ドラゴンは眠らない




夢の終焉



白い世界の、夢を見る。
果てのない白の中を、行く当てもなく彷徨い歩く。ふわふわと軽い足取りで、気の向くままに進み続ける。
白の世界。静寂の世界。清浄なる世界。どこまでもどこまでも白く、心地良く温かな、空気に満ちている。
歩きながら、時折、とろりと眠気に襲われる。夢の中の夢で見るものは、全てが懐かしく、愛おしかった。
その夢から醒めると、また、はらはらと滴が溢れて落ちる。二度と戻れないと解っているから、泣いているのだ。
顔を覆うと、水が触れる。背を丸めると、翼が伸びる。柔らかな地に身を横たえると、太く長い尾も横たわる。
目を閉じると、声がする。激情に満ちた声が遠くから聞こえ、この世界の外に引き戻そうとする言葉が聞こえる。

 ああ。

口から出た声は、とても穏やかだった。温かなものが鼻先に触れたのでそちらに目をやると、彼女がいた。
この世界の主。白の世界の主。夢の世界の彼女。光り輝く竜が、鼻先を擦り寄せ、舌を這わせて慈しんでくる。
いつもであれば、その眼差しは優しく温かい。だが今は、その眼差しはとても寂しげで目元に涙を溜めていた。
声が聞こえる。彼女を呼ぶ声が。その声が聞こえるたびに、彼女の目元に涙が滲み、零れ出しそうになる。

 かなしいの。

そう尋ねると、彼女は頷く。声には出さないが、悲しげな仕草だった。大きな翼を下げていて、首も下げている。

 やくそく、しましたから。

彼女の目元から、涙が落ちる。

 すぐに、かえるって。なのに、かえれていないから、かなしいんです。

戦いは、続いている。白の世界での戦いは、果てがない。この世界に来た当初は、荒ぶる心のままに争った。
外に出せ、お前なんか必要ない、と何度も何度も咆哮した。だが、白い世界から抜け出すことは出来なかった。
どこへ行こうと彼女が立ち塞がり、何をしようと彼女が傍にいる。柔らかな光を放つ、白で成された竜が。
暴れていると、体を寄せてくる。牙を剥こうとも、近付いてくる。大丈夫ですよ、と繰り返しながら愛でてくれる。
丹念に、丁寧に、舌を這わせてくれる。最初はそれがむず痒くて、やりづらかったが、そのうちに解ってきた。
それが竜の愛情の示し方だと。見様見真似で同じようにやり返してやると、彼女はとても嬉しそうに笑った。
その彼女が、泣いている。心も体も重なり合って溶け合った白の世界の中では、その悲しみがこちらにも伝わる。
余程、辛いのだろう。会いたい、恋しい、などの思いが苦しみと痛みの中に混ざり合い、染み渡ってくる。
彼女を泣き止ませようと、舌を滑らせるが、涙は止まらない。それどころか彼女は、何度となく、謝ってきた。

 ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい。

 どうしてあやまるの。

彼が尋ねると、彼女は更に泣いた。

 わたしまで、あなたをうらぎってしまいたくないんです。

彼女は、咆哮する。

 だけど。また、あいたいんです。あいたくて、しかたないんです。

 あのひとに?

