ドラゴンは笑わない




竜の棲まう都



いつになく、重苦しい朝食となっていた。
竜王都の宿場通りにやってきた三人とエドワードは、料理屋で食卓を囲んでいたが、口数が少なかった。
というのも、ギルディオスが喋らないからだった。伯爵も珍しく黙り込んでいて、フラスコも微動だにしない。
ざわめく周囲とは裏腹に、四人のテーブルは恐ろしく静かで、ある意味では異様な空間が出来ていた。
根菜類を煮込んだスープに千切ったパンを浸し、フィフィリアンヌはそれを口に放る。噛んでから、飲み下す。
パンをしばらく食べてから、今度はスープを食べていく。先程から、彼女はそれを延々と繰り返していた。
テーブルに載せられたワインボトルは、既に二本目で、水のように飲んでいる。喉も渇いていたのだ。
これで良く酔わないよなぁ、と妙なことに感心しつつ、ギルディオスは頬杖を付いて店内を眺めてみた。
一見すれば人間ばかりにも見えるのだが、どの者にもツノがあり、背中には色の違う翼が生えている。
赤と青、緑と黄、白に黒。それらの色が混じったような色の者もいて、竜族の中にも混血があるようだった。
言語は王国とほとんど変わらないが、微妙な訛りがある。言葉の端々が、時折聞き取れなかった。
皆、それぞれに連れ合いと楽しげに話して笑っている。誰も、あの歌声の話をしてはいなかった。
そりゃそうだよな、と、ギルディオスは納得していた。子守歌など珍しくないし、東方系の言葉もそうだ。
竜王都の位置は王都から東南なので、東方諸国の言葉が混じっても珍しくない。むしろ、それが自然だ。
黙々と食事を続けるフィフィリアンヌの隣で、エドワードも食べていた。作業的に、手を動かしている。
揃って不味そうに食べているので、ギルディオスは食欲が失せた。といっても、元々何も喰えないのだが。
居づらくて居づらくてたまらないのだが、移動することも出来ない。なので、仕方なく座っていた。
年季の入った椅子に体を沈め、テーブルにべたりと突っ伏した。こん、と指先でヘルムの頬の辺りを叩く。

「愛しき我が子よ、か。オレの場合は、勇ましき、に変えられちまってたなぁ」

「貴君の母親は、歌を変えていたのかね?」

ごとり、とテーブルの上をフラスコが動いた。ギルディオスは、伯爵に返す。

「まぁな。何がなんでも、愛しき、とは呼べなかったんじゃねぇの。てか、呼びたくなかったんだな、きっと」

「エドワード。報酬は後払いか?」

パンを千切る手を止め、フィフィリアンヌは隣に座るエドワードへ向いた。彼は、はっと顔を上げる。

「あ、ああ。私と軍の者が、異形の遺体を確認してから渡す」

「しかし、四十五か。やろうと思えば採算は取れるが、はて…」

腕を組むと、フィフィリアンヌは椅子に身を沈めた。細い足を組み、ぐいっと薄い唇を締めている。
薬の配合を思案しているのか、口元を押さえて目線を足元に落としている。口の中で、何やら呟いていた。
グラスに残っていたワインを呷ってから、エドワードは一息吐いた。少女の横顔を、覗き見る。

「なぁ、フィフィリアンヌ」

「なんだ」

「人は人を殺せるが、竜は、竜を殺せると思うか?」

とん、とエドワードはグラスを置いた。フィフィリアンヌは目線を落としたまま、答えた。

「殺せるとも。形態変化の抑圧が更に進めば、いずれ起こることだ。今はまだ、起きていないだけのことだ」

「ならば、君は君と同じ者を殺せるか?」

「時と場合による。たとえ同じハーフドラゴンであろうとも、相当に憎らしく嫌らしく、許し難い相手であれば」

にやりとするように、フィフィリアンヌの目が細められた。

「私は噛み殺す」

「そうか」

落胆した様子で、エドワードは目線を逸らした。テーブルの中央にあったワインボトルを取り、グラスに注ぎ込む。
残り少なかった赤ワインが流し込まれ、とぽん、と全て移された。グラスを掴み、エドワードはそれを軽く揺らす。
半分ほどのワインが、水音を立てながらくるくると内側を回る。エドワードは、赤紫を見つめていた。

