ドラゴンは笑わない




竜の棲まう都



フィフィリアンヌは、巨体を縮めていた。


自分が住んでいる家が視界の下にあり、少々違和感があった。長い尾を丸め、地面に軽く叩き付ける。
無意識の行為だったが、それだけで地面が揺れた。雪から解放された土が舞い、ずん、と重い音が響いた。
藍色の夜空に、ひゃっ、と妙に高い声が響く。石造りの家の屋根に立つメアリーが、口を押さえる。

「あ、ごめんよ」

「いや。貴様は私に慣れていないのだ、それが当然の反応だ」

首を上げ、フィフィリアンヌは屋根を見下ろした。メアリーの傍らで、カインが恍惚としながら立っていた。
目を見開いて、感嘆したように息を漏らしていた。彼の肩の上で、ぎゅる、とカトリーヌが低い声を漏らした。
今夜は新月なので、月明かりはない。星々の僅かな光とメアリーの持つランプで、彼女の姿はようやく見えていた。
艶やかな、若草色のウロコを持つ巨大なドラゴン。皮の張り詰めた翼を広げ、ぐるぅ、と太い喉が低く鳴った。
赤っぽいランプの明かりを受け、真っ白く鋭い牙が輝いている。口元がほんの少し開き、牙が動いた。

「一月ほど、私はここには帰れん。仕事の他にも、色々と用事があるのでな」

「でもさぁ、フィル」

不思議そうな顔をしたメアリーに、フィフィリアンヌは赤い目を向ける。

「なんだ」

「なんでまた、うちの旦那まで連れていくんだい? その、竜王都とやらにさぁ」

「これといった理由はない。が、強いて挙げれば、今回の仕事には入り用かもしれんと思ったのでな」

フィフィリアンヌは、ずいっと鼻先を屋根の上に差し出した。うぉわ、とその上に乗る甲冑が仰け反った。
翼と首の間辺りに座っていたギルディオスは、がしゃりと姿勢を戻す。荷物を抱え込み、屋根と妻を見下ろす。

「うん、あのよ。なんでも、竜王都に化け物みてぇな魔物が入り込んだらしいんだよ」

「竜王朝は、そやつを殺処分すると決めたのである。だが竜王朝は、己の手を汚したくないらしいようでな」

ごぼり、とギルディオスの腰元で水音がした。腰に提げられたフラスコの中で、スライムがうねる。

「フィフィリアンヌに、その魔物を薬殺するように頼んできたのである。たったの金貨四十五枚でな」

「なんだか、あんまり里帰りらしくない理由ですね」

肩を竦めて身を縮めながら、カインが眉をしかめた。春が来たとはいえ、まだまだ夜は寒い。
開いていた口を閉ざし、フィフィリアンヌは夜空を仰ぐ。薄黄色の喉元が晒され、それが少し動いた。

「異形を殺すのは異形、とでも決め込みたいのだろう。竜王朝にしては、なかなか洒落ているではないか」

「全くであるな。竜王の権力が、寿命と共に弱まってきた証拠である。側近などの意見が通ってしまうとは」

嘆かわしい、と伯爵はぐにゅりと身を捻った。ギルディオスは、フラスコを見下ろす。

「どこの世界も、似たようなもんなんだな。いくらドラゴンったって、中身は人間と同じじゃねぇか」

「圧政もすれば権力争いもするし、政略結婚の果てに身内を謀殺もする。王朝など、どこもそんなものだ」

忌々しげに、フィフィリアンヌは目元を歪める。彼女から目線を下ろし、カインは深くため息を吐く。
心配げに、カトリーヌが主人の顔を覗き込んできた。カインは幼子に少し笑ってから、呟いた。

「竜族に幻滅したわけじゃないですけど、なんか…ちょっと残念な気分です」

「ドラゴンっていやぁ、空恐ろしいけど強大な存在だものねぇ。生々しい話は、ちょいと似合わないねぇ」

メアリーは首を横に振ってから、フィフィリアンヌを見上げる。間近に見るドラゴンは、巨大だった。
今まで戦ってきた中で、ドラゴンに会わなかったわけではない。だが、ここまで近付いたのは初めてだ。
この巨体が、あの少女の体に押し込められていたとは想像しがたい。メアリーは、一歩二歩、後退してみた。
暗闇に浮かぶ若草色の竜は、後ろ足だけで立っていた。四つ指の前足は、長い爪が軽く握られている。
姿形は違えど、竜から漂う雰囲気はフィフィリアンヌだった。メアリーはそれを感じ、なんとなく安心する。
見知らぬ土地へ夫を連れて行かれるのは少しばかり不安であったが、彼が信用しているのであれば、と思った。
メアリーは、フィフィリアンヌの赤い瞳を見据えた。縦に細長い瞳孔が、闇の中にいるために幅広になっている。

