ドラゴンは笑わない




白き竜と黒き竜



穏やかな風が、緑をなびかせている。周囲の木々の葉よりも深い緑の髪が、ふわりと軽く揺れていた。
その隙間から覗く真紅の瞳は、黒い竜騎士を射竦めていた。少しも引けを取らずに、真っ向から見返している。
整った顔には一切の表情もあらず、目元が険しくなっているだけだ。怒りでなく、他の感情を持っているらしい。
彼女は、ガルムを馬鹿にしている。カインはそう思い、まるで表情のない少女の横顔をじっと見つめていた。
人間を、ひいては父親を侮蔑した相手を、怒るどころか見下げているのだ。それも、かなり高い位置から。
階段の数段下で剣を掲げるガルムは、表情を歪めている。強烈な言葉を吐いた少女を、今にも斬りそうだ。
実際、斬ってしまいたかった。彼女の仲間に逆賊呼ばわりされ、更には人の血を肯定するようなことを言った。
これが、腹立たしくなくてなんであろうか。半分は竜族である己を、人の身へ貶めているようなものだ。
誇りがない。竜族としての力を持っているはずなのに、守護魔導師の一人娘なのに、その自覚がなさ過ぎる。
なぜ人を認めている、なぜ竜であることを誇りに思わない。ガルムは、フィフィリアンヌに激しく苛立った。
竜族であるならば、ドラゴン・スレイヤーに対して怒りを覚えるはずだ。コルグの遺体を助けたなら、尚更だ。
だがなぜ、帝国を侵略することを良しとしない。遠回しに、人を殺し戦争を起こすことを否定している。
竜族が世界を得てしまえば、どれだけいいことか解らないのか。ガルムは、ぎちりと強く奥歯を軋ませた。
フィフィリアンヌは、静かに薄い唇を開いた。抑揚のない言葉が、静まり返った湖畔に広がる。

「父上は素晴らしい人だ。己が人であることを捨てず、母上が竜族であることを恐れず、私を育てたのだ」

長い睫毛を下げて、フィフィリアンヌはどこか遠くを見た。

「人である誇りを持ち、人でない母上を人として扱い、竜族として愛した。人でもあり竜族でもある私をどちらの存在としても扱い、どちらでもあることを誇りに持てと言ってくれた。誇り高きは父上であり、他の誰でもない。故に私は、竜族の血を誇りとは思わん。父上の娘であることは、何よりの誇りであり幸せであるとは常々思っているがな」

再び、彼女の目はガルムに戻った。

「竜族は穢れている。和平の名の下に人を蹂躙している。竜王の思想がその証拠だ。過度にへりくだった態度は、人間に対しての侮辱なのだ。こうもしなければ貴様達は手を出せないだろう、手を出せるものなら出してみろ、ということなのだからな。そして擬態と呼ばれるこの姿、人に似た姿に身を窶しているのも同じことだ。恐れられるために人となるのだ。いくら人に近付こうとも、人は、少しでも平均と違っていれば恐れ蔑み忌み嫌うものだ。だから、擬態になろうがツノを切ろうが翼を落とそうが、人にとって竜は竜なのだ。結局のところ、竜は人を恐れさせて生きているのだ。人という生き物は、己と同列の存在しか人として見ないからな」

ニワトリ頭に対する周囲の扱いが良い例だ、とフィフィリアンヌは付け加えた。

「そして、竜は人に近付くことがあろうとも、決して人とは成り得ない。その上、人の居場所を喰らい、己の居場所を広げようとしている。かつて、人が竜に生きる土地を追われたように、竜も人の生きる土地を奪おうとしているのだ。強引な擬態推進の政策は、そのための足掛かりなのだ。竜の命は無駄に長い。戦いに次ぐ戦いで人が死に絶えた世界に残るのは、人ならざる人の姿をした竜だけとなる寸法なのだ。実に悠長な話だ。悠長すぎて呆れてしまう」