「随分と、君は割り切っているんだな」

「そうでなければ、生きてはいけないだけだ。下界は面白いぞ、色々な意味でな」

フィフィリアンヌは、柔らかく煮えたニンジンを口に運ぶ。ワインを取ると、流し込んだ。

「気を抜けば、すぐに首を狙う輩が近付いてくる。帝国の馬鹿共が、竜族を狩るのに必死になっているからな」

「コルグが殺された理由も、それだけなのか?」

グラスの下部を握り、エドワードは呟いた。フィフィリアンヌは、器にスプーンを置く。

「そうだ。戦う術を知らないが故に、妙な連中に屠られたのだ。全く持って、運が悪いとしか言いようがない」

「まぁ、コルグを殺したシルフィーナ・ディアードって女も、ろくでもねぇ奴に殺されたけどな」

と、ギルディオスは付け加えた。仮面舞踏会の後、シルフィーナは、グレイスによって殺されてしまった。
それを因果応報、としてしまうのは、少々安易な気がした。彼女は報いで死んだのではなく、利用されて死んだ。
グレイスは、その死すらも利用しているらしかった。その内容を、先日、フィフィリアンヌが話してくれた。
長女の死後、ディアード家は没落の一途を辿っている。ディアード家の資産を、グレイスが喰らっているからだ。
元々王国ではなく帝国寄りだった一族は、その帝国すらも見放され、頼れる相手はグレイスだけとなった。
シルフィーナを殺した者が誰かと調べたらしいが、見つかるはずもない。殺した相手が味方なのだから、当然だ。
貴族は差別意識も高ければ身内意識も高いため、一度味方に付けたと思いこんだ相手は、信用してしまうのだ。
当のグレイスは言葉巧みに当主を騙し、何かに付けては資産を奪っている。と、フィフィリアンヌは言っていた。
彼の悪事に目的がないように、資産を奪うのにも目的はないのだろう。きっと、単なる暇潰しなのだ。
理由のない殺戮ほど厄介なもんはねぇよな、と、ギルディオスは呆れた。グレイスの神経が、全く理解出来ない。
もっとも、理解しようとも思わないが。へらへらした笑顔を思い出してしまい、ギルディオスは嫌になる。
フィフィリアンヌは器を持ち、ぐいっと傾けた。残りのスープを飲み干し、どん、とテーブルに置く。

「さて。エドワード、早いところ案内してくれ。その異形の居場所にな」

「気が早いな」

少し驚いたように、エドワードは肩を竦める。ナプキンで口元を拭い、フィフィリアンヌは一息吐いた。
自分のグラスに残っていたワインを飲み干してから、立ち上がった。がちゃり、と大きな革カバンを肩に担いだ。

「薬の調合は手間だ。色々と計算もしなければならない」

「それもそうだな。解った、案内しよう」

椅子を引き、エドワードは立ち上がった。テーブルに立て掛けていた剣を取り、腰に下げる。
ギルディオスは伯爵のフラスコを取り、ぱちん、と腰の金具に填めた。床に置いていた荷物を取り、担ぐ。
表情を曇らせたエドワードは、くるりと彼らへ背を向けた。足早に、店の外の通りへと出て行った。
それを追い、フィフィリアンヌはギルディオスを伴って外へ出た。民達も起き出して、人通りも増えている。
白い騎士の背は、雑踏に紛れても一際目立っていた。彼は次第に、街から外れる道へ進んでいく。
エドワードは時折振り返るが、終始無言で三人を案内していった。




