ドラゴンは笑わない




遠き日の思い出



グレイスは、ぼんやりしていた。


宿屋の窓から見下ろす街は、人通りも少なくひっそりとしている。東王都に近い街だが、田舎は田舎だ。
竜王都から出てきたはいいものの、それからは暇だった。帝国に行くためには、魔力を回復させなくてはならない。
空間移動魔法は、思いの外魔力を消費してしまう。竜王都からこの街に来るまでで、大分使ってしまった。
帝国まではかなりの距離があるので、それ相応の魔力が必要だ。その量は、竜王都と東王都間の比ではない。
そういった理由で、グレイスは休養を取らざるを得なかった。完全に回復させるまで、二日は掛かりそうだった。
ギルディオスの手配書を書いたり、懸賞金の出資者を探す用事もあったのだが、それは当に終わっている。
懸賞金の出資者は、バロニスの生家であるグランディア家に掛け合ったところ、かなり簡単に出してくれた。
バロニスは曲がりなりにも騎士であったし、三男とはいえ跡取り候補でもあった。なので、さすがに扱いはいい。
エリスティーンの家であるベルシャ家も、それなりに出してくれた。この女も、一応は貴族だったのだ。
両者が出してくれた懸賞金は、合わせて金貨一千五百枚である。悪くない、というか、相当な賞金首である。
ギルディオスが一気に大悪党になったような気がして、グレイスとしては楽しくて仕方なかった。
だが、彼の手配が始まるのは一週間後だ。帝国に行けない以前に、手配書が刷り上がっていないからだ。
レベッカが写実的に描いた手配書の原画が、テーブルに投げてあった。グレイスは、紙の端をつまむ。

「やること、終わっちゃったなぁ」

「終わっちゃいましたねぇー」

ベッドに座り込み、レベッカは枕を抱えていた。放り出している足を、ぱたぱたさせる。

「でも、どうして御主人様が手配書の絵を描かないんですかぁー?」

「オレ、絵が下手なんだもん」

手配書の原画を、グレイスはレベッカの頭上に放る。ありゃ、とレベッカは片手を伸ばして受け取った。
ぺろりと紙が丸まり、レベッカの目の前に落ちてきた。細部まで緻密に描かれた、ギルディオスの絵だった。
バスタードソードを肩に乗せて、目線は逸らされている。腰に片手を当てた格好で、機嫌は相当悪そうだ。
だがこれは、どこの一場面というわけではない。グレイスの言う通りに、レベッカが描いたものだった。
つまりこの絵は、グレイスの好みを重視して描かれた、彼の理想とするギルディオス・ヴァトラスの姿なのだ。
会うたびに怒っていて、二人の悪行に憤っていることの多い彼が、グレイスを見るのは睨むときだけだ。
なので、絵の中のギルディオスは、まだまともに会話をしている際の姿だ。だから、少しも目線を合わせない。
グレイスによれば、それがいいのだそうだ。大抵の人間はグレイスに会うと、恐れるか逃げるか媚びるか、だけだ。
しかしギルディオスは、そのどれでもない。真っ向から怒りをぶつけ、真っ向から嫌ってきてくれる。
グレイスはそこまで嫌われると、却って気に入ってしまう妙なクセがある。フィフィリアンヌの時もそうだった。
元々屈強な男が好きだった上に、性格も言動も好みだった。というわけで、久方ぶりに惚れてしまったのだ。
好き、と、惚れる、というのは違っている。フィフィリアンヌや伯爵は遊んでやりたいので、好き、ということになる。
ギルディオスは、いじり倒して怒られて、蹴っ飛ばされても追いかけてやりたい。なので、惚れた、ということだ。
グレイスは、竜神祭で彼に怒鳴られたことを思い出した。ふにゃりとだらしなく表情を崩し、声を上擦らせる。

