ギルディオスは、己の手を見ていた。 銀色の手。味気ない、金属で形作られたガントレット。両手の指を絡め合わせて、膝の間に置いている。 それを動かそうと念じると、軽く軋んで強く握り合った。この手は、自分であるが自分でないのだ。 どうしようもなく、かつての自分が愛おしく懐かしかった。血の通った人間の体を、再び動かしたかった。 だが。それを叩き壊したのは、腹を貫いて背骨を砕いて命を奪ったのは、かつての自分を殺したのは。 気持ちだけ目を動かし、目の前で項垂れている男を見た。見知らぬ男。左目に黒い眼帯を付けた賞金稼ぎ。 自分の記憶を取り戻しても、彼と同じように呪いを解呪されても。彼を、許すことが出来るのか。 テーブルに置かれた短剣は、無表情に二人を眺めている。下手くそな自分の字で、自分の名が刻まれていた。 覚えがあるかと言われればあるかもしれないし、ないと言われれば、ないような気もした。 怒るべきか、泣くべきか、荒れるべきか。散々迷って、迷いすぎて、何がなんだか解らなくなってしまった。 「くそぉ!」 がしゃん、と組んだ両手でヘルムを殴った。ぎちぎちと指を握り締め、複雑な感情をそちらに向ける。 いきなりの激しい音に、ジャックが目を丸くしていた。両手に抱えていた四人分の食事が、床に落ちている。 慌ててそれを拾うジャックを、フィフィリアンヌは横目に見ていた。読んでいた本を閉じ、顔を向けた。 「ジャック、貴様は外へでも出ていろ。あまり穏やかな話ではなさそうだからな」 「いや、いいっす。ここにいたいっす」 ジャックは台所から持ってきた食事を、テーブルに並べていった。フィフィリアンヌに命じられ、持ってきたのだ。 何かを堪えるような顔をしていたが、目元を拭った。ぐっと口元を締めてから、項垂れるマークを見る。 「ちゃんと、覚悟してるっす。マークさんに何があったのか、知りたいんす」 眼帯の男は外套を脱いでいて、武装も解いていた。傍らに置かれた短剣や様々な刃物が、眩しく光っている。 赤々としたランプの明かりが、男達の影を伸ばしていた。離れた場所に置かれた椅子に、グレイスは座っていた。 邪魔をしないためなのか、普段よりもギルディオスから距離を開いている。彼は、メガネを拭いていた。 灰色の服の裾でガラスを磨き、煌々と明るいランプへ掲げた。それを、向かい合って黙り込む友人同士に向ける。 「しかし、過去ってのはそんなに大事かねぇ」 「私がいらぬことをした、とでも言うのか?」 テーブルからワインボトルを取ったフィフィリアンヌが、目を上げた。グレイスは、メガネを掛ける。 「そういうんじゃあない。フィフィリアンヌは仕事をした、それだけさ。大体、解呪を望んだのはあっちだしな」 「問題は、これからだな」 フィフィリアンヌは、ワインをどぼどぼとグラスに注いだ。グラスを持ち上げ、軽く回す。 「戦うなら戦い、去るなら去り、死するなら死せ。貴様らが決めろ、ギルディオス、マーク」 小声で、うるせぇ、とだけ返ってきた。ギルディオスは深く息を吐き、力なく手を下ろした。 フィフィリアンヌの言ったことのいずれも、出来ることならしたかった。だが、放り出してどうなるわけでもない。 彼と向き合って、彼との過去を知り、その上で戦うべきなのだ。話を聞き出すのが、まず最初なのだ。 だが、口に出せなかった。一言聞いてしまえば、彼の殺意やそこに至るまでの経緯まで、全て話されそうだった。 それが、どうしようもなく恐ろしかった。胸を満たす感情が、悲しみなのか怒りなのか恐怖なのか解らなかった。 眼帯の男は、顔を押さえていた。指の隙間から見える口元は、強い感情に歪んでいた。 「すまない、ギル」 潰れた声で、マークは呟いた。 「オレが悪いんだ」 目元を押さえ、マークは話を始めた。