ドラゴンは笑わない




告白の庭園



ギルディオスは、血に汚れたバスタードソードを薬液の染みた布で清めていた。
ストレイン家の塀を汚さないように戦ったので、少々やりづらかったが、敵はあっさりと倒すことが出来た。
敵、というか、賞金稼ぎは五人で攻めてきたが、統制が取れていなかった上に実力がばらばらだった。
適当に掴み掛かってくるので、向かってきた順に倒していったら終わってしまった。思っていたより、早く終わった。
地面に転がる男達の死体を道端にどけて、ギルディオスは腰を下ろした。赤黒く汚れた布を、ぐしゃりと丸める。
道のど真ん中で戦ってしまったため、血の海と化していた。多少の肉片が落ちて、泥と血の中に沈んでいる。
ギルディオスは、がりがりとヘルムを掻く。胴や頭を叩き切られた男達の死体を、ちらりと横目に見た。

「掃除ぐらいはしていくべきかねぇ」

このままでは、いくらなんでも行儀が悪い。ぬるついて歩きづらいし、時間が経てば腐臭がしてしまう。
ギルディオスは気合いを入れ直し、立ち上がった。返り血で汚れた甲冑も拭きつつ、高い塀を見上げた。
フィフィリアンヌがこの中に、ストレイン家の庭に入ってから大分経つ。中で、彼女は何をしているのやら。
最初は言い合う声などが聞こえていたが、もう聞こえなくなった。静寂が続いていて、中の様子が気になってきた。
だが、こちらはそれどころではないのだ。ギルディオスは荷車に戻ると、フィフィリアンヌの荷物を探った。
そこから紙の束を出し、べらべらとめくっていく。賞金稼ぎ達の人相書きと値段を、手早く見流していった。
賞金首の値段と顔を確かめるために必要だろう、とのことで、先日、メアリーが持ってきてくれたものだった。
荷車の傍らにしゃがみ、ギルディオスは五人の死体と人相書きを見比べた。誰も、賞金は掛けられていなかった。

「そんなこったろうと思ったけどさぁ」

大した腕ではないのだから、賞金が掛けられているはずがない。ギルディオスは疲れてしまい、ため息を吐く。
必要以上に、戦いたくはなかった。あまり人間を殺し続けると、血と脂で剣が痛んで切れ味が鈍ってしまうからだ。
そうなっては、本当に強い賞金首と戦う際に不利になってしまう。ギルディオスは、手配書の束を丸める。

「メアリーに肩代わりしてもらおうかなぁ、剣の修繕費」

バスタードソードの具合は、墓場から掘り起こしてきたときのままなのだ。鍛えてもいないし、研ぎも甘かった。
このまま使い続ければ、いつか折れてしまうだろう。そうなってしまう前に、直せるところは直したい。
また誰かに金を借りることになってしまうだろうが、それでも大切な商売道具を失うよりはマシだ、と思った。
ギルディオスは内蔵の見え隠れする死体から目を外し、草むらに座り込んだ。そして、高い塀を見上げる。
当初の目的である調度品を買い付けに行くためにも、まずはフィフィリアンヌに戻ってきてもらわねばならない。
待つしかないかねぇ、とギルディオスは洩らし、血を浴びたせいで少し軋む腕を組んだ。また、風が吹いた。
つんとした鉄臭さが辺りに広がり、死臭が漂った。




太陽が空高く昇ったため、ストレインの屋敷が陰り、影が庭園を覆った。
薄暗さが、余計に彼女の瞳の赤さを際立たせていた。カインはそれをも愛おしいと思ったが、エリカは違った。
この光景が、心底恐ろしくて仕方がなかった。竜を愛する男も、竜となったおかしな女も、怖かった。
足元で身を縮めているジョセフを抱き上げると、その温かさで安心出来た。生きている者は、こうでなくては。
見ているだけで、竜の女の肌は冷たそうだった。作り物じみた光沢が気色悪く、長い牙と太い爪が不気味だ。
腹の底へ響いてくる低い声と、ジョセフを恐れたときの高い悲鳴と、とにかく偉そうな態度がちらついた。
そのどれも、交わらなかった。そのどれもフィフィリアンヌだと解っているが、一致してくれない。
こんなもの、ここにはいてはならない。こんなものを愛する男も、いてはならない。いるべきではない。
竜の女は、カインに取られていた手を降ろした。少女の姿の名残である黒い布を、首元から外して落とした。
若草色の巨体が腰を上げ、曲げていた膝を伸ばして背筋を正した。エリカは、反射的に数歩下がった。

