ドラゴンは笑わない




仮面舞踏会



フィフィリアンヌは、宴を睨んでいた。


きらびやかに着飾った淑女達が動くたび、ちかりと宝石が輝いた。その眩しさに、目元を歪めた。
手にしていた扇を開き、目から下を覆い隠した。大広間一杯に立ち込めた化粧の匂いが、鼻を突く。
高い天井から吊されたシャンデリアが、ロウソクの揺れと共に煌めく。夜とは思えぬ、煌々とした明るさだった。
それは、冬だということもあり、至るところにロウソクやランプが配置されているおかげだった。
ディアード家の財力を感じながら、フィフィリアンヌは身を下げる。縦長に大きい窓の横に立つと、一息吐いた。
ちらりと、横目に窓を見た。深い闇と室内を隔てるガラスに、白く柔らかな衣装に身を包んだ仮面の少女が映る。
肉のない胸元から肩に掛けて、ぐるっと襟ぐりが広く、柔らかなフリルがふんだんに使われている衣装だった。
長い黒髪は三つ編みにされ、後頭部で丸くまとめてあった。フィフィリアンヌは、うなじに落ちた後れ毛を押さえる。
髪の色を変えるのも、久々だ。前に同じことをしたのはいつだったか、思い出してみたが、思い出せなかった。
数名の貴族に挨拶をしてから、カインがやってきた。その両手は、ワイングラスに塞がれている。
小走りに近付いてくると、安心したように表情を綻ばせる。彼も、場に合わせて青い仮面を付けていた。

「すいませんでした。ちょっと、兄様の知り合いがいたものですから」

「いや、気にしてはいない。貴様とて、付き合いというものがあるのだからな」

カインからワイングラスを受け取り、フィフィリアンヌは壁にもたれた。カインは、その隣に立つ。
最初は前を見ていたが、次第に目線を横へ向けた。白い肌と黒髪の少女を眺め、ほう、と息を漏らす。

「良くお似合いですよ」

「私は嫌いだ。むやみやたらに媚びを売るような服は、趣味ではない」

ワイングラスを軽く揺らしながら、フィフィリアンヌは上目にカインを見る。

「だが、仕方あるまい。貴様が持ってきた夜会の衣装は、これだけだったのだからな」

「髪の色を黒くするって聞いて、一番最初に浮かんだのが白い服でしたからね」

照れくさそうに、カインは顔を逸らした。してやったり、と言いたげに笑う。

「そしたらもう、それ以外に、考えられなかったんですよ」

「全く」

面白くなさそうに、フィフィリアンヌは呟いた。カインの勝手な行為が、少し腹立たしかった。
細い首筋には、大きい赤い宝石の首飾りが下げられていた。頼りない手首にも、白い宝石の付いた腕輪がある。
他にも細長い耳飾りや、重たそうな髪留めで彼女は着飾っていた。どれも、立派な宝石が付いている。
それらは、いずれもカインの用意したものではなかった。全て、フィフィリアンヌが、持参してきたものだ。
いくつもの装飾品に守られている少女は、ツノも翼もなく、耳も丸い。瞳の色も普段の赤ではなく、深い灰色だ。
カインは、完全に人間の姿となっているフィフィリアンヌを眺めた。何度見ても、美しいと思ってしまう。

「これで、あなたが五歳ほど成長なさっていたら、どれだけ素晴らしい女性になることでしょう」

「私の容姿をしつこく褒めるのは、貴様ぐらいなものだな」

フィフィリアンヌはワイングラスを下ろし、大広間の左側を見た。巨大な扉を守るように、執事達が挟んでいる。
カインも、つられてそちらを見る。あの向こうには、守衛として雇われたギルディオスがいるのだ。
しばらく扉を見つめていたが、フィフィリアンヌは、仮面の下で細い眉を曲げる。数日前のことを、思い出した。