ギルディオスを正視することはなく、彼の目線は灰色の床に落ちていた。 封じられていた記憶を辿り、慎重に、言葉を選ぶようにしながら過去を露わにしていった。 その中には。ギルディオスの知らぬ、ギルディオスがいた。 七年前。ギルディオスは、生きていた。 ギルディオスは息子のランスも大きくなって落ち着いてきたので、戦線復帰したメアリーと組んで戦っていた。 マークは、それが嬉しくもあり、少し寂しくもあった。彼の背中を守る役割が、終わってしまったからだ。 だがそれでも、また気心の知れた仲間と戦えることは、嬉しかった。ギルディオスとメアリーも、そのようだった。 マークは、時折ヴァトラス家に顔を出していた。ランスはあまり懐いてはくれなかったが、嫌われてもいなかった。 その日も、マークは彼らの自宅へ向かっていた。あまり訪れない王都の道を覚えるために、遠回りしていた。 人の寄りつかぬ西の森、現在のフィフィリアンヌの住む森の前を通り、裏通りへ向かって歩いていった。 猥雑とした、落ち着きのない街並み。王都の中心街や王宮周辺とは違い、統一性のない建物が連なっていた。 その日は春先なのに夏のようで、やたらと暑かった。混じりけのない空の青と日差しが、色を濃くさせていた。 だから、黒が異様に目立っていた。まばらな家並みの間の道に、闇のような布を被った人影が立ち尽くしていた。 微動だにせず、一点を見つめている。遠目なので体格はよく解らなかったが、小柄なので女だと思った。 マークは、土地勘を得るために頭に叩き込んだばかりの地図と、女と思しき人物の視点の先を重ね、辿ってみた。 こちらから見て右を向いており、やや斜め前に体を向けている。その先にあるのは、広い庭のある家だった。 粗末な家々の隙間から、それなりに手を掛けた家が見えている。二階建てで幅のない、ギルディオスの家だ。 一瞬、死に神かと思った。子供を怖がらせるための話に、ああいう格好をした化け物は良く出てくるのだ。 だがそれらと違うのは、女であるし、なにより鎌や斧を持っていない。マークは己の想像を、内心で笑った。 どうせ、魔導師か何かだろう。あの方向にあるのはギルディオスの家ばかりではないし、きっと偶然だ。 そう思い、マークは闇を纏った女の前にやってきた。擦れ違い様、素早く女の顔を覗き見てみた。 俯き加減にフードを被り、茶色い髪を顎辺りで切り揃えている。前髪の隙間から見える目は、マークを見ていない。 鼻筋が通っている、割に整った顔立ちの女だった。思い詰めているのか、薄い唇が固く締められていた。 マークは表情が少し気になったが、そのまま通り過ぎた。あまり、妙な人間に関わるといいことはない。 裏通りの道に入った頃、遠くでごく小さく声がした。悲しいけれど、仕方がないわ。ギル兄様。 角を曲がる前に、マークは振り返った。白い日差しに照り付けられている道端には、黒い影はもうなかった。 魔法を使ったのか、魔力を含んだ風が漂っていた。 マークは、ヴァトラス家を訪れた。 玄関先に、不機嫌そうなランスが座っていた。六歳になったばかりの彼の息子は、本を広げて睨んでいた。 マークが手前に立つと、ランスは顔を上げた。人見知りしてしまうので、笑顔がぎこちなかった。 「こんにちは」 「勉強か?」 マークは、ランスの読んでいる本を見下ろした。様々な魔法言語が書かれていたが、マークには解らなかった。 初歩の魔法らしいのだが、それでも面倒そうな魔法陣の図解が並んでいる。ランスは、小さく頷いた。 やりにくそうに顔を歪める幼子にマークは、頑張れよ、とだけ言って扉を開けた。室内は、外より少し涼しい。 開けた途端、メアリーが顔を出した。家事をしていたようで、エプロンドレスのエプロンが少し汚れている。 