ドラゴンは笑わない




五年目の復讐



家路を歩いていると、次第に夜の闇は薄らぎ始めていた。
イノセンタスのマントの色に似た藍色の空は、東から青紫へと変わりつつあった。朝日が昇ろうとしている。
裏通りを抜けて自宅へ続く道に出ると、玄関前に大柄な影が座っていた。近付かずとも、それが誰だかは解った。
ランスが立ち止まっていると、その影は立ち上がった。ニワトリのトサカに似た赤い頭飾りが、ゆらりと動く。

「おう、お帰りぃ」

「…父さん」

ランスは、少し驚いていた。ギルディオスがこんな時間に戻ってくることなど、滅多にないからだ。
それを察したのかギルディオスは、ああ、と声を出した。逆手に、竜の少女が住まう城の方向を指す。

「マークがジャックを使ってな、お前のことを報告してくれたのさ。手間賃に居候期間の延長は要求されたがね」

「ま」

「ああ、フィルの魔力か? ありゃあフィルが寝る前に入れてくれるから、今はまだ平気だ。夜明け前だもんな」

夜はちょいと辛いが、とギルディオスは胸を叩いた。ランスは、問おうとしたことを先に言われたので口籠もった。
聞こうと思っていたことをぽんぽん答えられてしまうと、少々やりづらい。後手に回るのは、慣れていないのだ。
パトリシアはランスとギルディオスを見比べていたが、玄関の扉が開いた。メアリーが、手招きしている。

「パトリシアちゃんはこっちに来な。野郎同士の話に口を挟むのは野暮だからね」

「あ、はい」

パトリシアは反射的に従い、頷いた。ランスに、それじゃあね、と言ってから小走りに家の中に入っていった。
ランスは彼女の背を見送ってから、今一度父親に向き直った。二人だけになるのは、何年ぶりだろうか。
見上げるほどの身長に、壁のように思えるほど立派な体格。その体は、今は生身ではなく金属製だ。
ギルディオスはランスと一歩間を詰め、腕を組んだ。珍しく、背中にはバスタードソードを背負っていない。

「ランス。どうせ夜這いするなら、女の寝床にしとけよ。兄貴の屋敷なんざ色気どころか邪気の固まりだぜ?」

「別に僕は夜這いしたわけじゃないんだけど」

妙な軽口に、ランスは思わず笑ってしまった。ギルディオスは、少し首をかしげる。

「まぁいいさ。それで結局、兄貴を殺してくることは出来なかったんだな?」

「ていうか、魔法も撃てなかった」

それは、煽られたことより悔しかった。思うように魔力を扱えなかった歯痒さに、ランスは苛立ちそうになっていた。
そうかい、とギルディオスは深く息を吐いた。殺意の欠片も見えない息子の表情に、安堵と同時に気が抜けた。
もしもイノセンタスを殺していたなら、殺さずとも傷付けでもしていたら、迷わず殴り飛ばしていただろう。
正義感や道徳心からではなく、憎しみに身を焦がそうとする息子を止めるために。だが、その必要はなさそうだ。
ギルディオスは、心なしか表情が柔らかなランスを眺めていた。恐らく、パトリシアが引き留めてくれたのだ。
内心で、パトリシアに感謝していた。あとでお礼を言っておかないとな、と思いながら自宅をちらりと見た。
ランスは、まるで表情の掴めないヘルムの顔を見上げていた。無機質なはずなのに、そうは見えない。
むしろ、イノセンタスの方が余程無機質だ。表情の種類も少ないし、自分の考えを少しも変えようとしない。
すると、ギルディオスはランスを見下ろした。鉱石ランプの青白い光を浴びた甲冑は、月下にいるかのようだ。