街を抜け、森を通り、山に近付いた場所で、ようやくエドワードの足は止まった。
竜王都を守る深い森の奧、山の斜面に、ぽっかりと洞窟が空いていた。但し、その入り口は閉ざされている。
強固な鉄格子が填め込まれていて、黒光りする鉄柱には、魔法言語と思しき文字列が刻まれていた。
冷え切った黒い線が、じわりとした暗闇と穏やかな日差しを区切っていた。風が吹き込み、ぼう、と洞穴が唸る。
岩の中を巡ってきた風が、ゆったりと戻ってきた。湿気を帯びた獣の匂いが、空気の中に感じられた。
エドワードは神妙な面持ちになり、鉄格子の右下にある同じく鉄格子の扉に近付いた。胸元を探り、鍵を出す。
扉と鉄格子を繋いでいた錠前に差し込み、回し、ぱきんと外した。それを足元に置いて、彼は扉を開ける。
ぎぎぃ、と蝶番が軋み、徐々に隙間が広がった。すると、次第に獣の匂いが増し、強く漂ってきた。
扉を開け放って先に入りながら、エドワードは顎で奧を示した。それに従い、三人は後に続く。
水と年月によってくりぬかれた洞窟は、所々苔が生えていた。足元には、地下水が滴り落ち、湿っている。
ぺたぺたと軽い足音が、一番先に進んでいった。フィフィリアンヌは奧を見据えて、足を早めた。
ギルディオスは途中で立ち止まり、ふと、洞窟の入り口を見た。外からの光は、あまり入ってこない。
また前を向くと、緑の翼を持った背は遠ざかっていた。彼女に続く白い後ろ姿も、かなり先に進んでいる。
ギルディオスは慌てて追いかけ、がしゃがしゃと走った。しばらく走ると、奧にまた、別の鉄格子が現れた。
それは、入り口のものよりも隙間が狭く、刻まれている魔法言語も多い。入念に造られた牢獄だった。
二つめの鉄格子の前に立ち、フィフィリアンヌは上を向いた。ギルディオスは、その背後から中を見上げる。
暗がりに目が慣れてくると、奧に何がいるか、解った。上下左右から伸びた鎖が、その者を戒めていた。
骨太で筋肉の付いた四肢に、重たい鎖が絡み付いていた。固く締め付けられ、縛られている。
がしゃり、と鎖が動いて軋んだ。太く長い鎖に縛り付けられた巨大な腕が下がり、首がもたげられる。
暗闇の底で、金色の単眼が唯一輝いている。額から生えた長いツノの下、ぎろりと巨大な目が動いた。
洞窟の天井近くまでに高い身長と、リザードマンの屈強な体格。赤紫の肌には、無数の傷がある。
背の翼にまで、鎖が巻き付けられていた。背後に垂れ下がったリヴァイアサンの尾は、真新しい傷口があった。
足元には、その傷から溢れたらしい血が零れていた。鉄臭い血の匂いが、獣の匂いに混じっている。
がばぁ、と大きく口が広げられ、耳元に生えたヒレが伸縮する。鋭く立派な牙の間に、赤い舌が覗く。


「オ前、誰」

異形は、静かに言った。金色の目に、緑髪の少女が映る。

「ドラゴン、違ウ。人間、違ウ?」


多少低かったが、この声は、間違いなくあの歌声だった。ギルディオスは、すぐにそれを悟った。
ならば、フィフィリアンヌも気付いているはずだ。そう思って見下ろしてみるが、彼女は黙っている。
ただ、じっと異形を見つめている。鋭く吊り上がった赤い瞳が、三本のツノを生やした魔物を眺めていた。
異形は立ち上がったが、じゃらり、と鎖が太股に食い込む。固く筋肉の張り詰めた足が、押さえ付けられた。

「エド、コイツ、医者?」

「いや。違う」

首を横に振り、エドワードは答えた。ソウ、と金属質な声で、異形は返す。

「薬、匂イ、スル」

「私の職は、魔法薬を研究し、製造することだ。医者ではない。その医者共に、薬を売るのが仕事だ」

革カバンを足元に降ろし、フィフィリアンヌは蓋を開いた。大小様々な瓶が、詰め込まれていた。
異形の目線が、カバンと瓶に合わせられた。薬瓶の数を数えていたが、目線が上がり、甲冑に向く。

「銀色、匂イ、シナイ。デモ、人間?」

「ああ、そうだ。オレは死んでるが、一応は人間だ」

親指で自分を示し、ギルディオスは異形を見上げた。魔物を寄せ集めた外見に似合わず、目が優しい。
だが、その目線は自分にではなく、白い騎士に向いていた。エドワードも、優しげな笑みを浮かべている。
エドワードの表情が暗かった理由は、これだったのだ。殺さねばならぬ相手と、不思議な友情を持ってしまった。
生真面目そうな彼のこと、大方、異形に同情してしまったのだろう。そして、殺せなくなってしまった。
フィフィリアンヌに仕事を依頼したのも、恐らくそれだ。自らの手で殺められなくなれば、他人に任せる他はない。
だが、それでもまだ躊躇しているようだった。エドワードの目は、次第に物悲しげなものとなっていた。
ギルディオスは見た目の若い竜騎士に、少し呆れてしまった。物事を割り切れないと、戦う仕事に向いてはいない。
そして、フィフィリアンヌを見てみた。しゃがんで薬瓶をがちゃがちゃと探っていたが、顔を上げる。