「マーク! どうしたんだい、今日は」 「別に用事はないさ。暇ならまた、ギルと手合わせでもしようかと思ってよ」 家に入り、マークは外套を脱いでメアリーに渡した。どす黒い外套を受け取ったメアリーは、顔をしかめた。 「なんでこんなもん着てるんだい、この暑い日に。邪魔っ気だろう?」 「オレもそう思ったんだが、習慣てのは恐ろしいな」 苦笑するマークに、メアリーは笑った。彼の外套を腕に乗せて、その手で廊下の奥を指す。 「ギルなら外にいるよ。また剣をぶん回してるから、気を付けてくれよ」 「野暮な心配、ありがとう」 にやりとしてから、マークは廊下の奥の扉へ向かった。背後でメアリーが、念のためだよ、と言っていた。 庭に通じる扉に手を掛け、押し開いた。家の影は色濃く、明暗がくっきりと切り分けられていた。 鮮やかな日差しの下、銀色の巨大な刃が振り上げられている。大柄な男が、マークに背を向けて立っていた。 刃が僅かに傾き、ぎらついた閃光がやってきた。マークはそれが眩しかったが、堪えて目を開く。 小さく、風が切られた。ひゅおん、と剣と身を翻した男は、一気に踏み込んだ。マークとの間合いが、すぐに詰まる。 マークの顔の脇に、巨大な剣が横たえられた。逆光の中、その男は光の輪郭をまとっているように見えた。 「よう」 冷たい輝きに、マークの横顔が映っていた。マークが笑うと、その顔も愛想のない笑顔になる。 「その分だと、この間の傷も治ったみたいだな」 「ランスがな。色々とやってくれたんで、すぐに治っちまったんだよ」 剣を下ろし、ギルディオスは笑ってみせた。二十七歳だというのに、屈託のない子供のような表情をしている。 ギルディオスは身を屈め、置いてあった鞘を取った。バスタードソードを差し込むと、慣れた手つきで中に納める。 がちん、と鍔が鞘に当たって鳴った。愛おしげに鞘を撫でるギルディオスを、マークは何の気なしに眺めた。 元々は茶色だった髪や瞳は、日焼けのし過ぎで脱色している。日差しの下にいれば、どちらも金色のようだった。 切れ長の目と精悍な顔付きは、黙っていればそれなりなのだが、表情が幼い上に言動が荒いので隠れてしまう。 大柄な割に、均整の取れた体付きをしている。固く筋肉の張り詰めた腕には、痛々しい生傷が絶えない。 今も、左の上腕には布が巻かれていた。先日の戦いで、ぎりぎりまで敵を引きつけた結果、切られてしまったのだ。 マークは、自分よりも若干背の高いギルディオスを見上げた。玄関まで一直線に繋がった、廊下の先を指す。 「息子、相変わらずだな。お前の方針か?」 「いや。オレの親父とおふくろが、どっさり本を置いていきやがったのさ」 滲んだ汗を拭い、ギルディオスは目元をしかめた。玄関先では、幼い息子が本をめくっている。 「ランスが好きでやってるからまだいいんだが、それでもいい気はしねぇよ」 「解るぜ」 マークは、険しい目をしたギルディオスに呟く。マーク自身も、幼い頃は家に縛られた生き方をしていた。 盗賊の一族に生まれたせいで、あらゆる暗殺術を叩き込まれ、物心付いた頃から略奪をさせられていた。 ギルディオスは、全くなぁ、とぼやいた。バスタードソードを背負い、廊下に入っていく。 「新しい仕事は、さすがにまだ来てねぇだろ」 「東王都の戦いも収束したからなぁ。帝国も王国も、さすがに休まなきゃ持たないのさ」 ギルディオスに続いて入り、マークは扉を閉めた。ギルディオスは、玄関に向けて声を上げる。 「ランス! なんでお前、外にいるんだ?」 「二階が暑いんだよ。暑いと頭になんにも入ってこないんだよ」 むくれながら答えた息子に、ギルディオスは可笑しげに笑った。 「そんなもん、魔法でなんとかしてみろや。出来るんだろ?」 