「オレもよ、それでいいと思うんだ。無駄に人間が死ぬのは、戦争だけで充分だ」

「でも、父さんは」

兄を恨んでいないのか、と言おうと思ったが、ランスは飲み込んでしまった。聞くべきか、迷ってしまった。
ギルディオスにも、イノセンタスの持っているような深淵があるかもしれない。それを見るのが、恐ろしかった。
自己の世界のみを愛し、狭き中で笑い続ける深淵の住人。その男と、同じ部分があるとは思いたくなかった。
ギルディオスは小さく、ああ、と答えた。僅かばかり首を前に倒して、ランスを真上から見下ろした。


「兄貴は今でも嫌いだ。憎んでもいるさ」


ランスは、押し潰したようなギルディオスの声を聞きたくはなかった。だが、確実に言葉は聞こえていた。
ギルディオスは、あまり言いたくなさそうに言った。深淵を覗くのは、誰だって恐ろしく嫌なことなのだ。

「長いことオレを拒絶して憎んでくれた上、殺しやがったんだからな。腹が立たねぇわけがねぇ」

ランスは耳を塞いでしまいたかったが、出来なかった。

「今でもたまに思うのさ。兄貴を殺しておけば良かったかな、ってさ。オレなら、まぁ出来ないこともねぇからよ」

崇高であるはずの、父親の殺意。ランスはそれが恐ろしくて、身を固めていた。

「剣の腕を上げたのだって、最初の動機はそんなもんだったなぁ。いつ兄貴に殺されるか、いつ親父がオレを殺しに来るか、そればっかりが怖くてよ。早いところ人殺しの腕を付けておきたいからって、ろくろく基礎も固めないうちに無茶な修練をしては死にかけてたもんさ。オレのお師匠さんには、随分と迷惑を掛けたもんだぜ。でもな、戦ってるうちに目的がすり替わってきたんだよ。解るか、その目的?」

ランスが首を横に振ると、そうか、とギルディオスは笑う。

「ありゃあ、十八の時の戦いだったかなぁ。丁度良い年頃でよ、オレはかなり思い上がってた頃の話だ。無茶苦茶に敵を切り倒しては殺しまくって、節操のない戦い方をしてた。そこへ移民団の傭兵部隊が援軍に加わってな、オレら王国軍はやっきになって攻めていったわけさ。オレは丁度、最前線より一つ後ろの戦列にいたんだな。いつもみてぇに前線に突っ込もうとしたら、いきなり斬り掛かられてよ。なんとか防いだんだが、盾に相当深い傷を作られちまって使い物にならなくなったんだ。で、見てみると、斬り掛かってきたのは味方のはずの傭兵だったんだ。オレの戦い方が荒っぽすぎたから、敵と間違えちまったらしい。そこで頭に来たオレは、盾に斬り掛かってきた傭兵にこう言った。盾を壊したんだから、お前が代わりにオレの盾になれ、ってな」

少々気恥ずかしげに、ギルディオスは顔を逸らした。

「あーもう、若ぇよなぁ。なんだってそんなことを言ったんだか、今考えてみると解らねぇや。だがその傭兵は、オレの無茶な文句を律義に受け入れてくれて、オレとそいつは組むことになったんだ。そしたらよ、前みてぇな無茶苦茶な突っ込み方は出来なくなっちまったんだ。背中合わせになって戦うのってのは難しくってよ、片方が前に出過ぎたらもう片方が狙われるし、かといって慎重になりすぎてもやられちまうんだ。つまりオレとそいつは、死にたくなかったら嫌でも呼吸を合わせなきゃならなかったんだ。そうやって、何日も戦ったんだ。でな、そのうちに」

ギルディオスは、照れくさそうだった。

「オレはその傭兵に惚れた。命を預けられるほど気が合うし、強ぇし、なにより可愛かったんだよ」

ぐしゃり、とギルディオスの手がランスの頭を撫でた。体を前に傾け、甲冑は息子と目線を合わせる。

「そうして一緒に戦ってたら、戦争が終わった。だが戦いが終わっても、オレはそいつを守ってやりたくなった。弱点なんてまるでなさそうなのに酒におっそろしく弱ぇし、下手な男よりも強いせいで相当美人だってこと自覚してねぇし、からかってみると可愛いし、種類は少ねぇけど料理も旨いし、何よりオレの子を身籠もってくれたんだ」

