ドラゴンは笑わない




竜神祭の夜 前



フィフィリアンヌは、頭痛を感じていた。
竜王城内の広間で、延々と竜巫女の踊りを踊らされ、目が回っていたこともある。だが、それ以上に。
室内にたかれている香炉の匂いが鼻をつき、こめかみがずきずきしていた。甘い匂いは、あまり好きではない。
先程から休憩にはなっていたが、神経は休まっていなかった。壁越しに聞こえるセイラの歌だけが、安らぎだ。
だだっ広い広間は王宮らしく飾られていて、天井も高い。そんな部屋の中に、女達の高い声が響いている。
他の竜巫女の三人が、テーブルの傍で口々に喋っていた。衣装がどうの踊りがどうの、男がどうの化粧がどうの。
フィフィリアンヌが知らない話題だったが、それ以前に興味がなかった。役に立たない話だ、としか思わない。
侍女が運んできた紅茶を飲んでいると、白竜族の娘が振り向いた。フィフィリアンヌに寄り、身を屈める。
長い銀髪を三つ編みにして肩に垂らしている、見た目は十八歳ほどの少女だった。彼女は、親しげに笑う。

「ねぇ、あなた。エド兄様と、どういう関わりがあって?」

「エド…? ああ、エドワードのことか」

ティーカップを揺らし、フィフィリアンヌは答えた。近頃交流のあるエドは、彼だけだ。
白竜族の少女は、そうそう、と楽しげに頷く。整った顔立ちだが、愛嬌のある表情をしていた。

「私ね、エド兄様の従姉妹でポーラ・ドラゴニアというの。身内としては、知っておきたいなぁって思って」

「別にどうもこうもせん。エドワードとは、単に利害が一致しただけだ」

「そうかしら? エド兄様って優しいし、カッコ良いし、本当にそれだけ?」

興味津々、と言いたげな目をして、ポーラはフィフィリアンヌを覗き込む。他の二人も、こちらを見ている。
フィフィリアンヌは香りの良い紅茶を、一気に飲み干した。こん、とティーカップを盆に置いた。

「それだけだとも。貴様は、私とエドワードの間に何かあった方がいいとでも思うのか?」

「そりゃあ思うわよ。あなたってハーフドラゴンだけど、それでもドラグーン家の血族じゃない?」

ポーラは、胸の前で両手を組む。少し首をかしげると、三つ編みが肩から滑る。

「でもって、西の守護魔導師のアンジェリーナ様の娘じゃない。何かあった方が、私としても嬉しいわ」

フィフィリアンヌは、ポーラの言わんとするところを察した。要するに、古い一族同士の血を混ぜたいのだ。
エドワードの家であるドラゴニア家は、王家の分家である。竜王族である銀竜族を守る、白竜族の家だ。
代々竜騎士を務めている一族で、歴史は深いといえば深い。その上、エドワードはドラゴニア家の長男だ。
次男であるコルグが死んだからということもあるが、ドラゴニア家の家督を継ぐのは間違いなくエドワードだ。
フィフィリアンヌの血族であるドラグーン家も、歴史はそれなりにある。竜王都を切り開いた、とされている。
竜王家との関わりも、決して浅くはない。魔力の高さと魔法技術の高さを買われ、要職に幾人かが付いている。
アンジェリーナもその一人で、守護魔導師といえば、竜王から絶大な信頼を得ている役職なのだ。
竜王都と周辺に有事が起きた際に、東西南北の防御を引き受ける。それも生易しいものではなく、広範囲に。
権力もそれなりに持っており、竜王の側近とほぼ同等の地位に立っている。それが、守護魔導師なのだ。
だがフィフィリアンヌは、親は別物だ、と思っている。だから、いくら母が偉かろうが、自分には関係がないのだ。
ポーラの腹積もりも解らないでもないが、関係ないものはない。なので、フィフィリアンヌは淡々と返した。

「家は家であり、己は己だ。第一、家柄にこだわった関係など、出来上がっても面白くはない」

「そうかしら。エドワード様は立派な騎士だと思うし、私だったら近付いちゃうけどなぁ」

赤竜族の少女が、不思議そうな顔をする。朱色の髪をしなやかに伸ばして、長く背に垂らしていた。
その隣で紅茶を飲んでいた青竜族の少女は、ティーカップを下ろした。短く切った藍色の髪を、軽く掻く。

「やはり、外の者は外なんだ。なんにも縛りがないんだね、あんた」

「それなりにな」

フィフィリアンヌは、青竜族の少女を見据えた。少年じみた外見に、巫女の衣装が似合っていない。
袖のない服から出ている二の腕には、両方とも布が巻かれている。他の二人に比べ、どこか筋肉質だった。
フィフィリアンヌは、武闘家のようだな、と思った。確信はないが、戦闘職をしているのは確かだ。
金の細い輪を両耳に下げた青竜族の少女は、フィフィリアンヌを見た。丸い目には、少し幼さが残っている。