「あの馬鹿と単純生物は、この姿を見た途端に大笑いしおった」

「それで、どうしたんです?」

「どうもこうもせん。あまりに笑い転げているから、ギルディオスのニワトリ頭を蹴り飛ばしたぐらいだ」

「…うーわー」

なんてことをするのだろう、とカインは思い、苦笑した。といっても、ギルディオスと伯爵の行為にだが。
これだけ美しく着飾った彼女を、笑う方が間違っているのだ。頭を蹴られてしまっても、仕方がない。
カインはフィフィリアンヌの怒りを尤もだと思った。だが、当のフィフィリアンヌは別に怒ったわけではない。
床を転げ回らんばかりに笑うギルディオスと伯爵が鬱陶しくて、黙らせるために蹴っただけであったりする。
カインが頷く姿を、フィフィリアンヌは訝しく思った。今の話で何を同意されたのか、よく解らないのだ。
彼の様子が理解出来ないまま、フィフィリアンヌは服を探り、花を模した香水瓶を取り出し、蓋を開けた。
香水瓶をワイングラスに傾け、ぽちゃん、と一滴落とした。それを見、カインはぎょっとする。

「何してんですか!」

「魔法薬の解毒剤だ。こういう場には、どんな輩が何を目論んでいるか解らぬからな」

香水瓶に蓋をし、フィフィリアンヌは服の間に戻す。ワイングラスを揺らし、薬を馴染ませた。

「女共の香料で鼻が鈍ってしまっているのだ、用心せねばならん。うっかり毒を盛られるよりは、余程良かろう」

「そりゃあまぁ、そうですけど…」

慎重にワインを傾けるフィフィリアンヌに、カインは変な顔をした。

「こういうところは神経質なのに、なんで普段はずぼらなんですか? 家に鍵も掛けないし…」

「鍵を掛け忘れただけで死ぬものか」

「時と場合によっては死ぬと思いますよ」

「そうなのか?」

「そうなんですよ」

きょとんと目を丸くしたフィフィリアンヌに、カインは頷いた。そうか、と彼女は顎に手を添える。

「ならば今度からは、忘れていなければ掛けることにしよう。死にたくはないからな」

「あなたって人は…」

彼女の間抜けな一面に、カインは愛しさが込み上げてきた。言動は可愛くないが、こういうところは可愛らしい。
長い間、一人で暮らしてきたからか、変なところで常識がずれている。しかも、至極一般的な部分が。
フィフィリアンヌに衣装を着せるときも、そうだった。七十四歳にもなるのに、彼女は化粧の仕方を知らなかった。
口紅の差し方はもとい、頬紅の役割を理解していなかった。なので、彼女を仕上げたのはカインの侍女だった。
しなやかな黒髪を結われながら、フィフィリアンヌは侍女に言われていた。あなた、本当に女性なんですか、と。
カインはそんなことを思い出しつつ、グラスを傾ける。赤ワインの渋みが、浮かれた心を引き締めてくれた。
フィフィリアンヌは、この人間の姿になったときから表情が硬い。気を張っているような、そんな顔だ。
最初は無表情に思えた彼女も、慣れれば、僅かな変化が解るようになる。カインは、フィフィリアンヌに尋ねる。