「それって」

察しが付いたので、ランスは顔を上げた。ギルディオスは、うん、と深く頷いた。

「メアリーさ。オレはな、大事なメアリーにお前が出来たもんだから、お前らを守ってやりたい、もっと強くなりたいって思えてきたんだ。それが、今のオレが戦う目的さ。で、そうしてるうち、自分の命も他人の命も惜しくなったのさ」

「他人の?」

「そうだ。考えてみたら、どんな人間にも親がいて子供がいて血族がいてこそ、その人間がいるんだよな」

当たり前だけど、とギルディオスは付け加えた。ランスは、父親を見上げる。

「そりゃあ、まぁ」

「でな、考えてみたんだよ。オレはオレだけど、兄貴も兄貴なんだ。親父もおふくろも死んだけど、兄貴はいるんだ。でもって、その兄貴にゃ妹もいる。オレの妹でもあるが。でもって、兄貴には一応は部下もいるし、あんな馬鹿野郎だけど一応は慕ってる奴もいるかもしれない。そう思ったら、なんとなーくその気が失せたんだ」

「殺す気が?」

「おう。兄貴を殺したところで、オレは生身に戻れるわけじゃねぇからな」

「戻れるとしたら、父さんはイノ叔父さんを殺すの?」

恐る恐る、ランスは尋ねた。ギルディオスは、いや、と首を横に振る。

「戻れるとしても、たぶん兄貴の体になっちまうんだろうから嫌だな。あれは兄貴で、オレじゃねぇ」

徐々に昇りつつある朝日が、ぎらりと甲冑を照らした。銀色が眩しく輝き、その明るさにランスは目を細めた。
生温い風が、二人の間を抜けた。ランスの長いマントとギルディオスの短いマントの影が、揺れている。
白んできた空を仰ぎ、ギルディオスは呟いた。苦しげでありながらも、落ち着いた口調だった。

「だが、そう思えるようになるまで何年も掛かったよ。だからよ、ランス」

ガントレットが、ランスの肩を掴んだ。ギルディオスは息子を引き寄せ、抱き締めた。

「お前も、いくらだって時間を掛けろ。全部の整理が付くまで、付き合ってやらぁ」

硬く、鉄臭い装甲に額を当てた。ランスはぐっと奥歯を噛み締めていたが、それが緩んでしまった。
訳も解らず、涙が滲んできた。堪えようとしても勝手に溢れてきて、ぼたぼたとギルディオスの胸に落ちた。
拳を握って、ギルディオスに縋る。温かみがないはずの甲冑は、夏の気温も手伝ってほのかに温かかった。
声を押し殺して泣くランスを、ギルディオスはしっかりと抱き締めた。息子は、随分大きくなっていた。

「辛かったな」

ランスは、何度も何度も頷く。押さえ込んでいた泣き声が喉の奥から漏れて、変に高い声が出てしまった。
ギルディオスは、ランスの母親に似た黒髪を撫でてやった。自分の面影が、顔に少しばかり出てきている。
五年もの間、復讐心を滾らせていた愛しい息子。才能を得たが故に勉強に漬かり、大人びてしまった少年。
しかし中身は、未だに子供なのだ。ギルディオスとメアリーの血を分けた、何よりも大事な我が子だ。
父親が死んで、どれだけ苦しかっただろうか。どれだけ寂しかっただろうか。想像しただけで、切なくなる。
ランスは、ギルディオスから放されまいと体を寄せてくる。幼く小さかった頃と、あまり変わっていない。
ギルディオスはランスの背を、軽く叩いてやった。しゃくり上げている背は、まだまだ頼りなかった。

