ドラゴンは笑わない




白き竜と黒き竜



エドワードは、微笑んでいた。


目の前には、セイラが屈み込んでいる。ぎゅっと細められた金色の単眼は、幼い表情で嬉しさを滲ませていた。
湖の対岸に、巨体の魔物は背を丸めて座っている。セイラの太い尾だけが湖に浸かり、ゆらゆらと揺れている。
間に膜の張った四本指の手を伸ばし、向けてきた。エドワードは白い手袋を外し、その手に触れた。

「元気そうだな、セイラ」

「エドモ」

口元を綻ばせ、セイラは笑った。エドワードはそれを見、余計に嬉しくなって満面の笑みになる。
白い翼を同じく白いマントの下で折りたたみ、後方へ顔を向けた。古びた城の前に、彼女が立っていた。
読書の途中だったのか、脇に分厚い本を抱えている。緑髪の少女は面倒そうに眉を曲げ、唇をひん曲げている。
その隣に立つ男は、人間だった。群青色のマントを羽織った、高貴な身なりをした少年のような青年だ。
肩には小さなワイバーンを乗せていて、その細い尾には赤いリボンが結んであり、尾が動くたびに揺れていた。
二人の背後には、半透明の貧弱な男がふわふわと浮かんでいる。目鼻の小さい、目立たない顔立ちの幽霊だ。
そして、大柄な甲冑が城の正面玄関に腰掛けていた。剣を手入れしていたのか、銀色が階段に寝かせてあった。
見知らぬ者達は多いが、これといった害はなさそうだ。エドワードはそう判断し、騎士の礼儀として一礼した。

「私はエドワード・ドラゴニアと申します。竜王騎士団の、第一師団に身を置いております」

「…はぁ」

すっかり興奮した様子で、青年は声を洩らした。呆然としながら、まじまじとエドワードを眺めている。
フィフィリアンヌはちらりと青年を見、あまり面白くなさそうに眉根を歪めたが、本で青年を指し示した。

「紹介しよう、エドワード。竜族に魅入られた酔狂な貴族と、その従者である可愛らしい幼子だ」

そして、とフィフィリアンヌはやはり本で幽霊を示した。

「私の買った城に居着いていた、重度の妄想癖を持つ自称小説家の幽霊だ」

「名前で紹介してやれよ」

少女の背に、ギルディオスが呆れた声で言う。フィフィリアンヌは本を下ろし、甲冑へ振り返る。

「どうせ後で自分から名乗るのだ、私が名を教えても無駄なだけだろう」

「まぁ、確かにそうかもしれませんけど…」

貴族の青年は苦笑していたが、エドワードに向き直った。胸に手を当て、慣れた仕草で礼をした。

「カイン・ストレインと申します。以後、お見知り置きを。この子はカトリーヌと言います」

「決して間違ってはいませんけど、それでいいとは思えませんねぇ」

ちょっと渋い顔をした幽霊は、フィフィリアンヌを見下ろした。そして、エドワードに深々と頭を下げる。

「どうもエドさん、お初にお目に掛かります。デイビット・バレットと申します。ドじゃありませんよ、トですよぅ」

「んで、エド。後ろに突っ立ってる黒竜族の兄ちゃんは、何て名前だ?」

立ち上がり、ギルディオスはエドワードの左隣を指した。白い騎士の傍らには、黒い騎士が突っ立っていた。
浅黒い肌をしており、闇のような黒髪を首の後ろでぞんざいに結んでいる。目付きは、鋭いというよりきつい。
騎士の装備を、エドワードよりも大分着崩している。マントを羽織った背中から、髪と同じく黒い翼が出ていた。
耳も長く尖っていて、長めの二本のツノがヘルムの下から伸びており、彼の瞳の色は赤黒かった。
腰の下げた剣と甲冑で、辛うじて彼が騎士だと解るのだが、それを着ていなければ柄の悪い青年にしか見えない。
足を肩幅ほどに開いて腕を組み、不機嫌そうにフィフィリアンヌらを睨み付けていた。ようやく、口を開く。

