ドラゴンは眠らない




夢の終焉



城の一室で、二人は微睡んでいた。
もう起きるべき時間であるとは思っているが、動きたくなかった。彼女の傍から離れるのが、惜しくてならない。
腕の中には、穏やかに寝息を立てる赤毛の少女がいる。首から結婚指輪を提げている、愛しい幼妻だ。
リチャードはうっすらと目を開き、見える光景の違いで、ここがどこなのかを思い出した。竜の住まう城だ。
ベッドに沈めている体は重たく、頭は冴えない。もう一度目を閉じてしまえば、また眠りに落ちるだろう。
キースとの攻防での疲れは取れていたのだが、長きに渡る戦地での日々で摩耗した精神は戻っていなかった。
人を殺す際の感触は、実際に手を下さなくてもいいものではない。何度となく、戦地での悪夢を見ていた。
目を覚ますたびに、傍にキャロルがいることを確かめた。彼女がいると解ると、それだけで気分が安らいだ。
リチャードはキャロルの波打った赤毛に手を触れながら、キースが自分に目を付けた理由を、考えてみた。
魔導師としての腕を買われたのが一番だろうが、それだけではない気がした。彼の過去を見れば、そう感じる。
恐らく、ラミアンの場合と同じなのだろう。動機から復讐は抜け落ちているが、それ以外は当て嵌まるのだ。
考え得るに、キースは幸せになる者が気に食わなかったのだ。特に、自分が得られなかった愛を得た者が。
単なるやっかみで戦場にまで引っ張り出されちゃいい迷惑だよな、とリチャードは心底げんなりしてしまった。
本当に、キースは子供だった。自分の思い通りに物事が進むと思い込んでいて、そうならないと怒ってしまう。
彼は、大人になる機会を失っていたのだ。幼い価値観のまま力を得てしまったのが、彼の最大の不幸だ。
生まれがウェイランの子でなければ、東竜都で権力さえ得なければ、キースはそれほど道を誤らなかっただろう。
やはり、力は不要なものだ。力なきこそが素晴らしい、と説いた大魔導師ヴァトラの言葉は正しかったのだ。
リチャードがそれを噛み締めていると、キャロルが身動きした。寝惚けているのか、リチャードの胸に縋ってくる。

「ん…」

リチャードはキャロルを抱き寄せると、髪の隙間から覗いた耳元に囁いた。

「おはよう、キャロル」

「おはようございます、リチャードさん」

キャロルはその声で完全に目を覚まし、言葉を返した。リチャードの腕に頭を預けてから、間近の彼を見上げた。
リチャードの表情は、柔らかなものだった。旧王都に戻ってきてすぐは、キースの件もあってその表情は硬かった。
だが、抱き合って口付け合って言葉を交わすうち、緩くなってきた。キャロルは、それが嬉しくて仕方なかった。
目覚めても、消えることはない。夢ではなく、現実に彼がここにいる。それだけでも、泣き出しそうなほど嬉しい。
キャロルは体をずり上げて、リチャードの目の前に顔を出した。どちらからともなく間を詰めて、唇を重ねる。
互いを確かめ合うように、時間を掛けた。キャロルはそっと唇を離すと、目の前のリチャードに微笑んでみせた。

「お帰りなさいませ」

「それ、もう十五回ぐらいになるんだけど」

リチャードが変な顔をすると、キャロルは照れくさそうにする。

「だって、なんだか、言いたいんですもん」

「まぁ、別に良いけどね」

悪い気はしないし、とリチャードは笑い返してやった。キャロルはリチャードのその笑顔に、また嬉しくなった。
リチャードは手を伸ばし、キャロルの頬に触れた。気恥ずかしさからか、ほんのりと紅潮していて愛らしかった。
彼女の頬を手で包みながら、リチャードは自分の状況を思い出した。穏やかな時間の中にいたので、忘れていた。

