ドラゴンは笑わない




遠き日の思い出



ロザンナに利用されている。グレイスがそう気付くまで、時間は掛からなかった。
子供らしい言動や、可愛らしい微笑み。好きだと言って心を掴み、虜にし、自分の手足としているのだ。
呪いの件もそうだ。結局、グレイスは言いように持ち上げられて、ロザンナはほとんど手を貸さずにいる。
呪詛に充分な量の思念や殺意を与えてはくれたが、それぐらいだ。準備も何もかも、グレイスがしていた。
だがグレイスは、悪い気はしていなかった。好きだ、と言われたことで全てが帳消しになったような気分だった。
グレイスが城に居着いて、三ヶ月が過ぎていた。すっかり住人のようになり、彼女の両親も心を許している。
呪うなら、今が絶好の機会だ。気を許すということは、油断しても大丈夫な相手だと思われている証拠なのだ。
呪詛は、そういった隙から入り込ませるのが一番確実だ。グレイスは、その機会を窺いながら暮らしていた。
ある日の夜、グレイスはいつものようにロザンナの部屋に向かった。扉を叩くと、すぐに応答がある。
扉を開けて入ると、ロザンナはベッドに腰掛けていた。髪を梳いていたようで、手には櫛が握られている。

「こんばんは、グレイス」

「こんばんは、ロザンナ様」

後ろ手に扉を閉め、グレイスはロザンナに近付いた。ロザンナは櫛を置き、傍らのぬいぐるみを抱く。

「もう。様はやめてって言ったじゃないの」

「一応、雇い主だからな。せめてもの礼儀さ」

グレイスはロザンナの隣に座り、足を組む。ロザンナはグレイスの腕に、寄り掛かる。

「呪いの準備は出来上がった?」

「ああ、八割方はね。魔法陣の型も決まったし、注ぎ込む呪念の準備も出来ている。後は」

「掛けるだけ、ってとこ?」

「その通り」

グレイスは、ロザンナの髪を軽く撫でてやった。手触りが薄く、上質な絹糸を梳いているようだった。
心地よさそうに、ロザンナは目を閉じている。自分が利用している相手だから、気も許しているのだろう。
グレイスは飼い犬のような気分になったが、間違っちゃいないな、と思った。言われるまま、動いているのだから。
普段は利用している側なので、利用されるのは妙に新鮮だった。指示を受けて動くのは、割と面白い。
ロザンナはグレイスの袖に、頬を当てた。枕元のランプが、煌々と柔らかな頬を照らしている。

「ねぇ、グレイス」

「うん?」

「私とあなたの呪いで、あの二人はどれだけ苦しむのかしら。楽しみだわ」

声を潜め、含み笑う。半分影に没しているロザンナの顔に浮かんでいる表情は、少女のそれではなかった。
赤い瞳の底には、妖しげな輝きがあった。グレイスは彼女の殺意が本物であるのだと、改めて感じた。
疑っているわけではない。呪いの準備を進めながら、何度も何度も、両親への憎しみを話してくれた。
心配しているのだと嘘を吐いて、城に閉じこめておく。病になるから、と遊ばせてくれない。外道の両親だ、と。
だが、一時の気の迷いだという可能性もあった。事実、呪いの仕事を請け負った後に、断られる場合も多い。
しかしこの表情で、間違いなく殺したいのだ、と確信出来た。強い殺意を滲ませ、ロザンナは呟く。

