ドラゴンは笑わない




金の瞳の魔物達



セイラは、耳を澄ませていた。


聞こえている。ざあざあとやかましい森の歌声や、湖面の囁きの合間に、彼らの声がする。
懐かしい。覚えのある魔力が、遠くから感じられていた。暗澹とした記憶と重ね合わせ、確かめた。
あの羽音。あの唸り声。あの僅かばかりの足音。どれも忘れたことのない、忘れられない音だ。
彼らは、近くにいる。だが、なぜ。セイラは金色の単眼を下ろし、じろりと湖面を見下ろした。
静かな湖に下半身を没した、赤紫の巨体が映っている。足の間を小魚が通り、僅かに泥が揺れている。
もう少しはっきりと、彼らの音と声を聞きたい。そう思っていたが、後方からの彼女達の声で掻き消された。
セイラは、後方へ振り返った。古びた城を背にして、ツノと翼の生えた少女が座っている。
その背後には、不安定な動きをする半透明の人間がおり、地面には、フラスコと銀色の金属板が置かれていた。
銀色の楕円形をした金属板には、セイラも見覚えがあった。ギルディオスの魂を納めた、彼の肉体の核だ。
ごとり、と伯爵はフラスコを動かした。銀色の楕円の中心には、真紅の大きな魔導鉱石が填っている。

「消えていた妹の記憶が過ぎったということは、貴君の記憶を封じた呪いは綻んできているのであるな?」

「だが、それが起きた状況が解せんな」

銀色の楕円を置いた前に胡座を掻き、フィフィリアンヌは頬杖を付いている。およそ、女性らしくない。
細い足の胡座の間には、分厚い本が広げられていた。彼女は、目線だけ本に落としている。

「兄弟、イノセンタスと邂逅しただけで、呪いは綻ぶものではない。何らかの条件が揃わねば、呪詛は緩まん」

「だーよなぁ。オレもさぁ、いくらなんでも都合と間合いが良すぎると思ったんだよなぁ」

赤い魔導鉱石が、ちかりと輝いた。銀色の金属板から、ギルディオスの声だけが出ている。

「でさぁフィル。あの夜、兄貴はこっちに来たんだろ? 何をしに来やがったんだ」

「下らん話をしに来ただけだ。私を通じて竜王都と王国の間を取り持てないか、などと言ってきおった」

フィフィリアンヌが眉間を歪めると、金属板はいつもの明るい声で話す。

「つまりは手を組ませろってことか。王国は、帝国にケンカでも吹っ掛ける気なのかね?」

「有り得る話である。過去に幾度も侵略と戦争を繰り返してきた両国が、野心を失っているはずがない」

ごぼり、とスライムは気泡を吐き出した。伯爵はうにゅりと動き、ガラスの内側を舐める。

「だが、このようなことは、我が輩達には関係のない話である。しかし、戦火は広がって欲しくないものである」

「稼ぎが減るからな」

フィフィリアンヌは、至極当然のように言った。うむ、と伯爵は頷くように体を捻る。

「金がなくては何事も始まらんからな」

「おやまぁあらまぁ。また随分と、あなた方は乾いてらっしゃいますねぇ」

デイビットは上半身を屈めて、彼女の視界に入り込む。フィフィリアンヌは、目の前の幽霊を見上げる。

「戦争は好かんが、社会正義に興味はない。他人の争い事に首を突っ込んで、無駄な出費はしたくない」

「出費かよ」

地面から、ギルディオスが呆れたような声を出した。視点が低すぎて、今ひとつ周囲の状況が掴めない。
ギルディオスがこの状況になったのは、数日前からだった。甲冑とバスタードソードを、修繕に出してきたのだ。
自宅の刀剣コレクションを売って金を作り、鍛冶屋ガロルドと防具屋に、なるべく早くするよう頼んで任せてきた。
甲冑を整備に出すということは、現在の肉体から離れなければならないということだ。結果、この姿となった。
代用の肉体を見つけることが出来なかったので、ギルディオスは仕方なしに、魔導鉱石だけとなっている。
動くことも出来ないので、フィフィリアンヌに持ち運ばれて生活をしている。というか、連れ回されている。
一人にされると寂しいので、ギルディオスから頼んだことであった。普段の状況と、あまり大差はないのだが。
真っ平らな地面やテーブルから景色を見ていると、伯爵の視点が解り、面白いといえば面白かった。
しかし、結局は暇だった。体も動かせないし、剣の修練も出来ないので、仕方なく彼らと会話を繰り返していた。
目の前で大きく開かれているフィフィリアンヌの股ぐらから視点を動かし、ギルディオスは真後ろへ向けた。

