軍服を着た女であった頃と寸分違わぬ表情で、フィリオラは笑っている。 上体を逸らしてとても気分の良さそうな高笑いを放ち、にいっと口元を広げ、小さくも鋭い牙を覗かせている。 可愛らしい顔立ちが憎悪と怒りに歪んでいて、鮮血に似た赤に変わった瞳は、ぎらついた輝きを帯びていた。 レオナルドは、その表情に言葉を失っていた。目の前の光景が信じられなくて、ただ呆然と彼女を見つめていた。 高笑いが、広間を満たしている。その声は間違いなくフィリオラのものだったが、その中身は別人だった。 フィリオラの体を得たキースは、実に心地良さそうに目を細め、己を抱き締めた。華奢な腕を掴み、声を上げる。 「ああ、最高だ、素敵だよ!」 彼女は、キースは、薄い唇の端を吊り上げる。 「僕はまだ終わっちゃいない、これから始まるんだ! 現に、僕の計略は成功しているじゃないか!」 「計略…だと?」 レオナルドが声を絞り出すと、そうさ、とキースは返した。 「このために、僕はお前達をこの屋敷に集めたのさ! お前達のどれを、新しい器にするか選んでいたんだよ!」 キースは長い髪を掻き上げると、いやらしさのある笑みを作った。広間にいる面々を、ぐるりと見渡す。 「五百年を長らえてきた甲冑、異能者、半吸血鬼、魔導師、無能な人間、機械人形、そして、姉さん。だけど、この女が一番丁度良かったのさ」 窓に映った自分の姿を見、キースは満足げにした。そこには、竜の力を解放した姿のフィリオラが映っている。 「適当に高い魔力を持っているし、舐められやすい見た目をしているし、竜の力も備わっている。魂と肉体にずれがあることも、素敵なことだよ。それだけ、僕が付け入るための隙が出来ているってことだからね。それに、お前達は、この女を殺せないはずだ。サラ・ジョーンズとしてお前達を見てきたから、解っているんだ。フィリオラ・ストレインは、お前達が決して殺意を抱けない相手なんだ。そうだろう、レオさん?」 キースの赤い瞳が、レオナルドに向く。その呼び方に、レオナルドは一瞬憶したが言い返した。 「フィリオラはどうした!」 「さあね。その辺りに漂っているんじゃないのかい。僕が突っ込むときに、自分から出ていったみたいだから」 キースは両手を上向け、肩を竦めてみせる。レオナルドはその言葉が信じられず、戸惑った。 「じ、自分から?」 「ああ、そうさ。この女は、わざわざ僕に体を明け渡してくれたんだ。嬉しいことじゃないか」 「フィリオラ、どこだ、返事をしろ!」 レオナルドは、虚空に張り上げた。だが、返事は返ってくることはなく、広間の中には彼女の気配はなかった。 どこだ、どこにいる。焦燥と激しい怒りで炎の力を高ぶらせながら、レオナルドは感覚を高め、目を動かした。 フィフィリアンヌも感覚を高めていたが、ふと、フローレンスに向いた。彼女の目線は、ある一点に向いていた。 ダニエルを見やると、ダニエルも、そちらに向いている。フィフィリアンヌは、彼らの見ている先を見てみた。 彼らの視線の先で、大柄な甲冑が突っ立っていた。高笑いを続けるフィリオラの姿をしたキースを、睨んでいる。 だが、その立ち姿はどこか違っていた。バスタードソードを抜いてはいるものの、構え方が何かおかしかった。 魔法の杖でも握るかのように、柄を両手で握り締めている。ギルディオスの構えにしては、なっていなかった。 まさか、とブラッドが小声で呟くと、大柄な甲冑は顔を上げた。その動きはやけに可愛らしくて、少女じみていた。 「ありゃ」 「って、お前…」 甲冑が発したにしては高い声に、レオナルドは振り返った。甲冑は剣を下ろすと、レオナルドに頭を下げた。 「あの、レオさん。私、ここにいますので」 「はぁあ!?」 訳が解らないのと腹立たしいのと驚いたので、レオナルドは声を裏返した。すると甲冑は、大きな肩を縮めた。 「そっ、そんなに怒らないで下さいよぉ!」 