「あの、そんなに大変なんですか? その姿を、維持するのって」

「正直に言おう。辛い。魔導鉱石の装飾品を身に付けていなければ、すぐにでも元に戻ってしまいそうだ」

不機嫌そうに、フィフィリアンヌは眉を吊り上げた。たぽん、とワイングラスを揺さぶる。

「ツノは切り落としたのだが、翼を隠して耳の形状を変えているのはどうにもな…。魔力の消費が激しくてならん」

「え! ツノ、切り落としちゃって大丈夫なんですか!?」

「ああ。爪と同じで、根元以外は神経が通っていないからな。知らなかったのか?」

「今、知りました。ていうか、無茶しますね…」

呆然としているカインを見、フィフィリアンヌはツノのあった場所を押さえる。

「根元は、翼と同じく隠しているのだがな。まぁ、気を抜いて二日もすれば生えてくるのだが」

「切ったツノ、どうするんですか」

「売るに決まっている。これがまた、実に良い値で売れるのだ」

「…はぁ」

フィフィリアンヌの言葉に、カインは力なく返した。筋金入りの商売根性に、感心を通り越して呆れてしまったのだ。
フィフィリアンヌは魔法薬学者だが、それ以前に魔法薬を売り捌く商売人でもある。だから、当然かもしれない。
ふと、フィフィリアンヌは顔を上げた。ゆるやかに踊る貴族達の間を抜け、誰かが近寄ってきた。
ひらひらした衣装を翻し、白い仮面の少女がやってくる。靴音を響かせながら、手にしている扇を振った。

「カイン様ーぁ!」

思わず、カインは言葉を失った。まさか、ここに彼女がいるとは思っていなかったのだ。
恐る恐る、フィフィリアンヌの様子を窺った。だが、フィフィリアンヌは少しも表情を変えていない。
淡い桃色の衣装を持ち上げ、金髪を巻き毛にした少女が駆けてきた。仮面の下で、丸い目が笑っている。
スカートを下ろして、はぁ、と大きく息を吐く。バラの香りを漂わせた丸顔の少女は、カインを見上げる。

「いらしているのなら、いらしていると言って下さればいいのにぃ。エリカとあなたの仲でございませんか」

「すいません、エリカさん。ですが今日は、こちらの方に付き添っているものですから」

と、カインはフィフィリアンヌを手で示した。巻き毛の少女、エリカはあまり細くない首をかしげる。

「あら、そうでしたの。見たことのないお顔ですけど、どこの家の方ですの?」

「えっと、彼女は、フィ…」

カインが答えに詰まると、フィフィリアンヌは彼にワイングラスを預けた。スカートを広げ、礼をする。

「お初にお目に掛かりますわ、エリカ様。私、フィリナ・ストレインと申しまして、カインお兄様の遠縁ですの」

「まぁ」

ぱかんと広げた口を押さえたエリカを上目に、フィフィリアンヌは続ける。

「いつも、カインお兄様がお世話になっております。どうぞ、お見知り置き下さいませ」

「身内の方でいらしたのね。いやぁだもう、わたくしったら」

ぽっちゃりと膨らんだ頬を両手で覆い、大袈裟な身振りでエリカは照れた。

「てっきり、カイン様が第二夫人になさる方だと思ってしまって、走ってしまいましたわ。はしたなぁい」

「まぁ。エリカ様は、カインお兄様の婚約者であらせられますのね」

「ええ、そうですわ。近いうちに、エリカはあなたの一族になりますのよ」

嬉しそうに、エリカはフィフィリアンヌへ満面の笑みを浮かべた。カインは、居づらくて仕方なかった。
自分から説明しようと思ったことを、フィフィリアンヌはあっさりと言い当ててしまった。少々、鋭すぎる。
カインはなんとか気を取り直し、エリカを紹介することにした。言いたくはないが、言わなければならない。

「フィリナ、紹介するよ」

フィフィリアンヌの嘘に合わせた名を呼び、カインは笑顔を作る。顔が、引きつった気分だった。

「こちら、僕の婚約者のエリカ・ロレンス・ブライトン嬢。ブライトン公爵の一人娘さ」

「ブライトン領といえば、ストレイン領に隣接している広大な領土ですわね。お兄様は、領土を拡大するおつもり?」

ぱちりと扇を開き、フィフィリアンヌは口元を覆った。吊り上がった目を、少しばかり上向ける。
エリカの手前、慌てることは出来ない。カインは無理に口調を落ち着けながら、説明した。

