ドラゴンは笑わない




竜神祭の夜 前



グレイスは、わくわくしていた。


夕暮れた細い山道に、灰色の影が立っていた。針葉樹の乾いた幹に寄り掛かり、腕を組んでいる。
灰色の影の頭上にある太い枝には、メイド姿の幼女が腰掛けていた。小さな足を、前後にぶらぶらさせていた。
濃い桃色の髪が、頭の両脇でくるくると縦に巻かれている。幼女の動きに合わせて、バネのように上下した。
グレイスは顔を上げて、東南を見上げた。相当な高さのある山脈が、橙色の西日に山肌を焼かれていた。
薄い雲をまとった頂には、まだ若干の雪が残っている。まばらに白があり、光っているのが解った。
吹き下りてきた冷たい風には、低い唸りが混じっている。山を越えた竜王都から、竜族の猛りが聞こえてくる。
グレイスは耳を澄まし、その鳴き声を楽しんだ。大地の脈動に似た響きが、体に染み入ってきた。

「全く全く、嫌な連中だねぇ」

「そうですよねぇー、御主人様ー」

メイド姿の幼女は体を前方に放り、とん、と枝から下りた。くるりとスカートを翻し、レベッカは主に向き直る。

「こーんな面白い種族を殺しまくってるなんてぇ。人間って、なーんて視野が狭いんでしょーかぁ」

「戦争以外の気晴らしを知らないのさ。争い事ってのは、最高の娯楽であり暇潰しだからね」

グレイスは、横目にレベッカを見下ろす。幼女は、青紫の目を丸めている。

「それなら、わたしにもちょっとは解るかもー。他人が戦ってる姿って、なーんか面白いですもんねぇー」

「ま、オレもそれならちょっとはな。レベッカ、お客が来たぜ」

グレイスは道の前方、西側に顔を向けた。森と道の奧には、街の明かりがちらほらと見える。
街の明かりの中に、動く明かりが一つあった。彼らが持っているランプが、ふらふらと揺れているのだ。
薄暗い道の向こうから、がちゃがちゃと足音が聞こえてくる。統制の取れた、整然とした動きだった。
次第に、ランプが近付いてきた。弱い光に照らされた彼らの輪郭が浮かび、鎧に身を固めた影が見えた。
ランプに甲冑をぎらつかせた騎士が、先頭を歩いている。その後ろには、数名の仲間達が続いていた。
斧を担いで荷物を抱えた、巨体の重戦士。薄い布と軽い鎧を身に付けた、軽装の盗賊。厳粛な面持ちの聖職者。
露出が多い衣装を身に纏い、魔導鉱石の装飾具を胸元に付けた、細身の女魔導師。全部で、五名のパーティだ。
グレイスに気付いた騎士が、足を止め、片手を後方に上げて仲間達を制止した。途端に、足音は止まる。
騎士はヘルムの下から、鋭い目を上げた。グレイスは彼らに、愛想良く笑った。

「久しいですなぁ、バロニスご一行」

「グレイスか。ああ、久しいな」

騎士は表情を綻ばせ、ヘルムを上げた。ランプを掲げると、精悍な顔つきが照らされる。
背後の仲間達は、彼の後ろからグレイスを確認した。盗賊の青年は走り出ると、表情を明るくさせる。

「どれくらいぶりだろうな、グレイス!」

「大体、一月ぐらいですかねぇ。シルフィーナさんの葬儀に出て、それっきりでしたから」

笑いながら、グレイスは手前の騎士、バロニスに歩み寄った。グレイスが手を出すと、彼も手を出す。
バロニスはガントレットを外し、グレイスの手を取った。親しげに、力を込めて握る。

