ドラゴンは笑わない




戦友の過去



翌日、マークはヴァトラス家を訪れた。
迎えてくれたギルディオスやメアリーは変わっておらず、呪いを掛けられたことなど知らないようだった。
ランスは相変わらず人見知りをしていて、今日は二階から下りてこなかった。未だに、慣れてくれないようだ。
居間に通されたマークは、術者が誰であるかをぼかして、ギルディオスとメアリーに呪いのことを話した。
二人は覚えがないせいで、半信半疑のようだった。術者が誰であるかを話さないのも、疑われている原因だった。
しかしマークは、術者がギルディオスの妹であると話すのを躊躇った。彼の過去に、歪みを見るのが怖かった。
マークが一通り話し終えると、ギルディオスは唸った。テーブルの上には、手入れ途中の短剣が転がっていた。

「つまりそのなんだ、思い出すと忘れるんだな? 面倒臭ぇ呪いだなぁ」

「忘れないようにするには、思い出さないようにするには、間を開けないで会ってりゃいいってさ」

グレイスの話を思い出しながら、マークは言った。メアリーは、不可解そうに眉を下げる。

「でもなんで、あたしらがそんな妙な呪いを掛けられなきゃならないのさ?」

「オレにも解らんさ」

と、マークは嘘を吐いた。ギルディオスは僅かに訝しんだが、そうか、と返した。

「まぁ、こうしてお前と話してると忘れるなんて気はしねぇが、一応な」

ギルディオスは短剣を引き寄せると、近くにあった別の短剣を取った。柄に刃を突き立て、がりがりと溝を掘る。
相当硬そうな柄に、細く浅い溝がいくつか掘られた。多少歪んだ直線が文字になっていて、ギル、と読めた。
それをマークに渡し、ギルディオスは笑った。自信ありげな、子供のような笑顔になる。

「やるよ。名前書いてありゃ、忘れても思い出せるだろ」

「短絡的過ぎねぇ? それが出来なくなる呪いだって、今さっき説明したばっかりだろ?」

マークが変な顔をすると、ギルディオスはにんまりした。

「ああ、そうだったな。でもよ、何も証拠っつーかがないよりは良いだろ?」

「まぁ、そりゃあなぁ…」

マークは、ギルディオスから渡された短剣を眺めた。東王都での戦闘後、彼が市街地で見つけた掘り出し物だ。
クセのない滑らかな刃が美しい、切れ味の保証された短剣だ。鞘を受け取り、マークは刃を納める。

「そういうことなら、オレも何かやるよ」

「あ、じゃあ、全身鎧が欲しいな」

悪気無く言うギルディオスに、メアリーは呆れたような顔をする。

「たかろうとしてないかい、ギル」

「いいじゃねぇかよ、マークがくれるって言ってるんだから。メアリーが買ってくれないのが悪い」

開き直ってしまったギルディオスに、メアリーは言い返した。

「あんなもん、新品で買うと高いんだから、贅沢言わないの。あたしだって、新しい鎧は欲しいんだから」

二人は睨み合うように顔を見合わせたが、くるっとマークに振り向いた。マークは、ため息を吐く。

「解ったよ。どっちも買ってやるよ。幸か不幸か、この間の報酬もまだ残ってるしな」

「やりぃ!」

嬉しそうに、ギルディオスは声を上げた。だからあんたって好きぃ、とメアリーは甘えたような声を出す。
現金な二人にマークは呆れたが、仕方ないと思った。忘れられてしまうぐらいなら、金を出した方がいくらかマシだ。
どんなものを買うべきかとメアリーと話し合うギルディオスの横顔は、驚くほど、イノセンタスに似ていなかった。
ふと、人の気配を感じ、マークは窓へ顔を向けた。藍色の布が翻っているのが、視界の端に映った。
マークはそれが何であるか、誰であるかを察した。


その日、早速三人は防具屋に出かけた。
財布の中身を心配するマークを尻目に、二人は浮かれて選んでいた。他人の金だと、遠慮が無くなるらしい。
壁や棚にずらりと並べられた甲冑を、ギルディオスは眺めていた。鈍い銀色の全身鎧は、どれも値が張った。
その一つは、多少値が低くなっていた。王国軍騎士団の古い型で、中古なのか、二割ほど値引きされている。
赤い頭飾りを付けて、腰ほどの丈の赤いマントを羽織った甲冑。彼がそれを見ていると、店主がやってきた。