「もう、あんまり我慢するんじゃねぇぞ。それにな、復讐なんてやるもんじゃねぇ。母さんにぶん殴られるぞ」

甲冑に頬を押し当て、ランスは頷いた。その頭を撫でたギルディオスは、そうだ良い子だ、と言った。

「もう、オレのことなんか気にするな。お前はお前で、オレはオレだ。お前の人生なんだから、無駄にすんな」

「ほんとに、ぼくは」

ようやくランスは言葉を出したが、明瞭でなかった。ギルディオスは、息子に冷たい頬を寄せる。

「ありがとな、ランス。復讐してぇほど、オレを慕ってくれて。嬉しいぞ」

「けど」

「ああ、そうだ。そんなことは出来ない方がいいんだ。オレも、その方がいい」

ギルディオスは、膝の崩れた息子に合わせてしゃがんだ。地面に膝を付くと、気温が上がり始めているのが解る。
力の抜けたランスは、ギルディオスに身を任せた。昔も大きく感じていたが、今も充分大きいと思えた。

「ごめんなさい」

「何を謝る。謝られる必要なんてねぇぞ。お前は良い子だぞ、ランス」

ランスを受け止めたギルディオスは、息子を何度も撫でた。途端にランスは背を丸め、大きく泣き声を上げた。
張り詰めていたものが、途切れてしまった。復讐を果たせなかった己への不甲斐なさと、悔しさが残っていた。
それでも、もう苦しくはなかった。復讐をしなかったから、この人を悲しませずに済んだと思えていた。
自分の泣き声が遠く、聞こえていなかった。聞こえているのは、すぐ傍から感じられる父親の声だけだった。
泣くだけ泣いちまえ、ランス。お父さんが一緒だから、心配すんな。落ち着くまで、ずっとここにいてやるからよ。
その声は、とても優しくて温かく、心地良かった。




ランスが目を覚ますと、部屋の天井は西日に染まっていた。
散々泣いていたせいで、目も喉も痛かった。視界がぼやけていて、目を擦ってもすぐには戻らなかった。
ギルディオスに泣きついた後の記憶はない。どうやら吹っ切れてしまったあとに、眠ってしまったようだった。
ゆっくりと呼吸し、ランスは目を閉じたが開いた。思い出そうとすれば、イノセンタスに対する恨みは蘇ってくる。
だが、もうそれを敢えて引っ張り出そうとは思わなかった。見ることはあっても、触れることはなくなるだろう。
寝返りを打つと、枕元に柔らかな金髪が広がっていた。ほんのりと甘い香水の匂いが、間近に漂っている。
金髪の先を辿ると、パトリシアがいた。両腕をベッドに乗せて、ランスを覗き込むようにしている。

「起きた?」

「あ、まぁ」

なんとなく決まりが悪くなり、ランスは彼女から目を逸らした。起き上がると、魔導師の衣装のままだった。
腰には、ずしりとした重みが残っていた。ベルトに差してあった短剣の鞘を抜き、枕元に置いた。
後頭部で高く括ってあった髪は解かれていて、すっかりぐしゃぐしゃになっていた。それを、指で梳く。

「夕方まで寝てたのか」

「そうよん。私も眠ったけど、ランス君が起きる前に起きられて良かったぁん」

機嫌良さそうに、パトリシアは笑っている。ランスはその笑顔に安堵しながらも、彼女に申し訳なくなった。
なんとも思っていない、と言ってしまった手前、どういう態度を取ればいいのか解らなくなってしまった。
逆を返せば、意識していると示すことでもあるからだ。否定したくはあったが、どうにも気恥ずかしかった。
パトリシアは体を起こすと、ベッドの脇に座った。修道士の衣装のままだが、頭部を覆う紺色の布は外されている。
見事な色合いの金髪が肩から滑り落ち、艶めかしかった。少女じみた顔立ちから、幼さが失せていた。
憂いげな青い瞳が、ランスを見ていた。その目線と表情がやけに女らしくて、ランスは動揺してしまった。
パトリシアの手が上がり、ランスの頬に触れた。思い掛けないことに驚き、ランスは身を引いた。