彼は視点を上げて、外に向ける。彼女を呼ぶ声は、聞こえ続けている。彼女は、そちらへ向けて吼える。

 はい。あいたいんです。

彼女の感情が、魂に流れ込んでくる。頬を落ちた涙の熱さも、押し潰されそうな苦しさも、切なさも、感じられる。
好き。愛している。会いたい。今すぐに会いたい。迷いのない素直な感情が、外の世界の彼に向けられている。
もう一度。彼と触れ合って、言葉を交わしたい。魂を内側から切られるような、鋭くも重たい痛みが広がる。
だが、その感情には躊躇いが含まれている。彼女が白の世界を離れてしまえば、彼はまた一人にされるからだ。
一人になるのは、もう嫌だ。この世界に入る前に、何度も繰り返した。彼女も、それを知っているからここにいる。
この白い世界は、彼と彼女が魂と魂を重ね合わせて、永久に繋がり合うために彼女と共に造り上げた世界だ。
この世界は、彼の全てだ。力も肉体も失った彼にとって、最後に残された、存在として在ることの出来る場所だ。
白い世界の主は、彼女だ。その彼女がこの世界に背を向けてしまっては、彼が在り続けることが難しくなる。
引き留めてしまいたい。このまま、永久に縛り付けておきたい。そうしなくては、己の存在が揺らいでしまう。
けれど。彼女の苦しみが、伝わってくる。愛おしくてたまらないからこその辛さが、彼の魂を押し潰そうとする。
この世界に来るまで、知らなかった痛みだった。愛し合っている者達は、皆、いつも幸せなのだと思っていた。
彼が生きているうちは得られなかった温もりを手にした彼らはいずれも笑っていて、満ち足りているように見えた。
それが、どうしようもなく妬ましくて、愛し合っている者達を引き離した。それが、こんなにも苦しいことだとは。
外の世界から呼び掛けている彼との肉体的な距離は、ほとんどないのに。いや、ないからこそ、苦しいのだ。
すぐ傍にいるのに、答えられない。手の届く場所に、外の彼の腕の中にいるのに、何一つとして返してやれない。
彼女は咆哮を放ち続けているが力は失せていて、涙の量が増えていた。ぱたぱたと、温かい雨が落ちる。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

彼女は、白い世界に吼える。

 そとに、でたい。めをさましたい。また、あのひとにあいたい。けれど、わたしはあなたにちかった。

彼女は、細く吼える。

 ずっと、あなたのそばにいるって。もう、ひとりにはしないって。そうきめたはずなのに。

彼女の咆哮は、弱まる。

 なのに、わたしは、あなたをうらぎろうとしている。わたしまで、あなたをうらぎろうとしてしまう。

光の竜は、泣いている。

 なんて、ひどいんでしょう。だけど、とめられないんです。だから、とてもかなしいんです。

 きみも、ぼくをうらぎるのか。

彼が呟くと、彼女は瞼を閉じた。

 うらぎりたくなんて、ありません。けれど。わたしは、あのひとのもとにかえるってやくそくしたんです。

 そんなに、あのおとこがすきなのかい。 

彼が問うと、彼女は頷く。

 はい。すきです、だいすきです。いじわるでくちがわるくてあらっぽいけど、とってもすきなひとなんです。

 ぼくも、きみがすきだ。ぼくをうけいれてくれたから。

彼は、彼女の涙を舐める。物質のない白い世界では感じられないはずの塩辛い味が、舌の上に広がった。

 だから、きみがはなれてしまうのは、いやだ。

 はい。わかっています。だから、わたしはあなたのそばにいるんです。

低く唸った彼女に、彼は鼻先を擦り寄せる。

 でも、きみがないているのは、もっといやだ。きみがかんじているくるしみも、あまりすきじゃない。

彼は、そっと身を引いた。彼女から距離を開けると、彼女の放つ淡い光は強さを増して、白い世界を照らし出す。
声には出さずに、別離の言葉を呟いた。白い世界は温かくて優しいが、それは彼女の心が造り上げたものだ。
彼女がこのまま苦しみ続ければ、その温かさは冷えてしまう。それに、彼女が苦しむ様はいいものじゃない。
彼女から伝わってくる痛みとは別の痛みが、起きるからだ。鋭い刃を突き立てたような痛みが、胸にあった。
白い世界の中で溶けてしまいそうになっていた記憶を呼び戻して、その感情の正体を探り、言葉を見つけた。
罪悪感、だ。今まで感じることのなかった感情だから、その言葉を思い出すまで、少しばかり時間が掛かった。
ずしりと重たいものが、鋭い痛みと共に胸を占めている。彼は、外の世界に向かう彼女を見ながら、苦笑いした。
顧みるものがなかったから、大事にするべきものが何もなかったから、あのような所業が行えていたのだろう。
だが、少しでも失いたくないと思うものが出来てしまうと、外の世界にいた頃のようなことは出来なくなる。
その者が苦しんでいたり悲しんでいたりすると、それ以上の苦しみが、泣きたくなるほどの痛みが湧くからだ。
だが、その痛みと同時に感じられる温もりは、素晴らしかった。内側から、魂が満たされていく感覚がある。
それが何なのか、やはり、思い出すまで時間が掛かってしまった。間を置いてからようやく、彼は思い出した。
彼女への、そして、自分への愛情だ。




