって、湖面が全て凍り付いていた。 かなり分厚いらしく、水中が透けて見えることはない。雪混じりの風が吹くたびに、湖畔へ冷気が押し寄せてきた。 波打ち際まで凍り付いた湖畔には、魔法陣が並んでいた。大きさのないものの上には、フィフィリアンヌがいた。 普段着と同じく闇色のコートを着た彼女は、魔法陣の上で腕を組んでいた。表情を固め、気を張り詰めている。 その足元には、フラスコに入った伯爵が転がされていた。赤紫のスライムは体温があるのか、結露が出来ている。 彼女らの隣に、フィリオラは魔法の杖を持って立っていた。その足元には、雪の上に描かれた魔法陣があった。 その内側だけ、気温が不自然に上がっていた。吹き付けてくる雪も、魔法陣の手前で溶けて水滴と化してしまう。 フィリオラの手前には、ブラッドとラミアン、ヴェイパーがいた。機械人形の二人は、あまり寒くなさそうだった。 本来なら、他の面々もこの場に来ると思うのだが、来なかった。フィリオラは、それが不思議でならなかった。 キャロルはまだ解るのだが、ダニエルら異能部隊の面々が二人の戦いを見に来ようとしないのは、妙だった。 それどころか、数日前から共同住宅に帰ってきた様子がない。何かあったのかな、とフィリオラは心配になった。 だが、彼らに何かあったなら、ギルディオスが動いているはずだ。それに今は、魔法の維持に集中しなければ。 フィリオラはぐっと唇を締めて、杖を握り締めた。真っ白く凍り付いた湖面の上では、二人が向かい合っている。 大柄な甲冑、ギルディオスと、鎧に固めたレオナルド。戦いの直前の緊張感が、こちらまで流れてきていた。 雪の舞う中、二人は剣を抜いていた。ギルディオスは構えることもせず、巨大な剣の先を足元に向けている。 対するレオナルドは、中世時代の物らしき軽めの甲冑を着込んでいて、その肩に積もった雪が溶けていた。 ヴァトラスの家紋が入った装甲に身を固めた彼は、険しい顔をしていた。腰の鞘から細い剣を抜くと、構えた。 「それじゃ、宣言でもしとくか?」 ギルディオスはくいっと手首を曲げて、剣先をレオナルドの鼻先へ向けた。レオナルドは、にやりとする。 「遠慮しときますよ。オレもあなたも、騎士なんかじゃないですから」 「ま、そりゃそうだな」 ギルディオスは剣先を戻すと、柄を両手で握り締めた。足を広げて腰を落とし、下からレオナルドを見据える。 レオナルドは真正面に剣を構え、目元を強めた。ギルディオスのつま先がじりじりと動き、足の幅が広がった。 冷たい風が、甲冑の赤い頭飾りとマントを揺さぶった。その揺らめきが落ち着き、マントが鋼の背に舞い降りる。 が、その寸前に、足が動いた。ギルディオスは一歩踏み込んでレオナルドとの間を詰めると、剣を横に振る。 レオナルドはその刃が届く前に身を翻したが、ギルディオスは剣を振った反動で体を動かし、間を詰め直す。 「へっ」 楽しげな、笑い声がした。ギルディオスは、慣れない武装で足元の遅いレオナルドとの距離を、更に狭めた。 横にしていた剣を斜めに上げて、下から跳ね上げる。レオナルドの脇腹へと向かうが、彼の剣に遮られた。 かぁん、と甲高い金属音が響く。ギルディオスが剣を押し込むに連れて、彼の手が震え、ぎちぎちと刃が軋む。 レオナルドは懸命に力を込めたが、少しも押し戻せない。下からの攻撃なのに、彼の力は恐ろしいほどだ。 「くそっ」 仕方なしに剣を引いたレオナルドは後退り、姿勢を戻した。ギルディオスは剣を下げると、声を上げた。 「なってねぇなぁ、腰の具合が。きっちり力ぁ入れりゃ、それだけ力になるってのによぉ!」 氷の上でも滑ることなく、ギルディオスは力強く踏み切った。レオナルドが身動ぐよりも前に、刃が向かってきた。 レオナルドが横へ避けると、そこへまた剣が振られる。構え直そうとしても、それよりも先に斬撃がやってくる。 「そら、そら、そらぁっ!」 威勢の良い掛け声に合わせ、巨大な剣が軽く振り回される。レオナルドは剣を上げ、真正面で剣を受け止めた。 