フィリオラは、真剣な顔をしていた。 青い魔導鉱石の填った杖を握り締め、どす黒く艶のある水面を見つめている。ごぼ、と油が小さく泡立った。 妙な艶と異臭を放つ固まりが、旧王都を囲む堀の一部を埋め尽くしていた。その上を、僅かに水が伝っていく。 堰き止められてしまった水は更に汚れ、淀んでいた。黒い固まりにさざ波が辺り、ちゃぷちゃぷと波打っている。 霞み掛かった都市を取り囲む高い城壁が、目の前にそびえていた。その前の堀の傍に、彼らは立っていた。 深緑のマントと黒いローブを着た魔導師姿のフィリオラは、共和国政府の制服を着た役人と隣り合っている。 二人が堀を見下ろす後ろ姿を、ギルディオスとブラッドは遠巻きに見ていた。甲冑は、肩にカバンを担いでいる。 フィリオラはじっと黒い固まりを眺めていたが、少し唸った。体を起こすと、傍らの役人に愛想良く笑った。 「スライムですね」 「ああ、やはりそうでしたか」 安堵したように、役人の男は表情を和らげた。フィリオラは、ええ、と杖の先で黒い粘液を指す。 「工業廃水が野生のスライムと何らかの反応を起こして、このスライムを大増殖させちゃったんだと思います」 「ちゃんと除去出来るんですね? 出来なければ、堀はおろか下水道まで詰まってしまいますので」 不安げな役人に、フィリオラはにんまりする。 「ご心配なく! 要は、このスライムをスライムでなくしてしまえば良いだけのことですから」 フィリオラと役人の男は、事務的な言葉で会話を始めた。魔導師協会を通したので料金は三割引、と言っている。 その様子を眺めていたブラッドは、隣の甲冑を見上げた。ギルディオスは、大きな革カバンを肩に乗せている。 「なぁ、おっちゃん。たかがスライムを退治するだけで三千ネルゴって、ボロくないか?」 「そうか?」 ギルディオスは道具の詰まったカバンを担ぎ直し、ブラッドを見下ろした。ブラッドは、不可解そうに眉を曲げる。 「そうだよ。だって、スライムを焼くぐらいのことなんて誰にだって出来るじゃんか。それをわざわざ、あんなに馬鹿な女に頼んで金まで払うなんて、役所もどうかしてるよ」 「そりゃ、お前が物を知らないだけだ。フィオは魔導師なんだぜ」 「だからどうだっていうのさ。魔導師なんて、大っぴらに魔法を扱えるだけの職業だろ?」 「まぁ見てな。フィオが仕事をするところを見りゃ、ちったぁ見直すと思うぜ」 笑い気味のギルディオスに、どうだか、とブラッドは肩を竦める。 「何をどうしたって、馬鹿は馬鹿のままだと思うけど?」 役人と話を終えたフィリオラは、小走りに駆け寄ってきた。ギルディオスは肩からカバンを下ろし、蓋を開ける。 フィリオラはカバンを覗き込むと、がちゃがちゃと中を探った。ありました、と言いながら布袋を取り出す。 黒い布で出来た袋の口を開き、中から綺麗に磨かれた白い魔導鉱石を出すと、布袋をカバンの中に戻した。 フィリオラはまた小走りに駆け、黒々とした汚水に満ちた堀に戻っていった。白い魔導鉱石を、堀の中に落とす。 どぽん、と粘り気のある波紋が広がった。落下物で刺激を感じたのか、どす黒いスライムは表面を震わせる。 堀を見下ろすフィリオラの隣にやってきたブラッドは、スライムを見下ろした。魔導鉱石を飲み込んだ穴がある。 脂ぎったスライムに空いていた小さな穴は、滲み出てきた粘液で塞がれ、何事もなかったかのように元に戻った。 ブラッドは目線を上げ、スライムの全体を眺めてみた。幅の広い堀を隙間なく塞ぐほど増殖し、時々蠢いている。 確かにでかいが、スライムはスライムだ。焼いて水分を飛ばしてしまえば死んでしまうし、元々下等な魔物だ。 