「全く弱ったな。声から察するに、セイレーンの血も混じっているようだ。だが、セイレーンには」

中腰でカバンの前に座り、フィフィリアンヌは腕を組む。じっと、瓶の山を睨む。

「水生植物のマダラアオグサは効かないし、かといって、ナガアシグモの牙だけでは効力が弱いしな…」

「そんなに面倒なのか、こいつに合わせた毒の調合は?」

ギルディオスが尋ねると、フィフィリアンヌはいくつか瓶を取り出した。その一つを掲げ、眺める。

「面倒だ。混ぜられた種族が多い分、効かない毒の種類も増えてしまっている。中途半端な威力の毒薬を作って、苦しませたくはない。どうせ殺すのであれば、即死がもっとも温情的ではないか」

「ところで貴君。なかなか素晴らしいツノと体躯をしているが、なんという名なのであるのかね?」

ギルディオスの腰のフラスコが、内側から開けられた。すぽん、とコルクが抜かれ、するりと掲げられる。
うねうねと動くスライムに辟易し、ギルディオスは腰からフラスコを外した。それを、鉄格子の前に置く。
異形は物珍しげに、自分の皮膚と近い色をしているスライムを見下ろす。大きな瞼を上下させ、瞬いた。

「オ前、スライム。ナゼ、喋ル?」

「はっはっはっはっは、質問の答えになってはおらんではないか。まぁ良いだろう」

ぐにゅり、と伯爵はワインレッドの先端を持ち上げた。コルク栓が、異形を指し示す。

「我が名はゲルシュタイン・スライマス。この世でもっとも素晴らしく、優雅で美しく誇り高いスライムである!」

「誇張するなよ。ただの面白軟体生物だろ」

屈み込んだギルディオスは、ぺん、とコルク栓を指で弾いた。その衝撃で、おおぅ、と伯爵は傾く。
異形はもう一度瞬きしてから、ぐるぅ、と低く喉を鳴らした。肩を縮めると、じゃらり、と鎖が引っ張られる。

「名前、ナイ。皆、化ケ物、言ウ。デモ、ソレ、名前、違ウ」

「私も、彼の名を知らない。様々な種族が混ざっているし、どう呼ぶべきなのか、未だに解らないんだ」

情けなさそうに、エドワードは目を伏せた。ことり、と瓶を地面に置き、フィフィリアンヌは言う。

「セイラ、というのはどうだ」

「セイラ? まーたえらく可愛い名前じゃねぇか、こんなでかい野郎に」

と、ギルディオスは笑い気味に肩を竦める。フィフィリアンヌは顔を上げ、上から下まで異形を見回した。
胸に起伏はなく、肩幅は広い。固く張り詰めたウロコの皮膚と盛り上がった胸部は、リザードマンの印象がある。
股間に男性器は付いておらず、収納されている様子もなかった。だが、女性器があるようにも見えない。
フィフィリアンヌは立ち上がり、ギルディオスに振り返る。外の明かりを受け、甲冑が僅かに反射していた。

「奴は男でもなければ、別に女でもない。女々しい名前にしたところで、支障はない」

「けーど、セイラねぇ…」

ギルディオスは、がりがりとヘルムを掻いた。異形を見上げ、首を捻る。

「こんなごっつい奴に女名前付けるなんて、どういう神経してんだよ、フィルは」

「しかも、実に安直である。セイレーンだからセイラ、というのは、どうにも短絡的すぎやしないかね?」

うむ、と伯爵は頷くように揺らぐ。フィフィリアンヌは、二人を横目に睨む。

「いいではないか、面倒ではなくて。それに、この者は実に可愛らしいではないか。女名前でも良かろうに」

「フィフィリアンヌもそう思うか? 嬉しいね、私もそう思っていたんだ」

心底嬉しそうに、エドワードは目を細める。鉄格子に手を掛け、中の異形を撫でるかのようにさする。

「だが、私以外の者は、誰もそう思ってくれなくてね。単眼と三本ツノの良さが、他の者達には解らないらしい」

「うむ。私も、セイラの単眼は美しいと思うぞ。金色の瞳など、そうそう拝めるものではない」

そうフィフィリアンヌが返すと、だろう、とエドワードは満面の笑みになる。意外なところで、二人の気が合った。
褒められているので悪い気はしないのか、異形は目を細めた。巨大な単眼の上下が隠れ、口元が上向く。
ギルディオスは、異形の素晴らしさを語り合う二人の竜族から目を外し、闇に隠れる巨体を見上げてみた。
カトリーヌの時もそうであったが、まるで理解出来ない。こういった辺りの趣味は、彼女とはとことん合わない。
片言の拙い言動には、幼さがあって少しは可愛げがあるとは感じるが、それ以外には微塵も感じられなかった。
ギルディオスは、ちらりとエドワードを窺ってみた。先程までの重苦しい表情はどこへやら、快活に笑っている。
本当に、彼は異形の魔物が好きなのだ。浅はかな同情や愛着ではなく、友人として好いているのだ。
ギルディオスは二人の話を聞き流しながら、異形を見据えた。薄い金色の単眼に、甲冑が映り込んでいる。

