ランスは、思わず目線を反らした。 行く手に座り込んでいるのは、またもや魔物だった。額に八つの目を持った、金色の瞳を持つクモ男。 だがそれは、泣いている。いーやー、と子供のような声を上げて顔を振り、わんわん泣いている。 「やーだぁー!」 ランスは、パトリシアと顔を見合わせてしまった。彼女も不可解そうに、思い切り変な顔をしている。 クモ男は、額の八つの目と人間のような目から、ぼろぼろと涙を零している。ひくっ、としゃくり上げた。 「お姉ちゃん、なんでいないのさぁー! やだぁ、僕、一人で戦うのなんてやだぁ!」 こんなのとは絶対に関わりたくない、とランスは痛切に思った。だが、それはもう無理な話だった。 ランスとクモ男の間には、べっとりと白い糸が落ちている。それは崩れ去ったクモの巣で、魔法で壊したのだ。 最初、クモ男は木の間に張ったクモの巣の向こうにいた。巣の隙間から糸を吹き付けて、毒液で地面を溶かした。 それらを避けたランスとパトリシアが応戦し、ランスが魔法で起こした風でクモの巣を壊したところ、こうなった。 しゃがみ込んで、いきなり泣き出したのだ。いやーいやー、と連呼し、まるで駄々をこねる子供のようだった。 クモ男は、ぷいっと顔を逸らした。覆面のような顔のせいで表情は見えないが、恐らくはむくれている。 「僕、こんな子と戦いたくないもん。きらーい」 「あのさぁ、好き嫌いで戦闘を中断しないでくれる?」 呆れ果て、ランスは構えを解いた。足元に描き終えた魔法陣は、既に魔力を含み、弱い風を巻き起こしている。 クモ男は膝を抱え、ふん、と拗ねた声を出した。背中を丸めると、背から生えた八本の足が縮まる。 「やなもんはやなんだもん」 「…反抗期?」 想像し得ることは、それぐらいだ。昔は僕もこういう時期があったよなぁ、とランスはちらりと思った。 毒液によってじゅわじゅわと溶けていく地面が、嫌な匂いを発していた。パトリシアは、毒液とクモ男を見比べる。 「かもねーん。魔物にも反抗期があるなんて、知らなかったけどぉ」 「なんでもいいけど、そこ、どいて。早いとこ、父さんの体を持って行かないと」 ランスが手を挙げると、クモ男は顔を伏せた。ひゃくっ、と肩を震わせてしゃくり上げた。 「やだよぉ。ダメなんだよぉ」 「何が」 「そうさせちゃダメって、言われたんだもん。その鎧を、ぶっ壊してきなさいって命令されてるんだもん」 「誰に」 「言ったら苦しくなっちゃうんだもん。言えないんだもん」 「なんで」 「だって僕、契約獣なんだもん。主人の命令には逆らえないんだもん」 「じゃ、なんで戦わないのさ」 「いやなんだもん。痛いのやだし、毒出すと喉が痛くなるし、糸もあんまり出すとお腹が空いちゃうし」 「…それは僕も同じだけど」 げんなりしながら、ランスは変な笑いを浮かべた。魔法を使えば集中力も失せるし魔力も減り、やはり腹が減る。 だからいやー、とクモ男は顔を逸らした。漆黒の装甲に包まれた魔物らしからぬ動作が、おかしかった。 これが子供であれば可愛気もありそうなものだが、魔物なのだ。クモに良く似た、体格のいい人間型の魔物。 あまりの我が侭振りに、ランスはなんだか苛々してきた。ずかずかと歩み寄ると、クモ男は睨んできた。 「なんだよぉ。あっち行ってよ!」 「そりゃ僕が言いたいことだ。どくんならどいて」 「どかないもーん。どいたら、お姉ちゃんからダメな子ーって言われちゃう」 「僕も言いたいよ。ホントにダメだよ、お前」 「ダメじゃないもん。ちゃんと戦えるもん」 「じゃ、戦ってよ」 「やだぁ」 そっぽを向いたクモ男を、ランスは力を込めて蹴ってやった。肩を蹴ると、容易く後方に転んだ。 ずしゃりと背中から倒れたクモ男は、しゃくり上げた。そしてまた、激しく泣き出した。 「いーじーめーたぁー!」 「戦闘中に蹴っ飛ばされたら攻撃って言え、攻撃って! 