その重みで、ざっ、とかかとがずり下がった。腕と肩を震わせながら、剣を押し込んでくる甲冑を睨んだ。 だが、このまま押されていてもどうにもならない。レオナルドは剣を徐々に傾けていき、素早く身を引いた。 直後、ギルディオスの剣は振り抜かれ、切っ先は氷に埋まった。銀色が突き刺さった場所から、ヒビが走る。 「お?」 ギルディオスは、少し面白そうにする。レオナルドは足腰に力を入れて駆け出すと、剣を振り上げた。 「このっ!」 レオナルドは剣を構えていないギルディオスに、斬り掛かった。真正面、斜め、横、様々な角度から斬り付ける。 ギルディオスは氷に突き刺さった剣から手を外して、数歩後退ると、レオナルドの素早い斬撃を避けていった。 だが、一度も掠りもしない。レオナルドが剣を振る速度は速いのだが、ギルディオスはそれを軽く避けている。 ギルディオスは重心をずらして剣を避けながら、殺気立ったレオナルドを見下ろしていたが、次第に飽きてきた。 避けてばかりでは、面白くない。そう思い、右手を前に出した。左側から斬り掛かってきた彼の剣を、受け止める。 レオナルドの剣の重みが、ぎしっ、と腕を軋ませた。だが、肩まで行くことはなく、姿勢にもなんら影響はない。 細身の剣の向こうで、レオナルドが息を荒げている。戦ううちに力が高ぶったのか、足元の氷が少し溶けている。 指の間に挟み込んだ刃は、押し込もうとしているが、今一つ力が足りていない。手を捻れば、彼は転ぶことだろう。 筋は悪くねぇんだがな、と思いながら、ギルディオスは剣を掴んでいる手を捻った。すると、彼は容易く転倒した。 がしゃっ、と甲冑が氷と衝突するけたたましい音が鳴り響く。レオナルドは、背中といわず全身を揺さぶられた。 衝撃と急な冷たさが、後頭部に染み入っている。だがその冷たさもすぐに熱し、じわりと溶けて水と化していく。 転ばされた際に、剣が手から抜けてしまった。取り戻さないと、と思って上体を起こすと、剣先が目の前に訪れた。 滑らかな刃に、目を見開いた自分が映っている。目線を上げると、ギルディオスがレオナルドの剣を持っていた。 一歩でも踏み込めば、眉間を貫ける距離だった。無表情なヘルムに雪が落ちると、溶け、一筋の水が流れた。 「なぁ、レオ」 いつになく、ギルディオスの口調は弾んでいた。 「楽しいか?」 子供のような笑顔であることが、容易に想像出来る声だった。レオナルドは、呼吸を整える。 「まぁ、少しは」 「オレぁよ、すっげぇ楽しいんだ」 ギルディオスはレオナルドの眉間から切っ先を下げると、レオナルドの手元に彼の剣を横たえた。 「楽しくって楽しくって、仕方ねぇ」 レオナルドの横を通り過ぎ、ギルディオスは氷に突き立てたままの己の剣を取ると、ずっ、と引き抜いた。 「だからよ、レオ」 滑らかな銀のヘルムが、レオナルドに向いた。 「ちょいと、本気出しちまっていいか?」 レオナルドは何も言わずに、剣を取って立ち上がった。ギルディオスは、バスタードソードを両手に握る。 「ありがとな、レオ」 だん、と強く踏み込んだギルディオスは、弾かれるように飛び出した。 「感謝するぜえっ!」 銀色の刃が、空を切る。身を下げようとしたレオナルドの髪の先に掠り、切られた薄茶の髪が氷に落ちる。 ちぃ、と舌打ちしたレオナルドは、剣を振り上げた。ギルディオスの胸倉に叩き込もうとしたが、止められる。 ギルディオスの剣の側面に、細身の剣の刃がぶつかる。レオナルドは手首を曲げ、その側面に剣を滑らせた。 そのままギルディオスの手首に向かわせようとしたが、細身の剣が柄に届く前に捻られ、かん、と弾かれる。 呆気なく、剣が跳ね飛ばされた。レオナルドの手中から逃れた細身の剣は、宙を舞い、銀色の円を描いている。 ギルディオスは後退し、左手を伸ばした。回転しながら落下してきた剣の柄が、その手のひらに納まった。 がしゃっ、と細身の剣の重みと反動で肘が揺れる。ギルディオスは両手に持った剣を重ね、しゃりっと擦らせる。 