「そういやぁ、そんなことしたこともあったっけ」 フィリディオス、とブラッドがその状態の名を思い出して言うと、少女の仕草で甲冑は頷いた。 「はい、それを思い出したので、小父様の体を借りさせて頂いたんです。あ、小父様はご無事ですよ」 「だが、なんで…」 レオナルドはフィリオラの魂の入った甲冑、フィリディオスを見つめていたが、腹立ち紛れに声を荒げた。 「この馬鹿が! なんであんな野郎に体を渡しやがったんだ! 答えろ、フィリオラ!」 彼の激しい声に、フィリディオスは俯いた。トサカに似た赤い頭飾りが滑り落ち、それが妙にしおらしく見えた。 「ジョーさんと、同じ理由です。やっぱり、キースさんはとても可哀想なんです」 「下手な同情しやがって! そんなもん、何にもならねぇんだって、もう解っているだろうが!」 レオナルドは甲冑に詰め寄ると、がしゃん、とその胸倉を殴り付ける。その拳は熱していて、炎のようだった。 「いいか、オレは前にもお前に言ったぞ! そんなことではいつか身を滅ぼすと! 忘れたのか!」 「忘れてはいません。ですけどね、レオさん」 フィリディオスは苛立っているレオナルドを見下ろしていたが、明るい口調で言った。 「教えてあげたいんです。キースさんは、一人じゃないんだって」 「…なんだと?」 その言葉に困惑したレオナルドに、フィリディオスは背を向けた。慣れない手付きで、バスタードソードを構える。 その鋭い切っ先は、竜の少女を狙っていた。へぇ、とフィリオラの声で答えたキースは、面白そうに笑った。 「君みたいな子が、僕とやろうっていうのかい?」 「はい」 フィリディオスが頷くと、キースはマントを脱ぎ捨てて、拳を固める。 「先に言っておくけど、僕が君を倒したら、君だけじゃなくてギルディオス・ヴァトラスも死ぬんだけど?」 「死なせません。私も、小父様も、あなたも!」 フィリディオスは腰を落とし、駆け出した。キースは甲冑との間が詰まる前に身を翻し、広間の壁に手を向ける。 はっ、と一声発せられた途端に、強烈な衝撃波が起きた。熱の籠もった突風と共に、無数の破片が飛び散った。 粉塵が落ち着くと、白が目に飛び込んできた。雪の積もった裏庭に、吹き飛んだ壁の破片が散らばっている。 レオナルドは粉塵を吸い込んで咳き込みながら、裏庭を見据えた。雪に足を取られながら、二人が、戦っていた。 東方の舞踏に似た動きで、竜の少女が甲冑をあしらっている。身を翻すとスカートが広がり、雪を舞い上げる。 対する甲冑は、不慣れだった。バスタードソードを振るたびに剣に振り回され、雪に足を滑らせそうになっている。 見るからに、危なっかしかった。レオナルドが大穴の開いた壁から裏庭に出ると、甲冑は振り向き、声を上げた。 「レオさんも、大御婆様も、手は出さないで下さい!」 そう言った途端に拳が叩き込まれ、あうっ、と甲冑は顔を逸らす。よろけて後退ってから、また声を上げる。 「私の、責任ですから!」 「大した余裕だな!」 宙に舞い上がった竜の少女は、厚ぼったいスカートの下から白い足を伸ばし、甲冑の側頭部にめり込ませた。 甲冑は甲高い悲鳴を上げ、仰け反ってしまう。その間にも、更なる追撃が加えられ、次第にずり下がっていく。 誰がどう見ても、フィリディオスは劣勢だった。蹴り飛ばされてしまい、植え込みに背を埋め、剣を落とした。 がしゃっ、と巨大な剣が雪の中に転げた。銀色の刃に手を伸ばそうとするが、その手は、少女の膝に抉られる。 竜の少女、キースは、フィリディオスの右手を膝で押さえ付けていた。その手の真下にある剣を見下ろし、笑う。 「二十五年前も、似たようなことをした覚えがあるよ。あの時は、僕が負けてしまったんだけどね」 キースはフィリディオスの手から膝を外し、その手を足で踏み付けた。枝を折りながら、生け垣に銀色が埋まる。 「だが、いくら同じ体を得ていたって、所詮お前はお前なんだ。僕には、勝てやしないんだよ」 「いいんです、勝てなくったって」 靴底に踏み付けられた硬い痛みを右手に感じながら、フィリディオスは目の前のキースを見上げた。 