カインは、逃げ出してしまいたかった。 テーブルを挟んで向かい合う椅子に座る少女は、浮かれ切っていた。先程から、延々と彼女だけが喋っている。 縦に巻かれた金髪が揺れ、ふっくらとした頬が紅潮している。太さのある首筋で、時折ネックレスが揺れていた。 花の砂糖漬けが、二人の前の皿に載っていた。カインはあまり食べたくなかったが、喋らないために食べていた。 桃色の花びらは砂糖の味だけで、多少歯応えがあった。こればかり食べていたので、喉が乾いてしまった。 カインはティーカップを取り、紅茶を傾けた。砂糖を入れずに飲み下していると、少女が身を乗り出してきた。 「ねぇ、カイン様?」 「え、はぁ」 話を聞いていなかったので、カインは曖昧な返事をした。すると少女、エリカは笑顔になる。 「楽しみにして下さってよろしいですわよ、エリカの花嫁衣装。お父様が、かなりお金を掛けて下さいましたの」 「そうなんですか」 「んもうカイン様、聞いていらっしゃらなかったの? まぁ、いいですわ」 エリカは気恥ずかしげに、目を伏せた。ぷっくりとした指で、唇を押さえる。 「楽しみは、後に取っておいた方がよろしいですものね」 「そうですね」 「ああ、婚礼の日はどうしてまだ遠いのかしら。エリカは、明日にでもカイン様と添いたいというのに」 切なげに呟き、エリカは頬を押さえた。縦巻きの髪に結ばれた桃色のリボンが、弱い風でふわりと揺れている。 カインは紅茶を飲んでいたが、味は全く解らなかった。砂糖菓子を食べ過ぎたせいで、味覚が鈍っている。 二人の周囲を包むバラの生け垣は、つぼみが大分開いていた。バラの独特の強い匂いが、鼻を突く。 それと合わせてエリカの香水も漂っていたので、カインは頭が痛くなりそうだったが、なんとか堪えていた。 目線を上げて、カインは空を見上げた。ストレイン家の広い庭園を、燦々と明るい太陽が見下ろしている。 雲一つ無い濃青には、鳥が一羽だけ飛んでいた。それを見つめながら、カインは彼女に思いを馳せていた。 数日前、フィフィリアンヌがあの湖の傍へ城を持ってきた、との話をランスから又聞きしたのだ。 なんでも遠方の田舎町にあった幽霊屋敷で、小説家で妄想癖の強い幽霊が居着いている、とのことだった。 城の外観や中もさることながら、カインはその幽霊に興味が湧いていた。見られるものなら、見てみたい。 そして、フィフィリアンヌに会いたくて仕方なかった。エリカといると、反動なのか、無性にそれが強くなる。 鋭い瞳と遠慮のない物言い、時折見せる違った表情。それを思い浮かべて、カインは小さくため息を吐いた。 ふと、エリカは急に話すのを止めた。子供らしさが残る丸っこい青い目で、じっとカインを見つめる。 「カイン様」 「なんでしょう」 「なんだか様子がおかしいですわよ。どうかしましたの?」 「あ、いや」 カインは、ちらりと屋敷の方を見た。そして、真剣な顔をしたエリカへ視線を戻す。 「カトリーヌの脱皮の時期が近いので、そろそろ準備をしてやらないとなぁーって、思っていたんです」 「カトリーヌって、ああ、あのドラゴンもどきのことですわね」 「ワイバーンですよ」 「どちらでも同じですわよ。でも、あんな怖い顔をした生き物のどこが可愛らしいのかしら」 エリカには理解出来ませんわ、とエリカは膝の上を見下ろした。薄紅色のスカートに、毛玉が丸まっていた。 白い毛の、生後半年ほどの子犬だった。エリカの体温と日差しの温かさで、気持ちよさそうに眠っている。 エリカは優しい手付きで子犬を撫でていたが、その手を止めてまたカインを見つめた。にこやかに、微笑む。 