「それじゃ、フィル。ギルを落っことさないように、ちゃあんと飛んでいってくれよ」

「解っている。未だに借金は返済されておらんし、これ以上負傷されて借金を増やされたくはないのでな」

頷くように、フィフィリアンヌの目が細められた。ギルディオスは肩を竦め、情けなさそうに笑う。
がりがりとヘルムを掻いていたが、ドラゴンの首越しに妻を見下ろす。身を乗り出し、軽く手を振った。

「んじゃ、行ってくらぁ。見送りありがとな、メアリー。ランスによろしくな」

「ん。あんたも、しっかりね」

メアリーも、ギルディオスへ手を振り返した。ばさり、と大きな竜の翼が動かされ、強い風が巻き起こる。
次第に上昇する彼女を、カインは名残惜しく思いながら見つめた。肩のカトリーヌを押さえ、飛ばないようにする。
家を取り囲む木々が揺さぶられ、乾いた葉が擦れ合う。木々のない空間に、一時ながら嵐が起きていた。
舞い上がる枯れ葉と土埃が、ばん、と地面に風で叩き付けられた。フィフィリアンヌは、一気に森の上に出る。
彼女は屋根の上に立つ二人を見下ろしていたが、ふいっと顔を上げる。東南に頭を向け、方向転換していった。
一際強い風が起こり、緑竜の影は途端に小さくなる。星の散る夜空に、すらりとした姿が吸い込まれた。
ばさり、ばさり、と何度か羽ばたく音が聞こえていた。だがそれも、徐々に遠ざかっていった。
ギルディオスの悲鳴と思しき叫びが混じっていたが、羽音と同様に、そのうちに聞こえなくなった。
東南の夜空を見上げ、メアリーは肩を竦める。夫の醜態が予想出来て、居たたまれなくなってしまった。

「何をやってんだい、うちの人は」

「いいなぁ、ギルディオスさん。フィフィリアンヌさんに乗ることが出来て」

ほう、とカインは切なげにため息を吐いた。羨望の眼差しを、彼女が飛び去った方へ向ける。
きゅうきゅう、と寂しげな声を出して、カトリーヌが頬に擦り寄ってきた。カインは、それを軽く撫でる。

「おまけに、竜王都にまで行けて…。羨ましいったらありゃしませんよ、もう」

「そうかい、カイン? あたしだったら、ドラゴンまみれの場所なんてごめんだね」

上着のポケットに手を突っ込み、メアリーは少年のような貴族の青年を見下ろす。暗がりで、表情が良く見えない。
ランプに納められた頼りない炎が、彼の横顔を浮かび上がらせていた。目を伏せ、本気で残念がっている。
メアリーは少し考えてみたが、カインの感覚はさっぱり解らなかった。ドラゴンを好くなど、想像も付かない。