「そういえば、僕は戦犯なんだよなぁ」

「はい?」

聞き慣れない単語に、キャロルは聞き返した。リチャードは、キャロルを見下ろす。

「ああ、うん。僕はさ、かなり広範囲を攻撃させられてたんだよね。だから、多少は不可抗力があったんだよ」

リチャードは言葉を選びながら、言った。

「僕の意思とは無関係に、僕の魔法の巻き添え喰っちゃった人がいたってことさ。その数は大したことはないけど、死なせたことには変わりないんだよ。キース・ドラグーンが死んじゃったから、彼が政府高官とか上位軍人に掛けていた魔法も切れたはずなんだ。もう十日も過ぎたしね。正気に戻った高官達がこの惨状を見て、特務部隊とキース・ドラグーンの関係者である僕に何かしらの処分をしないはずがないんだ。いや、この分だと極刑だなぁ。諸々の責任とかも僕になすりつけて処刑しちゃう、ってのが妥当かな、うん」

「しょけい、って…」

キャロルが、徐々に目を見開いていく。リチャードは、苦笑いする。

「共和国が大敗した言い訳に使われるかもしれないってことだよ。それでなくても、昨今は魔導師って職業の扱いは良くないしね。魔導師協会も、フィルさんみたいな強烈な人が上にいたせいで、結構過激な部分もあったし、ここぞとばかりに叩かれちゃいそうな気がするよ」

「魔導師協会の会長って、フィルさんなんですか? でも、会長さんのお名前は違うような」

「ま、色々あるんでしょ。ああいう人だから」

「でも、本当にそうなってしまうんでしょうか」

処刑だなんて、と目を伏せたキャロルに、リチャードは頷いた。

「そうなるのが当然さ。僕は曲がりなりにも、キース・ドラグーンの部下だったわけだしね。上官の起こした厄介事の責任は部下が背負う、ってのが筋なんだよ」

「私、嫌です! リチャードさんが処刑されるなんて、絶対に!」

キャロルはがばっと起き上がると、胸の前で手を組んだ。リチャードも起き上がり、表情を強張らせた彼女に向く。

「うん。僕も、それは嫌だね。せっかく生きて帰ってこれたのに、政府に殺されちゃうってのは情けないよね」

リチャードはキャロルの肩を抱き寄せ、腕の中に納めた。

「んで、君ならどうしたい?」

「どう、って…」

キャロルは体を傾げて、リチャードの胸に背を預けた。

「いっそのこと、逃げてしまいたいです。リチャードさんと一緒に、政府と軍の目が届かないところまで」

「それじゃ、そうする?」

「え?」

上機嫌に笑うリチャードに、キャロルは目を丸くした。リチャードはキャロルを抱き締め、顔を寄せる。

「僕も、そうしたいって思っていたところなんだ。殺されちゃうぐらいなら、君を連れて逃げてしまおうってね。魔導師協会の今後とか考えると、それじゃいけないなーって気もしないでもないんだけど、なんか、そういうのがどうでもよくなっちゃったんだ。生きて帰ってきて、君と一緒に寝て起きて、こうやってべったりしてるとさ、こっちの方が大事なんじゃないかって思えてきたんだ」

リチャードの言葉が嬉しくて、キャロルは表情を緩ませた。背中に感じる温かさが心地良く、更に嬉しさは増す。

「私も。リチャードさんが、凄く大事です。もう二度と、離れたくなんてありません」

「んじゃ、決定ということで」

「はい?」

キャロルがきょとんとすると、リチャードはにんまりする。

「そうと決まったら、国外逃亡と行こう。政府と軍に感付かれる前に、ちゃっちゃと国境を越えてしまおう」

「え、でも」

キャロルが不安げに眉を下げると、リチャードは自信に満ちた笑みになる。

「大丈夫さ、そんなこと。僕には魔法があるから。どんなことだって、どうにだってなるさ」

彼の笑顔に、キャロルは次第に心配が失せてきた。明確な根拠などなかったが、リチャードの言葉を信頼した。
この人と一緒なら、大丈夫。何があっても、きっと。そう強く思いながら、キャロルは満面の笑みで頷いた。