「エリカは、カトリーヌよりもジョセフの方がよっぽど可愛らしいと思いますわよ」 「まぁ、好みは人によって違いますから」 カインは理性を強めて、愛想の良い笑顔を作った。ジョセフというのは、エリカの連れている子犬の名前だ。 エリカはジョセフを抱き上げると、丸い頬を擦り寄せる。子犬は目を覚ましたが、されるがままになっている。 ふわふわした柔らかな毛並みの子犬は、ぬいぐるみのようで可愛いといえば可愛いし、カインもそう思う。 だが、どちらかといえば、やはりドラゴンやワイバーンの方が好きだ。ウロコの硬さや牙の猛々しさが、最高だ。 カインは自分の部屋に寝かしつけてきたカトリーヌが起きていないか、気になってきたが、立てなかった。 ジョセフを撫でくり回すエリカは、時折様子を窺うようにカインを見る。行くな、と暗に示しているのだ。 エリカは、昨日からストレインの屋敷にやってきていた。父親が王都に用事があるので、付いてきたのだ。 その際に父親がせっかくだからと、婚約者であるカインの家に、エリカを置いて行ってしまったのである。 なので、半ば仕方なくカインはエリカに付き合っていた。というよりも、付き合わざるを得なかった。 何をするにもエリカは付きまとってきて、逃げるに逃げ切れないほどなのだ。今も、そんな状況だった。 カインはフィフィリアンヌの元に行こうとしたのだが、それを捕まえられてお茶に誘われ、今に至るというわけだ。 また、エリカは一人で喋り始めた。婚礼に使う花嫁衣装の美しさや、結婚後の生活を情感を込めて語っている。 甲高い少女の声を聞き流しながら、カインはどんどん憂鬱になった。彼女との婚約は、未だに撤回出来ていない。 仮面舞踏会の夜に、フィフィリアンヌに宣言をしたはずなのに、実行出来ないままずるずると来てしまった。 ストレイン家の当主でもある父親に、言い出そう言い出そうとは思っているのだが、面と向かうと言葉に詰まった。 今まで、カトリーヌのことや自分の趣味のことで散々世話になっているのに、これ以上迷惑を掛けたくはない。 それに、エリカの父親であるブライトン侯爵はストレイン家とも長年の交流があり、両家の仲はいい方だ。 断るのは易しいが、その後の展開が想像出来てしまう。両家の関係を、自分一人の我が侭で壊したくはない。 だがやはり、エリカと結婚するのはどうしても嫌だった。彼女と夜を共にするなど、以ての外だ。 そもそもカインは、エリカのように肉の多い体付きの女性は好みではない。何が何でも、欲情出来ない。 フィフィリアンヌのように華奢な方が、好みなのだ。折れそうな首筋に浮かんだ鎖骨、頼りない手首が大好きだ。 カインは頬杖を付き、滝のように喋り続けるエリカを眺めた。彼女が細かったら、少しは妥協出来たかもしれない。 レースの付いた袖口から覗く手首は、確かな太さがあった。その先で動く手も肉付きが良く、柔らかそうだ。 カインは、結婚を渋る理由に己の性癖があることを少し嫌悪した。女性を、体形だけで選り好みしてはいけない。 だがエリカの場合は、体形と共に性格にも引っかかるものがあった。我が侭でお喋りで、甘ったれている。 カインと同い年のはずなのに、まるで落ち着きがない。それどころか、十歳ほどの少女を大きくしたかのようだ。 その部分が、どうにもいけ好かなかった。何も考えていないかのような身勝手な言動も、気に食わなかった。 先程だってそうだった。カトリーヌのことを、単なる愛玩動物としてしか見ていない言い方をしていた。 カインはエリカに文句を言いたかったが、堪えていた。一度文句を言ってしまえば、全て言ってしまいそうだった。 