レオナルドは、目を覚ました。 視界に入った天井はいやに高く、窓から差し込む日光は鋭い。布団の中は暖かだが、空気は底冷えしていた。 息を吐き出すと、白かった。レオナルドは上半身を起こして、寝癖の付いた髪を掻き乱しながら、欠伸をした。 右側にある窓に向くと、純白の雪に包まれた旧王都が遠くに望める。その手前にある深い森も、白一色だ。 あの出来事の後、旧王都で始まった戦いを避けるために、フィフィリアンヌの住む古びた城に移り住んだ。 目覚めるたびに、少しばかり戸惑ってしまう。この城に移り住んでからまだ日が浅いので、慣れてないのだ。 旧王都を取り囲んでいる城壁は、所々が崩壊していた。砲撃と思しき大きな弾痕が、いくつも付いている。 城壁の内側からは、うっすらと煙が立ち上っていた。戦闘が収束したとはいえ、戦火は燻っているようだった。 枕元から懐中時計を取り、蓋を開く。短針と長針は時計塔の鳴る時間を示しているが、鐘の音はしなかった。 五日前から始まった旧王都での戦闘で、時計塔も破壊されてしまった。だから、もう二度と鐘の音は聞こえない。 レオナルドは懐中時計をぱちりと閉じ、枕元に戻した。ほんの数日の間に、あらゆるものが失われてしまった。 そのことを、彼女が知ったらどう思うだろう。そう思いながら、レオナルドは、傍らで眠る彼女を見下ろした。 レオナルドが起き上がったために上半身の布団がめくれ上がっているが、彼女は反応せずに、眠り続けていた。 フィリオラは、穏やかな寝顔でゆっくりと胸を上下させている。レオナルドは身を屈めて、彼女と唇を重ねた。 柔らかくも冷たいそれを味わってから顔を離したが、彼女は目覚めなかった。レオナルドは、小さく苦笑いする。 「まぁ、オレは王子なんて柄じゃないからな」 おとぎ話では、眠れる姫君は王子の口付けで目覚める。だが、この竜の姫君は、いくら口付けても目覚めない。 朝日を受けて輝いている白い頬を撫で、レオナルドは目を伏せた。あの出来事から、もう十日が過ぎ去っていた。 様々な出来事の諸悪の根源であり黒幕であった、キース・ドラグーンとの攻防は、キースの敗北で終わった。 ジョセフィーヌの体から離脱したキースの魂を、フィリオラが内に取り込み、己の魂を一体にさせたからである。 その結果、フィリオラは深い眠りに沈んでしまった。体も冷え切ってしまい、鼓動がなければ死体も同然だった。 フィフィリアンヌの城に来ていた黒竜族の医者、ファイド・ドラグリクの診断によれば、一時的なものだそうだ。 彼女にとっては完全な異物であるキースの魂を無理に癒着させたので、双方を安定させるための休眠だそうだ。 だが、その一時がどれほどの長さなのかはファイドにも解らないらしく、黒竜族の医者は言葉を濁していた。 明日かもしれないし、一週間後かもしれないし、一年後かもしれないし、十年後かもしれない、と呟いていた。 レオナルドは、眠り続けるフィリオラを見つめた。こうして見ている分には、今すぐにでも目覚めそうだった。 目を開いてこちらを見上げ、ふにゃりと笑って照れくさそうに言うのだ。おはようございます、レオさん。と。 その声を聞かなくなっただけで、無性に寂しかった。レオナルドはフィリオラの手を取ると、頬に押し当てる。 「さっさと起きて、メシでも作れ」 レオナルドは、その手を握り締める。 「オレの、嫁になるんだろうが」 彼女の指先は外気と同じく冷え切っていたが、握り締めているうちにレオナルドの体温が移り、温まってきた。 冷ややかな手を温めてやりながら、レオナルドは悔しくなった。なぜ、あの時、何もしてやれなかったのだろう。 フィリオラがキースと共になった後、彼女を抱き締めてやるしか出来なかった。それしか、思い付かなかった。 今から考えれば、何かしらの魔法を施せば良かったのかもしれないが、あの時は余裕など欠片もなかった。 ただ、事態を把握するのに精一杯で、体温の抜けていく彼女の体を温めてやることしか頭に浮かばなかった。 守ってやろうと思っていたのに、守れなかった。