人聞きの悪いこと言うな!」 苛立った声を上げ、ランスは杖でクモ男を指した。クモ男は涙混じりの声で、更に叫ぶ。 「だってー、痛いんだもん!」 「攻撃されたら痛くて当然だろ! ていうかもう泣くな、鬱陶しいし話が進まないし!」 「だってー」 「もうだっても嫌だも言うなぁ、やかましいんだよ! 言葉封じの呪いでも掛けてやろうか、じゃかあしいな!」 息を荒げるランスの背に、パトリシアは苦笑した。そっと歩み寄り、苛立ちに震えている肩を叩く。 「ランスくぅん、そこでキレてもどうにもなんないと思うけどぉん」 「じゃ、パティはキレない自信ある?」 据わった目で、ランスはパトリシアを見上げた。パトリシアは、曖昧な笑顔になる。 「…ないかもぉ」 後ろに転ばされた姿勢で、大きく足を広げ、クモ男は泣きじゃくっている。次第に声が上がり、喚き始めた。 ランスは、じろりとクモ男を睨んだ。いっそ、炎の最大魔法で焼き尽くしてやりたくなっていた。 だがそんなことをしたら、森が焼けてしまう。森が焼けたら精霊達がうるさいので、やるにやれないのだ。 やり場のない苛立ちに、ランスはがんがんと杖を地面に打ち付けた。呪文を唱えていないので、魔法は出ない。 しかし、もう唱えてやろうかと思った。先程描いた魔法陣は雷撃なので、それなりに威力はあるものだ。 それをクモ男に落としてやりたくて、仕方なかった。この泣き声を止ませたい衝動が、どんどん強くなる。 辺り一帯に響く泣き声と、ランスが地面に杖を打ち付ける音で、ある音が紛れていた。次第に、それは近付く。 だがランスとクモ男は気付いていないらしく、感情を吐き出し続けている。パトリシアは、後方を窺う。 茂みと木の間に、ちらりと影が覗いた。直後、赤茶けた者が跳ねるように飛び出してきた。 パトリシアが振り返った瞬間、それは荷車に飛び降りた。どがっしゃ、と甲冑の上に立ったのは、獅子だった。 だが、体の形は人間の女に酷似している。大きな二つの乳房と下半身が、赤茶けた体毛に覆われている。 獅子の女は、ぺろりと赤い舌で口元を舐めた。太い牙の目立つ口元を上向け、爪の付いた手を振り上げる。 「いっただきぃ!」 鋭い爪の伸びた手が、甲冑を包む布にめりこもうとした、その瞬間。激しい閃光が、荷台から走った。 雷鳴に似た鋭い炸裂音が、空気を震わせた。獅子の女は動きを止めて、目を見開き、口元を歪めている。 がつっ、とランスの杖が地面を抉った。後方の荷車に振り返ったランスは、ぽつりと言った。 「ああ、そうだったなぁ。さっき、魔法掛けてあったっけ」 「こんの…」 痺れているせいで、獅子の女は声が震えていた。ランスは荷車に向き直り、杖を掲げる。 「簡単な、接触発動型の魔法だよ。さっきの人狼にやろうと思ったんだけど、パティが倒しちゃったから」 「解除、しとけよ…」 牙を剥いた獅子の女は声を上げたが、覇気がなかった。がくがくと震える膝を崩し、しゃがみ込む。 そのまま、ずるりと荷台から滑り落ちてしまった。獅子の女は地面に膝を付き、目元を歪める。 ランスの背後で、クモ男は泣くのを止めていた。十個の目を全て見開いて、呆然と座り込んでいる。 弱い風が、木々をざわめかせていった。ランスの紫のマントが広がり、少年の姿が少しばかり大きく見えた。 「念には念を。戦いの基本でしょ」 「…なんっか腹立つ」 ぎちり、と獅子の女は奥歯を噛み締める。ランスは、杖で獅子の女を指した。 「良く言われます。追撃は雷撃じゃなくて、炎がお好みかな?」 「骨まで、焼く気…?」 獅子の女の口元が引きつると、ランスはにたりと邪悪な笑みになる。 「そこのクモ野郎に散々苛々したから、魔力の制御が鈍ってるからねぇー。やろうと思えば出来るよ」 「あーもう、お前、帰れ!」 獅子の女は腹立たしげに、ランスの背後を指した。途端にクモ男は立ち上がり、後退る。 