「ドラゴンてのは、あたしら人間と同じで大体が人間を嫌ってるのさ。そんなの相手を、好きになれやしないよ」

「メアリーさんは、ギルディオスさんとは違うんですね。あの人は、ドラゴンは嫌いじゃないみたいですけど」

「うちの人は、物事を深く考えないからね。戦う相手でなければ嫌う意味もない、とか思ってんじゃないのかい?」

「あー、そんな感じ、しますねぇ」

「だろ? ギルにとっちゃ、人間もドラゴンも二種類しかないのさ」

夜空を見上げ、メアリーは白い息を吐いた。褐色の頬に落ちた髪を掻き上げ、耳に掛ける。

「紛れもない敵か、頼れる味方か。それだけなのさ、きっと」

「いいか悪いか、じゃないんですね」

「あたしもギルも傭兵だからね。正義か悪か、なんて薄っぺらい理由で、簡単に誰かを信じたりはしないのさ」

「はぁ…」

ランスに良く似たメアリーの横顔を、カインは見上げた。勧善懲悪、は傭兵の世界では通用しないらしい。
いや、実際、どんな世界でも通用しないのだ。その理論がまかり通るのは、おとぎ話の中だけだ。
フィフィリアンヌとて、決して悪ではないが別に正義ではない。事実、仕事として、魔物を薬殺しようとしている。
自分が知らないだけで、彼女の手はもう汚れているのかもしれない。脳裏に、ふと、そんな考えが過ぎった。
だがそれでも、愛していることには代わりはない。過去に何をしていようが、何があろうが、彼女は彼女なのだ。
一月後、フィフィリアンヌが竜王都から戻ってきたとき。魔物を殺す話を聞くべきか、それとも聞かざるべきか。
ちかちかと瞬く星々を見つめながら、カインは迷っていた。しかし今は、まだその結論を出す必要はない。
迷いを見定めるための時間は、一月もあるのだから。




夜空を飛ぶ竜の背は、予想以上に過酷だった。
ギルディオスは身を屈め、しっかりとフィフィリアンヌの背びれを掴んでいた。強い風が、ひっきりなしに当たる。
下を見たいような気もしたが、とてもじゃないが身を乗り出す気にはならなかった。高度を想像し、内心で震えた。
少しでも動いたら、転げ落ちてしまいそうな予感がしていた。ヘルムの隙間を、ひゅるひゅると風が抜ける。
体の芯が冷え切る感覚に、ギルディオスはぶるりと身を震わせた。高度が高いと、それだけで気温も低い。

「…寒ぅ」

「夜明けまで堪えろ。私とて寒いのだ」

フィフィリアンヌの声が、足元から震動と共に伝わってくる。ばさり、と大きな翼が羽ばたいた。
ギルディオスは背後を見、巨大な翼が上下する様を眺めた。この姿を見るのは二度目だが、まだ慣れない。

「しっかし、どういう理屈なんだよ。あんなにちっけぇフィルが、どうしてこんなにでかくなるんだ?」

「それは逆だ。私の本来の姿はこれであって、擬態の姿が仮なのだ」

「解んねぇなぁ。とりあえず、何がどうなって、ドラゴンになれるんだ?」

首をかしげ、ギルディオスはフィフィリアンヌの後頭部を見上げた。太く立派なツノが、両脇から伸びている。
そうだな、とフィフィリアンヌは考えるように小さく呟いた。多少の間を置いてから、説明を始めた。

「魔力というものは、物質に変化を与え、実体として発現させる能力の事を指す。魔法というものは、魔力を様々な手順と約束事で変化させ、物質に作用を与える行為を指す。これが、黒魔術とされる魔法術の正体だ」

「ごめんますます解んねぇ」

「貴様はどこまでも馬鹿なのだな、ギルディオス。まぁいい、続けるぞ」

少し首を曲げ、フィフィリアンヌは後方に目をやる。甲冑は頭を抱え、うぇあ、と妙な唸り声を上げていた。
眼下に広がる広大な大地は、ひっそりと闇に沈んでいた。遥か彼方の東の空は、藍色が淡く滲み始めている。
ぐいっと体を持ち上げ、高度を上げた。翼を広げて姿勢を安定させてから、フィフィリアンヌは続けた。

「白魔術とされる、回復及び浄化の魔法も似たようなものだ。一見しただけは、黒魔術とは真逆の魔法のようだが、本を正せば同じようなもので出来ている。魔物の邪気とされる魔力を含んだ気体を浄化出来るのは、そのためだ。一足す一引く二は、ゼロになるのと似たようなことだ。全く同じ、というわけではないが」

「…うへぇ」

「精霊魔術は、どちらかと言えば降霊術に近い。自然から生まれた意識体の力を借りて、己の魔力で発現させる。先程の二つとは種類が違う上に、扱いも少々面倒だ。故に、貴様の息子の才能は貴重だ。ランスは精霊と会話が出来る上に、姿を目視することも出来るようだしな。実に珍しいぞ、あの少年は」