それどころか、フィリオラに守られてしまったようなものだ。 事の結末としては、最悪だ。生きていた者は誰も死ななかったかもしれないが、これでは何の意味もない。 レオナルドはフィリオラの手を離して置くと、彼女の上半身に布団を掛け直してやり、その髪を指で梳いた。 「おい」 レオナルドはフィリオラの頬に触れ、冷え切った頬を温めた。 「お前が寝てる間に、旧王都はダメになっちまったぞ」 部屋の隅に目をやると、二人の部屋から空間転移魔法で運び出してきた荷物が、乱雑に積み重なっている。 「凄かったんだぞ。三日ぐらい、銃声と砲撃が止まなくってなぁ」 白い頬を、ぺたぺたと軽く叩く。 「キースがいなくなった途端に、共和国軍は規律が崩壊しちまったよ。連合軍が一方的に攻め立てて、共和国軍は呆気なく陥落しちまって、旧王都は滅茶苦茶だ。ダニーの報告によれば、オレとお前の部屋もぶっ壊されちまったんだとよ」 親指の先で、長い睫毛の影が落ちている目尻をなぞった。 「キースも、あれはあれで役に立っていたんだな。だが、考えてみたらそうだよな。いくら魔法を使ってのし上がったと言っても、それ相応の実力がなきゃ、大佐になんかなれるはずがないからな」 目元に触れていた指を下げていき、唇をなぞる。十日以上も眠り続けているせいで、彼女の唇は乾き切っていた。 どんな言葉を掛けても、揺さぶっても、どこに触れても、その瞼は開かなかった。まるで、人形のように思えた。 だが、胸に触れれば鼓動が聞こえるし、抱き締めれば体温も伝わってくる。それだけが、人形や死体でない証だ。 頼りない肩を掴んで抱き起こすと、腕の中に納めた。脱力しきっている彼女は、くたりと寄り掛かってくる。 尖り気味の耳元に口を寄せ、彼女の名を呼ぶ。聞こえないのだと解っていても、名を呼ばすにはいられない。 「フィリオラ」 初めて名を呼んでやった時、彼女はとても喜んでいた。些細なことなのに、涙が出るほど嬉しがってくれた。 「起きろ」 体を繋げた翌朝に、目覚めるのは彼女が先だ。起きろ、と言うよりも、起きて下さい、と言われる方が多かった。 「なあ」 死んでいないのだと思っても、いつか起きるはずだと信じていても、苦しくてならない。 「お願いだ」 なぜ、もっと好きだと言ってやれなかったんだろう。誰よりも愛しているのに、もっと大事に出来なかったのだろう。 会ったばかりの頃や隣に越したばかりの頃は、あれほどまでに嫌い合っていたのに、今では彼女が欠かせない。 手の届く場所にいるのが当たり前で、隣室に行けば彼女がいるのが常で、彼女の食事を食べるのが日常だった。 手は込んでいるが優しい味の料理を前にして、食べてばかりで何も言わない自分を、にこにこしながら見ていた。 時折目を向けてやると、気恥ずかしげに目を逸らしてしまうが、またしばらくすれば、こちらを向いてくれた。 縦長の瞳孔を持った青い瞳は、いつも不安げだった。彼女は、自分の料理の味に自信が持てないようだった。 なぜ、その時に、ちゃんとおいしいと言ってやれなかったのだろう。妙な気恥ずかしさと、意地が邪魔をした。 素直に感情を表すことが照れくさくて、愛情を示すのが下手だから、上手い言葉が出てこないせいでもあった。 考えれば考えるほど迷路に迷い込んで、行き詰まってしまう。だから結局、何も言えずに黙々と食べ続けた。 好きなのに、とは思うが、好きだからこそ言えない。愛しくて、胸の奥が締め付けられて、頭が働かなくなる。 近付くだけで戸惑って、目が合うだけで感情が高ぶって、触れるのが怖くなってしまうほど、恋しかった女だ。 レオナルドがそれを乗り越えて素直になるよりも先に、フィリオラは真っ赤になりながら近付いてきてくれた。 こちらが大事だと思っていたのと同じくらいに、彼女も好いてくれていた。あれほど、嫌いだと言っていたのに。 邪険にもしたし、無意味な暴言も吐いたし、手を振り払ったこともあった。なのに、好きだと言ってきてくれた。 こんな男のどこがいいんだ。血の気ばかりが多くて、何事にも器用じゃなくて、突っ走ったことばかりする男が。 