「私をこんな場所に閉じ込めて、外から遠ざけていた罰よ。苦しんで苦しんで、死ねばいいのよ」

「そんなに、外へ出たいのか?」

「ええ、出たいわ。だけど、出られるのは城の中。しかも夜ばっかりで、つまらないのよ」

ロザンナの唇が尖り、拗ねたような口調になる。グレイスはロザンナを抱き寄せた。

「んじゃ、呪いが終わったら外に連れて行ってやろうじゃないか。日に焼けないように、完全防備でさ」

「本当に?」

「ああ、本当だとも。オレは嘘は吐かないのさ」

と、いうのが嘘なんだが、とグレイスはにやりとする。ロザンナは可笑しげに、くすくす笑った。

「そうよねぇ。最初から嘘を吐いていたあなたが、嘘を吐かないわけがないもの」

少女が肩を震わせるのが、直に伝わってきた。グレイスの腕に、肉の薄い体が押し付けられる。
グレイスは、年甲斐もなく戸惑った。こうして触れ合うのは慣れているはずなのに、いつも緊張する。
見慣れているはずなのに見入ってしまうし、胸苦しさは日々強くなる。これって恋かもなぁ、と思った。
幼女は元々好きだったが、ここまで強いのは初めてだった。ロザンナの華奢な腕が、グレイスの腕に絡む。

「それじゃあ、私のことが好きだって言うのも、嘘?」

「あれは、嘘じゃない」

グレイスは、薄暗い室内に感謝した。緊張と高揚感で、表情がおかしくなっているのが見えないからだ。
膝立ちになったロザンナは、グレイスの肩に腕を乗せた。花に似た甘い匂いが、間近から漂ってくる。

「本当に?」

「本当だとも」

「じゃ」

ロザンナは首を突き出し、グレイスに顔を寄せた。目を閉じて、どこか気恥ずかしげにしている。
催促されている。グレイスはすぐに解ったが、少しばかり迷ってしまった。嬉しいのだが、困ってしまった。
しばらくグレイスが悩んでいると、ロザンナは小さく声を洩らした。待たされているので、苛立っているらしい。
どうにでもなれ、とグレイスは決心した。ロザンナの頬に手を添えて引き寄せ、力を込めずに小さな唇を塞いだ。
潰れてしまいそうに思えるほど、柔らかなものだった。グレイスはひとしきり味わってから、放した。

「…全く」

「嫌だった?」

「いや、嫌とか、そういうんじゃなくってよ。こういうことは、もうちょい大きくなってからしようや」

ロザンナの両肩を押しやり、少し遠ざけた。グレイスは声が強張ってしまったが、直しようがなかった。
彼女は首を縦に振ったが、不満げに眉を下げていた。両手を、真っ平らな胸に当てる。

「そうね。ここから先は、あと五年は経たないと」

「…する気だったのか?」

「いけない?」

照れくさそうに、ロザンナは身を捩った。グレイスの手に頬を当て、擦り寄せる。

「だって、私は本当にグレイスが好きなんだもの。好きな人との子供が欲しいって思うの、当然でしょ?」

「あのなぁ…」

グレイスは何か言ってやりたかったが、言えなくなった。嬉しすぎて、頭が少しも回ってくれない。
なんとか自制心は保っていたが、危うかった。魔導で鍛えたはずの理性も、惚れた相手には効かないようだ。
ロザンナは、深く項垂れている呪術師にきょとんとしていた。どうしたの、と下から覗き込んでくる。
ベッドのシーツを見つめながらグレイスは、なんでもない、を連呼した。他に、言うことが思い付かなかった。


翌朝。グレイスは、久々に帰ってきた父親に呼ばれた。
書斎に入ると、温厚そうな貴族の男が待っていた。大きなソファーに座っていたが、どうぞ、と座るように勧めた。
グレイスは軽く頭を下げて、彼の手前のソファーに腰掛けた。昨夜の名残で、まだ頭が鈍いような気がした。
父親は嬉しそうに笑み、表情を綻ばせた。ソファーから身を乗り出して、グレイスの手を取る。

「本当に、ありがとう。君のおかげで、久し振りにロザンナの笑顔が見られたよ」

「ああ、どうも」

愛想の良い父親に、グレイスは笑い返す。まさか、その娘に呪い殺されるとは思ってもみないだろう。
父親は力強く、グレイスの手を握ってきた。グレイスは少々手が痛かったが、振り解けない。