「ガルム・ドラグリクだ」

「彼は第二師団の副団長をしていて、私の同期なんだ」

エドワードはガルムを手で示した。カインはエドワードとガルムを見比べ、はぁ、と息を吐く。

「ああ、なるほどなぁ。竜騎士の装備は王国の系統に近いけど、竜族の技術だけあって構造が違うんだなぁ。肩と腰の装甲も見た目より厚いみたいだし、魔導金属の配合もこちらより多いのかな? うん、見た感じは七三ぐらいだ。竜王家の紋章が文献のものと少し違ってるのは、時代の流れってやつかなぁ。あの本の初版は百五十年と少し前だったし、いくら竜族でも王族が移り変わるはずだものなぁ」

「…は?」

口元をひきつらせたガルムに、カインは少し照れくさそうに笑った。

「ああ、僕、竜族が好きなものでして。色々と興味があるんですよ。ああ、でもいいなぁ、後で剣とか見たいなぁ」

「あまりみだりに近付くな。エドワードはともかく、ガルムは少々血の気が多いのでな」

頭から噛み砕かれるぞ、とフィフィリアンヌはカインを見上げた。カインは凄く残念そうに、肩を落とした。

「それは残念です。せっかくの機会だから、全ての装備をひっくり返して拝見したいなぁと思っていたのですが」

「追い剥ぎみてぇだなおい」

ギルディオスが笑ったような声を出し、がしゃがしゃと階段を下りてきた。その手には、巨大な剣が握られている。
すらりと背中の鞘に戻し、がちん、と鍔を鞘を合わせた。ギルディオスはエドワードの前で止まり、左を見る。
ガルムは、かなり機嫌が悪そうだった。フィフィリアンヌのそれとは違い、不快感を思い切り露わにしている。
ギルディオスはガルムから目を外し、エドワードへ向いた。ツノの生えた銀髪の青年を見つつ、黒い騎士を指す。

