ドラゴンは笑わない




五年目の復讐



翌日。ヴァトラス家の居間で、ランスはマークと共に紅茶を飲んでいた。
怖い顔をしてマグカップを握り締めるランスを、マークは眺めていたが、紅茶を飲み干してマグカップを置いた。
マークは、居間から見える勝手口から外を見た。広い庭では、ジャックがメアリーの手伝いをしていた。
庭に張られた紐に、ジャックは背伸びをしながら布を掛けていた。メアリーは、大きな洗濯カゴを抱えている。
洗濯物を干している二人をしばらく見ていたが、マークはランスに目を戻した。外套から手を出し、腕を組む。

「お前さんは手伝わないのか?」

「いつまで居候してるんですか?」

ランスは、訝しげに眼帯の男を見上げた。マークは苦々しく笑う。

「それを言うなよ。ギルとメアリーの好意なんだからいいじゃないか」

「でも、もう一ヶ月以上うちにいますよ、マークさんとジャック。家族でもないのに、なんでいるんです」

普段以上にきついランスの言い回しに、マークは彼の機嫌が悪いことを察した。

「オレはまだ、王都に用事があるんだよ。オレらを引っ掻き回してくれたジュリアを捜し出して、色々と聞きたいことがあるんでな。だがまぁ、それはそれとしてだな。昨日、パトリシアちゃんと何かあったのか?」

「別に。ていうか、話をはぐらかさないで下さい」

ランスは、冷めた紅茶を呷った。マークは、少し身を乗り出す。

「はぐらかしてるわけじゃない。彼女、泣いていたじゃないか。あれで何もないって方がおかしいぞ」

ふと、ランスはマークを見てみた。大きくはないが鋭い目をした眼帯の男は、夏場も黒い外套を着込んでいる。
そして思った。彼もまた、イノセンタスに恨みを持っているはずだ。親友を殺した男を、恨んでいないはずがない。
ランスは、心配げなマークを見上げた。空になったマグカップをテーブルに置き、言ってみた。

「マークさんは、父さんを殺したイノ叔父さんを殺したいと思います?」

「そりゃあな」

あっさりと答えたマークは、ティーポットを取った。自分のカップに、新たな紅茶を注いでいく。

「殺せるもんなら殺してやりたいが、ギルが殺したくねぇって言ってるんだ。殺す意味はないさ」

「父さんらしいや」

ランスが呟くと、マークは温い紅茶を飲んだ。一息吐き、長い足を組む。

「ああ、全く持ってギルらしいさ。あいつは大義名分がないと、他人を殺せないからなぁ。仕事で金をもらわなきゃ、賞金が掛けられているような解り易い悪人じゃなきゃ、殺しはしない。私情だけで他人の命をどうこうしようなんて、おこがましいとでも思っているのだろうさ。変なところで崇高だよ、ギルは」

「大義名分ねぇ」

ランスは自分のマグカップにも紅茶を注いだが、半分ほどしか入らなかった。飲むと、それは少し渋かった。

「竜神祭だったかで戦った時の話を父さんから聞いたけど、あれは私憤じゃないのかなぁ?」

「義憤だろうさ。自分のためじゃなくて、あの竜の子とでかい魔物、フィルとセイラのために怒ってたようなもんさ」

「その根拠は?」

ランスが問うと、マークは少し間を置いてから返した。もう空になったマグカップを、テーブルに置く。

「フィルから金をもらってるだろ、ギルは。つまりはあれだ、金貨を受け取ったからにはお前の代わりに怒ってやる、みたいな気持ちで戦ってたんだろうさ」

「でも、父さんも自分の感情だけで動くことはあるよ」

一度だけ、ギルディオスが私憤で戦おうとした場面を知っている。ランスは、イノセンタスの話を思い出す。

「戦場で、父さんは僕を助けようとして、イノ叔父さんを殺そうとしたんだ。でも、そのせいで父さんは殺されたんだ。イノ叔父さんが父さんに掛けていた魔法は、魔力発動型の具象魔法だったんだよ。それが、あの影の騎士の正体。イノ叔父さんは、その影の騎士を発動させるために父さんを怒らせて魔力を起こさせたんだ。で、父さんを無茶苦茶怒らせるために僕を使ったんだってさ」