「だってー、お姉ちゃんが来ないからぁ!」 「あんたがちゃんと戦ってりゃいいことでしょうが、この泣き虫!」 「やーだー、お姉ちゃんが怒ったぁ!」 うわぁん、とまたクモ男は泣き出した。痺れが残っているせいで動きの鈍い手で、獅子の女は地面を殴った。 どごん、と拳が埋まって土が抉れた。ランスは泣きじゃくるクモ男と、かなり怒っている獅子の女を交互に見た。 これでは、戦いになどならない。ランスは杖を下ろして一息吐いてから、パトリシアを見上げた。 パトリシアもどうしたらいいのか解らないのか、首を捻っている。難解そうに眉をしかめて、唇を曲げていた。 この二人の目的は、最初の有翼の人狼と同じであるようだ。ギルディオスの甲冑を、破壊すること。 しかし、それにしては抜けている。抜けすぎている。魔物なのに、まるで戦闘に長けている様子がない。 普通であれば、こういう場合は感情の失せた、戦闘のために生まれてきたような魔物が仕向けられるはずだ。 だが、有翼の人狼といい、この二人といい、感情的すぎる。おまけに、クモ男は最初から戦意喪失している。 ランスとパトリシアを挟んで、獅子の女とクモ男は言い合いをしている。言葉尻からして、兄弟ゲンカだ。 お姉ちゃんが遅いんだもん、この愚弟が、だってやなんだもん、あんたはそればっかりじゃないか鬱陶しいな。 パトリシアは、本気でどうしたらいいか解らなくなった。双方を殴って、昏倒させるのは簡単だ。 だがそれでは、解決になるようでならない気がする。殴るべきか殴らざるべきか、パトリシアは本気で悩んだ。 ざあ、と木々が揺さぶられた。やかましい葉音の合間合間に、あの歌声が、混じっていた。 途端に、魔物達の言い合いは止まった。息も止めて、無心に上空を見上げ、清らかな歌声に聴き入っている。 それは東方の言葉で歌われる、子守歌だった。ランスは不思議と穏やかな気持ちになりながら、思い出した。 父親が話してくれた。セイラという名の異形は歌が素晴らしく上手く、特に子守歌が好きで、良く歌っていると。 傾斜の付いた細い道の、出口が塞がれた。巨大な影が木々を覆い、薄暗い森に一層暗さをもたらした。 また、新しい魔物の気配だった。ランスはすぐさま振り向いて構え、木よりも大きな影の主を睨んだ。 逆光の中、金色の単眼を光らせながら、三本ツノの巨体が立っていた。赤紫の肌をした、恐ろしい形相だ。 腰にはドラゴンのものと思しき赤い翼が生え、リヴァイアサンのような太い尾が伸びて、だらりとしていた。 頭を反らした異形は、背筋を伸ばした。どこか儚げだった歌声に力強さが出、空気を震わせていく。 空よ空よ、高くあれ。草木よ花よ、強くあれ。風よ光よ、清くあれ。炎よ、温かく穏やかにあれ。 この世を見下ろす、神の優しきゆりかごで、闇を避けて深く眠れ。愛しき我が子よ、どうか、健やかにあれ。 ゆっくりと、獅子の女が立ち上がった。見開いた大きな目には涙が満ち、潤みきっていた。 「…さ」 よろけながら、獅子の女は異形に歩み寄ろうとした。 「三本ツノ!」 「違うぞ」 異形の背後から、小さな影が現れた。赤い魔導鉱石の填った楕円形の金属板を抱いた、少女が立っている。 フィフィリアンヌは跪いた異形の腕に触れ、頬を寄せた。赤い瞳で、二体の魔物と二人の人間を見下ろした。 異形の手が肩に触れると、吊り上がっていた眉が緩む。フィフィリアンヌは、愛おしげに異形を見上げた。 「この者は、セイラという。私の愛しい友人だ」 「お、お姉ちゃん…」 身を下げ、クモ男はフィフィリアンヌを指した。その手は、わなわなと震えている。 「あ、あれ、ドラゴンだよ! やっぱり、三本ツノは捕まってるんだぁ、僕らも一緒に喰われちゃうんだぁ!」 「違ウ」 金属質な低い声で、異形、セイラは言った。金色の単眼に、二人の魔物が映る。 「フィリィ、友達。敵、違ウ。喰ワナイ」 「そういうことだ。