「お客さん、さっきも来ませんでしたか?」

昔は屈強だったであろう大柄な店主は、ギルディオスを指した。ギルディオスは、目を丸める。

「いや?」

「いやね、格好は違うんですが顔の形とかがおんなじでねぇ。気のせいでしたかねぇ」

あっちは魔導師っぽかったですしなぁ、と店主は髭面を撫でた。ギルディオスは、途端に顔をしかめた。
かなり不愉快そうだったが、すぐに表情を戻した。ギルディオスの脇に立ち、店主は赤い頭飾りのものを指す。

「この手のは寸法を合わせなきゃなりませんが、これならお客さんの体に最初から合うんじゃないでしょうか。大きさを調整するとまた別に金が掛かっちまいますから、これが一番良いと思いますが」

「これねぇ…」

ギルディオスは、独特の形をした隙間の開いたヘルムを見上げた。流線形で、左右に二つずつ隙間がある。
確かに店主の言う通り、この甲冑ぐらいしかギルディオスの体格に合わなかった。他のものは、小さかったのだ。
ギルディオスは甲冑の胸を叩き、かしゃんとヘルムを開けた。中を覗き込んでいたが、頷く。

「そうだな。なかなか良い具合だし、こいつにしとくかな」

「なんか、ニワトリみたいだねぇ」

自分の甲冑を抱え、メアリーは全身鎧を見上げた。ふさふさとした頭飾りは、どことなくトサカに見えた。
ギルディオスは背を伸ばし、そのトサカに触れた。羽根で出来ている頭飾りの、手触りは柔らい。

「そうか?」

「買うなら早く買っておけよ? オレの決心が鈍らないうちに」

マークが苦々しげに笑うと、二人は店主を呼び付けた。全身鎧が売れると知り、店主は大層喜んでいた。
ギルディオスは全身鎧の胸を叩きながら、嬉しげに見上げている。鈍い銀色は、ぎらりと眩しく光っていた。
マークはその全身鎧を眺め、思っていた。あの場にいたのがイノセンタスであるならば、話は聞かれていた。
それにイノセンタスとギルディオスは双子なのだから、体格は同じであり、どれを選ぶかは最初から解っている。
ギルディオスの選んだ鎧に、呪いが掛けられている可能性がないわけではない。徹底的に、調べるべきだ。
そのためには勉強しなきゃならんな、とマークは多少げんなりしながら思っていた。


それからマークは、全身鎧に呪いが掛かっていないかを調べた。
自分よりも遥かに魔導の知識を備えているランスの手も借りて、数日掛けて、メアリーのものと共に調べ上げた。
だがどちらにも、呪いは掛けられていなかった。その作業の合間に、少しだけランスは心を開いてくれた。
しかしそれでも人見知りされてしまい、必要以上の会話を交わすことはないまま、調べる作業は終わってしまった。
それから二年間、マークはヴァトラス家に入り浸った。用事があるときでもないときでも、彼らと語り合った。
以前にも増して友情は深まり、信頼は強くなった。徐々に成長するランスも、少しなら笑ってくれるようになった。
夏が終わり、秋の気配が訪れた頃。息を吹き返した帝国が、王国の北王都に攻め入り始めた。
多少離れた場所ではあったが、馴染みの兵隊長に頼まれたということもあり、三人とも揃って出撃をした。
北王都では、帝国の一方的な侵攻を、王国がきわどい部分で食い止めていた。正直、戦況は良くなかった。
三人が任されたのは、帝国軍の本陣を守っている歩兵隊の先頭突破だった。戦いは長引き、太陽が傾き始めた。
日暮れ時は視界が悪くなるので、あまり戦いには適していない。早く蹴りを付けるため、三人は戦いに戦った。
あの全身鎧を着たギルディオスは、本当に強かった。歩兵の一人や二人は簡単に薙ぎ払い、道を作っている。
その背をメアリーが守り、二人は効率よく歩兵隊を薙ぎ払った。その間を、王国軍が抜けていった。
怒濤のような王国軍の侵攻に、帝国軍の本陣は攻め入られている。敵の歩兵は、さすがにもういなかった。
屍と血溜まりを避け、ギルディオスは息を吐いた。巨大なバスタードソードは、赤黒くべっとりと濡れている。
その背に、メアリーが寄り掛かった。どちらも剣を下ろすことはなかったが、荒い息を整えている。
日没の寸前だった。西の山脈に没していく太陽は、最後の輝きを放ち、戦場を朱色で染め上げていた。
かしゃん、とギルディオスはヘルムを開けた。強烈な西日を浴びて、金色の瞳が輝いていた。