「下手したら全部凍っちゃうし、それにまだ、魔力の扱いが上手くないんだもん。無茶言わないでよ、父さん」 情けなさそうに、ランスは顔を伏せた。魔力上昇のために髪を伸ばしているので、横顔は少女のように見える。 そうかい、とギルディオスは言い、バスタードソードを壁に立て掛けた。丁度良い幅で、棚が造り付けてある。 「切りの良いところで中に入れや。あんまり外にいると、また頭が痛くなるぞ」 「うん。精霊がうるさいし」 父親譲りの太めの眉をひそめ、ランスは空を見上げた。彼の目には、マークの見えないものが見えているのだ。 天性の精霊使い。高い魔力を備えた、大魔導師ヴァトラの血を受け継いだ希代の天才だと、彼は言っていた。 だがそれはギルディオス自身の言葉ではなく、彼の両親や兄のものだ。彼は、魔法を一切使えないのだ。 常々、マークは聞かされていた。自分が受け継がなかったヴァトラスの血が、どういうわけか息子に出たのだと。 しかしそれを話すギルディオスは、決して嬉しそうではなかった。むしろ、物悲しげで心配げな顔をしていた。 ランスと同じく高い魔力を持つギルディオスの兄、イノセンタスと同じような境遇にならないか、不安なのだそうだ。 イノセンタスは、高魔力と才能を見初められて幼い頃から英才教育に漬け込まれ、結果、性格が歪んでしまった。 双子の弟であるギルディオスとは、年端の行かない頃はよく遊んだのだそうだが、三歳頃から遊ばなくなった。 否、遊べなくなったのだ。魔力のないギルディオスと共にいては穢れが移る、などと言われて引き離された。 イノセンタスに施された教育は、牢獄だったとギルディオスは言う。ほぼ一日、部屋に押し込められていたそうだ。 日に日に表情の失せるイノセンタスは、ギルディオスを疎み始めた。妹が生まれても、それは同じだった。 ギルディオスを愛さない両親の言葉をそっくり飲み込んで、イノセンタスは、弟を憎むようにすらなった。 お前は死すべきだ、ここにいるべきでない、ヴァトラスの血を穢した、と。そのたびに、ギルディオスは悲しんだ。 最初の頃は、兄が歪んだのは兄のせいではないと思っていたのだ。しかし、どんどん兄の罵倒は激しくなった。 生来の性格が歪みを広げているのだと、ギルディオスが気付くのに時間は掛からず、同情は憎しみに変わった。 そして、兄弟は激しく憎み合い、道を違えた。ギルディオスは家出同然に家を出、剣士となった。 家を出た後のギルディオスは、以前から愛し合っていたメアリーと添い、傭兵として戦いながら、息子を成した。 マークとギルディオスが出会ったのは、彼が傭兵になったばかりの頃のことだ。もう八年以上の付き合いになる。 友人と言うよりも、家族に近い。マークがそう思うように、ギルディオスもそう思っているようだった。 気を許しあい、拳や剣を交えることの出来る相手。マークが捨てた、ギルディオスが逃れた、家族の代わりだ。 なので、マークにとってランスは甥のようなものだ。もっともランス本人は、そう思っていないようだが。 ふと気付くと、ギルディオスの声は居間から聞こえていた。扉が開け放たれているので、マークは中を覗いた。 「そんなに渋るなよ。いいじゃねぇか、たまには」 むくれるギルディオスを無視し、メアリーは小麦粉を練っていたが、ぷいっと顔を逸らしてしまう。 「ダメったらダメ。何を考えてるんだい、この真っ昼間っから」 「せっかく稼いで来たんだし、ちったぁいいだろ。上物の酒を開けてもさぁ」 「あんたに味なんて解るのかい。それに、ギルはいくら飲んでも酔わないんだから、飲むだけ無駄だよ」 水にしなよ、とメアリーは真顔になる。ギルディオスは妻を指し、マークに振り向く。 「なぁマーク、なんとか言ってくれよ」 「メアリーが正しいと思うぜ、オレは」 笑いながら、マークは壁に寄り掛かった。