「どうかしたのか、セイラ?」

普段であれば、セイラは会話に混ざるか歌っている。だが今は、そのどちらもせず、ぼんやりしている。
ざばざばと水を掻き分けて湖から出てきた巨体は、のんびりとした動作で四人の元へ歩み寄ってきた。
まだセイラに慣れていないのか、デイビットは表情を曇らせて後退した。幽霊の反応に、セイラは瞼を伏せた。
恐れられるのには慣れてはいるが、やはり気分の良いものではない。デイビットは、貧相な体格を縮めている。
気を取り直し、セイラは主の少女を見下ろした。自分の影の下、フィフィリアンヌはこちらを見上げている。

「来ル」

「何が来るのだ、セイラ?」

フィフィリアンヌの声は、心なしか優しかった。セイラは身を屈め、彼女の目線まで顔を下げてやった。
ヒレの付いた耳元まで裂けて牙の並んだ口元を、にたりと広げた。巨大な単眼を細めると、不格好な笑顔になる。
フィフィリアンヌの手が頬に触れると、その笑顔は更に嬉しげになる。セイラは、単眼をぎょろりと動かす。
単眼は、城を包むように広がっている森へ向けられた。つられるように、フィフィリアンヌもそちらを見る。
青々と茂った木々は、夏が近いことを知らせている。春にしては強めの日差しを浴びて、濃い影が出来ていた。
森は、静かだった。フィフィリアンヌ、すなわち竜族がいるせいで、獣がほとんど逃げ去ってしまったからだ。
セイラは背筋を伸ばすと、高く澄んだ声を出し、周囲に響かせる。声を止めてから、機嫌良さげに言う。

「来ルノハ、セイラノ」

言葉の最後は、湖面から飛び立った鳥の羽音で掻き消された。ばしゃばしゃばしゃっ、と遠くで水が散っている。
セイラは嬉しそうに笑ったまま、歌い始めた。歌詞のない、旋律だけの拙い歌を、清らかな音で紡いでいく。
その歌声は、湖だけでなく、周囲の森一帯に響き渡っていた。




聞き慣れない音に、ランスは足を止めた。
風に乗って、やけに綺麗な歌声がする。隣で荷車を引くパトリシアも気付いたのか、立ち止まった。
二人は西の森への入り口、フィフィリアンヌの以前の家に繋がる道の前に立っていた。歌声は、止まない。
深い森は山の斜面に繋がっていて、その奥に湖と彼女らの城がある。ランスは感覚を澄ませて、根源を探った。
遠くはない。だが、あまり近くではない。ランスはこめかみに指を当て、んー、と少し唸った。

「この歌の出元、フィフィリアンヌ・ドラグーンの城辺りかなぁ。音の大きさと聞こえ方からして」

「じゃ、あのセイラって魔物が来たのかしらん」

がしゃり、と荷車を引いて、パトリシアはランスを見下ろした。ランスは、彼女の引く荷物が少々気になった。
人の形をした物が、布を被せられている。その傍らには、膨らみの身長の三分の二はある、剣が縛られていた。
まるで、死体である。ランスはがりがりと前髪を掻きながら、前日に防具屋へ言った言葉を後悔していた。

「組み上げてもらわない方が、良かったかなぁ…」

「そうねぇーん」

振り返り、パトリシアは渋い顔をした。荷車に、布を被った空っぽの甲冑とバスタードソードが縛り付けられている。

「嫌でも思い出しちゃうわよん。ギルさんが、死体になって帰ってきたときのこと」

「あ、やっぱり?」

「あの時もさぁ、ギルさんの死体はこんな感じで持って帰ってこられたでしょーん? 似てるのよねぇ状況が」

「まぁねぇ。でも今回は死体じゃないから、まだいいけどさ」

ランスが歩き出すと、パトリシアも歩き出した。ごろごろと荷車の車輪が回り、軽々と引かれていく。
二人は、整備の終わったギルディオスの甲冑と剣を届けに行く最中だった。無論、本来の二人の仕事ではない。
今日に限って、魔物討伐の案件がなかったのだ。そして丁度この日に、甲冑と剣の双方が仕上がったのだ。
鍛冶屋であるパトリシアの実家は、剣を請け負っていた。なので彼女は、父親から届けるように頼まれた。
最初はバスタードソードだけだったのだが、途中で顔見知りの防具屋と会い、せっかくだからと甲冑も頼まれた。
ランスは、パトリシアの父親と防具屋から渡された請求書を広げた。請求額は、合わせて金貨四十枚だ。