「手間ぁ掛かったな」

「あの愚図共、さっさと自分達で攻めりゃいいものを」

帝国軍の本陣に強攻する王国軍を見、メアリーは毒づいた。マークは二人に歩み寄り、汚れた外套を脱いだ。
返り血と泥に汚れた黒を、足元に捨てた。腹を叩き切られた帝国軍の兵士の死体が、黒に隠れる。

「全くだ。東王都の戦いで先走って失敗したからって、こんなに慎重になることもないだろうが」

「帝国も王国も、オレ達が死ぬのを待ってたみたいだしな。障壁じゃねぇってのに」

がしゃり、とヘルムを元に戻し、ギルディオスはゆっくりと肩を上下させた。その度に金属が擦れ、硬い音がした。

「今度の作戦、果たして上手く行くかねぇ。この感じだと、北王都で帝国軍を堰き止めて援軍を求める気だろうが」

「隣国も、帝国には痛い目に遭わされてるからね。そうほいほいと、我らが王国に手を貸すもんかい」

メアリーは、肩を竦めてみせる。ギルディオスは、マークにヘルムの顔を向けた。

「マーク、ありがとな。オレ達が来る前に、狙撃隊を崩しといてくれて。助かったぜ」

「気にするな。いつものことさ」

血と脂に汚れた短剣を拭き、マークは笑う。ギルディオスは、片手で胸を叩く。

「今度はオレが援護してやらぁ。いつも助けられてばっかりだから、たまには助けてやらねぇとな」

「ああ、期待しないでおくさ」

汚れた短剣を鞘に戻し、マークは別の短剣を腰から抜いた。遠目に見える帝国軍の本陣が、崩れかけている。
ばらばらに散らばり始めた騎士や兵士達が、王国軍と入り乱れている。その一部が外れて、向かってきた。
西日に染まった赤い雲を背景に、陰った人影が駆け寄ってくる。歩兵隊を突破されたのが、悔しいのだろう。
マークは短剣よりも少し長めの剣を抜き、汗と埃に汚れた額を拭った。もう少し、働く必要がありそうだ。

「ギル。オレは先に」

答えがないので、マークは後方へ振り向いた。ギルディオスは一点を見つめていたが、突然絶叫した。
ギルディオスは背後のメアリーを、突然突き飛ばした。不意のことに反応出来ずに、彼女は勢い良く転んだ。
マークは彼の猛りを、聞き取ろうとしたが、出来なかった。甲冑は高々と剣を振り上げ、駆け出そうとしたその時。

ギルディオスの影が、ぐにゅりと立ち上がった。

闇を掻き集めて馬を成し、落ちていた剣が浮かぶ。次第に膨れていく影は甲冑を纏い、馬は嘶き、騎士となった。
その影に気付いたギルディオスは足を止めたが、一瞬で間を詰められた。影の騎士は、高く剣を振り上げる。
帝国の兵士が使い損ねた剣は、赤い日差しを反射していた。その輝きが、異様なまでに美しかった。
マークは体が固まり、動くことが出来なかった。己の判断が間違っていたと、痛切なまでに感じていた。
彼の全身鎧に掛けられていたのは、呪いではない。魔法だったのだ。だから、いくら調べても出てこないはずだ。
やるせなさと悔しさで、マークは血が出そうなほど手を握り締めた。涙が、出そうだった。
天高く突き上げられた片手剣が、振り下ろされる。真っ直ぐにギルディオスの腹を狙い、そして。