「はい!」

「それじゃ、さっさと準備に取り掛かろうじゃないか。荷物は最小限にしないとね」

リチャードはキャロルから離れると、ベッドから下りた。数歩歩いたが、ベッドの上の彼女に振り返る。

「あーそうそう、当然だけど、誰にも秘密だよ。この城には魔導師協会の会長もいらっしゃるし、それでなくても軍人やら警察官やらがいるんだ。見つかったら面倒だから、素早く進めよう」

「それもそうですね」

キャロルは小さく笑ってから、ベッドから下りた。部屋履きを突っかけて、底冷えする石組みの床を歩いていった。
ここ数日で二人の寝室と化した部屋は、以前は客間として使っていたらしく、簡素な家具がいくつか置かれていた。
ソファーやテーブルの上に積み重ねてある二人の服は、ヴァトラスの屋敷から持ち出せるだけ持ち出したものだ。
その中には、キャロルの花嫁衣装も混じっていた。どうしても手放す気が起きず、つい持ってきてしまったのだ。
キャロルは朝日を浴びて眩しく光る白いドレスを、見つめた。これからようやく、リチャードとの新婚生活が始まる。
逃亡生活とも言うが、なんでも良かった。リチャードの傍にいられるならば、政府や軍を敵に回しても構わない。
リチャードが出征してからの日々は、とても寂しくて辛かった。その辛さに比べれば、大したことはないと思った。
それに、彼と共に逃げ回るということは、生きるも死ぬも一緒ということだ。変な話だが、それが嬉しかった。
幼い頃から、ずっと一人だった。父にも母にも愛されず、愛に飢えながらも、それから目を逸らして生きていた。
だがやはり、そうやって生きることは苦しかった。その苦しみから自分を守るために、笑顔を作ってばかりいた。
リチャードへ恋をしたのも、最初の頃はただの現実逃避だった。もちろん、本当に憧れていたし、好いていた。
だが、彼に思いを寄せていると、それだけで空虚な心が満たされるような気がして、現実の苦しみが和らいだ。
叶うはずのない、叶えるつもりもない恋だった。だから、彼と共にいられることからして、奇跡のようだった。
その上、結婚してくれて、挙げ句に一緒に逃げようとまで言ってくれた。これが、嬉しくないわけがない。
愛する人と生きられることが、何よりの幸せだ。今までの不幸など吹き飛んでしまいそうなほど、幸せだった。
キャロルは、首から提げた結婚指輪を握り締めた。フィリオラにも、この幸せな気持ちを味わってほしかった。
だがそのためには、彼女が目覚めなくてはならない。キースとの内なる戦いに、勝利しなくてはいけないのだ。
キャロルはフィリオラの勝利を祈りながらも、キースの平穏も願った。一人が寂しいのは、誰だって同じだ。
人は、誰しもが一人だ。だが、一人だからこそ、誰しもが愛し合うことが出来て、求め合うことも出来るのだ。
それは、人も竜も同じだ。


旧王都に向いた部屋のベランダで、フローレンスはぼんやりしていた。
雪を被った森の先に見える旧王都は、かなりの惨状だ。先日、ダニエルと共に偵察してきたが、地獄だった。
大佐を失って統率を失った第二連隊は、まとまらないまま連合軍を迎え撃ったが、勝てるはずもなかった。
兵力も武装も作戦も、連合軍を全てを圧倒していたのだ。その様子は、飛んでくる思念で大分掴めていた。
勝利を信じて必死に戦う兵士達の思念は、いずれも苦しかった。死する様の思念も、何度となく感じていた。
何度、もういいよ、死んじゃう前に逃げちゃいなよ、と兵士達に思念を送ってやりたかったことだろう。
だが、出来なかった。死に際ながらも戦おうとする彼らの信念も感じていたので、逆にむごいことだと思った。
撤退命令を出すべきなのか、それとも最後まで戦わせるべきなのか。迷っているうちに、戦闘は終わった。
どちらが本当の優しさなのか、解らなかった。ダニエルに判断を仰いでみたが、やはり彼も解らないと答えた。
キースの件もそうなのだが、優しくあるというのは難しいことだ。正しいことが優しくない場合も、多々ある。
最後の最後でキースを受け入れて魂を一体化させたフィリオラの判断も、結果としては、正しくない判断だ。
キースに同情したフィリオラの気持ちも理解出来ないことはないし、フローレンスもキースは哀れだと思った。
だが、それとこれとは別だ。フィリオラがキースのために犠牲となる必要など、どこにも見当たらないのだから。