「なぁ、おい」

「ナンダ」

「お前さ、セイラって名前、どうなんだ?」

「セイラ?」

「そうだ。ちょいと女々しすぎる気はしねぇか?」

「セイラ。ソノ音、好キ。綺麗」

「うん、まぁ、女名前だからな。響きはいいけどよ。オレとしては、似合わないと思うんだが」

「ナゼ?」

「なぜってそりゃあ。お前は男でも女でもないらしいが、見た目は男じゃねぇか」

「オトコ?」

「そうだ。だから、お前には女名前じゃねぇ方が合うと思うんだ」

「ジャア、銀色」

「ギルディオス・ヴァトラスだ。そいつがオレの名だ」

「ギリィ。セイラ、他、名前、アル?」

首をかしげた異形は、ギルディオスを覗き込んできた。ギルディオスは、少し唸る。

「そうだなぁ…。あー、別の名前、考えてなかったぜ」

「ギリィ」

「んあ?」

異形が指した方に、ギルディオスは顔を向ける。フィフィリアンヌとエドワードは、まだ話している。
どちらも、かなり熱心に異形の良さを語っていた。異形は、太い指で少女を示す。

「緑、名前、何?」

「ああ、フィルか」

と、ギルディオスが説明しようとすると、フィフィリアンヌは会話を止めた。異形を見、名乗った。

「フィフィーナリリアンヌ・ロバート・アンジェリーナ・ドラグーンだ」

「うえ?」

その長い名に、ギルディオスは面食らってしまった。彼女の名は、フィフィリアンヌ・ドラグーンではないのか。
フィフィリアンヌは、きょとんとしているギルディオスを横目に見た。面倒そうに、細い眉を曲げている。

「それが私の名だ。ロバートは父上の名で、アンジェリーナは母上の名だ」

「いや、ていうか、フィフィーナリリアンヌって何なんだ? いつもの名前って、縮めてあったのか?」

「そうだ。フィフィーナというのが父上の付けてくれた名で、リリアンヌは母上の付けてくれた名だ。面倒だから、通常は縮めて名乗っている。綴りも長いしな」

「フィル、お前の両親って優柔不断だったんだなぁ」

と、ギルディオスは少し笑ってしまう。決めかねたから、二つとも付けてしまったのだろう。
フィフィリアンヌは、あまり面白くなさそうに眉間を歪めた。ふん、と顔を逸らす。

「良く言われる。だから私は、本名で名乗りたくなかったのだ」

「じゃあ名乗るなよ」

「竜王都にいる以上、私はドラグーン家の者だ。緑竜族の血族として、本名を名乗らぬわけにいくまい」

面倒だがな、と、フィフィリアンヌは不愉快げに唇を尖らせた。本当に、言うだけで面倒そうだった。
確かに、子供のミドルネームに親の名を付ける場合は多い。だが何も、両親とも付けることはないではないか。
おまけに、二つの名を決めかねて、二つとも付けてしまうとは。ギルディオスは、なんだか妙な気分になった。
そして、自分とメアリーの名付けが甘いような気がしてしまった。息子の名は、ランス、とだけだ。
どうせならミドルネームも付けてやるべきだったかな、と今更ながら思った。本当に、今更過ぎるが。
異形は、不機嫌そうにしているフィフィリアンヌを見つめていた。口元を広げ、長い牙を動かす。

「フィリィ、名前、長イナ。セイラ、名前、短イ」

「ああ、長いぞ。だから、貴様は簡潔な方が良かろう。長い名など、面倒で名乗りづらいだけだからな」

フィフィリアンヌは、異形に頷く。異形が身動きすると、四肢の鎖が揺れた。

「セイラ、名前、セイラ?」

「そうだ。貴様が気に入ったのなら、私は貴様をそう呼ぶぞ」

「セイラ、名前、好キ」

「ならば決まりだ。今日から貴様の名はセイラだ」

「フィリィ。セイラ、後ロ、長イ名、付カナイ?」

「ファミリーネームも欲しいのか。ならば、少し待て」

額に指先を当て、フィフィリアンヌは目を閉じた。しばらくすると、よし、と顔を上げる。

「サリズヴァイゴン。セイラ・サリズヴァイゴンでどうだ」

「サリズヴァイゴン…?」

その響きに、ギルディオスは引っかかるものを感じた。銀色の指を折り、数えていく。
セイラに混ぜられた魔物の種族は、サイクロップス、リザードマン、リヴァイアサン、セイレーン、ドラゴンだ。
サ、はサイクロップスで、リズ、はリザードマンを縮めた呼び方だ。ヴァ、はリヴァイアサンのヴァ、だろう。
イ、は恐らくセイレーン。ゴン、は間違いなくドラゴンのゴンだ。捻りの無さに、ギルディオスはまた笑ってしまう。