少し息を吸ってから、再び言葉を連ねる。

「ドラゴン・スレイヤーをのさばらせておくのも、貴様のような戦い馬鹿の愚か者を煽るためだ。自然な流れで、あくまでも自然であると言いたげな筋道を立てておいて、貴様らの背中を押して歩かせているのだ。そして、この壮大かつ馬鹿馬鹿しい世界征服の算段を立てたのは、間違いなく偉大なる竜王陛下その人だ。だがしかし、こんな穴だらけで下らん算段が、成功するわけもない。人を虚仮にしている。それに、人の生命力と文明を計算に入れていない。むやみやたらに殺していけば簡単に死に絶えてしまうほど、人とは弱い生き物ではない。その上、竜族の愚かさも入れていない。竜族はその力と大きさ故に驕り高ぶり、人になど殺されぬと思い込んでいる。だから、次から次へとドラゴン・スレイヤーに首を狩られてしまうのだ。全く持って、どちらもどちらなのだ。貴様の言うように、竜族が誇り高いのであれば、驕りに気付くはずなのだがな。それに貴様は、既に人と同列だ」

「何を馬鹿なことを! 私が人と同じであるはずがあるものか!」

腹立たしげなガルムを、フィフィリアンヌは冷え切った視線で眺めている。

「貴様、人を殺したな?」

「何の話だ」

「竜神祭に乗り込んできたドラゴン・スレイヤーの一人に、ナヴァロ・ドレイクという者がいた。私はナヴァロ自身とは付き合いはないが、仕事柄、魔導鉱石の販売をする者達とは、少々交流があってな。以前に、ドレイク一族の話を聞いたことがあった。その男は元々、帝国で魔導鉱石の掘削業を営む一家に生まれたはずなのだが、それがドラゴン・スレイヤーとなった。その理由は、至って簡単だ、両親兄弟親戚を含めた一族を竜族に殺されたからだ。聞くところによれば、帝国で皆殺しにされたドレイク一族は魔導鉱石を掘り返していたから竜に殺されたのだ、と。だが、よくよく話を聞いてみれば、精霊の如き神聖な怒りで殺されたわけではないようだ。ドレイク一族の掘り返していた山は、帝国よりも王国寄りの山でな。地図で見てみると、竜王都の丁度真西に当たる。だが、竜王都から見てみれば帝国を背後に隠しているような山なのだ。それなりの高さもあり、良質な赤色の魔導鉱石が掘られていた山だった。その名もウェルロギアという名の山だ。ギルディオスの魂を込めている魔導鉱石も、そこの鉱脈から採れたものだ。しかしここ最近、良質の魔導鉱石が減少している。あのグレイスですら、それほど上質な物は手に入らないらしく、以前に嘆いておった。それはなぜかと言えば、そのウェルロギア山が完膚無きまでに崩されてしまったからだ」

少女の眼差しに、軽蔑が混じる。

「魔導鉱石販売業の者が、近隣住民から聞いた話はこうだ。突然、東の果てより舞い降りた黒竜が、炎を吐き付け嵐を起こし、山を崩したと。あまりに唐突な襲撃に、山に籠もっていたドレイク一族は対処のしようがなく、崩壊する山と共に埋もれてしまった。たまたま出掛けていた三男のナヴァロは生き残ったが、黒竜に襲われたと知るや否や飛び出して帰ってこなかった、と。そしてその同時期に、貴様が単独行動を取った、との記録文書が竜王城に残っていた。読書のついでに記録を漁っていたら、妙な部分が符合したので覚えていたのだ」

「それが私であるという証拠が、どこに」

ふん、とガルムは嘲笑する。フィフィリアンヌは、眉を片方吊り上げた。

「その記録文書は、貴様の上司、すなわち第二師団長の書いたものなのだ。部下思いの団長なのだろうな、その頃の貴様の言動も事細かに印されていた。常日頃より西の空を睨み付け、帝国を見通せぬと苛立っていた副長が、西を見て笑うことしばし。不思議に思い倣って見れば、西の山が消失している。もしや帝国に天災かと思い副長に尋ねてみれば、あれは天罰だ神の意志なのだと笑い返してきた。多大な疑問と不信が湧いたが、確証はないので問い詰めることはならず。と、ある」

ガルムは黙り込み、喋り続ける少女をただ睨んでいる。

「ウェルロギア山は竜王都から見れば障害物でしかないし、帝国侵攻の妨げには違いない。しかしそれを破壊することは、帝国への侵略行為なのだ。そして、日々の仕事を全うしていただけのドレイク一族を山に埋め殺してしまうことは、ただその辺りを飛んでいたドラゴンを撃ち落として殺してしまうドラゴン・スレイヤーと同じ行為なのだ」