「すっきりしないなー」

作業着ではなく異能部隊の戦闘服を着たフローレンスがぼやくと、傍らに立っていたヴェイパーは顔を向けた。

「ふぃおと、きーすの、こと?」

「そう。あたし、フィオちゃんの考え方は解るけど、解るだけで飲み込めないわ」

フローレンスはベランダの手すりに背を預け、腕を組んだ。ヴェイパーは彼女から目を外し、湖面を見下ろした。

「う゛ぇいぱーも、よく、わからない。だけど、ひとつ、だけなら、りかい、できる」

「へぇ。何?」

「きーすは、もう、ひとりじゃない、ってこと」

笑ったようなヴェイパーの声に、フローレンスもなんとなく笑い返した。

「そりゃそうね。それだけは間違いないわ」

すると、部屋の扉が数回叩かれた。フローレンスが扉に向けてやる気なく返事をすると、ダニエルが入ってきた。
暗い赤の戦闘服を着込んだダニエルは、真っ直ぐに二人の元にやってきた。ベランダから、旧王都を見下ろす。

「腹立たしいほど良い天気だ」

「全くよねー。あんなに雪がガンガン降ってたのに、嘘みたい」

フローレンスは上体を逸らし、空を仰ぎ見た。冬独特の澄みきった色合いの空は高く、地の果てまで続いている。
ダニエルはフローレンスの隣に立つと、手すりに手を掛けた。旧王都を見つめながら、独り言のように呟いた。

「これで二度目だな」

「何が?」

フローレンスが尋ねると、ダニエルは少々不愉快げに眉根を歪める。

「異能部隊基地に続いて、旧王都までこうなってしまうとはな。私達が行くところは、壊される運命にあるようだ」

「あー、言われてみれば」

「そういえば、そうだ」

フローレンスとヴェイパーは、ダニエルの言葉に同じ反応を返した。ダニエルは、二人に向く。

「旧王都にいたのに戦闘に手を貸さなかったことが知れたら、軍法会議に掛けられるのは目に見えているな」

「隊長は少佐の地位を奪われちゃったけど、あたし達はまだ立派な軍人だもんねぇ」

間違いないわ、とフローレンスは言いながらも興味はなさそうだった。ダニエルは、顔をしかめる。

「少しは危機感を持たないか」

「ここんとこえらい目に遭いすぎて、感覚が麻痺しちゃってさぁ。軍法会議って言われても、全然怖くないの」

あっけらかんとしているフローレンスに、ダニエルはつい笑ってしまった。

「私もだ」

フローレンスは、表情の緩いダニエルを見上げていた。彫りの深い顔立ちからは、険しさがなくなっていた。
近頃、ダニエルの態度が変わってきた。関係が上官と部下ではなくなって以降も、彼の態度はまだ硬かった。
二人でいても、何をしていても、軍人としての自尊心が芯にあるためか、ダニエルはあまり揺らがなかった。
フローレンスはそれがあまり面白くなかったが、副隊長だもんね、と思っておくことでやり過ごしていた。
だがそのうち、もっと態度を緩めて欲しいと思うようになった。ちゃんと、女として接してほしくなった。
なんとなく照れくさくて、口には出していない。だが、もう少し距離を詰めたい、という欲求は起こっていた。
フローレンスは、体を傾げた。ダニエルの肩に頭を預けてみると、ぎこちない手付きで肩に手が回された。