「うひゃあ!」

「何よぅ、もぉ」

むくれたパトリシアは頬を張り、身を乗り出した。後退るランスを、じっと見つめる。

「そんなに驚くことないじゃないのよぅ」

「あ、いや…」

ランスはベッドの奧までずり下がり、壁に背を当てた。頬には、ありありと彼女の手の感触が残っていた。
今までには、こんなことはなかった。どれだけ抱き付かれても触れられても、平気だったのに。
パトリシアは更にランスとの距離を詰め、膝立ちになってランスに近寄ってきた。すぐ前に、顔を寄せる。
すると、不意に不安げな顔になった。パトリシアは、いつになく心配げにランスを見下ろしている。
また、彼女は泣いてしまいそうだ。ランスは頬に当てていた手を放し、改めてパトリシアを眺めてみた。
彼女は、見たこともない表情をしていた。明るい笑顔とも泣き顔とも違う、かなり不安げな少女の顔だった。
パトリシアは、このままランスを抱き竦めてしまいたかった。彼の浅黒い頬には、涙の跡が残っている。
だが、一度拒絶されている。なんとも思っていない、と言われたことが深く胸に突き刺さっていた。
普段通りに振る舞おうとしても、ダメだった。すぐに不安が込み上げてきて、恐ろしくなってしまった。
結局、また何も出来なかった。ランスを深淵から救い出したのは自分ではなく、父親であるギルディオスなのだ。
役に立てない。ランスの、何も助けてあげることが出来ない。戦闘だって、前衛がいなくとも彼は戦える。
突き放されてしまいそうで、怖かった。ランスの背が遠ざかってしまうのが、恐ろしくてたまらなかった。
そう思うと、何も言えなくなってしまった。深淵を覗く感覚も恐ろしかったが、今の方が余程辛い。
ランスは、呆然としたようにこちらを見ている。その視線が外れて欲しくなくて、パトリシアは笑った。

「なあに?」

ランスは、パトリシアの笑顔が苦しげで仕方ないように思えた。寸前までの表情を、無理矢理打ち消している。
やはり、恐れているのだ。復讐から彼女を遠ざけるための嘘で、間違いなく傷付いてしまっている。
とても悪いことをした。ずっと傍にいてくれた彼女を、何があっても近くにいてくれた彼女を否定したのだから。
彼女は、自分を深淵からも引き出してくれた。折れてしまいそうな自分を、いつだって助けてくれた大事な人。
そんなパトリシアを、どうして傷付けてしまったのだろう。もっと、他の言い方もあったはずだというのに。
ランスは強烈な罪悪感に、苦しくなった。いつも自分は、彼女を苦しませることしかしていない。
助けてあげられたことが、一度でもあっただろうか。あったとしてもそれは、彼女ほどではないだろう。
ならば。思ってもいない言葉を、あの手酷い嘘を消すべきだ。嘘を否定すれば、少しでも彼女を救えるはずだ。
ランスは、笑顔が消えたパトリシアを見つめた。こうして真正面から向き合うのは、久し振りかもしれない。
いつも隣か後ろにいてくれて、前からなんてほとんど向き合わない。見上げてばかりで、同じ目線にはならない。
そう思った途端、ランスは己の体格が恨めしくなった。背が伸びさえすれば、目線が合わせられるのに。

「パティ」

喉が痛むせいで、ランスの声は少し掠れていた。パトリシアは、首を軽くかしげた。

「なあに」

ランスは、一度唾を飲み下した。普段から接し慣れている相手だからこそ、改まると妙に緊張する。
その緊張をどうにか押さえ、ランスはパトリシアを見据えた。西日が陰り始めたので、金髪の輝きが失せていた。