「こいつもまた安直だなー、おい。全部混ぜただけじゃねぇかよ」

「いいではないか。解りやすくて」

開き直ったフィフィリアンヌは、起伏の少ない胸を張った。異形、もとい、セイラは瞬きしている。

「サリズ、ヴァ?」

「そうだ。セイラ・サリズヴァイゴン。いいとは思わんか?」

「思ウ。セイラ、好キ」

セイラは、嬉しげな声を出す。フィフィリアンヌは、満足げに頷いた。
地面に置かれたフラスコが、ことりと揺れた。伯爵は、うにゅりと体を歪ませ、伸ばす。

「いやはや、いやはや。フィフィリアンヌよ、貴君は当初の目的を忘れ去ってはおらんかね?」

「忘れてはいない。セイラに含ませる毒の調合も、考えている」

フィフィリアンヌは伯爵を一瞥してから、鉄格子の右下へ向かった。そこには、入り口と同じく、扉がある。
鉄格子を区切るようにして作られた扉には、鍵が掛かっていた。フィフィリアンヌは、エドワードへ手を伸ばす。
エドワードはとても複雑そうにしていたが、仕方なく鍵を取り出した。少女の手に、黒く大きな鍵を握らせた。
フィフィリアンヌは錠前を持ち上げ、じゃこり、と鍵穴に差し込む。一回転させると、ぱちん、と外れる。
錠前をぶら下げたまま、フィフィリアンヌは小さな扉を開いた。少し頭を下げながら、牢獄の中に入っていった。
鉄格子の向こうは、洞窟の行き止まりだった。セイラのすぐ背後には、ごつごつとした岩肌が見えていた。
岩肌の両側面の上下には鎖が埋め込まれており、セイラに繋がれている。根元には、魔法陣が書かれていた。
フィフィリアンヌは鎖の根元、厚い鉄板を少し撫でる。深く刻み込まれた魔法陣は、呪術だった。

「簡単な呪いだな」

中に入って来た者が珍しいのか、セイラはしきりに足元を見回している。少女は、鎖から顔を上げた。
鎖の根元を乗り越えて、とん、と後方に飛び降りた。小石を蹴飛ばしつつ、奧へ向かう。
しばらく歩いてから、入り口の方へ振り返る。セイラの巨大な背が、外からの光を遮っていた。
セイラの翼は肌より濃い赤で、赤竜族が混ぜられているらしい。腰より少し上から、翼は生えている。
だがその大きさは小さく、体格に比べて短すぎる。とてもじゃないが、飛べそうには見えなかった。
翼の下から生えた太く長い尾は、地面に横たえられている。尾に付いている傷は、どれも治りかけだった。
いずれも、鋭い刃で作られた傷だ。中には、治りきっていない傷を、更に傷付けたようなものもあった。
フィフィリアンヌは目元を歪め、内心で吐き捨てた。間違いなく、これは人間のやったことだな、と。
そして、目線を上げた。首のすぐ下と翼の根元に掛けて、大きな二重の円があり、それは入れ墨で書かれていた。
魔法陣だった。魔法言語に古代魔法文字を混ぜ込んであり、威力を高められた呪いが刻み込まれている。
それは、特定の者に対して逆らうことを禁ずる呪いだった。一般的には、服従しない契約獣に施すものだ。
フィフィリアンヌは、黒い入れ墨の文字を目でなぞる。二重の円の中央には、六芒星が描かれている。
六芒星の線は細かい文字で出来ていて、名前だった。すぐには読めないように、古代魔法文字で書かれている。
暗闇に目を凝らして、それを読んでいった。セイラが逆らえぬ相手の名を、フィフィリアンヌは呟く。

「バロニス・グランディア」

その名を言われた途端、がちゃり、と鎖が揺れた。セイラの肩と翼が、怯えたように縮こまる。
フィフィリアンヌは少し躊躇ったが、更に読み上げていった。名前は、あと五つある。