「パティ。最初の見積もりより高くなってない、これ?」

「えーそぉ?」

パトリシアがずいっと顔を出したので、ランスは彼女の前に二枚の紙を差し出す。

「だってほら。パティんちの方、最初は金貨十枚で済むはずだったのに、十五枚になってるよ」

「ああ、きっとあれだわ」

姿勢を戻し、パトリシアは細い道の前方を見据えた。背の高い針葉樹に挟まれた道が、ずっと奧まで続いている。

「最近、鉄鋼の値段が上がってるのよ。剣の修繕って新しい鋼鉄を使うから、その辺の経費なのよん」

「ああ、そうだっけ。帝国も王国も、鉄を掻き集めてるからなぁ」

戦争が近いのかな、とランスはため息を吐いた。パトリシアは、そうねぇ、と嫌そうにする。

「そうなっちゃったら、私達も商売上がったりよねぇーん。戦いが起これば、魔物なんてどうでもいいもの」

「まぁ、近頃は帝国も資金不足みたいだし、起きても小競り合い止まりかな」

請求書を折り畳みながら、ランスは呟いた。先日王宮で見てきた、王国軍の勢力分布図を思い出していた。
王国の戦力は年々増していて、過去に帝国に奪われた領地も取り返してしまうほどの力を持つようになっていた。
しかしそれは、帝国だけではなく、王国の民衆にとっても脅威だった。軍の維持のために、税金が上がったのだ。
金や物資が王家に流れる、すなわち、世間から物が減るということである。必然的に、物価は上がり始めていた。
元々物価が高めの王都では、それが顕著で、以前は銀貨一枚だった穀物一袋が、銀貨二枚ほどにもなっている。
そのことで、メアリーは複雑そうにしていた。戦争が起きれば傭兵の出番だが、物価が高いと家計が困るのだ。
近年、ぎりぎりの均衡を何年も保っていた両国の関係が、以前にも増して危ういものとなっていた。
だがここ最近、帝国は以前のような絶対的な武力を失い始めており、そこを王国や周辺諸国に狙われてしまった。
実際、帝国の北部では、他国との小競り合いで帝国が負けている。帝国の弱体化の原因は、はっきりしていた。
ドラゴン・スレイヤーである。本来兵士となる若者達をドラゴン・スレイヤーに仕立て、軍に入れなかったからだ。
おまけに、竜族討伐にかまけて国内の政治が疎かになり、皇族の一部が改革派に暗殺されてしまう始末だった。
王国が竜族に力を借りたくなるのも、ランスは解る気がした。この状態の帝国には、簡単に攻めることが出来る。
歩兵部隊でじりじりと囲むだけでなく、空中から攻めることが出来れば、帝国の帝都は容易く陥落させられる。
でもなぁ、とランスは思った。竜族は手を貸さないだろうし、たとえ貸してくれても、完全に味方にはならないだろう。
平和主義っつーか、事なかれ主義なんだよなぁ。と、先日、城に訪問した際に、ギルディオスが話してくれた。
ランスは、絡み合う枝と葉の隙間を見上げた。切れ切れの日光が煌めいていて、その奧に空が見えた。

「忙しいねぇ、お偉方は」

「ホントよねぇ」

ランスに同調し、パトリシアは首を振ってみせる。歩いていくと、次第に道は荒れてきて、道ではなくなった。
人が通った痕跡はあるのだが、土は踏み固まっていない。僅かな足跡は、気を抜けば見失ってしまいそうだった。
ランスは歩きながら、自分の足跡と比べてみた。ギルディオスのものである足跡は、倍近くあった。
木の根が行く手を遮るように、地面から突き出ている。その度に荷車は引っかかったが、強引に引っ張られた。
どがっしゃん、と激しい金属音がした。見ると、パトリシアが息を荒げ、荷車を根の間から引き出していた。
ランスは、その強靱な腕力に感心すると同時に、感謝していた。自分だけでは、とてもじゃないが運べない。
珍しく呼吸を乱しているパトリシアは、紅潮した頬を拭った。力を込めて足を踏ん張り、荷車を引き上げた。

