ドラゴンは笑わない




仮面舞踏会




壇上に立つ金の仮面の女、シルフィーナの隣に、黒い被いを掛けられた台車が置かれていた。
広げた扇で口元を隠したフィフィリアンヌは、途端に眉を歪めた。それが何なのか、すぐに解った。
嗅覚へではなく、感覚へ直にやってくる。まだ若く、潤いのあるドラゴンの血の匂いが、強く感じられた。
壇上を囲むように集まった人混みを遠巻きに見ていたが、フィフィリアンヌは顔を伏せた。吐き気がする。
彼女の傍らに立ち、カインはそっと右肩に手をやる。滑らかな肌に後を付けぬよう、手から力を抜いた。
扇の下で深呼吸したフィフィリアンヌは、力なく返事をした。張り詰めていた気を緩めずに、感覚を弱めた。

「大丈夫だ。案ずるな」

「これが、あなたの目的なんですね?」

小さな声で、カインが問う。フィフィリアンヌは軽く頷き、顔を上げた。

「そうだ。一月ほど前に殺された白竜族、コルグ・ドラゴニアの遺体の回収をドラゴニア家から頼まれてな」

ふう、と一息吐いてから、フィフィリアンヌは気を取り直した。張り詰めた気を抜けば、姿が戻ってしまう。
悠然と笑むシルフィーナは、穏やかな面持ちの美人だった。この家の長女らしく、雰囲気は落ち着いている。
ドラゴン・スレイヤーの証である金色のブローチが、胸元に輝いている。それは、濃い赤の衣装に似合っていた。
カインは胸の内に湧く怒りを押し込め、彼女に触れていない方の手を握り締めた。爪が、手のひらに食い込む。

「いざ、ご覧に入れましょう!」

シルフィーナの一声で、ばさりと黒い布がめくり取られた。宴の中に、一瞬、闇が浮かび上がる。
すぐに引かれて、後方に回収される。覆いの下から現れたのは、純白のウロコを持つドラゴンの剥製だった。
大きく口を開けて翼を広げた姿に、壇上に近い貴族達は芝居掛かった反応を示す。恐ろしい、などと聞こえる。
体格は、あまり大きくなかった。側に立つメイド達よりも少し大きいくらいで、まだほんの子供のドラゴンだ。
口は無理に広げられたのか、口の端の皮が切れている。広げられた頼りない翼も、傷が付いていた。
ずらりと、鋭い牙が並んでいる。上顎と下顎の牙の数とその長さで、カインは、このドラゴンの年齢を察した。

「体は大きいけど牙は短いから、歳はたぶん四五歳だ。こんな、小さい子を…」

戦闘でやられたのか、殺されたあとに抜かれたのか。両目はなく、代わりに赤く大きな魔導鉱石が詰めてある。
カインに支えられたまま、フィフィリアンヌは壇を見上げる。逸らしたい目を、なんとか向けていた。

「両の奥歯に焦げ目がある。大方、真正面からあの女を喰おうとして、逆に魔法を撃たれたのだろう」

惨いことを、とフィフィリアンヌは苦々しげに漏らす。

「火炎を吐きつけるなど、そんな単純な手が人間相手に通ずるものか。息を吸う瞬間に口の中を狙われるだけだ。ドラゴンが地上に降りるときは、囮になるか敗北を決め込んだときだけだと、教えてもらわなかったのか」