セイラが兄弟を迎えに行く、というので、一緒にやってきてみたのだが」 フィフィリアンヌは、訝しげに獅子の女とクモ男を見下ろした。そして、二人へと向く。 「やけに騒がしいので、何をやっているかと思えば…。貴様らのせいか、ランス、パトリシア」 「違うよ。騒いでたのはあっち」 ぐったりしながら、ランスは魔物二人を指し示した。うんうん、とパトリシアは深く頷いている。 クモ男と獅子の女は、喜び勇んでセイラに駆け寄ろうとした。が、その直前でフィフィリアンヌに蹴られた。 おろおろとするセイラの前で、フィフィリアンヌは胸を張っていた。みだりに近付くな、と言っている。 ドラゴンに対する恐怖と兄弟への親愛で、必死に二人は叫んでいたが、フィフィリアンヌは少しも譲らない。 フィフィリアンヌが抱えているのは、ギルディオスの魂のようだった。一言も発しないのは、呆れているからだろう。 未だに口論の続いている森の出口を見上げ、ランスは脱力した。いい加減に、帰ってしまいたくなっていた。 これ以上、こんなにうるさい連中と付き合いたくはなかった。 数日ぶりに戻ってきた甲冑の体に、ギルディオスは満足していた。 ギルディオスは手首を回し、関節の具合を確かめた。以前のような軋みはなく、綺麗に動いてくれる。 首を曲げて背中も伸ばし、肩をぐるぐると回した。魂との思念の疎通も完璧で、意識との時間差はない。 荷車に縛り付けられていたバスタードソードを解放してやり、すらりと引き抜いた。平たい刃が、鏡のように光る。 刃こぼれもなくなっていて、歪みも直っていた。腕に乗せて輝きを確かめながら、彼らに言った。 「んで、オレを壊そうとした目的は?」 城の前の一角に、三人の魔物達は座っていた。というか、ギルディオスによって座らされていた。 彼らの相手をして精も根も尽きたランスは、玄関の階段でへたれていた。パトリシアは、その隣に腰掛けている。 ランスがぐったりしているのをいいことに、パトリシアはしっかりと抱き締め、よしよしと撫で回していた。 フィフィリアンヌは、セイラの後ろで押し黙っていた。有翼の人狼がやってきた途端、悲鳴を上げて逃げたのだ。 セイラは腕にしがみついて離れないフィフィリアンヌと、不機嫌そうな面持ちの兄弟達を見比べていた。 フィフィリアンヌはちらりと顔を出したが、すぐさま引っ込めた。セイラは、心配げに彼女を見下ろす。 「フィリィ、兄サン、嫌イ?」 「…イヌはいかん、あれだけはいかん」 声を潜め、フィフィリアンヌは呟いた。セイラは一度瞬きしてから、有翼の人狼を指す。 「違ウ。兄サン、オオカミ。ワンコ、違ウ」 「どちらも同じだぁ…」 泣きそうなのか、フィフィリアンヌの声は弱り切っていた。項垂れた彼女の頭を、セイラは軽く撫でてやった。 小さく唸り、フィフィリアンヌは顔を背けた。ギルディオスはバスタードソードを下ろし、彼女を見た。 まさか、こんなところで新たな弱点が露見するとは思わなかった。フィフィリアンヌは、イヌがダメだったとは。 可笑しくなったが、からかうのは悪い気がした。あそこまで怯えているのだから、本当に恐ろしいのだろう。 デイビットはするりとギルディオスの頭上に降り、セイラとその兄弟達を見比べていたが、にたりと笑う。 「そうですね、きっとあれですね! 彼らは前世でセイラとは血の繋がった兄弟だったのですが、生まれ変わった身は全て魔物で、その上散り散りになってしまい、今まで全員で捜し合いながら擦れ違いの旅をしていたんですね!」 「違ウ」 顔を上げ、セイラは首を横に振る。デイビットは両手を組み、ああ、と顔を逸らした。 「妄想は人の自由じゃありませんかぁ」 「ほれほれ、さっさと答えたまえ。貴君らが、なぜニワトリ頭なぞ狙ったのか、早く話してしまうのである」 魔物達の前に置かれたフラスコが、蠢いた。