「さぁーて…」 ギルディオスはレオナルドを見据えると、二本の剣を持ち直して真下に向けた。 「いっちょ、本気と行ってみますかぁ!」 勢い良く、二本の剣が氷に突き刺さった。氷の硬さをものともせずに埋まっていき、びしっ、と大きくヒビが走る。 それは、離れた位置のレオナルドまで向かってきた。だがレオナルドは逃げることはなく、身構えて立っていた。 その様子に満足し、ギルディオスは内心で笑った。氷の砕けた中心に突き刺さっている剣に、ぐっと力を込める。 逆手に握っていた柄を順手に握り直し、下から押していく。氷同士が擦れ合って軋む鈍い音が、響いている。 「力ってぇのはなぁ」 ギルディオスは剣を力一杯捻って砕けた氷を押し上げると、思い切り、跳ね上げた。 「こう使うんだよぉ!」 ギルディオスの二本の剣が上がると同時に、いびつに割れた氷の破片が、冷え切った水を滴らせながら宙に浮く。 その白い固まりによって出来た影は、レオナルドをすっぽり覆うほどで、小振りな岩程度の大きさがあった。 レオナルドは白い影が近寄る前に、高ぶっていた力を一点に集中させた。視線を強め、制御を解いて放った。 直後、氷は熱線に貫かれ、じゅっ、と湯気を昇らせた。途端に、巨大な氷が砕け、ばらばらと飛び散った。 頭上に降ってきた破片を避け、レオナルドはギルディオスに向いた。割れた氷の向こうに、甲冑は立っている。 あれだけ大きな破片を抜いたことで、辛うじて保たれていた氷上の均衡が崩れており、隙間から湖水が見える。 ギルディオスは、ちゃぷちゃぷと水が打ち寄せてくる氷の破片の一つの上に立っていたが、揺らいでいない。 肩は上下させていたが、まだ余裕綽々だった。レオナルドは、一気に力を放ったために、頭痛を感じていた。 ギルディオスは左手に持った細身の剣を軽く振ると、眉間をしかめているレオナルドに向け、放り投げた。 「そらよ、返すぜ」 くるくると回りながら落ちてきた銀色の刃が、丁度レオナルドの足元に刺さった。レオナルドは、それを取る。 が、すぐに手を放した。手袋越しでも伝わってくるほどの熱さがあり、突き刺さった場所は溶けて水になっている。 薄い湯気が立ち上っている剣を、レオナルドは慎重に手にした。見ると、ギルディオスからも、蒸気が出ていた。 「へへ」 少し情けなさそうに、ギルディオスはがりがりとヘルムを掻いた。 「悪ぃ、ちょいと加減が出来なくなっちまって」 レオナルドは、剣の熱で冷えた指先が温まるのを感じていた。ギルディオスの熱は、自分のものとは違っている。 力任せなのは同じだが、熱の具合が違う。圧倒するのではなく、間を置いてからじわりと広がってくる熱だった。 熱の中に含まれた思念が、レオナルドの感覚に染み入った。心の底から剣を楽しんでいる、そんな思念だった。 その感情に、裏も表も見えない。レオナルドは、湖畔からこちらをじっと見つめているフィリオラに目をやった。 フィリオラは、今にも泣き出しそうだった。魔法陣の中にいるから決して寒くないはずなのに、目が潤んでいる。 馬鹿が、と言おうとして、思い直した。馬鹿なのはどっちだ、と。意地を張った挙げ句、戦っている方が馬鹿だ。 感情のやり場が見つからないから、彼女のように思えないから、一方的にギルディオスにぶつけているだけだ。 だが。やらずには、いられないのだ。レオナルドがギルディオスを見据えると、ギルディオスは軽く跳ね上がった。 真っ直ぐにレオナルドの真正面に落ちてくると、がしゃっ、と膝を付けずに着地し、すぐに立って背筋を伸ばす。 ギルディオスは、レオナルドを見下ろしてきた。レオナルドが剣を構えようとすると、彼は少し笑った声で言った。 「気ぃ済むまで、付き合ってやるぜ」 ギルディオスは背を曲げて、レオナルドと視線を合わせる。 「な?」 子供扱いしないで下さい、と言おうとしたが、レオナルドは言葉を飲み込んだ。代わりに、なぜか涙が出てきた。 この人は、昔と変わらない。何も変わっていない。いくら歳を重ねても、彼が子供だと思った相手は子供なのだ。 