庭園を囲む生け垣が、穏やかに揺れた。ざあ、と少し強めの風が吹き抜け、様々な花の匂いが混じって広がる。 不意に影を感じ、カインは顔を上げた。太陽の逆光を受けた翼のある影が、前方の塀の上に浮かんでいた。 「あ」 カインの声に反応し、エリカは振り返った。小さな影は翼を下げ、くるりと生け垣の上を巡ってから降下してきた。 先の尖った帽子を被った黒い少女が、ざっ、とバラの生け垣の前にかかとを擦る。長い髪が、さらりと落ちた。 若草色の翼を下ろした彼女は、すぐさまそれを縮め、マントを直して隠した。そして、カインへ向く。 「すまんが、カイン」 「あ、はい」 「しばらくここにいさせてもらえないか」 「え!?」 驚きと嬉しさで、カインは声を上げた。フィフィリアンヌは、塀の方を指した。 「城に置く調度品を買いに来たのだが、そこでギルディオスが賞金稼ぎに絡まれてな」 「…逃げてきたんですか」 「私には関係のないことだ。それに、戦いだけはあの馬鹿の専門だ。私がいない方が、色々とやりやすかろう」 フィフィリアンヌは、先の尖った帽子をぐいっと押し込んだ。ツノの先が内側に触れて、少し布地が突っ張る。 カインは、耳を澄ましてみた。確かに、離れた場所からだが、ギルディオスの声や剣の音が聞こえる。 賞金稼ぎは複数いるのか、男達の罵声も聞こえた。カインは塀の方を見、苦笑しながら呟いた。 「ご愁傷様です、ギルディオスさん」 いきなり、きゃん、とジョセフが吠えた。フィフィリアンヌを警戒しているのか、何度となく吠え立てている。 カインが振り向くと、フィフィリアンヌは表情を引きつらせていた。もう一度、きゃん、と鋭く鳴かれた。 「うひゃあ!」 変に高い声を出し、フィフィリアンヌは急に仰け反った。よろけるように駆け出して、カインの背に回った。 カインがどうしたのかと聞く前に、フィフィリアンヌは彼の背にしがみついた。強く、マントを握り締める。 再度、ジョセフは彼女へ向けて吠えた。エリカが話し掛けてなだめると、ようやくジョセフは大人しくなった。 カインは後ろを窺うと、フィフィリアンヌは弱々しく眉を下げていた。口元が歪み、明らかに怯えている。 マントを握る手にも力が入っていて、思い切り引っ張られていた。フィフィリアンヌは、俯いた。 「…なぜあれがここにいる」 「エリカさんのお友達です」 と、カインはエリカを指した。フィフィリアンヌは、上目にカインを見上げる。 「厄介だな」 「イヌが苦手なんですか、フィフィリアンヌさん?」 「あれだけは、どうしてもダメなのだ」 口元を押さえて表情を隠し、フィフィリアンヌは情けなさそうに洩らした。 「幼い頃、野犬に噛み付かれた挙げ句に追い回されて以来、恐ろしくて仕方がないのだ」 「なんか、意外です。フィフィリアンヌさんって、怖いものなんてなさそうに見えるので」 「私とて怖いものはある。情けない話だが」 顔を伏せ、フィフィリアンヌは絞り出すように言った。ちらりとジョセフを見たが、すぐに逸らす。 カインは動こうとしたが、背中が突っ張った。首を回して背を見ると、彼女はまだマントを握り締めている。 フィフィリアンヌはそれに気付くと、手を放した。カインは、小さな手に覆われた彼女の横顔を見下ろした。 とても、可愛かった。気弱な目をして肩を落としている不安げなフィフィリアンヌなど、初めて見た。 泣きそうなのを堪えているのか、ぎゅっと唇が締められている。カインは、彼女を抱き締めてやりたくなった。 今だったら、そうやっても怒られないかもしれない。そんな考えが頭を過ぎっていったが、すぐに払拭した。 