「オレの子を珍獣みたいに言うなよ」

「呪術は、それらとは全く違う種類の魔法なのだ。呪いというものは漠然としてはいないが、それ故に高度だ。通常の魔法以上に約束事を守らねば、己の魔力を介して呪詛が返ってきてしまう。呪詛を施すこと自体は割と簡単なのだが、明確に目標へ発動させることは難しい。形のない流水を凍らせることが、難しいようにな」

「人の話を聞けよ」

「竜族の形態変化は、簡単に言えば黒魔術だ。魔力を用い、骨格を始めとした体組織の物質量を変化させる」

「やっと本題に戻ったか」

「最初から本題だ。時折、質量変化を空間移動魔法と混同させる者がいるが、これは元から違っている。空間移動は、縦横斜めに走っている空間軸をねじ曲げて、所定の魔法陣間を行き来するだけの魔法であり、質量は欠片も変化していないのだ。召喚魔術は、これの応用に過ぎん。故に、召喚術は割と簡単な魔法なのだ」

「また脱線したぞ」

「いちいち茶々を入れるな、ニワトリ頭め。気が散るではないか。竜族の形態変化は、正直言って、利点は少ない。人間を模した姿にはなるが、所詮は模倣でしかない。巨体を無理に小さく押し込めてしまうから、それだけで、体力も消費するし、魔力も削れていく。私のようなハーフドラゴンや、強大な魔力を備えたドラゴンでなければ、長時間の形態変化は肉体と精神を酷使する行為であり、結果として寿命を縮めてしまうだけなのだ」

「ごめんやっぱり解んねぇ」

「最後まで聞け。だが、昨今の竜王朝は、形態変化を推奨している。理由は至って簡単で、人間と共存するためだ。しかし、あまりその指示に従う者はない。この理由も至って簡単で、人間族に尺度を合わせて寿命を縮めたい輩が少ないのだ。当然だがな。だが、無意味に長々しい寿命が百年程縮んだところで、大差はないと思うのだが」

「うーあー」

「唸るな、鬱陶しい。しかしそれでも、擬態に少々の利点はある。身体構造も人間に近付けているから、人間相手に生殖行為と繁殖が可能なのだ。利点というほどの利点ではないが、思い当たるのはそれくらいしかない」

そこまで言って、フィフィリアンヌは一息吐いた。首の後ろで、唸り声が高くなってきている。
ヘルムを抱え込んだギルディオスは、背を丸めて突っ伏していた。ないはずの頭が、ずきずきしている。

「えー…つまり、んと、なんだ。竜族の形態変化は黒魔術で、その魔法ってのは、科学みてぇなもんなのか?」

「科学は科学であり、魔法は魔法なのだ。非常に酷似してはいるが、基本理念の根本から違うものだ」

「うおぉーわぁーあ…」

ごん、とフィフィリアンヌの背びれにヘルムが打ち付けられた。ギルディオスは、ぐちぐちと何か呟いている。
腰のベルトに下げられたフラスコが、ごとりと動いた。風音に負けぬように、伯爵は声量を高めて言う。

「はっはっはっはっはっは。この世には、不思議なことなど何もないのだよ。全ての物事に説明が付くのである」

「うるせぇ。今まで黙ってたくせに。どっかで聞いたようなセリフを吐くなよ」

どん、とギルディオスは拳でフラスコを叩く。銀色の拳と若草色のウロコの間に、ガラスの球体が挟まれた。
震動で僅かに浮かんだスライムは、とぽん、と落ちた。伯爵は、表面に広がった波紋をじわじわと消していく。

「はっはっはっはっはっは。フィフィリアンヌが饒舌なせいで、口を挟む余地がなかったのである」

「ほう。そうか」

訝しげに、フィフィリアンヌは呟いた。ばさり、と翼を張り詰めさせ、少し首を持ち上げた。

「学の無さを露見してしまうから、黙っていたのではないのだな?」

「はっはっはっはっは」

力なく、伯爵は笑った。ごぼごぼと気泡が溢れ出し、フラスコがねばついた泡に満たされる。
小さな音を立てて、それらは爆ぜていく。でろでろと液化していき、たぽん、とスライムは大人しくなった。
首を曲げ、後方を見ていたフィフィリアンヌは、また前に向き直った。ふん、と馬鹿にしたように息を漏らす。