「そんなでたらめな話、誰が信ずるものか!」

フィフィリアンヌの言葉を遮るように、ガルムは喚く。彼女は、何事もなかったかのように続ける。

「でたらめと思う根拠はどこだ。貴様の上司、第二師団長の公式な記録文書が嘘だとでもいうのか? それこそ有り得ない話ではないか。確かに貴様がウェルロギア山を叩き潰したという確証はない。が、動機も状況証拠も明確に当て嵌まるのは貴様だけだ。それに今現在、山一つを崩せるような有り余る体力と魔力を持ち、帝国へ強烈な執念を滾らせている黒竜族の若人は、貴様ぐらいなものだからな」

「だからどうした!」

「どうもこうもせん。ただ私は、貴様が穢れて堕落した竜族だ、と言いたいだけだ」

「誇りを持って帝国に力を示すことが、なぜ穢れとなる!」

「ほう、認めおったか。ならばその理由を、貴様がドラゴン・スレイヤーと同じであると示してやろうではないか」

フィフィリアンヌの目が細められた。それは、どこか楽しげにも見えた。

「ドラゴン・スレイヤーは人の世界を守るという大義名分を振りかざし、竜族を虐殺している。だがそれは、竜族から見た立場のものだ。これを人の目から見てみれば、人の世界を脅かし巨体を振り回す荒くれの魔物を打ちのめす、正に救世主だ。といっても、帝国に染められた馬鹿共の視点でしかないから極論ではあるが。そして、これらに当て嵌めて貴様が行った行為を見てみるとしよう。竜族側から見れば、帝国への侵攻を妨げる障害物を一つ破壊した、とだけでしかない。だが、これを人から見てみれば、当然ながら脅威だ。罪も無き民を唐突に襲撃され、その上帝国の収入源の一部であった、ウェルロギア山を破壊されたとなれば、怒りは更に高まる。その結果、貴様の短絡的な破壊行為はドラゴン・スレイヤーを活性化させ、事実一人増やしてしまった。つまり、巡り巡って、貴様は竜族の首を狩る手伝いをしていたことになる。これが同族殺しでなくてなんであろう。実際、貴様が生み出してしまったドラゴン・スレイヤー、ナヴァロ・ドレイクは、バロニス・グランディアに率いられてコルグ・ドラゴニアを殺す手伝いをし、挙げ句にコルグは剥製にされている。これらの要因が貴様にあると言っても、まだ穢れていないとでも言うのか? 同族を殺す手伝いをしたその手で、同族のために戦うなどのたまうなど笑止千万だ」

「…妄想だ。詭弁に過ぎん」

「私の考えが妄想であるならば、なぜコルグは死せねばならなかったのだ?」

「それは、ドラゴン・スレイヤーが」

「奴らを増長させたのは誰だ。奴らの戦意を奮い立たせたのは、帝国を竜族討伐に駆り立てたものは何なのだ」

フィフィリアンヌは、語気を強めた。


「答えてみろ」


黒い影が、項垂れる。漆黒の闇から切り取られたようなマントの下で、ばさりと翼が下げられた。
ぐいっと曲げられた口元から、唸り声とも付かない声が洩れた。手にしていた剣が滑り落ち、がしゃりと転がる。
翼を下げ切った同僚の背を、エドワードは無心に見つめていた。フィフィリアンヌの言葉が、ようやく止んだ。
仇と言えば、彼も仇なのかもしれない。事なかれ主義の思想を強要する竜王と同じく、影響を及ぼしたのだから。
だが、あまりにも遠回りだ。その理論で行けば、自分も間違いなくコルグを殺した仇になるのだ。
吹雪に浮かれて竜王都を出た弟を追わずに、殺されたと知ってもフィフィリアンヌを頼り、自ら手を下さなかった。
弟を殺したのは、コルグを死なせてしまったのは。手を下したのは人間だが、殺したのは他でもない同族だ。
エドワードは目元を拭ってから、顔を上げた。フィフィリアンヌは、竜神祭の夜と違って落ち着いていた。
怒りもせず、笑いもせず、人の青年と共に座っている。これはきっと、彼女なりのガルムへの報復なのだ。
尊敬する父親を貶められた、友である人間達を非難された仕返しに違いない。言葉なら、言葉で返すまでなのだ。
エドワードはずきずきとした痛みを胸に感じながらも、内心で彼女に感謝した。自分であれば、ここまで言えない。
同時に、自己嫌悪が蘇った。セイラを殺すべきだと言われたときも、自分は何も出来ずに上に従っていた。
納得していなかったのに、殺したいわけがないのに、彼を殺そうとした。他者に流されてばかりだ。
あまりにも不甲斐ない。昔に描いていた騎士の姿とは懸け離れた、誇りのない、組織の一部となっている。
せめて後少し、勇気があれば。エドワードが雑草の生えた足元を睨み付けていると、ガルムが呟いた。

