ドラゴンは眠らない




白い悪夢 前



その日は、昨夜から雪が降り続いていた。


閑散とした旧王都の駅に、彼は降り立っていた。分厚い防寒着の襟を立てて首を縮め、白い息を吐き出す。
背後の機関車からは盛大に蒸気が噴き出されて熱が満ちていたが、雪混じりの風が抜けると、熱が失せた。
全部で四本並んでいるホームの向こう側には、駅員のいない駅舎が見えていて、改札口を兵士達が通っている。
機関車後部の貨物列車に、荷物同然の扱いで乗せられていた彼らは凍え切っていて、銃を持つ手にも力がない。
ぞろぞろと歩いていく兵士達の中には、力尽きて倒れ込む者もいたが、誰も助け起こすことなく進んでいく。
他人に気を遣っている余裕など、残っていないのだ。旧王都に至るまでの間、多少、小競り合いをしてきた。
その戦闘の際に輸送班が襲われ、辛うじて残っていた食糧や物資が連合軍に奪われ、かなり枯渇していた。
特務部隊を始めとした上官勢には掻き集めた分を行き渡らせたが、兵士達に回す分など、残っていなかった。
よって、兵士達の中には飢えと寒さで死ぬ者も出るほどだったが、補給が出来ないのでどうにもならなかった。
補給のための部隊などとっくにやられていたし、途中の街も連合軍に制圧されていて、近付けもしなかった。
最早、負けは確実だった。それでも、兵士達の戦意を煽るために、口から出任せの演説を繰り返していた。
いつか勝機は見える、首都を奪い返せば国土も取り戻せる、命を張って戦い抜けば報われる、と何度も何度も。
だが、そうはならない。戦うたびに劣勢へと戦況を向かわせていたのだから、勝ち目など、あるはずがない。
彼は、にやりと口元を上向けていた。雪が張り付いて水滴が伝ったメガネを袖で拭うと、軍帽を被り直した。

「なんだか懐かしいねぇ」

彼の呟きに、彼の背後に立っていたリチャードは、旧王都の街並みを仰いだ。

「そうですね」

「足場も視界も最悪、障害物だらけと来ている。負け戦にはもってこいの状況だよ、ヴァトラス中尉」

彼は、最敬礼して出迎えている旧王都に配備された部隊の隊長を一瞥し、雪に埋もれているホームを歩いた。
リチャードは寒さで顔色が真っ白な隊長に敬礼してから、彼に続き、ざくざくと雪を踏み締めて歩いていった。
ホームとホームを繋げている階段を通って、誰もいない駅舎から出ると、駅前の広場に兵士達が整列していた。
二人と違ってろくな防寒をしていない兵士達は、がちがちと奥歯を鳴らしながら銃を抱き締め、立っていた。
ざっと見回しただけでも、人数は大分減っていた。旧王都に向かい始めた当初は、この三倍近くはいたはずだ。
かなり、消耗している。旧王都周辺に残存している兵力を掻き集めても、到底連合軍に勝てるわけがない。
斥候役の魔導師の兵士からの情報によれば、連合軍は南部の小国を軍勢に加え、消耗した兵力を取り戻した。
もういい加減に降伏した方がいいのではないか、とリチャードは思うのだが、進言することは出来なかった。
降伏すれば連合軍の捕虜になってしまうのは確実だし、そうなれば、戦犯として処刑されるのが目に見えている。
自分でも、人を殺しすぎてしまったと思う。遠からず、その罰は来る。だが、今はまだ来て欲しくはなかった。
そのために、今日まで戦ってきた。旧王都に戻ってくるために、幼い妻に会うために、生き延びてきたのだ。
どうせ死ぬならキャロルの腕の中で死にたいもんだな、と思いながら、リチャードは兵士達を見下ろした。
彼が一歩踏み出ると兵士達は規則正しい動きで姿勢を正し、かん、と一斉に軍靴のかかとを叩き合わせた。
威圧的に兵士達を見下ろしていた曹長が振り返り、彼に向き直った。それに合わせて、リチャードも敬礼した。