「あいつ、滅茶苦茶人間が嫌いみてぇだなぁ。エド、なんでこんな場所に連れてきたんだよ」

「竜王陛下と竜王都のためだ」

ガルムは、良く通る声を発した。それなりに整ってはいるが厳しい顔付きが、更に険しくなる。

「フィフィーナリリアンヌ・ロバート・アンジェリーナ・ドラグーン。竜王軍に手を貸してもらいたい」

「ここは下界だ。私はそんなに仰々しい名前で生きてはおらん」

フィフィリアンヌは不愉快げに、ガルムを見上げる。ガルムは向き直り、組んでいた腕を解く。

「ならば、フィフィリアンヌ、とでも呼べば良いのか。注文の多い女だ」

「下界には下界なりの生き方がある。貴様のように肩肘を張っていては、やっていけんのでな」

フィフィリアンヌはガルムから目線を外し、エドワードに向けた。

「奴は戦争でも起こしたいのか?」

「また実直に聞いてくるな。まぁ、要約すればそんなところだ」

エドワードが言うとフィフィリアンヌは、やれやれ、と面倒そうに首を振った。

「この間は王国軍に頼まれたのだがな。両軍とも致命的な人材不足のようだな、私などに頼ろうとするとは」

「当然、跳ね付けたのだろうな?」

「無論だ。金貨五百枚如きで、戦争などに荷担する気は起きん」

せめて一万枚だ、とフィフィリアンヌはエドワードに返した。エドワードは、苦笑いする。

「…相変わらずだなぁ、君は」

「ならば、一万枚積めば手を貸してくれるのか?」

ガルムの言葉にフィフィリアンヌは、まさか、と僅かに目を細めた。

「十万枚だ」

「法外にも程があるぞ。お前は、少々己を買い被りすぎていないか?」

ガルムが嫌そうな顔をすると、フィフィリアンヌは黒い竜騎士を見上げる。

「大方、貴様の考えていることは、私の薬をばらまきでもして帝国の兵隊共を陥落させるつもりでいるのだろう。が、そのために使うであろう薬液は膨大だ。ざっと考えただけでも、樽に八千は必要だ。いくら帝国の戦力が縮小したとはいえ、それでも十二万は軍勢が残っているのだからな。それら全てを昏迷或いは薬殺するとなると、それ相応の威力と量の薬液が必要となるのは当然の話だ。十万枚でも安い方だ。私を過度に買い被っているのは、貴様らの方だぞ。私は、魔法薬の研究開発及び製造に長けているだけであって、大量殲滅を得意としているわけではない。何か履き違えてはいないか?」

「だが、お前の毒の精度は」

「あれは少量だからだ。光を結べば熱となり炎となるように、少ないからこそ威力がある」

ガルムを睨むようにしながら、フィフィリアンヌは淡々と喋る。

「逆を言えば、大量に作れば作るほど精度が弱まる、ということなのだ。それを馬鹿のようにばらまいて、何の意味があるというのだ。材料の無駄だ。第一、大量殲滅をしたければ己の牙があるだろう。戦うために生きる貴様らが、帝国の兵隊共を喰い尽くし焼き付くせば良いだけのことだ」

「嘆かわしいことに、竜王騎士団にも戦いを好まぬ者がいてな」

ガルムの目が、エドワードを捉える。

「血を流さずに殺すには、お前の手を借りるのが一番だと思ったのだ」

「血みどろじゃねぇ戦場なんてあるもんかよ」

馬鹿にしたように、ギルディオスが顔を逸らした。エドワードは、少し声を落とす。

「確かに、死人の出ない戦いはない。だが、殺すにしても外傷が少ない方がいいではないか」

「毒を浴びれば、人間の体など簡単に溶ける。皮が破れて肉が崩れ、溶けた内臓と共に骨が腐り落ちるのだ」

地獄のような光景になるぞ、とフィフィリアンヌは素っ気なく言った。エドワードは、表情を歪める。

「だが…」

「ですけど、どうして竜族が戦争に関わりたいんですか?」

そりゃあ帝国と王国は燻ってますけど、とカインは不思議そうにする。ガルムは、苦々しげにした。

「決まっている。神聖なる竜神祭に乗り込んできたドラゴン・スレイヤー共を全滅させ、そのような連中を祭り上げていた帝国に思い知らせてやるのだ。だが、我らは王国に加勢する気はない。これは我ら竜族の戦いであって、王国の連中になど関係はない。ただ、間が合ってしまっただけのことだ」