「ああもう好きだなぁ、ギルディオス・ヴァトラス。押し倒したら、ぶん殴られるだろうなぁー」

「御主人様って、痛め付けるのも好きですけど、痛め付けられるのも好きなんですよねぇー」

「うん、大好きぃー」

へらへらと笑いながら、グレイスは身を捩った。三つ編みにされていない黒髪を、くるくると指に絡めた。
照れくさそうに長い髪をひとしきり弄んでいたが、その手を止めた。すくっと立ち上がり、レベッカに近寄る。
そしておもむろに、幼女の両頬を掴む。むくれたグレイスは、柔らかな頬をぐいっと押し上げた。

「何言わせるんだよぉ、もー」

「だぁってぇー」

変な笑顔にされながら、レベッカは、初恋の少女の如く恥じているグレイスを見上げた。

「ごひゅじんはま、うれひほうなんらおのー」

「うん、まぁ、久々に嬉しくて楽しいけどさぁ。でもだからって、言わせることねぇだろぉ」

「ごひゅじんはまがいったらけえふー」

「あー、言ったなぁー!」

グレイスはレベッカの頬から手を放し、頭の両脇に結った髪を掴み取った。それを、横へ引っ張っていく。
縦に巻かれていた極彩色の髪が、びろびろと面白いように伸びていった。グレイスは、両手を目一杯広げた。
腕の限界まで引いていたが、ぱっと手を放した。すると、途端に髪は元に戻り、レベッカの両側頭部で上下する。
びよんびよんと動いていた髪を押さえ、レベッカは頬を張る。上目に、気恥ずかしげな顔の主を睨む。

「何するんですかぁー、もー」

「だって、レベッカが黙ってくれねぇからさぁ」

顔を逸らしたグレイスの頬は、火照っていた。レベッカは濃い桃色の髪をくるくると巻き、元の形に戻す。

「でも、御主人様が恋に落ちるなんてー、ロザンナちゃん以来ですよねー」

「そういや、そうだな」

急に、グレイスは神妙な顔になった。レベッカの隣に座り、足を組んで頬杖を付く。

「どれくらい、前だっけ?」

「んーとぉ、百五十年と少し前ぐらいですねー」

「そんなにもなっちまうんだなぁ…」

遠い目をして、グレイスは懐かしげに呟いた。ですねぇー、とレベッカが相槌を打ったが、彼は答えなかった。
丸メガネの奧で、人の良さそうな目が伏せられる。灰色の瞳は外を見ていたが、映してはいなかった。
グレイスは、彼女のことを久々に思い出した。忘れていたわけではないし、忘れようなどとは思わない。
初めて、死んでほしくないと思った少女だった。死んだ後に、無性に寂しくて悲しくなったことも覚えている。
開け放した窓から弱い風が入り、長い髪を揺らしていった。この髪を三つ編みにしたのも、そういえば彼女だった。
グレイスは、徐々に記憶を呼び起こした。百五十年以上前に、今住んでいる城を手に入れたときのことを。
思い出してみれば、泣いたのはあれが最後だった。




百五十年程前、グレイスはある城の前に立っていた。
灰色の高い城壁に囲まれていて、深い堀には跳ね橋が下ろされている。守衛の兵士が、両脇で固めていた。
王都から離れた小高い丘にそびえており、重厚な雰囲気を漂わせていた。近頃造られた、新しい城だった。
城主は、名のある貴族の一人だ。再婚と同時に建設を始め、半年前に完成した。三人家族の、広大な家である。
グレイスは、この家の病弱な十一歳の娘を診るための医者としてやってきた。勿論、それは嘘なのだが。
この城に赴く理由は、数日前、急にこの城が気に入って手に入れたくなったからである。一目見て、惚れ込んだ。
間近に見ると、一層欲しくなってきた。グレイスは中央の居館を見上げ、ほう、と感嘆したように息を漏らす。
戦闘用の砦や要塞ほどのいかつさはないが、貴族の屋敷ほど豪華ではない。その半端さが、また良かった。
手に入れた後、どうしようかと考えを巡らせながら、意気揚々と跳ね橋へ歩いていった。