「だが、嬉しいな。こんな所であなたに会えるとは、思ってもみなかった」

「これでシルフィーナがいれば、もっと良かったんだがな」

重戦士は巨大な斧を下ろし、残念そうに呟いた。グレイスはバロニスから手を放し、巨体を見上げる。

「そうですなぁ、ナヴァロ。シルフィーナさんのことは、本当に残念でしたからなぁ」

「ええ、本当に。よりによって凱旋の仮面舞踏会の日に、竜族に殺されてしまうなんて…」

聖職者の男は、胸元の十字架を握り締める。グレイスは、首を横に振ってみせた。

「心中お察ししますぜ、ゼファード。なんともなんとも、ひどいことをする輩がいますなぁ」

「こんなことなら、シルフィーナに付いていきゃ良かった! そしたら、守ってやれたのによ!」

苛立った声を上げ、盗賊は拳を手のひらにぶつけた。グレイスは同情するように、顔を伏せる。

「無念なのは、皆が同じですよ、ランド。竜族ってやつぁ、やはり恐ろしい存在ですなぁ」

「それでグレイス。あなた、知ってるんじゃないの? シルフィーナを殺した竜族を!」

足早に前へ出た女魔導師は、いきり立った声を上げた。グレイスは両手を翳し、彼女を制止する。

「そう焦りなさんな、エリスティーン。知っているといえば知っているが、高いですぜ?」

「金なら、出せるだけ出そう。教えてくれ、グレイス」

真剣な面持ちで、バロニスはグレイスを見据えた。グレイスは、後方の山を見上げる。

「交渉成立、ですな。あの仮面舞踏会にいた竜族ってのは、白竜族から雇われていた緑竜族の女魔導師でしてね。まぁ、十中八九、その緑竜族がシルフィーナさんを手に掛けたんでしょうや。見た目は十二歳くらいで、ちっちゃくて可愛いが、目付きが悪い女の子ですよ。でかい甲冑と変なスライムを連れていて、大抵は黒い服を着てますな」

「グレイス、そいつの名を教えろ!」

盗賊、ランドがグレイスに詰め寄った。グレイスは、まぁまぁ、とランドをなだめる。

「今から教えて差し上げますよ。まぁ、珍しい名前なんで、一度聴いたら忘れられないでしょうがね」

グレイスは真剣な口調になり、表情を固めた。俯くと人差し指を立て、かちゃりと丸メガネの位置を直す。
平らなガラスに西日が映り込み、ぎらりと反射した。目の表情が、見えなくなる。



「フィフィリアンヌ・ドラグーン。それが、この緑竜族の名ですよ」



ざあ、と強い風が木々をざわめかせていった。太陽が西へ没したため、闇が深みを増し始めていた。
丸メガネを直した手の下で、グレイスは笑った。彼らは疑いなく、フィフィリアンヌが殺したと信じるだろう。
数年前から、このパーティに情報を与えてのし上がらせていた。暇潰しを兼ねた、手駒作りでもあった。
情報屋の真似事は正直面倒であったが、それはそれで楽しかった。たまに本職以外の仕事をすると、面白い。
今までは、確実な情報ばかりを彼らに流してきた。だから、この時点で嘘を言っても疑うことすらしないのだ。
前例を根拠にしちゃうのはあんまり良くないぜ、とグレイスは内心で呟いた。手を降ろし、片手を出す。

「それでは、金貨三十枚でどうですかい?」

「どぉーですかぁー?」

グレイスの後ろから、ひょいっとレベッカが顔を出す。にっこりと親しげに笑って、冒険者達を見上げた。
女魔導師、エリスティーンは幼女に近付くと、身を屈めて目線を合わせる。同じように笑い、バロニスを指す。

「大丈夫よ、レベッカちゃん。それくらいだったら、バロニスが持ってるから!」

「ああ。東王都の近くで、多少の魔物を討伐して来たからな。その稼ぎがある」

バロニスは後方の重戦士、ナヴァロに顔を向けた。ナヴァロは、背負っていた大きな荷物を下ろす。
がちゃり、と荷物の中身が重たそうな音を出した。しっかりと括っていた紐を解き、金属音のする麻袋を取り出す。
麻袋の口紐を解くと、中から金色が溢れた。ランプの明かりで、ぎらぎらと何十枚もの金貨が照っている。
ナヴァロは大きな手で、じゃらりと金貨を掴み取った。ランドが近寄り、彼の持つ金貨の数を数える。

「三十七。ちょいと多いな」

ナヴァロの手の上からランドは金貨を七枚取り、袋に戻した。ナヴァロは金色を手に握り締め、立つ。

「これでいいか」

小走りに、レベッカはナヴァロに近付いた。近寄ってきた幼女に重戦士は屈み、金貨の入った手を差し出した。
レベッカはエプロンを広げ、その中に金貨を落とさせた。白く小さなエプロンが、ずしりと重くなる。
何度かエプロンを振り、レベッカはじゃりじゃりと金属音をさせた。本物であることを、確かめるためだ。
金のぶつかる音に濁りはなく、重さも合っている。本物であると確認し終えたレベッカは、彼らに頭を下げる。