隣のフィリオラを見ると、地面に魔法陣を描いていた。杖の先でがりがりと地面を削り、二重の円と文字を書く。 その魔法陣は大きめで、すぐに書き終わりそうにない。まどろっこしい、と感じたブラッドは、片手を挙げる。 「こんなもん、焼けばいいだけだろ」 魔力を高め、手の上に沸き上がらせた。熱と光を放つ球体を手に浮かばせたブラッドは、振りかぶった。 あ、とフィリオラが手を出したが、その前にブラッドは光球を投げた。一直線に、スライムの表面に向かう。 命中した途端、どぼん、とスライムの中央が窪んだ。だが焼ける気配はなく、窪んだ部分が徐々に迫り上がる。 直後。激しい水音と共に、真っ黒な悪臭を放つ物体が立ち上がった。二人の視界を塞ぎながら、背を伸ばす。 汚水の飛沫を散らばらせながら、黒々とした物体は体を傾けてきた。ブラッドに向けて、上半分を曲げてくる。 「…え?」 爬虫類を思わせるぬめりを持ったスライムは、楕円状の先端に切れ目を作り、糸を引きながら裂いて広げた。 口のような裂け目をにやりと上向けた軟体は、ブラッドの上に頭を突き出した。ブラッドは、身動ぎした。 後退ると、ぐいっと襟首を掴まれた。急に引っ張られたかと思うと、背中から地面に放り投げられてしまった。 痛みと衝撃に動揺しながら、ブラッドは顔を上げた。すると、今し方までいた場所に黒いものが振ってきた。 どぶっ、と頭と思しき部分を歪ませながらスライムは地面に激突し、形を崩しながら、汚水と悪臭を広げている。 黒々としたスライムは身を捩ったり泡立ったりしていたが、ずっ、と崩れた体をまとめ、繋ぎ合わせている。 ブラッドは、その光景を呆然としながら見ていた。ブラッドの襟首を掴んでいたフィリオラは、顔をしかめる。 「何するんですかー、もう。活性化させちゃダメじゃないですか」 「え?」 ブラッドが振り返ると、フィリオラは眉を下げ、うぞうぞと身を捩っているスライムを指す。 「ダメじゃないですか、ブラッドさん。あの手の魔力凝結で体組織を形成している魔物はですね、少しでも他の魔力を与えてしまうと途端に活性が増して生命力と体組織の成長を促してしまうんですよ。私がスライムに魔導鉱石を飲み込ませたの、見てなかったんですか?」 「あれ、意味があったのか?」 フィリオラがまくし立てた小難しい言葉に驚きながらも、ブラッドは返した。フィリオラは、ええ、と頷く。 「あるに決まってるじゃないですか。私は、あの白い魔導鉱石にスライムの持っている魔力を全て吸い込ませようと思ったんです。そうすれば、スライムは活性を失って体組織が崩壊し、勝手に死ぬはずだったんですけど」 ですけど、をやけに強調しながらフィリオラはブラッドを睨んだ。 「あなたが中途半端な魔力弾を撃ち込んじゃったもんだから、スライムが元気になっちゃったじゃないですか!」 「だ、だけど、前にオレが焼き殺した時には、あれぐらいの弾で焼けたはずなんだけど…」 「大きさってものを考えて下さいよ!」 んもう、とフィリオラは頬を張った。ブラッドは呆気に取られていたが、どす黒いスライムに目線を向けた。 スライムは千切れていた体を引き寄せてまとめ、立ち上がり始めた。中央を山のように迫り上げ、嵩を増していく。 じゅぶっ、と人間の頭に酷似した頭部を生み出し、肩を作って腕を伸ばし、下半身を二つに分けて足を作った。 頭部の中心に裂け目が走り、幅を広げて口を形作る。その上に突起が現れたかと思うと、滑らかな皮が破れた。 額の位置に輝く突起は、白く輝く魔導鉱石だった。ぬるついた光沢を帯びた魔導鉱石が、強い光を放った。 途端に人型のスライムは頭をもたげ、吼えた。