城主の妻に挨拶したあとに執事に案内されて、グレイスは一人娘の部屋に通された。
重たい扉が開き切られ、中が見える。大きな天蓋付きのベッドには、薄いカーテンが掛けられていた。
そのベッドに傍らにいたメイドが、グレイスらに気付いて立ち上がった。グレイスは、メイドへ軽く会釈をした。
部屋は、全体的に暖色で彩られていた。柔らかな色のカーテンが窓に掛けられ、至るところに花が生けてある。
花の香りに混じって、甘く柔らかな少女の匂いがした。グレイスはメイドに促されるまま、ベッドに近付く。
グレイスが天蓋のカーテンを開けようとすると、鋭い声が飛んだ。苛立った、少女の声だった。

「出て行って」

グレイスは手を止め、メイドと執事に向いた。二人は困ったように、顔を見合わせている。

「とにかく出て行って、帰って!」

びくりと、メイドが怯えたように肩を震わせた。心配げな執事が近寄ってきたのを、グレイスは制止した。
小さく、オレがなんとかします、と言うと執事は仕方なさそうに下がった。外へ出るように言うと、二人は出た。
扉が閉められると、カーテンの中からため息が聞こえた。グレイスは薄いカーテンに触れ、優しい声を作る。

「ロザンナ様、そう怒らずに」

内側から、しゃっとカーテンが引かれた。ぬいぐるみを抱き締めた少女が、グレイスを見上げている。
大きく愛嬌のある目は、瞳が赤かった。雪のように白く、しなやかな髪は腰の上程まで伸びている。
ふんわりとした服から出ている手足も血色が悪く、腺病質そうだ。頼りない首は、今にも折れそうに見えた。
端正な顔立ちをした、美しい少女だった。怒鳴ったことで頬が上気したらしく、薄紅色に染まっている。
花びらのような唇が締められ、細い眉は曲がっている。表情がなければ、出来の良い人形と思っただろう。
白竜族の人間態かと思わせるような、外見だ。だが、白竜族ならば髪は白銀色だし、なにより魔力と気配がある。
しかしこの少女には、何もなかった。魔力どころか雰囲気すら希薄で、生者というより死者に近く思えた。
彼女、ロザンナは白化アルビノである、とグレイスはすぐに察した。人形の少女は、灰色の男に叫ぶ。

「帰って! お母様の差し金なんかと会いたくもないわ!」

「そう言われましてもなぁ。オレはまだ、何の仕事もしておりませんし。前払いなんですよねぇ、これ」

肩を竦め、グレイスは笑ってみせた。ロザンナはクマのぬいぐるみを固く胸に抱き、唸る。

「どうせ私をドラゴンとかなんだとか言って、逃げちゃうんでしょ。いっつもそうよ、医者なんて」

「そりゃあヤブですなぁ」

素人にはありがちだな、とグレイスは思った。大方、赤い瞳というだけで竜族だと断定してしまったのだろう。
医学に通じていても、魔導に通じていない医者は多い。その逆も然りで、均衡の取れた知識を持つ者は少ない。
ロザンナは突然変異した体であるだけで、病気でも呪いでもないのだ。ましてや、竜族であるはずがない。
グレイスは、人形の少女の境遇を想像した。奇異な外見というだけで、今まで腫れ物扱いされていたのだろう。
捻くれているのも、そのせいに違いない。グレイスは警戒心を緩めさせるため、屈んで目線を合わせた。

