翌日。マークが目を覚ますと、宿の部屋にいた。 起き上がってみるも、どこもやられてはいなかった。武器も金も無事だし、負傷していなかった。 それでも、女のことは覚えていた。ギルディオスの妹と名乗ったあの女は、何を思って彼の記憶を封じたのか。 その顔を思い出そうとすればするほど、薄らいできた。形作ろうとしても、目の色を浮かべても、出てこない。 消え失せそうな記憶に、マークは恐ろしくなった。あの女がギルディオスや自分に掛けたのは、呪いなのだ。 頼りない魔法の知識を総動員し、呪文から呪いの正体を掴もうとした。だが、少しも解らなかった。 自分の知らない呪いなど、いくらでもある。マークは無力感と絶望感に、力が抜けそうになってしまった。 汚れた窓から、朝靄に包まれている裏通りが見えた。ギルディオスとメアリーとランスは、無事だろうか。 居ても立っても居られなくなり、マークは外套を羽織って武器を装備し、宿を飛び出した。 ヴァトラス家は、昨日と変わらずにあった。 二階の窓にはカーテンが掛けられ、中は見えない。一階の窓も同様で、居間がどうなっているか解らなかった。 まだ、朝も早い。多少気は引けたが、背に腹は代えられない。マークは、玄関の扉を数回叩いた。 開かないだろうと思っていたら、内側から開かれた。思い掛けないことに、マークは一瞬ぎょっとしてしまった。 扉の隙間から、困った顔のランスが背伸びしているのが見えた。長めの黒髪に寝癖が付いていて、乱れていた。 ランスは狼狽えた様子で、目線が泳いでいる。マークは人見知りする彼に配慮し、こちらから言うことにした。 「おはよう、ランス。お父さんと、お母さんは」 「上でまだ寝てます」 ランスは、おずおずと二階を指した。心細いのか、声が泣きそうだ。 「僕だけ起きちゃって」 「そうか」 マークは、軽く舌打ちした。彼が眠っていては、ギルディオスの記憶が失せた部分を確かめることが出来ない。 足元で、ランスが小さな肩を竦めた。ただでさえ怖い外見の、眼帯を付けた男の機嫌を損ねたかと思ったのだ。 マークはそれに気付き、申し訳なくなって笑った。ランスは上目に、マークを見上げている。 「ああ、ごめんなランス。なんでもないんだ」 「あの、何か、用事ですか?」 「いや、なんでもないんだ。それじゃあ」 マークは背を向けて、ランスに手を振った。ランスは訝しげにしていたが、小さく手を振り返してくれた。 彼は後退ると、扉を閉めた。それを確認してから、マークは駆け出した。速度を出して、細い路地を走る。 一刻も早く、自分達に掛けられた呪いを解呪しなくては。手立てはないが、まるきり当てはないわけではない。 又聞きした情報だが、王都近くの城に呪術師がいる。恐ろしいまでの腕を持つという、その男なら、きっと。 ギルディオスの平穏と、彼の家族を守らなくては。あの女の策略は解らないが、防げるものなら防がねば。 朝焼けに照らされた街並みを、黒衣の男が疾風のように抜けていった。 灰色の城は、昼頃になって見つけることが出来た。 マークは、灰色の城がそびえる丘を見上げた。小高い丘にゆるやかな道が伸びていて、街外れに繋がっている。 晴れ渡った空を背負った城は、生気が感じられなかった。立派な城なのだが、だからこそ、余計に冷たく見えた。 意を決して、マークは坂を上り始めた。大した長さではないのだが、近付くに連れて空気が変わってきた。 マークもそれほど魔力が高い方ではないのだが、それでも、何かしらの魔法の気配が弱い風に混じっている。 歩いていくと深い堀が現れ、跳ね橋が下りていた。跳ね橋の鎖を握った小さな影が、城門の間に立っていた。 マークが立ち止まると、その人影は顔を上げた。変わった髪色のメイド姿の幼女が、不思議そうにしている。 