だろう、とメアリーはにんまりする。 「どれだけ良い酒だって、ギルに掛かれば水と同じなんだから、いっそ飲まない方が経済的なんだよ」 「グラス半分で記憶を失っちまう方が、よっぽど不経済だと思うが?」 ギルディオスは、テーブルへ身を乗り出した。メアリーは夫を睨む。 「がっ、がばがば飲んじまうよりは効率がいいじゃないか!」 「間を取って、半分だけってのは?」 「だからダメなもんはダメなんだ! あたしに飲ませようったってそうはいかないんだから!」 にやけるギルディオスに、メアリーは声を上げた。パン生地を、どばんと板に叩き付ける。 「どうせあたしが寝ちゃった後に、あんたらが全部飲んじゃうんだろうが!」 「そうとは限らねぇよ。なぁ、マーク?」 マークに振り返り、ギルディオスはにっと笑う。マークは彼の浅はかな作戦が、なんだか可笑しかった。 どちらに味方しても良いが、どちらに味方するべきでもないかもしれない。マークは、ちらりと玄関を見た。 言い合う両親の声を聞いて、ランスが変な顔をしていた。仲が良いやら悪いやら、とでも言いたげだ。 マークは、結局ギルディオスが押し切りそうだな、と思った。メアリーは、どういうわけだか彼にだけ弱いのだ。 性格も腕力も男勝りで、下手な男よりも余程強い彼女だが、ギルディオスにだけは戦いも言い合いも勝てない。 その度に悔しがったメアリーは、何度も戦いを挑み、その度に負け、どんどんギルディオスに惚れ込んでいった。 マークとしては若き日の二人の話を聞きたいのだが、メアリーが照れてしまい、滅多に聞けなかった。 なので、マークはギルディオスが押し切ることを楽しみにしていた。彼女が酔い潰れてしまえば、こっちのものだ。 ギルディオスから、いくらでも昔話を聞き出せるからだ。 その夜。遅くまで、ギルディオスとマークは話し込んだ。 結局ギルディオスが押し切り、値の張る酒を開けさせた。酒に弱いが好きなメアリーは、少し飲んでやはり潰れた。 ランスは一人で二階にいるのが怖い、といって居間にいたが、結局眠り込んで母親の傍に丸まっていた。 大量の空瓶の並ぶ食卓に、マークは毎度ながら恐ろしくなった。ギルディオスは、本当にザルなのだ。 向かい合って座っているギルディオスは、平然としていた。多少血色は良くなっているが、少しも酔っていない。 彼に付き合って飲むと前後不覚になるので、マークは酔わない程度に飲んでいた。それでも、結構な量だったが。 白ワインの瓶を取り、残りをグラスに全部注ぎ込んでしまってから、ギルディオスは眠る妻子を眺めた。 「後で二階に連れてってやらねぇとなー」 「手伝おうか」 「いや、いいさ。どっちも大して重くないし」 椅子に寄り掛かり、ギルディオスは白ワインの入ったグラスを傾けた。すぐに直角にし、喉に注ぎ込んでしまった。 グラスをテーブルに置くと、突っ伏しているメアリーに触れた。褐色の頬に落ちた黒髪を、退けてやる。 「全く…。すぐに寝ちまうんなら飲むんじゃねぇよ。まぁ、それが可愛いんだがね」 「それで、どこまで話したっけか?」 マークが言うとギルディオスは、ああ、と向き直った。 「ランスが出来た辺りかな。オレが二十一で、メアリーが十九で」 「また随分と、早い時期に」 感心半分呆れ半分で、マークは笑う。それを言うなよ、とギルディオスは苦笑した。 「後先考えてなかったのさ、オレもメアリーも。いつ死ぬか解らねぇからな、こんな仕事してると」 「オレもその気は解らんでもない」 「だろ?」 腕を組み、ギルディオスは足も組んだ。ランスが練習として明かりを灯した鉱石ランプが、青白く光っている。 相当短く切られたギルディオスの髪は、やはり金に見えた。金の瞳に、優しげな表情が浮かんでいる。 