エリカがいるし、何より、弱みに付け込むのは好きではない。真正面から迫る方が、性に合っている。 フィフィリアンヌはジョセフを見、じりじりと後退した。バラの生け垣の手前で足を止め、大きく息を吐いた。 ジョセフを抱きかかえたエリカは、カインとフィフィリアンヌを見比べていた。眉を曲げ、訝しげにする。 「カイン様。あの女とカイン様は、どういう関係なんですの?」 「どういうって…どういうのなんでしょうね?」 カインは答えあぐね、フィフィリアンヌに尋ねた。フィフィリアンヌは、帽子の鍔を下げてしまう。 「知り合いだ。交流はあるが、友人というほど親しくはない」 「またはっきり言いますね…」 「事実だからな」 帽子で目を隠したフィフィリアンヌは、いつもの口調に戻っていた。見ていなければ、平気らしい。 フィフィリアンヌの説明で、エリカは余計に変な顔をした。魔女の如き少女と、彼の繋がりが解らない。 「ですけど、どうしてあなたみたいな変な子がカイン様とお知り合いなんですの?」 「頭の悪い娘だな。私と貴様は、一度顔を合わせているではないか」 フィフィリアンヌの言い草に、エリカはむっとした。ジョセフを抱き締め、声を上げる。 「エリカは、あなたみたいに無遠慮で口が悪くてはしたない方とは交流なんてなくってよ!」 「髪の色が違うからじゃないですか?」 カインは、俯いているフィフィリアンヌの視線に合わせて身を屈めた。エリカも、同じようにしゃがみ込む。 下から覗き込むように、エリカはフィフィリアンヌの顔と背格好をまじまじと見つめた。丸い目が、見開かれる。 「まさか、とは思いますけど…仮面舞踏会の愛想のない子ですの? 髪を黒くすれば、確かにそうですわ」 「思い出したか」 「ええ、はっきりと思い出しましたわ! エリカとカイン様の仲を引き裂いた、フィリナとかいう子ですわね!」 フィフィリアンヌを見下ろすように、エリカは胸を張った。フィフィリアンヌは、少しだけ帽子の鍔を上げる。 「そう名乗ったのは、あの夜だけだ」 「何がどういうことなんですの、カイン様ぁ?」 フィフィリアンヌの素っ気ない態度に拗ねたのか、エリカは頬を膨らませた。カインは、簡単に説明する。 「えと、あの日はフィフィリアンヌさんは用事がありまして、そのために正体を隠していたんです」 「フィフィ…? そのおかしな名前にも、エリカは聞き覚えがありますわ。確か、その女がシルフィーナ様を…」 途端に、エリカは後退った。口を押さえて叫びだそうとしたので、カインはすかさずその口を押さえ込んだ。 無理矢理息を止められ、エリカは咳き込んだ。カインは手を放し、エリカとフィフィリアンヌの間に入る。 「あれは、まぁ、違うんですよ。シルフィーナ様を殺したのはフィフィリアンヌさんじゃなくて、別の奴なんです」 「ですけど、ディアード家の方々から、そう説明がありましたわ」 「騙されていたんですよ、ディアード家の方が」 「一体、何がどうなっていますの?」 難解そうに、エリカは口元を歪めた。フィフィリアンヌは、エリカから顔を背ける。 「説明したところで、貴様に理解する頭があるとは思えんがな」 「カイン様! こんな女、追い出してしまいましょう!」 いきり立ったエリカは、フィフィリアンヌに歩み寄ろうとした。カインは、彼女の肩を押さえる。 「フィフィリアンヌさんは、しばらくしたら帰りますから。落ち着いて下さい、エリカさん」 「まぁあ! カイン様は、こんな変な女をお庇いになるの!」 思い切り不機嫌な顔をしたエリカは、ぷいっとそっぽを向いた。縦巻きの髪が、一緒にふわりと動いた。 