「どうして、どうしてこんなのが」

「貴様は本当に頭が悪いな。私が降下してきた姿を見ていなかったのか」

「見てはいましたわ、ですけど、あれはてっきり魔法か何かかと」

「それならば、最初から翼など出さんのが普通だ。貴様は何も知らんようだな」

淡々と、感情の籠もらない声が続く。重たく響きのある声に、愛想のない口調がよく似合っていた。
フィフィリアンヌの前に、カインは未だに跪いている。エリカを見たが、またすぐに視線を竜の女に戻した。
太い牙。巨大な手。骨張った翼。赤い瞳。どれを取っても恐ろしいのに、カインはそれを愛していると言った。
なぜ、あんなものに愛おしさを感じるのか、理解出来なかった。カトリーヌを見たとき以上に、エリカは混乱した。
腹の底から滲んでくる恐怖と嫌悪感は、次第に溜まってきた。言葉にでもしないと、耐えられなかった。

「嫌、嫌よ」

肩に力を込めて、震えを止めさせた。

「竜族なんて、ドラゴンなんて」

赤い瞳が、こちらに向いた。エリカは、動かない足を後ろに引き摺る。

「どうして」

消え入りそうなほど、エリカの声は小さくなっていた。だがその中にも、彼女への嫉妬は滲んでいた。

「こんなのが、カイン様の」

心を奪っているのか、と言おうとしたが詰まってしまった。エリカは肩を怒らせ、ぐっと唇を噛む。
どうしようもない腹立たしさで、涙が出てしまいそうだった。なぜ人間でないものが、彼の心を掴んでいるのか。
じわりと溢れてきた涙が、エリカの頬を滑っていった。恐怖も混じっていたが、悔しさから出たものだった。
正式な婚約者はエリカなのに。彼のことはエリカの方がよく知っているのに。初夏に、結婚をするはずなのに。
彼の目は、こちらに向くことはない。思い返せば、一度だって、あの女に見せたような笑みは向けてくれなかった。
あんなに幸せな笑顔のカインは、初めて見た。いつも、親しげで優しいけれど、愛想混じりの作った笑いだった。
エリカの視界は歪み、ぼたぼたと涙が落ちていった。膝の力が抜け、崩れ落ちるようにしゃがみ込む。

「嫌、嫌ぁ!」

愛しているのに。本当に結婚したいのに。誰よりも、彼を愛していると言える自信があるのに。
エリカは頭を擦り寄せてくるジョセフを抱き締め、しゃくり上げた。カインに、嘘だと言って欲しかった。
本当は、竜の女など愛していないと。ただ、知り合いだから親しくしただけだと、言って欲しかった。
だが、カインがそう言わないのは解っていた。申し訳なさそうな顔をしてはいるが、どこか幸せそうだった。
竜の女の手に触れて、その傍にいるからだ。カトリーヌを愛でるとき以上に満ち足りた、穏やかな目をしている。

「なんで、なんでエリカじゃありませんの!」

押し潰されそうなほど胸が苦しく、明るいはずの空が暗くなって見えた。

「カイン様と契りを結ぶのは、エリカのはずなのに!」

カインは泣き伏せるエリカに、ちくりと罪悪感を感じた。彼女は、心から好いていてくれているようだった。
だが、これ以上自分を偽ってはいけない。自分が本当に愛している、愛していけるのはフィフィリアンヌなのだ。
竜人の姿となった彼女は、無言でエリカを見つめていた。影に沈む屈強なトカゲの体は、微動だにしない。
何度見ても、愛おしかった。変わらぬ色の瞳に、また自分が映ることがあればいい、とカインは思った。
それが動き、こちらに向いた。思い掛けずフィフィリアンヌと見つめ合う格好となり、カインは狼狽えた。
フィフィリアンヌは厚い瞼を伏せ、ぐるぅ、と少し喉を鳴らした。昂ぶっていた神経も、大分落ち着いてきた。
気を抜いて魔力を高めれば、普段の少女の姿に戻るだろう。それは容易いが、もう少し彼を試したいと思った。
嘘を言うことはないと知っている。だがそれでも、信じ切るためには、それなりに根拠が必要だと感じたからだ。
エリカは何度も涙を拭い、目線を前に向けた。カインの愛を受けている竜の女への嫉妬が、強くなった。
それが憎しみだと理解するまで、時間は掛からなかった。少しでも良いから、自分の痛みを味わわせたくなった。
憎悪に任せて、言葉を吐き出した。このどれか一つでも、二人の傷になればいい、と思ってしまった。