「毎度ながら、ありがとーございますー」

「あなた方の金払いの良さに免じまして、フィフィリアンヌ・ドラグーンの居所も教えて差し上げましょうか?」

金貨を持ったレベッカの傍らにしゃがみ、グレイスはにやりとする。五人は、色めき立った。
怒りが持続している内に戦える上に、捜し回る手間が省ける。そんなことを、口々に言い合っている。
都合が良すぎると思わないのかねぇ、とちらりと思ったがグレイスは言わずにいた。言ったらおしまいだ。
どうやって仇を討とうか、戦略を話し合う五人の襟元には、ドラゴン・スレイヤーの証が光っていた。
竜の頭に剣が突き立てられた、金の紋章。帝国で訓練と試験を受けた後、実績を得ればもらえるものだ。
腕のある冒険者であるという、一番解りやすい証明であり、一番安易な選択をした証明でもある。
凶悪で強大である、という評判のドラゴンを殺していけば、それだけで世界の覇者になったような気になれる。
つまるところ、勇者気取りなのだ。世界を救うだの世界を守るだの、という英雄譚の主役になりたいのだ。
ドラゴン・スレイヤーは、決して勇者ではない。帝国の思想に染められ切った、若人達のなれの果てだ。
竜族は人を襲う、竜族は王国を支配しようとしている、そしていつか帝国に攻め入るだろう、だから、奴らは。
悪なのだ。絶対的な悪であり、許してはいけない存在だ。さあ立つが良い若人よ、今こそ戦うときなのだ。
そう、帝国は言っている。そしてそれを、バロニス達のような者達は、やはり疑いなく信じているのだ。
いや、信じたくて信じているのだ。体得した魔法や剣術を使うための、明確な敵が欲しくて仕方ないからだ。
相手がいなければ、戦いにならないように。人を襲う魔物がいなければ、冒険者の存在する意味はない。
王国と帝国の周辺に住まう魔物は、どれも皆、同族同士でしか争わない。人間など、滅多に襲われてはいない。
だからこそ、帝国はドラゴンを敵と定めた。ドラゴンが多く住んでいる、王国に攻め入るための口実として。
近頃は帝国が大人しいため、辛うじて戦争は起きてはいないが、王国の体勢が少しでも緩んだら攻めるだろう。
冬頃に王国へ進行したドラゴン・スレイヤー達も、大半が獲物を見つけられずにおり、くすぶっている。
そんなふうに、じりじりと競り合っている両国の間に、竜族をけしかけたらどんなに面白いことになるだろうか。
竜族を戦いにけしかけるのは、簡単なことだ。目の前で同族を殺されれば、結束の固い血族達は怒り狂うはずだ。
そんな彼らが王国か帝国のどちらかに攻め入れば、一気に戦争が巻き起こり、戦火は拡大していくだろう。
怒りのままに攻め入る竜族と、思わぬ勢力の攻撃に狼狽える王国に、待ってましたと奮い立つ帝国。
三つ巴の、ぐずぐずの戦争が起こるはずだ。グレイスはそう思いながら、竜王都の方向を見上げた。
戦いを起こすためにフィフィリアンヌを殺すのは惜しかったが、暇なんだから仕方ないよな、とグレイスは思った。
グレイスは、逆手に東南の空を指し示した。天に向かってそびえ立つ山脈が、ずっと続いている。

「竜王都です。二日もあれば、辿り着けるでしょうや」

「竜王都って、本当に存在したんですか? 伝説だとばかり、思っていましたが」

聖職者、ゼファードが訝しげにする。レベッカはにんまりと笑み、金貨をエプロンごと抱き締める。

「あーりますよーん。人間の足で行くとちょーっとめんどいから、知られていないだけですー」

「あの山を越えて、川沿いに行けば着けますぜ。水源が竜王都の湖ですから、間違いのない道しるべですよ」

グレイスが言うと、バロニス達は山を見上げた。彼らはいずれも、使命感に満ちた表情をしていた。
仲間の仇を討つための冒険、とくれば、いつも以上に気合いが入るらしい。士気は、充分高まってきていた。
バロニスはグレイスを見、態度を引き締めた。勇者然とした立ち振る舞いで、拳を振り上げる。