「あたし、ウェンディ・ドラグラウ。あんたの名前は?」

「フィフィーナリリアンヌ・ロバート・アンジェリーナ・ドラグーンだ。要約して、フィフィリアンヌ・ドラグーンという」

「どっちで呼ぶべきかな? フィフィーナリリアンヌか、フィフィリアンヌか」

「フィフィリアンヌの方が楽だと思うぞ、お互いにな」

フィフィリアンヌがそう返すと、そうだね、とウェンディは笑う。赤竜族の少女は、三人を見回す。

「私はフレイヤ・バニス・ドラグシス。そういえばまだ、あなたには名乗ってなかったしね」

フィフィリアンヌはフレイヤをちらりと見たが、ティーポットからティーカップに紅茶を淹れることに専念した。
あまり好きではないが、喉が渇いていた。湯気と共に香りが立ち上り、香炉の匂いと入り混ざる。
フィフィリアンヌはそれをもろに感じてしまい、また頭痛がした。眉間をぎゅっとしかめ、紅茶を傾ける。
ポーラはフィフィリアンヌの様子に、変な顔をした。自分も紅茶を飲んでから、訝しむ。

「これ、そんなにまずいの?」

「そうではない」

説明するのが面倒だと思い、フィフィリアンヌは黙った。ティーカップを置いてから、立ち上がる。
近くの壁まで歩き、そこに置いてあった自分のカバンを開いた。がちゃがちゃと瓶を鳴らし、中を探った。
王宮に入る際、めぼしい薬は監査役の兵士に預かられてしまった。毒にされてはいけないから、だそうだ。
フィフィリアンヌはいくつかの瓶を取り出して、底に押し込めてあったキイロニガイチゴのジャムを探り当てた。
それを持ち、テーブルに戻った。フィフィリアンヌは紅茶にそのジャムを落とし、ぐるぐると掻き回す。
甘ったるいジャム入りの紅茶を飲み、ようやくフィフィリアンヌは落ち着いた。頭痛も、少しは和らいでくれる。
フレイヤは、ほんのりと橙色掛かったジャムを見つめていた。興味深げに、フィフィリアンヌに尋ねた。

「ねぇ、それ何? おいしいの?」

「鎮痛の薬だ。苦いぞ」

「フィフィリアンヌ、ちょっと食べてみてもいい?」

「手を付けてしまったから、どうせもう売り物にはならん。喰うなら喰え」

フィフィリアンヌは、ジャム瓶を三人に向けた。彼女らは自分のスプーンで、少しずつジャムをすくう。
フレイヤは口に入れて味わっていたが、ぎゅっと眉間が歪んだ。口元を曲げ、渋い顔になる。

「…苦ぁい」

「あらホント、苦いわ。これって、キイロニガイチゴのジャム?」

ポーラは味わうことなく、一度にジャムを飲み下す。そうだ、とフィフィリアンヌは頷く。

「スプーン一杯程度なら鎮痛薬だが、それ以上喰えば睡眠薬となる。食い過ぎるな、眠くなるぞ」

「ていうか、スプーン一杯以上は喰えないよ、これ」

ジャムの付いたスプーンをくわえ、ウェンディは顔をしかめた。余程苦かったのか、声が落ちている。
フィフィリアンヌには、三人の反応が意外に思えた。自分にとっては、あまり苦くない。