「うおっしゃあ!」

がどん、と太い根の隙間から車輪が引き出された。がっしゃん、と荷車は揺れ、縛られている甲冑が少しずれた。
そのまま、パトリシアは数歩進んだ。ゆるやかだが勾配の付いてきた地面を、大股に歩いて昇っていく。
しばらく進んで、荷車は障害物のない場所に辿り着いた。木々の間隔が広い空間に、パトリシアは足を止めた。
ランスは荷車の車輪痕を追い、パトリシアに追い付いた。すると彼女は、ランスへちらりと視線を寄越す。
一転して、表情が締まっている。ランスは何事かあると察し、杖を握り締めて構え、魔力を高めていく。
ぎぃぎぃぎぃ、と鳥が羽ばたいていった。森に漂う空気に、何者かの気配が混じっているのは、明白だった。
ランスは使う魔法を何にしようか考えながら、パトリシアの隣に立つ。なるべく簡単で確実なのにしよう、と思った。
腰を落として拳を握ったパトリシアは、目を動かした。右手を睨むと、がばっと体を向ける。

「そこぉ!」

彼女の声に反応し、がざっ、と草むらが動いた。伸びた草の隙間で、金色が光った。
茶色い固まりが、弾かれるように飛び出してきた。たん、と足を付いて、一気に間合いを詰めてくる。
パトリシアが構えていた腕を広げると、茶色の影は途端に飛び込んできた。その顎を、彼女の拳が突き上げる。
ごっ、と鈍い音がした。茶色い影は、不意の一撃に頭を反らした。二三歩、後方へよろけていく。
パトリシアはその胸元へ、下方から拳を打ち込んだ。毛深い鳩尾に、めきり、と深く拳が没し、影は呻いた。
そして下半身を捻ったパトリシアは、飛び上がり様に蹴りを放った。側頭部を蹴られた影は、滑るように転倒した。
すたん、と軽く着地したパトリシアは、広がってしまったスカートを押さえた。いやぁん、と身を捩る。

「ランス君、見たぁ?」

「…別に」

ランスは、力なく苦笑いした。戦闘時との落差には慣れているが、切り替えの早さには付いていけない。
パトリシアは手袋を填めた両手を払ってから、足元を見下ろした。昏倒しているのは、ワーウルフだった。
鼻が突き出て耳の尖った顔に、がっしりとした体付き。上半身を軽い鎧で覆ってズボンを着込み、尾も生えている。
しかし、その背には翼が生えていた。濃い茶色の体毛に似合わない、鳥人族のそれと似た純白の翼だ。
よく見ると、足もそんな形をしている。猛禽類のような鉤爪を持っていて、肌の色も違っている。
ランスはパトリシアと顔を見合わせていたが、今一度、この妙な魔物を見下ろした。自然の物ではなさそうだ。
有翼の人狼は唸り、上半身を起こした。何度か目を瞬かせていたが、跳ねるように起き上がり、身を下げる。
パトリシアが構えると、有翼の人狼は戦う姿勢を取った。有翼の人狼は、困ったような声を出した。

「…あのさぁ、姉ちゃん」

「何よぅ!」

がしっと拳を握り、パトリシアは突き出してみせた。有翼の人狼は構えを解き、肩を落とす。

「人が名乗る前に、殴り倒さないでくれよ」

「でも、襲われたら、普通は応戦するもんなんだけど」

戦わなきゃやられるし、と、ランスは言いながら杖を動かしていた。がりがりと、地面に魔法陣が描かれていく。
黙々と文字を書いていくランスに、有翼の人狼は目元をしかめた。毛深いので、表情が解りづらかった。

「まぁ、そりゃそうだが…。でも普通は、オレが名乗ってから事を始めるべきじゃないのか?」

「あんたの口上を待たなきゃ、戦っちゃいけないの? そんなの、面倒だからいやーん」

ぱしん、とパトリシアは拳を手のひらに当てた。有翼の人狼は、あー、と変な声で唸る。

「いや、まぁなぁ…。だが、オレにも体面ってやつがあるし、なにより悪役のお株を奪わないでくれよ」

「悪役なの?」

魔法陣を描き終え、ランスは有翼の人狼に向き直った。杖を突き立てて、魔法を発動させられる状態にした。

「悪役なら悪役らしく、一撃で吹っ飛ばされて欲しいな」

と、ランスはにやりと笑った。高まっていく魔力を感じ、有翼の人狼は慎重な動きで身を下げていく。
ランスは魔法陣に注ぐ魔力を絶やさずに、有翼の人狼を眺めた。妙な外見の中でも、瞳の色が変わっていた。
金色なのだ。赤みがかった薄黄色、というか、深い金色の瞳をしている。先程、草むらで光ったのはこれだろう。
その色に見覚えがあるような、ないような。ランスは奇妙な既視感を感じていたが、理由は解らなかった。
有翼の人狼は、その瞳を強めた。どん、と地面を強く踏んで飛び上がると、大きく翼を広げる。
途端に、ランスの目の前に影が降ってきた。ランスは杖を横にして素早く前に突き出すと、衝撃がやってきた。
有翼の人狼の拳が、杖の側面を殴っている。ぎりぎりと押し合っていたが、ランスは声を上げた。