「それって、戦いの心得ですか?」

「私も多少の経験はある。長いことドラゴンをやっていれば、戦わざるを得ない機会は割とあるのでな」

カインに返し、フィフィリアンヌは深く息を吐く。騒ぎ立てる貴族達の声で、二人の会話は紛れていた。
ありがたい反面、腹立たしかった。幼子の遺体に、大人が好奇心を剥き出しにする姿はいいものではない。
フィフィリアンヌはコルグの死臭と腹立ちに、頭がずきりと痛んだ。魔力が削れているから、多少堪えた。
なるべく手っ取り早く、仕事を終えてしまわねばならない。そう思ってはいるが、なかなか動けなかった。
偽物の瞳を填め込まれたコルグが、あらぬ方向へ叫んでいる。傷付いた皮が、偽物の肉で張り詰めている。
しかも、彼の魂はまだ存在している。血肉の失せた飾り物となった体の周りを、くるくると小さな影が巡っていた。
フィフィリアンヌは、灰色の目を強めた。翼と気配を押し込めていても、竜族としての感覚は残っている。

「見えるか」

「え?」

「そうか、貴様には見えないのか」

カインをちらりと見てから、フィフィリアンヌはまた壇上を見た。幼い白竜の子の魂が、見えていた。
殺されたことを理解していない。体が偽物と化したことを理解していない。ただ、自分の体に戻りたいだけだ。
ドラゴンの形を取っているコルグの魂は、何度も剥製の中を出入りしている。その都度、泣いている。

 どうして、どうして。どうして、どうして、ぼくはぼくにもどれないの。おしえて、おしえて。

途端に、血の匂いが増した。これは、彼の自己主張だ。気配を振りまいて、疑問の答えを誰かに求めている。
フィフィリアンヌは赤い魔導鉱石の首飾りに触れ、幼子の魂を見つめた。すると、彼は気付いてくれた。
信じられないような顔をして、剥製の周りを巡るのを止めた。そして、フィフィリアンヌへ叫んだ。

 おしえろ。ぼくをからだにもどせ。

その声は、強く感覚を貫いた。電撃にも似た痛みが額から走り、フィフィリアンヌの体に広がる。
激しい頭痛と感情の波が、息を荒げまいとするフィフィリアンヌを攻め立てる。コルグは、近寄ってきた。
ひやりとした空気が、ねっとりと首の周りを回る。短い牙で威嚇する幼い白竜の声は、大きくなる。
怒りと憎しみで鋭さを増した牙が剥かれ、ざくりとフィフィリアンヌの手に刺された。冷たさが、骨に染み入る。

 かえせ。おまえが、ぼくのはらをやいたんだな。

 かえせ。かえせ。かえせ。

「空を忘れ、大地を離れ、時を見失い、光を受けぬ者よ。眠りの奧より、我は呼ぶ」

幼子の魂に触れられ、フィフィリアンヌの手は冷え切っていた。元々白い手から、更に色が失せる。
魔導鉱石の首飾りを外し、手前に差し出す。コルグはそれに興味を示したが、首をかしげるだけだった。
フィフィリアンヌは、白い霧を固めたような小さなドラゴンを見つめた。声を落とし、呪文を続けた。

「その御魂に、安らぎと幸せがあらんことを。静寂の石は我が手にありて、汝を求めるなり」

どこからか、弱い風が起こる。それは、ふわりと少女の黒髪を揺らがせた。

「彷徨える心よ。この言霊を感じるならば、いざ、我が手中に参りたまえ」

静かな言葉が終わると、潮が引くように空気から冷たさが消えた。カインは、部屋の暖かさに気付いた。
雰囲気と唐突な冷気に飲まれて、カインは何が何だか解らなかった。間を置いてから、何があったか理解した。
フィフィリアンヌが聞き慣れぬ呪文を使い、冷気を消したのだ。そしてそれは、首飾りの中に入った。
一瞬だけであったが、白い霧が見えたのは覚えている。それがドラゴンの魂なんだ、と、カインは思った。
フィフィリアンヌは首飾りを元に戻し、額を拭う。魔力を消耗した状態で魔法を使うと、体力が削れてしまう。
呆然としているカインを見上げ、フィフィリアンヌは呟いた。赤い魔導鉱石の首飾りを、軽く押さえる。