「がぁっ」


鈍い叫声が響き、ギルディオスは背中から倒れた。腹と背を貫いている剣が、赤いマントすらも切り裂いていた。
滑るように、甲冑は背を大地に付けた。激しい金属音がしたはずなのに、少しもその音が聞こえなかった。
赤いマントを赤黒く染め、赤い頭飾りが土に汚れている。ぎらついた刃と甲冑の隙間から、血が流れ出ている。
じわじわと広がっていく血溜まりに、ギルディオスは沈んでいる。頭を反らし、手から剣が滑り落ちた。
起き上がったメアリーは、腹に剣を突き立てられている夫に気付いた。立ち上がり、駆け寄った。
ギルディオスの右手が、僅かに上がった。その手を握り締めたメアリーは、声を押し殺して泣いている。
マークは、よろけそうな足で歩み寄った。血に汚れたギルディオスの傍らに膝を付き、首を横に振った。
情けなかった。空しかった。謝りたかったが、もう謝る術はない。せめて、死体を守らなくては。
マークは立ち上がり、背を向けた。後方を窺うと、メアリーは夫のヘルムを開けて、愛おしげに口付けていた。
彼の平穏は彼女の平穏だ。それすらも、壊してしまった。やるせなかったが、帝国軍は迫ってきている。
今は、戦わなくてはならない。戦うことしか、出来ることがない。悔しさで歪んだ目元を拭い、視界を明瞭にした。
黒衣と親友を失った戦士は、戦場へと駆け出した。


戦いは、なんとか王国の勝利に終わった。
ギルディオスの死体を王都まで引き摺って帰り、葬儀を終えた後、マークはヴァトラス家から離れた。
結局、ギルディオスを助けることは出来なかった。幾度も、彼を助けられなかったことを後悔していた。
せめてジュリアを探し出そうと王都を離れてはみたものの、追憶を禁ずる呪いに次々と記憶を封じられた。
なので、ジュリアがどんな顔をしていたのかを忘れてしまった。思い出そうと足掻けば足掻くほど、記憶は消えた。
そのうちにギルディオスの記憶も薄らぎ、いつしか失せた。同時に、メアリーやランスのことも忘れてしまった。
自分が何をしてきたかは覚えている。これから、何をして生きるべきかは知っている。だが、しかし。
忘れてはならないギルディオスとの記憶だけが、彼に関わった部分だけが、綺麗さっぱり封じられてしまったのだ。
王都を出た目的すら忘れ、マークは賞金稼ぎとしての日々を過ごした。ジャックを養子にし、毎日は忙しくなった。
そして。全てを忘れたマークは、ギルディオスを賞金首として見定め、黒衣の女の言葉に従って付け狙った。
かつて助けようとした親友を、金に換えるためだけに、殺そうとしてしまったのだ。




高い窓から、白い光が差し込んでいた。話を終えた眼帯の男を、包むように照らしていた。
ギルディオスは、無心にマークを見ていた。自分自身の記憶がないことが、悔しく、情けなかった。
彼の話には嘘は見えないし、信じたい。だが、ギルディオス自身の過去がないせいで、確かめられなかった。
マークは力なく、すまない、とだけ言った。夜通し話していた彼の夕食は、テーブルに丸々残っていた。
いつのまにか、ジャックは居なくなっていた。話が聞くに堪えなかったのか、どこかに行ってしまったらしい。
並々と赤ワインを注いだグラスを取り、フィフィリアンヌはすいっと唇の隙間に流し込んだ。息を吐き、グラスを置く。

「合点が行ったぞ。古代系の呪詛ならば、何度もギルディオスの魂に触れていても、解呪が出来なかったわけだ」

赤い瞳がマークを見据え、僅かに細められた。

「マーク、なかなか賢明な判断だった。少しどころか相当に危険だが、よくぞグレイスを訪ねた」

「でもあの後、こいつは金を払いに来なかったんだぜー? 金貨十七枚、まだ払ってくれてねぇんだよ」

むくれながら、グレイスはマークを指した。フィフィリアンヌは、膝に乗せていた本を閉じる。

「それは仕方あるまい。追憶を禁ずる呪いは、封じた記憶に関する記憶すら封じてしまうのだからな」

慎重な動きで、マークは顔を上げた。ギルディオスのヘルムに目を向けると、視線が合う。
白い朝日を反射した甲冑は、ぎらりとしていた。ギルディオスは、憔悴しきった親友を見据えた。

「マーク」

「ギル。何を言ったって、言い訳にしか聞こえねぇだろうが」

テーブルの上の短剣を、マークは見つめた。

「本当に、すまなかった。お前を、助けることが出来なくて」

銀色の刃に、表情の変わらぬヘルムが映った。穏やかな朝日を浴びている親友は、泣きそう顔をしている。
全てを思い出したから、苦しみも蘇った。過去を忘れることで忘れ去っていた、後悔までも思い出したのだ。
僅かに緩んでいるマークの表情には、様々な感情が滲んでいた。その全ての原因は、自分なのだ。
しかし、それを思い出すことが出来ない。己の存在を消した妹が、ギルディオスに掛けた呪いを解呪するまでは。
ふと、そこで違和感を感じた。ギルディオスが顔を上げると、ソファーの上で胡座を掻くグレイスが言った。