白い世界の、夢を見る。
彼と彼女の、ただ二人きりの世界。閉ざされた世界。果てのない世界。凍り付いた、時のない世界。
出口もなく、未来もなく、過去もなく、現実であって現実でない、幻であって幻でない、夢の中の夢の世界。
牙を剥き、爪を立て、尾を振り、戦い合うための世界。そして、言葉を交わし、心を重ね、癒し合うための世界。

世界に、終わりはない。

けれど。

夢には、終わりがある。




瞼を開けるのが、億劫だった。
鮮やかな日差しが目に痛くて、またすぐに閉じてしまう。あまり明瞭でない視界に入ってきた天井は、灰色だ。
窓枠の形に切り取られた日光が、部屋の隅で折れ曲がっている。なんとなく、それを見つめていたが、瞬きした。
何度か瞬きすると、視界が次第に晴れてくる。周囲には見知らぬ光景が広がっていて、困惑してしまった。
高い天井に縦長の古びた窓、カビ臭さの混じった底冷えのする空気。どれもこれも、自分の寝室のものではない。
恐る恐る起き上がると、目眩がした。目覚めの悪い時のような重たい頭痛がしていて、思わず顔をしかめた。
目元を押さえながら、改めて周囲を見回す。だだっ広い部屋の中には、見覚えのある家具が乱雑に並んでいる。
タンスや本棚なのだが、向かい合っていたり斜めに置かれていたりと、ただ運んできて置いただけのようだった。
後で整理しないと、と思いながら、目元を擦る。欠伸を堪えつつ、家具の間に立て掛けてある姿見に顔を向けた。

「ひどい…」

髪は乱れているわ顔色は冴えないわで、疲れ果てた顔をしていた。せめてこれぐらいは、と手櫛で髪を整えた。
長い髪を簡単に手直しすると、髪の間から短いツノが覗いた。鏡から目を外したフィリオラは、傍らに目を向けた。
隣では、レオナルドが眠りこけていた。彼は、心なしか疲れている様子で、あまり気分良さそうに眠っていない。
フィリオラはのそりと動いてベッドから下りると、伸びをした。ぐいっと上体を逸らすと、背骨がばきばきと鳴った。