「魂に体を与えるための術だ。ギルディオスを捕まえるときにも、これを使ったのだがな」

「僕、最後にちょっとしか見えなかったんですけど、その中に、あの子の魂が入ったんですか?」

「そうだ」

ふと、フィフィリアンヌは右肩に置かれたカインの手に気付いた。ぱん、と軽く払う。

「いつまでそうしている」

「あ、ああごめんなさい!」

慌てて手を放し、カインは身を引いた。フィフィリアンヌは、右肩を押さえる。

「全く…」

「すいませんでした」

平謝りしながら、カインは右手を後ろにやった。まだ、手のひらには彼女の体温が残っている。
きめ細かくしっとりとした肌の感触も、張り付いたようになっていた。カインは、自然と顔が緩んでしまう。
フィフィリアンヌは肩を拭い、顔を逸らした。そのまま、くるっと彼に背を向けてしまう。

「行くぞ」

「どこへです?」

「魂を回収したのであれば、肉体を取り戻すのが筋だ。早く来んか」

横顔だけ向けて言うと、フィフィリアンヌは大広間奧の壇に進んでいった。早足で、人混みに突っ込んでいく。
カインは突っ立っていたが、急いで追いかけた。白い衣装の少女は、どんどん先へ行ってしまう。
そこまで急ぐ必要はあるのかな、と思いながらも、カインはフィフィリアンヌを追って駆けていった。

「まぁあ!」

壇に向かおうとしたカインを、甲高い声が呼び止めた。反射的に、足を止めてしまう。
カインは遠ざかるフィフィリアンヌの背を見送っていたが、仕方なしに振り返った。声の主に、笑う。

「…エリカさん」

「カイン様ぁ、どこに行ってらしたの? エリカ、とっても怖かったんですからぁ」

甘ったるい声を出し、エリカは駆け寄ってくる。カインは仰け反ったが、詰め寄ってきた。

「あの白いドラゴンに、なんだか食べられてしまいそうな気がしますの。カイン様ぁ、一緒にいて下さいませ」

「コルグ…あの子はもう剥製ですよ。誰も傷付けやしませんから、安心して下さい」

エリカに掴まれた腕を遠のけながら、カインは真正面からコルグを見上げた。確かに、奥歯が全て焼けている。
前歯や牙は白いため、余計にその黒さが濃く見えた。喉から腹を、一気に炎の魔法が貫いたのだろう。
その苦しみと痛みを想像し、カインは怒りが戻ってきた。幼子を殺す手段としては、ひどすぎる。
カインの腕を離したエリカは、すかさず正面に回る。両手を胸の前で組み、困ったような顔をした。

「ね、ですから、エリカと一緒にいて下さいまし」

「いや、僕は」

フィフィリアンヌさんを追わないと、と言いかけたが、飲み込んだ。カインは、エリカから目を逸らす。
エリカは擦り寄り、丸っこい目を潤ませる。後退ったカインに、ずいっと顔を寄せた。

「今日のカイン様、おかしいですわ。いつもでしたら、ずうっとエリカの傍にいて下さるのにぃ」

「その、フィリナとはぐれちゃって。彼女を、捜しに行かないと」

「あんな冷たい子よりも、わたくしをご心配なさって。本当に、本当にエリカはあのドラゴンが怖いんですの」

僅かに声を震わせながら、エリカはじっとカインを見つめる。カインは、仮面の下から見下ろした。

「フィリナは、いえ、あの人は決して冷たくはない。多少愛想がないだけだ」

「カイン様、どうしてそんなに怒ってらっしゃいますの? わたくしは別に、本当のことを言っただけで」

「身内を貶められたら、誰だって怒りますよ」

舌っ足らずなエリカの口調に苛立ちながら、カインはさっさと先へ進もうとした。が、がくんと肩が後退した。
振り向くと、群青色のマントが引っ張られていた。悲しげに、エリカがマントを握り締めている。