「私は、それほど苦いとは思わんが。むしろ甘過ぎると思う」

「フィフィリアンヌ、味覚がずれてんじゃないのか?」

ウェンディは呆れ気味に、フィフィリアンヌに言った。フィフィリアンヌは、ぎゅっとジャム瓶の蓋を閉める。

「良く言われる」

「でも、ちょっと意外かも」

紅茶でジャムを流し込んでから、フレイヤは笑う。屈託のない、少女らしい親しげな笑顔だった。

「ハーフドラゴンっていうから、どれだけ世を儚んでるかと思ったらそうでもないし」

「そうそう。普通であれば、こういう混血の人って両方から蔑まれたりしているせいで屈折してるもんよね」

一般的にはさ、と付け加えてポーラは頬杖を付く。しなやかな銀髪が、つやりと輝く。

「それか、悲劇の主人公を気取っちゃってるとかね。そういうのじゃないのって、珍しいかもねー」

「うん、あたしもそれは思った。かといってドラゴンに敵意があるわけじゃなし、人間が嫌いってふうでもないし」

二人の言葉に、ウェンディは同意する。フィフィリアンヌは、三人から目を外した。

「両者に客がいるのだ。嫌っていては金が稼げん」

それだけ言って、フィフィリアンヌは残った紅茶を飲み干した。じわりとした苦みが、香りと甘みの間から滲む。
三人はフィフィリアンヌの職業を知っているのか、納得したようだった。そしてまた、雑談に戻った。
彼女達の高い声を聞き流しながら、広間に飾られた絵画を見上げた。神々しく、美しい、竜女神の横顔だ。
最初の竜である銀竜に手を差し伸べ、優しく愛おしげに微笑んでいる。その表情には、覚えがあった。
六十四年前、父親の葬儀で再会したときに見た、母親の表情だ。女神の如く、慈愛に満ちた笑みをしていた。
フィフィリアンヌは無意識に、左耳のピアスに触れた。滑らかな金属に指が触れ、冷たさが感じられる。
これを渡してくれたときだけ、彼女は母親だった。あの時ばかりは、あの人は自分を愛しているのだと思った。
だが以降、母の顔を見せてくれることはなかった。必要な時以外には会わないし、会っても嫌味しか言わない。
やはり、あの人は自分を愛してはいないのだ。フィフィリアンヌは、ピアスから指を離し、固く握り締める。
愛されずともいい。愛してくれるはずがない。アンジェリーナとはそういう女だ、と解っているはずだ。
なのにやはり、どこかで求めてしまう。父親の与えてくれた愛情と同じものを、彼女に望んでしまう。
悔しいとも憎らしいともつかない、やりづらい感覚が胸に湧く。それは、鈍い痛みを伴っていた。
キイロニガイチゴのジャムは頭痛を静めてはくれたが、この痛みだけは、弱めることすらしなかった。
開け放たれた広間の窓から、さあ、と弱い風が流れ込む。中庭から、花々の香りが漂ってきた。
セイラの歌声は、いつのまにか止んでいた。




更に翌日。
夕暮れ時に、バロニスらは竜王都に到着した。
薄暗くなった街外れを、慎重に歩いていた。歩調を揃え、辺りの様子を窺いながら、戦士達は進んでいた。
竜王都への侵入は、至って簡単だった。山々の道は険しかったが、グレイスの言う通り、水源が竜王都だった。
バロニスは冒険心による高揚感を強く感じながら、人気のない家々を見回した。竜どころか、獣の気配もない。
多少、がっかりした。ここに至るまでの道のりも、魔物はそう多く現れなかったし、戦闘にもならなかった。
これじゃあ、ちっとも冒険らしくないじゃないか。バロニスは、なんだかつまらない気分になった。
竜王都を囲む山々が防御壁らしいが、別に辿り着けないこともない。山道も、歩けばなんのことはない。
険しいといえば確かに険しかったが、それは大軍で行軍する場合だ。数名だけであれば、普通に通れてしまう。
幼い頃に何度も読んだ英雄譚では、勇者は魔王の城に向かいながら、様々な罠や強敵を打ち倒していった。
だが、現実では何も起きない。起きないどころか、平和すぎる道のりが、つまらなくて仕方なかった。
後ろを見ると、四人も似たようなものなのか、覇気がない。歩き通しで疲れてしまった、という顔だ。
せめて、一回でも戦闘があれば士気が戻るのに。そう思いながら、バロニスは家々の間を普通に歩いていった。
どの家もありきたりの民家で、ドラゴンが暮らしているようには見えない。想像していたものとは、大分違う。
洞窟の奧にドラゴンが潜み、口を開けて待ち構えている。強い魔物が、事ある事に現れる。だとばかり思っていた。
シルフィーナの仇を討つのは大事だが、それ以前に、バロニスは冒険をしたかった。それが、一番の目的だ。
あまりにも人の気配がないので、ここが竜王都なのか、それすらも疑わしく思えるようになってきた。
商店街らしき通りを歩いていると、ふと、明るい場所が見えた。あ、とランドが少し嬉しそうな声を発した。
この盆地の中央にある湖の真ん中に、城らしき影があった。恐ろしく巨大で、要塞のように塀で囲まれている。
そこだけ、やけに煌々と明るかった。塀の中も外もその手前の橋も、かがり火が焚かれているようだった。
青白い月明かりとほの赤いかがり火に照らされた城が、城のある島を囲む水面に、はっきりと映り込んでいた。
きっと、あれが魔王の城なんだ。バロニスはそう直感し、嬉しくなった。あそこに行けば、戦いがある。
彼は、その嬉しさをなんとか押し込めた。シルフィーナの仇討ち、という手前、浮かれてはいけない。
バロニスが足を止めると、仲間達も足を止めた。表情を引き締めてから、振り返る。