「おかしいな」

グレイスは、いつになく真剣な顔をしている。真顔になると、男らしい。

「マーク。お前にギルディオス・ヴァトラスの情報を与えてきたのは、黒衣で茶髪の可愛い女だったんだな?」

「ああ。今にして思えば、あれはジュリアだったんじゃないかと思うんだ」

声と顔がな、とマークは付け加えた。グレイスは顎に手を添え、唸る。

「なるほどなぁ。ああつまり、その女もお人形ってことだな。ないはずの記憶があるみてぇだし」

「グレイス。貴様、ジュリアに会ったのだな?」

フィフィリアンヌが問うと、グレイスはちょっと困ったような顔をしたが、頷いた。

「まぁな。何度か、あいつの方からオレに接触してきたんだ。用件はいつも、ギルディオス・ヴァトラス絡みでな」

「ふむ。七年前は化粧気がなかった女は、どうなっていた?」

フィフィリアンヌは、グレイスの持ってきた薬剤の在庫表をぺらりとめくる。グレイスはすぐに答えた。

「化粧臭い。それなりにいいもの使ってるが、それでもけばい」

「匂いは」

「基本はバラだな。その中に、ちょいとばかり妙な匂いがしてたんが、オレじゃ解らないな」

フィフィリアンヌの本領さ、とグレイスは両手を上向ける。フィフィリアンヌは、在庫表に指を滑らせる。

「カミツキソウの根、竜眼草の花弁、バラモドキの茎が五本か。なかなかいい選定だ、効力も悪くない。バラモドキが混じっているから、それで香りが誤魔化せるという寸法か。簡単な昏迷剤だな。大方、これを使ってジュリアを操っているのだろう。混迷状態の者に暗示を掛けて動かすのは、単純だが確実な方法だからな。しかし、賢明だが抜けているぞ。なぜわざわざ、王宮の薬剤倉庫から持ち出したのだ。足が付いてしまうだけではないか。自力で収集した方が、余程安全だろうに」

「悪事に慣れてねぇんだろ」

グレイスが可笑しげにすると、フィフィリアンヌは、そうだな、と呟いた。

「呪いといいなんといい、魔法には長けているが悪事のやり方を知らぬ。やるなら徹底的に、が基本だというのに」

「うん。オレなら、最初にマークに会った時点で殺すな。証拠が残っちまうから」

胡座を解き、グレイスは足を投げ出した。勝手に話を進めている二人を、ギルディオスは見比べた。

「やっぱり、お前らもそう思うのか?」

「貴様の想像している通りだと思うぞ、ニワトリ頭。王宮の薬剤倉庫から魔法薬の材料を持ち出しても怪しまれず、貴様の甲冑に妙な魔法を掛けられるような腕を持ち、七年前からジュリアの背後に姿を見せ、その上貴様に対して明確な殺意を抱く者はただ一人」

フィフィリアンヌは、ギルディオスを見上げる。吊り上がった目が、少し細められた。



「イノセンタス・ヴァトラスだ」



少々の沈黙の後、グレイスが中腰に立った。テーブルに手を付いて、ギルディオスへ身を乗り出す。

「どうする? 殺すか?」

「ほいほい物騒なこと言うんじゃねぇよ、このド変態」

けっ、とギルディオスは吐き捨てた。ガントレットの手を、軽く振ってみせる。

「んなことしたら、オレは兄貴と同じだ。自分勝手な感情だけでの人殺しなんざ、死んでもやらねぇよ」

その仕草は、マークの記憶にあるものと同じだった。ギルディオスは、死してもまるで変わってはいない。
全て思い出した。ギルディオスは、歪んだことが何より嫌いだ。ただ前しか見ず、ただ一心に戦うだけの男だ。
そんな彼が、身内に恋情を抱くはずがない。抱いたとしても、間違っても過ちは犯さないはずだ。
確証はないが、そう思えた。マークはグレイスと言い合うギルディオスを見、笑った。