「ああ、なるほどなぁ。そうだとすれば合点が行く。自分の息子を戦場に持ってこられたら、誰だって怒る」

たとえギルだとしても、とマークは付け加えた。彼は勝手口の外を、義理の息子をちらりと見た。
外から、ジャックの親しげな声が聞こえていた。一月の間にすっかり打ち解け、まるで二人目の息子のようだった。
ランスはそれが面白くなかったが、堪えた。母親のいないジャックにとって、メアリーはその代わりの存在だ。
だから、メアリーに多少馴れ馴れしくされても怒るべきでない、とは解ってはいるがどうしても面白くない。
マークは、かなり不機嫌そうなランスを見下ろした。会っていなかった五年の間に、かなり成長していた。
背も高くなって体格も良くなり、以前はメアリーにだけ似ていた顔にギルディオスの面影も混じってきている。
なぜランスが、唐突にイノセンタスへの殺意の話をしたのか。マークは、その理由がすぐに想像出来た。

「ランス。ギルの仇討ちをしたいんだろうが、やめておいた方がいい」

「僕の勝手でしょうが」

否定することもなく、ランスは素っ気なく言った。マークは、眉間をしかめる。

「ギルが喜ぶと思うか? それに」

「解ってますよ。イノ叔父さんを殺したところで、僕はただの殺人者でしかない」

「解ってるなら、なんで」

マークが言いかけると、ランスは強い叫びで遮った。

「僕は父さんほど崇高じゃない! あの男を許せない、それだけなんだよ!」

「そうか」

諦めたように、マークは呟いた。立ち上がって勝手口へ歩き出そうとしたが、一旦足を止めた。

「ガキの時分で人殺しになるつもりなら、それ相応の覚悟をしておけ」

マークは居間を去り、勝手口を閉める音が響いた。壁と扉越しに、なんでもない、と言っているのが聞こえる。
居間は静けさに満たされた。外からはメアリーやマーク、ジャックの話し声が聞こえているが、やけに遠かった。
窓を見ると、外は真っ青な空が広がる快晴だった。煌めくような日差しが世界を照らし、子供の歓声もする。
雲のない空に、ランスは見入っていた。普段聞こえるはずの精霊の声が失せ、代わりに、あの声が聞こえてきた。
ころしてしまえ。なぶってしまえ。きってしまえ。おまえのちちをころしたおとこのくびを、はねとばしてしまえ。
囁くだけだった精霊の声は、次第に重たくなっていた。低くざらついた声が、ランスの感覚に響いていた。
どす黒い泥が、胸中に広がった。明確な殺意が沸き起こり、イノセンタスを殺す情景が視界に浮かんでくる。
ギルディオスのように腹を貫かれ、骨を砕かれて腸を引き裂かれ、血の海で果てている。ぞくりとした。
悪寒と快感が、入り混じった感覚だった。爽快感は過ぎったが、それ以上の罪悪感が胸の奥を軋ませていた。
するとまた、あの精霊が語りかけてきた。白く薄い影に黒が染み渡り、闇から生まれたような精霊は言った。
そうだ。ころしてしまえ。それがおまえのねがいだ。




その夜。ランスは、イノセンタスの屋敷に向かっていた。
数歩程後ろを、足音が付いてきている。聞き慣れた音と感じ慣れた気配で、それが誰なのか見ずとも解った。
腰に提げた短剣がいつになく重たく、ずしりとしていた。これから血を吸うであろう刃は、鞘の中で眠っている。
鉱石ランプを下げて、闇に支配された裏通りを歩いていた。深夜となっても、昼間の暑さはじっとりと残っている。
吹き付けてくる風も生温く、汗の滲んだ肌を少しだけ乾かした。あまり大きくない家並みを抜け、中央通りに出た。
しばらく歩いてから、ランスは振り返った。鉱石ランプを掲げると、沈痛な面持ちのパトリシアが浮かび上がる。

「付いてこないでよ」

「何もしないから」

ね、とパトリシアは少し首をかしげてみせた。長い間泣いていたのか、彼女の目元は赤らんでいた。
声に覇気はなく、掠れていた。ランスは昨日にも増して辛そうなパトリシアの姿が見ていられず、背を向けた。