「図星か」

「しょーもねぇなぁ、もう…」

伯爵に呆れてしまい、ギルディオスは半笑いになる。ごんごん、と何度かフラスコを殴ってみた。
だが、反応は返ってこず、物を言うスライムはぬるりとも動かない。どうやら、沈黙を決め込んだようだ。
気位が高いくせに、意外と根性がないようだった。伯爵の骨の無さに、ギルディオスは可笑しくなってきた。
骨も筋もないスライムらしいといえばらしいが、普段の言動と釣り合わない。上から物を言うくせに、足元は緩い。
もう一度、ギルディオスのガントレットがフラスコに当てられる。こん、と硬いもの同士が当たる音が響いた。

「んでさぁ、フィル。竜王都には、あとどれくらいで着くんだ?」

「夜明け頃には着くだろう。王都から東南に飛び始めて、そうだな、三時間は経つ」

フィフィリアンヌの目が、東へ向く。その先に広がる山脈の奧が、ほの明るい。

「夜明けまで、一時間半ほどだ。もうしばらく、飛行は続くぞ」

「なぁフィル。飛びっ放しで辛くねぇか?」

多少心配になり、ギルディオスは若草色の竜を見上げる。深夜からずっと、彼女は空を飛び続けている。
フィフィリアンヌは、東南の方角へ鼻先を向けた。俯いたため、太いツノが少し上向けられた。

「辛いぞ。腹も減ったし、割と眠い」

「…落ちるなよ」

ぞくりとした冷たさが、ギルディオスの背筋に走った。今は、フィフィリアンヌだけが頼りなのだ。
地上ならまだしも、空中は恐ろしい。今まで知らなかった世界だし、どれくらいの高さかまるで解らない。
恐る恐る首を伸ばして、ギルディオスは地上を見下ろした。細く長い川が、うっすらと朝日で輝いていた。
川の周囲には、割と大きめの街がいくつか出来ていた。王国の東側だから、恐らくは東王都だろう。
慎重に体を起こして、ギルディオスは進行方向を眺めてみた。行く先には山脈しかなく、都は見えなかった。
空に突き刺さらんばかりにそびえた山々が、白く雪化粧されている。高山には、未だ春が訪れていないようだ。
ギルディオスは、明るさを増してくる東の空に漠然とした感動を覚えた。濃い藍色が、白い光に溶けていく。
この先にある竜王都が、いかなる場所か。淡い期待と重たい不安が、甲冑の胸中に広がっていた。




降り立った場所は、雪解けの終わり切らない野原だった。
ずん、と軽い震動の後、フィフィリアンヌは翼を下げて腹這いになった。首も下げ、姿勢を低くした。
荷物を抱え、ギルディオスは立ち上がった。滑らかなウロコの上を歩き、首から背に向かっていった。
翼の手前で曲げられた前足に、とん、と足を降ろした。そこから飛び降り、ギルディオスは地面に着地する。
足の裏に、がさりと乾いた草の感触があった。湿った土の匂いも感じられて、泣きたくなるほど嬉しくなった。
ギルディオスは足を動かし、地面を撫でた。地上がこんなにも愛おしいものだとは、知らなかった。

「地面だー地面だー!」

「ええいやかましい。貴君は子供であるか、ギルディオスよ」

ギルディオスの腰に、がとん、とフラスコがぶつかった。外気との気温差で、ガラスの表面は少し濡れている。
ばさり、と翼が動かされ、弱めの風が吹き抜けた。次の瞬間には、緑竜の巨大な影がふうっと消え失せた。
それには気付き、ギルディオスは顔を上げた。着地の跡が残る中心に、裸身の少女が立っている。
暗がりで良く見えないが、白い体の輪郭は、いやにはっきり見えた。フィフィリアンヌは、腕を振り上げる。

「いいから早く服を寄越せ、ギルディオス! 寒いのだ!」

「あ、おう」

ギルディオスは、思い出したように頷いた。フィフィリアンヌは、不機嫌そうに眉を吊り上げている。
がさがさと足音を立てて近付いたギルディオスは、カバンからローブを出し、ツノの生えた頭に闇色を被せた。
フィフィリアンヌはぐいっと服を引き下げ、すぽんと頭を出す。末広がりの袖に腕を通しながら、催促する。