「なんて穢らわしい」

今までとは違い、エリカの声は低くなっていた。

「こんなトカゲ、さっさと殺してしまえばいいのだわ」

フィフィリアンヌの目が上がり、口元を隠しているエリカに向かう。

「人の中にいることすらおこがましいわ。帝国があれだけ殺したのに、どうしてまだ生き残っているのかしら」

可愛らしい丸顔が歪み、嫌な表情になっている。

「カイン様、そんなものに触れてよく平気ですわね」

カインの口元が、ぎゅっと締められた。

「竜族と言ったって、所詮は魔物、魔性の生き物よ。その牙で、どれだけ人や獣を喰らってきたのかしら」

エリカの声は続く。

「さっさとここから出て行ってくれませんこと? これ以上いたら、この庭が痛んでしまいそうですわ」

たまらなくなって、カインは立ち上がろうとした。フィフィリアンヌは手を差し出し、彼を止める。
フィフィリアンヌは、静かに歩いてエリカに近付いた。エリカは、怯えた顔でずり下がる。

「なんですの、近付かないでちょうだい。何かしたら、人を、ドラゴン・スレイヤーを呼びますわよ!」

フィフィリアンヌの影から立ち上がったカインを見、エリカは喚く。

「カイン様もカイン様よ。こんな、何をしてきたか解らない女なんて、愛してもどうしようもありませんわ!」

エリカは恐怖と緊張で声が上擦りそうだったが、なんとか押さえた。

「こんなものと交わったところで、異形の子が生まれるだけ。ストレインの血が、穢れてしまいますわ!」

「私は」

フィフィリアンヌの声に、エリカはびくりとして言葉を止めた。赤い目が、細められる。
それは穏やかであるようにも見えたが、悲しげにも見えた。牙の並ぶ口が、僅かばかり開かれた。


「その異形だ」


カインは、フィフィリアンヌを黙らせたかった。エリカがどんな反応をするか、解ったものではない。
近付こうとしたが、彼女は横顔だけ向けて首を振った。来るな、手を出すな、という意味だろう。
仕方なく、カインはフィフィリアンヌの後ろ姿を見上げた。巨大な翼を生やしている、大きな背中だった。
エリカはフィフィリアンヌの言葉の意味が解らないのか、大きく目を見開いている。そして、ようやく呟いた。

「異形って…」

「私の母上は緑竜族だが、父上は人間だ。元より異形の者に、異形の子を成すかなど無用な心配というものだ」

至極冷静に、フィフィリアンヌは言う。

「貴様にどれだけ嫌われようと蔑まれようと、気になどならん。慣れている」

ちらりとカインを見たが、彼女は続けた。

「人も殺した。獣も喰った。貴様の言うように、私の手も牙も血に汚れているし、今更過去を取り繕う気はない」

ゆらり、と太い尾が揺らされ、巨体の影が動く。

「だが、これだけは言わせて欲しい」


「穢らわしい存在であることは、竜も人も同じなのだ」


フィフィリアンヌは、首を持ち上げた。太い筋が張り、つやりとした薄緑色の喉が露わになる。
静寂を、風が壊す。徐々に強くなってきた風が雲を運んできて、空の青に柔らかな白を散らばらせる。
彼女の声に、普段の高さが戻ってきた。少女らしい声で、竜でもあり人でもある存在は話す。

「私が憎ければ憎むがいい。私を嫌悪するならば、せいぜいするがい。竜族を拒むならば、拒めばいい」

だが、と赤い目がエリカを見据える。

「カインには関係のない話だ。この男は私を好いてはいるが、竜族でもなんでもない」

二人の女は、睨み合っている。

「貴様と同じ上級貴族である、ただの人間なのだ」

不意に、フィフィリアンヌの目が閉じられた。するりと影が縮み、翼が小さくなり、肌から若草色が失せる。
体を丸めるようにしゃがみ込み、フィフィリアンヌは少女の姿に戻った。細い腕で、体を抱く。
カインは彼女のマントを広げ、その背に掛けてやる。色素の薄い肌を、どす黒いマントが覆い隠した。
それを掻き合わせ、フィフィリアンヌは体の前を隠した。乱れた髪をそのままに、エリカを睨む。