「なら、いいけど」

くるりと身を翻した拍子に、ランスの薄紫のマントが広がった。鉱石ランプの青白い光は、冷え冷えとした色だ。
心なしか、その足取りは遅かった。パトリシアは彼の心遣いを嬉しく思いながら、速度を合わせて付いていった。
歩くに連れて、周囲の建物が変わってきた。家並みが次第に大きく立派になり、塀も庭も大きな家々が続く。
王宮も目の前に迫り、闇の中でも重厚な存在感があった。王宮を守るように立つ大きな屋敷の、門前に立った。
鉄格子の填った門扉が、開いていた。明かりの一切ない前庭が奥に見え、虫の声だけが静寂を破っている。
僅かに温かい鉄格子を押して隙間を開き、ランスはイノセンタスの屋敷に足を踏み入れた。彼女も続く。
引き返す気は、起きなかった。


裏庭で、その男は待っていた。
闇に馴染む藍色のマントを羽織ったイノセンタスは、鉱石ランプを掲げたゼファードを従えて立っていた。
生け垣の間から出てきたランスを認め、親しげな笑みを作った。抱いていた杖を下ろし、かっ、と地面に当てた。

「その女は必要なのか?」

生け垣の前で、パトリシアは足を止めた。ランスの肩越しにやってきたイノセンタスの視線が、冷たかった。
パトリシアは、無意識に首から提げたロザリオを握った。金属のひやりとした冷たさが、手袋越しに伝わってくる。
彼女が答えられずにいると、ランスは一歩前に出た。鉱石ランプを足元に置き、金の杖を前に突き出した。

「いるだけだよ。何もしないさ」

「そうか」

イノセンタスはゼファードに一言言うと、彼は身を引いた。明かりが遠ざかり、イノセンタスの半身が闇に沈む。
ランスは魔法陣を描くために、杖の先を地面に擦らせた。がりがりと土が削れて、杖の先に引っかかる。
細身の長い杖を下ろしたまま、イノセンタスはランスの動きを目で追った。地面に描かれた魔法陣を眺める。

「レニ、リーガ、ロロイ、タリオ、ラー、メテ、か。中位の雷撃か、或いは炎撃か。君ならば雷撃だな」

がりっ、とランスは杖を止めた。イノセンタスは、顎に手を添える。

「裏庭は、前庭と違って生け垣も多い。下手に炎が暴れれば、君の周りで精霊は歌を止めないだろうからな」

「書き上げる前に読まないで欲しいなぁ。ところで、そっちは何もしないのかな?」

ランスは二重の円と魔法文字を書き切ってから、杖を上げた。イノセンタスは、杖を掲げる。

「私は君とは違うのだ。文字と円で魔力を整えずとも、魔法を扱えるのだよ」

「なるほどね」

かっ、とランスは魔法陣に杖を突き立てた。ふわりと風が巻き起こり、薄紫の布地をめくり上げている。
パトリシアは、魔法を起こそうとしている彼の背を見つめた。魔力が高まっていくのが、感覚的に伝わってきた。
少し、怖かった。いつものランスとはまるで違う。普段であれば、ここまで一度に魔力を高めたりはしない。
次第に強くなりつつある魔力の風は、熱かった。空気に籠もっている夏の暑さとは違う、炎に似た熱さだった。
逆に、イノセンタスから流れてくる魔力の気配は冷え切っていた。氷の魔法のような、硬い冷気の風だ。
パトリシアは、イノセンタスの背後に目をやった。暗闇に身を沈めたゼファードは、無表情だった。
じっと前方を見据えてはいるが、パトリシアを捉えてはいない。イノセンタスもランスも、目に入っていないようだ。
ふと、パトリシアはその視線の先を追った。ゼファードの目が見上げる先は大きな屋敷の頂上、屋根だった。
屋根の上には、いくつもの目が光っていた。獣じみた金色の瞳を持つ者達が、真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。
あれは。地上から昇った僅かな明かりを受けた姿には、見覚えがあった。有翼の人狼、獅子の女、クモ男。
再びゼファードを見ると、その目は愛おしげだった。大事な宝物を見るような、我が子を見るような目をしていた。
パトリシアは彼らから目を外し、ランスに意識を戻した。彼の背越しに見えるイノセンタスは、やはり笑っている。