「これより、特務部隊隊長、大佐より訓辞を頂く! 心して聞くが良い!」

曹長が太い声で叫ぶと、彼は敬礼した。その手を下ろし、胸を張った。

「諸君らは、共和国を守り抜くための最後の盾である!」

彼は、兵士達を見渡す。

「偉大なる将軍閣下への忠誠心と、栄誉ある共和国軍兵士の誇りを抱き、その命の燃える限り、戦い抜くのだ!」

彼の眼差しは、冷ややかだった。

「戦女神の加護を信じ、奇跡を疑わず、勝利を求めよ! 今こそ、諸君らの底力を、侵略者共に見せる時だ!」

白々しい訓辞だな、とリチャードは内心で毒づいた。この二ヶ月近く傍にいたが、彼への嫌悪感は増すばかりだ。
その人格の歪み具合もそうなのだが、兵士達を生かしてやろうという気はまるでなく、捨て駒扱いしてきた。
基本的に劣勢の戦いばかりを繰り返し、退却する機会があろうとも、特務部隊の兵士以外は退却させなかった。
旧王都に来るための機関車を連合軍から奪還する際の作戦に至っても、兵士の大半を囮として切り捨ててきた。
機関車の先頭車両から敵の注意を逸らすために貨車に兵士達を集中させていたが、後ろ半分を切り離したのだ。
連合軍の魔導師の相手をするのに手一杯だったリチャードは、機関車が動き出してから、それに気付いた。
速度を上げていく客車の上から、断末魔の聞こえる貨車を呆然と見ていたが、客車から顔を出した彼は言った。
あんなに乗せてちゃ燃料が足りないだろう、旧王都に帰るためには必要な犠牲なんだよ、とけらけらと笑った。
リチャードはその光景を思い出し、目元を歪めた。彼の演説は終わっていて、兵士達は小隊ごとに散っていった。
駅周辺の建物を営舎にするらしく、扉を蹴り開けている。屋根のある場所に入れるからか、彼らは嬉しそうだ。
隣を見ると、彼は笑ったままだった。街並みの中で一際目立っている時計塔を見上げていたが、楽しげに言う。