「ロザンナ様。オレはあなたが人間であることも解っておりますし、病があれば治すことも叶いますよ」

「別に病気はないのよ。日に当たると肌が焼け過ぎちゃったり、目が赤かったり、髪が白かったり、それくらいよ」

ちらりと、ロザンナはグレイスに目をやった。灰色の瞳と黒髪を、羨ましげに見つめる。

「あなたはいいわね、髪が黒くて。羨ましいわ」

「そうですかねぇ」

グレイスは、首の後ろで一括りにしている髪を持ち上げてみた。そうよ、とロザンナは不満げにする。

「あなた、東の方なの?」

「出身ですか? 母親は王国の出ですがね、父親が東方の出身でして。オレは王国ですよ」

「通りで。この辺りの人間にしちゃ、肌の色が違うと思った」

ロザンナは身を乗り出した。グレイスの胸元の金のペンダントを見ていたが、目線を上げる。

「あなた、医者じゃないでしょ」

「オレは医者ですよ。ロザンナ様、どうしてそう思うんで?」

「薬の匂いがしないんだもの。あなた、魔導師でしょ」

にやりとしたロザンナに、グレイスは首を横に振った。

「当たらずも遠からず、ですな」

「じゃあねぇ…」

上から下まで、ロザンナはグレイスを見回した。これといった特徴のない、どこにでもいるような青年だ。
愛想の良い笑みの浮かぶ目元が、丸メガネの向こうにある。優しげな顔立ちに似合わず、肩幅は割と広かった。
背中の中程まで伸びた長い黒髪を引っ詰めてあり、肩に乗っている。魔法を扱う者は、髪を伸ばす場合が多い。
掴み所がありそうで、まるでない外見をしていた。ロザンナは、半ば当てずっぽうで言ってみた。

「じゃあ、呪術師とか?」

「おや」

言い当てられ、グレイスは目を丸める。思い掛けないことだった。

「ご名答です、ロザンナ様。確かにオレの本職は、他人を呪って殺して金を頂くことですが」

恐れられたら、この部分の記憶を消して別の記憶を作るまでだ。声を上げられたら、口を塞いで眠らせるまでだ。
グレイスは正体をばらすと同時に、少女の反応に合わせる対処法を考えていた。ロザンナは、目を見開く。

「…本当に?」

「ええ、本当ですとも。ですから医者というのは、あなたの言う通り嘘でありまして。オレの、本当の狙いは」

「この城を手に入れること? それとも、私をさらって売り物にしちゃうこと?」

「前者です。後者はさすがにしませんよ、オレにはそういう下劣な趣味はございません。が」

グレイスは、ロザンナを少し上から見下ろした。大きく見開かれた目の下で、小さな唇が薄く開かれている。
言葉に含みを持たせたことで、少女の表情が変わったのが面白かった。興味半分、恐怖半分、といった様子だ。
グレイスはロザンナの細い顎に指を添え、そっと上向けさせる。赤い瞳と、灰色の瞳が向き合う。

「考えてみても、よろしいかもしれませんなぁ」

その目は、恐怖には染まっていなかった。むしろ、期待しているような、弾んだ表情ですらあった。
ひやりとした感触が、グレイスの頬にあった。ロザンナの冷たい指先が、グレイスの頬に触れている。

「いくらで売れると思う?」

「天使の如き微笑みを持つ麗しの少女、とでも銘打って、オレが値を引き上げていけば」

グレイスは、ロザンナの右手を取った。手のひらに、すっぽりと納まってしまうほど小さい。

「一万枚は軽いでしょうなぁ。いや、もっと行けるかもしれませんぜ」

ロザンナは、グレイスをじっと見つめている。グレイスは、何か考えているな、と察した。

「何か、私に願いでもおありでございましょうか?」

「ええ、あるわ」

右手を取られたまま、ロザンナは少し首をかしげた。小さな肩から、さらりと白い髪が滑る。

「私のお願いを聞いてくれたら、なんだってしてあげる。城もあげるし、私もあげてやってもよくってよ」

「それは御大層な。ですが、ロザンナ様はこの家の主ではありませんから、城の所有権までは無理なのでは?」

「だから、聞いてくれたらそれが出来るのよ。あの二人を殺してくれたら、全部が私のものになるんだもの」

ロザンナは、妖しげな笑みを零した。


「お願い。私の両親を殺して」


「報酬はいくらで?」

少女の手の甲を、グレイスは持ち上げた。滑らかな肌の下に、うっすらと静脈が透けている。
ロザンナは、大きなベッドの天蓋を見上げた。薄い布地の白いカーテンが、ベッドと二人を囲んでいる。