「ランスが出来たって解ったら、オレはそりゃあ嬉しかった。でもな、少し怖かったんだ」 「兄貴のアレか?」 「おうよ。兄貴みてぇに高魔力を持って生まれちまったら、やっぱりオレを疎むのか、って思っちまったんだ」 けどな、とギルディオスは笑う。 「だからって、オレがランスを殺す権利はないんだ。その辺のこと全部話したら、メアリー、なんて言ったと思う?」 想像が付かないので、マークは黙る。ギルディオスは続けた。 「あんたの子なんだから良い子に決まってる、変な心配するんじゃないよ、ってよ」 「メアリーらしいぜ」 マークが笑うと、ギルディオスは表情を綻ばせた。 「メアリーも、不安だったと思うがね。オレの家がどんな家なのかは知ってるはずだし、初産だったのによ。逆にオレを励ましてくれやがった。惚れ直さないわけがねぇ」 「羨ましいことだ」 あまり飲む気はなかったが、マークは空のグラスに赤ワインを注いだ。 「そこまでいい女は、そうそういるもんじゃないな」 「取るなよ」 「馬鹿言うな。そんなことしたら、お前に叩き殺される」 マークが茶化すと、ギルディオスはメアリーの肩に手を乗せた。 「遠慮はしないぜ。オレの大事な女房と息子だ、守るためなら命なんて惜しくはねぇ」 「そりゃ豪儀だな」 「それぐらいの価値があるってことさ。いいもんだぜ、これでもかって程に愛されるも愛するのも」 ギルディオスの太い指先が、メアリーの頬を撫でた。メアリーは少しも起きる気配はなく、熟睡している。 とても穏やかなギルディオスの横顔を照らす明かりは、徐々に弱まってきていた。ランスの魔力が限界なのだ。 マークはワイングラスを傾け、渋い液体を飲み下した。彼の幸せを邪魔してはいけないと思い、黙っていた。 決して平穏ではない人生を送ってきたギルディオスの、至福の時なのだから。 夜も更けたので、マークはギルディオスの家を後にした。 ギルディオスには引き留められたが、街外れの安宿に部屋も取ってあるので、帰らないわけにはいかなかった。 彼の貸してくれたランプは、重たい暗闇を明るく照らしていた。気を抜けば、すぐに視界は失せそうだ。 足音を消して、慎重に歩いていった。茹だるほど暑かった昼間とは打って変わって、夜風は冷え切っていた。 静まり返った裏通りを進んでいると、前方から足音が近付いてきた。体重が軽く間隔の狭い、女の足音だ。 女も、マークと同じくランプを下げていた。だがそれは油と火で灯したものではなく、魔力で灯されていた。 月明かりに似た青白い光が、小柄な影を浮かび上がらせている。闇に馴染む外套が、ふわりと広がっていた。 マークのそれとは違い、頭からつま先まですっぽり覆っている。僅かに見える顔の下半分には、見覚えがあった。 仕事柄、一度見た顔は覚えるようにしている。形の良い顎と薄い唇が照らされ、肌の色は死人のように白い。 昼間の、黒衣の女だった。マークが思わず立ち止まると、女は足を早めることもなく、そのまま歩いてきた。 擦れ違い様、女は言った。ごく小さな声で、独り言を呟いていた。そうよ、仕方がないのよ、ギル兄様。 女が通り過ぎた後、マークは振り返った。小柄な背は、闇を広げながら、しずしずと歩いていた。 角を曲がって、視界から失せた。マークはぞくりとした悪寒と、腹に来る嫌な予感に、酔いが覚めてしまった。 あの角から、マークはつい先程出てきた。その先は、彼の家だ。マークはランプを握り、女の背を追いかけた。 手前の角を曲がり、数軒を抜けて左へ曲がると、ギルディオスの家がある。その扉は、開け放たれていた。 マークは真っ直ぐに走り、開け放たれた扉の中に駆け込んだ。右側の部屋、居間の扉も大きく開かれている。 何があったのかは解らないが、何かがあったのは間違いない。