「僕、言ったじゃない? パティのこと、なんとも思ってないって」

「うん」

辛そうに、パトリシアは頷いた。ランスは心苦しくなったが、堪える。

「あれ、さぁ。なんていうか、パティに復讐に関わって欲しくなかったから言っただけであって、まぁつまり」

彼女の目が上がったので、二人は目が合った。


「嘘なんだよね」


そのまま、二人は動かなかった。部屋の中から音は失せて、外から聞こえる鳥の鳴き声がうるさかった。
ただでさえ大きな目を目一杯見開いたパトリシアは、一度瞬きした。ランスは、うん、と頷いた。

「まぁ、だから、そんなに気にしないでくれない?」

「嘘、だったの?」

信じられないのか、パトリシアは小さく呟いた。ランスは、再度頷く。

「うん。ごめん」

「やだ、やだぁもう。私、とうとうランス君に嫌われちゃったかと思ったじゃないのよぅ」

肩を落とし、パトリシアは項垂れた。ランスは心配になって見てみると、彼女は泣き笑いになっていた。
目には涙を溜めていたが、心底嬉しそうに笑っていた。パトリシアは、ぐいっと目元を擦る。

「ああ、良かったぁ。ホントに良かったぁ」

「僕もさ」

ランスは壁に寄り掛かり、天井を見上げた。とてもじゃないが、視線を外さなければ言えやしない。

「パティのこと、嫌いじゃないっていうか、まぁ」

「何よーもう。はっきりしてよぉ」

急に元気になったパトリシアは、おもむろにランスを引き寄せた。ぎゅっと少年を抱き締め、笑む。
間近に感じられる彼女の匂いと胸の感触で、ランスは頬が熱くなった。一度でも意識すると、もう終わりだ。
緊張と高揚で混乱しながらも、ランスは恐る恐る腕を伸ばした。パトリシアの腰に腕を回し、手を組む。



「好き、だよ」



「ほんとに?」

笑い気味ながらも震えた声が、ランスの耳元に聞こえた。ランスは、パトリシアの肩に額を当てる。

「ここで嘘吐いてどうするのさ」

「だあってぇん」

パトリシアはランスの体ごと傾き、ベッドに倒れ込んだ。ランスは体をずり上げて、視線を合わせた。
シーツの白い波越しに、満面の笑みの彼女がいる。とても幸せそうで、白い頬もすっかり紅潮していた。

「今までが今までなんだもん。いくら好きだって言っても、ちっともなびいてくれなかったしぃ」

「五年越しかな」

ランスが返すと、パトリシアは不満げに眉を下げる。それでも、嬉しそうだった。

「ひどいなぁもう。ずうっと知ってたくせに、なんであんなこと言うかなぁーん」

「だからごめんってば」

ランスは平謝りしたが、パトリシアはまだ不満そうだった。んー、と口元を曲げて頬を張り、唸っている。
いつものような、子供っぽい表情に戻っている。ランスはそれに安心しつつ、笑った。

「僕としては、あと二三年は後の方が良かったんだけどなぁ」

「どうしてよぉ」

「いやね、せめてパティの背を越えてからの方がそれっぽいかなーって」

「私は今のランス君がいっちばん好きぃん。可愛いんだもん」

「それ、褒められてる気がしないんだよねぇ。いつも思うんだけどさ」

苦々しげに、ランスは口元を歪めた。男としては、愛玩動物や女子供のように評価されるのは面白くない。
パトリシアはランスの頭上に手を置いて、上に伸ばしていった。ごん、と壁に手がぶつかったので止まった。

「どのくらいになるかなぁん? ギルさんもメアリーさんも上背あるから、結構行くよね?」

「たぶんね。パティの背はもう止まってるだろうから、僕が見下ろすのは時間の問題かも」

「いやぁん生意気ぃ」

顔を緩ませ、パトリシアはランスを引き寄せた。また胸付近に顔を押し当てられたが、抵抗出来なかった。
しばらくそうされていたが、解放された。ランスが文句を言おうとすると、パトリシアはにんまりと笑っていた。