「ベルトに下履き、ブーツに髪留めの紐が足らんぞ」

「へいへーい」

ずしりと大きな革のカバンを下ろし、ギルディオスは中を探った。すぐに、下履きとベルトは見つかった。
それを先に渡してから、ブーツも底から取り出す。下履きを履いてから、フィフィリアンヌはブーツを受け取る。
ブーツの片方を探り、細い紐を取り出した。それを手首に巻き付けておいて、ベルトを巻き、ブーツを履いた。
しなやかな髪を両手で後頭部にまとめ、きゅっと紐で結ぶ。ようやく落ち着いたのか、彼女は一息吐く。

「腹が減ったぞ」

「まぁ、あれだけ長いこと飛んでりゃあなぁ…」

そう言いながら、ギルディオスは後方を仰ぎ見た。西北の空にも朝日が来たのか、少し明るい。
フィフィリアンヌは、体よりも大きなカバンに手を突っ込んで探った。しばらく探り、紙包みを取り出した。
行きがけに、メアリーが渡してくれた焼き菓子だった。包みを開き、フィフィリアンヌは菓子を口に放る。
紅茶の葉が混ぜ込まれたクッキーは、鋭い牙でぱきりと砕けた。甘さを味わっていたが、それを飲み下す。

「そろそろ夜が明ける。竜王都も見えるぞ」

フィフィリアンヌは紙包みを持った手で、野原の先を示した。それに従い、ギルディオスは振り返った。
山脈の間から昇ってきた朝日が、白い光を地上に広げる。ざあ、と穏やかな風が草を揺らし、光も揺らいだ。
きらきらと、山麓の盆地が煌めいた。鏡を据えたような反射が繰り返され、暗闇を切り裂いていく。
鏡の中心には、巨大な城がそびえていた。幾本もの塔を伸ばした、要塞じみた城が、湖に浮かんでいる。
広大な湖の周囲に、ぐるりと巡って街並みが続いていた。小さな住宅が規則正しく並べられ、円となっていた。
巨大な城と湖、古びた街並み。その全てを、深く広大な森が包み込み、風を受けて枝と葉を擦らせていた。
太古より時の流れが失せたかのような、威圧感すらある木々が竜の都を守っていた。

「久しいな、フィフィリアンヌ」

良く通る、澄んだ声がした。徐々に野原へ迫ってきた朝日が差し込み、眩しい白を浮かび上がらせた。
影の失せた空間に、長身の青年が立っていた。白銀の甲冑を身に付け、汚れのない純白のマントを広げている。
程良く日に焼けた肌の上に、銀髪が落ちていた。その下から、縦長の瞳孔を持った赤い瞳が上げられた。
竜王都を背にし、マントと同じく白い翼を広げていた。彼は騎士らしく、腰に目立つ剣の柄が輝いている。
男の声は、聞き覚えのある声だった。だが、彼が一体誰なのか、ギルディオスはすぐに思い当たらなかった。
何枚目かのクッキーを食べ終えてから、フィフィリアンヌは数歩前に出た。白い青年に近付き、見上げる。

「コルグの一件以来だな、エドワード」

「こいつ、誰?」

さっぱり見当が付かず、ギルディオスは青年を指した。彼は、少し残念そうに笑う。

「ギルディオス・ヴァトラス、と言いましたかね。私とあなたは、面識があるはずなのだが」

「面倒だから説明しよう。この男の名は、エドワード・ドラゴニア。コルグの兄だ」

フィフィリアンヌは、白い竜騎士を指した。エドワードは、ギルディオスに向き直る。

「あの時の私は、擬態を解いていたから。人間であるあなたでは、一見しただけでは解らないでしょう」

「ああ、あの時の白竜か」

説明されて、ようやくギルディオスは思い当たった。確かに言われてみれば、あの白竜と声が同じだ。
エドワードの甲冑と前垂れには、竜王朝のものらしき紋がある。ヘルムはなく、頭には二本のツノがあった。

「思い出して頂けたようで、なによりだ」

「そして、今度の仕事の依頼主でもある。といっても、エドワードは王家との仲介役なのだがな」

最後のクッキーを噛み砕き、フィフィリアンヌは竜王都へ顔を向けた。ごきゅり、と小さな喉が動く。
相当に腹が減っていて、それでもまだ物足りなかった。フィフィリアンヌは、足元のカバンを見下ろす。
内容物を思い出してみるが、これ以外に食べ物らしいものは入れてこなかった。内心で、少し落胆してしまう。
フィフィリアンヌはカバンに蓋をして閉じ、肩に担ぐ。がちゃり、とその中で薬瓶が揺れてぶつかる。