「…だから。だからこそ」

僅かに肩を震わせ、低い声が潰れている。

「帝国は、人は、滅ぼすべきなのだ」

「貴君は、己の所業の結果を知っていたのであるな」

フィフィリアンヌの代わりに、伯爵が言った。黒い竜騎士は口元を歪めた。

「ああ、知っていたさ。いや、竜神祭で、気付いたのだ。あの重戦士の男は、崩壊した山の前で親兄弟の名を叫んで嘆き猛っていた男だったからな。ナヴァロ・ドレイクの一族を殺してしまったのは、間違いなく私だ。ウェルロギア山を叩き潰して更地にし、竜王都から帝国への見晴らしを良くしたのは、確かに私の尾と炎だ。あの山は、本当に邪魔だったのだ。竜王都から帝国が見えぬことが、どうしようもなく恐ろしかったのだ。いつあの山を帝国が越えて来るか、そればかりが気掛かりで仕方なかったのだ。竜による破壊で脅威を示しておけば、帝国も少しは恐れるだろうと思っていたが、それはまるで逆だったようだな。本当に、私は愚かだった」

「今も充分愚かだろ。結果を考えねぇ馬鹿な戦いに、フィルを担ぎ込もうとしてたんだから」

最初っから無駄足なんだよ馬鹿野郎、とギルディオスは吐き捨てた。ガルムは、エドワードへ顔を向ける。

「エドワード。私を、殺すか?」

俯いているエドワードを、セイラが見下ろした。三本のツノを生やした単眼の顔が、銀髪に隠れた横顔を覗く。
エドワードは、手で顔を押さえていた。装甲の乗った肩がゆっくりと上下し、深く長く息を吐いた。
セイラが目一杯背を曲げると、エドワードは小さく、大丈夫だ、と返した。手を下ろし、同僚の騎士を見上げる。
様々な強い感情が、胸中に渦巻いていた。そして思った。ガルムもまた、自分と同じく理想に溺れた者なのだ。
デイビットの言うように、そうあってほしい、を、そうあるべきだ、としてしまったから無理が生じてしまった。
許す気にはならない。許せるはずもない。最初の動機はどうあれ、結果として、彼の行為で弟の命は奪われた。
だが不思議と、殺意や恨みは湧いてこない。真逆の存在だと思っていたガルムの心境が、痛いほど解った。
竜族を思うが故に、竜族の平和を求めるが故に、理想に溺れて沈んでしまった。そして、過ちを犯した。
世界は一つに繋がっている。どこか一つが歪んでしまえば、それが周囲へ影響を及ぼさないわけがない。
コルグは、その歪みの犠牲者だ。エドワードが向けるべき怒りの矛先は、竜王でも人間でも同僚でもない。
この世界の全てに対して、怒るべきなのだ。皆が皆、良かれと思ったことで悪い方向にしてしまった。
そして今も、その悪循環の連鎖は始まろうとしている。今ここで、エドワードがガルムを殺せば。
彼の罪を責め立て、遣り切れない怒りにまかせて斬り付けて噛み砕き、巨大なる肉塊に変えてしまえば。
新たなる怒りを生み、歪みが広がり、世界は更に乱れていく。そうなってしまっては、いけない。
エドワードが理想とする世界とは、違ってしまう。争いもなく血も流れない、絵空事のような世界から更に遠のく。
絵空事の理想は、有り得ないからこそ願う世界だ。有り得ないからこそ、少しでも近付きたい世界なのだ。
だから、これ以上遠ざかってはいけない。遠ざからないためにも、ガルムの言葉を受け入れるべきではない。
エドワードは、やはり機嫌が悪そうな顔をした同僚を見た。彼は彼なりに、悲しげな顔をしているのだろう。