「崇高と言えば聞こえは良いですけど、要するに極論なんですよねぇ」

肩を竦め、デイビットが両手を上向けた。ガルムは、声を荒げた。

「竜族の誇りであり象徴である竜神祭を穢されたのだぞ! それ相応の報復をするべきではないか!」

「たかが祭りだろ?」

ギルディオスが首をかしげると、ガルムは更に声を張り上げた。

「されど祭りだ! お前達とて、神事を穢されれば怒りを覚えるはずだ!」

「いや、別に。オレ、神様なんて信じてないし。だから祭りなんて、どうでもいいんだよなぁ」

ガルムとは対照的に、ギルディオスは平然としていた。カインは、ちらりとフィフィリアンヌを見た。

「僕は少し、解るかもしれません。意味もなく竜族を貶められたら、そりゃあ腹は立ちますけど」

「そうだろう」

ガルムが頷くと、カインは困ったような顔をする。

「けれど普通であれば、そこから一直線に戦いを起こす気にはなりませんね。まぁ、話の大きさがそもそも違うので、比較してはならないのでしょうけど」

「これはもう異種族間の争いと言うよりも、宗教戦争でしょうかねぇ」

するりと身を下げ、デイビットはフィフィリアンヌの頭上に浮かぶ。フィフィリアンヌは、幽霊に目をやる。

「ならば余計にやる気は出ん。他人の信仰心になど付き合えるものか」

「フィリィ、神様、イナイ?」

セイラが身を乗り出し、フィフィリアンヌを覗き込む。フィフィリアンヌは、金色の単眼を見上げる。

「私にはおらん。信じていないのだから、いるはずもない。信じていればいるのやもしれんがな」

「ダッタラ、セイラモ、イナイ。神様、魔物、助ケテ、クレナイ、カラ」

ぎゅう、と単眼の目元が縮められる。セイラは鋭い牙の並ぶ口元を、少し辛そうに曲げた。
セイラを見上げていたエドワードは、苦しげに唇を噛んだ。ガルムの悔しさも憤りも、同族としてよく解る。
竜神祭を乱し、フィフィリアンヌとセイラを傷付けた人間達。それは幼い弟、コルグを殺した人間達でもあった。
今でも悔しくてたまらないし、なぜあのとき動けなかったのかと自責する。せめて、一人は斬るべきだった。
だが。その復讐心の当ては、もういない。グレイスとギルディオスによって、あの人間達は全て死んだ。
生き残っていた聖職者の男は竜王都を出、今はもう行方が知れない。あの男も仇といえば仇だが、殺せなかった。
理由は至って簡単だ。聖職者の男、ゼファード・サイザンは、コルグもセイラも傷付けていなかったと言った。
言っただけであって、確証はない。エドワードは、それを全面的に信用してしまった。いや、信用したかった。
そうあって欲しいからこそ、信じてしまう。そうあってくれたら嬉しいから、聖職者の男を信じたい。
単なる理想に凝り固まった思考だ、と自分でも思う。だが、そう思っていたいから、思ってしまうのだ。
今だってそうだ。竜王軍は帝国を襲撃して全面戦争を起こしたいらしいが、出来ればそれを止めさせたかった。
帝国が全て悪とは限らない。帝国の人間が、全てドラゴン・スレイヤーを肯定しているわけではない、と思うからだ。
だが、それも理想論だ。エドワードは、理想ばかり思ってはいるが行動の出来ない自分が、嫌になってきた。
今もこうして、ガルムに言われるがままにフィフィリアンヌの元へ案内してしまった。戦いの火種を持って。
竜王家も、竜王のように事なかれ主義ばかりではない。ガルムの直属上司である第一王子など、その良い例だ。
人は諸悪であり、竜こそこの世の正義。鏡に映してみれば、帝国とまるで同じことを言っている。
エドワードは、カインと言葉を交わすフィフィリアンヌを眺めていた。彼女の立場が、羨ましかった。
家柄に縛られず、竜族のしがらみから逃れ、人と関わり合っている。そして、戦いすらも逃れて生きている。
元々戦列にいないのだから、並ぶ方がおかしいのだ。むしろ、最初から戦争になど関わるはずもない立場だ。
自分も彼女のように生きてみたかった、とエドワードは思った。家柄に従って騎士となっても、幸せではなかった。
他人を傷付けることが嫌いだから、剣など振るっても楽しくはない。杓子定規に、父親に従って生きてきただけだ。
そして今も、やりたくもない戦いの話をしている。エドワードは強い自己嫌悪に陥り、ぎちりと手を握った。
竜王家の紋章が刺繍された白い手袋が、手の中で歪んでいた。




エドワードは、非常に不可解な気分になった。
城の中に通されると思っていたが、玄関前の地面にそのまま座らされた。胡座の下は雑草の生えた地面だ。
ガルムは更に機嫌が悪くなり、凶悪と表現するべき形相になっている。騎士の外見でなければ、本当に悪党だ。
他の面々はやはり慣れているのか、普通にしている。ギルディオスに至っては、剣の手入れを再開している。
末広がりになっている正面玄関の階段に、フィフィリアンヌは腰掛けていた。その隣に、従うようにカインがいる。
デイビットは、両手の間にフラスコを浮かばせている。城の中から、念動力で伯爵を運んできたのだ。
セイラは湖を背にして、エドワードとガルムの背後に座っていた。両足を投げ出して、ぺたんと座り込んでいる。
ことり、とデイビットは階段の上の段にフラスコを置いた。その中で、赤紫のスライムがごぼりと蠢いた。