「カイン様ぁ…」

「離して下さい」

「いや! カイン様は、エリカと一緒にいないとダメなんです!」

マントを抱き締めたエリカは、頭を左右に振った。カインは、次第に苛立ちが強くなってきた。

「僕はあなたと一緒でなくても平気だ。だから、早く離して下さい」

「エリカは平気じゃありません!」

「必ず、また戻ってきますから。ですから、僕を離して下さい」

叫びたいのを堪え、カインはエリカに向き直った。エリカは、少しマントを握る手を緩める。

「本当に、本当に約束ですわよ? 嘘をおっしゃったら、許しませんわよ?」

「…本当です。だから」

怒りと苛立ちを押さえ込んでいるせいか、カインの声は低くなった。エリカは、ちょっと怯えた目になる。
エリカはカインのマントを離し、身を下げた。カインはエリカを振り切ると、足早に壇へ向かっていった。
雑踏の中に消える群青色の後ろ姿を見つめていたエリカは、そっと両の頬を押さえた。そして、俯く。
あんなカインの表情は、今までに見たことがなかった。いつもは優しく笑っていて、怒ったことなどなかった。
だから余計に、険しい目をして口元を締めた彼が、凛々しく思えた。エリカは、頬の熱さを感じていた。
ああ、なんて素敵な御方でしょう。エリカは内心でそう呟き、高まる恋心に身を任せていた。




カインが壇の前に近付くと、待ち兼ねていたフィフィリアンヌが振り向いた。
扇で顔の下半分を隠し、鋭い目元を細める。今度は睨むものではなかったが、優しいわけでもなかった。
カインは一度後方を見たが、フィフィリアンヌへ軽く頭を下げた。とりあえず、謝るべきかと思った。

「すいません」

「なぜ謝る。貴様に非はない」

ぱちん、とフィフィリアンヌは扇を閉じた。カインの肩越しに、遠くのエリカを見る。

「貴様があの女を好かない理由が、実に良く解ったぞ」

「あの人は、僕に媚びるためだけにドラゴンを嫌うんですよ」

心底嫌そうに、カインは口元を曲げた。そうか、とフィフィリアンヌはカインへ目線を戻す。

「そんなところだろうと思った。女という生き物は、小賢しく出来上がっているからな」

カインは、このまま行けばエリカと結婚しなければならない、と思い、憂鬱になる。嫌な未来しか、想像出来ない。
終始あの調子でカインを振り回し、カトリーヌを遠退かせ、ドラゴンの研究をやめさせられてしまうだろう。
なんとかして、婚礼の約束を撤回したい。そうは思っているものの、なかなか父親に意見することが出来ないのだ。
色々と恩があり尊敬する偉大な父親が、エリカを差し向けてきたのだ。そう、おいそれと断れない。
だが、いつか断らなければならない。仮面を付けたフィフィリアンヌを見下ろし、カインは決心を固めた。

「決めました」

「何を」

「僕は必ず、エリカさんとの結婚を断ります。そして」

「私は妻にはならんぞ」

「先に言わないで下さい。ていうか、言う前から否定しないで下さい」

カインは、固めたばかりの決心が揺らぎそうになった。フィフィリアンヌは、平謝りする。

「すまん。貴様の言うことは、どうにも先が読めてしまってな」

「あなたって人は」

「褒めているのか、けなしているのか?」

「いえ、呆れているんです」

「そうか」

意外な答えだ、とフィフィリアンヌは少し首をかしげた。カインは呆れつつも、笑ってしまった。
確かに彼女の言う通り、この調子では、エリカとの結婚を断ってもフィフィリアンヌと進展は望めない。
話せば話すほど、数歩ずつ後退しているような気がしないでもない。だが、カインは諦める気はなかった。
後退するところまで後退したら、あとは前進しかないのだ。だから、行くところまで行ってやろうと思った。
カインはもう一つの決心を胸に固め、頷いた。すると、フィフィリアンヌはまた前に進んでいった。
シルフィーナの立つ壇の前に並んでいた貴族達に軽く頭を下げ、道を空けてもらいながら、前に行ってしまう。
水を分けるように出来た道を、カインは慌てて追った。フィフィリアンヌは落ち着いた動作で、歩いていく。
壇の上で、シルフィーナは訝しげにしていた。いきなり近付いてきた見慣れぬ少女を、怪しんでいる。
それを察したメイド達が、シルフィーナとフィフィリアンヌの間に立つ。フィフィリアンヌは、頭を下げた。
フィフィリアンヌはスカートを持ち上げて広げながら、膝を落とした。そして、上目にシルフィーナを見上げる。