頭の両脇に、濃い桃色の髪がバネのように巻かれている。幼女が首をかしげると、髪がぽよんと動いた。 「あれぇー? 今日って、お客様は来ないはずでしたよねー?」 「お嬢ちゃんは」 マークが尋ねると、えへ、と幼女は微笑んだ。短いスカートを広げてみせ、頭を下げる。 「レベッカ・ルーと申しますー。御主人様の、忠実なる傀儡にございますー」 「すまんが、グレイス・ルーに会わせてくれないか」 「えー、今ですかぁー?」 レベッカはぷうっと頬を張り、小さな唇を突き出した。 「御主人様、帝国から帰ってきたばっかりでお疲れなんですよぅー。下手に起こすと、怒られちゃいますー」 「急用なんだ」 マークが表情を固めると、レベッカは小さな手を丸い頬に当てる。 「わたしは別に構いませんけどー、あなたがどうなっても、知りませんよぉー?」 「構わん」 「そこまで言うんでしたら、仕方ありませんねー。どうぞいらっしゃいませー」 レベッカはくるりと背を向け、城の中を手で示した。幼女らしからぬ笑みが、横顔に浮かぶ。 「ですけど、どうなっても本当に知りませんからねー?」 軽快に歩いていく幼女の後ろ姿を、マークは追った。死ぬかもしれないという覚悟なら、既に出来ている。 盗賊の家に生まれたときから、賞金稼ぎとして一人で生きてきたときから。何を今更、と思った。 マークは灰色の城に入り、中央の居館を見上げた。外側と同じく、いや、それ以上に生者の気配はなかった。 死人の住まう城だ、とマークは感じた。 居館の居間に、マークは通された。 だだっ広い部屋には、細工の美しい調度品が並べられていた。奥の壁には、巨大な暖炉が備えられていた。 暖炉の前には赤い敷物が敷かれていて、値の張りそうなソファーが向かい合い、間にテーブルが置いてある。 レベッカは小さな足音を立てて、居間を駆け抜けた。ソファーに近付き、幼い声を上げる。 「御主人様ーぁ、お客様ですよぉー」 「んあ?」 幅広のソファーから、眠たげな顔をした男が起き上がった。長い黒髪を肩に垂らし、半目になっている。 面倒そうに周囲を見回していたが、扉の前に立つマークに目を向け、テーブルの上からメガネを取った。 丸メガネを掛けてから、今一度マークを眺めた。なんだよぅ、と面白くなさそうにする。 「なんでぇ、フィフィリアンヌじゃねぇのか。期待しちゃったじゃないか」 「フィフィリアンヌが来るのは、明日ですよー」 男の前に立ったレベッカは、にこにこしている。灰色の服を着た男は髪を掻き、息を吐く。 「とことん魔力が削れてるなー、勘が鈍ってる。帝国の馬鹿共め、このオレを馬車馬みてぇにこき使いやがって」 灰色の男は、不機嫌そうな灰色の目をマークに合わせた。 「んで。てめぇ、何しに来た。暗殺者ならレベッカちゃんが相手をするから、オレは寝るぞ」 「いや、そうじゃない。オレはあんたを殺しに来たわけじゃないんだ」 マークが慌てて否定すると、灰色の男はソファーを指し示した。 「そこに突っ立ってられても邪魔だ。用件があるんなら聞くだけ聞くぜ、但し受けるかどうかは解らないがな」 マークは頷いたが、半ば信じられない思いで男を見ていた。噂に聞いていたものとは、大分印象が違う。 グレイス・ルー。年齢不詳の呪術師で、帝国や王国の陰謀の裏には、必ずこの男が糸を引いているという。 本物であるかどうかを少し疑ってしまったが、ここで信じないわけにいかなかった。他に、頼れる者はいない。 マークはグレイスを見据え、意を決した。まだ眠たそうな男は、無関心そうにマークを見ている。 「グレイス・ルー。頼みがある」 力を込め、マークは声を張り上げた。 「ギルディオス・ヴァトラスの呪いを解いてやってくれ」 それでもまだ、灰色の男は興味がなさそうだった。