「ランス。君は、なぜ私を殺したい?」

「聞いてからの方が死にやすいなら、話してやろうじゃないか!」

ランスの猛りと同時に、魔法陣を巡る風は強くなる。魔力で出来た熱風が、ぶわりと立ち込める。

「あなたは父さんを殺した! 母さんを悲しませた! それ以上の理由があるもんか!」

「そうだな」

満足げに、イノセンタスは頷く。自身の起こす冷たい風が、一括りにされた長い後ろ髪を乱している。

「殺した後にどうしたい」

「骨も残さず焼いてやろうか。それとも、芯まで凍らせて砕いてやろうか!」

ランスは杖を横にして突き出し、目を強めた。腰から短剣を抜き、かん、と杖と重ねて切っ先を向けた。

「いくらだってやってやるさ。そのために僕は、ずっと」

ころしてしまえ。きってしまえ。くびとどうたいをはなしてしまえ。さあ、よみへとおくってしまえ。
黒い精霊が、ランスの前を過ぎる。ぶわりと大きさを増して、ランスの首筋にするすると腕を巻き付けてくる。
氷のような冷たい腕が、首に触れている。パトリシアの温かな体とは違った、気色の悪い感触だった。
胸の底が、鈍く痛む。杖を握る手に力が籠もり、沸き上がっていた魔力が高まり、風がマントをなぶっていく。
ランスの脳裏を、五年前の光景が次々に過ぎっていく。炎に似た夕焼け、母親の涙、そして、父親の死体。
殺してしまえば、全てが終わる。腹の痛むような殺意の衝動も、この男にぶつけてしまえば消えてしまう。
恨みも全て消えて、躊躇なく笑える日が来る。ギルディオスに対しての申し訳なさで、笑みを消すこともなくなる。
イノセンタスを殺してしまえば、何もかもが元通りになる。諸悪の根源を倒して、平穏を取り戻すのだ。

「ずっと」

そのはずなのに。自然と、手が震えていた。火傷しそうなほど熱い風が巡っているのに、肩が震えている。
顔のすぐ脇に、黒い精霊が顔を出す。真っ黒な姿の中で、唯一白い牙を見せるように口元を綻ばせていた。
おびえるな。おまえはせいぎだ。ただしいことをして、まちがったにんげんをころして、なにがちがうというのだ。
そうだ、違わない。そう思おうとしても、手に力は戻らない。ランスが杖を下ろそうとしたとき、手が添えられた。

「大丈夫?」

彼女の手が、ランスの杖と短剣を支えた。パトリシアは、今にも泣きそうな顔をしていた。

「これくらいなら、手伝ってもいいでしょん?」

周囲に、温かさが戻る。首に巻き付いていた気味の悪い闇は外れ、奇声を発しながら黒い精霊は遠ざかった。
パトリシアは、ランスをそっと抱き締めていた。ランス以上に震える両手で、彼の手を包んでいる。

「私は、何も出来ないから」

ランスの頬を、涙が滑った。見上げると、パトリシアの目元から落ちてきている。

「ごめんね、泣いてばっかりで。ランス君は悪くないの、ただ、私が弱いの」

彼の闇を、拭えない。五年も傍にいたのに、傍にいたつもりだったのに。何一つ、救えていない。
それが、パトリシアにはどうしようもなく悔しかった。救えないまま、ランスが深淵に沈んでいきそうで怖かった。
足元の魔法陣が熱かった。ランスの憎しみと怒りから生み出された魔力は、じりじりと染み込んできていた。
イノセンタスを憎んでしまいそうになる。ランスを憎しみに駆り立てる、イノセンタスへの殺意が湧きそうだった。
パトリシアは、魔力の熱ではない熱を求めた。胸に押し当てている彼の体を引き寄せて、体温を感じた。
そうでもしないと、深淵を覗いてしまいそうだった。他人への憎しみに溺れて、人を殺してしまいそうになる。
ランスは、背中に感じる彼女で心を静めていた。痛く重たい感情が薄れて、温かく柔らかな心地良さを感じていた。
彼女の言葉を、否定したかった。弱いのは自分であり、決してパトリシアではない。彼女は、強い女性だ。
ただ、その強さに甘えていただけだ。いつも守ってくれている、支えてくれている彼女を頼っていた。
いつもそこにいてくれるから、その強さを自分のものだと思ってしまっていた。それは彼女の強さなのに。
泣かされても悲しまされても、それでもここにいてくれる。それどころか、パトリシアから近付いてきてくれた。
復讐に、手を貸そうともしてくれた。なぜ彼女がここまで優しいのか、思ってくれているのか、理由が解らなかった。
だが、嬉しかった。そうまでして自分を思ってくれている人がいることが、何よりも嬉しかった。
そんな人を、これ以上悲しませていいのだろうか。イノセンタスを殺したら、パトリシアは誰よりも悲しむはずだ。
復讐を遂げて、それで全てが終わるのだろうか。否、終わるはずもなく、それは新たな苦しみへの入り口だ。
大事な彼女を、深淵になど引きずり込んではいけない。イノセンタスを殺したら、今度こそ本当に間違ってしまう。
気が付くと、魔力の風は消えていた。あれだけ吹き荒んでいた風は失せ、周囲からは熱もなくなっている。
ランスはパトリシアに背を預け、内心で自嘲した。マークの言う通り、覚悟がなければ人殺しなど出来ないようだ。
殺そうと思っても、手が震えた。父親に似たイノセンタスの死体を想像しただけで、心底怖くなった。
感情が予想以上に昂ぶって、魔法など造り出せはしなかった。こんなに安定しない状態では、火の粉も出せない。
ランスは、杖を下ろした。足で地面を擦り、魔法陣を途切れさせた。短剣を鞘に戻し、ぱちんと納めた。
その様子を見、イノセンタスはつまらなさそうに眉根を歪めた。手で風を薙ぎ払うと、冷気はふわりと消えた。