「なぁギル」

「んだよ」

近寄ろうとするグレイスを押し退けて、ギルディオスは振り向いた。マークは、彼を指した。

「お前、前に言ってたよな? たまにはオレを助ける、援護するって」

「あー、そりゃマークの話の中のオレだが、たぶん言ったんだろうな」

思い出せねぇけど、とギルディオスは首をかしげた。マークは、にやりとする。

「だったら、グレイスの相談料とオレの解呪料ぐらい立て替えてくれないか?」

「…あ?」

ゆっくりと、ギルディオスはマークに向き直った。フィフィリアンヌが、すぐに暗算する。

「ギルディオスの借金の残りは、返済された分を差し引くと金貨七百四十枚。そこにマークの解呪料の金貨三十枚を足し、更にグレイスへの相談料を足すと、合計額は金貨七百八十七枚だ」

「せっかく減らしたのに増えやがったぁー!」

泣き声混じりの叫びを上げ、ギルディオスはぎっとマークを睨んだ。親友を指す手は、震えている。

「そっ、そりゃあ言ったかもしれねぇけど、なんだってそんなに即物的なんだ親友ー!」

「おお、ギルが難しい言葉を使った。相当混乱しているな」

マークが呟くと、フィフィリアンヌが頷いた。グレイスは、にやにやしながらギルディオスに寄る。

「オレは別にいいんだぜ、ギルディオス・ヴァトラス。払ってもらえるなら、誰だってなぁ」

「相手は親友だぞ。貴様を救おうとした親友の頼みが、聞けぬというのか?」

言葉の割に、フィフィリアンヌの声には感情が籠もっていなかった。マークは、項垂れる甲冑を見上げた。
やはり、彼は少しも変わっていない。でろりと垂れたトサカのような頭飾りが、やたらと情けなかった。
マークは立ち上がると、ギルディオスの肩を叩いてやった。あー、と気の抜けた声を出している。

「まぁそう気を落とすな。オレも手伝ってやるから、借金の返済は」

「親友の借金を増やす親友なんて、聞いたことねぇぞ」

「そう嘆くなよ、ギル」

「お前のせいなんだよ!」

ぷいっと顔を背けたギルディオスは、がしゃりと腕を組んだ。拗ねてしまったのか、もう振り向いてくれなかった。
背後ではまだマークが何かを言っていたが、ギルディオスは無視した。こんな無茶苦茶な話、あってはならない。
だが、このまま借金が増えるんだろうな、とも思った。こうしてろくでもない目に遭うのは、いつものことだ。
しかし、いつもよりは多少気が楽だった。記憶にないはずの親友、マークの記憶が戻ったからかもしれない。
記憶にはなくとも、感覚的に覚えていたようだ。現に、妙に気が落ち着いているし、彼が傍にいて嬉しい。
ギルディオスは、再び生身の体が愛おしくなった。生身さえあれば、またマークと酒を飲むことが出来るのに。
それが、やたらに悔しくて仕方なかった。




城の正面玄関は、朝焼けに染まっていた。
階段の脇でセイラが身を丸めており、すっかり熟睡していた。時折、寝言のように声を洩らしている。
デイビットは、階段に座る少年を見下ろした。ジャックは複雑そうな顔をして、マークの過去を話してくれた。
ぶつ切りで話が飛んでいたが、それでも内容は掴めた。デイビットはフラスコの隣に戻り、階段に腰掛けた。

「なかなか重たいお話ですねぇ。ですけどジャックさん、どうしてこっちに来たんですかぁ?」

「なんて、いうんすかねぇ」

抱えた膝に顎を乗せ、ジャックは目を伏せた。情けなく、口元が曲がっている。

「マークさんがあんなに辛そうなのに、何も出来なくて、結局出てきちゃったし。それが、なんていうか、んーと」

「やるせない、とでも?」

伯爵が言うと、そうそうそれっす、とジャックは何度も頷いた。

「これからオレ、どうするべきかと思っちゃって。でも、なぁんにも思い付かないんすよねぇ」

「はっはっはっはっはっは。悩めるときはいくらでも悩むべきであるぞ、少年」

朝日に照らされているフラスコの中、スライムがぐにゅぐにゅと揺らいだ。ジャックはそれを見下ろしたが、俯く。
ひたすらに笑い続ける伯爵を横目に、デイビットはジャックの前に滑り出た。距離を開け、下から覗いた。