本当なら、当の昔に許せていたはずだ。許せなくとも、受け入れることは出来ていたのに、意地が強くなっていた。 異能部隊のこともあったが、フィリオラがいる手前、何に対しても誰に対しても、とにかく強く在りたかったのだ。 だから、ギルディオスを許すことが出来なかった。彼を許さないでいることが、強さであるような錯覚に陥っていた。 フィリオラを始めとした彼らと己を、無意識に比較していた。そして、遣り切れない思いばかりが積み重なった。 このまま何も出来ないのではないか、といったもどかしさも相まって、自分自身への苛立ちも募る一方だった。 そして、その結果がこれだ。レオナルドは急に情けなくなってきたが、涙を拭わずに、ギルディオスを見上げた。 正直、かなり恰好は悪い。情けなくて、ガキ臭くて、結局は弱いのだから。涙を堪えるため、奥歯を強く噛んだ。 ギルディオスは、目に涙を溜めているレオナルドの頭を軽く叩いてやった。泣く時の顔は、子供の頃と変わらない。 やはり、誰であろうと辛いのだ。レオナルドは意地を張っている分、表に出ないだけで、内側に押し込めている。 このまま泣かせてやりたかったが、レオナルドの手は、剣の柄を握り直した。泣く代わりに、戦う気でいるらしい。 ギルディオスはやれやれと内心で苦笑したが、彼らしいと思った。最後まで、意地を張り通すつもりのようだ。 レオナルドの剣が振り上げられると同時に、ギルディオスは身を引いた。ヒビまで後退ったが、水の感触はない。 振り返ると、フィフィリアンヌが手を突き出していた。氷を修復してくれたようだが、面倒そうな顔をしていた。 ギルディオスは仕草でフィフィリアンヌに礼を言ってから、バスタードソードを持ち直し、レオナルドに向いた。 せっかくだから、とことんやってやる。レオナルドの苛立ちを晴らすためにも、そして、自分が楽しむためにも。 ギルディオスは浮かれてきた心を落ち着かせながら、剣を振るった。レオナルドの剣と、己の剣を叩き合わせる。 絶え間なく剣を交える二人の影に、ブラッドは心を奪われていた。レオナルドの動きが、少し変わった気がした。 先程まではぎこちなさがあったのに、ギルディオスから何かを言われた後は、迷うことなく斬り掛かっている。 表情も、どことなく晴れやかだった。ブラッドは、理由はないがなんとなく嬉しくなってきて、笑っていた。 傍らの父親を見上げると、ラミアンは顎をさするように鋭い指先を仮面の下に這わせ、ほう、と息を漏らした。 「戦いは、その全てが無益だとは限らないようだね」 「はっはっはっはっはっは。まぁ、その大半は無益なのであるが、ごくたまに有益なものもあるのである」 雪に半分埋まったフラスコの中で、伯爵がにゅるりと蠢いた。ヴェイパーは、じっとギルディオスを見ている。 「たいちょう、やっぱり、つよい」 「でも、レオさんも強いぜ!」 ブラッドがヴェイパーを見上げると、ヴェイパーは首の関節を軋ませながら頷いた。 「うん。どっちも、つよい」 フィフィリアンヌは、魔法の杖を握り締めているフィリオラに目をやった。 「フィリオラ。あの馬鹿共を、しっかり見ておいてやれ」 フィリオラはかなり不安げな顔で、フィフィリアンヌに向いた。 「ですけど、私、怖くて」 「心配なのは解る。私とて、好いた男がいた身だからな。だが、こればかりはきちんと見てやらねばならんのだ」 フィフィリアンヌの面差しが、少しばかり和らいだ。 「男という生き物は、器用でない者ばかりだからな」 「…はい」 フィリオラは声を震わせ、頷いた。氷上で競り合う二人の戦士に目を戻したが、すぐに逸らしたくなってしまう。 見ているだけで、足が震えてしまいそうになる。剣が振るわれる音がするだけで、目を閉じてしまいそうになる。 とても、恐ろしい。今にもレオナルドが切られてしまいそうで、ギルディオスが打ち倒されそうで、怖かった。 杖を握る手に更に力が入り、体も強張ってくる。目を逸らしてしまわないように、必死に首の動きを固めていた。 レオさん、と口の中で小さく呟いた。