「どうか、このままここにいてくれないか。なんだったら、うちの専属の医者になってはくれないかね」

「オレなんかでよろしければ、是非とも」

グレイスは、喜んだ笑顔を作った。ありがとう、と父親は心底感謝している声で数回繰り返した。
父親と会うのは、これで四度目だった。だが、ロザンナの言うように、女遊びをしている様子はなかった。
好色そうな雰囲気はないし、何より名残がない。女遊びをしているのならば、必ず化粧や香の匂いが残るはずだ。
一度目に会ったとき、父親は、ロザンナのために忙しいのだと話した。そのことは、嘘ではなかったらしい。
白化の幼い娘に、日差しへの抵抗力を与えるための薬やら魔法や、様々な手立てを探しているのだと言っていた。
しかしロザンナは、その愛情を知らない。父親が話していないせいで、勝手にずれた想像を巡らせていたのだ。
根拠のない、幼く愚かな妄想だ。継母と同様、ここでもまた擦れ違っている。その理由は、至って簡単だ。
三人とも、ろくに集まらないのだ。父親が忙しいのもあるのだが、食堂にすら滅多に揃うことがなかった。
そんな状態では、意思の疎通が出来るわけもない。父親の考えは間違っていないのだが、噛み合っていないのだ。
呪術師にとっては、その綻びは都合が良い。娘に裏切られたと知ったときの両親の絶望を想像し、ぞくりとした。
温かな父親の手を、グレイスは力を込めて握り返した。


ロザンナの部屋で、グレイスはロザンナに髪を梳かれていた。
引っ詰めてあった黒髪が、丹念に整えられていく。グレイスはベッドの中央に、胡座を掻いて座っていた。
背後には、ロザンナが中腰になって立っていた。グレイスの長い黒髪に、慎重に櫛を滑らせている。

「綺麗な髪ね」

「そうかな。オレとしちゃ、真っ黒であんまり面白くないんだがね」

「カラスの羽根みたいで、凄く素敵よ。こんなに長いんだから、いじればいいのに」

そうだなぁ、とロザンナは櫛を髪から抜いた。グレイスの髪を撫でていたが、三等分にした。

「こうして編んだ方が、もっといいわ。ばらけないし、それに似合うもの」

「三つ編みがか?」

「ええ」

ロザンナは、グレイスの髪を三つ編みにしていく。後ろ髪が動かされる感触を、グレイスは楽しんでいた。
他人にいじられるのも、悪いもんじゃない。後で鏡を見てみて、本当に似合えばこれからもそうしようと思った。
ロザンナの提案を内心で喜びながら、グレイスは出来上がりを待っていた。すると、ロザンナの手が止まる。

「ねぇ、グレイス。呪いを掛けたら、どのくらいであの二人は死ぬの?」

「そうだなぁ。オレの魔力も充分だし、ロザンナが分けてくれた思念もごっそりある。一週間、てとこだな」

「明日辺り、呪いを掛けましょう。私も手伝うわ」

「ありがたいな、ロザンナ。まず最初に、何をどうするんだっけ?」

「えっと…最初には、呪いたい相手を魔法陣に入れるか、魔法陣を当てて、魂に呪詛の呪文を送り込ませる」

「それで次は?」

「呪詛の呪文を心の中で念じて、思念を送る。嫌いだとか憎いだとか、色々と願うんだったよね?」

「そうそう。それで、最後に仕上げがあるだろう?」

「相手が死ぬまで、呪ったことを誰にも話さない! 話しちゃったら、術が解けちゃうんだったよね」

「正解。だから、術者であるオレと呪いの内容は会話しちゃダメだぞ。遠隔系にも、穴がちゃんとあるからな」

「はぁーい」

返事をし、ロザンナは勢い良く手を振り上げた。その手には、編みかけの三つ編みが握られていた。
びん、とグレイスの後頭部が突っ張った。グレイスは思い掛けない衝撃に、かくんと首が曲がってしまった。

「うごっ」

「あ、ごめんなさい」

少し驚いたように、ロザンナは口元に手を添えた。グレイスは顔を上げ、苦笑する。

「気ぃ付けてくれよ。繋がってるんだから」

「忘れちゃってた」

気恥ずかしげに、ロザンナは肩を竦める。グレイスの三つ編みが緩んでしまったので、それを解いた。
再度、彼の髪を整え直しながら、呪いの手順に節を付けている。即興の歌が出るほど、ロザンナは浮かれていた。
舌っ足らずな呪いの歌を聴きながら、グレイスも楽しくなっていた。彼女が嬉しいと、自分も嬉しくなる。
じわりとした熱が、グレイスに満ちていた。それが愛情であると解ったのは、後になってからだった。