「いや」

エドワードが立ち上がると、セイラは身を引いた。心配げな金色の瞳に再度、平気だ、と返す。

「私は、お前を殺さん。殺したところで、何になる。それこそ本当の同族殺しだ、最大の堕落だ。だが」

連鎖は断ち切らねばならない。それを成し遂げてこそ、己の理想とする世界に近付く。
エドワードは、表情を強張らせているガルムを見据えた。そして真っ直ぐに、指し示した。

「お前は、戦いを起こした結果を、人を殺めた影響を解っていながら尚も戦いを起こそうとしている」

全ては、理想のために。エドワードは声を張る。

「帝国を潰して何になる! コルグのような者が増えるだけで、死体の山が出来るだけで、何の解決にもならん!」

エドワードは、同僚の前垂れに染め抜かれた竜王家の紋章を睨んでいた。

「だから私は戦いが嫌いだ! 殺して殺して血にまみれて更に殺して、生まれるのは憎しみばかりではないか!」

何かが吹っ切れた。感情のままに、エドワードは叫ぶ。

「死体から生まれるものは何もない、瓦礫から造られるものも何もない! 人も竜もそれを解っていながらも、解っているはずなのに、更なる戦いを始めようとする! それでは平和どころか、世界に地獄を生み出してしまうだけだ! その地獄を望むなら、勝手に一人で堕ちるがいい! だが、その際に人や竜を道連れることは断じて許さん!」

それも理想だ。一人で出来る戦いなどないし、地獄とは一人だけの世界ではないのだ。
だがそれでも、エドワードは叫び続けた。一度感情を吐露してしまったら、止めることが出来なかった。

「お前や陛下が戦争を起こそうと言うのなら、人の平穏を乱して竜の勝手を押し付けようとするならば!」

エドワードは、一際力を込めた。



「私は、お前を殺そう!」



巡り巡って、世界は繋がっている。二人の平和への理想も、最後は同じ場所に繋がってしまう。
エドワードの理想も、ガルムの理想も、竜王の理想も、全ては同じこと。ただ、入り口が違うだけだ。
全てが正しくて、全てが間違っている。それが、世界というものだ。他者の存在する現実とは、そんなものだ。
光は影であり、裏は表だ。ただ、見ている方向がほんの少し違うというだけで、何もかもが食い違ってしまう。
エドワードは、ガルムを指していた手を下ろした。自分の呼吸音ばかりが聞こえ、城の影は妙に濃かった。
ガルムは、苦々しげな笑みを作った。不機嫌そうな顔は、少しだけ穏やかなものとなった。

「頼むよ」

私は理性が弱いからな、とガルムは情けなさそうに呟いた。エドワードは、深く頷いた。
二人の背後で、湖面がきらきらと輝いていた。空の色を映した水鏡は風によって乱されて、細かく波打っている。
海の空の色で出来ている。山は日の光でこそ生きている。そして人と竜は、互いがいてこそ、互いを憎む。
断ち切れることのない輪は、幾重にも重なってねじ曲がりながらも繋がっている。何があっても、途切れずに。
黒い竜騎士は屈むと、足元から剣を拾った。剣先を鞘に当てると、するりと静かに滑り込ませた。
柄を掴むガルムの手からは、力が抜けていた。




日の落ちる頃の城は、美しかった。
黄色掛かった赤い光が水面を光らせ、新緑の森を照らし、古びた城をこの世ならざるもののように見せていた。
エドワードは玄関先の階段に座ったまま、ぼんやりとしていた。ガルムは別の場所にいて、今は近くにいない。
傍らには、カインが座っていた。丸っこい腹を上下させて熟睡しているカトリーヌを、膝に乗せていた。
城の前では、セイラが歌っていた。異形のセイレーンは、幼いワイバーンのために子守歌を紡いでいる。
セイラの歌声を聞きながら、カインは顔を上げた。少年の面影を残す青年は、青い目にエドワードを映す。