「私は、勝つために戦うわけじゃありませんから」 「へぇ。でも、君はいつもいつも戦っていたじゃないか」 キースは身を屈め、フィリディオスのヘルムの前に顔を寄せた。ほっそりとした手が、甲冑の顎を掴む。 「竜の力を振り翳して、破壊することに喜びを感じて、戦った相手を蹂躙しては笑っていたじゃないか。それが、勝つためじゃなくてなんだっていうんだい」 「戦わなきゃいけないから、負けたらいけないから戦うんです!」 氷のように冷たい手に顎を上向けられ、フィリディオスは身を硬くした。魂の奥底に、怯えが沸き上がってくる。 目の前にいる女は、別人だ。姿形は自分なのだが、表情も言葉も仕草も、見たことのないものばかりだった。 とても、恐ろしかった。だが、何度も何度も、怖がってはいけない、と自分に言い聞かせながら気を張り詰めた。 彼に同情したのは自分なのだから、魂と体の接合を緩めて隙を作っていたのも自分なのだから、戦うのも自分だ。 そして、キースは、自分だ。彼の過去とフィリオラ自身の過去を重ね合わせると、以前にも増して、そう感じた。 誰からも愛されない幼少、自分の存在価値を見出せない日々、子を成せないことの絶望、そして、孤独の深淵。 少しでも歯車を違えていれば、フィリオラもこうなっていたのかもしれない。いや、そうなっていたことだろう。 ギルディオスやフィフィリアンヌからの愛情を知らなければ、レオナルドを愛さなければ、きっと、彼のように。 自分だけの世界を求めて彷徨って、誰も彼もを傷付けて、無意味に他人を殺めて、孤独の暗闇に堕ちていく。 今も、彼は孤独の中で足掻いている。グレイスにもリチャードにもジョセフィーヌにも、裏切られたのだから。 高笑いは、涙の裏返しだ。泣いてしまうと、一層寂しさは深まってしまうから、笑うことで誤魔化しているのだ。 フィリディオスは、彼の苦しみと絶望を思うと涙が出てきそうだったが、体が体なので出てくることはなかった。 すると、胸装甲の上に水滴が落ちた。音もなく降ってくる雪に比べて、熱いものが滴り、ついっと滑り落ちた。 何事かと見上げると、竜の少女の目尻から溢れ出していた。フィリディオスの感情と、同調したようだった。 「あ…」 キースはフィリディオスの顎から手を外し、めり込ませていた手から靴底を外すと、恐れるように後退した。 袖や手の甲で目元を拭うが、止まらない。拭った傍から滲み出てきた涙が、ぼたぼたと、雪に降り注ぐ。 「くそっ、くそ、くそぉ!」 キースは涙を拭う手を止め、両手で顔を覆った。背を丸め、恨めしげに喚いた。 「止まれ、止まらないか! こんなもの、出てくるなぁあああ!」 フィリディオスが体を起こすと、キースはもう数歩後退した。涙混じりの声が、上擦っている。 「近寄るな、僕に近寄るな! 触るんじゃない!」 立ち上がったフィリディオスは、キースに手を伸ばした。キースはその手を振り払おうとしたが、力が入らない。 際限なく流れる涙を落とし、顔を逸らす。魂を締め付けられるような苦しさで、息が詰まり、言葉が出なかった。 甲冑は剣を取ることもなく、キースを見下ろしている。キースはその視線が嫌で嫌でたまらず、逃げ出したかった。 魔法を放とうと思っても心が落ち着かず、魔力の出力が定まらない。どうしようもなく苦しくて、喘いでしまう。 顔を両手で覆って目を塞いでも、涙は止まらない。冷え切った体から出るにしては、いやに温度が高く、熱かった。 「いやだ」 死にたくない。死んでしまったら、終わりなのだ。 「いやだよ、ねえさん、かあさん」 死んでしまえば、また一人になる。姉にも会えなくなる。一人きりの世界に戻ることになる。 「ぼくはもう」 膝から力が抜けて折れ、その場に座り込んでしまった。 「ひとりは」 フィリディオスは、泣き伏せる竜の少女を見下ろした。両手で顔を覆い隠し、わなわなと肩を震わせている。 幼い頃、こうだった。