にゅるにゅると球体に沿って動く伯爵に、クモ男が仰け反った。 「やだぁ、なんか変なのがいるぅ!」 「貴君に言われたくないのである。我が輩は激しく不愉快であるぞ」 「やだぁ、しかもなんか偉そうだぁ!」 「うるせぇよちったあ黙ってろ!」 ぱこっ、と有翼の人狼がクモ男の頭を叩いた。クモ男は叩かれた部分をさすり、渋々黙り込んだ。 獅子の女は、深くため息を吐いた。額を押さえて兄弟達から目を外し、あー、と力の抜けた声を洩らしている。 ギルディオスはバスタードソードを鞘に戻し、がしゃりと背負った。ベルトを胸の前で止め、背負い直す。 「あのさぁ、人の質問に答えてくれねぇか?」 「答えたところで、殺すんだろうが」 有翼の人狼は、ギルディオスを睨んだ。ギルディオスは、後方でフィフィリアンヌを支えているセイラを見た。 巨大な金色の単眼が、じっと見つめている。あんな目で見られちゃ殺せるわけがねぇ、とギルディオスは思った。 ギルディオスは腕を組み、セイラと同じく金色の瞳の三人を見下ろした。兄弟と言っても、血縁はなさそうだ。 恐らく、セイラを造ったのと同じ魔導師に生み出されたのだろう。そして生まれてしばらくは、一緒に暮らした。 となれば、互いを兄弟のように思うのは当然だ。長兄は有翼の人狼で長女が獅子の女、次男がクモ男のようだ。 セイラは末っ子かな、とギルディオスは考えた。ギルディオスは三人を見回し、尋ねた。 「お前ら、名前は?」 「ウルバード」 小さく、有翼の人狼は答えた。続けて、獅子の女が言いたくなさそうに言う。 「レオーナ」 「スパイド」 最後に、クモ男が背を丸めながら名乗った。ギルディオスは、その安直な名前に肩を竦める。 フィフィリアンヌと、ほぼ同じではないか。どれも、まるで捻りのない、解り易すぎるほど解り易い名前だ。 ギルディオスは長兄と思しきウルバードの前に立ち、覗き込むように見下ろした。人狼は、目元を歪ませる。 「なんだ。殺すんなら、さっさとすりゃいいだろうが!」 「馬鹿言え、そんなこと出来るか。お前らに手ぇ出したら、セイラが怒るからな」 と、ギルディオスは逆手にセイラを指した。レオーナは、爪先でギルディオスを指す。 「けどね、あたしらはあんたに何も話せないからね。話したら呪いが発呪して、罰が来る」 「やだけど、そうなんだよ。だからこうして、言おうとしてもダメなんだ。今回のことを命令したのが、お…」 言いかけて、スパイドは喉を押さえた。荒い息を繰り返し、声を出そうとしているが、掠れた風しか出ない。 苦しげに身を捩っているスパイドを、レオーナは支えてやった。ほらね、と悲しげに洩らす。 「こういうこと。だからあたしらは、あんたを倒すか、帰ること以外、出来ないんだ」 「なるほどな」 ギルディオスは腕を解き、がりがりとヘルムを掻いた。考えていたよりも、事態は厄介だったようだ。 最初は、よくある賞金稼ぎの手段かと思っていた。契約獣である魔物を切り込ませ、追っ手が来るとばかり。 だが、しばらく待ってみても続く者はいないので、この兄弟を仕向けてきたのは賞金稼ぎではないようだった。 何のために、なぜ人造魔物ばかり。ギルディオスは頭を巡らせてみたが、さっぱり思い付かなかった。 狙われる理由ならいくらでも出てくるが、甲冑を主に狙われたのは、これが初めてかもしれなかった。 だが普通は武器であるバスタードソードであったり、魂である魔導鉱石を狙うのが筋であり、一般的な考えだ。 甲冑を狙ってきた相手の目的が掴めず、ギルディオスは唸る。敵の腹が読めなければ、対処のしようがない。 「訳解んねぇ…」 「ギルディオス・ヴァトラス。これ以上用事がないのなら、帰らせてもらおうか」 立ち上がったウルバードは、ギルディオスとあまり体格は変わらなかった。翼がある分、大きく見える。 レオーナはちらりとセイラを見たが、顔を伏せた。