「城よ。それでいいでしょ? あなたが欲しがっているんだから、妥当じゃない」

「そりゃあまぁ、そうですがね。ですがロザンナ様」

「どうして、とか聞くのね。まぁいいわ、一応説明してあげる」

グレイスの手を、ロザンナは両手で握り締めた。不機嫌そうに、眉を曲げる。

「お父様は、私を厄介者としか思っていないわ。事実、この城にだってほとんど帰ってこないし、外で女と遊び呆けているのよ。お母様は二人目。本当のお母様はとっくに死んでしまったわ。二人目は、私に取り入ってお父様の心を取り戻そうと必死なのよ。どちらも嫌い。どちらも、さっさと死んでしまえばいいのよ」

「ご愁傷様で」

「ありがとう。それで、聞き入れてくれるの?」

「少しばかり、考えさせて頂けませんかね。いきなり頼まれても、こちらにも準備というものがありまして」

「いいわ。少しくらいなら待てるもの」

ロザンナは目を輝かせて、彼の手を引き寄せる。平らな胸元に、グレイスの手の甲が当てられた。

「絶対よ。絶対、私のお願いを聞いてね!」

「しかしロザンナ様。オレは初対面ですぜ。そんな男を、ここまで信用していいんですかい?」

騙されちまいますぜ、とグレイスは茶化すように笑った。ロザンナはきょとんとしたが、吹き出した。

「そういえばそうだわ。忘れていたわ」

「ありゃまあ」

「だって、あんまりにも理想通りなんだもの。ずうっとずうっと、あなたみたいな人が来るのを待っていたんだもの」

この狭い部屋で、とロザンナは吐き捨てた。膝立ちになると、グレイスに寄る。

「私のお願いを叶えてくれる、魔法使いがここに来るのを。そしたら、本当に来ちゃったんだもの!」

「呪術師ですぜ」

「いいのよ、職業なんてなんだって。ねぇ、あなたの名前はなんていうの? まだ、聞いていなかったわ」

「グレイス・ルーと申します」

「ねぇ、グレイス。私にも、呪いを手伝わせて。あなたにやらせてばかりだと、なんだか悪いわ」

「まだ、やるとは答えておりませんが」

「やるって決まったら、そうさせてね。絶対よ」

ロザンナはグレイスを見つめ、懇願する。グレイスは、真正面から白い少女を眺めてみた。
とてもじゃないが、親殺しを考えているようには見えなかった。無邪気な笑顔が、まだ目元に残っている。
何か、グレイスは相通じるものを感じた。この少女は自分と同じように、悪意と邪心を笑顔に潜めているようだ。
しかも、ロザンナは悪事を楽しみにしているようだった。遊びに行く前のように、声が浮き立っている。

「あの二人が死ぬところ、早く見てみたいんだもの。どうなるかしら、叫ぶのかしら、泣くのかしら」

「呪いの種類にもよりますなぁ。オレとしちゃあ、内側からどばっと行く奴が爽快で好きですが」

「それ、いいなぁ。時間を掛けて病気なんかで殺すよりも、見ていて面白いわ」

「ええ、オレもそう思いますとも」

「一緒ね」

グレイスの手を下ろし、ロザンナは笑った。気の合う友達を見つけたような、親しげなものだった。
共感されたことで、グレイスはいつになく嬉しくなった。宝物を見つけたような、そんな気分にすらなった。
グレイスはロザンナを抱き締めてしまいたくなったが、堪えた。さすがに、そこまで手は出せない。
結局、仕事を受けることになりそうだな。と、グレイスは漠然と思っていた。


居館の居間で、グレイスはロザンナの継母と対面した。
執事が先程のことを話したようで、気難しげに眉を曲げている。揃えられた膝の上で、手が固く組まれていた。
腺病質そうな、若い継母だった。血の繋がりはないということだったが、雰囲気はロザンナに似ていた。
継母は育ちの良さを窺わせる目を上げ、向かいに座るグレイスに向けた。心苦しげで、悲しげな表情をしていた。