一週間後。グレイスが両親に掛けた呪詛は、発呪した。
出先で父親が急に倒れた、との一報のあと、時間差で継母にも呪いは発現した。残るは、それが成功するだけだ。
グレイスは、継母の部屋に呼ばれていた。心配げなメイドや執事達が、高熱に苦しむ継母を見守っている。
ベッドの枕元で、グレイスは見かけだけの治療をしていた。あまりまともに治療してしまうと、呪いが緩む。
汗にまみれて息を荒げ、蒼白だった。グレイスの後ろから、ロザンナが不安げな顔で継母を見つめていた。
容態が気になるのではなく、呪いが成功しているかが気になっているのだ。小さな手が、グレイスの服を握る。
グレイスの耳元で、大丈夫なの、とロザンナは尋ねた。グレイスは、周囲に見えないように笑ってみせた。
激しく、継母は咳き込んだ。両手で口元を塞いだが、指の隙間から赤いものが滲んでいるのが見えた。
グレイスは、息苦しげな継母に顔を寄せた。優しげな口調を作り、ごく小さな声で言った。

「お母様。この病の原因は、なんだかご存知で?」

げほ、と強く咳が出た。継母は高熱のせいで潤んでいる目を、恐る恐るグレイスに向ける。
グレイスは丸メガネを少し直し、にぃっと口元を広げた。不安そうに、継母は灰色の男を見上げている。

「ロザンナ様ですよ。ロザンナ様は、あなた方ご夫妻を、殺したいほど憎んでいらっしゃいましてねぇ」

継母の目が、グレイスの後ろに向いた。グレイスの背後から顔を出し、ロザンナは、笑ってみせた。
とても満足げな、喜びに満ちた笑顔だった。驚きと恐怖の色が継母の顔に浮かび、顔から更に血の気が失せた。
グレイスは声を潜め、継母に囁く。こうしてとどめを刺すときが、一番楽しい時間だった。

「それと、オレは医者ではございません。ロザンナ様から、あなた方を殺すように頼まれた」

少し、声に力を込めた。


「呪術師ですよ」


大きく、継母は息を吸い込んだ。その直後、体を折り曲げて喉を震わせ、枕に顔を押し当てた。
数回、継母の背が波打った。一際強い咳のあと、赤が枕に染みていった。血の匂いが、次第に強くなる。
グレイスは顔から笑みを消し、継母の汗ばんだ首筋に手を当てた。脈はなく、徐々に体温も抜け始めていた。
背中の服が掴まれ、ロザンナが額を押し当てていた。肩を震わせているのか、震動が伝わってくる。
一見すれば、泣いているようだった。必死に声を上げたいのを堪えているのか、目元に涙まで滲んでいる。
グレイスはメイドと執事に多少の用件を言いつけてから、ロザンナに向き直った。彼女は、笑っていた。
屈むと、すぐに少女は胸に飛び込んできた。笑い声が外に漏れないように、グレイスの服を固く噛み締めている。
なだめるようなふりをしながら、グレイスも笑うのを堪えていた。今、笑ってしまったら、全てが台無しだ。
これで、城も手に入る。ロザンナの願いも、今まで以上に叶えてやることが出来る。もっと、彼女を愛せる。
グレイスは、嬉しさで胸が詰まりそうだった。