苦しげな呼吸をしているスパイドを支え、立つ。 「あんまり長居をすると、お仕置きを受けそうだしね」 「でも、お兄ちゃん、お姉ちゃん…」 喉を押さえていた手を外し、スパイドはセイラを見上げた。金色の十個の目が、悲しげに伏せられる。 「僕、やだよ。また、三本ツノと別れちゃうの」 「あたしだってやだよ。この子ともっと一緒にいたいし、どこでどうしてたかとか、一杯聞きたいよ」 悔しげに、レオーナは俯いた。だけど、と声を落とした。 「三本ツノは、もう、あたしらとは違う。だから、あんまり、関わっちゃいけないんだ」 「迷惑が掛かるからな。現に今回だって、そこのお姉ちゃんと余計な戦いをしちまった」 ウルバードは、階段でランスを抱き締めているパトリシアを指した。そして、セイラの後ろに目を向ける。 「そこのドラゴンにも、迷惑を掛けてしまった。理由がなんであれ、オレ達はあんたの森を荒らした。すまない」 「…貴様らの呪いとは、反逆を禁ずる呪いなのか」 恐る恐る顔を出し、フィフィリアンヌは肩を縮めながらウルバードを見上げた。そうだ、と人狼は頷く。 「だがオレ達の呪いは、三本ツノ、セイラに掛けられていたであろうものとは違う。造られたときに刻まれたんだ」 「血肉と骨身に、あたし達は魂を縛られてるのさ。生まれたときからね」 死ぬまで解けないんだ、とレオーナは力なく笑った。スパイドは、げほっと咳き込んだ。 「だから、もう、僕達は帰るね。あんまりいると、本当に怒られちゃうから」 「兄サン、姉サン」 セイラの声に、三人は顔を上げた。セイラは口元を広げ、笑ってみせる。 「セイラ、平気。ダカラ、マタ、来テ」 ウルバードは、答えなかった。レオーナは顔を伏せてしまったスパイドを支え、歩き出した。 三人は背を向けると、森へと向かっていった。セイラは残念そうにしていたが、引き留めずに顔を背けた。 森に入った彼らは、すぐに影が消えた。俊敏な動きで、それぞれの方向へと駆けていったのだ。 ほとんど音のない足音が、去っていく。ギルディオスは寂しげなセイラを見上げていたが、森へと顔を向けた。 また、彼らに会うことはあるのだろうか。一抹の不安が過ぎったが、それはセイラも同じだろうと思った。 ギルディオスは、ぐいっとヘルムを押さえた。彼らを造った者、金の瞳の兄弟の主が、許せなくなってきた。 呪いで心を縛り付け、生ける者の自由を奪って従わせている。そんな所業を出来るのは、間違いなく人間だけだ。 そして。その者はどうして、自分の体を狙ってきたのか。ギルディオスは、必死に考えた。 考えるうちに怒りが増し、焼け付くような熱が胸中から溢れてきた。 薄暗く、薬臭い部屋だった。 元々は倉庫だった部屋を開けてもらい、そこに寝起きを許されている。荷物など、ほとんどない。 背後で跪く三人をちらりと見たが、その報告が芳しくないのは解っていた。皆、ほとんど無傷なのだ。 あの男と戦ったのであれば、腹か首が落ちているはず。なのに、受けた傷は打撃と雷撃程度で、どれも軽傷だ。 無表情に俯いている異形の兄弟達は、僅かながら、表情がいつもより硬かった。殺しの後よりも、辛そうだ。 狭い窓から差し込む光が、空っぽの机と古びたベッドを照らしている。その上には、杖が転がされていた。 滅多に使うことのなくなった、魔導師としての杖だ。それを見つめながら、女は呟いた。 「兄様は、無事なのね?」 ウルバードが、徐々に項垂れていった。背中の翼も緩やかに力が抜け、へたりと下げられる。 「…お察しの通り」 「傷も与えられなかったのね?」 目を伏せ、レオーナが小さく頷く。部屋が埃っぽいせいで、赤茶けた毛の色がくすんでいる。 「はい」 「そう。なのに、帰ってきたというわけね」 女の声に、スパイドは泣きそうになる。額の八つの目が、それぞれに方向を違えて動く。 「…ごめんなさい」 女は足を組み直し、頬杖を付いた。