薄暗くなった空から舞い降りてくる雪は増えていて、視界を奪っていた。 二人の戦士から揃って発せられている熱で、立ち回った周辺だけ雪は溶けて失せていたが、すぐにまた積もる。 フィリオラは、いつのまにか乾いた喉に唾を飲み下した。剣のぶつかる音の合間に、二人の荒い叫びが混じる。 戦いは、続いている。 日が暮れた頃。レオナルドは、竜の城の一室にいた。 暖炉に入れられた火の温かさが、全身の筋肉が痛んでいる体に優しかった。甲冑を外すと、傷が露わになった。 ギルディオスは寸止めしてくれていたのだが、それでもいくつか攻撃が当たっていて、赤黒い痣になっていた。 傍らに放り投げてある甲冑は、雪の水滴を拭ってあり、つやつやと光っていた。剣も、その隣に横たえてある。 汗と雪で濡れた髪を掻き上げて、深く息を吐いた。暖炉の明かりに照らされた部屋の中は、本に埋もれている。 この部屋は、着替える必要があるだろう、とフィフィリアンヌが言って貸してくれたが、普段は使っていないらしい。 昔は来客用の寝室に使われていたらしく、天蓋付きのベッドがあるのだが、その上にも大量の本が重なっている。 埃まみれで、深呼吸したらむせそうだった。レオナルドは剣を握りすぎて硬くなった手を、何度か動かしてみた。 二人が満足するまで戦ったあと、ギルディオスはブラッドとラミアンと共に共同住宅に戻ったので、今はいない。 フィリオラはいるのだが、ここには来ていなかった。なんでも、フィフィリアンヌに夕食を作るから、だそうだ。 それを告げる際のフィリオラの表情が沈んでいたことが、気掛かりだった。やはり、不安がらせてしまった。 悪いことをしちまったな、とは思ったが、ギルディオスと戦い抜いたことで、心中は清々しく晴れ渡っていた。 彼女を不安がらせてしまった罪悪感はあったが、ギルディオスと剣を交えた達成感の方が遥かに大きかった。 だが、フィリオラには謝らなくてはならないだろう。ただでさえ臆病な彼女に、不安を与えてしまったのだから。 すると、扉が何度か叩かれた。レオナルドが生返事をすると、扉が開き、盆を抱えたフィリオラが顔を覗かせた。 「あの、レオさん。お夕飯、持ってきたんですけど」 「ん、ああ」 レオナルドは、扉に振り返った。フィリオラは後ろ手に古びた扉を閉めると、レオナルドの傍に寄ってきた。 暖炉の前に、盆が置かれた。熱々とした湯気が昇っているスープの皿と、丸パンと紅茶がきちんと並べてあった。 レオナルドは良い匂いのする皿を見ていたが、フィリオラに向いた。元気のない彼女を見上げ、力なく呟いた。 「すまん」 「本当に、怖かったんですからね」 フィリオラは彼の隣に座ると、レオナルドの肩に頭を預けた。 「終わったんですから、もう教えて下さいよ。どうしてレオさんは、小父様と戦おうなんて思ったんです?」 「いや、その」 レオナルドは、途端に気恥ずかしくなった。泣きそうになったこともそうだが、その理由がまず恥ずかしかった。 改めて考えてみると、情けなくもなった。他人と自分を比較して意地を張るなど、子供そのものではないか。 しかもそれが、フィリオラを意識したから、などと。レオナルドが情けなさで顔をしかめていると、手に何か触れた。 フィリオラが、レオナルドの手に自分の手を重ねていた。ひんやりとしているが柔らかな手が、そっと握ってくる。 「もう、やんなっちゃいます」 「すまん…」 レオナルドが絞り出すような声で漏らすと、フィリオラはむくれる。 「どうしてこう、レオさんって自分勝手なんですか。いつもいつもいつも!」 フィリオラは身を乗り出し、レオナルドの目の前に顔を寄せた。眉を吊り上げて、白い頬を膨らませている。 「自分がやりたいようにやってばっかりで、ちっとも私のことなんて考えてない!」 いつになく強気なフィリオラは、まくし立てる。 「強引で、我が侭で、無茶苦茶で! どれだけ私が怖かったか、解ってるんですか、解ってませんよね!」 「いや、だから、オレが悪かった」 「だから、これぐらいは、私に言わせて下さいよ!」 