フィフィリアンヌは厄介そうに、軽くため息を吐いた。帽子を少し上げて、額に手を当てる。 「脳天に響くな、この女の声は。頭が痛くなりそうだ」 そうですね、とカインは言いかけて飲み込んだ。実際、エリカの声は甲高く、張り上げられると強烈だ。 その落差のせいか、いつになくフィフィリアンヌの声が心地良かった。感情のない口調が、ありがたかった。 フィフィリアンヌは眉間を苦しげに歪め、こめかみを押さえている。エリカを見、うんざりしたように言う。 「貴様、少しは声を抑えて喋ったらどうだ」 「愛想も抑揚もないよりマシですわ!」 「だ、そうだが」 と、フィフィリアンヌはカインへ目を向けた。カインは困ってしまい、言葉に詰まる。 「え、っと、あの、僕に振らないで下さいよ」 ようやく、エリカは声を張るのを止めた。というより、カインが答えるのを待っている。 久し振りに感じられる静寂に、遠くから聞こえる戦いの音が混じっていた。規則的に、剣がぶつかっている。 かぁん、と硬い金属音が響き渡った。カインはフィフィリアンヌの腰を見、伯爵がいないことを知った。 この場にあの饒舌なスライムがいてくれたなら、どれだけいいだろう。妙な言い回しで、間は繋がったはずだ。 それどころか、話を変な方向に持って行ってくれたかもしれない。いれば鬱陶しいが、いなければ寂しい。 カインは、今気付いた、というような顔をしてフィフィリアンヌに尋ねた。これで、話が逸れて欲しい。 「あの、フィフィリアンヌさん。伯爵さんがいませんけど、今日はどうしたんです?」 「あれは城に置いてきた。今頃は、幽霊の男と妄想に充ち満ちた会話を交わしているはずだ」 「そうですか」 会話は、すぐに終わってしまった。言い終えてしまってから、カインは、己の話の貧弱さを強烈に恨んだ。 せめてあともう少し話が広がれば、エリカの意識も逸れていたかも知れない。エリカは、カインを睨んでいる。 フィフィリアンヌの言ったことを要約すれば、カインはどちらが好みなのか、ということになるからだ。 カインはそれがすぐに解ったし、エリカがどう答えて欲しいのかも解っていたが、答えられなかった。 この場にギルディオスでもいれば、余計な茶々を入れてくれていただろうが、彼はここにはいないのだ。 極めてやりづらい。カインは彼女と連れ添っている二人の男の存在を、今更ながら大切なのだと思った。 あの二人がいるから会話の間が持つ上に、フィフィリアンヌとの接点も、辛うじて出来ているようなものだった。 だが、ギルディオスも伯爵もいない今、余計なことを言う者はいない。自分は言えない、とカインは思った。 フィフィリアンヌに対して、軽口など言えるわけがない。言ったところで揚げ足を取られ、言い返されるだけだ。 カインは、妙なところでギルディオスと伯爵に尊敬の念を抱いた。二人の遠慮のなさは、いっそ羨ましい。 ざあ、と風が吹き抜けた。開きかけたバラの花が揺さぶられ、甘ったるい空気が流れてきた。 風に靡いたエリカのリボンが、ジョセフの鼻先をくすぐった。顔を振ってから、子犬は小さく吠えた。 「うひゃあん!」 裏返った悲鳴を上げ、フィフィリアンヌはしゃがみ込んだ。帽子を押さえて背を丸め、肩を縮める。 偉そうな態度と懸け離れた反応に、エリカはきょとんとしている。先程から、やたらと落差が激しいからだ。 エリカの肩を押さえていた手を放して、カインは小さな魔女へ向いた。硬く目を閉じて、帽子を握り締めている。 本当に、ダメのようだ。吠え掛かられたわけでもないし、噛み付かれたわけでもないのに、怯え切っている。 しかも悲鳴が少女らしい、というか、可愛げがある。