「お初にお目に掛かります、シルフィーナ様。このたび仕留められましたドラゴンは、実に見事でございます」

「あなた、何?」

フィフィリアンヌを睨み、シルフィーナは乱暴に返した。フィフィリアンヌは、淡々と続ける。

「申し遅れました。私はフィリナ・ストレインと申しまして、シルフィーナ様をこよなく尊敬しております」

「あら。それはどうもありがとう、私の実力を解って下さって」

褒められて悪い気がしなくなったのか、シルフィーナは少し笑う。だがそれも、どこか嫌味混じりだった。
フィフィリアンヌは、顔を上げてシルフィーナへ目を細めた。その後ろに、カインが追い付いた。

「誠に失礼な申し出とは思いますが、シルフィーナ様。そのドラゴンを、この私めにお売り頂けないでしょうか」

「売る? どうして?」

はっ、と大袈裟な動きで顔を逸らしてから、シルフィーナはコルグの剥製に近付いた。
絹の手袋を填めた手で、そっと白竜の顎を撫でる。赤い魔導鉱石の瞳に顔を寄せ、馬鹿らしそうに言う。

「このドラゴンは、私が苦労して仕留めたもの。なぜ、見ず知らずのあなたに売らなくてはならないの?」

「そうおっしゃるのも無理はございませんが、事情を説明いたします」

ぱちり、とフィフィリアンヌは扇を広げた。それで口元を覆ってしまうと、物悲しげに目を伏せる。
泣き伏せるような表情を一瞬で作った彼女を横目に見、カインは感心した。立派な女優だな、と。
しおらしい声を作りながら、フィフィリアンヌは説明を始めた。無論、全部嘘なのであるが。

「私の家はストレインの分家でございまして、王都ではなく、その白竜族がのさばる北方の村に住んでおります」

フィフィリアンヌは喋りながら、作り話を組み立てていった。こういうことは、割に得意なのだ。

「北の山中に住まう白竜族は、近頃は暇を持て余しているのか、しきりに人界へ下りてきました。巨大で恐ろしいドラゴン達は、空から舞い降りては家や畑を荒らし、それはそれは大きな被害を、私の村へもたらしていきました」

ほう、とフィフィリアンヌは悲しげに一息吐く。

「私めの領地に暮らす民達は心優しい農民で、ドラゴンと戦う術を持っておりませんでした。ですから抵抗することも出来ず、日々苦しみ続けておりました。そこへ颯爽と現れて下さいましたのが、気高く美しい魔導師、シルフィーナ・ディアード様にございます」

フィフィリアンヌは、扇の下からシルフィーナを見つめる。

「私めの領地に訪れたシルフィーナ様は、それはそれは美しく戦って下さいました。あれよあれよと思う間に、そこへ飾られているドラゴンを仕留め、残りのドラゴンも、全て追い払って下さいました。私や村の民が、シルフィーナ様へお礼を申し上げようと思いましたが、声を掛ける前に立ち去られてしまったのでございます」