軽く手招きし、とりあえず座れ、とだけ言った。 マークは馬鹿にされたような気分になったが、それに従った。 男は確かに、グレイス・ルーだと名乗った。 彼の長い黒髪を、幼女が編んでいた。グレイスは髪をいじられながら、眠気覚ましに紅茶を何杯も飲んでいた。 グレイスと向かい合う形で、マークはソファーに座っていた。見れば見るほど、調度品の値は高そうだった。 喋り通しのマークは喉が渇いてきたが、紅茶を飲まないことにした。何事にも、気を緩めてはいけない。 四杯目の紅茶を飲みながら、グレイスはちらりと目線を上げた。丸メガネは伊達なのか、レンズは平らだ。 「そりゃ間違いなく、記憶操作系の呪いだなぁ」 七割程度は開いたが、まだ覚醒し切っていない目で、グレイスはマークを眺めた。 「魔法陣の文字は、ラー、イオ、メト、ルンガ、シシィ、だったんだな?」 「ああ、そうだ」 マークは消え失せそうな記憶を辿り、テーブルに置かれた石版に白墨を滑らせ、魔法文字を書いていった。 グレイスはティーカップを置くと、じっとマークの手元を見つめた。下手くそな字だな、と小さく呟く。 「似た呪いで忘却を制じる呪いってのもあるが、こいつは追憶を禁ずる呪いだな。制じるの方は、魔力低下のイオとシシィじゃなくて魔力上昇のレニとロカだから、うん、そうだなぁ。メトとルンガを使うってことは、ああ、封じた記憶の周辺まで封じちまうつもりだな。あー、なんとも面倒なことしやがるなー。オレだったらそこでテチェとレレィを使って、封じるんじゃなくて抹消しちゃうけどな。そっちの方が楽だし」 「は?」 聞き慣れない言葉に、マークはきょとんとした。グレイスは、嫌そうにする。 「あーもう、これだから素人って嫌なんだよなー。魔法言語の意味と作用ぐらい、知っとけ」 「知らないもんは知らないんだよ」 マークは言い返したが、グレイスは独り言のように続けた。 「んで、さっきあんたが言った通りだとその術者の呪文は、命ずる、ってのか。こりゃちょっと面倒だぞー」 グレイスの肩に、緩めに編まれた三つ編みが置かれた。彼の背後から、レベッカが顔を出す。 「そーですねぇー。命ずるを使うのは古代魔法の流れを汲んだ系統だけですからぁ、厄介ですねぇー」 「古代魔法は補助呪文で魔力安定を行わない分、威力が落ち着かないが、そのおかげで色々と強烈なんだよな」 背を丸めたグレイスは腕を組んでいたが、上目にマークを見る。 「悪いが、オレにはそのお友達を助けられねぇ。やれって言われたら解呪はするが、結果は保証しねぇぞ」 「無理なのか!?」 立ち上がり、マークはグレイスに詰め寄る。グレイスは動じずに、こっくりと頷いた。 「うん、無理無理。その手のやつは、術者本人に解呪してもらわねぇと崩壊しちゃうから」 「何が」 マークは、急に不安に駆られた。グレイスは、そうだなぁ、と口元を上向ける。 「まず、魔力中枢に食い込んでる呪詛を消したら、そのせいで魔力中枢が崩れて命に関わる。記憶操作系だから、呪詛は脳髄にまで届いていることになる。だから呪詛を消しちゃったらその影響がもろに出て、頭がいかれちまう。魔力中枢の崩壊、それすなわち、魂を安定させている土台を失うってことでもあるわけで、その場で魂が肉体から離れちまうかもしれないなぁ。まぁとにかく、死ぬんだよ」 「そう…なのか?」 マークが呆気に取られていると、グレイスはにんまりする。 「解呪という名の殺人の手助けだったら、頭金は金貨五十枚からだが? だが今は魔力がないんで、オレが仕事を受けられるのは明後日辺りからかな」 「どーしますー、御主人様ー」 グレイスの首に短い腕を回し、レベッカは主に頬を寄せる。 