普段とは懸け離れた高さの、彼女らしからぬ声だ。 また、ジョセフが吠えた。フィフィリアンヌに話し掛けるかのように、きゃん、と一声。 「やぁあ!」 両耳を強く押さえ、フィフィリアンヌはぺたんと座り込んだ。吠えられるにつれて、どんどん無防備になる。 このまま吠え続けられたら、どうなるのだろうか。カインはちらりと想像したが、考えないようにした。 彼女の悲鳴を聞いていたいのは山々だったが、それはさすがに可哀想だ。怖がらせて、楽しむのはいけない。 それはグレイスがやることであって、自分のやることではない。カインはそう思い、エリカに言った。 「エリカさん。すみませんが、ジョセフを屋敷に帰してきて頂けませんか?」 「なぜ? ジョセフはとても良い子ですわ」 フィフィリアンヌが怯えているのが楽しいのか、エリカはにんまりと笑んだ。白い毛を、愛おしげに撫でる。 「この子が吠えるのは、あの女が怪しいからですわ。カイン様、家の者をお呼びになって。早く追い出しましょう」 「エリカさん…」 「それとも、カイン様はあの女に出て行って欲しくないんですの? エリカよりも、あちらがいいんですの?」 エリカは、じっとカインを見据えた。丸みのある青い目に浮かんでいる表情は、少女のものではなかった。 嫉妬を宿した、女の目だ。それはじろりとフィフィリアンヌを見、そしてまた、カインに戻ってくる。 カインは、フィフィリアンヌに顔を向けた。肩を縮めて座り込む姿は頼りなく、今にも泣き出しそうに見える。 「僕は」 外の戦いは一段落付いたのか、剣の音は聞こえなくなっていた。聞こえるのは、ギルディオスの悪態だった。 てめぇこの野郎、面倒掛けやがって。さっさとオレは行かなきゃならねぇんだよ、邪魔するんじゃねぇ。 その声に安心したのか、フィフィリアンヌは肩を緩めた。耳を押さえていた手を放し、目元を擦る。 ギルディオスの声は続く。これで賞金が出なかったら、疲れただけじゃねぇか。あーもう、やんなっちまう。 次第に、フィフィリアンヌの目に理性が戻ってきた。だが真紅の瞳は、心なしか潤んでいるようだった。 カインの視線に、フィフィリアンヌの視線が合った。真正面から目を合わせたのは、これが初めてだった。 いつもは、まともに見てくれさえしない。本を読んでいるか、別の方向を見るか、彼らを見ているかだからだ。 カインは嬉しさと同時に、胸がずきりとした。焼け付く熱さに締め付けられて、いつかの日と同じく苦しかった。 彼女が、愛おしい。すぐにでも駆け寄り、抱き締めてやりたい。カインは衝動を抑えるため、拳を握る。 エリカから向けられる視線が、背中に痛い。交わったままのフィフィリアンヌの視線から、逸れたくはない。 早まった鼓動が、胸の内を叩いている。唾をなんとか飲み下したが、いやに硬く、喉が痛くなった。 フィフィリアンヌの赤い瞳に、自分が映っている。カインは彼女の目を見つめていたが、拳を緩めた。 カインは慎重に歩いて、彼女の前に立った。片膝を地面に付いて目線を合わせ、ゆっくりと手を伸ばす。 冷たい地面に触れている小さな手を取り、握り締めた。六年前と同じく、ひやりとしたトカゲのような感触だった。 力の抜けた彼女の手を挙げ、カインは顔を伏せた。鼓動のうるさい胸を、手で押さえる。 「あなたが、好きです」 フィフィリアンヌは、目の前で跪いているカインを見ていた。穏やかな微笑みで、安心させようとしている。 地面に置いた手を、ぐっと握った。イヌに対する恐怖で抜けていた力を、なんとか取り戻す。 カインに取られている右手を外そうとは思ったが、不思議とあまり嫌ではなかったので、そのままにした。 