「そんな腹積もりはないよ。ブライトン公爵が僕を気に入られて、エリカさんと僕を許嫁になされたんだ」

「うふふ。ですがエリカは、お父様のことなど関係なく、カイン様を好いていますのよ。素敵な方なんですもの」

酒と化粧で上気した頬を更に赤らめ、エリカはカインに体を寄せた。動くたびに、バラの香りが漂う。

「婚礼は、今年の初夏に行いますのよ。どんな花嫁衣装を着せて頂けるか、今から楽しみでなりませんの」

「まぁ。それはおめでたいことですわね、カインお兄様」

一見すると、笑うようにフィフィリアンヌの目が細められた。だがすぐに、カインはそれが笑みでないことを察した。
これは、睨む目だ。扇で口元を隠しているから笑っているように見えるだけで、明らかに睨み付けている。
カインはぞくりとした冷たさを背筋に覚えながら、頷いた。エリカは、強引にカインの腕を取る。

「カイン様、踊りませんこと? エリカ、退屈しておりますの」

「あ、いや」

カインが狼狽えていると、フィフィリアンヌは目を逸らした。灰色の瞳が、窓へ向く。

「いってらっしゃいまし、お兄様。私はここで大人しくしておりますから、どうぞエリカ様とお楽しみになって」

「…フィリナ」

中途半端な笑顔のまま、カインはフィフィリアンヌを見つめた。彼女は、扇に顔を隠す。

「どうぞ」

「さあ、参りましょうカイン様」

カインを引き摺るように、エリカは大広間の中心に歩いていった。カインは、悲痛な面持ちになる。
だが、フィフィリアンヌは背を向けた。腺病質そうな雰囲気の白い背が、エリカによって遠ざかっていく。
群衆の中に引っ張り込まれながら、カインは泣けるものなら泣きたかった。


数曲踊って、ようやくカインはエリカから解放された。
急いで窓の前に戻ると、フィフィリアンヌは窓に横顔を向けていた。闇に、横顔が映っている。
自分で持ってきたのか、新たなワイングラスを傾けている。すいっと赤ワインを飲み干してから、振り向いた。

「早かったな、お兄様」

「…あの」

「別に怒りもせんし、咎めもせん。私は貴様に思われてはいるが、思ってはいない」

「相変わらず、きっぱり言いますね…」

「事実だからな。ぼかす必要もない」

淡々としたフィフィリアンヌに、カインはほっとした。あの作ったような貴族口調より、しっくり来る。
彼女の傍の壁に背もたれ、カインは一息吐いた。久々に踊ったせいで、足が痛かった。

「別に、驚かないんですね。僕に婚約者がいても。というか、よく知ってましたね、色々と」

「私は貴様の家に出入りしているのだぞ、当然だ。ストレイン領主の候補である貴様に、女が付かぬはずがない」

「ですよね。出来れば僕から説明したかったんですけど、言い当てちゃうんですもん」

「未来有望な独身男に対して馴れ馴れしい女は、婚約者か妾、或いは娼婦であると相場は決まっているものだ」

空のグラスを弄びながら、フィフィリアンヌはちらりとカインへ目をやる。

「それで。カイン、貴様はあの女と結婚するのか?」

「いえ。したくありません」

「だろうな」

「僕、バラの香りが嫌いなんですよ。ああいうふうにごってり付けられると、咳き込みそうになって」

「そういえば、気管支が弱いとか言っていたな」

「まぁ…理由は、それだけじゃないんですけどね」

壁にもたれた背をずり下ろし、カインは力を抜いた。宴が始まってから気を遣ってばかりで、気力が削げてきた。
フィフィリアンヌは、何も言わなかった。彼女の気遣いともとれる無関心ぶりに、カインは気が楽になる。
金と時間ばかり有り余っていて、権力と快楽に貪欲な貴族とばかり接しているのは、カインにとって辛かった。
だからこそ、他人に媚びることのない美しさを持った、フィフィリアンヌに惹かれたのかもしれなかった。
カインは、徐々に体をずり下げていった。フィフィリアンヌの目線に合わせて、中腰に立ってみる。
するとその世界は、意外に低いものだった。子供の時に大人達を見上げていた位置だ、と、カインは感じた。
横目にフィフィリアンヌを見ると、また外を見ていた。礼儀作法を知っていても、貴族の宴は苦手なのだろう。
忙しなく演奏される楽曲を聞き流しながら、カインは言った。彼女の目線に、視界を合わせたまま。