ごぼがぼと水の混じった叫声を轟かせ、手足から汚水を滴らせる。 空気を震わす鈍い声に、ブラッドは顔を引きつらせ、ずり下がった。人型の黒いスライムは、ぐいっと首を曲げる。 吊り上がった口元が、にたりと笑った。ブラッドが目を見開くと、人型のスライムは足を引きずって歩み寄ってくる。 「…う」 声を詰まらせたブラッドの前に、フィリオラは立った。濃緑のマントを広げ、ブラッドをスライムの視界から遮る。 「どうやら、あの人はブラッドさんの魔力が欲しいみたいですよ。逃げて下さい」 「逃げろって、どこに!」 ブラッドがフィリオラの背に喚くと、フィリオラはブラッドに横顔を見せる。 「旧王都には入らないで下さいね、損害を作ると補償が後で大変ですから。原っぱにでも走って下さい」 ブラッドが躊躇っていると、早く、とフィリオラは強く叫んだ。ブラッドはそれに気圧されて、立ち上がった。 引き摺るほど長いマントを持ち上げて彼女に背を向けると、駆け出した。ギルディオスと役人の傍を抜け、走る。 整備されていない道を走っていくブラッドを見送ったフィリオラは、少年の背を見ている甲冑に声を上げた。 「小父様、お役人さんお願いします! 私、ちょっと変身しますので!」 「あ、おう。悪いすけど、あっち見ててもらえます?」 フィリオラの言葉に頷いたギルディオスは、恐怖で身を縮めている役人に、旧王都とは反対側を指し示した。 スライムの変化に戸惑っていた役人は、間を置いてから不可解げな顔をしたが、甲冑が指す方向に向く。 「はぁ」 ギルディオスらに振り返ったフィリオラは、役人があらぬ方向に向いているのを確かめてから、マントを外した。 ローブの腰を縛るベルトを外し、髪を揺っていた紐を二つとも外しながら、間を詰めてくるスライムを見上げる。 人型の黒いスライムは、服を脱ぐフィリオラの隣を通り過ぎていった。遠くの道を必死に走る、少年を見定めた。 工場街から反れている細い道を、小さな黒い影が走っている。スライムは卑しい笑みを浮かべ、腰を落とした。 べちゃっ、と泥を踏んだような水音がした。大股に足を広げた黒いスライムは駆け出し、ブラッドの後を追う。 下着に手を掛けたフィリオラはそれを横目に見ていたが、威勢良く脱ぎ捨てた。下穿きと靴も脱ぐと、放り投げる。 「では、いきまっす!」 フィリオラは一度目を閉じてから、見開いた。 「へんーっしんっ!」 力の入った掛け声と共に、フィリオラの瞳の色は赤く染まった。薄い背から皮が浮き上がり、鋭い骨が突き出す。 ずるりと伸びた骨は若草色の皮を張り詰めさせ、翼となると、その根元から同じ色のウロコが溢れてきた。 ウロコは厚みのない胸元と華奢な腰から下を覆い尽くし、足先は太い爪先を持った力強い竜の足へと変化した。 翼を大きく広げたフィリオラは、フィフィリアンヌとそれと良く似た濃緑の髪色となり、ツノも長く伸びていた。 足と同じく竜の腕となった肘から先を下ろし、フィリオラは地面を蹴って浮かび上がると、甲冑と役人を見下ろす。 「では、私はブラッドさんを助けてきますので、小父様はお役人さんをお願いします」 仰々しい外見に変化したフィリオラに、ギルディオスはやる気なく返事をした。 「へいよ。あんまり暴れてくるんじゃねぇぞ」 「解ってますよぅ」 行ってきまーす、と羽ばたきながら手を振った竜の少女は、彼らに背を向けた。そのまま、宙を滑っていく。 地響きを轟かせながら少年を追いかける人型の黒いスライムを追っていく姿は、すぐに小さくなっていった。 その姿を、役人はぽかんとしながら見送っていた。ギルディオスは役人の肩を、励ますように軽く叩いてやる。 