「我が命により、出でよ、大地の切っ先よ!」

黒い固まりが足元から突き出、有翼の人狼とランスの間に割って入った。土の槍が、ぼこぼこと伸びていく。
杖を引いて身を下げたランスの前を塞ぐように、次から次へと生えてくる。あっという間に、土の要塞が出来る。
有翼の人狼は後退しようとしたが、前後左右に土槍が溢れ、行く手を塞がれた。ランスは、軽く舌打ちした。

「あー、不完全…」

かっ、と地面を杖の先で叩いた。すると土槍の側面から、細い土槍が伸びて内側に向かった。
それは有翼の人狼を貫くかと思われたが、貫いたのは、反対側の土槍だけだった。どごっ、と土が土を抉った。
影を感じ、パトリシアは頭上を見上げた。荒い息をしながら、太い枝の上に有翼の人狼が立っていた。
一瞬の間に逃げたようで、翼を大きく広げている。重たそうな外見に反して、動きはやけに俊敏だ。

「なんで逃げるのよぉー」

パトリシアがむくれると、有翼の人狼は怒り気味の声を張り上げた。

「何しやがんだぁ! 逃げられたから良かったが、あんな追撃、無茶苦茶じゃないかぁ!」

「正攻法だよ。僕としてはね」

ランスは、もう一度地面を杖で突いた。硬い金属音のあと、土槍は力を失い、ぼろぼろと崩れ落ちていった。

「大体、一度動きを封じたあとに、新しい魔法で追撃なんかすると思う? そんなの面倒だし隙が出来るから、ああやって応用した方が確実じゃない」

「…無茶苦茶だな、少年よ」

有翼の人狼は変な顔をした。ランスは、そうかな、と首をかしげる。

「ごく一般的な戦法だと思うけど」

「ていうかぁ、戦いに礼節みたいなの求められてもぉ、正直困っちゃうのよねぇーん」

いつでも殴れるように拳を握り、パトリシアは有翼の人狼を見上げた。

「それと、一度殴られたら動かないでくんない? あのあと、顔に膝でも落としてやろうと思ってたのにぃ」

「でも、なんでいきなり襲ってきたわけ?」

新しい魔法陣を描きながら、ランスは尋ねた。有翼の人狼は、荷車の上を指す。

「オレはそれを壊すように命じられてな」

「父さんを?」

「それ…お前の親父さんなのか? 無機物だぞ?」

「冗談だよ。父さんの本体は別にあるから」

ランスは荷車に近付くと、かっ、と杖を荷台に突き立てた。ひゅおん、と風が巻き起こり、布の回りを巡る。
枝の上に立つ有翼の人狼を、ランスはじっと睨み付けた。片手を挙げて、魔法を放てる状態にした。

「だけど、これは僕の父さんの大事な体だから、壊されちゃ困るんだよね」

「だが、オレも仕事なんでね!」

枝を蹴り、有翼の人狼は躍り出た。しなやかに伸ばした体を瞬時に縮め、荷車の隣に膝を付く。
立ち上がって腕を振り上げたが、その腕を蹴り上げられた。しまった、と聞こえたあと、茶色の影は転んだ。
今し方まで有翼の人狼が立っていた位置に、パトリシアが振ってきた。地面に押し倒し、膝を腹に叩き込む。
ひっ、と小さく悲鳴を上げた有翼の人狼は、強かに側頭部を殴り付けられた。強烈な衝撃に、頭が反れる。
金色の瞳は半目になり、でろりと口元が緩んだ。今の一撃で、有翼の人狼は気を失ったようだった。
ふう、と息を吐いたパトリシアは立ち上がった。スカートの汚れを払って直してから、荷車の持ち手を取った。

「じゃ、行きましょっかぁ」

「魔物の刺客なんて初めてだなぁ。しかも喋るし」

だらしなく倒れている有翼の人狼に背を向け、ランスは歩き出した。少し前を、パトリシアが行く。
道幅は更に狭くなり、森は深くなっていった。時折車輪を引っかけながらも、荷車は強引に進んでいった。
二人の足音が充分遠ざかったあと、二つの影が現れた。女の影が、倒れている有翼の人狼を見下ろしている。
片方は、しゅるりと木の上から降りてきていた。白く粘ついた糸を腕に絡め、背中の八本足を蠢かせる。
女の影は、ゆらりと細長い尾を振った。有翼の人狼を抱き起こし、吊り上がった金色の瞳を丸める。