いくら考えてみても、どこが彼女を惹き付けたのかは解らない。逆に、惹き付けられた部分ならいくらでもある。 怖がりながらも、真っ向に接してきてくれた。仲良くなろうとしてくれた。少しでも好意を見せたら、喜んでくれた。 笑ってやれば、それ以上の笑顔を返してくれた。愛してやれば、それ以上に愛してくれた。子供を、欲してくれた。 そんな彼女だから、愛している。レオナルドは苦しくなるほどの愛しさで息が詰まり、フィリオラを抱き竦めた。 「フィリオラ…」 彼女がキースを受け入れた理由も思いも、少しなら解る。異能故の孤独は、レオナルド自身も味わってきた。 だが、キースやフィリオラはそれ以上なのだ。キースの放った彼の記憶は、脳髄の中に刻み込まれていた。 自分が見てきたのではと思えるほど鮮やかで生々しい記憶の数々は、痛みと苦しみに満ちた哀しい過去だった。 差別と偏見と、畏怖と敬遠。愛して欲しいと求めてみても、愛してくれる者はおらず、孤独の深淵へと填っていく。 フィリオラも、それを味わっていたのだ。華やかなストレイン家の中にいても、彼女だけは家族ではなかった。 ツノがあるから、魔力が高いから、人でないから、竜だから。そんな理由のために、家族として扱われなかった。 それが一番よく解るから、似ているから、だから、キースを受け入れる。なんとも彼女らしい、短絡的な理由だ。 恐らくフィリオラは、キースの家族になってやりたかったのだろう。一体となって、同じ場所を共有する家族に。 優しいというよりも、愚かだ。いくら、キースの気持ちが理解出来るからとはいえ、そこまでする必要はない。 キースを死なせてやれば、それで全ては終わると彼女にも解っていたはずなのに、敢えて受け入れたのだから。 レオナルドは胸の奥に、じくりとした嫌な痛みを感じていた。彼女の中に他の男がいると思うと、癪に障る。 それが肉体的なものではなくとも、いや、肉体的でなく精神的に一体となっているからこそ余計に妬ける。 こんな時に何を考えているんだ、と思うが、一度感じてしまった感情は止められず、キースへの嫉妬が膨らむ。 「あの野郎」 レオナルドはフィリオラの顔を上げさせると、目の開いていない顔に顔を寄せた。 「おい、キース! そこにいるんなら、早くこの女を起こせ!」 彼女の目が覚めていないから、多少なりとも気恥ずかしさが失せていたので、言うだけ言ってやった。 「この女は、フィリオラはオレの嫁になる女だ! その女を、いつまでも縛り付けてるんじゃねぇ!」 言いたくても言えなかったことも、言った。 「オレもお前の子供が欲しいんだ! それぐらい好きなんだ、愛しているんだよ!」 もう一度、渾身の思いを込めて叫んだ。 「愛してんだよ!」 叫ぶのを止めると、部屋は途端に静まった。窓の外からは、鳥のさえずりらしき甲高い鳴き声が聞こえている。 レオナルドは、フィリオラの肩に額を当てた。いつのまにか滲んできた涙で視界が歪み、目元から滴が落ちる。 「なぁ」 目を閉じると、更に数滴、彼女の寝間着に滴り落ちた。 「おい」 だが、やはり、答えは返ってこなかった。レオナルドは溢れ出してしまいそうな涙を、力任せにぐいっと拭った。 フィリオラをベッドに横たえて、その体に布団を掛けてやる。何事もなかったかのように、眠り続けている。 その寝顔を見下ろし、レオナルドは無理に笑った。この竜の少女は、どこまでも自分を困らせてくれる女だ。 名残惜しく思いながらもベッドから下り、ソファーの背もたれに引っ掛けてあった上着とスラックスを取った。 別に着る必要はないと思うのだが、長年の習慣で、なんとなくスーツを着込んでしまってネクタイまで締めた。 当分の間は刑事としての仕事はなくなるだろうし、どこへ出かけるでもないのだが、他の服が思い当たらなかった。 やれやれだ、と自嘲しながら、レオナルドは部屋の扉に手を掛けた。古びた城に似合う分厚い扉を、押し開ける。 「オレは下にいる。起きたら、お前も来い」 意味はないと解っていても、言っておきたかった。