「心外だな。魔導師だというのに、魔法一つ放たずに逃げるのか?」

ランスが顔を上げずにいると、イノセンタスは更に煽る。

「女如きにほだされて、復讐心を失ってしまうのか。君の父親への愛情はその程度か?」

少し目を上げると、イノセンタスは相変わらず笑っていた。

「全く、情けないことだ。見返りがなければ人も殺せない、愚弟の息子らしいといえばらしいがな」

ランスは片手を挙げて、パトリシアに触れた。涙に濡れてしまった頬を拭ってやると、嬉しそうに声を漏らした。

「私を殺すと息巻いていた君はどこに消えた? 憎しみとは、そうも簡単に失せるものではないだろう」

イノセンタスの声が、裏庭に響いた。ランスは顔を上げ、渾身の力で睨む。


「消えるよ。やろうと思えば」


ランスは、イノセンタスを眺めていた。父親と本当に良く似た男を、不意に哀れだと思ってしまった。
きっとこの人は、長く一人でいたのだ。だから、深淵へ落ちる仲間を求めて彷徨い歩いている。
誰を思うでもなく、思われるでもなく。自分の尺度でしか世界を作れずに、他人も同じだと思っているのだ。
深淵の入り口は、至るところに口を開いている。だがそれと同じように、深淵の出口もあることにはあるのだ。
イノセンタスは、その出口を探せなかったのだろう。むしろ、その出口を自分で塞いでしまったのかもしれない。
奧の見えない薄茶の目は、虚ろのようで色はあった。ランスはパトリシアの腕を緩ませ、脱した。

「悪いけど」

なんだか、急に馬鹿馬鹿しくなってしまった。ランスは鉱石ランプを拾い、叔父に背を向ける。

「僕はあなたに付き合えない」

「意気地のないことだな、ランス」

イノセンタスは嘲笑する。ランスは振り返らずに、傍らのパトリシアを見上げる。

「成り行きで人を殺すより、逃げ出した方が余程勇気があると思いますがね」

「せっかく仇を殺す機会を得たというのにな。期待外れだ」

声を張り上げたイノセンタスに、ランスは庭の生け垣を睨みながら言い返す。

「どうとでも言うがいいさ。あなたに期待されたくはないし、外れたところで悔しくもない」

「情けないことだ」

イノセンタスが残念そうにすると、ランスは少し楽しげに返す。

「そりゃどうも。あなたに認められたところで、別に嬉しくないから見下して頂けてなによりですよ」

まだ何事か言っていたが、ランスは無視して歩き出した。数歩進んだところで、立ち止まる。
イノセンタスへ振り向くと、彼は少し物悲しげだった。仲間を得ることが出来なくて、不満なのだろう。
ランスはイノセンタスを睨んでいたが、笑った。哀れみと蔑みを混ぜた、イノセンタスのそれに似た笑顔だった。