「辿り着くとも! シルフィーナの命を奪ったドラゴンを倒すまで、私達は倒れてはならないのだ!」

「ご武運を、お祈りしますぜ」

胸に手を当て、グレイスは深々と頭を下げた。レベッカも、グレイスに合わせて頭を下げる。
バロニスは二人に、また、と言ってから歩き始めた。一行を引き連れて、竜を狩る者達は山に向かった。
五人の足音が遠ざかった頃、グレイスは頭を上げた。闇に包まれた道の奧へ、ランプの明かりが進んでいく。
闇に、青白さが含まれていた。無数の星が散らばった夜空には、僅かに欠けた月がぽっかりと浮かんでいる。
三日もすれば、満月になる。グレイスはレベッカの頭を上げさせてから、指を折って暦を数えてみた。

「あ」

春が訪れたあとの、最初の満月の夜。二日後のその日は確か、竜族が神を祀る祭りを行う日だ。
グレイスはもう一度、指を折る。西の竜巫女を務める緑竜族の未婚で若い女は、彼女ぐらいしかいない。

「少ぉーし、間が悪かったかなぁ…。かち合っちゃうぜ、祭りとあいつらが」

「竜神祭ですねぇー。そーいえば今年は、フィフィリアンヌが西の竜巫女でしたっけー」

金貨をエプロンにくるみながら、レベッカはグレイスを見上げる。グレイスは、腕を組む。

「ま、いいか。それはそれで、面白そうだしな」

「そーですねぇ、御主人様ぁー」

うふふ、と楽しげにレベッカは笑みを零した。グレイスは、レベッカの髪をぐしゃりと撫でる。

「あとで見物に行こうな、レベッカ。どれだけフィフィリアンヌが綺麗か、どれだけバロニス連中が弱いか」

「うわぁい! お祭りだぁー、戦いだぁー」

ぴょんと飛び跳ね、レベッカのエプロンがじゃりんと鳴った。数回、同じ位置で飛び跳ねている。
液体魔導鉱石を体内に満たした人造魔導兵器とはいえ、レベッカの精神年齢は見た目とほとんど変わらない。
無邪気な喜びように、グレイスはなんだか自分まで楽しみな気分になってきた。実際、色々と楽しみなのだが。
バロニス達の向かった山を見、丸メガネの奧で目を細めた。思い切り邪悪な笑みを作り、グレイスは呟いた。

「さあて。あんたは、どう動いてくれるのかな、ギルディオス・ヴァトラス」

ざあ、と強い風が木々を震わせた。グレイスの緩い三つ編みを、軽く揺らしていく。
新緑の葉が擦れる音が、月明かりの下で騒がしかった。青い草と土の匂いが、空気に充ち満ちている。
穏やかな温かさを含み始めた風が心地良く、そして、優しかった。




翌朝、竜王都。
竜神祭は、滞りなく準備が進んでいた。
巨大な門を開放した竜王城の城内では、兵士達や平民達が慌ただしく駆け回っており、皆が仕事をこなしていた。
城門から入ってすぐの広場には、東西南北に高いやぐらが組まれていた。それらは、派手に飾られている。
北のものには、白い布。東のものには、青い布。西のものには、緑の布。南のものには、赤い布。
目の覚めるような、強い色だった。それらが何枚も、やぐらの骨組みに巻き付けられ、ゆったりと揺れていた。
それぞれが、竜巫女となる女と同じ色をしている。東と西は持ち回りで、黒と黄になる年もあるのだそうだ。
ギルディオスはやることがないので、城門に繋がる橋に立っていた。すぐ下の湖には、セイラが浸かっている。
目を離さなければいい、という条件付きで、来城許可が出たのだ。セイラに対する扱いは、未だに固い。
セイラは湖面から上半身を出し、岸に寄り掛かる。水面の下で、太い尾がゆらゆらと動いている。