暖炉の炎に照らされているフィリオラの頬は、赤らんでいた。 「私と、結婚して下さい!」 思い掛けない言葉に、レオナルドは目を丸くした。フィリオラはレオナルドを睨んだまま、唇を締めている。 言ったはいいが照れくさくなったのか、次第に頬の血色が良くなっていく。強気だった表情も、頼りなくなる。 レオナルドがなかなか答えないので、フィリオラは次第に不安になった。言っちゃいけなかったかな、と思った。 青い瞳が潤んできたのを見て、レオナルドは慌てた。なんでここで泣くんだよ、と困惑しながら声を上げた。 「おっ、お前なぁ! なんでこんな時に言うんだよ! というか、脈絡がないぞ!」 「嫌なんですかどうなんですか!」 必死に声を張り上げ、フィリオラは彼の手を強く握った。レオナルドは握られた手が痛かったが、頷いた。 「嫌なはずは、ないだろう」 「じゃ、明日にでも結婚して下さい」 フィリオラは姿勢を戻し、床に座り直した。レオナルドは、その早急さにぎょっとした。 「明日って、フィリオラ、お前は何を考えているんだ!」 「レオさんこそ何考えてるんですか。なんで、いつまでたっても言ってくれないんですか」 結婚しようって、と小さく付け加えたフィリオラは、俯いた。レオナルドはやりづらくなって、目を逸らす。 「いや、その、な。もう少し、落ち着いてからにしようかと」 「怖いんですもん」 フィリオラはレオナルドの袖を掴むと、ぎゅっと握り締めた。彼の肩に額を当てると、汗の匂いが鼻を突いた。 二人の影が、炎の揺らぎに合わせてゆらゆらと揺れ動いている。レオナルドは、彼女の手の下から手を抜いた。 頬に手を添え、顔を上げさせる。暖炉の熱と照れで、大分温まっていた。涙に潤んだ眼差しが、見上げてくる。 「何が、そんなに怖いんだ」 レオナルドが言うと、フィリオラはレオナルドの手に頬を押し当てる。 「だって。レオさん、私が言うのもなんですけど、危なっかしいから。それに、私」 フィリオラの手は、自身の下腹部を押さえている。 「レオさんの子供、出来ないかもしれないから。だから、それぐらいはしておかないと、凄く」 怖くて、と漏らしたフィリオラを、レオナルドは力任せに抱き竦めた。小柄な体は、容易く腕の中に納まった。 力強い抱き締め方に、フィリオラは息苦しくなった。目の前のレオナルドの胸を押すが、彼の腕は緩まない。 「怖いのは」 レオナルドは、手の中に納めた彼女の肩を握り締めた。 「オレも同じだ」 フィリオラが顔を上げようとすると、後頭部を押さえられてしまった。レオナルドは、苦々しげに呟く。 「親父達は首都と一緒に死んじまうし、兄貴は戦場に行っちまうし、その上、キースとかいうろくでもない野郎の部下になっちまったみたいだしよ。次はオレなんじゃないかって、思っちまうんだ」 感情を押さえようと思っても、勝手に言葉が口から出てきてしまう。 「だから、なんでもいいから何かしてないと、どうにかなっちまいそうなんだよ。情けない、話だがな」 フィリオラはレオナルドの背に腕を回すと、ぎゅっと抱き締める。 「私も、凄く怖いです。レオさんがいなくなっちゃったりしたら、って思っただけで。だから、私、早くレオさんの奥さんになって、もっともっと一緒にいたいんです。それに、奥さんになったら、もう少し、レオさんに強く出られるかなって、思ったんです。どこにも行かないでって、ずっと一緒にいてって、それくらいの我が侭なら言えるかなぁって」 「それぐらい、いつでも言えばいいだろうが」 レオナルドは、フィリオラを抱き竦めていた腕を緩めた。だが、彼女の手は緩まず、服の背中を握っていた。 「だ、だって、言ったら、なんか、レオさん、怒りそうだし…」 「馬鹿が」 レオナルドは少し呆れてしまい、フィリオラの顔をぐいっと上げさせた。短いツノの生えた頭を、ぐしゃりと乱す。 フィリオラは、かなり情けない顔をしていた。レオナルドはフィリオラの顎を持ち上げると、唇を開かせた。 