「ですけど、結局はなるようにしかなりませんから。なんだって、行き着く先は決まっているんです」

「そういうもんなんすか?」

訝しげに、ジャックは幽霊を見た。デイビットは曖昧な笑顔になると、ふわりと浮かぶ。

「そういうもんなんじゃないでしょうか。少なくとも私はそう思いますねぇ」

「そうなんすかねぇ…」

ジャックは、ぼんやりと湖を眺めた。砕いたガラス片を散らしたかのように、湖面の細かい波が光っていた。
こうして座り込んでいると、最初に感じた畏怖など消えてしまっていた。話すうちに、ジャックは彼らに慣れた。
セイラは見かけに反して心優しかったし、伯爵は鬱陶しいが話が通じたし、デイビットも幽霊らしくなかった。
ジャックを驚かすでもなく、怖がらせるでもなく。ただへらへらと笑って、根拠のない妄想を喋るだけだ。
ひやりとした弱い風が木々を揺らし、ジャックの元までやってきた。先程の会話を、反芻してみた。

「なるように」

「なってしまうのである」

と、ジャックの言葉の後半を伯爵が続けた。ジャックはむっとして、スライムを見下ろす。

「勝手に言わないで欲しいっす」

「はっはっはっはっは。我が輩は極めて暇なのである、たとえ一文字であろうとも多く喋っていたいのだよ」

「だからって、人のセリフを奪わないで欲しいっすよ伯爵さん」

「はっはっはっはっは。言い直せばいいことである」

「そういう問題じゃないと思うっすけど」

ジャックは、腑に落ちない顔をした。伯爵は良く通る低い声を発し、意味もなく上機嫌な笑い声を響かせていた。
その笑い声がうるさかったのか、階段の右脇に丸まっていたセイラが、少し身動きした。起きたらしい。
大きな体を慎重に起こし、縮めていた腰の翼を伸ばした。上半身を反らすと、牙の並ぶ口を大きく開く。
高音と低音の混じった声を出し、セイラは金色の単眼を瞬かせた。背筋を伸ばすと、ばきりと関節が鳴る。

「朝?」

「ええ、朝ですよ、セイラ。なんだかんだで私達、玄関で一夜を明かしてしまったようですよぅ」

いけませんねぇ、とデイビットは両手を胸の前で組む。何がいけないのか、ジャックには解らなかった。
太陽の角度が上がり、薄い朝靄を日光が切り裂いてきた。それを浴びたスライムは、ごぼごぼと泡立っている。
何度か瞬いていたセイラは、両足を広げてぺたんと座った。巨体に似つかわしくない、幼い仕草だ。

「フィリィ、マダ、出テ、来ナイ?」

「フィフィリアンヌが出てくるのは、昼過ぎ辺りであろう。あの女も一夜を明かしたのであるから」

セイラに向けて、伯爵は体を伸ばした。フラスコの内側を、粘着質が舐める。

「そうですねぇ。フィルさんですもんねぇ」

待つしかありませんよぅ、とデイビットはセイラに笑ってみせる。セイラは残念そうに、肩を落とした。
寂しいのか、セイラは声とも歌とも付かぬ音を発した。耳元まで裂けた口元が、物悲しげに半開きになった。
ジャックは、三人の反応が少し信じられなかった。あれだけ重たい話を聞かされても、至って平然としている。

「あの、マークさんの話は気にならないんすか?」

「そりゃあ気になりますし、これからどうなるか楽しみと言えば楽しみですが」

ジャックを見下ろしているデイビットは、強烈な朝日のせいで、ほとんど姿が見えなかった。

「それはそれ、これはこれなんです。そういうもんなんですよぅ」

「そういうもんなんすか」

ジャックが返すと、そうなんです、とデイビットは頷いた。幽霊はするりと動き、セイラの前に出て行った。
色を失いそうなほどに照らされている森や湖は、マークの壮絶な過去など知らないかのように光っていた。
そういうものなのかもしれない。たとえどれほど凄惨な出来事があろうとも、そこに繋がるのは日常だ。
逆を言えば、日常がなくては何事も始まらない。争いも平和も、憎しみも愛も、日常があるからこそ生まれるのだ。
そういうものなんだ、とジャックは少しだけ理解した。夜を明かしてしまったので、眠気で瞼が重かった。
恐ろしく平和な湖と森の景色に、いつしか彼は眠ってしまった。




呪いが解け、過去が明らかとなる。それは、真相にも繋がっていた。
相見えない片割れ同士が、交わり、互いの思いを交錯させるときはまだ遠い。
互いが互いに近付こうとしない限り、兄と弟が向かい合うことはない。

なぜなら兄と弟は、鏡の表裏だからである。








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