「僕は、あなたが好きです」

「知っている」

「前に言いましたからね。それで、一つ聞いておきたいんですけど」

「なんだ」

「あなたは、僕を好きですか、嫌いですか?」

言い終えてから、カインは深く息を吸い込んだ。良い返事は、最初から期待していない。
赤く塗られた薄い唇が、僅かに開く。フィフィリアンヌの横顔を、さらりと零れた黒髪が隠した。

「解らん」

かちり、と白い魔導鉱石の填った腕輪がグラスに当たる。

「私は父上以外、身内以外を強く好いたこともないし、憎むほど嫌ったことはない。だから、感覚が解らんのだ」

「カトリーヌのことは、好きなんですよね?」

「あの子は可愛い子だ、故に愛しいと思う。好きだ、とはまた違うな」

「ギルディオスさんは?」

「あの馬鹿は使い勝手が良いし、要領は悪いが根は悪くないし、戦わせれば確実に強い。嫌いではない」

「それじゃ、伯爵さんは?」

「腐れ縁だ」

ことん、とグラスを窓にぶつけた。フィフィリアンヌは、カインへ顔を向ける。
カインは腹の前で手を組み、天井を仰ぐ。予想していた答えに、どこか安心していた。

「…そうですか」

楽団の演奏する曲が、次第に緩やかなものとなる。弦楽器から起こる低い唸りが、宴の喧噪の底に流れていく。
フィフィリアンヌは姿を戻してしまわないように気を張りながらも、室内を満たす落ち着いた曲に聞き入っていた。
記憶にある曲だ。激しい戦いから戻り、王都を凱旋する騎士団や兵士達を迎えるための、勝利の歌。
そういえば、軍服を着た者達も多い。楽団は、彼らのような上級軍人に気を遣って、演奏しているのだろう。
フィフィリアンヌの目はカインの横顔を映していたが、見ていたのは、そこに重ねた父親だった。
徐々に力強くなる軍歌が、その影を濃くさせていった。


扉越しに聞こえる軍歌に、ギルディオスは少し面倒な気分になっていた。
この曲は、鬱陶しいものでしかない。十年ほど前、王国軍に徴兵されそうになった時のことを思い出してしまう。
二十四歳頃のギルディオスは、体力気力技術と全てが充実しており、若さに任せて戦ってばかりいた。
そんな彼を王国軍がめざとく見つけ、下級騎士にならないかと誘ってきたのだ。ギルディオスは、それを断った。
元々規則が好きではないし、誰かの配下に入るつもりもない。だが何度断っても、軍の使者はやってきた。
結局、王国軍は、ギルディオスが死ぬまで諦めることはなかった。今にして思えば、少し妙な話だった。
一介の傭兵に過ぎないギルディオスを、しつこく追い回すのだから。大方、ヴァトラス家の者だから、なのだろう。
王国軍の使者達の執念深さを思い出してしまい、ギルディオスは、変な声を出した。