「デイビットに説明されたので、話の概要は解ったのである。しかし、なぜこの女しか頼る者がいないのかね?」

「私も疑問だ。戦いには嗜み程度しか通じておらんのに。なぜ軍師共が出て来ぬのだ」

二冊目の本を広げて膝に乗せ、フィフィリアンヌは活字を追っていた。一度、横目にフラスコを見る。

「ああ、そういえば軍師共は死んでいたな。帝国がドラゴン・スレイヤーを承認した際に話し合ったが交渉は決裂し、首を刎ねられたのが何人かおったような」

「三人ほどな。その時にでも仕掛けておくべきだったのだ」

我らが愚かだった、とガルムは口元を歪めた。唇の間から見える牙が、やけに白く見えた。

「力を持って制しようとする相手を、理性で制せるはずがない。子供でも解るはずのことだ」

「力には力を、ってやつか。まぁ、そりゃあ間違っちゃいねぇけど、正しくもねぇや」

がしゃり、とギルディオスは巨大な剣を掲げた。綺麗に磨き上げられた銀色の刃が、ぎらりと日光を跳ねた。

「帝国に竜族が攻め入ると、後続に王国が攻めるな。でも、今の王国軍の将軍は兵隊の扱いがどうにも下手だからなぁ。ありゃあ配置だけで先のことを考えてねぇ置き方しかしねぇし、作戦もなーんか緩いんだよなぁ。オレが死んだ後もそのままいるようだが、そろそろ失脚しねぇかなぁ。あれじゃ兵士が可哀想だ」

「帝国に仕掛けても、下手をすれば竜王都が攻め入られるだけだ。場所はとうに割れているからな」

フィフィリアンヌが呟くと、ギルディオスが頷いた。バスタードソードの先で、晴れ渡った空を示す。

「グレイスの野郎が知ってるからな。帝国に漏れてねぇはずがねぇ」

「竜王の首を刎ねられたら、それこそ一大事ではあるが、ある意味では竜王軍にとっては好都合である」

ごぼり、と伯爵は気泡を吐き出す。粘ついた赤紫のスライムが、球体の中でうにゅりと動いた。

「平和を謳うばかりで身動き一つせぬ竜王は、最早飾りなのである。帝国による襲撃によって崩御して頂いた方が、第一王子や貴君のような強硬派にとっては非常に楽なのである。戦争を起こす大義名分も出来るし、なにより邪魔立てする者が存在しえぬのであるからな。大手を振って、帝国を滅ぼすことが出来るのである」

「まるで私が逆賊であるような言い方だな」

ガルムは眉根をしかめると、はっはっはっはっはっはっは、と伯爵は楽しげに笑った。

「事実、貴君は逆賊なのである。王の意見に従わぬ者が、逆賊でなくてなんであろうか」

「私は竜族の未来と平和のために、帝国を叩いておくべきだと思っているだけだ」

「ますます逆賊である。竜王陛下は、人間ではなく同族の血を流させることで、平和を得ようとしているのである」

伯爵の言葉に、なにおぅ、とガルムは声を張る。フィフィリアンヌは、本から目を上げた。

「竜族が力と驕りの犠牲になることで、平和が得られると思っているのだから、馬鹿げた話だ。犠牲は犠牲であり、それは決して平和への布石などではない。ドラゴン・スレイヤーに殺された者達が、そこまで崇高な思いを持って、死するはずがなかろうに。殺された者は、死した悔しさに満たされ、冥土へも行けずに嘆き苦しんでいるだけだ」