家の遺産は、ロザンナに全て相続された。
両親は暗殺されたのでは、という噂が城の周囲で立ったが、グレイスはすぐにそれらを消した。
真実に小さな嘘を混ぜ込んで、話の方向を変えさせたのだ。嘘が大きすぎると、却って怪しまれてしまう。
ロザンナは、城をグレイスに渡すと権利証に記した。当初の目的通り、城はグレイスのものとなった。
そしてロザンナは、グレイスと共に街へ出た。幅広の帽子を被って裾の長い服を着て、浮かれて外出した。
王都の街並みを、ロザンナははしゃいで走り回った。虚弱な体のどこにあったのか、というほどの体力だった。
グレイスの方が、振り回されてしまった程だった。流行りの服や髪飾り、本などを手当たり次第に買い込んだ。
その帰り道、ロザンナは新しいぬいぐるみを抱いて、うきうきとしていた。夕暮れた、城への道を歩いていく。
大量の買い物を持たされたグレイスは、多少ぐったりしながらも、彼女の後に続いて歩いていった。
山を背負って、丘の頂点に灰色の城がそびえていた。両親の死後に使用人も解雇したため、人の気配はない。
ロザンナは少し大きめのクマのぬいぐるみを、しっかりと抱き締めていた。後ろのグレイスへ、振り返る。

「ねぇ、グレイス!」

「なんですかい」

荷物を持ち直し、グレイスは力なく返した。ロザンナは笑み、くるりと回った。

「グレイス、ずっと私と一緒にいてね!」

「言われなくとも」

足早に駆けていく少女の背に、グレイスは呼びかけた。絶対ね、と坂の上からロザンナの声が返ってくる。
ロザンナの背には、グレイスが編んでやった二本の三つ編みが揺れていた。ぱたぱたと、背に当たっている。
軽い足音が、跳ね橋の上がっている城門前へ向かっていった。グレイスは、それを追いかける。
ロザンナは堀の前に立ち、グレイスを待っていた。ようやく追い付いたグレイスに、ロザンナは縋った。

「橋、下ろして」

「レベッカ、頼むわー」

グレイスは荷物を下ろし、片手を振り上げた。はぁーい、と甲高い幼女の声で、城門から返事があった。
とんとんと駆けてきたメイド姿の幼女が、跳ね橋を上げている鎖を取った。じゃらん、と回転させていく。
ぎちぎちと重たく軋みながら、跳ね橋が降りてきた。グレイスの腕にしがみつき、ロザンナは彼を見上げた。

「レベッカちゃん、本当に魔導鉱石で出来てるの? 私には、髪色がちょっと変な人間の子にしか見えないわ」

「造る工程を見てたじゃねぇか。どろどろに魔導鉱石を溶かして、核に魂の石を入れて、人工表皮を被せてさぁ」

と、グレイスはレベッカを指す。レベッカは、数日前にグレイスが完成させた幼女型の人造魔導兵器だ。
使用人を解雇する代わりに、彼女を造り上げた。人間でない方が何かと都合が良いし、なにより力が強い。
体組織のほとんどが魔導鉱石なので、魔力の固まりのようなもの。なので、魔法はかなり強力なものが使える。
腕力も必要以上に強くさせた。八歳程の幼女の外見をしてはいるが、拳一つで城壁を打ち破ることが可能だ。
後々に、戦闘に使うためだ。グレイスは仕事柄、手荒な輩とやりあうことが多いが、格闘戦は得意ではない。
跳ね橋へ駆け寄ったロザンナは、レベッカに手を振った。レベッカは、二人へ深々と礼をする。

「お帰りなさいませー」

ロザンナは跳ね橋を、軽く駆けていった。喜々とした表情で、レベッカに街の様子を話している。
西日に照らされた白い横顔は、継母が死んだときよりも嬉しそうだった。朝からずっと、彼女は笑っている。
グレイスは荷物を担ぎ直し、跳ね橋を歩いていった。少女二人の高い声が、石の壁に反響している。
城壁に囲まれた城内は、一足先に夜が訪れていた。