自分の境遇と孤独を嘆いて、外へは目を向けようとしないで、塞ぎ込んでは泣いていた。 幻想ばかりを抱いて、叶うはずのない夢を見ていた。父と母が愛してくれる夢と、兄と姉と共に笑い合う夢を。 だが、それが夢だと気付いて、上辺ばかりの愛情に包まれた日常が不自然だと解ったらその夢は見なくなった。 その代わりに、更なる孤独に苛まれた。誰も自分を愛してくれない、愛するはずがないのだと、思っていた。 そんな時に現れたのが、ギルディオスとフィフィリアンヌだった。二人は、甘いだけではない愛を与えてくれた。 いいことをしたら褒めてくれて、悪いことをしたら叱ってくれる、ごく当たり前ながら温かな愛情を教えてくれた。 二人に愛されていた時の嬉しさは、忘れられない。だからこそ、キースにも、その嬉しさを与えてやりたかった。 誰もこの世に一人きりじゃない。決して寂しくなんかない。それを教えてやるには何をするべきかは、知っている。 フィリディオスは雪に膝を付くと、両腕を伸ばした。キースを引き寄せて胸の中に納め、優しく抱き締める。 「大丈夫」 フィリディオスは、竜の少女の髪を撫でる。 「もう、一人じゃありませんから」 「うそだ。だれも、ぼくをみとめない。だれも、ぼくをひつようとはしない」 キースが呻くように漏らすと、フィリディオスは穏やかに言った。 「私は、あなたを許しません。あなたのしてきたことは、許されないことばかりです。東竜都の皆さんを殺して、ジョーさんの体と十年間を奪って、ラミアンさんの魂を抜いて機械人形にして、ブラッドさんと戦わせようとして、兵士さん達をおかしくさせて、異能部隊の皆さんをダニーさん達と戦わせようとして、先生とキャロルさんを引き離して、小父様を苦しませて、大御婆様を悲しませて、首都を滅ぼさせて、旧王都を滅ぼそうとして。…レオさんを、怒らせて」 フィリディオスはキースを抱き締める腕に力を込め、声を詰まらせた。 「本当に、許せないことばかりです。だから私は、キースさんを、決して許したりはしない」 穏やかながら意志の強い、少女の言葉が続く。 「でも、もう、一人にはさせません。これ以上、あなたを一人にしてしまったら、また誰かを殺してしまうでしょうから」 「ひとりじゃ、なくなる…?」 フィリディオスの腕の中で、キースが弱々しく呟いた。はい、と甲冑は頷く。 「私は、あなたと戦います。私が死ぬまで、ずっと」 「おい、お前、まさか!」 レオナルドが叫ぶと、フィリディオスはレオナルドに向き、内心で笑ってみせた。 「これくらい、させて下さい。だって、私は、ずっと助けられてばっかりだったんですもん。小父様にも、レオさんにも。だから、それぐらいはしたいと思ったんです。それに、キースさんを一人で死なせたくなんてないんです。下手な同情だーとかまた怒られちゃいそうですけど、放ってはおけないんです。キースさんは、私に良く似ていますから」 「この…馬鹿が…」 レオナルドは怒りも何もかも通り越してしまい、その場に崩れ落ちてしまった。フィリディオスは、俯く。 「何も言わないで、一人で決めちゃって、ごめんなさい。ですけどね、レオさん」 彼女の声は、不自然に明るくなった。 「私、すぐに帰ってきますから」 フィリディオスは、腕の中の少女の温もりが弱くなっていることに気付いた。キースの魂が、力を失い始めている。 泣き喚いたせいで、残り僅かだった魔力を更に消耗してしまったのだろう。呼吸も、浅く弱いものになっている。 顔を覆っている手も力が抜けているのか、滑り落ちていた。赤に染まっていた瞳の色も薄らぎ、青へと戻っている。 若草色の翼がへたり、翼の先が雪に埋もれている。小さくしゃくり上げるキースの声だけが、雪の庭に響いていた。 フィリディオスは、内側に声を掛けた。小父様は、解ってくれますよね。すると、間を置いてから声が返ってきた。 解りはするが、認めたくはねぇ。けどよ、フィオ。これだけは約束してくれや。