「ギリィ。オ祭リ、始マル?」

「明日だとよ。今日はまだ準備なんだそうだ」

「フィリィ、ドコ?」

「フィフィリアンヌは、竜王城の中で稽古をしているのである。もうしばらく、出てこないであろうな」

ギルディオスの腰で、フラスコが揺れた。伯爵は、たぽんと軟らかな体を揺らす。

「いやはや、いやはや。音感のないあの女に、果たして踊りなど踊れるのであろうか。激しく不安であるぞ」

「ウン、不安」

こっくりと、セイラも深く頷いた。ギルディオスは吹き出し、肩を震わせた。

「うははははは! 確かに不安だよな、そりゃあ!」

幅広の橋を歩いてきた兵士が、妙な顔をしていた。不審者を見るような目を向けながら、小走りに通り過ぎる。
城門の中に入ると手近な兵士を捕まえて、逆手にギルディオスらを指した。小声で、何事かと喋っている。
数人の兵士達は、あからさまに三人を怪しんでいた。異形の魔物と甲冑を、しきりに見比べている。
すると、兵士達の後ろからエドワードが現れた。彼が兵士達に一言二言話すと、兵士達は散っていった。
エドワードは、普段の装備よりも派手な格好をしている。紋章が染められたマントを広げ、歩み寄ってきた。

「やあ、ギルディオス」

「おう。エド、お前も祭りに出るのか?」

ギルディオスは首を動かし、エドワードの格好を眺めた。刺繍の施された前垂れは、いつもより長い。
腰に下げられた剣も装飾が多く、兜も付けていた。エドワードは兜を外し、脇に抱える。

「出るといっても、北の竜巫女の護衛役だがね。こういう祭事での騎士の役目は、単なる後方支援だから」

「エド、巫女、守ル?」

首を伸ばし、セイラはエドワードに顔を寄せる。エドワードは、金色の単眼に目をやる。

「そうだ。今年の北の竜巫女は私の従姉妹で、ポーラ・ドラゴニアというんだ」

「歌、歌ウ?」

「いや、巫女達は歌わないよ。歌うのは街の女達さ。ああ女神よ、竜の女神よ、始祖の愛を永遠に、ってのをね」

「楽シミ。セイラ、ソレ、覚エル」

セイラの単眼が、ぎゅっと細められた。本当に楽しみなのか、水面下の尾が大きく振られる。
エドワードは嬉しそうに笑み、欄干から身を乗り出してセイラを見下ろした。かしゃり、と腰の剣が鳴る。

「ああ、覚えるがいいとも。良い歌だからな」

「祭りってのは、どこも似たようなもんなんだなぁー」

エドワードとセイラから目を外し、ギルディオスは城門の奧を見た。竜女神らしき像が、運び出されていた。
艶やかな金で造られた、女神像が日差しの下に現れる。翼とツノと尾が生えた、優しげな面差しの女神だ。
天へ向けて高く掲げられた左手には、何も持っていない。普通であれば、杖や杯、剣が握られているはずだ。
それが、ギルディオスには疑問に思えて仕方なかった。なので、エドワードに尋ねてみた。

「なぁ、エド。あの女神さん、何も持ってないのか?」

「最初は宝玉を持っていたんだが、我ら竜族に与えたから失ったのさ」

そういう神話なんだ、と、エドワードは女神像を見上げる。後ろ手に、自分のマントを広げた。
下に隠されていた白い翼が広げられ、ばん、と皮が張り詰めた。彼はそれを上向け、背の上に掲げる。

「等しき翼を、等しき瞳を、等しき愛を、とね」

城内から駆けてきた兵士が、エドワードを呼んだ。抜け出してきたらしく、エドワードはばつが悪そうに苦笑した。
すぐに行くから、と兵士に言い、エドワードはギルディオスに向いた。片手を挙げ、軽く振る。

「すまない。まだまだ用事があるんで、また」

「あー、おう」

兵士と共に駆けていったエドワードに、ギルディオスは手を振り返した。主役でなくとも、忙しいようだ。
ギルディオスはなんだか取り残された気分になったが、仕方ないよな、と思った。どうせ、自分は竜族ではない。
竜神祭を見ることは出来るが、関わることは出来ない。所詮は人間であり、完全な部外者なのだ。
セイラもエドワードを見送っていたが、じろりとギルディオスを見上げた。セイラも、それなりに寂しいらしい。

「ギリィ。セイラ、凄ク、暇」

「うん、オレも暇」

「我が輩が暇なのは、今に始まったことではないのである」

フラスコの内側を、ぬるぬるとスライムが這う。伯爵の動きを、ギルディオスは何の気なしに眺めた。
だが、すぐに飽きた。毎度のように見ている相手だし、何よりこのスライムは、意外に動きが単調なのだ。
ギルディオスは、ぼんやりと竜女神像を見つめた。鋭さを増した日光を浴びて、金色の女神は神々しかった。