「…いーやー」

「イエモリトカゲでも見たのかね、ギルディオス?」

腰に下げたフラスコから、伯爵が小さく話し掛けた。ギルディオスは、高い天井を見上げる。

「いや。軍歌には、あんまり良い思い出がねぇだけさ」

「フィフィリアンヌとは逆であるな。あの女は父親の影響で、割に軍歌が好きなのだが」

「そういや、あいつの親父さんは騎士だったもんなぁ」

「いやはや、人の感覚とは面白いものであるな。同じ曲を聴いたとしても、反応がまるで違うのだから」

ごぽり、と伯爵は大きめの気泡を浮かばせた。ギルディオスは姿勢を崩し、壁にもたれかかった。
舞踏会の騒がしさが、扉の向こうから聞こえてきていた。気取った笑い声とお喋りが、延々と続いている。
かれこれ、ここに突っ立っていて何時間にもなる。宴の始まりと同時に立たされて、そのままだ。
時折、大広間と本館に繋がる廊下を、メイドや執事、料理人達が行き交う。その度、不思議そうに見られた。
ギルディオスは場違いであると感じながらも、バスタードソードを担いでいた。この方が、落ち着くからだ。
広く長い廊下には、他にもいくつかの扉が並んでいた。どれも、背後の大広間に繋がっている扉だった。
扉一つに対して、配置された守衛は二人。王宮の式典並みに、惜しげもなく人員を配置している。
暇潰しに、ギルディオスは彼らを眺めてみた。ただの守衛にしては職業が様々で、魔導師や剣士も多い。

「こりゃなんかあるな」

「うむ。あのフィフィリアンヌが、素っ頓狂に馬鹿げた礼装をする辺りからして、まず何かがおかしい」

「ぶはっ」

ギルディオスは、口元の位置を押さえる。フィフィリアンヌの姿を思い出した途端に、吹き出してしまった。
数日前、彼女の家で衣装合わせをしたときのことを思い出した。カインの持って来た衣装は、可愛らしかった。
だがそれを着たフィフィリアンヌはというと、この世の終わりでも見たのかと思うほど、不機嫌な顔だった。
白くてふわふわした人形のような服と、仏頂面の少女の取り合わせが、あまりにも可笑しくて仕方なかった。
故に、ギルディオスは伯爵と共に笑い転げた。笑い続けたため、頭を思い切り蹴られてしまったが。
久々に笑い転げた感覚が呼び起こされ、ギルディオスは笑ってしまいそうになる。

「だーよなぁ」

「…あんた、さっきから何と話してんだよ?」

ギルディオスとは反対側の位置で扉を守る男が、訝しげに尋ねてきた。長い槍を抱き、壁にもたれている。
いきなり伯爵以外に話し掛けられたため、ギルディオスは少し反応が遅れた。その男に、振り向いた。

「あ、いや。気にするな」

「あまり詮索はしないが、無駄に喋らない方がいいと思うぞ。そろそろ、宴の主役が来るからな」

こん、と男は槍を床に当てた。すらりと細長いそれは、魔法が施されているのか、淡く光っている。

「お前、主役の女を見たか? この家の長女なんだが、なかなかいい女だったぜ」

「見てねぇな。オレはいきなりこの仕事に突っ込まれただけだから、雇い主に面通しはしてねぇや」

と、ギルディオスは首を横に振る。最初の予定では行かないはずだったのだが、急遽連れてこられたのだ。
そうか、と男はにやりとした。上げていたヘルムを下ろし、口元だけで笑う。

「そいつは残念だな。まぁ、どうせこの廊下は通るんだ、その時にでも見ておけよ」

「おう」

あまり気のない返事をしてから、ギルディオスは壁から背を外した。興味は、あまり湧かなかった。
雇い主がディアード家の長女である、というのには驚かない。これは、よくあることだからだ。
そして、そういう女は大抵美人だと決まっている。だが、気位ばかり高くて、傭兵を見下しているものだ。
気位の高い女は鼻について嫌いなんだよな、とギルディオスは内心でため息を吐く。やる気が、一気に削げた。
少し緩めていた装備を元に戻しながら、槍の男は話を続けた。どうやら、暇を持て余していたらしい。

「それでな、その長女ってのが、これまた強い魔導師なんだとよ」

「そりゃ凄ぇな」

ギルディオスの相槌は素っ気ない。にもかかわらず、槍の男は口調に力を込めた。

「魔法は強ぇ、ツラは綺麗、家柄も最高と来てる! いいと思わねぇか、おい!」

「オレ、女房と子供がいるから」

顔を逸らし、ギルディオスは軽く手を振る。本当に興味がないので、さっさと会話を終わらせたかった。
なんだよ、と残念そうに槍の男は肩を竦めた。ヘルムの下の口元が、緩くにやける。