「エドワードさん、落ち着きました?」

「ああ」

感情の波が抜けたせいで、エドワードの声には抑揚がなかった。カインは、そうですか、と笑う。

「フィフィリアンヌさんは優しいですよ、やっぱり。人間と竜族のために、怒ってましたから」

「そうか? 私には、ただ竜族を否定していたようにしか聞こえなかったが」

「肯定も否定もしていませんでしたよ。事実を並べるだけでした。言い方は少々乱暴でしたけど」

カインは、エドワードの横顔を眺めた。長い銀髪を後頭部で高く括った、穏やかな顔立ちの青年だ。

「僕が思うに、フィフィリアンヌさんは、竜族も人間も好きなんだと思います。どちらも好きだからこそ、どちらの所業も気に入らないんだと思います。だからあの人は、どちらの味方にもならないんですよ」

「中立とでも言うのか」

「それともまた違うとは思いますが。あの人にはあの人の、世界があるんですよね」

カインは目を細め、カトリーヌを撫でる手を止めた。ついこの間、垣間見た彼女の世界を思い出した。
理屈を並べるのが好きだが、その割に中身は感情的だ。優しいはずなのに、その優しさを押し込めている。
本当に、素直でない。何をするにも捻くれていて、正面から当たろうとすることは滅多にない。
後から考えるに、フィフィリアンヌがガルムを攻め立てたのは、単に人間を侮辱された報復だけではない気がした。
話の方向を人間から竜族、竜族からドラゴン・スレイヤー、ドラゴン・スレイヤーからコルグに持って行った。
恐らく、エドワードを煽っていたのだろう。誠実で生真面目そうな彼の心理が、カインには良く解った。
真面目であることは、理性的であってしまうこと。すなわち、あまり己の意思を貫くことが出来ないのだ。
それは時として楽ではあるが、大抵は苦しい。望まぬ道ばかり選んでしまって、結局自分を苦しめてしまう。
カインも、しばらく前はそうだった。望んでもいない婚約を断るまで、大分決心が必要だった。
真面目な分、怒りたくても怒った後のことを考えてしまって怒れないのだ。理性とは、便利だが少々厄介だ。
フィフィリアンヌは、エドワードを手助けしてやったのだと思う。怒りを引き出し、感情を発露させた。
感情を押し込めてばかりいると、そのうちに本当に歪んでしまう。ああして怒ってしまうことも、必要なことだ。
ガルムも、あれで辛いのだろう。エドワード以上に、竜族を誇りに思って愛しているに違いない。
帝国が許せない、というのも解らないでもない。カインも、ドラゴン・スレイヤーを許すつもりは毛頭ない。
そこから一足飛びに、戦いを起こすという思考になってしまうのは、ひとえに同族への愛が深すぎるからだろう。
竜族にとって良い方向へと向かわせようとし過ぎて、結果、ガルムは周りが見えなくなってしまったのだ。
エドワードはその逆だ。周りがどう動くか見過ぎて、そのために身動きが取れずに怒りを押し込めてしまった。
竜族も、その中身はやはり人と同じだ。人格があるがために、感情があるがために、判断を見誤る。
カインは、急に竜族が近くなった気がした。天と地ほどあると思っていた隔たりが、少しは縮まったような気分だ。
それでもまだ遠いことには違いないが、嬉しかった。一方的ながら、カインは竜族に親しみを感じていた。
エドワードは、ふと表情を柔らかくさせた。カインに顔を向けると、少し笑ってみせた。

「カイン。君は、なぜ竜族が好きなんだ?」

「竜族だからです」

カインが返すと、エドワードは不安げにする。

「ガルムや私の話を散々聞いても、それでもまだ好きなのか?」

「ええ。最初はそれなりに理由はありましたけど、今はもうないんです。好きだから、好きなんです」

「ありがたいな」

エドワードは、心底嬉しそうな顔になった。事実、この人間の青年の言葉が嬉しくてたまらなかった。
嫌いになってしまいそうだった竜族を、好いてくれている者がいる。しかもそれは、人間なのだ。
理解とはまた違う。カインは竜族の存在自体を、受け入れてくれている。かなり貴重な人間と言えよう。
ある意味で、エドワードの理想に叶った人間だった。エドワードは、フィフィリアンヌが再び羨ましくなった。