「女神さんねぇ…」

濃い灰色の城壁に、ふと、鮮やかな色が見えた。ふわふわと風になびき、色は女を形作っている。
新緑の木々に似た色のマントを羽織った女が、城壁に座っていた。魔導鉱石の装飾具が、ちかりと輝いている。
細く白い首筋と豊満な胸元、華奢な手首と頼りない腰が、ごてごてとした金の装飾具に飾り付けられていた。
だがそれでも、女は装飾具に負けていなかった。それどころか、色の濃い石を圧倒する雰囲気がある。
切れ長の鋭い目には、見覚えがあった。ギルディオスは直感的に、フィフィリアンヌと同系統だと感じた。
見た目は麗しい女性なのだが、どうにも近寄りがたい空気を持っている。見たところ、魔導師のようだった。
女は、ギルディオスの視線に気付いた。長い睫毛を伏せて、すいっと目線を甲冑に合わせた。

「あら」

変なものを見た、という声だった。女は傍らに置いた銀の杖を取ると、身軽に体を放った。
すぐに、女は城門前に降りてきた。とん、と体重の軽い着地音がしたあと、しなやかな動きで立ち上がる。
肩に乗っていた長い緑髪を、ばさりと手で背に放った。細い顎に指を添え、赤い唇を歪ませた。

「あんたが、馬鹿だっけ?」

「え?」

唐突すぎる女の言葉に、ギルディオスは面食らってしまった。全く、脈絡が掴めない。
なぜいきなり、出会い頭に馬鹿と呼ばれなくてはならないのか。怒るより前に、困ってしまった。
まぁいいわ、と女は勝手に完結させた。橋のたもとにやってくると、身を乗り出し、岸辺のセイラを見下ろす。
セイラはちょっと驚いたのか、水面に腰を落とした。女は異形をまじまじと眺めていたが、少し笑った。

「何よ。よく見ると可愛いじゃないの、この子」

「とりあえず、あんた、誰?」

おずおずと、ギルディオスは女を指す。女は面倒そうに、ギルディオスに目を向ける。

「アンジェリーナ・ドラグーンよ」

「フィフィリアンヌの母親であるぞ、ギルディオスよ」

すかさず、伯爵が補足した。ギルディオスは少しの間を置いてから思い出し、ああ、と大きく頷いた。
聞き覚えはあったのだが、すぐには出てこなかった。言われてみれば、彼女の母と同じ名前だ。
顔立ちも、確かに似ている。フィフィリアンヌを十五歳ほど成長させたら、恐らくこのような姿形になるのだろう。
アンジェリーナはとてつもなく不満げに眉をひん曲げ、ギルディオスを睨んでいたが、顔を逸らす。

「普通、顔と名前で解るでしょうが。あんた、それでもフィフィーナリリアンヌの手下?」

「…いや、手下っつーか、その」

反論しようとしたが、まともな文句が出てこなかった。ギルディオスは、がりがりとヘルムを掻く。
自分はフィフィリアンヌの手下だというわけではないが、決してそうではない、とも言い切れる気はしない。
実際、彼女にはいいように使われている。借金を背負っているという負い目も手伝って、余計に逆らえない。
ギルディオスは、しばらく言葉に詰まってしまった。アンジェリーナは、ふっと笑みを浮かべた。

「ま、いいわ。あんたがあの子にとって、どんな相手だろうがなんだろうが、私にはどうでもいいもの」

「母親らしくねぇなぁー、あんた…」

アンジェリーナの態度に、ギルディオスは呆れてしまう。アンジェリーナは、唇の端を持ち上げる。

「だって、そういうもんでしょ? あの子はあの子、私は私。血の繋がりはあるけど、他人じゃないの」

ギルディオスは、これ以上彼女の相手を出来る自信がなかった。なので、伯爵を見下ろしてみた。
フラスコの中のスライムは、少しも動かなかった。さすがの伯爵も、この女は相手にしたくないらしい。
セイラはといえば、湖面できょとんと目を丸めている。こちらは、どうしていいのか解らないようだった。
仕方がないので、ギルディオスはアンジェリーナと向き直る。見た目だけは、美しい女だ。

「で、何の用事ですかい、アンジェリーナさんやい」

「別に何も」

馬鹿にしたように、アンジェリーナは半笑いになった。ギルディオスは、もう逃げたくなっていた。
それをなんとか堪えるために、深くため息を吐いた。気力を戻し、もう一度彼女を視界に入れる。