「おっどろいた」

「僕も」

糸を切り、すたんと飛び降りた。背中の八本足を縮めたその者の額には、これまた八つの目玉が付いている。
だがその下に、人間のような目も付いていた。いずれも見事な金色で、有翼の人狼とほとんど同じ色をしていた。
体の至るところが甲虫のような装甲に覆われ、黒光りしていた。両腕には、鋭い毒針が備え付けられている。
ぐったりしている有翼の人狼を抱いている者は、人間の女のような体形をしているが、姿形は獅子に良く似ていた。
尖った耳がタテガミのような赤茶けた髪から突き出ていて、手足には鋭い爪が付いている。獅子の女は、呟く。

「まぁさか人間風情に、お兄ちゃんが倒されちゃうなんて」

「しかもあの子、女の子だよ。僕、怖いなぁ」

クモの姿に似た男は、装甲の付いた肩を縮める。気弱な声に、獅子の女はため息を吐く。

「じゃ、次はあたしが行くよ。その代わりあたしが負けたら、次はあんただからね」

「えー、やだよぉ! 僕、あんなに凶暴な女の子と戦いたくない!」

泣きそうな声を出したクモ男に、獅子の女は面倒そうな目になる。ぱしん、と細い尾で地面を叩く。

「じゃ、あの魔導師のガキにすりゃいいでしょ」

「あっちもやだぁ。性格悪そうだし目付き悪いし、僕、ああいう子って嫌い」

きらーい、と伸ばしながらクモ男は目元を歪めた。長身で体格が良いくせに、言動がやたらに幼い。
獅子の女は有翼の人狼を座らせ、木に寄り掛からせた。はあ、と大きく息を漏らす。

「我が侭言うんじゃないの。全く、あんたは今年でいくつだと思ってるの」

「四つ」

クモ男は、真っ黒な手を広げて親指を折る。獅子の女は、毛に覆われた胸の前で腕を組んだ。

「三本ツノの方が、年下だけどまだ聞き分けがあったよ。ちったぁ成長しなさい」

「だあってぇ」

情けない声を出し、クモ男は項垂れる。全くもう、と獅子の女は呆れたように言い、顔を伏せた。

「三本ツノかぁ…。あの子、生きてるかなぁ」

「さっきの歌、お姉ちゃんも聞いただろ? きっと生きてて、近くにいるんだよ!」

「だったら、お兄ちゃんが嗅ぎ付けるはずだよ」

クモ男に言い返し、獅子の女は有翼の人狼へ目を向けた。目が覚める気配はなく、ぐったりとしている。
そうだよねぇ、とクモ男は目を伏せた。額の八つの目玉も、同じように動いて伏せられた。
獅子の女は目を閉じ、感覚を澄ませてみた。風は、王都から吹き付けている。様々な匂いが、混沌としている。
歌も、今は止んでしまっている。最初は空耳かと思ったが、あれは間違いなく、兄弟の歌声だった。
近くにいるはずだ。そう思って魔力を感じようとしても、何かが邪魔をする。背筋に走る恐怖が、阻んでいる。
クモ男が、ぶるりと体を震わせた。この森に足を踏み入れてからというもの、どうにも調子が悪いのだ。
潜在的な恐怖。圧倒的な威圧感。正体の掴めない、いや、正体を掴みたくないものが、すぐ近くにいる。

「やだなぁー」

気弱に、クモ男は洩らした。がしゃがしゃり、と背中の足で体を包む。

「ドラゴンなんて、いなきゃいいなぁ」

「いたら、そのときはそのときだよ」

「戦うの、お姉ちゃん?」

「いや。逃げる」

真顔で、獅子の女は胸を張った。だよねぇ、とクモ男は笑う。

「あんなのと戦ったら、僕達は死んじゃうもんね。あーでもさ、お姉ちゃん」

「何よ」

「この森にドラゴンがいてー、そのドラゴンがー、三本ツノを捕まえてたり閉じこめてたりしたら、どうするの?」

クモ男が言うと、獅子の女はすぐさま返した。

「戦う」

「だよねぇ」

うんうんと頷き、クモ男は顔を上向けた。ふっ、と小さな吐息のような音の後、覆面の口元が割れて糸が吹き出す。
太い枝に、白く粘ついた糸が絡んだ。クモ男は覆面の口元を閉じて糸を切ると、くるりと手首に巻き付ける。
軽い反動を付けると糸が縮み、クモ男の影は消え失せた。たん、と軽い着地音が、枝の上からした。
糸の束を手首に付けたまま、クモ男は身を乗り出した。枝の上から顔を出し、獅子の女へ手を振ってみせる。