レオナルドはベッドの上の彼女に手を振ってから、部屋を出た。 石造りの廊下を歩きながら、目元から涙を全て拭い去った。ここ数日で、すっかり涙もろくなってしまっている。 こんなことではいけない、とは思うがどうにも出来なかった。涙ばかりは、いくら意地を張っても止められない。 レオナルドは立ち止まると、雪が窓枠に積もった窓から旧王都を見下ろした。未だに、白い煙が流れ続けている。 数日前の戦闘で、旧王都は炎に包まれていた。正しく業火と言い表すのが相応しい、地獄のような光景だった。 空を焼き付くさんばかりに溢れた炎が、街と言わず城壁と言わず、全てを焦がしながら世界を朱に染めていた。 炎は、そういうものだ。ただ乱暴なばかりで、誰かを癒すことや守ることは出来ない。自分のようだ、と思った。 とても、やるせなくなった。 竜の城の食堂では、彼女が忙しく働いていた。 んーと、えーと、などと舌っ足らずな幼い口調で独り言を呟きながら、エプロンドレスの裾を翻して走り回っている。 横に長く大きなテーブルの上には、皿が並べられている。その上で湯気を昇らせる料理は、立派な出来だった。 ブラッドは食卓の端の椅子に座っていたが、呆気に取られていた。まさか、母がここまで出来るとは思わなかった。 父親に寄れば、ジョセフィーヌは知性こそ幼いが家事の腕はなかなかのもので、一通りをこなせるのだそうだ。 中でも料理は一番好きで、褒めてやれば得意になって作る。本人が飽きるまで、同じものを何度も何度も。 ラミアンからそれを言われた時は信じられなかったが、こうして目にすると、父親の話を疑う余地などなかった。 母親、ジョセフィーヌは、テーブルを見回して指折り数えているが、その数が五以上を数えることはなかった。 成熟した大人の女性の体付きに似合わない幼い表情で、調子外れの歌を歌いながら、料理の皿を運んでくる。 ブラッドは頬杖を付きながら、母の様子を眺めていた。五歳程度の知性しか持たない母親は、嬉しそうだった。 十日前のキースとの攻防の末、キースの魂の呪縛から解放されたジョセフィーヌは、母親になろうとしている。 最初はぎこちなかったものの、日を追うに連れて徐々に馴れ馴れしくなってきて、今ではべったりと接してくる。 ブラッドは、正直なところ戸惑っていた。母親との接し方など知らないので、母に対して上手く返せずにいた。 今も、そうだった。ジョセフィーヌは、際限なくブラッドへの朝食を作り続け、かれこれ二時間以上になる。 フィフィリアンヌの城に備蓄されていた食糧を浪費していることもそうなのだが、ただ無駄なだけだと思った。 そんなことをされても、ジョセフィーヌが母であるという認識が、ブラッドの中に湧いてくることはない。 母ちゃんってのがまず解らねぇんだよ、と内心で呟いたブラッドが顔を背けると、目の前に母が現れた。 「ブラッドー」 ジョセフィーヌはエプロンで手を拭いながら、ブラッドの前にしゃがんだ。 「ごはん、たべないの?」 「…作りすぎ」 ブラッドがぼやくと、えー、とジョセフィーヌは床に座り込み、頬を張ってむくれる。 「ジョーはブラッドによろこんでもらおうとおもっただけなのにー」 「そうだぞ、ブラッディ。ジョーがせっかく作ってくれたのだ、喜んでやれ」 ブラッドの向かい側に座っている銀色の骸骨、ラミアンは笑った。ブラッドはやりづらくなり、顔をしかめる。 「父ちゃんもなんか言ってやってくれよ。フィルさんの貯めた食糧、無駄にしてるだけじゃんか」 「むだじゃないもん。ねー、ラミアン」 ジョセフィーヌが首をかしげてみせると、ラミアンは頷いた。 「ああ、無駄ではないよ、ジョー。作れば作っただけ、ブラッディは食べてくれるはずさ」 「けどさ」 ブラッドが少し嫌そうにすると、ジョセフィーヌは真下から息子を見上げる。 「ブラッド、ジョーのおりょうり、きらい?」 「嫌いとかそういうんじゃなくってさ」 ブラッドは母の視線から目を逸らすと、ジョセフィーヌは息子の目線の先に回り込む。 