「普通だったらよ、ここでオレに色々と聞くもんじゃないのか?」

「何を?」

「フィルのこととか、その辺さぁ」

「興味ないもの」

「あんた、自分の娘が心配じゃないのか?」

「多少はね。でも、フィフィーナリリアンヌはいい歳だもの。いちいち干渉するもんじゃないわ」

「まぁ、あれで七十四らしいからなぁ…」

ギルディオスは、フィフィリアンヌの実年齢を思い出した。いくら見た目が幼くとも、自分より年上なのだ。
アンジェリーナは欄干に座り、頬杖を付く。マントの下で、緑色の翼がすいっと折り畳まれた。

「で。あんた、祭りは見ていくの?」

「そりゃあな。他にやることもねぇし」

「あっそぉ。あんた、人間でしょ? 珍しいわねー、人間なんかが竜王都に長逗留するなんて」

大げさに、アンジェリーナは驚いてみせた。ギルディオスは腕を組み、がしゃりと欄干に寄り掛かった。

「あのさぁ、せめて名前で呼んでくれねぇか? オレ、ギルディオス・ヴァトラスってんだけど」

「私は別にどうでもいいと思うけど。そこまで言うなら、まぁ仕方ないわね」

やる気なく返し、アンジェリーナは髪をいじる。ギルディオスは苛々していたが、それを腹に押し込んだ。
嫌味を言われるのは、割と慣れている。だが、いちいち突っ掛かられると、さすがに癪に障るものがあった。
アンジェリーナは、フィフィリアンヌ以上に他人を見下している。それも、かなり高い位置からだ。
それを感じ、ギルディオスはむかつきながらうんざりした。こういう性分の女が、世の中で一番嫌いなのだ。
別に上下関係があるわけでもないのに、なぜここまで、偉ぶられなくてはならないのか。理不尽極まりない。
フィフィリアンヌは見た目が幼いので、まだ可愛気も愛嬌もあったが、アンジェリーナには皆無だ。嫌味まみれだ。
この女だけは絶対好きになれねぇ、と、ギルディオスは強く思った。彼女から顔を逸らし、青空を睨む。
アンジェリーナは、あらぬ方向にむくれている甲冑を眺めた。仕方ないわね、と呟く。

「ま、どうせ私も暇だったし。竜神祭を見るんだったら、基礎知識として、神話でもお話ししてあげましょうか?」

ギルディオスは、まだむくれている。アンジェリーナは、子供みたいな木偶の坊ね、と内心で思った。
アンジェリーナは髪を掻き上げて、長く尖った耳に乗せた。緑髪の下から、銀色のピアスが現れる。

「昔の昔、その昔。世界は混沌としていて、光も闇も、大地も海も、生も死も、どろどろと混じり合っていました。
ある時、その世界に朝が訪れました。東の空から現れた太陽は、温かな光を放ち、光と影を分けました。
太陽が世界を照らし続けると、風が生まれ、大地と海が別れ、空も出来ました。雲も、ついでに生まれました。
風が世界を揺らし続けると、大地は隆起し、裂けました。それが山となり、川となり、陸地が完成しました。
そうこうしているうちに、太陽は西へ沈んでしまいました。空は深い闇に覆われると、星と月が生まれました。
世界の形があらかた整うと、唐突に神が現れました。生き物を造ると、陸地と海に生き物にばらまきました。
そしてまた、世界に朝がやってきました。命を得た生き物達は、己が一体何なのか、口々に神に尋ねました。
神様神様、私は一体なんなんですか? このひらひらしたものは、一体何のために生えているんですか?
神は答えました。それは羽根といって、動かせば空を飛べるものです。あなたは鳥なのです。
他にも一杯問答はあるんだけど、面倒なんで省略。そんなこんなで、世界は潤い、生き物が溢れてきました。
ですが、どれも獣達ばかりです。神は思いました。もう少し生き物を増やしたら、もっと楽しくなるだろうと。
そして、己に良く似た生き物を造りました。一つの頭と二本の腕と二本の足を持つ生き物、人間です。
人間は非力でしたが、神から受け継いだ魔力と知能を持って、なんとか獣達と共に世界を生きていました。
何度目かの夜、ある小さなトカゲが月を見上げて言いました。神様神様、私にも人間のような知能を下さい。
神は答えませんでした。それもそのはず、神は別の世界を造るため、とっとと旅立ってしまっていたのです。
ですが、地面を這って生きるトカゲは、そんなことは知りません。次の夜も、また次の夜も、月に言い続けました。
神様神様、私にも鳥のように空を飛べる翼を下さい。神様神様、私にも獅子のような牙を下さい。ってな具合に。
七日間も続いた頃、月に女神が生まれました。トカゲの祈りが、月に残されていた神の御心に触れたのです。
月から舞い降りてきた竜女神は、金色に眩しく輝いておりました。その姿には、トカゲの祈った通りでした。
竜女神はトカゲの前に舞い降りると、手にしていた宝玉をトカゲに与えました。すると、どうでしょうか。
ヤギのようなツノ、獅子のような牙、魚のようなヒレ、空を飛べる翼、岩のような強靱なウロコ、人間のような知能。
それらがトカゲに全て備わり、晴れてトカゲは立派な竜となりました。それはそれは勇猛で、逞しい竜でした。
金色の竜女神は、元トカゲの竜に仰いました。あなたには、まだ望みはありますか? 後一つなら、叶えられます。
竜女神様、竜女神様。私は、竜女神様が人となった姿を、見てみたいと思っております。それが最後の願いです。
願いを受け入れた竜女神は、人の姿となりました。赤い瞳と金の髪の、それはそれは美しい女性になりました。
竜女神は仰いました。私は月へ戻りますが、いつでもあなたを、竜族を見守っていますよ。
それ以来、世界には新たな種族が生まれました。赤き瞳を滾らせ、空を往く大地の申し子、竜族です」