「それじゃ、僕は先回りしておくね。挟み撃ちってのはどう?」

「ま、それなら確実でしょ」

獅子の女の返事が聞こえる前に、クモ男は枝を蹴っていた。ばさり、としなった枝が葉同士をぶつけて鳴った。
音のない着地音が何度かし、それが遠ざかっていった。獅子の女は、まだ気を失っている有翼の人狼を見た。
思っていたよりも、あの聖職者の女の蹴りは凄まじかったようだ。獅子の女は、肩を竦める。

「おーやだやだ。これだから、人間って怖いんだよねぇ」

くるりと後方に背を向けてから、横顔だけそちらに向けた。ぎらついた目を動かして、森を舐めるように見回す。
人の気配と、視線がある。恐らくは二人。後方に潜んで、こちらの隙を窺っているのが解った。
僅かに、有翼の人狼が身動きした。薄く目を開き、へたれていた耳をぴんと尖らせた。金色の目が、合う。
声を落とし、獅子の女は呟いた。有翼の人狼にだけ聞こえるよう、ごく小さく囁いた。

「お兄ちゃん。あいつら、帰らせておいてね」

「ああ。無駄な犠牲はごめんだからな」

片目を閉じてみせてから、有翼の人狼はまた目を閉じた。獅子の女は笑うと、頷く。

「だね」

そして背を向け、獅子の女は駆け出した。爪を地面に噛ませ、道から外れて木々の隙間を縫うように駆ける。
クモ男よりは音はあるが、それでも足音は小さかった。草の揺れる音だけが、次第に遠ざかっていく。
有翼の人狼は耳を立てていたが、それを伏せた。片目だけを開け、後方をじっと睨み付けた。
金色は、人の姿を捉えた。


金色の輝きに、彼はびくりと肩を震わせた。
木の陰から様子を伺っていた少年は、ターバンのように巻いた布を下げて目を隠した。恐る恐る、下がる。
すると、背中に人間がぶつかった。その男は、ぐいっと少年のターバンを押し下げて、彼の耳元で言う。

「目が合ったのか」

「ふぇい」

情けない声を出し、少年は体を縮めた。薄い布を重ねて纏っている、砂漠の民に似た軽装をしていた。
だが、その腕に巻かれた布やブーツの隙間には、針や短剣が仕込まれている。なので、動くと金属音がした。
後方の男は、体格を隠すような黒い外套を着ていた。肩から上半身をすっぽり覆い、下半身も布を巻いている。
黒衣の男は少年を後方に押しやると、軽く跳ね、木々の隙間から道に出た。長身にも関わらず、かなり身が軽い。
ほとんど足音を立てずに、足を曲げて着地した。直線上の空間には、ゆらりと立ち上がった有翼の人狼がいる。
黒衣の男は、同じく黒の覆面を外した。フードも後方に放り、左目に眼帯を付けた顔を露わにした。

「少なくとも、同業じゃなさそうだな」

「どうします、マークさん?」

恐る恐る、少年は顔を出した。ランスよりも少々小柄で日に焼けた肌をしており、顔立ちには幼さが残っている。
眼帯の男は覆面を戻し、ざっ、と木の陰に舞い戻ってきた。少年の傍に、するりと体を滑り込ませる。

「あんな変なのと戦う気はない。逃げるぞ」

「え、でも、魔物と会ったら戦うのが世間の常識じゃないっすか?」

「馬鹿。そりゃ冒険者だ、オレらは違うんだよ」

目測で有翼の人狼との距離を測りながら、眼帯の男はじりじりと身を下げた。そして背を向け、駆け出した。
木々の間を滑るように、慣れた足取りで走っていく。黒衣はあっという間に遠ざかり、見失いそうになった。
少年は、慌てて追いかけた。途中で何度も足を引っかけ、転びそうになりながらも、眼帯の男を追った。
木々の間隔が広がり、差し込む日差しの量も増えた。眩しさを覚えながら、少年は駆けていった。
隙間の空いた草藪を抜けると、森の外へ出た。草原の手前に、夜から切り取られたような影が待っていた。
黒衣を風になびかせ、眼帯の男が立っていた。彼は少年が追い付いたのを確認してから、草原へ向いた。
息を切らせて背を曲げている少年を横目に、眼帯の男は草原を見つめていた。ちぃ、と小さく舌打ちする。