「下手くそ」

「仕方ないだろう。慣れていないんだ」

ダニエルはフローレンスの肩を掴み、情けなさそうに漏らした。フローレンスは、彼を見上げる。

「今更、なんでそんなに緊張するわけ? あたしと副隊長は、そんな子供みたいな関係じゃないでしょうが」

「その、なんだ」

ダニエルは言いづらそうにしていたが、言った。

「お前に副隊長と呼ばれるとだな、無意識に上官でいるべきだと思ってしまうんだ。私もいい加減にどうにかしたいとは思うのだが、そう呼ばれてしまうと、長年の習慣でお前を部下だと考えてしまうらしくて、気が緩められないんだ」

「何よそれ。副隊長がヘタレなのはあたしのせいだっての?」

フローレンスがむくれると、ダニエルは額を押さえて項垂れる。

「そういう意味じゃないんだが、まぁ、すまん。というか、そうはっきり言わないでくれ。余計に情けなくなる」

「そっかぁ、あたしのせいかぁ…」

フローレンスは顔を伏せ、ダニエルの肩に額を押し当てた。長年のクセが抜けないのは、こちらも同じだった。
意識せずとも、ダニエルを見れば副隊長と呼んでしまう。彼を名で呼んだことなど、片手で足りる回数だ。
もしかしたら、フローレンスも、無意識に身構えていたかもしれないと思った。相手は上官なのだから、と。
けれど、ただの上官ならば鼓動は速まらない。触れられている肩が妙に熱くて、いつのまにか緊張している。
ダニエルを男だと意識した日から、胸の疼きは強くなる。以前はなんでもなかったことが、やりづらくなった。
今までは誰に肌を見られても気にならなかったのに、ダニエルが相手だと思うと、それだけで恥ずかしくなる。
なんでだろう、と疑問を巡らせてみるが、出てくる答えは一つだけだ。生まれて初めて、恋をした相手だからだ。
ただ、彼に想われていると知っただけだったのに、日に日に彼が気に掛かってきて、思考から離れなくなった。
意識されていると解るたびに、釣られて意識してしまう。その積み重ねが、ごっこ遊びではない恋心を生んだ。
今となっては、彼が欠かせない。理由も意味もなくても、近付いていたい。体だけでなく、心も接していたい。
そのためには彼を名で呼べばいい、と解ったが、いざ呼ぼうとすると無性に照れくさくなってしまった。
いつか視た、レオナルドの過去の記憶がそうだった。彼は、照れと意地のせいでフィリオラの名を呼べずにいた。
その時はレオナルドは馬鹿だと思ったが、自分もそうなってしまうとレオナルドを馬鹿呼ばわりは出来ない。
傍目から見たらなんでもないことだが、その相手が好いている相手だと、どうしてこうもやりづらいのだろう。
ダニエルは、俯いているフローレンスを見下ろした。頬を染めて顔をしかめている彼女に、訝しげにした。

「フローレンス。お前、何を怖い顔をしているんだ」

「ふくたいちょう。ふろーれんすは」

彼女の思念を受け取ったヴェイパーが言おうとすると、フローレンスは慌ててそれを遮った。

「あっ、馬鹿、そういうことは言わないの!」

「でも、このままじゃ、いけない、って、ふろーれんすはおもっているのに、なぜ?」

ヴェイパーの口調は、平坦ながらもからかいが混じっていた。フローレンスは、大柄な機械人形を睨み付けた。

「…あんた、成長したわね」

「だいぶね」

ヴェイパーは、明るく言った。フローレンスが苦々しげにしていると、ダニエルは彼女を覗き込む。

「それで、何がいけないんだ?」

「思念読みゃいいでしょ。あたしは読めなくても、副隊長はあたしのが読めるんだから」

顔を背けたフローレンスに、ダニエルは変な顔をした。

「それでは力の乱用ではないか。それに、一体何を怒っているんだ?」

「別に、怒ってるわけじゃ」

フローレンスは言い返してから、慎重に目線を戻した。ダニエルは訝しげだったが、どこか不安げでもあった。
ヴェイパーに目をやると、こちらを見ていた。表情があれば、にやにやしているであろう思念が伝わってくる。
彼の自我が成長したのは全く持って嬉しいし結構なことだとは思うが、こういうときばかりは、困ってしまう。
フローレンスは意を決して、ダニエルを見上げた。睨み付けるような目のフローレンスに、ダニエルは一瞬臆した。