「気が済んだのならば、さっさと去るがいい。貴様は私が気に食わないのだろう、長居は無用ではないのか?」

「わ、解ってますわよ」

エリカは少女に戻った竜に戸惑いながらも、言い返した。この姿ならば、身長差のおかげで少しは強気になれる。
ジョセフを持った腕を緩めないようにしながら、ふと、カインを見た。彼は怒るどころか、笑っていた。

「エリカさん。あなたの言ったことは、間違ってはいません」

カインの目は、すぐにエリカから外れた。小柄な少女へと、向けられる。

「確かに僕は、フィフィリアンヌさんが何をしてきたか、何をしているかなんて完全には知らないし、知っていてもごく僅かだけです。人を殺すための薬を作っているし、竜族ですから、様々な獣を喰ったこともあるでしょう。僕の生きている世界とは遥かに違う世界で、僕よりも長く生きてきた人だ。いいことも悪いことも、色々としてきたはずです」

カインは、幸せそうな笑顔を浮かべた。

「それでも、僕はフィフィリアンヌさんを愛せる自信はあります」

「…どこが」

まだ涙が残っていたのか、エリカの声は詰まり気味だった。

「その女の、どこがそんなにいいんですの、カイン様」

「僕にも、よく解りません。好きなところは、色々とありますけど」

カインは、黒に覆われた少女を見下ろした。彼女の目線は、既にこちらから外れている。

「それらを全部含めて、好きなんです」

勝てない。何があっても、勝てるはずがない。フィフィリアンヌの無表情な横顔に、エリカは本能的に悟った。
この女は、どれだけ連れなくても、どれだけ愛想がなくても、理由がなくてもカインを惹き付けてしまうのだ。
そしてカインは、竜である彼女でもなく、人である彼女でもなく、どちらでもある彼女だからこそ愛しているのだ。
どちらにも、勝てない。入る隙間すら見当たらない。エリカは悔しかったが、何も言えなかった。
カインは照れくさそうに、半裸であるフィフィリアンヌから目を逸らした。エリカに、申し訳なさそうに言う。

「まぁ、そういうことですから、エリカさん。大変申し訳ないのですが」

「…解ってますわよ、解ってますわよ!」

せめてもの意地で、エリカは声を上げた。情けなくて悔しかったが、言ってやりたかった。

「あなたのような悪趣味な方との婚礼なんて、こちらからお断りしますわ! すぐにでもお父様に言いますわよ!」

「ありがとうございます」

嬉しそうに、カインは頭を下げた。エリカはそれが無性に腹立たしく、顔を背ける。

「振られたのにお礼をいう方なんて、聞いたことありませんわ!」

エリカはカインに背を向け、歩き出した。しばらく進んだが、バラの生け垣の間で立ち止まる。

「後で後悔なさっても遅いですからね、カイン様。エリカとの婚約を解消したことを惜しく思うくらい、その女よりずっと美しくなって、今度こそこちらを見て頂きますからね!」

言い終えると同時に、エリカはジョセフと共に駆け出していった。生け垣の間を、薄紅色の影が走り抜けていった。
途中で泣き出したのか、泣き声も遠ざかっていった。カインは少々心配になったが、追わなかった。
フィフィリアンヌを見ると、彼女は無惨に破れた服の名残を見つめていた。ベルトも、千切れてしまっている。