「あそこが、竜王城に違いない。戦いになるぞ、皆」

「でも、どうして街に誰もいないの?」 

不思議そうに、エリスティーンが周囲を見回す。重苦しい口調で、ゼファードが答えた。

「大方、あの城で私達を待ち受けているのでしょう。悪役とは、得てしてそういうものです」

「舐められたもんだなぁ」

つまらなさそうに、ナヴァロがぼやいた。その手前で、ランドがむくれる。

「所詮は人間ー、ってかー?」

「フィフィリアンヌ・ドラグーンがどこにいるかは解らん。だが、戦って戦って探し出し、打ち倒してみせる!」

拳を握り、バロニスは覇気のある声を上げた。無人の市街地に、その声はやたらと良く響いた。
エリスティーンは金の杖を掲げ、胸を張った。自信に溢れた笑顔になり、高らかに宣言する。

「どんな相手だって、倒してみせるわ! それがシルフィーナの、いえ、世界のためだもの!」

「いつか、ドラゴンは世界を滅ぼす。だから我々が、打ち倒していかねばならないのです」

巨大な城を見据え、ゼファードは語気を強める。ナヴァロは、担いでいた斧を足元に下ろした。

「ああ。この世界が誰の世界か、ちゃんと示さねぇといけねぇんだ」

五人は顔を見合わせ、頷き合う。仲間達の真剣な目を見、バロニスは更に高揚感を感じた。
これでこそ、だ。フィフィリアンヌ・ドラグーンや他のドラゴンを倒し、帝国へ凱旋する自分の姿が浮かんだ。
昔から夢見ていた、勇者になれるのだ。竜も魔も恐れぬ、世界で一番強い戦士になることが出来るのだ。
バロニス達は、竜王城へ向かった。それぞれ、己が主役の英雄譚を思い描きながら、足早に進む。
竜王城に近付くに連れて澄んだ歌声が聞こえてきたが、彼らの耳には入らなかった。




竜王城では、竜神祭が行われていた。
開け放たれた城門の奧、広大な広場には、群衆が集まっていた。皆、揃って、四つのやぐらを見上げている。
北のやぐらには、北の竜巫女。ゆるやかに波打つ銀髪をなびかせ、ポーラが優しい笑みを振りまいている。
東のやぐらには、東の竜巫女。藍色の短い髪に飾りを付けられたウェンディが、緊張した面持ちで立っていた。
西のやぐらには、西の竜巫女。あまりやる気のない表情で、フィフィリアンヌが眼下の群衆を見下ろしている。
南のやぐらには、南の竜巫女。浮かれ切った様子のフレイヤが、先程からくるくると回り、早くも踊っていた。
四つのやぐらの足元には、竜巫女と同じ色をした竜騎士が立っていた。背筋を伸ばし、剣を掲げている。
太鼓が打ち鳴らされ、弦楽器が弾かれ、空気を震わせている。それは、城門付近にいても伝わってきた。
ギルディオスは竜王城内には入らず、門の間から祭りを見ていた。セイラの番をする、という意味もあった。
高いやぐらの上に立つフィフィリアンヌは、近くのかがり火に照らされているせいで、頬が赤く染まっていた。
金糸の刺繍がされた薄緑色の衣装は、女神の衣服を模しているようだ。下半身は、長いスカートに包まれている。
セイラは、ずっと歌い続けていた。やぐらに登る前に、フィフィリアンヌがセイラに教えていったのだ。
東方の言葉に訳した、竜女神を称える歌の歌詞を。女達の合唱隊が歌うより前に、彼は歌っていた。
といっても、普段より声量は抑えてある。演奏に馴染む程度にしており、決して大きくはなかった。
ギルディオスは欄干に座り、橋の上にしゃがむセイラを見上げた。金色の単眼は、無心に門内を見つめている。