「責任の大半はオレらに来るから、安心してくれや」 「あの」 役人は、スライムの水溜まりのような足跡が続いている先を指し、ギルディオスを見上げる。 「あなたは、彼女を援護しなくて良いんですか?」 「ん、ああ。最初はちったぁ手ぇ貸してたんだが、最近はいらなくなっちまったから」 ギルディオスは、フィリオラの去った方向を見上げた。スライムと思しき鈍い叫声が、遠くから聞こえてくる。 役人は彼の視線の先と堀を交互に見ていたが、黙った。こんな大事になるとは、思ってもみなかったからだ。 困り果てた役人の表情に、ギルディオスは同情した。今回の責任がフィリオラ持ちといえども、全てではない。 今回の仕事にフィリオラを選んだのはこの役人だし、彼自身の責任も少なからず問われてしまうはずだからだ。 この仕事は、楽に終わるとは思えない。ギルディオスは、スライムが抜けて流れを取り戻した堀に目をやった。 鼻を突く汚水と廃油の匂いが、辺りに漂っていた。 ブラッドは、死に物狂いで走っていた。 折り曲げていた上着の袖が広がってばさばさと揺れ、長めのズボンの裾が落ちてきて鬱陶しく、マントが重い。 飛行しようと思ったがまるで集中が出来ず、仕方なしに地上を走っていた。背後からは、振動と足音が響いてくる。 草の枯れた野原に向かって進みながら、ちらりと後方を窺った。黒く巨大な人影は、歩調を緩めずに迫っている。 単眼にも見える白い魔導鉱石が、少年を見下ろしている。裂けた口元からは汚水が滴り、唾液のように見える。 べちゃべちゃと液体を振りまきながら、人型の黒いスライムは駆けてくる。ブラッドは、それに向けて喚いた。 「なんでだよっ!」 なぜ、こんなことになってしまったのか。理不尽に思え、ブラッドはむかむかしながらスライムに叫ぶ。 「ていうかお前、なんでオレに付いてくんだよ!」 人型のスライムは、歩調を緩めた。ブラッドは不思議に思いながら、スライムから離れた位置で立ち止まった。 立ち止まったスライムは、どぼどぼと体の表面から水分を溢れさせた。濁り切った汚水が、水溜まりを作る。 その中心に突っ立っている真っ黒で艶のある巨大な人影は、ぐいっと首を突き出した。口を開き、触手を伸ばす。 足を引き摺って下がったブラッドは、人型の黒いスライムに背を向けた。駆け出そうとしたが、足がもつれた。 自分のマントを踏んでしまい、姿勢を崩した。そのまま俯せに転倒し、強かに地面に顔をぶつけてしまった。 土と草にまみれた顔を上げ、痛みのある頬を押さえる。立とうとしたが、息が乱れ、すぐには立てなかった。 影と異臭に気付いて振り向くと、人型の巨大な影が背後にいた。ぬめぬめとした両腕を伸ばし、間を狭めてくる。 ブラッドはぜいぜいと荒い息を繰り返しながら、唾を飲み下した。動揺で乱れた魔力を高めるため、拳を握る。 覚えている限りの魔法を使うべく、呪文を思い出していると、風が滑り込んできた。しなやかな緑が、現れる。 厚い皮の張った翼を広げて風を孕ませ、真っ直ぐでクセのない濃緑の髪をなびかせた女が、視界に浮いていた。 ブラッドと黒いスライムの間に入った女の下半身と肘から先は、若草色のウロコに覆われ、鋭い爪が生えている。 艶やかな髪の隙間から覗く耳は、長く尖っていた。女はブラッドに横顔を見せると、真紅の瞳で見下ろしてきた。 「だーから、ダメなんですってば」 竜の女は、能天気で明るい声を発した。ブラッドが目を丸めていると、彼女は爪の長い指先でスライムを指す。 「さっきと同じように魔力をぶつけたって、結果は同じです。あの人が更に力を付けてしまうだけですよ?」 声と顔立ちで、ようやくブラッドは彼女の正体を察した。