その、翌朝。
ロザンナは、グレイスの腕の中で眠り続けていた。窓から差し込む朝日が、白い少女を照らしている。
彼女の匂いが染み付いたベッドに、グレイスはずっと横たわっていた。起き上がる気には、なれなかった。
息を引き取ったのは、ほんの少し前だったのだろう。ロザンナの体温は、布団にありありと残っていた。
だがそれは、次第に抜け始めていた。グレイスはロザンナの後頭部に手を添え、胸に押し当てる。
予想はしていたことだった。白化の人間は、突然変異の影響であらゆる部分が脆弱になってしまっている。
呪詛のために思念を、すなわち魔力を大量に引き出したことで、ただでさえ短い命が削れてしまったのだ。
昨日の元気は、最後の力だったのだ。一緒にいてね、と強調したのも、死期を悟っていたからに違いない。
グレイスは、そっとロザンナの頬を撫でた。生前の柔らかさや滑らかさはなく、固くなり始めている。
前髪を分けてやり、額に唇を寄せた。目が閉じられた顔を上げさせ、唇を舐めてやると、塩辛さがあった。
ロザンナが泣いていたのかと思い、頬を拭ってみるも濡れてはいない。気付くまで、少し掛かった。
グレイスの視界は、水によって歪んでいた。止めようと思ったが、出来なかった。
上体を起こし、グレイスは何度も目元を拭った。拭った先から新しく溢れ、顎を伝って滴っていく。
急に、部屋が空虚に感じた。昨日買ってきた新しい服が床に散らばっていて、新しいぬいぐるみが枕元にある。
寂しさや虚しさや悔しさが、一気に沸き起こった。グレイスは奥歯を噛み締めて、震えと声を堪えた。
こんこん、と扉が叩かれ、開かれた。レベッカはベッドに座り込んだグレイスを見、首をかしげる。

「御主人様ー?」

「ちょっと、どっかいってろ」

喉の奥から、グレイスは辛うじて声を絞り出した。レベッカは扉を閉めると、その音が部屋全体に響いた。
グレイスは、ロザンナを優しく抱き起こしてやった。力の抜けた少女は、かくんと首が後ろに曲がった。
徐々に冷える彼女を抱き締め、グレイスは一日中泣いた。親や兄弟が死んでも出なかった涙が、止まらなかった。
己の泣き声だけが、聞こえていた。あれだけ感じていた胸の温かさや痛みは消えて、冷たく重たかった。
どうしてここまで辛いのか、重い痛みと悲しみの中、グレイスは考えた。そして夜になって、ようやく結論が出た。
愛していたから、好きだったから、失って辛いのだ。半身のような少女が死んだから、苦しいのだ。と。
グレイスは、初めて心から泣いていた。




後ろ髪を結われながら、グレイスは追憶から戻ってきた。
レベッカの鼻歌が、すぐ後ろから聞こえる。セイラの歌っていた竜女神を称える歌を、覚えていたらしい。
街はずしりとした闇に沈み、ちらほらと窓明かりが見えた。月は欠け始めていて、月光は弱まっている。
いつのまにか点けられたランプが、テーブルの上で眩しかった。グレイスは、ふと、呟いた。

「オレ、また泣いちゃうのかなぁ」

「剣士さんが死んじゃったら、ですかぁー?」

そーですねぇー、とレベッカは三つ編みを編む手を止めた。

「泣くんじゃないですかー? ロザンナちゃんみたいに、剣士さんが大好きなんですからー」

「うん、そうだよな」

妙に嬉しくなりながら、グレイスは返した。レベッカに振り向き、にっと笑う。

「好きじゃなきゃ、死んで悲しくないもんな! ギルディオス・ヴァトラスが墓場に戻ったら、きっと悲しいもんな!」

「わたしも、あんなに騒がしい人がいなくなっちゃったら寂しいなーって思いますー」

グレイスの三つ編みを終え、毛先の束に紐を巻き付けた。レベッカは、手際よく紐を結ぶ。

「そういえば、御主人様ー。剣士さんが手配されるーってことは、あの女の思い通りになっちゃってませんかー?」

「言われてみりゃあそうだな。ギルディオス・ヴァトラスが賞金首ってことは、あの男が狙いに来るはずだもんな」

あいつは賞金稼ぎだし、とグレイスは呟いた。出来ましたー、とレベッカは、三つ編みをグレイスの肩に乗せた。
レベッカはグレイスの背に覆い被さり、しがみつく。窓を見つめている、主の横顔を覗き込む。