「君のような人間に好かれて、フィフィリアンヌはさぞや幸せなのだろうな」

「え、あ、そう、思います?」

言葉に詰まりながら、カインは照れくさそうにした。エドワードは、すぐに彼と彼女の関係を察した。

「その分だと、あちらも君を好いているのか?」

「ええ、まぁ、一応は」

消え入りそうな声で答えたカインは、顔を伏せてしまった。エドワードは体を傾げ、カインを眺めてみた。
色白な頬の赤さは、西日のせいだけでない。すっかり照れてしまって、カインはエドワードから顔を逸らした。
エドワードは、カインとフィフィリアンヌの恋路を想像してみた。あの捻くれた彼女のこと、平穏ではないだろう。
だが、カインは幸せそうだ。フィフィリアンヌも、彼女は彼女なりに幸せなのだろう、と思った。
エドワードはカインから目を外し、歌い続けるセイラを見上げた。薄暗くなりつつある空へ、歌声を放っている。
竜族と人間。異形と死者。幽霊と魔物。一見不釣り合いに見える者達が、彼らなりの平穏を保って暮らしている。
この城は平和だ。異種同士が争うこともなく、互いを受け入れて理解し合い、それぞれの個を尊重している。
異分子同士が集まれば、新たなる秩序が自然に生まれる。それは統一や淘汰ではなく、共存と言うべきだ。
エドワードは、竜王都に帰るべきか迷ってしまった。このまま、カインと話し込んでみたい気分になっていた。
だが、やはり帰らなくてはならない。この城は人の世界でも竜の世界でもないが、人の世界に近すぎる場所だ。
がこん、と背後の扉が開いた。巨大な扉が軋みながら隙間を広げると、銀色の甲冑と黒い影が出てきた。
ガルムを伴ったギルディオスは、よ、とエドワードとカインに片手を挙げた。肩には、巨大な剣を担いでいる。

「いやーすっきりした。この兄ちゃん、なかなか楽しい相手だぜ。エド、お前も今度やり合ってみろよ」

「エドワード。このギルディオスという男は、本当に人間なのか? まともな腕力ではなかったぞ」

甲冑の背後から出たガルムは、不可解げにギルディオスを指した。エドワードは、二人を見比べる。

「ギルディオス。君はガルムと何をしていたんだ?」

「ああ、うん。城の裏手で、ずーっとやり合ってたのさ。暇だったから」

いやー楽しかった、とギルディオスは晴れ晴れとした声を上げた。ガルムは、横目に甲冑を見る。

「だが、私にはお前の神経が解らん。あれだけの話を聞いた直後に、よくも剣の修練に誘えるものだな」

「あれはあれ、これはこれさ。大体、力なんてのは向ける方向さえ間違えなきゃいいんだよ」

バスタードソードを掲げ、ギルディオスはかちりと手首を曲げた。銀色の刃に、西日を浴びた景色が映る。

「自分が正しいと思うから、間違えるのさ。オレはその辺を考えねぇで戦ってるから、間違えようがねぇんだよ」

「それは、ギルさんは何も考えていないということですねぇ」

扉の隙間から、するりと幽霊が出てきた。デイビットに振り返り、ギルディオスはむくれる。

「それを言うんじゃねぇよ!」

「間違いではないのだからいいではないか。むしろそれが正しいのだ」

伯爵のフラスコを下げたフィフィリアンヌが、最後に出てきた。後ろ手に扉を閉め、フラスコを足元に置いた。

「はっはっはっはっはっは。ニワトリ頭の中身は、最初から空なのである」

「うるせぇやい」

こん、とギルディオスは伯爵をつま先で軽く蹴った。ごろごろっ、とフラスコが石の上を転がった。

「うぉおおおう!」

エドワードはなんとなく笑ってしまった。見てみると、ガルムもどことなく表情が和やかなものとなっていた。
ここに来た意味は、あったようだ。エドワードがガルムと目が合うと、彼は気恥ずかしげに笑った。
エドワードは立ち上がると、夜へと移り変わった空を見上げた。そろそろ、竜王都へは帰らなくてはならない。
すると、セイラが近付いてきた。数歩歩いて正面玄関前にやってくると、屈んで視線を合わせる。