「ナヴァロ・ドレイク。ランド・ナズル。エリスティーン・ベルシャ。ゼファード・サイザン」

最後の名を睨み、フィフィリアンヌは語気を強める。覚えのある、名だった。

「…シルフィーナ・ディアード」

ぎしり、とセイラの手が握られる。足の力が抜け、ぺたりとしゃがみ込んでしまった。
フィフィリアンヌはセイラの前に周り、握り締められた巨大な手に触れた。固く冷えた肌が、震えている。
どがん、と鉄格子が殴られた。フィフィリアンヌが振り返ると、ギルディオスが殴り付けた格好で拳を当てている。
銀色の手が、強く鉄柱を握った。ぎちぎちと関節を軋ませていたが、どん、とヘルムが鉄柱に押し当てられた。

「フィル。…そいつぁ、何の署名なんだ」

「セイラに呪いを施した者達の名だ。この手の呪いは、署名を刻まぬと効力が弱いのでな」

フィフィリアンヌは、血管の浮いた赤紫の肌を優しく撫でてやった。

「反逆を禁する呪いだ。いくら危害を加えられようとも、セイラは、この連中に牙すら向けられんのだ」

ギルディオスの背後で、エドワードが肩を震わせていた。かちかちと、甲冑が小さく鳴っている。
怒りを押し込めているのか、瞳の色が強くなっていた。薄い唇を歪めて、鋭い牙を剥き出していた。
こぽん、と伯爵は気泡を吐き出し、破裂させた。それと重なるように、ぴたん、と水滴の落ちる音がした。
細かく震えるセイラは、声にならない声を喉から洩らしている。フィフィリアンヌは、赤紫の手を撫で続けた。

「皆、悪イ、違ウ。悪イ、セイラ」

感情を押し込めたため、セイラの声は潰れていた。澄んだ高音が、掠れている。

「セイラ、悪イ。ダカラ、皆。セイラ、斬ル」

べちゃり、と水音がした。金色の単眼は潤み、目元からはだくだくと涙が溢れて落ちていた。
顎と牙を伝い、顔の下に水溜まりを作っている。フィフィリアンヌは、骨張った大きな手に額を当てる。
セイラの嗚咽が、洞窟に満ちていた。しゃくり上げる声が壁に反響し、嘆きとなって返ってきた。
目の前で泣き伏せる異形は、怒ってはいるようではなかった。ただひたすらに、悲しんでいる。
自らを悲しむのか、それとも、自らを傷付けた者達を悲しんでいるのか。ギルディオスには、解らなかった。
視界の底に思い出されるのは、命乞いをした女の姿だった。殺さないで、とシルフィーナは言った。
だが彼女は、コルグを殺した。そして、呪いによって逆らわないセイラを、傷付けていたはずだ。
やはり、自分の手で殺すべき女だった。改めて思い、ギルディオスは鉄格子が歪みそうなほど握り締めた。
フィフィリアンヌは、セイラの大きな手に縋った。すると、肩と頬に冷たい感触があった。
顔を上げると、セイラはもう一方の手でフィフィリアンヌに触れていた。金色の単眼が、歪められる。

「セイラ、悪イ子。ダカラ、フィリィ」

太く荒れた指先が、少女の白い頬に滑らされる。


「セイラ、殺セ」


ぺたり、と涙の一滴が、フィフィリアンヌの頬に落ちた。それを拭い取り、指先に移す。
フィフィリアンヌは唇を開き、その指先をそっと舌の上に乗せた。塩辛く、血にも似た味がした。

「金はあるか」

「ナゼ?」

「貴様が私に、製薬の発注をするのであれば、それ相応の金を頂くと言っているのだ」

「ナイ。アルハズ、ナイ」

「ならば、私には頼むな。私とて商売をしているのだ。無償で、薬をくれてやることは出来ん」

「殺セ」

「だから言っているだろう。私は貴様を殺せない。ギルディオスに頼んでも無駄だ、奴は仕事を降りているからな」

フィフィリアンヌは、エドワードへ目をやった。彼は顔を逸らし、奥歯を噛み締めている。

「エドワードも、もう私に金を払う気はなさそうだしな。報酬がなければ、仕事にならん」

「ナゼ」

「聞いての通りだ。私はエドワードに頼まれて貴様を殺しには来たが、貴様に頼まれて殺しに来たわけではない」

「フィリィ。セイラ、殺ス、出来ナイ?」

「そうだ。貴様が金を積まないのであれば、殺せはせん」

「フィリィ…」

困り果てたように、セイラは身を縮めてしまった。少女に触れていた手を外し、とん、と地面に横たえる。
握り締めていた鉄格子から手を外し、ギルディオスはフィフィリアンヌを見つめる。彼女の意図が、掴めた。
確かにエドワードは、この仕事を撤回させ、薬殺を中止させるだろう。彼も既に、セイラを殺す気はない。
ならば、セイラのために取るべき手段はただ一つ。ギルディオスは、フィルの考えそうなことだ、と思った。
一歩、フィフィリアンヌはセイラから身を引いた。両手を腰に据えて、小さな胸を張った。