「あー、じゃー、ドラゴンのおねーさんのこと? だいじょーぶだよ、おねーさん、すぐにおっきするから」 「そう言って、もう十日も過ぎたじゃんか。フィオ姉ちゃん、いつになったら起きるんだよ」 怪訝そうなブラッドに、ジョセフィーヌはにこにこする。 「だいじょーぶなのはだいじょーぶなの。ほんとうにほんとうだよ」 けどさ、とブラッドは呟き、黙ってしまった。母が、キースの演じるサラであった頃を、つい思い浮かべてしまう。 サラはそつのない女性で、住人達にさりげなく気配りをする穏やかな女性だったので、母との落差が激しいのだ。 サラとジョセフィーヌは姿形さえ同じだが、中身が全く違うので別人も同然だ。なので、ブラッドは混乱していた。 どういう態度を取って良いのか、全く解らない。素直になろうと思っても、何を言えばいいのか、思い付かない。 ブラッドが言葉に詰まっていると、頭に手が乗せられた。ギルディオスと同じやり方で、ぐしゃりと撫でてくる。 「いいこいいこ」 見上げると、ジョセフィーヌがブラッドの髪を乱していた。 「ブラッドは、ドラゴンのおねーさんがすきなんだね。ブラッドは、やさしいいいこ」 ジョセフィーヌはブラッドを撫でていた手を外し、おもむろに息子を抱き締めた。 「いいこいいこ」 ブラッドは母の腕を押し退けようとしたが、足音が近付いてきたのでそちらを見上げると、父親が立っていた。 ラミアンは、慎重な手付きでブラッドの頭に触れた。ジョセフィーヌよりも幾分優しい手付きで、息子を撫でる。 母の体温と父の手の感触に、ブラッドは俯いた。混乱は一層強くなってしまい、変に緊張して、体を固めた。 似たようなことなら、フィリオラとギルディオスに何度となくやられているのに、初めてのような気がした。 柔らかく温かな腕の中と優しい匂いに、胸が詰まってしまいそうだ。いいこいいこ、と母は何度も言っている。 オレはそんなに良い子じゃねぇよ、と言い返そうと思っても、言葉にならない。苦しくて、声が出てこない。 いないものだと決め付けていた母が、ここにいる。母の腕に抱かれて、その温もりを感じて、愛されている。 母のいる日々を、望まなかったわけではない。なのに、照れくさい。そして、息が詰まりそうなほど嬉しかった。 キースの言動やサラの印象は未だに払拭出来ていないが、ここにいる女性は、間違いなく己の母だと解った。 その証拠に、とても温かい。心の底から滲み出てくる穏やかなものを感じ、ブラッドはなぜか泣いていた。 自分のことなのに、悲しいのか嬉しいのか区別が付かないぐらい苦しくて、ぼろぼろと涙が溢れ出してしまう。 無意識に、母に縋っていた。ブラッドがジョセフィーヌのエプロンを握り締めると、母親の腕の力も強くなった。 「いいこいいこ」 ブラッドの頭上から聞こえるジョセフィーヌの声も、涙声だった。 「ブラッドは、すっごく、いいこ。だって、ラミアンとジョーのこどもだもん」 ラミアンは、声を殺して泣いている息子と妻を見下ろしていた。息子の金に近い銀髪を、撫でていた手を止める。 しゃくり上げ始めたジョセフィーヌの背を撫でて宥めてやりながら、ラミアンは仮面の奧で、気持ちだけ目を細めた。 これから、辛い日々が始まる。キースがジョセフィーヌの体を使って犯してきた罪の多さと重さが、彼女を苦しめる。 ラミアン自身も、殺戮してしまった人々に対する罪悪感は消えていないし、罪を償うのはこれからだと思っている。 ブラッドも、そんな両親に普通に接することは出来ないだろうし、今までの経緯があるだけに、わだかまりもある。 だがいずれも、きっと乗り越えることが出来るだろう。これといった根拠はないが、いやに明確な自信があった。 何もかもが、愛おしい。体が生身でなくなったとはいえ、こうしてまた家族と触れ合えるだけで嬉しくてならない。 ああ、幸福だ。旧王都が破壊されてしまったことなど、どうでもよくなってしまうほど、ラミアンは幸せだった。 魂が満たされるような、感情だった。 大量の本が壁を埋め尽くしている居間に、三人はいた。 