「この人、結局お仕事を頼まないみたいですしー、話だけで終わっちゃいそうですよー」 「みてぇだなぁ」 レベッカに頷いてから、グレイスはマークを見上げ、思い出したように言った。 「追憶を禁ずる呪いを和らげる方法が、まるっきりないわけじゃない。あれは思い出したら消えるって寸法だから、思い出さなくて済むように、つまり毎日のように顔付き合わせてりゃ呪いは進行しないだろうな。たぶん」 「和らげるだけなのか?」 マークが不満げにすると、グレイスはむっとした。片手で、レベッカの頭を撫でる。 「解呪は出来ないんだから、やれることはそれくらいだ。贅沢言うなよ、和らげられるだけでもいい方なんだから」 「…そうか」 視線を落とし、マークは座り直した。グレイス・ルーをもってしても、ギルディオスを救えないのだ。 やるせなくなり、ぎちりと奥歯を噛み締めた。彼の平穏を、愛情に満ちた幸せを守ってやることが出来ない。 グレイスは、項垂れるマークに手を差し出す。体格に比例して大きかったが、色は白めだった。 「相談料として金貨十五枚」 指の長いグレイスの手を見、マークは仕方なく服を探って財布を取り出したが、どうにも軽かった。 マークは財布の紐を解き、中身をテーブルに開けた。じゃらじゃらと落ちてきたのは、数枚の銀貨と銅貨だった。 慌てて宿を出てきたので、財布に金を補充するのを忘れていたのだ。マークは、なんだか情けなくなった。 グレイスはその枚数を数えていたが、顔をしかめた。つまらなさそうにしながら、それを掻き集める。 「全く…次に来たとき、ちゃんと払えよなー? 運が良かったな、オレの魔力がなくて。魔力があったら、適当な呪いでも掛けて木偶人形にでもしてやってたぞ」 「全くですー」 グレイスの肩から下り、レベッカはテーブルにやってきた。グレイスは、ぱちんと指を弾いた。 紙とインク瓶と羽根ペンが、唐突にテーブルへ降ってきた。レベッカは羽根ペンを取り、さらさらと紙に書く。 「んーと、請求書ですねぇ。呪術相談料として金貨十五枚、延滞料として金貨二枚、きっちり払って下さいねー?」 「あ、ああ」 手早く書かれた請求書を渡され、マークはその料金を見た。ただ話をしただけなのに、この額はかなり法外だ。 レベッカの字は、その幼い見た目に懸け離れて美しかった。外見と実年齢は、大分違っているのだろう。 署名の欄があったので、マークは羽根ペンを抜いて名を書いた。グレイスは、その名を読み上げる。 「マーク・スラウねぇ。ああ、北東の山脈に住み着いてる盗賊一族か」 マークはインクが乾いたのを確かめてから折り畳み、懐へ入れた。かなり手痛い出費だな、と内心で思った。 ソファーから立ち上がると、グレイスは不機嫌そうにむくれていた。人差し指を立て、マークの顔を指す。 「ちゃんと払えよ。払ってくれないと、七代先まで本気で呪ってやるからな」 「払うさ」 マークは申し訳なさと情けなさで、苦笑いする。約束だぞ、とグレイスは言ってから、生欠伸をした。 メガネを外して目を擦っていたが、ずるりとソファーに倒れ込んだ。天井を見上げ、ぼんやりと呟いた。 「寝る。起きてると魔力が持たねぇ…」 目が閉じてすぐに、グレイスは寝息を立て始めた。相当に眠かったようで、だらしなく腕がずり落ちた。 その寝付きの早さに、マークは妙な気分になった。呪術師ともあろう人間が、見知らぬ人間の前で熟睡している。 ちらりとレベッカを見ると、満面の笑みで主を見ている。余程、このレベッカを信用しているのだろう。 マークは、幼女にしか見えないレベッカが末恐ろしくなったが、何で出来ているかは想像しないことにした。 魔導に通じていないのだから、想像しても的外れに違いないと思ったのだ。 灰色の城を出て、マークは坂を下っていた。 王都の外れに繋がるなだらかな坂の先に、影が立っていた。