家の中だけ、空気が違っていた。 玄関先にランプを置いてから、マークはそっと足を進めた。いつでも戦えるように、手を外套の下に納めた。 居間の奧から、青白い光が感じられた。ランスの灯した鉱石ランプに比べると、かなり強い明かりだった。 マークは、振り向いた。居間の中心に、闇がいた。あの女は、テーブルに置いた鉱石ランプに照らされている。 床には、メアリーとランスが倒れている。マークに気付いた様子もなく、女はテーブルに伏せた彼に触れた。 「あいしているわ」 ギルディオスの顔を、女の手がゆるゆると挟んだ。綺麗に磨かれた爪先が、彼の頬を滑る。 「ギル兄様」 「お前、何をしやがった!」 マークは腰を落とし、ベルトの鞘から短剣を抜いた。じゃらりと腕に鎖を巻き、いつでも放てるようにした。 女は、マークに振り向きもしなかった。愛おしげにギルディオスを抱き締めると、顔を伏せる。 フードに包まれた顔は、見えない。外套から伸びている細い腕は、彼の首筋に巻き付けられている。 「悲しいわ。とても、悲しいわ。でも、仕方のないことなの」 女は、そっとギルディオスへ顔を寄せた。前髪の隙間から、薄茶の目が覗く。 「時と共に連なりし、御魂と器に沈みしものよ。強き思いを糧として、彼の者の心よ、我が言霊に従いたまえ」 静かに唱えられる呪文に、マークは足元を見下ろした。白い線が、引いてある。 女が描いたものなのか、魔法陣があった。その文字を、マークは急いで頭に叩き込んだ。 澄んだ声で、女は呪文を続ける。涙混じりなのか、声が時折震えた。 「全てを忌み戒める言霊よ、彼の者の追憶を禁ずることを、今ここに命ずる」 声が、強くなった。 「我の記憶を封じたまえ!」 衣擦れの音と共に、女は立ち上がった。はあ、と大きく息を吐いてフードを上げ、目元を拭う。 その横顔は、少女の面影を残していた。十代ではなさそうだったが、小柄なせいもあり、余計に幼く見えた。 髪の色と目の色と、目鼻立ちが誰かに似ている。造形こそ違うが、ギルディオスの顔立ちと近いものがあった。 マークは、青白い顔をした女を見据えた。構えを解いたが、腕には鎖を巻き付けたままにしていた。 「…お前。ギルの、妹か?」 「ええ」 素っ気なく、女は答えた。顎の辺りで柔らかな髪を切り揃えてあり、金の耳飾りが光っている。 「そうよ。これでいいのよ。ギル兄様は私を忘れて、私もギル兄様のことを忘れてしまえばいいのよ」 女は、淡々と呟いた。 「そうすれば、もう私は苦しくない。ギル兄様だって、もう、私のことで苦しまずに済むもの」 「ギルの、記憶を消したのか?」 「一度に消したわけじゃないわ。私のことを思い出せば思い出すほど、記憶は泥の底に埋まっていくの」 うふふふ、と女は笑みを零した。泣き笑いの顔を、マークに向けた。 「これで、私は、兄様は楽になれる。楽になれるのよ」 「…それで、いいのか」 マークは、それが間違っているようにしか思えなかった。現実から目を逸らし、過去を閉ざすのは。 傍らを、するりと女が抜けた。化粧気がないのか、香水も白粉も香ってこなかった。 「ええ、いいのよ」 マークの背後で立ち止まり、女は振り向いた。 「邪魔をしないで。余計なことをしたら、私はあなたを」 「殺すのか?」 マークの言葉に、女は首を横に振った。 「いいえ」 暗闇の中で、目が見開かれる。 「もっとひどいことにしてあげるわ」 その後、マークの記憶はない。女の言葉が始まった途端に、気を失った。 僅かに覚えているのは、女を誰かが呼んだこと、その誰かが女を後ろから抱いていたこと。 未だにその誰かは何者かは解らない。暗かったせいもあったが、顔だけが良く見えなかった。 まるで、そこだけが黒く塗り潰されたかのようだった。 05 6/1 |