城の主であるフィフィリアンヌは悠然とソファーに身を沈めていて、分厚い本を膝に載せ、ぱらぱらとめくっている。 その手前のテーブルには、ワイングラスに身を満たした伯爵がおり、注がれたばかりの赤ワインを吸収していた。 ギルディオスは、何をするでもなくぼんやりしていた。高い窓から降り注ぐ朝日を浴びて、装甲が輝いている。 大きな暖炉では、薪が爆ぜている。ぱちり、と火の粉が飛び散る際の破裂音と、紙をめくる以外の音はしない。 三人とも、黙りこくっていた。だが、広大な居間に流れている空気は不思議と穏やかで、平和そのものだった。 黙々と活字を追っているフィフィリアンヌ、にゅるりと蠢いている伯爵、そして、ぼんやりしているギルディオス。 今回の事に対する葛藤や苦しみがそれぞれにあるはずなのだが、表には出すこともなく、終始何も言わなかった。 言葉にするのが億劫なのか、それとも、言葉を使う必要がないのか。どちらにせよ、これが三人の関係なのだ。 家族にしては奇妙で、仲間にしては希薄で、友人にしては親しみがない。だがそれが、居心地が良いのだろう。 ファイドはジョセフィーヌの診断書から顔を上げ、三人を眺めた。この城には、やはりこの三人がよく似合う。 彼らによってキースの計略が終焉を迎えた日、ファイドはフィフィリアンヌに呼ばれて、旧王都に向かっていた。 だが、激しい雪に阻まれてしまい、空を飛んでいてもなかなか前に進めず、到着したのは夜になってからだった。 その時には全ての決着が付いていて、キースの魂はフィリオラと一体となり、ジョセフィーヌも元に戻っていた。 ファイドの、予想した通りの結末だった。思っていた通り、フィリオラはキースを受け止め、共にあろうとした。 キースとフィリオラの両方に接したことのあるファイドからしてみれば、彼女と彼は光と闇のような存在だ。 形は違えど似た境遇の二人ならば、心を通わせることが出来る。それが、キースにとっては一番幸せな結末だ。 だが、フィリオラにとっては幸せなのだろうか。事実、キースを受け入れたことで、彼女は冬眠状態に陥った。 一種の仮死状態に近い冬眠を行うと、身体機能が著しく低下してしまうので、あのままでは子供は作れない。 しかも、その切っ掛けが、他者の魂を受け入れたことによる魔力中枢の混乱と来ていれば、相当に厄介だ。 数日前にフィリオラを診断したのだが、魂の器とも言える魔力中枢の、魔力の流れが乱れに乱れていた。 一応、元に戻すための魔法は施したのだが、魔力中枢の根本から乱れているのであまり効果はなかった。 異物であるキースの魂の精神状態を安定させれば、フィリオラは目覚めるのだが、そればかりは手を出せない。 医者といえど、決して万能ではない。魔力の流れを操るのに長けた、東方の医者であったなら別だろうが。 生憎、ファイドの医術は西方のものだ。薬と施術に頼った、どちらかといえば即物的な医療を行っている。 東方の医術も囓ったことがあるのだが、簡単なものをいくつか知っているだけで、大したことは出来ない。 勉強のやり直しだなぁこれは、と内心で思いながら、ファイドはジョセフィーヌの診断書に目を落とした。 ジョセフィーヌの体は、意外なほど異常がなかった。キースは、彼女の体には手は出していなかったらしい。 余程、大事にしていたのだろう。彼にとっては初めての友人であり、掛け替えのない居場所だったのだから。 ファイドは改めてキースに同情しつつ、傍らに診断書を置いた。くたびれた白衣のポケットに、両手を突っ込む。 「外は大変だってのに、君らは平和だねぇ」 「悪いか」 本から顔も上げずに、フィフィリアンヌが言い返した。ファイドは、彼女の横顔に笑いかける。 「いや、別に」 「なんか、寂しいな」 ギルディオスは、フィフィリアンヌにヘルムを向けた。その胸装甲には、己の剣による傷が残っている。 「散々引っ掻き回してくれたキースが、いなくなっちまうとよ」 「確かにな。だが、あの子はいなくなったわけではない。まだ、私達の傍にいるではないか」 フィフィリアンヌは赤い瞳を動かし、ギルディオスに据えた。 