「それで、エドワード。私が殺す相手がいかなる相手なのか、説明してはくれまいか」

「私に解る範囲でしかないが、いいか?」

多少申し訳なさそうに、エドワードは形の良い眉を下げた。構わん、とフィフィリアンヌは頷く。

「概要だけでもいい。どんな魔物であるか解れば、調薬の見当が付けやすい」

「その魔物は、そうだな。丁度、ギルディオスの身長を倍近くした背丈がある」

エドワードは竜王都へ振り返り、見下ろした。後頭部で高く結ばれた、長い銀髪がさらりと広がる。

「翼はドラゴンなのだが、尾はリヴァイアサンで、体はリザードマン。肌の色は、赤紫だ。単眼で、顔の両脇にヒレが付いていて、ツノが三本生えている。その魔物が、殺処分の対象だ」

「となると、水雷魚の尾ビレは効かないな。クラヤミトカゲの血も、あまり効果は期待出来んか」

弱ったな、と、フィフィリアンヌは小さな顎に手を添える。厄介そうに、眉が曲がる。

「まぁ、他にも薬の種類はある。マダラアオグサの根とナガアシグモの牙でも基本に使えば、なんとかなるだろう」

「人造っぽいなー、そいつ。リザードマンとリヴァイアサンの住み処なんて、山奥と深海だ。会うはずがねぇ」

ギルディオスは銀色の指を折り、エドワードの挙げた魔物を数える。

「けど、サイクロップスまで混ぜるたぁ、割に珍しいな。リザードマンだけじゃダメなのかねぇ」

「ギルディオス。貴様なら、どう仕留める?」

振り向き、フィフィリアンヌは甲冑を見上げた。んー、とギルディオスは顎に手を添える。

「会ってみねぇと、なんとも。リザードマンなら胸が硬いから、そうだな、普通に首と関節でも攻めるかな」

「しかし、肌色が赤紫というのが引っかかるのである。王国周辺のリザードマンは、青紫のはずなのでな」

ううむ、と伯爵が唸るとフラスコ全体が僅かに震動した。だよなぁ、とギルディオスが深く頷く。
足元から、ざあ、と風が昇ってきた。竜王都を滑ってきた冷たい空気が、ひやりと下から吹き抜ける。
掻き乱された前髪を押さえつつ、フィフィリアンヌはエドワードに顔を向けた。白い騎士の横顔は、硬い。

「とにかく、会ってみるしかない。エドワード、案内しろ」

不意に、清らかな音が聞こえた。

ざあざあと騒ぎ立てる木々と、しゃらしゃらと波打つ広大な湖面の上を滑り抜け、それはやってきた。
夜から覚めたばかりの竜王都に、どこからか歌が流れてきていた。高く、低く、穏やかな声が続いている。
男とも女とも付かない声色で、妖しくもあり、それでいて優しくもある。不思議な美しさも、混じっている。
大きく窪んだ竜王都を吹き抜ける風が音の流れを乱しているため、どこから響いているのか、解らなかった。
言葉は異国のものなのか、はっきりとは聞き取れない。それでも、聞き覚えのある旋律だった。
ギルディオスは歌を聴きながら、妙な懐かしさを覚えていた。幼き日に、母が歌っていたような気がする。
あらぬ方向を見上げ、エドワードは眉をひそめていた。切れ長の目が、どこか悲しげな表情を滲ませている。
フィフィリアンヌは目を閉じていたが、すいっと瞼を上げる。節を付けずに、淡々と歌詞を訳した。