「楽しいか、セイラ」

「楽シイ」

歌を中断し、セイラは甲冑を見下ろした。以前より、ぎこちなさの抜けた笑顔が浮かぶ。
ギルディオスはそうか、と笑った。欄干に置いたフラスコが、ごとり、と前進した。

「神事が終われば、次は城内での宴となるのである。我が輩は、どちらも好きであるがね」

「オレも体がありゃあなー。宴が始まる前に、帰っちまうかなぁ」

残念そうな声を出し、ギルディオスは肩を落とす。伯爵は球形の中を、うにゅりと巡る。

「これはこれは。なんとも貴君らしからぬ行動であるな」

「喰えも飲めもしねぇのに、宴会にいたってどうしようもねぇだろ。生殺しなんだよ、そういうの」

肩を竦め、ギルディオスは両手を上向ける。付き合いが悪いのである、と伯爵は面白くなさそうに言った。
セイラは、じっと竜神祭を見つめていた。演奏が徐々に激しくなり、太鼓や弦楽器の音も大きくなってきた。
腹の底まで伝わってくる音楽が、セイレーンの血を呼び起こす。なんともいえない高揚感が、妙に嬉しかった。
笛の音が混じり、低音が中心だった音楽に高音が混じる。セイラは両側頭部のヒレを、目一杯広げた。
その下の鼓膜に、直に音の震動が伝わってきた。心地良い旋律に、竜族の女達の声が合わさる。
単調のようでいて複雑な音楽が、巫女達を踊らせ始めた。やぐらの上に立つ四人は、くるりと体を回した。
ひらひらとした巫女の衣装がなびき、一瞬、薄い影を作る。しゃりん、と彼女らが付ける金の腕輪が擦れ、鳴った。
竜女神の像は、炎を受けて眩しかった。セイラは明るさに目を細めていたが、フィフィリアンヌを見上げる。
歌に合わせた動きで、フィフィリアンヌは回っている。速度を緩めながら体を捻り、とん、と片足を床に付ける。
群衆へ背を向け、ばさりと翼を広げた。新緑の翼を高々と掲げると、夜空を見上げ、両腕をすいっと伸ばす。
しゃらん、と腕輪が滑り落ちた。フィフィリアンヌの小さな手は、虚空を掴もうとしているように見えた。
そのまま、西の竜巫女は遅い動きで回った。伸ばしていた腕をゆったりと下ろしながら、群衆へ向く。
翼をぐいっと持ち上げ、両手で胸を押さえて身を屈めた。俯いたため、彼女の表情は見えなくなる。


七つの夜は祈りの夜。世界を見下ろす、真円の黄金。

現れたるは我らの女神。祈りを受け入れ、願いを飲んだ慈愛の母。

七つの思いと限りのない愛。その身に宿し、舞い降りたるは聖なる母。

神々の目の届かぬ闇は。どこでもないが、どこでもある地上そのもの。

七つの心は七つの色に。七つの色は一つとなりて、竜の都を成し上げる。

ああ女神よ竜の女神よ。始祖の愛よ永遠に、始祖の心よ無限にあれ。

等しき翼を。等しき瞳を。等しき愛を。等しき光を。等しき闇を。等しき希望を。

そして、竜族に等しき加護を。


しゃらり、と彼女の腕輪が擦れる。セイラには、その金属音がやたらと明確に聞こえていた。
視線の先のフィフィリアンヌは、たまに歌の節からずれることはあるが、それでもちゃんと踊っていた。
ふと、セイラは竜王城を見上げた。本城の西側にある、高い塔の窓が開け放たれている。
窓に腕を乗せ、アンジェリーナが見下ろしている。とても楽しげに、とても嬉しそうに、優しく笑んでいた。
目線を辿ると、その先にはフィフィリアンヌがいた。だがフィフィリアンヌは、踊りに集中していて気付いていない。
セイラは、良く似た顔の親子を交互に見た。なぜアンジェリーナが下りてこないのか、良く解らなかった。
アンジェリーナは、フィフィリアンヌの踊りを嬉しそうに見ている。ならば、下りてきた方が良く見えるのではないか。
少なくとも、セイラにはそう思えた。アンジェリーナは母親であるから、近付いたところで、支障はないはずだ。
離れていなければいけない理由など、あるのだろうか。セイラは不思議でならず、首を捻った。

「アンジェ、凄ク、不思議」

「アンジェリーナがいるのか?」

ギルディオスの問いに、セイラは頷いた。大きな手を挙げて、西の塔の窓を指し示した。
その先を凝視したギルディオスは、アンジェリーナの姿を見つけた。一心に、竜神祭を見つめている。
城門の向こうにいる三人には、気付いていないようだった。ギルディオスは、その表情に妙な気がしていた。
微笑んでいる。優しく愛情に満ちた、穏やかな笑みを浮かべている。昨日会ったときとは、まるで別人だ。
だが、あれは間違いなくアンジェリーナだ。ギルディオスに注ぎ込まれた竜族の力が、感覚的に理解させてくれた。
この落差は、一体何なのだろうか。そして、なぜアンジェリーナは、娘にこの顔を見せてやらないのか。
何か、あるのだ。何かしらの理由がなければ、母親が母親らしい態度をしないはずがない。
しかし、ギルディオスにはさっぱり予想が付かなかった。フィフィリアンヌが、母の話をしないせいもあるのだが。
浅からぬ事情があるのは、確かだった。その事情は、アンジェリーナを母とさせないほどのことらしい。
愛おしげな目を娘に注ぐアンジェリーナを、ギルディオスは見つめていた。すると、伯爵が呟いた。