「…それで?」

あまりのべた褒めに、シルフィーナは表情を和らげた。はい、とフィフィリアンヌは頷く。

「ですから私めは、その忌まわしきドラゴンを買い取り、シルフィーナ様の像と共に故郷へ飾りたく思っております」

「そこまで言われては、仕方ありませんわね。ですが、安くはなくってよ?」

シルフィーナの指先が、ついっと偽物の瞳を撫でた。丸く磨き上げられた石が、輝く。

「このドラゴンの両の瞳は、一つだけでも金貨一千枚はいたしますの。それを二つと本体で、そうですわね…」

少し悩んでから、シルフィーナはフィフィリアンヌを見下ろした。いや、見下した。

「金貨一万五千枚。それだけ持ってくることが出来るのであれば、あなたに売って差し上げてもよろしくてよ?」

貴族達は、一斉にどよめいた。常識外れの金額に対する驚きと、黒髪の少女に対する嘲笑だ。
北方の田舎貴族がそこまで払えるものか、払えたところでこれから暮らしていけるものか、などと聞こえてくる。
フィフィリアンヌはシルフィーナから目を外し、一歩身を引いた。ざわめきの中、カインにそっと囁いた。

「五千枚、あるか。後で必ず払うから、今はそれだけ立て替えてくれないか」

「…一万枚、持ってきてたんですか」

カインの驚き混じりの呟きに、フィフィリアンヌは眉根を歪めた。

「せいぜい八千も出せば買えると思ったのだが、足元を見られてしまったからな。だから、五千枚、貸してくれ」

「まぁ、出せないこともないですけど…。馬鹿正直に、相手の言い値で買うんですね」

「下手に値切って怪しまれたら、元も子もあるまい。背に腹は代えられん」

「そりゃそうですけど」

思い切りが良いなぁ、と思いながら、カインはフィフィリアンヌから離れた。金貨五千枚を、工面するためだ。
貴族達の間を抜けながら、一瞬、エリカと目が合った。エリカは、妙に熱っぽい目をしていた。
カインはエリカのその視線が気になったが、すぐに前へ向いた。正面の扉を開け、薄暗い廊下へ出る。
大広間に比べて冷たい空気に、震えそうになる。カインが扉から出ると、右側に立っている甲冑が振り向いた。

「お、どうしたカイン」

「あ、ギルディオスさん。ちょっと、僕の馬車まで行ってきてくれませんか?」

「馬車?」

ギルディオスは不思議そうな声を出した。カインは槍を持つ男が気になり、彼を手招きする。
それに従って、ギルディオスは大きな体を屈み込ませた。カインは、冷え切ったヘルムに小さく言う。

「色々あって、ドラゴンの剥製を買うことになったんですよ。フィフィリアンヌさんが」

「フィルの奴、それが目的だったのか。だが、ドラゴンがドラゴンを買うたぁ、無茶苦茶な話だなぁ」

「ですよねぇ。それで、僕の荷物から金貨五千枚と、フィフィリアンヌさんの荷物から金貨一万枚持ってきて下さい」

「いちまん!?」

唐突に、ギルディオスは素っ頓狂な声を上げた。耳元で喚かれ、カインは頭が少し痛くなった。
ギルディオスの絶叫は、しばらく廊下に反響していた。あまりの金額に、ギルディオスは呆然としている。

「つーことは…おい、合わせて一万五千かよ…。おーわー…」

「なるべく急いで下さいね。あと、落とさないで下さいね」

「あー、おう」

カインに急かされ、ギルディオスは気が抜けた声で頷いた。暗がりへ歩き出し、赤いマントの背が消える。
がしゃがしゃと足音を響かせる甲冑を見送り、カインは深く息を吐いた。張り詰めていた緊張が、僅かに緩む。
カインがまた大広間に戻ろうとすると、呆気に取られている、槍を持った男に呼び止められた。