それどころか、あれだけ強かった不安と恐怖が薄らいでくれた。温かな彼の手は、思っていたより大きかった。 父親とも、ギルディオスとも、セイラに対する愛情とも違った感情が、じわりと胸の中から染みてきていた。 恐怖が和らぐにつれて警戒心が緩み、落ち着いてきた。フィフィリアンヌは、彼から目を離せなくなった。 二人の姿を見、エリカはじりじりしていた。カインに手を握られ、あまつさえ好きだと言われている。 一度だって、そんな言葉は掛けてもらったことはなかった。婚約者なのに、滅多に手さえ握ってくれない。 なぜ、いきなり出てきたおかしな女に、自分がいるべき立場を奪われなくてはならないのか。凄く理不尽だ。 エリカは強い嫉妬に、ぎしりと奥歯を噛み締めた。その様子を知ってか、腕の中でジョセフが身動きした。 エリカはジョセフの耳を撫でつけていたが、ふと、考えが過ぎった。これなら、あの女を苦しめてやれる。 あの女が苦手なイヌ、ジョセフをけしかけてやればどうなるだろう。吠えただけで怯えるならば、噛ませてみれば。 カインの背に隠れているフィフィリアンヌを見、エリカはにぃっと笑った。偉そうなくせに、なんとも弱い女だ。 エリカはそっと身を屈め、ジョセフを地面に置いた。白い子犬は尾を振って、エリカの手に鼻を擦り寄せる。 小さな頭を撫でてやりながら、エリカは囁いた。冷たく澄ましている女が乱れる様を想像し、ぞくりとした。 「いいこと、ジョセフ? あの女と、遊んでおやりなさい」 風が乱れ、エリカの声を掻き消した。周囲の生け垣で葉の擦れる音が続き、騒がしくなっていた。 エリカの言葉に従い、ジョセフは頭を下げた。短い四本足を動かして、フィフィリアンヌの方へ向き直った。 さあ、とエリカは呟いて子犬を促した。ジョセフは振っていた尾を止めて、軽快に駆け出していった。 土を走る小さな足音が近付いてくることに、フィフィリアンヌは気付いた。カインの背後から、あれが近付いてくる。 幼い日の記憶と理由のない恐怖が、再び沸き起こった。彼の手から手を放し、慌てて身を下げる。 すると、カインの脇から白い固まりが飛び出してきた。本人はじゃれあうつもりなのか、舌を出している。 「来るなぁあ!」 ジョセフに飛び掛かられる直前、フィフィリアンヌは拳を握った。背中に力が入り、ばさりと翼が広がる。 涙の滲んだ目を見開いて、白い子犬を睨み付けた。意識せずとも、ばきり、と左手の拳が硬くなった。 鼓動の早まった心臓が痛み、体を巡る血が温度を上げる。理性で押さえ込もうとしても、感情はそれを上回った。 恐怖に力が呼び起こされ、体に変化が起きた。翼は大きさを増して、肌はウロコへと変わり、牙は鋭く長くなる。 目の前で、小さなものは足を止めた。尾を丸めて耳を伏せたジョセフは、じりじりと後退を始めている。 それでも、変化は止まってくれない。強烈な感情の高ぶりが、すぐには納まってくれないのと同じことだった。 視界が上がり、足が伸び、細かった骨が太さを増して筋肉が張り詰めてくる。体の膨張は、服を容易く破った。 黒と灰色の布が千切れ、足元に糸切れが散る。襟元の余裕のあった黒いマントだけしか、残っていない。 長く伸びたツノが帽子を突き上げ、ばさりと落ちた。乱れた髪が、唯一人の姿をしていた名残だった。 ぐるぅ、と喉が鳴る。 フィフィリアンヌは、一度瞬きをしてから、目を下げた。世界の色が、すっかり変わってしまっている。 竜の姿になると、いつもこうだ。色彩感覚がやけに強くなってしまうので、どんな色も原色に見えてしまう。 