「お医者様。あの子が失礼なことを言ったようで、申し訳ありません」

「いやぁ、お気になさらず」

実際、グレイスは気にしてはいなかった。継母は愛想だと思ったのか、申し訳なさそうに笑む。

「驚きましたでしょう? 両親とも普通の人間でしたのに、ロザンナだけが白いのです」

「そういうこともありますよ。突然変異ってやつですな」

香りの良い紅茶を少し飲み、グレイスはティーカップを揺らす。溶け残っていた砂糖が、底から消える。
継母は切なげな眼差しで、床へ目線を落とした。口元に手を当て、情けなさそうに言う。

「せめて、魔法でどうにか出来たらよろしいのでしょうけど。私も主人も、魔法には疎くて」

「魔法で色素や体力を与えたところで、そりゃあ一時しのぎにしか過ぎませんぜ。お勧め出来ませんな」

「ええ、解ってはいます。ですけど私は、ロザンナが不憫に思えて…」

声を落とし、継母は泣くのを堪えているようだった。

「せめて、外で遊ばせてやりたいとは思うのですが、外に出てしまっては体が弱ってしまいますし」

「だからロザンナ様は、ずっと部屋の中へ?」

「ええ。後で熱を出して苦しむのは解っておりますし、ならばいっそ出さない方がいいと思いまして」

「その辺りのことは、ロザンナ様に話したんですか?」

「いえ。あの子も今年で十一になりますし、自分の体のことは、解っているはずですわ。それに、話してしまったら、余計に嫌われてしまうような気がして」

元々好かれていませんもの、と継母は辛そうに洩らした。グレイスは紅茶を飲み干し、若い継母を眺めた。
彼女は彼女なりに、ロザンナを愛しているらしい。少なくとも、ロザンナが言うような計算高さは窺えなかった。
それどころか、娘に気を遣いすぎている。継母である、という気負いも手伝って、そうなっているのだろう。
だがロザンナは、それが鬱陶しくて仕方ないのだ。こいつもよくあることだな、とグレイスは思った。
体の発達が鈍いせいで十一歳にしては幼すぎる外見のロザンナも、れっきとした年頃だ。自我も強くなっている。
己の意思を尊重されないと、怒るのは当然だ。そしてその延長で、継母も父親も嫌ってしまうのは必然だ。
この家族は、愛情が擦れ違っている。グレイスは呪い殺すべきか、珍しく躊躇した。だがすぐに、思い直した。
自分はこの城が欲しい。確実に手に入れたい。欲しいものは奪い取るものだ。だから、手段を選ぶことはない。
己の欲望に、背いてたまるもんか。物悲しげな継母を見ながら、グレイスは内心で笑った。


翌日から、グレイスは城に居着いていた。
ロザンナがいたく気に入ってくれたことで、グレイスは家人に取り入る手間が省けた。それは、少し楽だった。
言いくるめて取り入るのは、簡単に思えて実は面倒なのだ。人が良く頼れる人間を作るのは、多少骨が折れる。
そして、医者という名目をそれらしくするためと、呪いの手筈を教えるため、ロザンナの部屋に入り浸っていた。
ロザンナの部屋は、いつもカーテンが引かれていた。窓の手前の床、分厚い敷物の上に、二人は座っていた。
赤い敷物の上には、グレイスの持ってきた呪いの道具が広げられていた。どれも、初歩的なものだった。
名前を書いて燃やす紙、土で出来た人形、相手に飲ませて呪詛の効きを良くするための薬、魔法陣を書いた布。
ロザンナは満面の笑みで、とても楽しそうに土人形を眺めていた。裏返して、背中を指で撫でる。