「どうしますぅー、御主人様ぁー? なんだかんだで、あの女に利用されちゃってますけどぉー」

「ちょいとばかり癪に触るけど、まぁ、別にどうってことねぇよ」

グレイスは、レベッカの頭をぽんぽんと叩いた。左手で、空中に魔法陣を描くふりをする。

「あの女は、まだまだガキだからな。うざったくなったら、填めてやりゃいいだけのことさ」

「そーですよねぇー。考えも甘っちょろいし、いくらでも出来ますよねー」

レベッカは、うんうんと頷いた。グレイスが立ち上がったので、レベッカは腕を解く。
そうだとも、とグレイスは言いながら背筋を伸ばした。広い背の上に、黒髪の三つ編みが揺れる。

「大体、あの女は他人を舐め過ぎてんだよなぁ。オレもそうだけど、兄貴も身内も何もかもさ」

「でもしばらくの間は、あの女の思い通りになっちゃいそうですねぇー。癪ですけどー」

「まぁ、見せ物としちゃ悪くなさそうだから、しばらく見物させてもらうけどな」

グレイスは、ずり落ちそうだった丸メガネを直した。あまり派手さは期待出来ないが、面白そうだと思った。
テーブルに向かったレベッカは、絵の傍に置いてあった財布を取った。背を伸ばし、グレイスに差し出した。

「御主人様ー、そろそろ夕ご飯食べないとですよー」

「あーそうだったなぁ。レベッカ、お前もなんか喰うか?」

「別に食べても食べなくてもいいんですけどー、どうしてもって言うなら食べますー」

「お前なぁ」

呆れたように笑いながら、グレイスは扉に向かっていった。取っ手を握ったが、回さずに手を放した。
レベッカはグレイスの背を見上げていたが、扉を指した。グレイスが身を引くと、レベッカが先に扉を開けた。
かちゃり、と慎重に扉が開かれ、薄暗い廊下が隙間から覗いた。レベッカは、廊下の壁に目線を上げる。
暗がりに隠れるように、黒い服の女が立っていた。壁に背を当てて腕を組み、細い金の杖を抱いている。
上から下まで黒い外套に包まれていて、体形は解らない。袖口や首元から覗く金の装飾品が、輝いている。
響きの良い穏やかな声で、女は言った。幅広の袖口から手を出し、すいっと振ってみせる。

「お久し振りね、グレイス。でも、あの女呼ばわりはないんじゃなくて?」

「首尾を確かめに来たのか? お前さんの考えてる通りの流れだよ、今のところはな」

多少面倒に思いながら、グレイスは女に返した。そう、と女は、赤い唇を横に広げる。

「手配書が刷り上がったら、渡してちょうだいね。私が帝国にばらまいてくるわ」

「手ぇ貸してくれなくて結構だよ。これはオレの遊びなんだ、邪魔しないでくれないかね」

グレイスが顔を背けると、女は不満げにため息を吐く。

「そこまで言うなら、仕方ないわね。でも、手配書が散らばった後からは、私の計画なのよ。邪魔しないでね」

「へいへい」

グレイスは、レベッカを伴って部屋を出た。女の隣を過ぎ、階段に向かう。

「だがなぁ、お前は兄貴のどこが気に入らないんだ? オレは好きだぜ、ギルディオス・ヴァトラスは」

「私は嫌いなのよ、あんな兄」

黒い頭巾の下で、女の目元が歪んだ。薄茶色の瞳が、陰る。

「そうかい。ま、健闘を祈るぜ」

軽い足取りで階段を下りながら、グレイスは女に手を振った。


「ジュリア・ヴァトラス」


グレイスの姿が見えなくなったあと、女は背を向けた。廊下を数歩進み、杖を掲げて呪文を唱える。
ふわりと風が舞い起こり、黒い外套が揺れた。風が抜けると影が失せ、女も消え失せた。
残っていたのは、ほのかな化粧の香りだけだった。




遠き過去は、今と繋がる。思い出となり、恨みとなり。
死した重剣士に、忍び寄る影の正体。それは、血を分けた実の妹。
闇に沈めし深き思いは、じわりじわりと発現する。

重剣士の次なる戦いが、始まる日は遠くなさそうである。








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