少女の赤い瞳が、白い竜騎士を見る。

「エドワード。貴様の怒りの矛先は、あのドラゴン・スレイヤー共ではなく竜王に向けるがいいぞ。哀れなコルグは、耄碌した老王の驕りによって死んだのだからな」

「なんだか、竜王は人を過信し過ぎてる気がします」

膝に乗せたカトリーヌを撫でていたが、カインは顔を上げた。穏やかな青い目が、エドワードを見る。

「僕は、あなたの弟さんの遺体を、剥製を見ました。あれは、人間だからこそ出来る所業です。竜族を単なる魔物、いえ、獣としか見ていない証です。僕はこうしてあなた方竜族に接しているし恐れてはいませんが、それでも一般的な思想は恐怖と悪の象徴なんです。根拠のない昔話や恐ろしい話を、親が子供の枕元で延々と話しているせいで、大半の人間は竜族を恐れます。そしてドラゴン・スレイヤーは、その象徴としての悪を撃破し、英雄や勇者となった気分になりたいから竜族を狩っているだけなんです。ドラゴン・スレイヤーの書いた本を、数点読んでみましたけど、どれもひどかったですから。英雄だの世界の平和だの正義だの、自分に酔った文章ばっかりで」

読んでいて疲れましたよ、とカインは顔をしかめる。

「そんなふうに驕りに固まったドラゴン・スレイヤーに、竜王の思想なんて伝わるわけがないんですよ。どちらもどちらの考えばかりで、ちっとも相手を見ようともしない。真正面から顔を突き合わせて話し合ってこそ、平和への糸口が見つかると思うのですが」

「結局、どちらも平和など求めてはいないのだ。己の理想の世界を、脳髄の中に繰り広げているだけだ」

フィフィリアンヌはぺらりとページをめくってから、デイビットを見上げる。

「他人の妄想を押し付けられることほど、苦痛なことはない。そうではないか、デイビット」

「ええ、そうですねぇ。私は妄想が大好きですが、それは自分の世界だから好きなんですよぅ」

デイビットはふわりと下降し、半透明の顔をかしげた。

「ありもしない現実、有り得るはずのない世界は、思い浮かべたり活字の中にあってこそ楽しいんです。それを現実にしようと思うと、苦労なんてもんじゃないんですよねぇ、これが。有り得ないからこそ理想なのであって、有り得たら理想ではありません。有り得るのは事実です。その事実を理想に近付けようとするのは、まだいいんですが、理想を現実に、すなわち事実にしようとするのは無理なんですよねぇ。事実にするには、まず自分以外の方々に認めてもらう必要がありますから。ですけど理想は、やっぱり有り得ないから理想なんです。他人に押し付けたところで形になるはずもないし、なったとしても望んでいた形にはならないと思うんですよねぇ」

理想は妄想ですから、と幽霊はふにゃりと緩い笑顔になる。

「そうであったらいいのに、を、そうであるべきだ、にするから歪んできちゃうんですよぅ。決して、理想論が悪いとは言いませんけど、何事にも限度というものがあると思うんですよねぇ、私としては」

「大体なぁ、戦いに大義名分なんざ求めるんじゃねぇよ」

ギルディオスは剣に布を滑らせ、きゅっと鳴らした。

「そりゃ上は政治と金と利権が絡んで面白可笑しいだろうけど、オレらみてぇな前線はそんなこと考えてねぇんだよ。目の前の敵を薙ぎ払って生き残って金をもらって、酒を浴びて飯を掻っ込むのよ。もっとも、軍人共は別だけどな。オレら傭兵は、戦いが起きれば稼ぎ時だ。戦いが起きているから戦う、金貨を得るために力を振るう、それだけだ。戦い抜いた後に残るのは、綺麗な平和や理想に充ち満ちた世界なんかじゃなくて、泥と血にまみれた死体の山だ。そんな中から、平和なんか生まれるもんかよ。死体の数だけ恨み辛みが生まれて、戦いの数だけ欲が増えるんだ。だが上の連中は、とことんそれを見ねぇんだよなぁ」