俯き加減で闇を纏った、小柄な女だ。 あの女だ。マークはすぐに察し、足を止めた。すると女は、ほとんど足音を立てずにゆっくりと登ってきた。 マークが身動き出来ずにいると、女は目の前までやってきた。引き摺るほど長い外套の下から、白い手が出る。 華奢な手のひらには、黒いインクで魔法陣が描かれていた。その手を、すいっとマークに向けて掲げた。 「余計なことをしないでって、言ったはずなのに」 その魔法陣は、ギルディオスらの下に描かれていたものと同じだった。追憶を禁ずる呪いだ。 マークは腰に手を回し、ちゃきりと短剣を抜いた。短剣の切っ先を、女の手のひらに突き付ける。 「だからどうした」 「でも、無駄足だったみたいね。そうよ、そうなのよ、私の呪いは私にしか解けないの」 フードの下で、女の薄い唇がにやりと笑う。 「大方、グレイス・ルーにも断られたんじゃないかしら? うふふ、これだから魔導を知らない人間って可笑しいわ」 女の指が、ついっと切っ先を撫でた。 「こんなものだけで、どうにかなることばかりじゃないのよ。少しぐらいは、魔導のなんたるかを知っておいたら?」 「グレイス・ルーにも同じ事を言われたよ」 マークは、口元を歪めた。女の白い指先が、短剣の側面をなぞる。 「私を殺したって無駄。私を殺したら、呪いは解呪どころか深まるだけ。死せる魂は魔性となりて、だもの」 「お前、ギルを愛していると言ったな」 「ええ、愛しているわ。誰よりも、私はギル兄様を愛しているわ」 「だったらどうして、ギルの記憶を封じる!」 「だから、封じるの。愛しているから、封じてあげるの。覚えていない方が、いいこともあるのよ」 女の目が、上がる。少し長めの前髪が風に揺らぎ、形の良い目が見えた。 「あなただってそうでしょう? 覚えていたくないこと、誰にも覚えていて欲しくないこと、あるはずよ」 うふふふ。風音に女の声が混じり、マークの耳元を掠めていった。 覚えていたくないこと。それは、いくらでもある。幼き日に殺した人間の断末魔、恨み言、その死に顔。 やむを得ず仲間を手に掛けた戦い。生きるために裏切りを続けた日々。そして、生臭い血と泥に汚れた過去。 覚えていて欲しくないこと。それも、いくらでもある。数えていったら、何日も掛かりそうだ。 最初にギルディオスと会ったときも、彼を裏切ろうとした。戦いの中、自分を信じてくれた彼を見捨てようとした。 長きに渡る人間不信が解けなかった頃、ギルディオスやメアリーの腹を勘繰り、疑ってしまっていたこと。 しかし、だからといって。それら全てを忘れてしまうのは、決して良いことではない。良いはずがないのだ。 マークは、刃越しに女を睨んだ。明るいところで見ると、美人というよりも可愛らしい顔をしていた。 「ああ、あるさ。だがな、忘れさせてそれでいいわけがないだろう!」 「それでいいのよ。誰も、苦しまなくなるのだから」 女は、顔を上げた。フードがぱさりと落ちて、少女じみた顔が露わになる。 「そうね。せっかくだから、あなたの苦しみも消してあげるわ」 「なんだと?」 「私を恨む必要もなくなるし、ギル兄様に対する責任感で苦しまなくて済むようになるのよ」 女の手が短剣から外れ、マークの胸元に当てられた。細い指が、黒い外套を掴む。 「喜びなさい」 弱い風が、女の周囲から沸き起こった。二つの黒い影をはためかせながら、うねった空気が過ぎていく。 マークの胸の底が、じりっと熱くなった。体温も上がり、脈も激しくなり、慣れない力が体の中を巡っている。 内側から炙られるような感覚に、マークは顔を歪めた。女は笑み、呪いの言葉を吐き出し始めた。 「時と共に連なりし、御魂と器に沈みしものよ。強き思いを糧として、彼の者の心よ、我が言霊に従いたまえ」 女の左手が、自身の額に当てられた。 