「エド、ガリィ、帰ル?」

「ああ、そうだ。竜王都に戻らなくては、竜王陛下に意見することも出来ないからな」

エドワードは階段から下り、セイラの隣を通り過ぎた。白い翼を広げ、ばさり、と空中に浮かび上がる。
彼に続いて、ガルムも翼を広げた。数度羽ばたいて高度を上げると、その体の影を徐々に大きくさせていった。
口の中で魔法を唱え、擬態を解きながら甲冑を消した。翼が大きくなり、体が重くなり、尾が伸びて顎が突き出た。
引き延ばされるように体が膨れて腕が骨張り、厚いウロコの皮膚が全身を覆う。一気に、視野が高く広くなった。
エドワードが竜の姿に戻るのと同時に、少し上にも巨大な影が出来ていた。漆黒の竜が、浮かんでいた。
黒竜の姿に戻ったガルムは、ばさっ、と大きく羽ばたいた。強烈な風が湖面を揺さぶり、木々がざわめいた。

「迷惑を掛けたな」

「ああ、本当に迷惑だったとも。散々喋り通したおかげで、喉が痛くなってしまったぞ」

フィフィリアンヌは不機嫌そうに、ガルムを見上げた。ふん、とガルムは笑ったような声を出す。

「それはすまないことをしたな、フィフィリアンヌ」

「ほう、今更謝ってきおったか。謝るということは、貴様は私を蔑視していないのだな?」

平たい胸を張るフィフィリアンヌに、ガルムは高度を保ちながら首をもたげて鼻先を突き出す。

「あれだけ能弁な女を見下して、何になる。言い負かされるのがオチだ」

「解っているではないか」

満足げな口調のフィフィリアンヌに、エドワードは内心で苦笑した。やはり、彼女は相変わらずだ。
エドワードはセイラの頭上に出ると、首を下げた。セイラは名残惜しそうだったが、単眼を細めて笑った。

「エド、マタ、来テ」

「次に来るときは、お前の歌をゆっくり聴かせてもらうよ。楽しみにしているぞ、セイラ」

エドワードは頷き、ばさりと強く羽ばたいた。途端に急上昇し、一気に城の真上まで浮かび上がった。
夜に沈みつつある王都が、森の奧に小さく見えた。傍らで姿勢を整える同僚は、黒い肌を夜に馴染ませている。
ガルムは瞳が小さめな目をぎろりと動かし、エドワードに向けた。牙の並ぶ口を薄く開き、低く喉を鳴らす。

「エドワード。色々と、すまない」

「謝る気があるのならば、戦いを止めてくれ。それが、コルグに対する何よりの贖罪だ」

若干の怒りを込め、エドワードはガルムの目を見返す。その赤黒い目は、西日を反射して輝いていた。
滑らかな黒のウロコに包まれた竜は、目を伏せた。艶やかな白いウロコの竜は、何度も羽ばたいて上昇した。
高度を上げて、空高く昇った。夜空に瞬く星に近付くような気持ちで、風を切り裂いて夜風に乗った。
エドワードは竜王都のある東南を見定めたが、その前に一度、後方を見た。少し後ろに、闇の如き彼がいる。
罪深きは、どちらも同じ。白き竜と黒き竜は、しばし視線を交わらせていたが、互いに外した。
そして真っ直ぐに、竜王都の方向を見据えた。エドワードが滑り出すと、ガルムも続いて風を翼に孕ませた。
最初は離れて飛んでいたが、徐々に速度を上げているうちに、白と黒の影は並んで飛ぶようになっていた。
眼下を、王国の景色が流れていく。エドワードは傍らの彼を見た。彼は、迷いのない目で先を見つめていた。
西に太陽が没し、光が失せる。藍色に染まった世界に身を沈めながら飛ぶ漆黒は、赤い目だけが目立っていた。
エドワードは、言葉を掛けようかと思ったがやめた。その代わりに、喉を震わせて首を逸らし、猛った。
雷鳴の如き荒々しい咆哮が、夜空に満ちる。それに続いて、もう一つの咆哮も響き渡った。
二人は、重ならなかった心の代わりに叫びを重ねた。竜王都へ向けて、己の祈りを込めて猛り続けた。
叶うことのない己の理想を世界に聞かせるかのように、ひたすらに放っていた。




相反するのは、願いのみ。真の思いは、重なっている。
高みを求めて戦う男と、平和を願って戦わぬ男。竜であるが故に、二人は食い違う。
それぞれの過ちを背負い、白と黒は空を往く。その先に、平和を求めながら。

世界とは、常に無情なものなのである。







05 6/20