真っ黒なローブのフードの隙間から、顎の辺りで切られた髪が見える。 薄化粧を施された顔は、陰っていた。ふわりと甘い香水の匂いが、この部屋には場違いに思えた。 女は、にやりと目を細めた。最初から、この三人になど期待はしていなかったし、所在を確かめただけだ。 それに、甲冑だけを壊しても意味はないのだ。どうせ壊すなら、殺すなら、徹底的にしなければならない。 やはり、兄の言っていた通りだ。ギルディオスはあの緑竜の女、フィフィリアンヌの城にいる。 兄のことを信用していなかったわけではないが、必ずしも、それを疑っていないというわけではない。 マークが戻ってくるまで待とうかと思っていたが、その必要はなくなった。これで、上手く事が運んでくれる。 今回の事には、この男を使わなくてはいけない。ギルディオスと関わりの深い手駒は、彼だけなのだから。 酒場でマークを見つけたときは、嬉しかった。与えるだけ情報を与えて動かした結果も、想像しただけで楽しい。 後は、マークが動くのを待つだけだ。今や部下も従えるほどの賞金稼ぎである彼ならば、しくじるはずがない。 どちらかがどちらかを殺した後に感じるであろう絶望を想像し、女はぞくりとした楽しい気分になった。 「兄様がいけないのよ」 遠き日の記憶が、女の脳裏を過ぎる。 「兄様が」 欲しかったのは、ギルディオスの視線だけ。あの移民の女を見るときのような目で、見て欲しかったのに。 兄から聞いた話では、ギルディオスの見ていた女には子供が出来たらしい。ヴァトラスの血を持った、甥だ。 それが、許せなかった。その子供を産むのは自分であるはずであり、あんな魔力の低い黒人の女ではない。 だが、その女を殺すのはもっと後だ。まずはギルディオスを苦しめて傷付けて、自分の痛みを思い知らせるのだ。 どれだけ悲しかったか、どれだけ苦しかったか。そして、どれだけ殺してやりたかったか。 それを思い知らせる前に、ギルディオスは死してしまった。しかし、ギルディオスは再びこの世に蘇ってくれた。 神が、機会を与えてくれたのだ。憎しみの入り混じった愛情をぶつけるべきだ、と神も思ってくれたのだ。 女は、小刻みに肩を震わせた。三人の異形達はびくりとし、笑い声を洩らす母を見つめた。 「んふふふふふ」 女は目を細め、笑む。 「兄様が悪いのよ。ギル兄様が」 顔を上げると、フードが滑り落ちた。顎の辺りで切られた茶色い髪と薄茶色の瞳が、明かりを受けて光る。 イノセンタスのそれと良く似た色合いの瞳を強め、虚空を睨んだ。 「ギル兄様が、私を愛してくれないから」 母は、母である以前に、一人の女なのだ。笑みを浮かべる横顔に、異形の子供達は思っていた。 幾度も聞かされた。幾度も恨みをぶつけられた。そうよ悪いのは兄様よいけないのは兄様よ悪いのは悪いのは。 だが、何度も話に聞いていた男とは、かなり違っていた。ギルディオス・ヴァトラスは、歪んでいなかった。 情愛を踏みにじり、恋情を嘲笑し、妹を愛さないような男だとは思えなかった。少なくとも、彼はまともだった。 しかし、母は言う。母の兄も言う。いてはいけない男、死すべき兄弟、生まれながらに穢れた無能者。 今までは、それが正しいと思っていた。母の言うことが全てであり、母の兄の言うことは絶対だったのだ。 だが、しかし。歪んでいたのは、あちらではない。こちらが、ひどく歪んだ世界を持っていた。 「うふふ。愛しているわ、ギル兄様」 ジュリアは、笑っている。 その、横顔は。 妖しげな魔性の色を、宿していた。 「だから、憎いのよ」 女の手により、糸は交わる。途切れた時を繋ぎ、再び彼らを巡り合わせる。 愛は憎しみとなり、友情は消え失せる。笑うのは、暗黒に棲まう心のみ。 死した重剣士を待ち受ける未来に満ちているのは、光などではない。 淀んだ闇が、口を開けて待っているのである。 05 5/24 |