有無を言わさずに口付け、舌を絡ませる。ん、と鼻に掛かった喘ぎが漏れ、フィリオラは彼の背から手を離した。 フィリオラの手は、慎重な動きでレオナルドの首に掛けられた。薄い唇をなぶっていた舌は、奧へと押し込まれる。 粘着質な水音をさせながら、彼の舌が引き抜かれる。双方の唾液に濡れた唇を押さえ、フィリオラは目を伏せる。 恐る恐るレオナルドを見上げると、レオナルドの表情はとても穏やかで、愛おしげな眼差しで見下ろしていた。 「それぐらいで、怒りはしない」 「じゃ、じゃあ、寝起きに変なことしないで下さいとか、お料理の感想を言って下さいとか、言ってもいいですか!」 この機会を逃すまいと、フィリオラはレオナルドに詰め寄った。レオナルドは、変な顔をする。 「そんなことぐらい、さっさと言えばいいだろうが」 「言おうと思ったけど、だから、その、レオさんが怒ったら嫌だなって思って言えなかったんです!」 「それじゃ、オレの方からも言わせてくれないか?」 「な、なんでしょうか」 彼の首から手を離したフィリオラは、身を引いた。レオナルドは、にやりと口元を上向ける。 「色気のある喘ぎ声を出せ」 「無理ですよ、そんなぁ!」 反射的に体をずり下げ、フィリオラは身を縮める。レオナルドは床に手を付くと、フィリオラの上に被さる。 「それと、もう一つ」 「…ふぁい」 押し倒された恰好になったフィリオラは、変な声を漏らした。体の上にいるレオナルドは、表情を固めた。 「結婚の申し出を、オレにやり直させろ」 「え?」 拍子抜けして、フィリオラは縮めていた肩を緩めた。レオナルドは、気恥ずかしさを押し殺して言い放った。 「大体、恰好が付かないだろうが! それぐらい、オレに言わせろ!」 レオナルドは、きょとんとしているフィリオラを睨むように見下ろした。 「なんだ、不服か?」 「え、あ、いいえそうじゃありません!」 フィリオラは慌てて、手を横に振った。レオナルドは彼女から目を逸らしてしまったが、目線を戻した。 「それじゃ、言うぞ。一度しか言ってやらないからな」 「はい」 フィリオラは素直に頷き、レオナルドを見上げた。煌々とした炎の明かりで、彼の横顔は朱に染まって見えた。 二人の言葉が止むと、薪が燃える音が良く聞こえた。窓の外は暗くなっていて、闇の中を雪が落ちていく。 底冷えする空気が、足元から這い上がってくる。暖炉の温かさがあっても、やはり、寒いものは寒かった。 吐き出されている二人の息も白くなっていて、相当な照れと緊張のためか、レオナルドの呼吸は少々荒かった。 その呼吸が、止んだ。レオナルドは息を詰めていたが、真下からこちらを見ているフィリオラを見、言った。 「オレと、結婚しろ」 乱暴な口調の、命令形の言葉だった。だがその口調に反して、レオナルドは、とても気恥ずかしげだった。 頭の脇で握られている彼の手には、力が込められている。素直でないから、言うだけでも大変だったのだろう。 どうなんだ、とでも言いたげに睨んでくるレオナルドに、フィリオラは手を伸ばし、彼の頬を挟んで引き寄せる。 頭を起こしたフィリオラは、レオナルドの唇を塞いだ。答えなら先程言っているのだから、その代わりにした。 全身に満ちていく嬉しさで、気恥ずかしさなど失せていた。今は、恥じらうよりも、彼に触れていたくて仕方ない。 いつもは閉じている目を薄く開いてみると、彼も目を閉じていた。同じだ、と思うと、また嬉しくなってきてしまう。 また目を閉じて、優しい口付けを味わった。恐怖心は消えることはなかったが、それでも、心中は穏やかだった。 雪の降る音が、聞こえてきた。音と言うには頼りなく、気配と言うには確かなものが、耳の奧に染み入ってくる。 とても優しい、歌のように聞こえた。 遣り切れない思いと、心に潜む恐れが、彼に刃を振るわせた。 人は誰しも最初から強いわけではなく、また、あまり器用ではない。 炎の力を宿した彼の恐怖を解かし、竜の少女を苛む不安を和らげるのは。 互いへの、愛なのである。 06 3/14 |