宙に浮く竜の女を、指し示す。 「…フィオ?」 「ええ、そうですよー。変身しちゃいましたぁ」 いいでしょー、と自慢気にフィリオラは笑んだ。ブラッドは、変化したフィリオラを上から下まで見回した。 雰囲気がまるで違う。胸元や下半身を覆う若草色のウロコは強固で、薄い唇の間からは小さな牙が覗いている。 子供っぽく可愛らしいだけだった顔立ちも、赤い瞳と長いツノのおかげで大分凛々しくなっていて、別人だった。 ふと、ブラッドはフィリオラの顔から目線を下げた。ウロコによって丁度良く隠れている胸は、貧弱なままだった。 鎖骨と肋骨の間にある膨らみは小さめで、なだらかだ。フィリオラは彼の目線に気付き、頬を真っ赤に染める。 「あ、あんまり見ないで下さいよぉ! 恥ずかしいんですからぁ!」 「ちぃせーなーおい」 半笑いになったブラッドは、レオナルドの言っていたことが間違いでないと察した。確かに、胸も尻も肉がない。 フィリオラは気恥ずかしげに顔を歪めていたが、その小さな胸を張った。やけっぱちなのか、声が上擦っている。 「いいんですよ! 胸の大小なんて、魔法の腕には関係がないんですから!」 フィリオラはブラッドから目を外し、人型のスライムに向き直った。ごぼごぼと、裂けた口から泡を出している。 表情を硬くさせたフィリオラは、黒いスライムを見据えた。真紅の瞳の縦長の瞳孔が、ぎゅっと細くなる。 「ブラッドさん。逃げて下さい」 「また?」 立ち上がったブラッドがフィリオラを見上げると、フィリオラは唇の端を持ち上げる。 「ええ」 彼女の横顔は、見たことのない表情をしていた。普段の無邪気な笑みとは懸け離れた、邪心の滲む笑みだった。 ブラッドは嫌なものを感じながら、頷いた。数歩後退してから深呼吸し、乱れていた魔力を高め、地面を蹴った。 マントを広げながら浮上したブラッドは、ぐっと両の拳を握り締めた。背中で布地が歪み、形を変えていく。 端が吊り上がって骨が出来、その間にぴんと皮のように布が張り詰め、コウモリに酷似した翼が出来上がった。 それを、一度羽ばたかせた。ブラッドはフィリオラと同じ高度まで浮かび上がると、背筋が一気に逆立った。 怖い。恐ろしい。おぞましい。そんな感覚が全身を駆け巡り、体が震えそうになる。両腕を掴み、奥歯を噛む。 フィリオラの後ろ姿を見ると、それは更に増した。本能の奥底から畏怖が沸き上がり、魂を縮み上げさせていた。 人型のスライムを見下ろしているフィリオラは、にたりと妖しく笑った。ブラッドは息を詰め、畏怖を堪える。 骨張ってウロコに包まれた両腕を広げた彼女は、翼も大きく広げた。鋭く吊り上がった目を、楽しげに細める。 「お料理の時間です」 急に上半身を傾けたフィリオラは、降下していった。人型の黒いスライムの目の前に、しなやかな影が滑り込む。 黒いスライムは、形の崩れてきた腕を前に差し出してきた。ぼたぼたと廃油の滴を零しながら、竜の女に向ける。 フィリオラは素早く身を捻り、その腕の上を飛び抜けた。両腕をスライムの頭部に向けて突き出し、吼えた。 強烈な竜の咆哮と同時に衝撃波が放たれ、直線上にあった黒いスライムの頭は、一瞬の間の後に吹き飛んだ。 黒い肉片が降り注ぎ、べちゃべちゃと枯れた草を汚す。フィリオラはぺろりと唇を舐めると、スライムの上に出る。 フィリオラの腕が、首のなくなった部分に振りかざされる。空気を切る鋭い音の直後、スライムの体は裁断された。 爪の数と同じ、五つの切れ目が縦に出来た。その切れ目が端から徐々にずれていき、自重で崩れ落ちた。 どちゃっ、とあっけなく倒れた黒いスライムは、既に人型を失っていた。