「弱ったな」

「服、破けてしまいましたからね」

カインが言うと、フィフィリアンヌはほどけた後ろ髪を指で軽く梳いた。

「帰るしかあるまい。出掛けるだけなのにいちいち予備など持ってはおらんし、あの馬鹿を戻らせるのも手間だ」

「屋敷へ戻って適当な服を見繕ってきますから、ここで待っていて下さい」

「すまんな。ついでに、その服の背中を切り抜いてはくれないか」

「ああ、そうですよね。背中が開いていないと、翼が出せませんもんね」

「それと」

屋敷へ向かおうとしたカインを、フィフィリアンヌが呼び止めた。振り向いたカインは、笑う。

「解っていますよ。イヌがダメだってこと、誰にも言いません。神に誓って約束します」

「ならば、いいのだが」

妙に照れくさくなり、フィフィリアンヌは顔を逸らした。カインに弱い部分を見られるのは、これで二度目だ。
それでは待っていて下さい、と、カインは屋敷の方向へ駆け出した。フィフィリアンヌは、その背を見送った。
群青色のマントがたなびき、生け垣の間に消えていった。次第に、その足音も遠ざかっていく。
一息吐き、フィフィリアンヌは椅子に腰掛けた。テーブルには、二人の使っていたティーセットが丸々残っている。
落ち着いたら喉の渇きを感じたので、フィフィリアンヌはティーポットを取った。たぽん、と中身が揺れた。
触れてみると、温くはなっているがまだ中には紅茶が余っている。丁度良く、ティーカップも二つ置いてあった。
そのどちらかがカインの使ったもので、どちらかがエリカの使ったものだ。どちらを使うか、少し迷ってしまった。
間には、花の砂糖漬けが載った皿がある。桃色の花びらを、フィフィリアンヌは何の気なしに口に放ってみた。
強い甘さに、思わず顔をしかめた。ますます喉が渇いてしまったので、早く紅茶を流し込んでしまいたくなった。
手前にあるティーカップを引き寄せようとして、手を止めた。最初に舞い降りてきたときのことを、思い出した。
確か、塀の方へ背を向けて座っていたのはエリカだった。そして、カインはこちらを見上げていた。
ということは、手前がエリカで奧がカインだ。どちらを使うべきなのか、フィフィリアンヌは考えてしまった。
別にどちらでもいいのだが、それではあまり良くない気がした。理由はないが、感覚的なものだ。
フィフィリアンヌは手を伸ばし、カインの使った方のカップを引き寄せた。左側に向いた取っ手を、くるりと回す。
回した後に、彼の利き手がどちらであるか思い出そうとした。右利きならば、正面に向けた側で飲んだはずだ。
だが、そこまで考えて思考は中断された。いい加減に喉の渇きがきつくなってきたので、それどころではない。
フィフィリアンヌはティーカップに並々と紅茶を注ぎ、ぐいっと飲んだ。煮出されすぎて、渋くなっていた。
紅茶を飲み干すと、乾いた喉に染み入る渋みにむせてしまった。げほげほと空咳を繰り返すと、喉が痛んだ。
フィフィリアンヌは咳が納まってから、再び残った紅茶を傾けた。今度は、一気に胃の中に注ぎ込む。
喉の渇きが納まったので、紅茶を呷った際に広がってしまったマントの前を掻き合わせ、とりあえず胸を隠した。
お代わりとして、空のティーカップに残りの紅茶を注いだ。味わって飲むと、上質な紅茶なのだと解った。
両手でティーカップを持つと、ほんのりと温度が伝わってきた。それは、彼の手の温度にも似ていた。
改めて、周囲の生け垣を見てみた。赤や白のバラが茨の生えた枝に付き、膨らんでいたり咲いていたりする。
半分ほどは咲いていて、甘い香りを放っていた。そのせいで、フィフィリアンヌの鼻の感覚は少々鈍っていた。
カインが、あそこまで自分を好いているとは思わなかった。竜人の姿となっても、彼は少しも動じなかった。
少しは恐れられるかと思いきや、愛していると言われた。予想していた以上に、カインの愛は深かった。
自分でも、どこがいいのか解らない。フィフィリアンヌは、なぜカインに惚れられたのか、理解出来なかった。
残っている紅茶をゆっくりと飲み干すと、胸の内がじわりと温まった。紅茶の温度だけでは、なかった。
嬉しいが、どこか戸惑ってしまう。そんな不可解な感覚に苛まれ、フィフィリアンヌは俯いた。
カインのことは、やはり嫌いではない。だが、彼が自分に抱いてくれているような、感情はないと思った。
だが、決して嫌ではない。ああして明確に好かれていると示されると、悪い気分にはならなかった。
これから彼とどう接するべきか、後で考えておこう。そう思いながら、ティーカップをソーサーに戻した。
マント一枚ではさすがに少し寒いので、フィフィリアンヌは膝を抱えた。その上に顎を乗せ、目を閉じた。
そうしているうちに眠ってしまい、カインが戻ってきて起こされるまで眠り続けていた。