「う、あー」

変な声を出しながら背筋を伸ばしきって、深く息を吐く。高々と突き上げていた手を戻し、もう一度欠伸をした。
窓の外に向くと、きらきらと光り輝くものがあった。それはさざ波の立っている湖面で、朝日を眩しく撥ねている。
湖の周囲には雪の積もった鬱蒼とした森があり、その奧には背の高い城壁に囲まれた旧王都があるのが見えた。
その景色で、ここがどこだか察した。フィフィリアンヌの城だ、と解ると、なぜここにいるのか不思議になった。
窓に歩み寄って、上下式の窓を上に押し上げる。がたがたと揺れながら窓が開くと、冷ややかな風が滑り込む。
旧王都を取り囲んでいる雪原を見つめていると、記憶が蘇ってきた。あの雪の日に、キースを受け入れたのだ。
そして、彼の魂と自分の魂を一つにさせ、彼を取り込んだ。その時から、キースとの一対一の戦いが始まった。
互いの魂をすり減らして、戦った。キースに真正面からぶつかって、傷付け合って、かなり荒々しく衝突した。
だが、その戦いは、キースの疲弊によって一段落していた。魂の重なった白い世界で、穏やかな時間を過ごした。
その世界に、いたはずだ。キースの疲弊に合わせてフィリオラの意識も虚ろだったので、最後の記憶は不確かだ。
だから、何をどうしてまた目覚めたのか、よく解らなかった。フィリオラは首をかしげつつ、ベッドに腰掛けた。
フィリオラにとっては全くの異物であるキースの魂を受け入れたことで、体にも大分無理が掛かっていたはずだ。
頬に触れてみると温度が低いので、恐らくは冬眠状態に陥っていたのだろう。となれば、余計に不思議だ。
冬眠から目覚めるには、身体機能を活性させればいいのだが、魔力中枢が乱れていてはそう出来ないはずだ。
冬眠は魔力中枢も眠らせている眠りなので、その魔力中枢が正常に働かなければ、目覚めることは出来ない。
心臓の位置に触れて魔力を高めてみると、自分でも乱れているのが解るほど乱れている。なのに、どうして。
フィリオラはごちゃごちゃと考えてみたが、寝起きの頭ではさっぱりまとまらないので、答えを出すのを諦めた。
とりあえず、レオナルドを起こそう。早く起きてもらって、この乱雑な部屋の片付けを始めなくてはならない。
フィリオラはベッドの上に昇って正座し、レオナルドの肩を揺さぶった。身を屈めて、彼の横顔を覗き込む。

「起きて下さいよぉ」

レオナルドは目を開いたが、すぐには起き上がらなかった。横目にフィリオラを見上げたが、目を逸らす。

「これで何度目だ」

「はい?」

フィリオラがきょとんとすると、レオナルドは情けなさそうに目元を押さえた。

「お前が起きる夢だ。五回か、いや、もう十回ぐらいか?」

「そうなんですか?」

「そうなんだ。目が覚めてもお前は起きちゃいないし、夢だから喜んでも結局は無駄なんだ。だから、もう」

と、レオナルドは肩を掴んでいるフィリオラの手を振り払おうとしたが、その手を止めて、急に目を見開いた。
肩を、小さな手が包んでいる。寝間着越しに触れている指先は冷たくて、手の甲には確かに彼女の手首が触れた。
レオナルドは、動悸が高まるのを感じながら目を動かした。頭のすぐ後ろには、きちんと揃えてある膝がある。
目線を上向けると、白くて柔らかな寝間着を着た体が見える。頼りない腰に、膨らみの小さな胸に、華奢な肩。
襟元から覗く細い鎖骨に、首筋、白い喉。半開きになっている薄い唇が、あの幼い声で、言葉を発してきた。

「レオさん」

途端に、レオナルドは勢い良く起き上がった。フィリオラは思わず手を引いて、反射的に身も下げた。

「な、なんですか?」

レオナルドは身を乗り出して、フィリオラに顔を寄せた。その真剣な眼差しに、フィリオラは後退った。

「あ、あのう」

レオナルドは気を張り詰めながら、手を挙げた。困ったように眉を下げているフィリオラの頬に、手を触れた。
ひゃう、と小さく驚きの声がして、彼女は身を固くした。手に伝わってくる体温は、温かく、人らしいものだ。
レオナルドは、フィリオラを凝視した。縦長の瞳孔を持つ青い瞳は左右に揺れたが、レオナルドに定められた。

「あのぉ」

「起きた、のか?」

「起きましたけど、それがどうかしたんですか?」

「キース…じゃないよな?」

「私は私ですけど」

訝しげなフィリオラに、レオナルドは次第に嬉しさが込み上げてきた。彼女の頬から手を外し、肩を掴んだ。
衝動に任せ、乱暴に抱き締めた。文句が聞こえた気がしたが、それを理解するほどの余裕など残っていなかった。
強く抱き締めると、手応えが返ってくる。柔らかい肌に、温かな吐息、小さくも確かな鼓動、情けない声。