「全てを忌み全てを戒める言霊よ、彼の者の追憶を、我の思うままに禁じたまえ」 風が、強くなった。 「発呪!」 女は膝を曲げて、しゃがみ込んだ。黒い外套が影を広げ、肩を上下させて息を荒げている。 胸元から手が離れると、マークの中から熱が失せた。熱の正体が自分自身の魔力であると、ようやく解った。 力なく座り込む女は、目元を歪めていた。それでもまだ、笑っていた。 「そうよ。これでいいのよ」 女は、ぐしゃりと黒を握り締めた。白い指が、黒に隠れる。 「これであなたは、ギル兄様のことを忘れるわ。そして私も、あなたのこともギル兄様のことも忘れるの」 女は、笑う。 「誰もが何もかも、忘れてしまうのよ。ギル兄様と殺し合いでもしない限り、思い出せなくなるのよ」 女の影は、ゆらりと力なく傾いていった。黒を広げて、女は地面に倒れた。 目は硬く閉ざされ、気を失っていた。マークは屈んで手を伸ばしたが、その手を引き、短剣を鞘に収めた。 倒れた女の脇を通り過ぎ、マークは坂を下りていった。女の言うことが事実ならば、女も何をしたかを忘れるのだ。 術者は術を掛けた覚えを失い、被術者も同様だ。事実そのものが、記憶から完全に消えてしまうということだ。 それでいいはずがない。辛い出来事や遣り切れない思いは、覚えていてこそ、初めて乗り越えられるものだ。 次第に、足元が平らになってきた。坂を下りて、広大な畑の間を抜けながら、マークは思っていた。 過去を塗り潰したところで、何になる。今まで生きてきた証を失うことは、恐ろしく空しいだけじゃないか。 たとえ万人に正しいと言われても、自分が間違っていると思えば間違いなのだ。過ちには、変わりはない。 記憶を消して、結果女が幸せになったとしても、それは歪んだ幸せだ。いつかどこかで、ずれが生じてくる。 ギルディオスと妹の間に、何があったのか。マークはあまり考えたくはなかったが、考えてみた。 愛しているわ、ギル兄様。その言葉で何があったのかは想像出来るが、軽く想像しただけで嫌になった。 ギルディオスが、身内に手を出すはずがない。近親同士の情愛など、まともな人間のやることではない。 だが、しかし。ギルディオスはそれを他者に言わないだけで、己の中にだけ封じているのだとしたら。 女は、それを完全に消してしまうために呪いを掛けたのだとしたら。そこまで考えて、マークは足を止めた。 道の先に、藍色のマントを広げた男がいた。長く伸ばした茶色の髪を後頭部で結んだ、魔導師の男だ。 その顔は、ギルディオスと良く似ていた。切れ長の目と精悍な顔付きは、鏡で映したかの如く同じだった。 だが、表情が少しもなかった。ギルディオスの表情の多さに比べると、真逆に思えるほどだった。 魔導師の男は静かに歩き、マークの隣を過ぎていった。マークが振り返ると、魔導師の男は坂を登っていった。 今し方マークが下りてきた道を、確かな足取りで進んでいく。そして男は、倒れている女の前で止まった。 屈み込むと、そっと女を抱き起こして腕の中に納めた。声は聞こえなかったが、口はこう動いていた。 許すものか。ギルディオス。 男の目が、マークに向いた。ギルディオスと寸分違わぬ顔に睨まれ、マークは一瞬憶した。 藍色のマントがはためき、男の影が揺らいだ。風が失せると同時に、男と女の姿は坂から消失していた。 日差しの弱まった空の下、マークは半ば呆然としていた。しばらくして、ようやく言葉が出た。 「あれが」 ギルディオスと、鏡写しの兄。 「イノセンタスなのか?」 なぜ、イノセンタスがここにいるのか。 マークは必死に頭を巡らせてみたが、まるで理由が掴めなかった。 兄妹同士が争っているらしい、ということだけしか、解らなかった。 05 6/2 |