その夜。新居である城の居間で、フィフィリアンヌは縫い物をしていた。
久々に出した裁縫箱を広げ、これまた久々に出したメガネを掛けて、黙々と新しいローブを作るべく縫っていた。
本棚に埋め尽くされただだっ広い居間には、他の者達もいた。伯爵はテーブルに載り、幽霊もその傍にいる。
錆止め油をバスタードソードに塗りながら、ギルディオスはフィフィリアンヌへ向いた。メガネが、割と似合っている。

「なるほどねぇ。だーからお前、そんな格好で帰ってきたってわけか」

「着心地は悪くないぞ」

ぴん、と糸を引っ張りながら、フィフィリアンヌは甲冑に返した。濃緑の、地味なエプロンドレスを着ている。
その背中は、彼女の注文通りにくりぬかれていた。これを侍女に仕立てさせていたので、カインは遅くなったのだ。
珍しく家庭的な姿のフィフィリアンヌを、ワイングラスに入った伯爵は興味深げに眺めた。可笑しげに笑う。

「いやはや、いやはや。カインも面倒な女に好かれ、面倒な女を好いたものであるな」

「身分違いの恋である上に、種族違いの恋ですかぁ。ただでさえ茨の道なのに、その茨を切り裂いて刃物を置いた上を全速力で疾走するくらいに、厄介で進みづらそうな恋路ですねぇ。そのカインという方、大変ですねぇ色々と」

と、デイビットは両手を上向けた。その足元、テーブルの上で、伯爵はごぼりと泡を出す。

「はっはっはっはっは。カインの不幸は、この女に惚れてしまった時点で始まっているのである」

「ですけど私としては、こうであった方が面白いと思うのですけどねぇ」

痩せぎすな半透明の指を絡め合わせ、デイビットは目線を上げた。あらぬ方向を見、妄想を並べ立てる。

「きっとカインさんは、フィルさんが来ることが解っていたから、庭園で婚約者の方とお茶をしていたんですよ。そして二人を引き合わせて争わせ、どちらが自分の血族を作るのに相応しいか、品定めをしていたんですよ。そうしたら、なんだかんだでフィルさんが勝っちゃったから願ったり叶ったり。そして、竜族と自分の血を持つ一族を繁栄させて、いずれは王国と帝国を制してやろうという野望を滾らせながらも貴族の三男という器に収まっているんですよね!」

「違ぇよ」

いちいち説明するのも面倒なので、ギルディオスは否定するだけにした。なんだぁ、とデイビットはむくれる。

「力ある存在に近付く男は、大抵の場合、無意味に巨大な野望を胸に秘めているものなんですけどねぇ」

「しかしフィフィリアンヌよ」

ごとり、と伯爵はワイングラスを前進させた。やたらに広い居間なので、小さな音でも壁に大きく反響した。
袖を縫い合わせていた糸を引き、フィフィリアンヌは結び目を作る。余った糸を歯で切り、針を下ろした。

「なんだ」

「貴君の話の通りであるのならば、貴君はほぼ全裸で、人通りのない庭園にいたのであるな?」

「そうだが」

「本当に、貴君とカインは何もなかったのであるか?」

「何もないぞ」

「嘆かわしいのである。なぜそこで手を出さないのであるか、カインよ!」

ごぼん、と大きな泡を吹き出させ、伯爵は体を持ち上げた。ぐにゃりとスライムが歪んで伸びる。

「あの男には、性欲がないのであるか。確かにフィフィリアンヌは貧弱で、骨と皮ばかりで胸も尻もないのであるが、一応は女でメスである。それを手込めどころか抱きもしないとは! そこで押し倒し、まぐわい、精を注ぎ、挙げ句に子を成すのが男という生き物の役割であろう! 違うか、違わぬであろう!」