「ようやく、来るところまで来たよ」

「そうですね」

リチャードが気のない相槌を打つと、彼は防寒着のポケットに両手を入れ、階段を下りていった。

「ヴァトラス中尉。僕は、人形共に手を加えてくる。ここまで来てうっかり反逆されたら、困るからね」

階段を下り切り、雪に埋もれた石畳で足を止めると、彼はリチャードに振り返った。

「それと、僕の命令を忘れてはいないよね?」

「了解しております」

リチャードが平坦に言うと、彼は満足げに笑った。

「失敗は、許さないよ」

リチャードが答えずにいると、彼は雪を踏み締めながら歩いていった。雪の付いた背が、遠ざかっていく。
その姿が見えなくなってから、リチャードは階段を下りた。駅前の広場や建物からは、兵士達の罵声がする。
建物の中を探しても食糧がなかったのだろう、苛立った言葉がいくつも聞こえていたが、聞かないことにした。
どこへ行かれるのですか、と兵士に声を掛けられたが、適当にあしらい、リチャードは街の大通りに向かった。
広場を出て角を曲がり、左右を商店に挟まれた幅の広い道に入ったが、人影はなく、自分の足音だけがした。
新しい雪を踏むたびに、ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ、と粉を握り締めたときに良く似た音が靴底の下で鳴った。
しばらくぶりになる見知った街並みは、死していた。人が生きる気配は完全に消えていて、話し声すらしない。
降り続ける雪と分厚い雲によって色彩は失われ、白と灰色だけしか色のない静かな世界が、延々と続いていた。
大通りを出て道を曲がり、王宮へ向かう道へ行く。道の先には、一際目立つ時計塔が、空高くそびえ立っていた。
その時計塔に近付く前に左へ曲がり、古びた屋敷ばかりが並んでいる住宅街に入ったが、やはり人はいない。
何百年も長らえてきた重厚な屋敷は、雪に柔らかく包まれていて、広い前庭の草木は枯れてしまっている。
見上げるほどの高さの塀の上には、先端を鋭く尖らせた柵がずらりと並んでおり、不気味に黒光りしている。
右側の塀が途切れたと思うと、また次の塀が現れた。見覚えのある色のレンガで造られた、塀の傍を辿る。
そして、正面に周り、上半分が半円状になっている鉄柱の門の前で立ち止まった。門の奧には、屋敷があった。
幼い頃から暮らしてきた、赤い壁の屋敷。閉ざされている正面玄関の扉には、スイセンの家紋が印されていた。
リチャードは、門に触れた。氷よりも冷え切っていて、手袋を付けていても、手が凍えてしまいそうだった。
門を押すと、ぎぃ、と蝶番を軋ませながら開いた。門を半分ほど開いて屋敷の敷地内に入り、門を閉めた。
なぜ開いていたのか、など、考えずとも解る。主がいつ帰ってきてもいいように、と彼女が開けたのだろう。
正面玄関に続く石畳の上だけ、雪がなかった。歩きやすいように両脇に寄せられていて、山になっている。
石畳の上に散らばっている小さな足跡を見ながら、リチャードは歩いていった。足音を殺して、気配も殺す。
正面玄関に昇り、扉を開いた。外気温よりはほんの少し温かかったが、それでも、屋敷の中は冷えていた。
肩に乗った雪を落としてから、軍帽を外した。厚ぼったい防寒着を脱ごうと手を掛けた時、足音がしてきた。
体重の軽い足音が、真っ直ぐに近付いてくる。廊下から出てきたその足音の主は、足を止め、目を見開いた。
黒いメイド服に上着を羽織った赤毛の少女が、広間に出たところで立ち止まっていたが、一歩、前に踏み出した。

「やあ」

リチャードが寒さに強張った顔で笑ってみせると、キャロルは目を潤ませていたが、頭を下げた。

「お帰りなさいませ!」

リチャードは扉を閉めると、駆け寄ってきたキャロルを見下ろした。キャロルは涙を溜め、頬を紅潮させている。
手袋を外してからその頬に触れると、ひゃっ、と小さく悲鳴が上がった。だが、触れている彼女の頬も冷たい。
リチャードは身を屈め、キャロルを真正面から見下ろした。よく見ると、薄い唇も血色が良くなく、顔色も白い。

「ちゃんと温かくしていないとダメじゃないか。また風邪引いちゃうよ」

「で、ですけど」

久々に聞いたリチャードの声が懐かしくて、キャロルはそれだけで泣きそうになっていたが、ぐっと堪えた。

「リチャードさんがお帰りになったら使おうと思って、薪も油も、溜め込んでいたんです」

「そう。ありがとう」

リチャードはキャロルに触れていた手を外し、背筋を伸ばした。防寒着を脱いで足元に落とすと、腕を伸ばした。
キャロルは、抵抗することなく、彼の胸に納まった。柔らかな感触と人の温もりが体中に広がり、心地良い。
リチャードは、冷え切って感覚の鈍っている手で彼女の髪に触れた。波打った赤毛からは、少女の匂いがする。
頬を当てると、それは確実に感じられた。腕に力を込めると弾力が返ってきて、押し当てた胸に鼓動が伝わる。
質の良い服の手触りも、微かな吐息も、愛おしげな声もする。夢にまで見た彼女が、確かに、ここにいるのだ。
訳もなく、泣き出したくなった。戦いに次ぐ戦いで乾ききっていた心が一気に潤って、それが涙になりそうだ。
赤毛を掻き分けて、その間から小さな耳を探り出す。頬を同じく冷え切っていた耳朶を、軽く噛んでやる。
また、頼りない悲鳴がした。だが決して嫌そうではなく、むしろ、嬉しさと戸惑いの入り混じった声だった。
耳朶から唇を離し、頬に当て、額に当て、そして、薄い唇に重ね合わせた。どちらのものも、冷たかった。
リチャードがキャロルの頬を挟もうとすると、それよりも先に彼女の手が伸びて、リチャードの頬を押さえた。
小さな手に引き寄せられるまま、口付けを深くする。慣れない動きで滑り込んできた舌が、まさぐってくる。
リチャードは、それに応えた。彼女の動きを妨げないようにしながら、出来るだけ優しく、舌を絡め合わせた。
キャロルは息を詰まらせていたが、リチャードの頬から手を外し、かかとを下げた。はあ、と肩を上下させる。