「なんつう厄介な相手だ。クモ男と獅子女の会話が本当だとすれば…奴は竜騎士かなんかか?」

「え?」

汗の滲んだ額を拭い、少年は顔を上げた。馬鹿、と眼帯の男は口元を曲げる。

「あんな至近距離の会話、聞き取れないでどうするよ」

「あ、すんません」

「訓練しとけ」

ばさりと黒衣を広げ、眼帯の男は倒木に腰掛けた。苔生して朽ちかけた巨木に、黒が乗る。
長い足を組んで頬杖を付き、ちらりと森の上方を見上げた。ゆるやかな山の斜面に、深い森がある。

「こりゃ参ったな。単なる剣士かと思ったら、とんでもない連中が味方に付いてやがる」

眼帯の男は、拗ねたような顔になる。敵が多すぎては、仕事がやりづらい。

「魔導師の息子、傭兵のカミさん、あの聖職者の女、ワイバーン持ちの貴族のお坊ちゃん、変態男色呪術師。その挙げ句に、竜族までいるなんてよ」

「全部、あの女の情報通りっすね。このまま行けば、あれも、もしかして本当なんじゃないっすか?」

乱れた服を直しながら、少年は笑った。眼帯の男は、嫌そうにした。

「ありゃいくらなんでも嘘だろ。魂を魔導鉱石に入れて、あのでかい甲冑を動かしてるってのは」

「でも、それが本当だとしたら?」

少年が言うと、眼帯の男は腕を組んだ。そうだねぇ、と顎に手を添えた。

「魂を突っ込んであるっていう、上物の魔導鉱石を奪うまでだ」

ざあ、と草原を風が吹き抜けた。青く茂った長い草が揺さぶられ、眼帯の男の黒衣を大きく広げていく。
死に神のような影に、少年は見入ってしまった。切れのある刃物のような目をした、彼を尊敬して止まない。
凄腕の盗賊一族に生まれながらも、一人で稼ぐために賞金稼ぎとなった、眼帯を付けた孤高の賞金稼ぎ。
過去に傭兵と組んでいた、とも噂されるが、その実は定かではない。事実、彼はそれを否定している。
だが、その戦法の力強さは盗賊のものではない。正面から戦うことを好んでいて、後ろを攻めるのが嫌いだ。
少年は、にやりとしている眼帯の男の横顔を見上げていた。眼帯に隠されていない右目が、細められている。
濃い茶色の瞳が、森の奧にあるであろう城を睨んでいた。少年はぐっと拳を握り、声を上げた。

「大丈夫っすよ、マークさんなら絶対に仕留められますよ! 他の賞金稼ぎとは違うんすから!」

まるでこちらを見ない眼帯の男に、少年は嬉しそうに叫ぶ。

「天下のマーク・スラウにとっちゃ、ギルディオス・ヴァトラスなんて敵じゃないっすよぅ!」

「騒ぐな馬鹿」

すいっと手を差し出し、眼帯の男は少年の額を弾いた。ばちん、と割と大きな音がし、少年は額を押さえた。
三年前に部下にした孤児の少年、ジャックは腕も良いし聞き分けもあり、有能なのだが、お喋りなのが困りものだ。
マークは常々、彼の口の多さには辟易していた。今も、あのおかしな魔物達がいないとも限らないのに喋っていた。
いつ、余計なことを喋ってしまうか解らない。それが不安であったが、せっかく手懐けた者を手放すのは惜しい。
マークは、昨夜の酒場でのやり取りを思い出した。短く髪を切った魔導師風の女に、こう囁かれたのだ。
あのギルディオス・ヴァトラスの居場所は、知っているかしら。知らないでしょうね、それが普通だわ。
マークは足で調べるつもりだったので、教えて貰わなくていい、と断ったら、女はくすりと楽しげに笑った。
だったら、私の言葉は助言程度に考えてくれてもいいわ。随分と用心深い、賞金稼ぎさんね。
そして女は、様々な情報を与えてきた。ギルディオス・ヴァトラスの居場所、その周囲の者達の情報、などなど。
あまりの都合の良さに、罠でもあるかと勘繰ったが、それはなかった。妙な連中はいたが、襲っては来なかった。
だが、何かあるのは間違いない。真正面からギルディオス・ヴァトラスを狩るのは、多少危険かもしれない。
マークはどうやって甲冑の男を攻めようかと、戦略を練り始めた。また、傍らでジャックが喋り始めた。
聞いていて恥ずかしくなるような賛辞の言葉で、マークを褒め称えている。マークは、もう一度その額を弾いた。
乾いた音が鳴り、ジャックの唸り声が草原に響いた。








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