「うん、まぁなぁ。普通ならやるだろ、多少のことは」

それだけ美味しい状況ならよ、とギルディオスは頷いた。そうですよねぇ、とデイビットは楽しげに笑う。

「そこまで健全だと、いっそ不健全ですねぇ。中で何を考えているか解らない、というか、若者らしくありませんよぅ」

「私としては、貴様らの方が不可解だ。精も男根もない貴様らが、他人の色事にそこまで執着する理由が解らん」

フィフィリアンヌは、灰色の布を縫い合わていた手を止めた。三人の男達は、暖炉の前に集まっている。
死人の魂を宿した甲冑、軟弱な肉体を持つスライム、百年以上前に死した男の幽霊。どれも、無欲そうに見える。
フィフィリアンヌはちくちくと針を動かしながら、考えた。欲望というものは肉体への欲求だが、精神から来るものだ。
あらゆる欲望は肉体ありきだが、その欲を湧かせているのは精神であり心、すなわち魂なのである。
考えてみれば、ギルディオスの無念やデイビットの未練も、ある種の欲望だ。今もあっても、おかしくはない。
しかしだからといって、死人や異性との繁殖を成さないスライムに、性欲があるのが自然だとは思えなかった。
フィフィリアンヌは無表情に針を進めながら、妙な違和感を感じていた。どうにも、腑に落ちなかった。
あまり考えないことにしよう、とフィフィリアンヌは思い、しゅっと糸を引いた。彼らに、普通を求めてはいけない。
破れてしまったローブに替わる新しいローブは、明日の朝にまでは出来そうだった。集中力も、まだ持ちそうだ。
無言で縫い物をするフィフィリアンヌを、ギルディオスは何の気なしに眺めた。メガネに、暖炉の炎が反射している。
心なしか、表情が穏やかに見えた。無心で縫っているからということもあるのだろうが、口元が硬くない。
やっぱり、何かあったんじゃねぇか。ギルディオスはバスタードソードを置き、身を乗り出す。

「なぁフィル。やっぱ、カインと何かあったんだろ?」

「しつこいぞ、ギルディオス」

「嘘でぇー。何もないってわりにゃ、なーんか嬉しそうだぞ?」

ギルディオスが茶化すと、フィフィリアンヌは嫌そうに目を向けた。

「気のせいだ。あまり下らんことを言うと」

「へいへい。蹴られたくないから、あんまり言わねぇよ」

と、ギルディオスは肩を竦めてみせた。先に言われてしまったので、フィフィリアンヌは言うに言えなくなった。
あったのであるな、あったんでしょうねぇ、と伯爵とデイビットが声を揃えて尋ねてきたが、答えなかった。
ギルディオスの邪推とデイビットの妄想に、伯爵が笑い声を上げている。三人の会話を、彼女は無視した。
一年ぶりに使ったメガネの度があまり合っておらず、フィフィリアンヌは目を凝らしながら、ひたすら縫い続けた。
いつものように硬く唇を締め、眉を吊り上げて表情を固めた。無意識のうちに、緩んでしまっていた。
ギルディオスの言う通り、ないことはなかった。だがそれは、さすがに気恥ずかしかったので言わなかった。
フィフィリアンヌがうたた寝から目を覚ますと、なぜかカインの腕の中にいて、彼も一緒に眠っていた。
念のために色々と確かめたが、本当に彼はフィフィリアンヌに手を出してはおらず、どこも汚れていなかった。
これが何かあった、の範囲に入るかは怪しい。だが、フィフィリアンヌとしては、あった範囲に入る出来事だった。
一度ならず二度までも手を取られ、挙げ句の果てに背中を取られた。ここまで他人に触れられるのは、久々だ。
好きだと言われたときのカインの顔を思い出し、無性に照れくさくなったが、それを無理矢理押し込めた。
フィフィリアンヌは他のことを思考し、縫い物に没頭することで彼のことを払拭しようとしたが、出来なかった。
いやにカインの表情がちらつき、離れてくれない。まともに凛々しい姿を、見てしまったからかもしれない。
頬に温度があるのは、暖炉が近く、炎が燃え盛っているからだ。フィフィリアンヌは、そう思おうとした。
だが、意識すればするほど集中力が失せた。挙げ句に縫う手が乱れて、針を指に刺してしまいそうになった。
その様子にめざとく気付いた三人の男達が、彼女をからかい、結果として蹴り飛ばされたのは言うまでもない。




色恋沙汰は、何が起きるか解らない。心は移ろい、愛は強まる。
彼の一念は運命を動かし、そして、彼女の心さえも動かしてしまった。
彼と彼女には、果たして、どのような未来が待っているのか。

今は、誰にも解らないことなのである。








05 5/15