引きつられた髪に耐えられなくなり、ぷつり、と後頭部で紐が切れた。その髪も消え、皮膚に馴染んでいった。 緑の肌が、すぐ近くにあった。それは自分の手で、今し方までカインに取られていたものだった。 「…いや」 エリカは、徐々に後退った。がくがくと肩を震わせていて、顔が恐怖と驚きに歪んでいる。 カインは、目の前に座る彼女を見つめた。竜のようだがそれほど大きくはなく、かといって人ではない姿だ。 少女の体格を遥かに超えた、ギルディオスほどはあろうかという体格だ。フィフィリアンヌは、竜人となっていた。 黒いローブは無惨に破れて、腰のベルトも落ちている。鋭い目には光はなく、虚ろな赤だけとなっている。 カインは、フィフィリアンヌの姿から目が離せなかった。竜の顔をしてウロコの肌を持つ、彼女が。 力強く、そして、美しかった。 太く逞しい喉が、少し動く。牙の並んだ顎が僅かに開いて、その奧に真っ赤な舌がちらりと覗いている。 翼を折り畳んだフィフィリアンヌは、カインを見つめた。彼は目を見開き、たじろぐこともせず、跪いている。 それが、とても意外だった。さすがのカインでも、この半端な姿は恐れるかと思っていたのに。 幼い頃はこの姿となってしまったせいで理性を失い、襲ってきた野犬を喰ってしまった。だが、今は違う。 理性は、しっかり残っている。ジョセフを喰う気などないし、イヌはあまり旨くないので好きではない。 転げるように、ジョセフは主の元へ戻っていった。エリカの足元に縋り付き、泣きそうな声を洩らしている。 「フィフィリアンヌ、さん」 カインは、小さく言った。フィフィリアンヌは筋肉の張った腕を、彼に差し出す。 「カイン」 鋭く尖った爪先が、カインの喉元に向けられる。フィフィリアンヌの声は、かなり低くなっていた。 竜形態の時とは違い、ちゃんと喉で喋っているからだ。魔法で喋ることも出来たのだが、したくなかった。 カインの目が、爪先から上がった。フィフィリアンヌの赤い瞳は、緑色の瞼に挟まれてぎらついている。 「貴様は、これでも」 彼を、試してみたくなった。その心は、本当のものであるのか知りたかった。 竜でもなく人でもない姿であり存在である自分を、この男はどこまで受け入れているのか。 「私を、好くか」 真紅の魔導鉱石を填め込んだような瞳の、縦長の瞳孔がぎゅっと細められ、黒い線のようになった。 若草色のウロコが、日光を受けてつやりと光っていた。カインは、彼女の硬い肌を舐めるように見回した。 カインはそっと手を伸ばして、慎重にその肌触れた。こうして竜の肌に触れるのは、初めてだった。 カトリーヌとはまた違う、ずしりとした厚みがある。竜の中では若い方とはいえ、彼女も竜族には違いない。 去年の秋に見た、一月前ほどの夜に見た、緑竜となった彼女の姿が蘇る。猛々しくて勇ましく、素晴らしかった。 今も、それとは違うが、充分に素敵だと思った。カインは躊躇なく、フィフィリアンヌの手を掴んでいた。 ひやりと冷たい手触りが、心地良かった。どこか不安げな眼差しに、まだイヌが怖いのかな、と心配してしまった。 カインは、フィフィリアンヌへ優しく笑いかけた。どんな姿でも、彼女はやはり美しいのだと思ったからだ。 「はい」 赤い瞳が、見開かれる。眉がないので表情が解りづらいが、驚いたのだろう。 カインはその反応に嬉しくなった。もっと安心させてやろうと思い、言った。 「僕は、あなたが好きです」 両手で抱えている彼女の手から、力が抜けるのが解った。 「心から、フィフィリアンヌさんを愛しています」 ざあ、と、少々強めの風が抜けていった。 05 5/15 |