「フィリオラの中に」 「はっはっはっはっはっはっは。だが、これでやりやすくなったのであるな、フィフィリアンヌよ」 ごぼごぼと泡立ちながら、伯爵が高笑いする。 「貴君の末裔と弟が一体となっている今、貴君がフィリオラを愛せば、それと同時にキースも愛せるのである。実に効率的であり、無駄がないのであるぞ」 「けどよ、伯爵。その前に、フィオが目ぇ覚まさないとどうにもならねぇぜ?」 ギルディオスは、両手を上向けてみせた。フィフィリアンヌは本のページをめくっていたが、その手を止めた。 「案ずるな。あの子はじきに目を覚ます」 「その根拠は?」 ファイドが尋ねると、フィフィリアンヌは素っ気なく返した。 「あってもなくても、別にどうでもよかろう。あの子は冬眠しておるだけなのだから、目覚めるのが当然なのだ」 「変わったねぇ、君も」 ファイドが少し可笑しげにすると、フィフィリアンヌは心外そうに眉を曲げる。 「いいではないか。希望的観測とやらを持ってみても」 「ま、オレもそう思いてぇよ。気持ちは解るぜ、フィル」 うん、と頷いたギルディオスは、体を起こした。ソファーから立ち上がると、隣に立て掛けてあった剣を取る。 「んじゃ、しばらく外で修練でもしてくるわ。体が鈍るといけねぇから」 「はっはっはっはっはっはっはっは。ニワトリ頭よ、貴君の場合は錆びると表現するのが妥当なのである」 伯爵の言葉に、ギルディオスは半笑いで返した。 「うるせぇやい」 んじゃな、と手を振りながら、甲冑は居間を後にした。フィフィリアンヌは、赤いマントを付けたその背を見送った。 扉が閉じると、重たい足音が廊下を遠ざかっていく。フィフィリアンヌは本に目を戻すことなく、扉を見つめていた。 キースとの戦いや魔導師協会での忙しい日々で、すっかり忘れてしまっていた。緩やかな時間の、心地良さを。 膝に載せた本の重みと、指に触れる乾いた紙の手触り。赤ワインの渋く深みのある味に、彼が傍にいる日々。 五百年間続いた日々が、また戻ってきた。ただ、それだけだ。何が変わったわけでもないし、変えたものもない。 キースとの戦いは、一時の夢のように思えた。長い長い悪夢の中にいたような、凄絶で残酷な出来事だった。 だが、弟の存在は、決して夢ではない。フィフィリアンヌは服を探ると、キースの使っていたメガネを取り出した。 触れることの出来る彼の証が、ちゃんと残っている。フィフィリアンヌは、キースのメガネを開き、掛けてみた。 グレイスのものと同じく、度が入っていないので景色は歪まなかった。これが、キースに見ていた世界なのだ。 伯爵のワイングラスに映る自分を見てみると、弟に良く似ていた。少し笑ってみると、表情も、似通っていた。 弟は、ここにいる。今度こそ、愛してやろう。どうしようもなく愚かで邪悪な、だが、掛け替えのない弟を。 伯爵はワイングラスの内から、メガネを掛けたフィフィリアンヌの微笑みを見ていたが、うにゅりと身を捩った。 「貴君には、そのようなものも表情も似合わぬのである」 「黙れ」 途端に笑みを消したフィフィリアンヌは、伯爵を睨んだ。だが伯爵は動じることもなく、ぶるぶると震える。 饒舌に文句を並べる伯爵と即座に言い返しているフィフィリアンヌの様子に、ファイドは微笑ましい気分になる。 フィフィリアンヌらの傍はファイドにとっても不思議と居心地が良いので、もうしばらく居続けたいと思っていた。 それに、フィリオラとジョセフィーヌの診断もそうなのだが、能力強化兵とされた者達の治療をする必要がある。 今のところは応急処置程度の治療しか施していないので、ちゃんと手術をして、解呪もしなければならない。 異能者である彼らを元に戻すのは容易なことではないが、医者としての誇りに掛けても、彼らを治さなくては。 ファイドは患者達の診断書をめくりながら、今日は誰を治すか考えていた。この城の中は、今日も平和だった。 世界の流れから逸脱している城の中は、人でないが人である彼らが成し上げた、それぞれの生きる居場所だ。 平和でいて、当然だ。 06 3/31 |