「深淵へは、一人で堕ちて下さい」



そう言い捨ててから、ランスは足早に歩き出した。生け垣の間を抜けて進んでいると、隣に彼女が並んだ。
遠慮がちに歩調を合わせていたが、そのうちに並んで歩いてくれた。嬉しいのか、普段の笑顔が戻っていた。
ランスも、それが妙に嬉しかった。だがそれを表情に出すことはなく、黙って足を進めていった。
早足に歩いたので、すぐに正面の門が見えてきた。すると、鉄格子で出来た門扉に、影が寄り掛かっていた。
近付くと、それは黒衣の男だと解った。ランスの鉱石ランプに照らされたマークは、にやりと笑ってみせた。

「よう。お二人さん」

「マークさん、何しに来たんですか」

ランスは、不思議そうに尋ねた。マークはランスの服を眺め、安心したように表情を緩めた。

「ランス。その分だと、失敗したな?」

「ええ、思いっ切り。あなたの言う通り、生半可な覚悟じゃ人殺しは出来ないや」

肩を竦めてみせたランスに、そうかい、とマークは嬉しそうにする。

「とどめを刺すのぐらいは手伝ってやろうと思ったが、殺してないんじゃどうしようもないな」

「なんだ。結局、やる気だったんですね」

ランスはマークの隣に立ち、ぎぃっと門を押し開いた。マークは門扉から背を外し、屋敷を仰ぎ見た。

「言っただろ、オレは殺す気があるって。だが、今はその気になれんな」

「どうしてです?」

パトリシアの問いに、マークは屋根の中央付近を指す。二人は、その先を辿る。

「ここには、あの子らがいるだろ」

屋根の上には、金の瞳を持つ魔物達が立っていた。ランスは、それが誰なのかは言われなくとも察した。
異形の人造魔物、セイラの兄弟だ。影絵からして左から、ウルバード、レオーナ、スパイドの順で立っている。
表情は解らないが、どうやらランスとイノセンタスの動向を静観していたらしく、いずれも黙っている。
マークは、夜の静寂を壊さないような静かな口調だった。同情とも愛情とも付かない感情が、声に滲んでいる。

「今、下手にイノセンタスを殺せば、あの子らはどうなる。間違いなく、軍部に見つかって殺される」

「あいつら、別に悪い奴らじゃないからなぁ」

ランスは、彼らと交戦したときのことを思い出した。どの魔物も、魔物らしからぬ人間臭さがあった。
言葉も通じれば意思も伝わり、下手な人間よりも心は優しかった。スパイドだけは苦手だ、とは思ったが。
マークはしばらく屋根の上を見つめていたが、くるりと背を向けた。闇の中、黒い外套が広がる。

「あの子らはセイラの兄弟らしいからな。下手に死なせるようなことをしたら、オレがセイラに殺される」

「あの、マークさん」

歩き出そうとしたマークを、ランスは呼び止めた。マークは振り返り、少年を見下ろす。

「なんだ」

「マークさんは父さんの妹、つまり僕の叔母さんを捜してるんですよね?」

「まぁな。オレにギルの居場所を渡した後からはジュリアをまるで見かけないが、近くにはいるはずだ」

多少悔しげなマークに、ランスは今朝方と同じような質問をしてみた。少々、気になっていた。

「そのジュリア叔母さんを見つけたら、マークさんはどうするんです?」

「そうだなぁ」

少し考えるように、マークは夜空を仰いだ。そして、笑った。

「一発ぐらい引っぱたきはするかもしれんが、殺しはしないさ。あの女は記憶をいじったが、誰も殺してないからな」

じゃあな、と片手を挙げた黒衣の男は音もなく歩いていった。すぐにその影は見えなくなり、夜に馴染んだ。
ランスには、マークの答えが意外だった。自分と親友を戦い合わせる発端を作った女を、恨んではいないのか。
それどころか、許そうとしている。ギルディオスに負けず劣らず、割り切った考えを持っているようだった。
ランスは、憎しみは失せても内心に燻る情念に気付いた。これを、彼らのように消すことは出来るのだろうか。
いや。消さなくてはならない。完全に消去することが叶わなくとも、見えぬぐらいに薄らがせてしまおう。
もう二度と、あの感情は味わいたくはない。どす黒く重たい殺意が胸中を満たしていた感覚は、最悪だった。
ランスは、夜空を見上げた。小さな星が散らばった藍色の海が、王都の頭上を覆い尽くしている。
黒い精霊の声は、もう聞こえてこなかった。





 



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