ひくひくと表面が震え、液体と化していく。 フィリオラは何度か羽ばたくと、ブラッドの元へ戻ってきた。ブラッドが思わず後退すると、彼女は微笑む。 「ブラッドさん。これはぜぇんぶあなたのせいです」 「待てよ待てよ待ってくれよ、お前、本当にフィオなのか?」 怯えながら、ブラッドはフィリオラを手で制した。フィリオラは、ええ、と少し首をかしげた。 「あなたがご存知のフィリオラですよ? ただちょっと、苛々しちゃってるだけなんですよ」 「苛々?」 「ええ。ブラッドさんが変なことするから、一時間もしないで終わるはずだった仕事が長引いたからですよ」 逃げ腰のブラッドににじり寄りながら、フィリオラは声を低めた。不意に、その手が少年の胸倉を掴んだ。 「おまけに、こんな大事にしちゃって、始末書と報告書がどれだけ必要だと思っているんです? 魔導師協会から、どれだけ私の不手際をなじられると思います? 今日のことを知ったレオさんから、どれだけ貶されて馬鹿にされると思います? それを考えただけで、苛々しちゃって苛々しちゃって仕方ないんですよブラッドさん!」 フィリオラは、恐怖と驚きで目を剥いているブラッドを引き寄せたが、手を放した。 「まぁ、それはそれとしまして。今は、あの人を屠らなければなりません」 フィリオラは、地上で蠢いている無数の黒い固まりを見下ろした。艶のある黒が、ぷるぷると波打っている。 大小様々に砕け散った黒のスライムは、磁石で砂鉄を集めるかのように、一点に向かって引き寄せられていく。 次第に膨れていく黒の中心にだけ、黒は失せていた。汚水と油で汚れ切っていたが、澄んだ輝きを放つ石がある。 その、白い魔導鉱石が光を宿した。小さくも存在感のある光が起き上がり、その周囲で黒い粘液が融合していく。 太い首が高く突き出し、表面が滑らかになり、形状が変化していった。太く長い尾と、鼻先の長い頭が出来る。 背中の両脇から尖ったものが迫り出してくると、その前後に爪の付いた二つずつ足が生まれ、大地を踏み締めた。 逞しい鼻先は上下に分かれ、びしゃっ、と口を開いた。うねる舌を見せつけながら、それは、ツノを生やした。 「あら、忌々しい。私の放った斬撃の魔法で、私の魔力を得てしまったようですね」 冷静どころか冷酷な口調で言い放ったフィリオラは、ドラゴンの姿を模した黒いスライムを、じろりと睨め付けた。 黒い竜と化したスライムの額には、先程と同じく白い魔導鉱石が埋まっており、それはまるで単眼のようだった。 その単眼が、ブラッドを映した。ブラッドが、ひぃ、と小さく悲鳴を上げると、フィリオラは少年に赤い瞳を向ける。 「さて、ここで物は相談なのですが、ブラッドさん」 「へ…?」 ブラッドはフィリオラとの距離を開けたが、彼女はすいっと滑ってすぐに間を詰める。 「魔導師は、今回のように問題を起こしてしまったら、魔導師協会に報告し処分を受ける義務があります」 「それが、何?」 「処分にも色々とありますが、今回の場合は、魔導師協会からのお叱りと賠償命令でなんとか済むでしょう。処分、それすなわち代償とも言いますが、要は償いなのですよ」 「つぐない?」 オウム返しに答えたブラッドに顔を寄せたフィリオラは、ブラッドの頼りない首筋に爪を当てる。 「はい。償いです。あなたは魔導師免許も持っていませんし、年齢的にも責任を取る義務はありませんが、それでも個人的に償ってもらいたくて仕方ないんですよね」 「何、すればいい」 首に食い込む爪の痛みと感覚と本能を逆立てる恐怖で、身を縮めるブラッドに、フィリオラは囁いた。 「囮になって下さったら、それでいいんですよ」 05 10/31 |