「母上どのも、あれはあれで不憫なのである」

娘を見つめる母の笑みは、どこか、悲しげにも見えた。

「数十年ほど前に一度、母上どのが我が輩に話してくれたのだ。フィフィリアンヌに、母らしく接しない理由をな」

かがり火の炎を映し込んだスライムが、穏やかに語る。

「母上どのは、生家であるドラグーン家と決別することと引き替えに、フィフィリアンヌの父親であるロバートどのとの婚礼を果たしたのである。母上どのは、その頃から既に竜王都の守護魔導師をしていたのであるが、さすがに竜王への忠誠までは切ることが出来なかった。愛する夫と娘、故郷への思いと竜王への忠誠の間で、母上どのは随分と迷っていたらしい。決断を渋る母上どのに業を煮やした竜王家は、幼いフィフィリアンヌを盾にした」

ぱちり、と薪が爆ぜた。伯爵は続ける。

「娘を生かしたくば、竜王への忠誠を永久にせよ。貴君が西を守り続けるならば、娘の命も守られよう」

伯爵の声には抑揚がなく、フィフィリアンヌのようだった。

「そして、娘を長らえたくば、娘と会ってはならぬ。それが思い遣りであり、これも一つの愛情なのである、とな」

ギルディオスは、アンジェリーナの笑みから目が離せなかった。彼女も彼女で、辛い立場に立っていたのだ。
交われない、交わらない世界の間に立ったために、苦しみを余儀なくされた。人でない、竜族であるが故に。
間違いなく、アンジェリーナはフィフィリアンヌを愛している。愛しているが故に、恐らくは。

「母上どのは、決断をした。竜王都に残り、西の守護魔導師を続けることをな」

伯爵は、平たく言った。それは、ギルディオスの予想した通りのことだった。
やはり、親であればそう思うのだ。ギルディオスには、アンジェリーナの気持ちが痛いほど解った。
娘を死なせてしまうよりは、会えなくなるほうが余程マシだ。苦しませると解っていても、生きていて欲しいのだ。
アンジェリーナの高飛車な態度は、元来の性格もあるのだろうが、弱みを見せないための盾に違いない。
ふと、ギルディオスは思った。フィフィリアンヌは、このことを知っているのだろうか。
それを伯爵に尋ねる前に、伯爵は答えていた。ギルディオスの問うことなど、大体が予想出来る。

「母上どのは、このことをフィフィリアンヌには伝えてはいない。我が輩は、伝えるべきだと言ってみた」

だが、と伯爵は言葉を句切った。

「母上どのは、こう答えた。今までずっと悪い母親だったんだから、これからもずっと、悪い母親でいいのよ、とな」

ギルディオスは、言うべき言葉が思い当たらなかった。何を言っても、何にもならないと思った。
異種族の壁というものは、予想以上に厚く高いもののようだ。歴史と因縁、そして摩擦が造り上げた壁だ。
どんなに力があろうとも、簡単には壊せない。相容れない価値観が相容れることがあれば別だが、有り得ない。
どちらの考えも、ギルディオスには少し解った。人は竜になれないように、竜も人にはなれないのだ。
愛し合うことが出来ても、交わることが出来ても、所詮は別の生き物。同じ世界で生きることは、難しすぎる。
竜王都は、アンジェリーナとフィフィリアンヌを引き離すことで、どちらでもあるフィフィリアンヌに道を与えた。
人になるか、竜になるか。結局、フィフィリアンヌ自身は、そのどちらでもある生き方をしているが。
アンジェリーナの苦しみが消えることはないだろうが、それでも、結果はそれなりのものとなっている。
正しくはないが、間違ってもいない。間違っていると感じるのは自分が人間だからだ、とギルディオスは感じた。
ギルディオスはアンジェリーナから目を外し、竜女神への舞いを続けるフィフィリアンヌを見上げた。
そしてそれを、間違っているか間違っていないか決めるのは、他でもない彼女自身だ。
だが、彼女が真実を知る日は、まだまだ遠そうだ。判断をするためには、真実を知っていなければならない。
真実を知る日が近かきゃいいな、とギルディオスは思った。少女は、無表情に踊り続けている。
セイラはフィフィリアンヌとアンジェリーナを見つめていたが、目を伏せた。背中が、じくりと疼くような感覚があった。
忘れたい記憶が、徐々に蘇り始めた。覚えのある感覚が体にあり、消えた呪いが残っているような気がした。
近い。あれが、近付いてくる。セイラは嫌で嫌で仕方なかったが、感覚を研ぎ澄ませ、彼らの気配を感じ取った。
確実に、あれはこの近くにいる。血の匂いがする、魔物の嘆きが聞こえる、死者の歌が冥土から響いている。
また、あれは魔物を殺めた。また、あれは血を浴びた。しかもそれは、様々な種族の魔物達だ。
セイラの中に流れている、数種類の血が感じさせてくれた。悲しくて悲しくて、苦しくて泣きたくなってきた。
それをなんとか押さえて、セイラは橋の奧へ振り返った。闇に沈む街から、あれが歩いてやってくる。
満月の青白い明かりを浴びた、あれがいた。セイラは目を凝らして、その姿を確認した。
間違いない。あれだ。自分に呪いを掛けて戦いを強要した、殺戮と破壊を好む、戦闘に長けた人間達だ。
セイラは、ちらりと竜神祭へ目をやった。歌と共に踊り続けるフィフィリアンヌは、とても美しい。
大好きな彼女を、何よりも大切な彼女を、あんな連中に会わせてはいけない。そう思い、セイラは立ち上がる。
立ち上がった異形を、ギルディオスが見上げてきた。月光と炎で、銀色は微妙な色合いになっている。