と、ギルディオスの言葉が止んだ。 なんですか、とフィリオラが問い返すと、ギルディオスは笑っていた。お前とレオの子供を、オレに拝ませてくれや。 フィリオラはそれに言葉を返すことはなく、沈めていた意識を浮かばせて魔力を高め、静かに魔法を紡いだ。 「空を忘れ、大地を離れ、時を見失い、光を受けぬ者よ。眠りの奧より、我は呼ぶ」 フィリオラは甲冑から魂を離し、甲冑の腕の中に納めていた自分の肉体へと戻す。 「その御魂に、安らぎと幸せのあらんことを。温かき器は我で在り、我が魂は汝を乞う」 甲冑から発せられていた声が消え、竜の少女の唇から言葉が発せられた。 「我、汝を乞う。汝、我を乞え。神より与えられし御魂よ、我と汝の願いを受け」 フィリオラは、体の内で脆弱に脈打っているキースの魂を感じながら、瞼を閉じた。 「永久に、重ならんことを」 翼の失せた背が、雪の中に沈んだ。鮮やかな濃緑だった髪が黒に戻り、扇形に広がって白の上に散らばった。 背中の冷たさと、胸の奥の熱さと、苦しさが、辛うじて意識を保っていた。鉛色の空が、視界を満たしている。 そこから落ちてくる雪が頬に触れて、すいっと溶けて流れ落ちる。腕も足も重たくて、自分ではないようだ。 目尻には、キースの流した涙が残っている。自分のもののはずなのに、やはり、自分のものではない気がした。 ごめんなさい、レオさん。帰れなかったら、ごめんなさい。声にならない声で言い、フィリオラは意識を失った。 雪の中に倒れたギルディオスは、二人の魂が重なり合ったことを感覚で感じながらも、身動きが取れなかった。 今すぐに起き上がってフィリオラを抱き起こしてやりたかったが、恐ろしいまでの脱力感で、動けなかった。 彼女の考えに、打ちのめされていた。キースを殺すことばかり考えていて、救うことなど、考えたこともなかった。 救えないものだと決め付けて、救えるはずがないのだと思い込んで、キースを殺せば彼は楽になると思っていた。 だが、そうでない方法も、あったのだ。つくづくオレってやつぁ馬鹿だよなぁ、とギルディオスは内心で自嘲した。 雪を踏み締める足音が、近付いてきた。視線を動かすと、表情を失ったレオナルドが、彼女の元に歩み寄った。 レオナルドはフィリオラの傍らに、座り込んだ。穏やかな顔をして眠る彼女の頬に付いた涙を、慎重に拭った。 「フィリオラ…」 髪に付いた雪を払ってやり、服が破れて露出した背を雪から離してやった。それでも、彼女は反応しなかった。 頼りない両肩から手を離すと、倒れ込んでくる。首が変な方向に曲がってしまったので、それを戻した。 強く抱き締めると、鼓動が聞こえてくる。その小さくも優しい音に、レオナルドはほんの少しだけ安堵した。 「フィリオラぁ…」 彼女の髪に頬を押し当て、レオナルドは猛った。 「この、馬鹿野郎がぁあああああっ!」 雪は、止むことはない。外での戦いを終え、内での戦いを始めた竜の少女と竜の青年に、絶え間なく降り注ぐ。 絶叫を続ける彼を宥めるかのように、眠りに落ちた彼女を癒すかのように、柔らかな白が世界を包み込んでいく。 レオナルドは、絶叫を続けていた。腕の中の彼女は、どんどん体温が抜けていき、まるで氷のようになった。 何を叫んでいたのか、自分でも良く覚えていない。だが、とにかく、彼女の名を繰り返し繰り返し叫んでいた。 その目が開くことを望みながら、温もりが戻ってくることを願いながら、愛しい竜の少女の名を呼び続けていた。 世界は、白い。清浄なまでに冷ややかで、残酷だ。優しくも厳しく、全てを凍て付かせる、雪のように。 時に、とても辛辣だ。 長きに渡る悪夢の終焉は、竜の青年に己の影を見出した、竜の少女の眠りによって訪れた。 深き闇から、白き世界へ。絶望と孤独の底から、慈しみと愛に満ちた彼女の内へと。 それは、世界の一部であり、世界の全てなのである。だが今は、その世界となった彼女が。 再び目を開くことを、祈ろうではないか。 06 3/29 |