「…すいません」

「いや、いいよ」

リチャードは、羞恥で真っ赤になっているキャロルに笑んだ。ここまで彼女が積極的だったのは、初めてだ。
俯いている彼女は目線を彷徨わせていたが、体を前に傾げてきた。やけに慎重な手付きで、腰に腕を回してくる。
軍服の背を掴み、体を押し当ててきた。リチャードの胸に顔を埋めていたが、目を閉じて、不安げに呟いた。

「夢じゃ、ありませんよね?」

「うん。夢じゃないよ」

リチャードは、キャロルの髪に指を差し込んだ。キャロルは、リチャードの胸に耳を当てた。

「目が覚めたり、しませんよね? もう一度目を開けても、リチャードさんは、ここにいますよね?」

キャロルは、間近から聞こえてくるリチャードの高ぶった鼓動を感じながらも、不安と猜疑に苛まれていた。
こんな夢を、何度も見た。彼が死ぬ夢と同じくらいの回数で、彼が帰ってきてくれる夢を、何度も何度も。
頬に触れられた指の感触も唇を重ねた温かさも覚えているのに、目を開けたら、リチャードはそこにはいない。
今回もまた、夢かもしれない。目が覚めたら、一人きりで、彼のいないベッドで眠っているのかもしれない。
キャロルは力一杯リチャードにしがみ付いていたが、髪を梳いていた指が引き抜かれ、頬に手を添えられた。
そして、顔を上向きにされた。目を開くと、すぐ上には、やつれてはいるが以前と変わらないリチャードがいた。

「ああ、いるよ。僕は、ここにいる」

キャロルの目元から、溜まっていた涙が溢れ出した。頬を滑り落ちてきた彼女の涙が指に触れると、熱かった。
澄み切った緑色の瞳は、自分が映っている。もう一度口付けてやると、指に落ちてくる涙の量は途端に増した。
彼女から手を離してしまうのが、少し怖かった。戦場で見ていた夢では、手を離すと同時に彼女は消えていた。
だが、この彼女は、間違いなく本物だ。手のひらには体温が伝わってくるし、指先は熱い涙で濡れている。
もう二度と、離してしまいたくはない。華奢な腰に腕を回して引き寄せると、彼女の腕にも一層力が込められた。
小さく、しゃくり上げる声がする。一人きりでいたことが余程寂しかったのか、キャロルは泣き声を漏らしている。

「本当に、本当に、ここにいるんですよね?」

涙混じりで上擦っているキャロルの言葉に、リチャードは頷く。

「いるよ」

「もう、どこにも行っちゃわないで下さい! ずっと、ここにいて下さい!」

懇願するように、キャロルは声を上げた。リチャードは、彼女を宥めるために、優しく髪を撫でた。

「うん、そうしたいんだけどね。僕にはまだ、任務が残っているから」

キャロルは、大きく息を飲んだ。がばっとリチャードの胸から顔を上げ、大きな目を最大限まで見開いた。

「任務って、大佐って人からの命令ですか!?」

「知っているのかい、あの人のことを」

リチャードが尋ねると、キャロルはこくりと頷いた。

「一応、知っています。リチャードさんがいない間に、色々と、ありましたから」

「そうかぁ」

リチャードは、苦笑した。キャロルは事を知らないままでいるとばかり思っていたが、そうではなかったようだ。
だが、考えてみれば、至極当然のことだ。キャロルはアルゼンタムを造った男の娘だし、関わらないわけがない。
グレイス・ルーを始めとした関係者も割と近い位置にいたわけだし、彼女が事を知らずにいる方が無理な話だ。
出来れば、何も知らせずにおいて不安がらせたくないと思っていたが、これではそういうわけには行かないだろう。
キャロルは、かなり不安げにしている。リチャードの背に回された手は緩むことなく、軍服を固く握り締めている。