「…なんだ」

「だっ」

フローレンスは彼の名を言おうとして、噛んだ。途端に恥ずかしくなってしまい、項垂れ、顔を手で覆った。

「あー、ダメだぁー。ホンット、ダメだぁー…」

えいくそー、こんちくしょー、などと嘆いているフローレンスを見下ろしていたが、ダニエルは訳が解らずにいた。
悔しげに唸る彼女は、顔を上げないまま、ダニエルの胸に顔を埋めた。まだ、独り言らしき文句は続いている。
ダニエルは戸惑いと同時に動揺が起き、固まった。こちらから触れないと、彼女はなかなか触れてこないからだ。
普段であれば、フローレンスから体を寄せてくることなど滅多にないので、嬉しいやら困ってしまうやらだった。
恐る恐るその背に手を回そうとすると、フローレンスは顔を上げた。やけに赤い顔をして、喚くように言った。

「ダニー!」

「あ、ああ」

思い掛けないことに、ダニエルは呆気に取られた。フローレンスはまたすぐに項垂れ、くぅ、と小さく唸る。

「あーもうなによーもうー、大したことじゃないのになんでこんなに恥ずかしいのよー。あーもうー…」

「そんなに恥ずかしいのか?」

ダニエルが不思議そうにすると、フローレンスはこくりと頷いた。

「よく解らないけど、なんか、無茶苦茶恥ずかしいんだよぉ…」

「私は嬉しいのだが」

ダニエルは、彼女の態度がかなり意外だった。ここまで恥じらっているフローレンスを見るのは、初めてだ。
体を重ねる時も素っ気ないぐらい恥じらわないのに、こんなに些細なことで恥じらわれると、不思議だった。
だが、それだけ意識されているのだ、と解り、また嬉しくなった。ダニエルはフローレンスの両肩に、手を添える。
肩を押して顔を放させると、フローレンスはおずおずと見上げてきた。いつになく気弱で、気恥ずかしげだった。
ダニエルはそれがいやに可愛らしく思えて、顔が緩んでしまいそうになったが、なんとか表情を保っていた。

「フローレンス。もう一度、呼んでくれないか」

「やだ」

フローレンスは居たたまれなくて、ダニエルから目を逸らした。ダニエルは身を屈め、彼女と目線を合わせる。

「ならば、命令だ。少尉」

「こういう時だけ上官に戻るの、やめてくんない? そういうの、ずるい」

そうは言いながらも、フローレンスはダニエルに目線を戻した。真っ直ぐにこちらを見る彼の目を、見据える。

「…ダニー」

ダニエルは、反射的に身を乗り出した。フローレンスが逃げてしまう前に彼女に顔を寄せ、唇を重ね合わせた。
フローレンスは思わぬことに戸惑ったが、逃げることはなかった。そっと目を閉じて、彼の感触を確かめる。
読まなくても解るくらいに溢れている思念が、伝わってくる。嬉しさと愛おしさが、ダニエルから感じられる。
いつのまにか握り締めていた手を緩めて、彼の首に回す。感じた分と同じくらい、愛おしさを込めて口付ける。
固く抱き合っている上官二人から目を逸らし、ヴェイパーは二人から感じる熱い感情をやり過ごしていた。
人というものは、解らない。ただ名を呼ぶだけで、なぜそこまで照れるのか、嬉しくなれるのか、理解出来ない。
だが、悪いものではない。感覚的にそう思ったヴェイパーは、二人に背を向けると、煙の昇る旧王都を見下ろした。
旧王都での戦闘は、収束した。だが、まだ終わりではない。戦いは、まだまだこれからも続いていくことだろう。
それが、人というものだ。経験上、そういう答えになる。ヴェイパーはそんなことを考えながら、青空を仰いだ。
空の彼方で、鳥が弧を描いて飛んでいた。





 


06 4/1