「レオさぁん」

苦しい、と言おうとしたときに腕が緩んだので、フィリオラは目を丸くした。肩を押されて、引き離される。
レオナルドはフィリオラの両肩を掴んだまま、項垂れた。言いたいことは山ほどあったのに、何も出てこない。
言葉にしようとしても、上手くまとまらない。目元がいやに熱いと思ったら、独りでに涙が湧き出していた。
フィリオラを引き寄せ、その肩に顔を埋める。泣いていることを悟られたくなくて、そのまま彼女を抱き締めた。
太い腕に抱き竦められたフィリオラは、肩に染み込んでくる熱いものが何なのか解ると、ぎょっとしてしまった。
レオナルドが泣いているらしいのだが、すぐには信じられなかった。だが確かに、この熱いものは涙の感触だ。

「…この野郎」

溢れ出しそうな感情を無理に押し殺した声が、すぐ傍から聞こえた。

「散々心配掛けやがったくせに、けろっと起きちまいやがって…。オレが、どれだけ…」

「すいません…」

あまりに苦しげなレオナルドに、フィリオラはつい謝ってしまった。レオナルドは、彼女の肩から顔を上げる。

「人が嬉しがってるってのに、謝るな」

すぐ目の前のレオナルドは、泣き笑いの顔をしていた。泣いてはいるのだが、嬉しくて仕方ない、といった表情だ。
怒ってないんだ、と思うとフィリオラは安堵した。てっきり、眠り続けていたのを怒っていると思っていたのだ。
安心した途端に気が緩んで、釣られて涙が出てきた。レオナルドにしがみ付くと、その服の背を力一杯握り締める。
何が悲しいのかも解らないが、とにかく泣きたくなった。白い世界での朧な記憶の中では、常に彼を求めていた。
また会えた。また戻ってこられた。それだけで胸の奥が詰まってしまうほど嬉しくてたまらず、涙を落とした。

「れおさん、れおさぁん!」

フィリオラはレオナルドの胸に顔を押し当て、喚く。

「ごめんなさい、すいません、すぐに帰ってくるって言ったのに、なっ、なかなか、帰ってこられなくってぇ」

「全くだ。二十日も寝やがって」

レオナルドは、胸に縋って泣き喚くフィリオラを見下ろした。彼女に泣かれると、泣けなくなってしまった。
フィリオラは、盛大に泣いている。子供のように声を上げながら、絶対に離すまいとレオナルドの背を掴んでいる。

「そんなに寝ちゃって、ほんとうに」

「だから、いちいち謝るな」

レオナルドは、フィリオラの乱れた髪を撫でてやった。フィリオラは嗚咽を堪えながら、レオナルドを見上げる。

「れおさぁん…」

「だが、どうしてここで泣くんだ。訳が解らんぞ」

レオナルドが少し呆れたように言うと、フィリオラは涙に濡れた顔を上げる。

「そういうレオさんだって、泣いてたじゃないですかぁ」

「それは、その、それはそれだ!」

強引に押し切ったレオナルドに、フィリオラはむっとする。

「何がそれなんですか!」

「いいだろうが、そんなこと、別にどうだって!」

むきになって言い返したレオナルドに、フィリオラも言い返す。

「どうでもよくなんてないです!」

レオナルドはむくれたフィリオラと睨み合っていたが、目を逸らした。子供染みた言い合いに、我ながら呆れた。
普通に嬉しいと言えばいいのに、なぜそう出来ないのだろうか。無性に情けなくなりながら、小さく呟いた。