「その、大佐って人は、とても悪い人ですよね…?」

「ああ、凄くね。でも、従わなきゃならないんだ」

リチャードが仕方なさそうに眉を下げると、キャロルは強く叫ぶ。

「お願いです、もうあんな人には従わないで下さい!」

「僕も、出来ればそうしたいよ。だけどね、キャロル」

ごりっ、と硬いものがキャロルの胸元に押し当てられた。キャロルが胸を見下ろすと、拳銃が、鳩尾を抉っていた。
黒光りする銃身が白いエプロンに埋まっていて、ぎち、とハンマーが起こされた。引き金に、人差し指が掛かる。
キャロルは、目線を上げた。リチャードは先程までの柔らかな表情を消して、感情の失せた冷徹な目をしていた。
彼の左手には、どす黒い鉄塊が握られていた。キャロルの胸には、エプロン越しに鉄の冷たさが伝わってくる。

「従わないと、いけないんだ」

「これ、なんで、すか」

恐怖と戸惑いで、キャロルは声を震わせた。リチャードは、銃口を更に強く押し当ててくる。

「見ての通りだよ。僕が彼に従うように、君も僕に従ってくれ。そうでないと、僕は君を撃ってしまう」

キャロルの怯えた瞳を、リチャードは見下ろした。とても、胸苦しかった。

「彼は、僕にも多少なりとも魔法を施しているんだ。といっても、僕が逆らわないための必要最低限のものだから、僕の自我は失われていないし、意識もあるし、自由に行動を取ることも出来る。けれど、少しでも彼の命令に背こうとすれば、僕の体は意思とは反する行動を取るんだ。つまり、逃げようとしても逃げられないし、彼を殺そうとしても殺せないし、君を守ろうと思っても」

人差し指が曲がり、きち、と引き金が軽く軋んだ。

「守るどころか、殺そうとしてしまうんだ」

キャロルが身動いでいると、リチャードは顔を背けた。

「だから、キャロル。僕に従ってくれ。僕の言う通りに、この屋敷に皆を集めてくれ」

「リチャードさんは、それを、私に、命令したくないんですね」

震える膝に力を込め、キャロルはなんとか立っていた。リチャードは、苦しげに呻いた。

「…ああ。この屋敷に皆を集めたら、彼が来る。彼が来てしまったら、とても嫌なことが起きるからね」

「どんな、ことですか」

キャロルが怯えながら問うと、リチャードは口元を引きつらせた。

「とにかく、嫌なことだよ」

いつのまにか、喉が乾き切っていた。キャロルはごくんと唾を飲み下すと、一歩下がり、銃口から身を引いた。
従わなければ、死んでしまう。リチャードの手で、撃たれてしまう。だが、あの男になど従いたくはない。
けれど。キャロルは、リチャードを見上げた。彼は、初夜の時以上に苦しげで、手にしている銃が震えている。

「お願いだ、キャロル。君を、殺したくはないんだ」

喉の奥から絞り出された、掠れた言葉だった。彼の悲痛な表情を見ては、キャロルは従わずにはいられなかった。

「解りました」

キャロルは、もう一歩後退ってから、背筋を正した。両の拳を強く握り締め、爪を手のひらに食い込ませる。
本当に、リチャードは従いたくないのだろう。だが、彼に引き金を引かせないためにも、従わなければならない。
鳩尾には銃口の硬さが残っていて、どくどくと心臓が暴れている。寒さとは違った冷たさが、背筋に走った。
力の入らない足を前に動かしてリチャードの横を過ぎようとすると、突然視界が塞がれ、頭に何かが被さった。
見ると、それは彼の防寒着だった。内側には金糸で魔法陣が縫い付けてあり、リチャードの体温が残っている。
キャロルは防寒着を頭から外すと、リチャードを見上げた。リチャードは銃を下ろしていて、力なく笑っている。