「なぁ、お貴族さん」

「はい?」

「あんたら、一体なんなんだ? あのでかいのは気味の悪いの連れてるし、変なこと言うし、そのくせ金はあるし…」

「えーと、気にしないで下さい。なんでもないので」

「あのでかいのにも、そう言われたんだが」

怯えと好奇心を含んだ声で、槍の男は呟いた。カインはにっこり笑い、手を振る。

「気にしないで下さい」

「いや、そう言われるから気になるんだよ。なぁ、ちょっとでもいいから教えてくれよ、眠れなくなるだろ!」

必死の形相で懇願され、カインは少し考えた。はぐらかすのも手だが、嘘を吐くのも手だ。
先程のフィフィリアンヌほど上手くは行かないが、割といいものが思い付いた。カインは、満面の笑みを作る。

「僕とあの鎧の人は、暗黒の沼に住む魔王様の手先なんですよ。ですから、金があって当然なんです」

それだけ言い残し、カインは急いで大広間に戻った。扉の向こう側で、槍の男の変な叫びが聞こえた。
背中でしっかりと扉を閉めてから、カインは正面を見た。貴族達の視線が、一斉にこちらへ向けられている。
先程の嘘を聞かれてしまった様子はないが、それでも居心地は悪かった。視線が集まるのには、慣れていない。
カインは扉から背を外し、姿勢を正した。壇の前では、割れた人垣の中心に、フィフィリアンヌが立っている。
まだ演技を続けているのか、どこかしおらしい目をしている。カインは、とりあえず彼女の元へ戻った。
カインがフィフィリアンヌの後方に立つと、シルフィーナが前に出てきた。勝ち誇ったような顔をしている。
かん、と高い靴音を響かせながら、まじまじと来客達を眺める。そして、女優のような良く通る声を出した。

「やはり。招待状の名簿にあったドラグーン、竜族の者が、この中にいますのね」

芝居掛かった動きで、くるりと首を動かす。舞台を、ゆっくりと歩いた。

「こんな子供が大金を持ってくること自体、変ですもの。きっと、この黒髪の子の裏にいるに違いありませんわ」

金の仮面の下で、緑色の目が見開かれた。



「フィフィリアンヌ・ドラグーンが」



先程とは比べものにならないほど、貴族達は声を上げた。悲鳴も混じり、女性達は動転している。
カインはぎょっとしたが、表情に出さずにいた。さてどうしようかと考えていると、目の前で彼女がよろけた。
体の力を抜いて、卒倒したかのような動きでもたれかかってくる。かしゃん、と手から扇が落ちた。
目を閉じたフィフィリアンヌを腕の中に納め、カインは困ってしまったが、とりあえず支えていることにした。
壇上のシルフィーナは、やはり、と満足げに微笑んだ。屈むと、フィフィリアンヌの顔を覗き込んだ。

「大方、呪いか何かでも掛けられていたのでしょう。この子を操って、何をするつもりだったのかしら?」

まぁ、それは別にいいわ、とシルフィーナは立ち上がった。片手を挙げ、胸を張る。

「さあ出てらっしゃい、ドラグーン! ドラゴン・スレイヤーである私が、仕留めて差し上げましてよ!」

状況は、悪いのではないだろうか。そう思い、カインは気を失っているらしい彼女を見下ろした。
腕から落ちてしまわないように、胸へと抱え込む。その体重の軽さと小ささに、カインは緊張してしまう。
肩に触れたときは手のひらだけに感じていた体温が、腕と胸に伝わってくる。柔らかい、少女の匂いもした。
周囲のどよめきは最高潮となり、シルフィーナを囃し立てる言葉が、カインの頭上を行き交っている。
ふと、フィフィリアンヌが身動きした。顔を上げたので、カインが大丈夫かと言おうとすると、口を押さえられた。

「案ずるな」

至極冷静な顔で、フィフィリアンヌは言った。

「全て、計算通りなのだ」

カインは、本当にどうしたらいいのか解らなくなった。
唇を押さえている彼女の指が細いことが、手袋越しでもよく解る。
それが、余計に混乱を生んでしまっていた。この状況が、幸せなのか不幸なのか。
カインにはどちらにも思えたが、どちらでもないようにも思えた。





 



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