「空よ空よ、高くあれ。草木よ花よ、強くあれ。風よ光よ、清くあれ。炎よ、温かく穏やかにあれ」

淡い青に変わってきた空を見上げ、フィフィリアンヌは続けた。

「この世を見下ろす、神の優しきゆりかごで、闇を避けて深く眠れ。愛しき我が子よ、どうか、健やかにあれ」

「フィル、解るのか?」

ギルディオスの言葉に、フィフィリアンヌは訳を中断し、返す。

「東方系の言葉だからな、意味は掴める。子守歌だ」

顔を伏せ、エドワードはぎちりと拳を握り締めた。手袋越しに、爪先が手のひらに食い込んでくる。
真実を言うべきか否か、迷いが生じていた。朝日を浴び、光り輝く湖面が、竜王の棲まう城を守っていた。
要塞同然の城壁と、その中の塔を見つめてしまう。竜王朝へ捧げたはずの忠誠心が、私情で揺らいでいた。
そして、彼女の横顔を見下ろした。数十年前から少しも変わらない少女は、大きなカバンを肩に乗せている。
中身は、精製された毒薬だ。その中のどの毒が、あの者に使われてしまうのか、エドワードには見当も付かない。
だが、フィフィリアンヌを呼んだのは自分だ。王家の指示の元に、報酬を持ちかけて仕事として呼び寄せた。
今更追い返すわけにもいかないが、出来ることなら追い返してしまいたかった。あの者を、殺されたくない。
あの清らかな歌を歌う者を、むざむざ殺してしまうのは惜しすぎる。そう、思ってしまったからだ。
エドワードは、改めて竜王都を眺めた。均整の取れた街並みの民家から、煙が立ち上り始めている。
人間の大きさにねじ込まれた同族達は、苦しみを隠して生きている。身の丈を歪め、力と息吹を押し止めて。
いつからだろうか。気付いたら竜王都には僅かながらの歪みが生まれ、それは年月と共に深まってきていた。
あの異形の者も、その歪みの犠牲者となるんだ。そう確信し、エドワードは、無性に悲しくなってきた。
だが、あの者を救うことは出来ない。あの者を救うということは、竜王とその一族に、逆らうこととなるからだ。
理想と現実の落差を痛感し、エドワードは深く息を吐いた。目指していた騎士の道とは、かなり違っている。
ふと甲冑を見ると、ギルディオスがこちらを見ていた。ヘルムの隙間には何も見えず、空洞と影がある。

「何でしょう」

「エドワード。オレは降りるぜ、この仕事」

「なぜ?」

「なぜってそりゃあ、簡単なこったろ。朝っぱらからこんな歌を聴かされちゃ、戦意も喪失するってもんさ」

訝しげなエドワードへ、ギルディオスは笑った。ぎしりと肩を竦め、両手を上向ける。

「それにオレは、魔物狩りは専門じゃねぇし。今も昔も、人間相手が本職なんだよ」

「…そうですか」

ほっとしたように、エドワードは拳を緩めた。人間の死者は、うん、と深く頷いている。
フィフィリアンヌの目が、ちらりとギルディオスに合わせられた。長い後ろ髪が、ふわりと広がる。

「ギルディオス。貴様如きを、私の仕事に交えた覚えはないぞ。思い上がるな」

「先手を打っただけさ。オレは手を貸さねぇからな」

腕を組み、ギルディオスは朝日に染まった竜王都を見下ろした。あの歌声は、未だに流れ続けている。
背中のマントと頭飾りが、ばたばたと風に揺れていた。その音が、少々うるさく感じられてしまう。
闇を逃れて静かに眠れ、愛しき我が子よ。どうか、心優しくあれ。そう、フィフィリアンヌが訳している。
異形の者。その言葉に、ギルディオスは、懐かしさと同時に、ずきりと鈍い胸の痛みを感じていた。
幼き日に、親族や魔導師達から言われ続けていた言葉だ。ヴァトラの血を持ちながら、魔力のない異形の子。
高威力の魔力を生まれ持った双子の兄、イノセンタスと比べられた記憶も、同じ位置から溢れてきた。
遠ざけていた過去は、妙な場所で蘇った。ギルディオスはそれらを思考の底に押し止め、見ないようにした。
ふと、フィフィリアンヌの横顔を窺ってみる。無表情な少女は、じっと歌詞を聞き入っていた。
彼女も間違いなく、異形だ。ギルディオスは、色白で整った横顔を見つめ、ぼんやりと考えていた。


異形は、異形を殺せるのか。


オレなら、殺せないな。そう思い、ギルディオスは俯いた。
銀色の甲冑で出来た足に、さらさらと草が絡む。冬から解放されたばかりで、まだ色は乾いている。
枯れた雑草達は、まるで、歌声に合わせて踊っているかのようだった。








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