「オレだったら、カミさんいても関係ねぇなぁ。いい女はいいって思うぜ?」

「オレは別なの」

そう返しながら、ギルディオスは槍の男を少し哀れに思った。こいつ、心底女を愛したことがないんだな、と。
ふと、本館に繋がる廊下を誰かが歩いてきた。薄暗い廊下を抜けてきたメイド長が、厳めしく二人を見る。
学校の教師に睨まれた気分になり、ギルディオスは反射的に姿勢を正した。槍の男も、同様に立つ。
メイド長は扉に手を掛けながら、二人の守衛を見比べた。そして、勿体付けながら言った。

「シルフィーナお嬢様が御出になられます。どうか、粗相のないようにお願いしますよ」

ここで初めて、ギルディオスは雇い主の名を聞いた。シルフィーナ・ディアード、というのがそうらしい。
腰に下げたフラスコは、先程から沈黙していた。メイド長の気迫に押されたのかもしれない。
ギルディオスはバスタードソードを下ろし、胸の前に掲げた。別に忠誠を誓うわけではないが、礼儀だ。
メイド長は、本館側へ向けて深々と頭を下げた。ギルディオスと槍の男も、つられてそちらを見る。
数人の足音が、薄い暗がりから近付いてきた。先に明かりの下へ出たのは、表情を固めた執事とメイドだ。
彼らはメイド長に頭を下げてから、扉の前に立つ。そして、観音開きの扉に手を掛け、ゆっくりと引いていった。
重たく蝶番を軋ませ、大きな扉は開かれた。宴の熱気と酒の匂いが、冷たい廊下に広がり、漂ってくる。
ざわめきが直に聞こえ、主役の登場を待ち侘びているようだった。楽団は音楽を止め、踊りも中断される。

ふと。ギルディオスは、鉄臭さを感じた。

ことり、と小さく足音がした。廊下をしずしずと進んで、次第にこちらへ近付いてくる人影があった。
色鮮やかな衣装を纏い、大きな宝石を細い首に下げた、金の仮面の女。長い髪を広げながら、歩いてきた。
背後には、妙な膨らみ方をしたものが、メイド達によって引き摺られていた。それと共に、やってくる。
妙なものは大きな台車に乗せられていて、がらがらと車輪が回っている。黒い布が、暗がりから出てきた。
女の姿と妙なものが、明かりの下に現れた。豊かな栗色の髪を緩く巻いた、大きな目が特徴的な若い女。
台車を従えた女は、ギルディオスと槍の男に目配せした。ごきげんよう、と優しく微笑んでみせた。
そして女は、開け放たれた扉の中に入っていった。途端に、中から盛大な拍手が起こり、彼女を迎え入れた。
台車も女を追い、中に入っていった。拍手は更に強くなって廊下の壁に反響し、かなりやかましい。
メイド長は厳めしい顔のまま、大広間に入る。そして内側から扉を閉じるように命じ、女を追っていった。
ぎぎぃと軋んだ扉は、再び廊下と中を隔てた。ばたん、と硬く閉ざされ、廊下には静寂が戻った。
ギルディオスはヘルムを押さえたが、血の匂いは残っていた。生臭い錆の臭気は、強く感覚を突いてくる。

「…なんだ、こりゃあ」

「あれがシルフィーナ・ディアード様さ。どうだ、美人だろ?」

槍の男は、さも嬉しそうに笑った。ギルディオスはヘルムを押さえたまま、ぼやいた。

「馬鹿言うな! あんなに血生臭ぇ女の、どこが美人だ」

「そうか? オレには、甘ーい香水の匂いしかしなかったがな」

不思議そうに、槍の男は首を捻った。どうやらこの血生臭さは、ギルディオスにしか感じられないらしい。
不意に、ごぼりと伯爵が沸騰した。内側からコルク栓を押し抜いたかと思うと、溢れ出す。
ワインレッドをでろりと垂れ下げながら、ぜいぜいと脈動する。苦しかったらしく、また気泡を出した。