「ここに名前を書くの?」

「土を使う場合は、名前だけじゃ不充分なんでね。相手の体の一部、髪とか爪を使うと楽に出来るんだ」

但し、とグレイスはロザンナを指した。指先を、土人形に向ける。

「楽な分、呪詛返しも楽なんだ。相手の体の一部を捨てて、術者のものを入れちまえば、あっさり返ってくる」

「じゃあ、この紙の方は? どうして、使った後に燃やさなきゃならないの?」

ロザンナは、呪文を四方に書かれた紙を取り上げた。グレイスは、中心の空欄を指す。

「一度掛けたら掛けっぱなし、ってやつだ。安全といえば安全だが、それだと術が弱くていけないんだ」

「どうして?」

「紙を燃やす、ってことは自分の力から切り離すってことだ。そうなると、呪う思念も弱まってくる」

ちょん切ってあるからな、とグレイスはハサミで切る仕草をした。

「相手に不幸が訪れろ系の、大したことない呪いにしか有効じゃねぇんだ。今回みたいな、確殺系の強烈なやつには使っちゃいけない。威力が半端で相手に気付かれてしまうし、そうなったら呪いの意味がないだろう?」

「それじゃあ、薬はどうするの?」

ロザンナは、薄黄色の液体が満ちた瓶を取った。淡い色合いの水が揺れ、たぽん、とガラスにぶつかる。
薬とロザンナを見比べていたグレイスは、魔法陣の描いてある布を引き寄せた。とん、と魔法陣の中心を叩く。

「その薬は、補助でしかないんだ。相手の魔力を弱めさせる、いわば毒だ。そうやって弱らせたところに遠隔系の、つまり思念を飛ばす系の呪いを突っ込むんだ。この遠隔系は相手の魔力中枢、まぁ魂みたいなもんだな、その部分に直接響かせることが出来るから、一番強い呪いってことだ。しかしその分、術者の消耗も激しい。魔力と同時に、気力も削って呪いを作っているわけだから、当然だけどな。オレが一番得意な呪詛術は遠隔系だけど、ロザンナ様みたいな初心者には物質系、紙と土人形の方が楽に出来るぜ」

「ねぇ、グレイス」

「なんでしょ、ロザンナ様」

「私、あの変な敬語より、こっちのグレイスの方が好きよ」

「そうかい? まぁ、オレとしてもこっちの方が楽っちゃ楽だしな」

「ねぇ」

不意に、ロザンナは表情を消して真顔になる。

「私はグレイスが好きよ。グレイスは、私のことは好き?」

「オレなんか、好きなのかい?」

思い掛けない言葉に、グレイスは内心で動転した。ええ、とロザンナは微笑む。

「好きよ」

「好きだなんて、初めて言われたなぁ」

グレイスは俯いて、緩んでしまった顔を隠した。照れくささがやりづらく、なんだかくすぐったかった。
今まで、本当に言われたことがなかった。父や母は、趣味のずれた自分を疎んで好いてはくれなかった。
兄や弟達も同様で、いつも遠巻きにされていた。友人も軽い付き合いだけで、誰も深入りしてこなかった。
勉学や魔法学をそれなりに修めてはいたが、真っ当な道を歩まなかったせいで、変な奴だ、と言われ続けた。
血筋に従わずに何になる、他人を呪って楽しいか、人の不幸を食い物にして良く生きられるな、などと。
グレイスとしては、その方が解らなかった。他人の不幸は何よりの娯楽だ、と常日頃から感じていたからだ。
世間から価値観も何もかもずれている、と気付くのには時間は掛からなかった。気付いたら、呪術師となっていた。
悪事に悪事を積み重ね、他人の不幸を糧にして生きてきた。だから、憎まれこそすれ、好かれたことはなかった。
どういう顔をすればいいのか、グレイスは俯いたまま考えていた。すると、とん、と胸に軽い重量が掛かった。
白く長い髪が、腕の間に広がっていた。灰色の服が、細い指先に強く握られている。

「ねぇ、グレイス」

切なげに、ロザンナはグレイスの胸に顔を埋めた。

「私のこと、好き?」

グレイスは、胸苦しさを感じた。ロザンナの体重のせいではなく、内側がやけに苦しくてたまらなかった。
心臓の辺りを掴まれたような、痛みを伴った苦しさだった。求められて嬉しいはずなのに、痛かった。
ロザンナの小さな肩に手を添えてやると、ロザンナはグレイスの服を握る手に力を込め、離れまいとした。
グレイスは、久々に心からの笑顔になっていた。

「ああ、好きだとも」








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