アンジェリーナは、目線を上げた。高く厚い塀が、竜王城を守っている。

「ですが竜族は、その外見と大きさ故に、人間の世界にも獣の世界にも馴染むことが出来ませんでした。
そこで再び、竜女神が舞い降りてきました。金色の竜女神は巨体の竜族達に、微笑み、こう仰ったのです。
あなた達はあなた達で、世界をお作りなさい。大地は大地、海は海、人は人、獣は獣、竜は竜なのですから。
そこで竜族達は、最初の竜となった元トカゲの銀竜を王とし、山の奥に立派な国を造りました。それが竜王都です。
以来、竜族は竜族だけの世界を造り上げ、神の加護を受ける人間達を見下ろしながら、生き長らえてきたのです」

神から見放された種族。
ギルディオスは、不意にそんな言葉が浮かんだ。人にもなれず、魔にもなれず、獣にもなれない竜族。
だが、彼らには居場所がある。竜王族が竜王都に同族達をまとめている限り、そこが竜族の世界なのだ。
そしてここは、竜族だけの世界なのだ。だから彼らは、セイラを受け止められず、受け入れることが出来ない。
フィフィリアンヌも、あれで際どい位置にいるのだろう。竜である以前に、人でもある存在なのだから。
だがそれでも、彼女は自分の居場所を造り上げた。その手段は、少しばかりえげつなくきついもののようだが。
ギルディオスはアンジェリーナに従って、城壁を見上げた。等間隔に、紋章が刺繍された布が掛かっている。
月を背負い、強く猛る竜の姿。あれは、エドワードの前垂れにも印されているので竜王家の紋章だろう。
気が付くと、セイラが何かの歌を歌っていた。先程エドワードが、ちらりとだけ歌っていた歌を覚えたのだ。
おぼつかない西方の言葉を使い、竜女神を称える歌を歌い続けた。穏やかな声が、湖面を走る風に乗った。


ああ女神よ、竜の女神よ。

始祖の愛を永遠に。

等しき翼を、等しき瞳を、等しき愛を。


祭りの準備を続ける竜族達は、その歌に少しだけ手を止めた。だがすぐに、元の仕事に戻っていく。
セイラはそれ以上の節も歌詞も知らないため、同じ部分だけを何度も何度も繰り返していた。
ふと、ギルディオスはアンジェリーナの口が動いていることに気付いた。セイラの歌に合わせ、唇が広がる。
しかし、歌は紡がれない。形だけを繰り返していて、彼女の声はほんの少しも発されなかった。
ギルディオスはアンジェリーナから目線を外し、竜王城を眺める。セイラの歌は壁に跳ね返り、響いていた。
蒼天には、朧気な白い満月が浮かんでいた。








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