「どうした、セイラ」

「チョット、行ッテ、クル。スグ、戻ル」

向こう岸を指し、セイラは歩き出した。ギルディオスは怪訝そうにしていたが、言及はしなかった。
彼は、解っているのかもしれない。その心遣いを嬉しく思いながら、セイラは石組みの橋を歩いていった。
冷たく硬い橋を、ぺたりぺたりと巨体が歩いていく。煌々と輝いている満月が、闇を弱め、影まで作っている。
竜王城の島から対岸へ続く橋を進みながら、セイラは歌っていた。清々しい気持ちで、旋律を生み出す。
七つの夜は祈りの夜、世界を見下ろす真円の黄金。
現れたるは我らの女神。祈りを受け入れ、願いを飲んだ慈愛の母。
途中、セイラは一度、竜王城へ振り向いた。祭りの喧噪は大分遠ざかって、女達の歌声も小さくなる。
ここまで来れば、竜族達の歌の邪魔はしないだろう。そう思い、セイラは喉を震わせて声を張り上げた。
七つの思いと限りのない愛。その身に宿し、舞い降りたるは聖なる母。
神々の目の届かぬ闇は。どこでもないが、どこでもある地上そのもの。
橋に足を踏み入れた彼らは、聞き慣れぬ歌声に、足を止めていた。武器を構え、警戒しているようだ。
セイラはそれを悲しく思いながら、歌う。七つの心は七つの色に。七つの色は一つとなりて、竜の都を成し上げる。
手前の騎士が、一歩踏み出た。良く磨かれた鋼鉄製の剣は、満月を映し、ぺかりと光った。

「…お前は」

騎士は、かつての主の一人、バロニスだった。数週間ぶりに会ったが、少しも変わっていなかった。
他の人間達も同様だった。その体から滲む血の匂いが濃くなっていること以外は、まるで変化した様子がない。
ただ変わっているところがあるとすれば、一人足りないことだ。もう一人の女魔導師、シルフィーナがいない。
セイラは、歌を続けた。無心となって歌いながら、彼らに痛め付けられた記憶がありありと蘇ってきた。
戦いたくないのに戦いを強要されて、戦わなければ斬り付けられる。戦ったとしても、手緩いと斬り付けられる。
魔物らしくない魔物、高い値段で買ったのに弱い魔物、役に立たない契約獣、出来損ないの醜い化け物。
涙が出てきた。セイラは過去に罵られた言葉を思い起こしてしまい、歌声を少し詰まらせてしまった。
嗚咽をなんとか堪え、バロニス達を見下ろした。歩み出てきた女魔導師、エリスティーンが叫ぶ。

「そこをどきなさい! あんたがなんでここにいるのか知らないけど、邪魔をしないで!」

セイラは、首を横に振る。ここをどいたら、祭りが乱れてしまう。
エリスティーンは苛立っていて、甲高い声を上げた。

「ああもう、なんで言うことを聞かないのよ! どけったらどけ! 私の命令が聞こえないの!?」

聞こえている。だけど、聞き入れたくない。
それにもう、この女の命令は聞く必要はない。今の主は彼女であり、この女ではない。
セイラはフィフィリアンヌに聞こえるよう、一層声を高めた。ああ女神よ竜の女神よ。始祖の愛を永遠に。