「外、寒いから」

「ありがとうございます」

キャロルは、作った笑みで苦しげな表情を誤魔化しているリチャードを見上げていたが、彼の防寒着を羽織った。
積もっていた雪が溶けて少し湿っていたが、襟元には柔らかな毛が付けてあり、綿も分厚く、温かいものだった。
大きさが合っていないので裾を引き摺りそうになりながらも、キャロルは扉を開け、屋敷の外に走り出ていった。
彼女の足音が遠ざかると、リチャードは拳銃を上げた。じゃきりと弾倉を出したが、その中は全て空だった。
弾倉を回してから銃身に叩き込み、腰のホルスターに戻した。詰めが甘いよなぁ、とリチャードは内心で呟いた。
だが、彼のやり方に無駄はない。グレイスの教えてくれた隙を知っていなければ、彼女を撃っていたところだ。
体は寒さで冷え切っていたが、嫌な汗が滲み出ていた。張り詰めていた緊張を少し緩め、扉に寄り掛かった。
腕には、キャロルの温かみがありありと残っている。彼女を怯えさせてしまったことが、とても心苦しかった。
再会した早々に、あんなことはしたくなかった。ずっと抱き締めていたかったし、もっと口付けてやりたかった。
だがそれは、もうしばらく後にやればいい。事が終われば、彼を打ち倒すことが出来れば、出来るのだから。
だから、今しばらくの辛抱だ。そう思いながらリチャードは、キャロルの涙が染み込んでいる胸元を見下ろした。
彼女の涙の熱も、残留していた。




雪に視界を塞がれながら、キャロルは駆けていた。
吹き付けてくる雪混じりの風で、今し方まで感じていたリチャードの体温が失せ、また体が冷え切ってしまった。
誰の足跡もない雪道を、必死に走っていった。足を取られて転んでしまったが、すぐに立ち上がり、進み続けた。
息を切らしながら、フィリオラらの住む共同住宅への道を辿る。見慣れた景色は、雪によって様変わりしている。
従いたくはないが、従わなくてはならない。リチャードに自分を殺させては、そして、苦しませてはいけないのだ。
リチャードのためになら、命を張る覚悟など当の昔に出来ている。だが、これ以上、彼の傷を増やしたくなかった。
戦場にいた間、彼はどれだけの人を殺しただろう。彼の魔法で死した兵士は、どのくらいの人数になるのだろう。
それが、相当な数であることは確かだ。戦場から生きて戻ってくる方法はただ一つ、敵兵を殺すことなのだから。
頬に触れてきた手が、どれほどの血に汚れたかなど想像も付かない。だが、その血の分だけ、彼にも傷はある。
リチャードは性格は捻くれているかもしれないが、その実は至って普通の人間であり、笑いもすれば涙も流す。
だから、傷付いているはずだ。人を殺そうと思うだけでおぞましいのに、殺してしまえば、どれほどのものか。
その傷を、更に深めてはいけない。これ以上、彼の手を汚させてはいけない。その一心で、キャロルは駆けた。
住宅街へと引っ込んだ通りを抜け、もう一つ角を曲がれば共同住宅に着く。だが、その角の前に人影があった。
レンガ造りの壁に背を預け、灰色の外套を着た男が立っていた。キャロルは思わず足を止めて、呼吸を整えた。
灰色の外套の肩にはうっすらと雪が積もっていて、待っていたのは明らかだった。すると、彼は振り向いた。

「おおぅ、計算通りぃ」

妙に陽気な声を上げて、グレイスはキャロルに歩み寄ってきた。キャロルはちょっと憶して、一歩下がる。

「どうして、あなたが」

「いやぁなに。あの野郎の考えそうなことぐらい、予想が付くんだよ」

グレイスは丸メガネの奧で、灰色の瞳をにやりと細めた。キャロルは、防寒着の襟元を握り締める。

「ですけど、私。リチャードさんに、従わないと」

「その必要はねぇよ」

グレイスは頭に被せていたフードを外すと、首元から三つ編みを出し、背中に投げた。

「リチャードは死なねぇよ。でもって、キャロルも死なせねぇよ。そういう約束しちまったからな」

「え…」

思い掛けない言葉にキャロルが困惑していると、グレイスは、至極楽しげに笑った。



「死ぬのは、キースの馬鹿野郎だけだっつってんだよ」







06 3/18