んー、と少し唸りながら、ギルディオスはヘルムを掻いた。

「破壊から再生、っての? そんなことを言いやがるんだ。破壊したらそれで終わりなんだがねぇ、大抵の場合は」

「破壊なくして再生は有り得ん」

ようやく発言出来たガルムを見ずに、フィフィリアンヌは返す。

「朽ちた死体の埋まる墓土から、新世界の神が現れるはずもなかろう。死肉を糧にして生まれるのは蛆虫だけだ」

「そういうことである。瓦礫と血の海は豊穣の大地とは成り得ぬのである」

フラスコの中からコルク栓を押し上げ、ぽん、と抜いた。伯爵は、コルク栓をふらりと揺らす。

「平和とは統一。統一とは淘汰。淘汰とは征服なのである。やはりそれも、理想の押し付けに過ぎないのである」

「理想とは、悪なのか?」

小さく、エドワードが呟いた。フィフィリアンヌは、活字から目を上げる。

「押し付ければ悪だ。語るだけならば妄想だ。高みを求めるためには必要だが、浸り過ぎると溺れてしまうぞ」

「世界、自分、ダケ、ジャナイ。ダカラ、理想、果タス、大変」

少し上半身を傾け、セイラは上からエドワードを覗き込んだ。エドワードは、巨体の魔物を見上げた。

「ああ、そうだな。理想ばかりで、生きてゆけるはずもない」

「随分と話が脱線しているな」

うんざりしたように、ガルムは息を吐いた。目を上げ、フィフィリアンヌを睨む。

「私はお前に、竜王軍へ手を貸してもらいたいという話をしに来たのだ。お前達の考え方などどうでもいい」

「それが理想論だと言うのだ。私の考えは変わらんのだから、これ以上の会話は無駄だ。読書も進まん」

フィフィリアンヌはぱたんと本を閉じ、後方に置いた。

「帰れ。私は手を貸さん」

「お前は竜神祭で、竜女神の御前で穢れた血を流した。そんな者に会っていることすら腹立たしいというのに」

ガルムは、怒りとも焦燥とも付かぬ表情になる。がちり、と腰の剣に手を触れた。

「半竜半人の分際で、竜王軍の話を蹴るとは。良い度胸だ」

「私が穢れているという基準はどこにある」

「決まっている。お前には人の血が流れている、それ以上の穢れがあるものか!」

立ち上がり、ガルムは激昂する。腰の剣を抜いてしまいたいのか、右手は固く柄を握り締めていた。
がしゃり、とギルディオスが素早く腰を上げた。フィフィリアンヌはギルディオスへ、手出し無用だ、と言った。

「同族殺しは、人間殺しに勝る大罪だ。私を斬り付けてしまうだけでも、この男の立場は吹っ飛ぶ」

「何が同族だ! 穢れた人の身でありながら竜王都に出入りし、死しているとはいえ人を連れてきたお前が!」

しゃりん、と硬い金属が擦れ合い、剣が抜かれる。幅のある長い剣を掲げ、ガルムは猛った。



「神聖なる竜神祭を汚らしい血で汚したお前が、気高き竜族などであるものかぁ!」



磨き上げられた剣先が、緑髪の少女を睨んでいた。熱を帯びた初夏の日差しが、きらりと切っ先で跳ねる。
黒き竜騎士の荒い息の音が、いやに良く聞こえた。山から吹き下りてきた涼やかな風が、湖面を走り抜けていく。
張り詰めた空気を、木々のざわめきが破った。フィフィリアンヌは、ガルムの赤黒い目を見下ろした。
いつもと変わらぬ無表情で、フィフィリアンヌは幼い声を発した。

「父上の血を侮蔑したな」

吊り上がった目元が、僅かに険しくなる。



「万死に値する」








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