「それじゃあ、こう出来るのは今だけってわけだぁ」

「え?」

ランスがきょとんとすると、パトリシアはずいっと間を詰めた。素早く、ランスと自分の唇を重ねた。
突然柔らかなものに口を塞がれ、ランスは戸惑った。顔をそっと放したパトリシアは、頬を押さえて身を捩る。

「いやぁーん」

「じっ、自分からしといて何が嫌なんだよ! それに、戒律あるだろ戒律!」

がばっと起き上がり、ランスは声を上げた。横たわったままのパトリシアは、にやりとする。

「これくらい、神様だって許して下さるわよん。で、こっから先はどうするのぉん?」

ランスは動揺に息を荒げながら、パトリシアを見下ろした。紺色のスカートの裾がはだけていて、太股が露わだ。
程良い太さを持った白い足が、薄暗い中でいやにはっきりと見えていた。足から上を、自然と目で辿ってしまう。
丸みのある尻から華奢な腰に、たっぷりと大きく柔らかな胸。細い首筋に薄い耳朶、そして、唇で止まった。
その唇に指先を添え、パトリシアは婉然とした笑みを浮かべた。ランスは、慌てて彼女に背を向けた。

「するわけないだろ!」

「でもぉ、ちょっとはその気だったんじゃないのぉ?」

うふふ、と起き上がったパトリシアはランスの背に覆い被さる。ランスは、顔を伏せる。

「…五年は待ってくんない? せめて、そのくらいはさ」

「まぁいいけどぉ、そこまで理性が持つかしらねぇーん。お姉さんは楽しみだなぁ、理性ぶっち切れるのが」

「妙な期待しないでよ」

ランスは上目にパトリシアを見、むくれた。だが、体をぴったりと寄せていると、確かに持ちそうもなかった。
服越しでも解る彼女の胸の大きさが、いつにも増して感じられた。パトリシアは、解っていてやっているのだ。
考えてみれば、事ある事に抱き付くのはそのためだったのかもしれない。好意を示すには、少々大袈裟だ。
ランスは図らずも起きてくる情欲と理性の間で揺れ動いていたが、意を決した。最後まで、行かなければいい。
パトリシアの腕を押し退けて、膝立ちになった。彼女の首の後ろに手を回して引き寄せ、慎重に近付けた。
唇が触れ合うと、パトリシアは目を閉じた。ランスに身を任せるように、重心を前に倒してきた。
互いを確かめ合いながら、深く口付けた。そして、どちらからともなく離れると、ランスは口元を拭った。

「けど、まぁ、これぐらいはね」

「だから私、ランス君って大好きぃ」

ランスに体を寄せて、パトリシアは満足げにする。聞き慣れた言葉なのに、今は違うもののように聞こえた。
彼女の重みと体温を味わいながら、ランスはまだ緊張が解けなかった。自分からすると、更に緊張する。
今までに味わったことのない感覚が、胸の奧を強く痺れさせていた。それは、痛みも熱も伴っていた。
その痛みは、どこか心地良くもあった。それが恋だということは、ランスはまだ自覚していなかった。
視界の端を、白い影がふわりと滑る。緩やかな動きで独特の舞いを踊りながら、精霊は語りかけてきた。
そうよ、そうなのよ、それでいいのよ、にんげんのこ。いのちはあるべきばしょで、ながらえるべきものなのよ。
優しく微笑む精霊の声が、彼の感覚に染み入ってきた。ランスは初めて、その声をうるさくないと思った。
そして、こう返した。闇を運ぶ者は消えたのかい。すると、精霊は答える。いいえ、いるわ、どこにでも。
ランスは内心で笑った。だが、もうそれを見ることはないだろう。見たとしても、二度と飲まれることはない。
深淵の出口は、すぐ傍にあるのだから。




恨みは身を焦がす炎となるが、愛情は温かき光となる。
深き闇は、誰をも誘う。憎しみは深淵を開き、殺意は入り口を広げていく。
だが。出口さえ見失うことがなければ、出口の方向を間違えさえしなければ。

光は、再び降り注ぐのである。







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