「こういう時には、あの女の血が不便であるな…。あまりの臭気に、固まってしまったではないか」

「うお!」

いきなりフラスコの中身が喋ったからか、槍の男は仰け反った。伯爵は、まだ呼吸を繰り返している。
ギルディオスは槍の男を無視し、気分を落ち着けることにした。血の匂いが、辺りに漂っている気がした。

「伯爵よう。やっぱこいつぁ、フィルのせいなんだな?」

「うむ。フィフィリアンヌの血を持つ我が輩とフィフィリアンヌの力を受けた貴君は、竜族の眷属のようなものなのだ」

彼らの力の影響は強烈なものがあるからな、と呟き、伯爵はずるずるとフラスコに戻る。

「完全な、というわけではないが、多少なりとも彼らの力を得ている。故に、竜族の気配には敏感なのである」

「なぁるほど。だから、いきなり血の匂いがしたのか」

「そういうことだ。あの白竜族の骸に染み付いた残留思念が、我が輩達の感覚へ語りかけたのだ。血の匂いでな」

コルク栓と共に、伯爵はするりとフラスコに戻った。槍の男は、おずおずと槍で二人を指す。

「あんたら、何を話してるんだ?」

「だーから、気にすんなっつてんだろ。こっちの問題なんだから」

ギルディオスはつっけんどんに返し、深く息を吐いた。肩に乗せた剣を、強く握る。

「厄介だが割にありがたい能力をくれたもんだな、フィルは」

「いやだから、何が?」

困惑しきった顔で、槍の男はギルディオスを見つめた。だがギルディオスは答えず、扉へ向き直った。
固く閉じられた扉の隙間からは、宴の明かりが漏れている。その細い線が、銀色を輝かせた。
バスタードソードを下ろしたギルディオスは、隙間を睨み付けた。そして、大広間の壇上に立つ女を見つけた。
多くの拍手と賞賛に囲まれた女、シルフィーナは、室内の暖かさと喜びに頬を赤らめ、気恥ずかしげに笑む。
絹で出来た艶やかな手袋に包まれた手を跪いた男に取られ、口付けられている。彼女は、更に微笑んだ。
ギルディオスはシルフィーナの表情に、胸がむかついてきた。血の匂いは、明らかにあの女から出ている。
シャンデリアから注ぐ明かりが、女の襟元に付けられた装飾具を輝かせた。ちかり、と金のブローチが光る。
あれには、見覚えがあった。ドラゴンの頭部を模したエンブレムを、剣が貫いているものだ。
これで、ギルディオスには強い確信が得られた。間違いなく、あの女はドラゴンを殺してきている。
そして、それを生業とする者の名は。


「ドラゴン・スレイヤーか」


ギルディオスは、久々に人間を殺したくなっていた。怒りではない、衝動だ。
娯楽としてドラゴンを殺める女が、無性に気に食わないのだ。正義感にも近い感情が、沸き起こる。
だが、ここで大広間に突っ込んだところで、シルフィーナを殺したところで、良い結果が待つはずがない。
そして中には、人間として乗り込んだフィフィリアンヌがいる。彼女の目的は、これだったのだろう。
ドラゴン・スレイヤーにハーフドラゴンである彼女が近付くことは危険極まりないが、それ相応の目的があるのだ。
フィフィリアンヌの算段と計画を、邪魔してはいけない。そう思い、ギルディオスは大広間の扉に背を向けた。
先程、シルフィーナがメイド達に引き摺らせていた、台車の上の物が気になっていた。何か、既視感のある形だ。
少し考えて、ギルディオスはあれが何なのか察した。娯楽で殺したドラゴンの行く末は、やはり娯楽だ。

「ありゃあ、ドラゴンの剥製かよ」

そう吐き捨てたギルディオスは、すらりと剣を背中の鞘に戻す。がちん、と力任せにツバを鞘に押し込んだ。
柄を握り締めるガントレットの力が、否が応でも強くなっていく。
胸の奥の魔導鉱石が、じわりと熱を増してきた。








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