「とりあえず…。お前が起きたことを、普通に喜ぼうか」

「です、ね…」

フィリオラもなんだか気恥ずかしくなりながら、頷いた。つい、レオナルドに釣られて言い返してしまった。
レオナルドの背を掴んでいた手を離し、座り直す。べたべたに濡れた頬や目元を拭ってから、彼と向き直った。
久々に見たレオナルドは、気疲れからか少しやつれて見えた。手入れを怠っていたのか、無精髭が残っている。
彼は気性が荒いわりにそういう部分は割と几帳面なので、身の手入れを怠るようなことは、滅多になかった。
だから、それを忘れさせるほど彼に心配を掛けていたのだと思うと、フィリオラはちくりと胸が鋭く痛んだ。
また泣き出してしまいそうになったが、我慢した。ぐっと唇を引き締めて、レオナルドの薄茶の瞳を見返す。
レオナルドは意地や照れを押さえ込んで、表情を緩めた。さすがに、こういうときぐらいは意地を張りたくない。

「フィリオラ」

「はい」

真剣な顔をしているフィリオラに、レオナルドは照れを堪えながら言った。

「まぁ、とりあえず、なんだ。お前が起きてくれて、良かった」

「私も、起きられて良かったです。また、レオさんに会えて」

ふにゃりと顔を緩めたフィリオラは、可愛らしかった。この二十日間、眠りっぱなしだったから余計にそう感じた。
普段であればどうということのない、というより、だらしない部類に入る表情なのだが今回ばかりは違っていた。
ちょっとした仕草や声でも可愛らしくてどうしようもなくて、レオナルドは変に緩んでしまった口元を押さえた。
いつものクセで逸らしてしまった目線を彼女に戻すと、上目に見上げてきている。泣いたため、瞳は潤んでいる。
真っ白かった頬にも血色が戻っており、目元もほんのり赤く染まり、頬も紅潮していて、それがまた愛らしい。
彼女が眠りこけているせいで事に及べなかったせいもあるのだが、いつにも増して、愛しくてたまらなかった。
これ以上、我慢出来るか。レオナルドはフィリオラを引き寄せると顎を上向けさせ、その薄い唇を貪った。
んふ、とくぐもった小さな喘ぎが聞こえ、更に力が入ってしまう。舌をねじ込んで、彼女の柔らかな舌と絡める。
ひとしきり味わってから舌を抜き、唇を離す。このまま続けてしまっては、うっかり事に及んでしまいそうだ。
口元を拭ってからフィリオラを見下ろすと、唇を押さえたフィリオラは気恥ずかしさで頬の色を濃くさせていた。

「あ、あの」

フィリオラは言い忘れていたことを思い出したので、言った。

「おはようございます、レオさん」

「ん、ああ」

レオナルドは間を置いてから、返した。

「おはよう。フィリオラ」

フィリオラは、彼が返してくれたことが嬉しくて満面の笑みになった。普段であれば、滅多に返してくれないのだ。
そして、どちらからともなく近付き、唇を重ねた。慣れているはずなのに、初めてするかのように慎重に行った。
フィリオラは、そっと目を閉じた。レオナルドに身を委ねながら、内側にいるキースの魂の存在を感じていた。
彼の魂から滲み出ている彼の感情は、穏やかだった。また目覚めることが出来たのは、彼のおかげに違いない。
ありがとうございます、と内心でキースに言ってから、フィリオラはレオナルドの首に腕を回して引き寄せる。
白い世界で感じていた悲しさや寂しさは、全て失せていた。帰りたかった場所に、帰ってこられたのだから。
誰よりも愛する、誰よりも愛してくれる人の傍が一番心地良い。この場所があるからこそ、戦えたようなものだ。
戦いは、終わらない。キースとの内なる戦いは、彼が力尽きるかフィリオラが死ぬかのどちらかまで続く戦いだ。
だが、負けることはないだろう。愛すべき人が傍にいる限り、決して、戦う理由も意味も見失うことはない。
そして、彼と、自分自身の居場所も。




彼を受け入れた彼女と、彼女と共に在る彼の、白き世界での戦い。
二人だけの密やかな戦いは、彼女が目を覚ましても、終わらずに続いていく。
それは、お互いを知るためでもあり、癒すためでもあり、そして。

居場所を、得るためでもあるのである。







06 4/2