「私は貴様を殺せない。それに割と気に入ってしまったから、もう殺す気など失せた。だから」

「ダカラ?」

「私は貴様を買う。それでどうだ」

セイラを映したフィフィリアンヌの赤い瞳が、ゆっくりと細まる。

「金貨五百枚だ。悪い話ではないぞ」

徐々に、金色の目が見開かれる。言われたことを理解してはいるようだったが、飲み込めていない。
ギルディオスは鉄格子の間に顔を突っ込み、フィフィリアンヌの背に言った。

「けどよ、フィル。どこに金を払うんだ?」

「セイラを捕らえている竜王朝に払うのだ、他にどこがある。エドワード、話を付けてくれ」

振り返ったフィフィリアンヌは、俯いているエドワードに声を上げた。エドワードは、顔を上げる。
目には驚きと困惑が入り混じっていたが、頷いた。胸に手を当て、表情を引き締める。

「出来る限り、やってみよう。いや、私の意地に掛けて、セイラを君に引き渡させるとも」

「いやはや、いやはや。フィフィリアンヌの衝動買いと散財にも、困ったものであるな」

そうは言いながらも、伯爵の口調にもどこか安堵が滲んでいた。ギルディオスは、全くだよ、と笑う。

「セイラを引き取るんなら引き取るって、最初から言ってくれよ」

「最初からそう言ったのでは、つまらないだろう」

悪気の欠片もなく答えたフィフィリアンヌは、彼らに背を向けた。異形の者は、がしゃりとしゃがむ。
岩に打ち付けられた鎖はぎしぎしと軋み、嫌な音を立てる。セイラは、出来るだけ頭を下げた。
足元に立つフィフィリアンヌに、なるべく目線を近付けさせた。ぎろりと、金色が彼女に向く。

「フィリィ、セイラ、買ウ?」

「そうだ、私がセイラを買うのだ。どうせ竜王朝は厄介払いをしたいのだ、金を積めば聞き入れるはずだ」

太い牙が生え揃ってがっしりとした顎に、フィフィリアンヌの手が添えられた。

「まず、外傷を治してやらんとな。下らん呪いも解いてやる。背中の魔法陣も、消せるだけ消してやろう」

「金ハ?」

「セイラからもらえるはずもなかろう。気が向いたのだ、無償に決まっている」

いつになく楽しげに、フィフィリアンヌはセイラに額を寄せた。ぐるぅ、と、セイラの喉が唸る。

「オ返シ、何カ、シタイ」

「歌ってくれ。セイラの好きな歌を、好きなときに聞かせてくれるだけでいい」

「解ッタ。セイラ、歌ウ」

鎖を目一杯伸ばし、セイラはフィフィリアンヌに寄る。大きな口が開かれ、牙の奧が見えた。
にゅるりと赤い舌が持ち上がり、先の割れたそれが伸ばされた。フィフィリアンヌは、赤い舌を撫でる。
異形の舌がゆらりと上がり、太く深い喉が覗いている。舌よりも薄い赤の喉が、僅かに震え、声を発した。
東方の言葉で、子守歌が紡がれていく。澄んだ歌が、寄り添う少女のために生み出される。
岩肌と鉄格子を軽く揺さぶりながら、異形のセイレーンは、声を響かせていった。


この世を見下ろす、神の優しきゆりかごで。

闇を避けて深く眠れ。

愛しき我が子よ、どうか、健やかにあれ。




静かに、そして穏やかに。平穏を得た異形は、歌い続ける。
泥が泥に馴染むように。異質な者達は、異質ゆえに、深く確かに通じ合う。
愛とも友情とも付かない感情が、異形の少女と異形の魔物の胸中に、じわりと生まれていた。
それを、幸せと呼ぶべきか、歪みと呼ぶべきか。

どちらであるか決めるのは、あくまでも、当の本人達なのである。








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