「その変な歌もやめて! 黙りなさいよ、黙らないと斬るわよ!」

エリスティーンは、杖を掲げた。大きな魔導鉱石がちかりと輝いたが、セイラにはそれが安っぽく見えた。
セイラは歌い続けた。たとえ歌うのをやめたところで、どうせ魔法で斬られることは決まっているのだから。
等しき翼を、等しき瞳を、等しき愛を、等しき光を、等しき闇を、等しき希望を。そして、竜族に等しき加護を。
ばしり、と肩に鋭い衝撃と共に痛みが走る。風で作られた刃が皮膚を切り裂き、熱い飛沫を迸らせた。
セイラは後退ったが、歌は止めない。歌うのを止めてしまったら、ギルディオスが気付く。
ギルディオスが気付けば、フィフィリアンヌが気付く。そうなってしまったら、彼女に心配を掛けてしまう。
戦いになる前に、戦いをやめさせなければ。彼らの心へ届くことを願って、セイラは喉を震わせる。
だが、それはエリスティーンを逆上させるだけだった。清らかな声は神経を逆撫で、苛立ちを増させた。
真空の刃が、一度にセイラへ襲い掛かる。腕と脇腹、翼と尾、足に傷口がぱっくりと開いた。
魔法の使い方は、そうじゃない。彼女のように、もっといい使い方があるはずなのに。
セイラはそう言いたくなったが、言えなかった。痛みと悲鳴を隠すため、歌い続けなければならない。
風と彼らに押され、セイラは後退るしかなかった。あまり歩いていくと、竜王城に辿り着いてしまう。
セイラは、後方を覗き見た。欄干に腰掛けているギルディオスは、腕を組んで俯いている。
ああ、やはり解っているのだ。自分の意思を無駄にするまいと、ギルディオスは戦わずにいてくれているのだ。
それが、とても嬉しかった。自分のことを解ってくれる人が、この世にいるのはとても幸せなことだ。
目の前のエリスティーンは、苛立ちに興奮して何か喚いていた。聞こえるはずの声が、聞こえてこない。
何度も真空が間近を抜けたせいで、鼓膜がおかしくなったらしい。セイラは、それが残念だった。
竜族達の音楽が、歌が聞こえない。彼女の腕輪が鳴る音が、あの綺麗な音を聴くことが出来ないなんて。
ずしゃり、ずしゃり、と押されながら歩いて、十数歩後退した。セイラは後方に明かりを感じ、足を止めた。
ぼたぼたと血が足元に落ち、黒い水溜まりを作っていた。鉄臭さが漂い、全身の傷が鋭く痛んでいる。
息が荒くなったせいで、歌が掠れた。セイラは声を張り上げようとしたが、腹に衝撃がやってきた。
同時に、じりっと血と皮膚が焼けた。炎の固まりに胸と腹を抉られたセイラは、ずさりと押されてしまった。
ギルディオスと伯爵の脇を通り過ぎ、城門の下を抜けてしまった。血と炎が地面に落ち、赤黒く汚れる。
竜族達は、歌を止めていた。音楽も止み、祭りは中断している。セイラから落ちる血の水音が、やけに響いた。
しんとした、異様な静寂だった。セイラは肩を上下させていたが、歌おうとした。


「黙れ、化け物!」


エリスティーンは苛立った声で呪文を喚き立て、魔法を生み出した。セイラの腹に、雷撃が打ち込まれる。
ぱしり、と閃光が空中に登った。ぴりぴりと空気を揺らしながら、青白い電流は曲がり、消えた。
セイラは、とうとう膝を付いた。血が流れすぎたせいで、体が言うことを聞かず、視界も明瞭でない。
単眼を動かして、西のやぐらを見上げた。青い顔をしたフィフィリアンヌが、肩を震わせ、目を見開いている。
ああ、心配してくれているのだ。セイラはそれが物凄く嬉しくて、笑った。

異形の歌は、止まった。

ぐらりと巨体は傾いて、どん、と肩から地面に落ちた。徐々に背中が下になり、ずん、と仰向けに倒れ込んだ。
赤紫の肌を赤黒く染めた異形は、己の血溜まりに沈んでいる。かがり火が、彼の影を消していた。
やぐらの上で、フィフィリアンヌはがたがたと震える肩を抱いていた。死んでしまう、あれではセイラが。
魔法を掛けなければ。足りない血を足してやらなければ、父上と同じように、治してやらなくては。
また、大事な人が死んでしまう。

それだけは、いけない。

フィフィリアンヌは、震える拳を握り締めた。涙の滲む目元が強まり、奥歯を噛み締める。
倒れたまま起き上がらない友人の向こうに、城門の手前に、見慣れぬ人間達がいた。
あれが、セイラを。あれが、大好きな彼を。フィフィリアンヌは、沸き起こる強い感情を抑え切れなくなった。



「殺してやる」





 



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